MIYAKEJIMA CHURCH

8月3日の礼拝案内

次週 礼拝(8月3日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書15:9~17

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番26番、492番、352番、頌栄544

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◇次週、聖餐式があります。

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

7月27日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:1~8

キリストは弟子たちとの最後の別れの時を過ごされました。弟子たちひとりひとりの足を洗い、ご自分がいなくなった後どうすべきか、どうあるべきかということをお伝えになりました。そして14章の最後で「さあ、立て、ここから出かけよう」とおっしゃってご自分の十字架への歩み自ら歩みを進めて行かれます。

今日私たちはイエス・キリストが弟子たちに、「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃった場面を読みました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」有名なイエス・キリストの言葉です。

「ここから出かけよう」とおっしゃってからの言葉なので、歩きながら、キリストは「私につながっていなさい」と話されたのでしょう。

これまでも、福音宣教の旅の中でイエス・キリストは弟子たちや人々に向かってご自分を何かに例えながら、「私は何々である」という言い方をしてこられました。「私はまことのパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は良い羊飼いである」というように、ご自分が神から遣わされたメシアであることを、「私は〇〇である」という表現で示してこられました。

しかし、それを聞いた人達が全員その意味が分かって「この方はメシアだと」受け入れたわけではありませんでした。6章では、「私の肉を食べ私の血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」とおっしゃったキリストの言葉を聞いて皆「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と離れて行ったことが書かれています。

今日読んだところが、ヨハネ福音書で最後の、「私は何々である」というキリストのたとえになります。十字架に向かって歩みながら、おっしゃいます。

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」

この例えは、今までのものと少し違っています。キリストはこれまではご自分が何者であるかということを例えてこられましたが、ここでは、「私の父は農夫である」と、天の神についてもたとえいらっしゃるのです。

この15章のキリストの例えを読むと、神の独り子イエス・キリスト、父なる神、そして私たちキリスト者の関係性がよくわかると思います。ここでキリストは「私はまことのぶどうの木」とおっしゃっています。単なる「ぶどうの木」ではありません。「まことの」ぶどうの木です。

「まことの」という言い方がされているということは、「まことではない・よくないブドウの木」もこれまであったということでしょう。

聖書の中には葡萄畑やブドウの木に関する記述がたくさんあります。当時の世界ではブドウは身近な果物であり、聖書の中でも度々例えとして用いられてきました。聖書の中では、律法や信仰を語る際に例えとしてよく用いられました。

しかし残念ながら、素晴らしい葡萄の実が実ったということは聖書ではあまり言われていないのです。むしろぶどう園には実が結ばなかったと言うような表現が多いのです。

詩篇80:8

「あなたはブドウの木をエジプトから移し、多くの民を追い出してこれを植えられました。そのために場所を整え根付かせこの木は地に広がりました」

詩篇の詩人は神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事を「農夫が葡萄の木を新しい場所に植えた」、というイメージで歌っています。そこでたくさんのぶどうの実が実ったかというとそうではないのです。このような言葉が続きます。

「なぜあなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆摘み取って行きます。」

神がエジプトからイスラエルの民を救い出し、約束の地へと新しく民を導き入れられたにも関わらず、そのイスラエルは神を正しく信仰する歩みを続けることができなかったことを嘆く詩人の言葉です。

預言者イザヤもイザヤ書の5章で「ブドウ畑の歌」と呼ばれる歌を残しています。

「私の愛する方が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、その真ん中に見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱい葡萄であった」

これも先ほどの詩編の言葉と同じ内容を歌っています。神によって救われたイスラエルがその救いの御業に報いることなく不信仰に落ちてしまったことを歌うのです。

イザヤだけではありません、ほかの預言者たちも異口同音にイスラエルの不信仰を糾弾してきました。それほどにイスラエルは神のぶどう畑として良い実を結んでこなかったのです。それが神の民イスラエルの歴史でした。

しかし今、イエス・キリストはご自分のことを「まことのぶどうの木」とお示しになりました。これまでの実を結ばず、農夫である神の期待に沿うことをしてこなかったイスラエルとは違う、新しいぶどうの木として正しい信仰の象徴としてご自分を示されるのです。

「私はまことのぶどうの木」というのは不思議な言い回しだと思います。イエス・キリストが農夫であり実の収穫をされる側でお話しなさっていないのです。キリストはむしろ収穫される側のブドウの木にご自身を例えていらっしゃいます。神の側ではなくイスラエルの側にご自分の身を置いて「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃるのです。

ご自身が神の民イスラエルそのものであり、イエス・キリストに繋がることによって私たちはイスラエルの民とされているのです。信仰者の群れの中心にはこの方がいらっしゃるということでしょう。

洗礼者ヨハネは荒野で叫びました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

「悔い改めにふさわしい実」とは何でしょうか。キリストはおっしゃいます。「ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である」

「悔い改めにふさわしい実」とは、イエス・キリストに立ち返りキリストに繋がった歩みの中で見せられる何かです。キリストから離れたところでは見ることができない何かのことです。

キリストを知る前、キリストにつながる前、キリストから離れていた時、私たちは何を求めて生きていたでしょうか。キリストを知ってから、何を求めるようになったでしょうか。ここでそれぞれ、振り返りたいと思います。

キリストの使徒パウロはローマの信徒に向けてこう書いています。

「あなた方は罪の奴隷であったときは義に対しては自由の身でした。では、その頃どんな実りがありましたか。あなた方がいまでは恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは死に他ならない。あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」

キリストとの出会いは文字通り人生の岐路となります。罪の支配の中に生きるか神の支配の中に生きるか。 罪の支配の中で結ぶ実は、死で終わるものです。しかし神の支配の中で結ぶ実は、私達にとって永遠だとパウロは言います。

イエス・キリストから離れたところで私たちが結ぶ実は、どのようなものでしょうか。それが何であれ、この世のもの、過ぎ去るものでしょう。自分がいなくなったら、跡形もなく消えてしまうようなものではないでしょうか。あっという間に過ぎ去っていく宝です。

しかし聖書は私たちに天に富を積むことを教えてくれます。そこには泥棒が入ることもなく朽ちることもなくしぼむこともない宝の貯蔵庫があるのです。私たちの肉体の死を越えて永遠に価値を持ち続ける宝の置き場所があるのです。それを知るということが、肉体の死に向かって生きる中でどんなに大きな希望となるでしょうか。

キリストは「私につながっていなさい」と弟子たちにおっしゃいました。

この「つながる」というのは「留まる」という意味の言葉です。

14章2節で、キリストが「私の父の家には住むところがたくさんある」とおっしゃっていますが、「住むところ」というのが「留まるところ」という意味の言葉です。イエス・キリストが弟子たちに教えを残したこの夜、「留まる」という言葉が何度も何度も使われているのです。 Continue reading

7月20日の礼拝案内

次週 礼拝(7月20日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書14:22~31

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番25番、259番、402番、頌栄544

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7月13日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:15~21

イエス・キリストが弟子達と過ごされた最後の夜、キリストはご自分がこれから弟子達の知らない場所に行かれること、離れ離れになることをおっしゃいました。弟子達は不安になります。

「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とキリストはおっしゃいますが、弟子達の不安は消えません。

弟子達の1人、トマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。フィリポも、「主よ、私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言いました。

弟子達の不安の言葉を聞いて、主イエスはお答えになります。「こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見たものは、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか」

キリストと弟子達との間に、もどかしい壁があります。キリストがお伝えになろうとしても、弟子達は自分たちに理解できる範囲・この世的な表面的な理解でしかとらえることができないのです。

弟子達は「父のもとに行く」とおっしゃる主イエスに向かって「どこにその道があるのですか、そこに御父がいらっしゃるのですか」とすがります。しかし、イエス・キリストを目の前に見るということは、父なる神を目の前に見ている、ということだったのです。「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」とキリストはおっしゃいます。しかし弟子達はよくわかりませんでした。

このやり取りの後、主イエスは弟子達に「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう」とおっしゃいます。しかしこの時の弟子達にとって一番の願いは「私たちから離れないでください。共にいてください」というものではなかったでしょうか。

その願いに対して、主イエスはおっしゃった言葉が、今日私たちが読んだところです。

「私を愛しているならば、私の掟を守る。私は父にお願いしよう」

弟子達がキリストを愛し、キリストの掟を守るその先で、キリストは弟子達の願いを父なる神に届けようと、おっしゃるのです。実はこれこそが、キリストご自身の願いでした。

私たちは、この時の弟子達の気持ちがよくわかるのではないでしょうか。実際にキリストと旅をして、実際にキリストと別れる経験したわけではありません。しかしキリストには自分と一緒にいてほしい、と思う気持ちは同じでしょう。

この夜の内にイエス・キリストと弟子達は離れ離れになります。そしてキリストの十字架の死によって、生と死というどうしようもない線引きによって引き離されてしまうことになります。しかし、キリストは前もって「それで終わりではない」ということを示されるのです。

「キリストを求める」ということは、「キリストを愛する」ことであり、「キリストを愛する」ということは、「キリストの掟を守る」ことであり、「キリストの掟を守る」ということは、「キリストが共にいてくださる」ことにつながるのです。「キリストの掟を守る」ということは、「キリストの生き方に倣う」ということでしょう。そうすればキリストは共にいてくださるとおっしゃいます。

後にキリストの十字架の死を見た弟子達は絶望に突き落とされることになります。しかし、この夜聞かされた言葉が、彼らに絶望では終わらない何かの希望を抱かせました。

十字架で殺された後、キリストは復活され、やがて天に上げられていきます。結局は弟子達とは離れ離れになってしまいます。しかし、それで終わりではないのです。ではどうやってキリストは弟子達と、また従おうとする人たち・私たちと共にいてくださるのでしょうか。

「父は弁護者を遣わして、永遠に一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」

ここで「弁護者」と訳されているのは、ギリシャ語で、「そばにいて助けてくれる存在」という意味の言葉です。訳そうとすれば、様々に訳すことができる言葉です。慰め主、励まし手、仲介者、強くしてくれる者、弁護者、などです。キリストはその「弁護者」のことを「真理の霊」と呼ばれました。聖霊のことです。

天と地に離れ離れになるイエス・キリストと弟子達、また信仰者たちが、どのようにして「共にいる」ことができるのか、私たちは不思議に思うでしょう。天と地に離れ離れになるキリストと信仰者は、どのようにして一つになり得るのか、それは「聖霊によってだ」、と主はおっしゃるのです。

「私たちから離れてほしくない、キリストと共にいたい」というこの夜の弟子達の願いは、今の私たちの祈りそのものです。しかしこの世を生きている私たちにとってキリストがおっしゃる「聖霊の働き」というものはよくわかりません。私たちが自分の頭の中で、理屈をこねて理解することはできないでしょう。

キリストから離れたことによる孤独を、弟子達は何より恐れました。その彼らにキリストはこうおっしゃいました。

「私はあなたがたを孤児にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる」

私たちキリスト者にとって、いや、人間なら誰しも、一番恐ろしいのは孤独です。自分が望んだ孤独ではなく、否応なく強制された孤独ほど怖いものはありません。孤独は空しさを生み、退屈を生み、無気力にさせます。生きることが無意味なことだと思わせるのです。

私たちが最も神を、キリストを強く求めるのは、孤独の時、生きることにつかれた時、生きることの意味を見失い、空しさに支配されている時ではないでしょうか。

愛する者との間に距離ができた時、神との間にも距離を感じます。

世界にこれだけたくさんの人がいても、孤独を感じる時があるのです。その時こそ、私たちの魂はキリストを強く求めます。「共にいてください」と。私たちが最も恐れるのは、この世界の中で、霊的な孤児になることなのです。

孤独を感じる時、「あなたがたを孤児にしておかない」というキリストの言葉をどう信じればいいのでしょうか。

キリストはおっしゃいます。

20節「かの日には、私が父の内におり、あなたがた私の内におり、私もあなた方の内にいるということが、あなたがたに分かる」

ただ、一緒にいてくだる、傍にいてくださる、というだけではなく、父なる神とイエス・キリストと私たちがそれぞれの内にいることになる、とおっしゃいます。

キリストの使徒パウロは、手紙の中でこう書いています。

「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

弟子達はキリストがおっしゃっている言葉を理解できませんでした。しかし、キリストの復活後に聖霊を受けた弟子達は、「あなたたちはわかるようになる」と言われた通り、内なる人が新たにされ、本当に分かるようになったのです。

彼らはどのように新しくされたのでしょうか。同じ手紙の中でパウロは書いています。

「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。それは主の霊の働きによることです。

聖霊を受けたものは、主と同じ姿・イエス・キリストの姿に作り替えられていく、とパウロは書いています。聖霊が、私たちの内にいて、私たちをキリストに似た姿へと日々新しく変えてくださる、それによって私たちはインマヌエルの恵みを共に生きるのです。キリストが隣に座ってくださっているというのではなく、キリストが私の内にいて、私がキリストの内にいる、という仕方で、共にいてくださるのです。そして聖霊は私をキリストに似た者へと変えてくださるのです。

これが、私たちの想像を超えた、私たちの常識には収まらない、私たちの生涯にわたる聖霊の働きです。

今日読んだ最後のキリストの言葉です。

21 Continue reading

7月13日の礼拝案内

 次週 礼拝(7月13日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書14:15~21

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番24番、293番、336番、頌栄544

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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7月6日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:8~14

キリストが十字架に上げられる前の最後の晩、キリストと弟子達の告別の時が持たれていました。13章のはじめで、まもなく十字架に上げられることをご存じだったキリストは「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」、と書かれています。

福音宣教の旅の最後の時、弟子達への愛が高まったキリストがなさったことは、弟子達の足を洗うということでした。そして互いに仕えあうことをお命じになります。弟子達の中には裏切る者がいることをおっしゃり、ご自分は去っていくことになるけれども、弟子達は今ついてくることはできない、とお伝えになりました。

心を騒がせる弟子達に主イエスはおっしゃいます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」

この夜、自分たちの先生がなさること、おっしゃることすべてに弟子達は戸惑いました。

先生はまるで自分たちが全てを理解しているかのような口調でお話なさっている。でも自分たちは先生がおっしゃっていることがまるで分からない。なぜ先生は自分たちと離れ離れになるとか、自分たちが先生のことを知らないと言うだろうなどとおっしゃるのだろうか。

弟子のトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と訴えました。主イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」とおっしゃいました。「住むところがたくさんある父の家」とはどこなのか。そこへと至る道はどこにあるのか。トマスは知りたかったのです。

トマスはキリストの言葉を物理的な道として理解したようです。キリストと過ごす最後の時になっても、自分たちに言われている霊的な意味を理解することができませんでした。

「私は道であり、真理であり、命である」

イエス・キリストはご自分のことを「道」とおっしゃいました。普通は道というのはどこかにあってそれを自分の足で歩いていくものなのです。主イエスはどこに道があるのかを教える先生ではなく、 道とは私のことだとおっしゃるのです。我々が普通に頭の中で思い描く道とは違います。

キリストはトマスを、より深く、ご自身と神との霊的な関係に目を向けるよう誘われます。

「あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる」

主イエスを知ることは、父なる神を知ることだ、と明確に示されました。「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃったのはそういうことでした。キリストが、神へと至る道であり、神を示す真理であり、神と共にある命そのものだったのです。

次に反応したのはフィリポでした。彼もこの時まだ主イエスのことを表面的にしか見ることができていません。フィリポは最初からの弟子であり、ナサニエルやギリシャ人たちを主イエスのもとに連れてきた人でした。主イエスの弟子たちの中でも古株です。それでもペトロやトマスと同じように主イエスのことを自分の人間的な知識でしか捉えることがまだできていません。

フィリポの願いは単純でした。「主よ、私たちに御父を示してください。そうすれば満足できます。」とてもまっすぐで単純で正直な言い方です。そして深い想いのこもった願いだと思います。

たくさんの人たちを主イエスの下に連れてきたフィリポですら、「主イエスを見る者はすでに神を見ている」ということがわかっていなかったのです。主イエスは「フィリポこんな長い間一緒にいるのに私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのだ。なぜ私に御父をお示しくださいというのか」

十字架を前にした、キリストの驚きと悲しみの言葉です。

「神を見たい」という願いは、最も基本的な私たちの本能ではないでしょうか。フィリポは正直です。旧約聖書に出てくるあのモーセも神を見たいと願いました。

出エジプト記33:18~23にそのことが書かれています。

「どうかあなたの栄光をお示しください」とモーセが言うと、神はおっしゃいました。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見てなお生きていることはできないからである。」神の神聖さの前に私たちはその姿を見て生きることはできないというのです。

しかしそれでもこのフィリポの願いは地上に生きる者であれば誰もが抱く思いではないでしょうか。ヨハネ福音書の冒頭部分1:18でこう書かれています。

「未だかつて神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方神を示されたのである。」

イエス・キリストはどのように私たちに神を示してくださったのでしょうか。神の手を引いて、「この方が神だ」と引き合わせるような、そんな仕方で神を示してくださったのではありません。

まっすぐにご自分に向かって神を見たいと言ってくるフィリポに対して主イエスがおっしゃったのは「私が言うことを信じられないのであれば、業そのものによって信じなさい」とおっしゃいました。

ここで考えたいと思います。キリストがおっしゃっている「業」とは何でしょうか。確かにこれまでキリストは数々の奇跡を行って来られました。足がたたない人を立たせ、盲人の目を開き、ラザロを墓の中から蘇らせて来られたキリストの業は、神の御業でした。

キリストが語られる言葉は、神がご自分の民に従うことをお求めになる教えであり、水を葡萄酒に変え、群衆をパンと魚で満腹させられたのはその業を通して神の祝福の豊かさが現わされるためでした。神の元から来たのでなければ、神が共にいなければ、神の力を持っているのでなければあのようなしるしを行うことができません。

しかしキリストはただ、「私がこれまですごいことを行ってきたのだから、それを思い出してわたしを通して神を見ればいい」とおっしゃっているのでしょうか。

もちろんこれまでキリストが行ってこられた業のことも含まれているのでしょう。しかし、ここでキリストが「私の業」というのはそれ以上の何かではないでしょうか。

私たちが今日読んだところを見ると、イエス・キリストはこれまでご自分がどんなすごい御業を行ったかということではなく、ご自分の御業に従っていく弟子たちのこれからについてお話しなさっています。

「私を信じる者は私が行う業を行ない、またもっと大きな業を行うようになる」

キリスト者はキリスト以上の業を行うことになる、と言われています。少し驚かされる言葉だと思います。キリスト者がキリスト以上の存在になるということなのだろうか。

キリストがおっしゃっている「私よりも大きな業」というのは、キリストが神の下に行かれ、そこから聖霊を教会に送り、弟子達が、教会がキリストの御業を「世界中で」行っていく、ということでしょう。

人として世に来られた神はイエス・キリストはガリラヤとユダヤ、サマリアという地方で御業を行われました。復活後は聖霊を通して、教会を通して、世界中で神の御業が示されていくことになるのです。それが、キリストが「私よりも大きな業」とおっしゃっていることです。

そして教会が伝えるのは、イエス・キリストの十字架と復活という御業です。キリストがここで「私の業」を信じなさいとおっしゃっている御業とは、これから弟子達に見せられる十字架と復活という大きな御業のことなのです。

キリストは弟子たちに一つの約束をここでなさっています。「私の名によって願うことはなんでもかなえてあげよう。」キリストに従おうとする者にとってこんなに嬉しい言葉はないのではないでしょうか。

しかしよく読んでみますと、「私たちが願うこと」ではなく「イエス・キリストの名によって願うこと」と言われています。私たちは自分たちの祈りを思い浮かべるでしょう。

祈る時には私たちはキリストのお名前を通して祈ります。私たちの祈りは、私たちに何が必要なのか、私たちがどんな望みをもっているのかということを神に教えて差し上げることではありません。祈りの言葉をもつキリストのうちに生き、私たちが祈りの言葉をいただき、キリストの祈りを自分の祈りとさせていただき、キリストのお名前によって祈るのです。そうやって私たちの願い・祈りはキリストの祈りとして神に捧げます。

私たちは自分の祈りを、自分の祈りでありながら、キリストの祈りとして神に届けようとするのです。キリストが私たちの祈りをキリストの祈りとして神のもとに届けてくださるというのです。 Continue reading

7月6日の礼拝案内

 次週 礼拝(7月6日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書14:1~7

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番23番、90番、249番、頌栄544

【報告等】

◇7月8日(火) 三宅島伝道所支援委員会・伊豆諸島伝道委員会

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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6月29日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:1~7

過越祭を目前に控えた夜、主イエスは「あなたがたは私を探すだろう」と、弟子達と一緒に過ごす時間が終わろうとしていることをお伝えになりました。そして「あなたがたに新しい掟を与えある。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃいました。別れの時間が迫っている中で残されたキリストの言葉には、キリストの万感の想いが込められています。

先生との別れの時が来たことを告げられて、弟子のペトロは驚いて尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか」それに対して、主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。謎めいた主イエスの言葉です。

ペトロは食い下がりました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。「離れ離れになるなど、死んでも嫌だ」、というペトロの気持ちのこもった言葉です。

しかしそれほど強く主イエスのことを慕って訴えるペトロに向かって、主イエスは衝撃的な言葉を告げられました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、夜が明ける前に、あと数時間のうちに、まだその舌の乾かないうちに、「イエスなど知らない」と三度繰り返すだろう、と予告されたのです。

弟子達はこのペトロへの言葉を聞いて驚いたでしょう。主イエスと自分たちとの美しい師弟関係に皆心打たれていたところでした。

「そんなバカなことがあるだろうか。これだけ自分たちは主イエスのことを慕い、福音宣教の旅を共にしてきた。その自分たちがこのあとすぐ、『イエスなど知らない』と言ったりすることがあるだろうか。先生はたった今、自分たちの足を自ら洗ってくださった。共に夕食も囲んで、素晴らしい時間を過ごしているではないか。」

この時は、皆主イエスに対して強い気持ちを持っていました。誰もが、命がけで主イエスに従う覚悟を持っていました。

ペトロに話しをされていた主イエスは、弟子達全員に向かって「心を騒がせるな」とおっしゃいました。弟子達は、主イエスがおっしゃった「私が行くところにあなたたちは来ることができない」という言葉の中に主イエスがご自分の死に向き合っていらっしゃることを感じ取ったのでしょう。彼らは「心が騒いだ」のです。

主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃいました。しかし「私が死ぬことはないから安心しなさい」とご自分の死を否定なさいませんでした。むしろ主イエスは、「私はこれから死ぬけれども、恐れなくていい」と示されるのです。死を覚悟した主イエスの言葉と表情を見たら恐れるのが当然でしょう。なぜ弟子達は恐れる必要がなかったのでしょうか。

主イエスは「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とだけおっしゃいました。全ては、神の御手の内にある救いのご計画の実現である、ということです。人の目には受け入れがたい悲劇に映るだろう、しかし、すべては神の大きな御心の中にある、ということをお伝えになるのです。

「先生はこれから自分たちと離れてどこに行こうとされているのか」、と考えている弟子達に、主イエスはこれから起こることの意味をお示しになりました。

「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」

この言い方からすると、主イエスとの別れは永遠のものではなく、一旦は離れ離れになってもまた再会が与えられることになっていることが分かります。弟子達は、また主イエスを求める者たちは、やがて主イエスによって迎え入れられ、父の家、つまり神のもとに用意された場所に共に生きることになるという計画の中に入れられるのです。

「こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とおっしゃいました。

弟子達にとって、この夜、主イエスがおっしゃったことは謎でした。謎であると同時に、それはいくら解説されても分からないものでした。主イエスは前もってご自分に、また弟子達に何が起こるかということだけをおっしゃいました。あなたがたは私を見捨てて離れ離れになるが、神の下に場所を用意して私はまたあなたがたを迎えに来る、とおっしゃるのです。

当然、弟子達はそれを聞かされても理解できませんでした。主イエスは「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ってくださっても、分かりませんでした。その時は、です。

キリストの十字架と復活を見て、さらにそこからキリストを見捨てて逃げた自分をキリストご自身が迎えに来てくださったとき、彼らはあの夜のキリストの言葉の意味を本当の意味で知ることになるのです。

この弟子達の信仰体験は、私たちにも与えられているものです。聖書の言葉を読んでも、なんだかよくわからないし、すべて簡単に理解することはできません。しかし、その時キリストの言葉をたとえ理解できなくても、その言葉を心にとめて生きる中で、キリストが何かを見せてくださる時、何かを分からせてくださる時が与えられるのです。

二千年も前に書かれた聖書の言葉が、実は本当に自分のために書かれ、今の自分を生かしているということを教えられる瞬間があるのではないでしょうか。キリストの言葉を、その時は分からなくても、心に留めて生きる中で何かを見せられることがあるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。その時わからなくても、この方を信頼して生きる中でその意味が示されるのです。

私たちは出エジプトを思い起こしたいと思います。エジプトで奴隷とされていたイスラエルは、「エジプトから出て行きなさい」と言われました。モーセが指導者として立てられ、エジプトの奴隷から解放された後、イスラエルは40年間荒れ野を歩くことになりました。

何度もイスラエルの人たちは、「なぜエジプトから出てきたのか、荒れ野で死ぬためなのか」と不平を口にしました。それでも彼らは、昼は雲の柱、夜は被の柱となって導いてくださる神に従って歩き続けました。どこに行くのかわからない、何のために歩いているのかわからない、しかし、神の導きがそこにあるから、神を信じて歩き続けたのです。

荒れ野というのは、道のないところです。荒れ野で神の導きを捨てるということは、自分の道を捨てるということでもありました。

イスラエルが荒れ野の40年の意味を知るのは、約束の地に入る直前、旅の終わりでした。

神はモーセを通しておっしゃいました。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちにも、生きる上での謎があります。試練の時、苦難の時、「一所懸命に生きているのに、なぜ自分にこんなことが起こるのか」と、上に向かってて叫びたくなる時があります。自分が行こうとしている道を進めなくなって、「なぜ前に進めないのか」と悩む時があります。「主よ、なぜですか。キリストよ、なぜですか」と祈る時があります。

しかし、イスラエルが出エジプトの旅の最後にその意味を示されたように、「自分が歩むことを求められていた道は、ここに通じていたのか」と示される時が来るのです。

神の御心がわからず祈る時は、信仰の苦しみの時であるかもしれません。しかし、それでもあきらめずに、聖書の言葉を捨てず、祈った先で、キリストが自分のために用意してくださった道を知れた時、そこにこそ私たちの信仰の喜びがあるのです。

この夜、主イエスがおっしゃる「道」について、弟子達は理解できませんでした。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃる主イエスに、弟子の1人、トマスが言います。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。」

ここで主イエスはおっしゃいます。「私は道であり、真理であり、命である」

「私が行こうとしている道はこういう道だ」という説明ではありません。「私が道である・道とは私である」という言い方をされています。

私たちはどのように「道」を探しているのでしょうか。その道を自分で切り開かなければならないと思っています。しかし、本当は、この方が道であり、この方が私たちに道をくださるというところから信仰の歩みは始まるのです。

主イエスは以前、「私は羊の門である」とおっしゃいました。これも、不思議な表現です。「あそこに行けば門がある」ではなく、「私が門である、私が入り口だ」という言い方です。そうであれば、このイエスという方こそが救いの道そのものであり、救いの入り口そのものであるということになります。

私たちはいつでも「救い」を求めています。「今自分を苦しめているこのことから救われたい」「今自分を支配している空しさから救われたい」という漠然とした思いを持っている。人間関係の悩みかもしれないし、仕事のつらさかもしれない、将来への不安かもしれません。些細なことかもしれないし、死の恐怖へのおびえのような重いものかもしれません。何であれ、心の奥底に、「助けてほしい」という思いを抱えて生きています。

自分で何とかできるのであれば、救いを求めたりはしません。解決策がわかっているのであれば、少しばかり努力をすればいいだけです。しかし、自分にはどうしようもないこと、自分を超えた存在にすがるしかないことがあります。そのようなことを感じた時に私たちは、救いに至る「道」をまた救いに通じる「門・入口」を求めるのです。

ユダヤでは、律法の言葉が、人々を神へと導き、神の支配のもとにとどめるものでした。そして今イエス・キリストは、ご自身が神へと導き、神の支配のもとに人々を休ませる律法そのもの、神の言葉そのものであることを明らかにされたのです。道を探し、真理を求め、命の置き所を探している者にとって、イエス・キリストこそが答えとなるのです。

弟子達はもうすぐそのことを、身をもって知ることになります。キリストを見捨てた自分たち、神から離れた自分たちが、次にどこに道を見出せばいいのか途方に暮れていた時に示された道が、復活のキリストでした。イエス・キリストを通して、弟子達は休息を見出し、永遠の神への礼拝の場を見出すことになります。 Continue reading