ヨハネ福音書16:1~7
告別の言葉を通して、イエス・キリストは弟子たちに、「私とあなたがたは確かにこれから離ればなれになってしまうけれども、大丈夫だ」と、別れに備えるようおっしゃいます。その別れも、神のご計画の内にあることをお伝えになるのです。キリストと弟子達が離れ離れになっても、弁護者、つまり聖霊が与えられるので、この別れはいいことなのだ、と前もって示されています。
この弟子達への言葉はキリスト教会への言葉、つまり私たちへの言葉でもあります。キリストが自分の目の前に見えないからと言って嘆く必要はありません。聖霊を通してブドウの枝と幹がつながっているように、キリストと信仰者は強く結びつけられ続けるのです。
しかしキリストは、「私がいなくなっても大丈夫だ」と言いながらも、ご自分がいなくなった後、弟子たちを襲うであろう迫害を予告されます。
「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」
キリストに従う私たちの信仰生活は、逆風とは無縁のものではありません。逆風は変わらず吹くのです。イエス・キリストに対して、この世からの逆風が吹いたように、弟子達にも、キリスト教会にも、この後逆風は吹くのです。
それではなぜキリストは「大丈夫だ」「あなた方と別れるのはいいことだ」とおっしゃるのでしょうか。
その逆風の中にあっても、キリストが共にいてくださっているからです。逆風がなくなるのではなく、キリストと一緒に逆風の中を進むことができる、ということが、信仰の強さなのです。
マタイ福音書の10章で、キリストはこうおっしゃっています。
「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。・・・私よりも父や母を愛する者は、私に相応しくない。・・・自分の十字架を担って私に従わないものは、私に相応しくない」
非常に厳しい言葉です。家族などどうでもいい、ということでしょうか。そうではありません。キリストを第一に求めることの先に、本当の家族の平和、この世の平和がある、ということでしょう。
キリストは、これから大きな分裂が起こる、とおっしゃいます。この世が、分裂するのです。ナザレのイエスをキリストと信じ従う人たちと、信じない人たち。キリストを愛する人たちと、キリストに敵対する人たちに分かれるのです。ぶどうの枝が幹につながっているようにイエス・キリストと神の愛につながろうとする人たちを、枝を折り焼き払うように迫害する人たちに分かれるのです。
キリスト者は一世紀、ローマ帝国の異邦人、異教徒たちからの迫害だけではなく、同じユダヤ人たちからも迫害されることになりました。キリストは弟子達と過ごす最後の夜、これから弟子たちに起こることを繰り返し話してお聞かせになりました。
主イエスと弟子たちがなぜ離れ離れになってしまうのか、ということ。
主イエスはなぜ十字架の上で死ななければならないのか、ということ。
主イエスの十字架の死がすべての終わりではないのか、ということ。
主イエスの死が弟子たちにとっての信仰の終わりではい、ということ。
むしろ弟子たちの本当の信仰はそこから始まることになる、ということ。
これらのことをこの夜、事前に伝えようとなさったのです。主イエスの言葉は、13章から17章にいたるまで、記録されています。膨大な量です。弟子たちにつまずかせないために、力を込めて多くの言葉を語られました。
「つまずく」という言葉が聖書の中ではよく使われています。信じられないこと、信じることをやめることのことを、「つまずく」という言葉で表現されています。いつの時代でも、迫害や嫌がらせを受けてキリストに従うことをやめる人たちがたくさんいました。だから聖書が書かれたのです。信仰の苦難や迫害の中でつまずく人たちがたくさんいて、その人たちを励まそうとしてこの聖書は書かれました。
新約聖書の中には使徒パウロの手紙がたくさん入っています。このパウロ自身も、教会の迫害者でした。パウロは、ガラテヤの諸教会にこう書いています。
「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し滅ぼそうとしていました」ガラテヤ1:13
キリストはここで、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と弟子達におっしゃっています。まさに、パウロがそうでした。
フィリピの教会への手紙の中で彼はこう書いています。
「私は・・・イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の破壊者、律法の儀については非の打ち所のない者でした」フィリピ3:6
パウロは教会を迫害し、キリスト者を逮捕しながら、自分は神のために正しいことをしている、と考えていました。
使徒言行録を見ても、キリストの使徒ステファノの殉教、キリストの兄弟ヤコブの殉教が記録されています。使徒たちだけでなく、多くのキリスト者が、様々な迫害を受けたことが分かります。
キリストの復活を信じなかった人たちは、キリスト教会の人々を迫害し始めました。そして皮肉にも彼らはキリスト者を迫害することが神のためになると思っていました。
しかし、そのキリスト教会の痛みを通して、人々は変えられていったのです。なぜイエス・キリストは、キリストとして受け入れられなかったのでしょうか。なぜキリスト教会は迫害されたのでしょうか。
以前大祭司カイアファがこう言ったことがあります。
「1人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」11:50
ローマ帝国を刺激するよりはナザレのイエスを犠牲にして騒ぎを起こすことなく、穏便に祭りを済ませた方が良いというカイアファの言葉です。
私たちは考えます。「なぜ、イエス・キリストは死ななければならなかったのか。神は、全能の神なのだから、もっと簡単に、一瞬で世のすべての人の心をご自分に向けることがおできになるのではないのか。」
しかし、神は私たちの心を強制的に支配するのではなく、全ての人が自分の自由意思で神を求めるように、この世にご自分の愛を示されました。
「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とキリストはおっしゃいました。神の独り子を世にお与えになるほどの愛を世に示されたのです。そしてその通りになるのです。
この方が十字架で殺された後、復活され、弟子達に聖霊が注がれて、弟子達はキリストの十字架の意味を知りました。それは、自分たちの罪をあの方が十字架で担ってくださった、ということでした。そこに罪の許しがあり、またキリストの復活を通して、永遠の命の希望を示されたのです。
キリストの復活の後、弟子達の宣教活動によって、エルサレムの多くの人たちがキリストを信じるようになった。ナザレのイエスとは何者だったのか、また自分たちがそのナザレのイエスに対して何をしてしまったのかを知ったからです。
人々は自分の罪の重さを知り、同時に、その罪を赦していただいたという恵みを知って打たれたのです。人々は、自分の意思でイエス・キリストへと立ち返っていきました。
イエス・キリストという一粒の麦が、地に落ちて死に、そこから多くの実が結ばれていったのです。キリストを信じるようになった人たちも、一人ひとりが、一粒の麦となり、また次の実りのために自分の生涯をささげるようになっていきました。 Continue reading →