ヨハネ福音書16:8~15
イエス・キリストの最後の夜、弟子たちは確かにキリストから告別の言葉を受けました。はっきりと何度も「私は去ってゆく」とキリストがおっしゃるのを聞きました。
弟子たちは、「先生はどこに行かれるのだろうか」「自分たちは先生と一緒のところに行くことができないのだろうか」と考えました。そして弟子たちが一番恐れたのは、「先生がいなくなった後、自分たちはどうなるのだろうか」ということだったでしょう。
その不安を抱えていた弟子たちに、キリストは「実を言うと私が去っていくのはあなた方のためになる」とおっしゃいます。キリストが弟子たちの元から去っていかれた後、天からの弁護者が送られる、つまり聖霊が注がれることになる、「だからそれはいいことなのだ」とおっしゃいます。
今日私たちはイエス・キリストがこの世を去られたあと遣わされる聖霊の働きについて語られているところを読みました。
「その方が来れば」、つまり聖霊が来れば、罪について、義について、また裁きについての誤りを明らかにするとおっしゃっています。
私たちはこの言葉を通して、聖霊の働きについて教えられることになります。キリストはご自分がいらっしゃらなくなった後、この世は2種類の人に分けられることをおっしゃいました。
ぶどうの枝が幹につながっているように、イエス・キリストにつながりキリストに従って生きる人たち。そして、キリストにつながることをせずキリストを信じる人たちに敵対する人たちです。
イエス・キリストがここで語っていらっしゃる聖霊の働きを読んで面白いのは、聖霊は信仰者だけでなく、信仰者を迫害する人たちに対しても働きかけていくということなのです。
私たちは考えたいと思います。
聖霊が来て、この世の罪について、義について、裁きについて誤りを明らかにしてくださるのであれば、もう安心だ、と弟子たちは思えたでしょうか。私たち自身、聖霊によって罪や義や裁きを明らかにされると聞いて、単純に喜べるでしょうか。
手放しには喜べないと思います。聖霊の裁きの内側に、私たちの罪、私たちの義も置かれるからです。洗礼を受けていない人たちに聖霊の裁きは向かう、というのであれば、少しは安心できるかもしれません。
しかし、聖霊が世に与えられ、その聖霊は自分にも向かってくると言われているのです。
普通は、「信仰を通して自分には聖霊が与えられる」、と聞けば、信仰を持つことによって聖霊が自分を悩みや苦しみを引き離してくれるのではないか、楽な生き方が与えられるのではないか、と期待するのではないでしょうか。信仰者だけに働きかけて、信仰者だけを導いて、いつも笑顔でいられるようにしてくださる、ということを期待し、願うのではないでしょうか。
しかし、それは違うのです。
聖霊は信仰を持っている・持っていないにかかわらず、世の全ての人に自分の罪に向き合うことを求めるのです。神と自分の関係が本当に正しい状態にあるかどうかを突きつけるのです。そして、あなたも、キリストを十字架に上げたあの群衆の中にいたのだ、と気づかせるのです。
キリストがおっしゃる聖霊の働きに、私たちはむしろ緊張するのではないでしょうか。自分の罪について、義について、裁きについて、誤りが明らかにされるというのであれば、私たちのうち一体誰がキリストの前に立たされた時、顔を上げることができるでしょうか。
聖霊の働きとは、まず、私たちを断罪するところから始まるのです。そしてそうやって、イエス・キリストを見たことのない人たち、その十字架も復活も知らない人たちに、どこに許しがあるのかを示し、信仰の入り口の前に立たせるのです。
弟子達はこの夜、「先生がおっしゃっていることが理解できない」、と心の中で思っていたでしょう。
キリストもそのことはご存じでした。だからおっしゃるのです。
「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」
面白い言葉ではないでしょうか。そして、とても大切な言葉だと思います。弟子たちは今、理解できていない。それにもかかわらず、キリストは語り続けて行かれます。しかしそれでいいのです。
今の無理解の中にあってもキリストの言葉は与えられ、その無理解の先には、聖霊が全てを悟らせてくださる時が備えられている。そのこと知っているだけでいい、それが大事なのです。
「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」
この夜、弟子達が学ばなければならなかったのは、聖霊に対する希望でした。すべて理解する必要はない。ただ、希望がある、ということだけを知っていればいいのです。そして後になって、「あの時キリストがおっしゃったことは、これだったのか」と感謝の祈りを捧げればいいのです。
「自分たちの先生がこれから去って行かれることは、すべての終わりではない。逆に、自分たちは今から何か新しいことの始まりに立ち会おうとしている」、このことを知っていればよかったのです。
目の前から先生がいなくなれば信仰の終わり、ということではありませんでした。私たちにとっても、自分にはキリストの姿が見えないから希望が見えない、ということではないのです。
聖霊を通してイエス・キリストと共に生きる道へと導き入れられるのです。そして、弟子達は、また私たち信仰者は、聖霊を通してイエス・キリストの御業を行っていくことになるのです。
信仰の終わりなどというものは無いのです。信仰の希望に壁はないのです。常に、神が、聖霊を通して、信仰者には見えない、一歩先で何かを見せようと用意してくださっています。
思えば、不思議ではないでしょうか。教会は、今でもイエス・キリストの体としてキリストの御心をこの世で行っていこうとします。世代が替わってもそのことは変わりません。決して楽な歩みではありません。礼拝ごとに新しくキリスト者の人数が増えていく、などという単純なものではありません。むしろ、逆風を感じることのほうが多いでしょう。
この夜、キリストの言葉を聞いた弟子たちは、もう今は生きていません。イエス・キリストの十字架と復活という出来事を実際に見た人たちも、はるか昔に死にました。弟子達からキリストについての証言を直接聞いた人たちももういないのです。
それでも、キリスト教会はここまで2000年、立ち続けてきました。その時代、その時代のキリスト者たちの努力もありましたがそれ以上に、人々をキリストへと導き、人々をキリストの体である教会へとつなぎ留め、キリストの業を行わせてきた聖霊の働きがあったからです。
キリスト者が希望を見失いかけた時でも、聖霊は見えないところで動き続けていました。
私たちが聖書を読んでいて、一番よくわからないのが、「聖霊の働き」というものではないでしょうか。私たちの理解や常識を超えた働きを感じた時、「聖霊の働き」としか呼べないものを感じます。
しかし、ここでは、キリストははっきりと、聖霊が何をするのか、おっしゃっています。
「罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」
まず、聖霊が明らかにする「世の罪」とは何でしょうか。この「罪」という言葉は、「過ち」とか「犯罪」という意味もありますが、ここでは霊的な意味で、神に対する罪を指しています。人に対して犯した犯罪・悪事ではなく、神に背を向けること、神を知らないこと、神から離れていることです。
キリストは、ご自分に詰め寄ってくるユダヤ人たちにこうおっしゃいました。
「あなたたちのうち一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属するものは。神の言葉を聞く」 Continue reading →