MIYAKEJIMA CHURCH

3月15日の礼拝案内

 次週 礼拝(3月15日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:31~35

 交読文:詩編20:2~5

讃美歌:讃詠546番10番、136番、400番、頌栄542

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月8日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:31~37

ローマ帝国内で行われていた十字架刑ほど、残酷で人々の心に恐怖を与える処刑法はないでしょう。罪人を木に釘で打ち付け、腰の当たりに小さな椅子を備え付けておいて少しだけ座って休んで呼吸ができるようにしておきます。そうやって、長く十字架の上で生き延びるようにしておき、苦痛が長引くように設計されていました。頭よりも上に上げられた腕から血が胸におりてきて、罪人は最後に呼吸ができなくなり、最後は窒息死するのです。

それで終わりではありませんでした。十字架刑は、ローマに対する反逆者のための刑でしたので、民衆への見せしめのために、罪人が息を引き取ってからもその死体は十字架の上にさらされました。そして動物や鳥にその遺体が食べられるままにしておかれていたそうです。

今日私たちは、十字架で死なれたイエス・キリストがどのように扱われたか、という場面を読みました。主イエスの場合は、息を引き取られてからも十字架の上にさらされる、ということはありませんでした。その日が過越祭の準備の日で、過越祭と安息日の前日だったからです。

「ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り下ろすように、ピラトに願い出た」、とあります。これは「苦しませずに早く死なせてやってほしい」という憐れみから出た申し出ではありません。「十字架の上で死んだ者をその日の内に埋葬しなければならない」、という律法があったからです。

申命記21:22~23

「ある人が死刑にあたる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごす事なく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」

ユダヤ人たちにとって、十字架の上で死んだナザレのイエスは、神に呪われた者であり、汚れた者であり、その遺体は神がイスラエルに下さった土地を汚すものでした。自分たちの過越祭をイエスの遺体によって汚されたくないという思いからユダヤたちはピラトに願い出たのです。

翌日には、神がイスラエルをエジプトから救い出してくださり神の民としてくださったあの「過ぎ越し」の出来事を記念する大切な祭が控えています。「この日は、過越祭の準備の日であった」、とありますが、それはつまり、羊をいけにえとして捧げる時でした。

大切な過越祭を執り行うのに、十字架で死んだ罪人のせいでその時・その場を汚すわけにはいきません。だから、ユダヤ人たちは「イエスを十字架から降ろしてほしい」とピラトに願い出たのです。

「足を折って取り下ろすようにピラトに願い出た」とありますが、これは、「十字架の上の罪人を早く殺してくれ」ということです。十字架の上の罪人の足を下から叩いて折ることによって、体重を支えられなくなり、罪人は窒息死します。

ユダヤでは一日は日没から始まります。もうすぐ日が暮れるのです。「死体を木にかけたまま夜を過ごす事なく、必ずその日のうちに埋めねばならない」という律法の言葉を実行するために、ユダヤ人たちは日没前にイエスの遺体を木から降ろし、埋める必要がありました。

「罪人の足を折ってほしい」という願いをピラトは聞き入れ、ローマ兵たちは主イエス以外の 2人の罪人の足を折って、その場で2人を殺しました。しかし兵士たちが主イエスのところに来ると もう足を折る必要はないと判断しました。すでに息を引き取っていたからです。そして間違いなくイエスが死んでいるかどうかを確かめるために、兵士たちは主イエスの脇腹を刺しました。「すると、すぐ血と水とが流れ出た」と書かれています。

聖書は、主イエスの足が折られず、わき腹を突き刺されたことも、全て聖書の預言の実現であった、と解説しています。その聖書の実現に関しては、次にお話しすることにして、私たちは今日、主イエスの体から流れ出た「血と水」について見ていきたいと思います。

なぜ主イエスの体から血と水が流れたのか、ということに関して、これまで様々なことが言われてきました。このことを医学的な視点で解説する人たちもいました。しかし私達はここではそのような表面的な解説を必要としていません。医学的な説明ではなく、十字架を通してキリストがこの世にくださった「血と水」が何を現わしているのか、ということです。

ヨハネ福音書はここで私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。まず一つ言えるのは、「この方は誠に人間として死なれた」ということです。

古代には「イエス・キリストは神の子なのだから、本当に人間として死んだはずがないのではないか。人間として死んだように見せただけではなかったか」と主張する人たちもいました。神が人間として生まれるなんてことは信じられない、ましてや、神が人間に殺されるなんて考えられない、ということです。

しかしヨハネ福音書ははっきりと、主イエスがこのように血と水を流されて、神の子でありながらも、真の人間として最も苦しい死に方をされた、ということを生々しく描き出します。

この福音書の序文では、「神の言が人となった」ということを書いています。そしてその神の言が、このように本当に人間となり、人間として生きて、人間の体であらゆる痛みを担ってくださった、ということをここで証言しているのです。

ヘブライ人への手紙2:17にこう書かれています。

「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

主イエスは、全ての点で兄弟たち、つまり私たち人間と同じようになってくださいました。全ての試練、痛みを受けてくださったからこそ、私たちに御手を差し伸べてくださる方である、と証言しています。

神の子なのだから、十字架の上で苦しんだふりをしていたのだろう、とか、人間として痛むように見せていただけだ、などという考えに対して、聖書は、イエス・キリストが真の神の子でありながら、真の人間として、私たちと同じ生身の、血の通う人間として、全ての痛みを担ってくださった、ということを訴えるのです。

キリストの体から「血と水が流れ出た」ということは、その証しでした。35節では「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者はあなた方にも信じさせるために自分が真実を語っていることを知っている」、と書いています。非常に力を込めて、福音書はここを強調します。

さて、それでは、キリストが十字架の上で流された血と水は、それぞれ何を意味しているのでしょうか。

「血」は命の象徴です。キリストは私たちに命をくださったということです。この日は過越祭の前日、祭りの準備の日であり、それはいけにえの羊が捧げられる時でした。キリストはまさに、いけにえとしてご自分の命をこの十字架の上で捧げてくださった、ということです。「生贄」というのは私たちの「死の身代わり」です。

皮肉ではないでしょうか。イスラエルの祭司たちは、羊を神にささげ、自分たちに与えられた救いと、罪の許しに感謝していました。しかし、同時に、神の子をいけにえとして十字架に上げていたのです。そのことに気づかずに。

過越の子羊は、救いの象徴であり、神との契約の象徴でした。子羊の血によって神の裁きはイスラエルの上を過ぎ越しました。動物の血によって神とイスラエルは契約を結びました。主イエスは真の過ぎ越しの子羊として死なれ、それゆえに新しい契約というものを示すものとして見らました。つまり主イエスの血は私たちの死と、神との契約を現わしているのです。

ヘブライ人の手紙9:12以下にこう書かれています。

「キリストは・・・ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

あの方は、十字架の上で、私たちが神の民とされることの契約の血を流してくださったのです。それが、キリストの体から流れ出た血の意味でした。

一方で水は仮庵祭で主イエスが立ち上がって大声で叫ばれた言葉を思い起こさせます。7章38節以下『渇いている人は誰でも私のところへ来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』

キリストの下に行く人は、「生きた水」、命の水が与えられる、というのです。水が与えられるだけでなく、自分の内側から水が川となって流れ出る、という壮大なことが言われています。

聖書は、この言葉に関して、このように解説しています。「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」

キリストの言葉を通して、信仰者に与えられ、信仰者の内から流れ出る水とは、霊のことだ、というのです。私たちはこの方の十字架の下で、聖霊をいただくのです。それが、キリストが十字架の上で流された水の意味でした。

私たちはこの方が十字架の上で流された「血と水」に、私たちに与えられた神との新しい契約と聖霊の注ぎを見るのです。

神の子イエス・キリストの死、それも十字架の死は私たちにとってあまりにも大きな悲劇的な謎です。そこで示された神の救いのご計画の深い神秘は、誰もその全てを解き明かすことはできないでしょう。 Continue reading

3月8日の礼拝案内

次週 礼拝(3月8日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書19:31~35

 交読文:詩編20:2~5

讃美歌:讃詠546番番、133番、489番、頌栄542

 

【報告等】

◇3月10日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会・東支区総会

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会  Continue reading

3月1日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:25~30

兵士たちはナザレのイエスを十字架にかけ、その服を分け合いました。その後、彼らに残された仕事は、十字架の近くでイエスが死ぬのを見届けるだけでした。

罪人の家族や友人はその処刑を見ることが許されていました。許されている、というよりは、十字架刑は見せしめのための処刑法でもありますので、少しでも多くの人の目に触れるように考えられていました。

人々は罪人の十字架の上に掲げられた罪状を読むために、十字架に近くに寄らなければなりません。そうやって人々は十字架刑の怖さ、ローマ帝国に反逆したらどうなるか、ということを見せつけられたのです。

人々が十字架に近づくことが許されていますので、特にその罪人の家族や仲間が助けようとすることがないよう、十字架の下に兵士が立って、処刑を最後まで見届ける必要がありました。

今日私たちが読んだのは、兵士たちが十字架の下に立ち、主イエスが死ぬまでの時間を待っていた間に起こったことです。主イエスは、十字架に上げられ、息を引き取られるまでの数時間、わずかながら十字架の上で言葉を残されました。

ヨハネ福音書は、この時十字架の元にいた人たちに焦点を当てます。そこには4人の女性がいました。主イエスご自身の母マリア、その姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアの4人です。そしてもう一人、主イエスが「愛された弟子」もいました。

不思議なことに、ヨハネ福音書は、主イエスの母とその姉妹の名前を書いていません。その名前を知らなかったのではなく、あえて書いていないのです。

主イエスの母の名前はマリアでした。そしてマリアの姉妹は、他の福音書を見ると サロメという名前であったことがわかります。マタイ福音書とマルコ福音書を見ると、マリアの姉妹サロメは、主イエスの弟子のヤコブとヨハネの母でありゼベダイの妻であった、という細かい関係性まで書かれています。

それを踏まえると、この時十字架の下にいたこの「愛された弟子」は 主イエスといとこ同士であるゼベダイの子ヨハネであったということになります。主イエスの親戚、身内として、彼は伯母のマリアと、自分の母サロメと十字架の下にいたのでしょう。

しかし、ヨハネ福音書では、そのような名前や細かい関係性を書いていないのです。このことには、ヨハネ福音書独自の意図がありそうです。

ヨハネ福音書にはイエス・キリストの十字架の上における最後の言葉が記録されています。ほかの福音書には記録されていない言葉です。

主は十字架の上から言葉を残し、十字架の下にいる人たちに、何かを示されました。そのお姿を通してまず知っておかなければならないのは、十字架に上げられならがも、キリストはその場を支配しておられたということです。そこには間違いなく、神の救いの御支配があった、ということです。

私たちはなぜ、救いの御子がこのような死に方をしなければならなかったのか、と考えます。死に方、というよりは、「殺され方」です。なぜ、神がこの世をお救いになるために人としてお生まれになり、十字架でこのような残酷な殺され方をしなければならなかったのか、それが不思議でなりません。

「神は人間に負けてしまったということなのか。神の子であっても集団になった人間には勝てなかったのか」、と普通なら思うでしょう。しかし、神は全てを、この十字架の死に至るまでご自分の救いの御業の計画の中に含めていらっしゃいました。この十字架の上でキリストが口にされたいくつかの言葉にこそ、神の痛みに込められた御心が示されており、主イエスは十字架の上から道を示されたのです。

一つ一つ、見て行きたいと思います。

はじめに主イエスはご自分の母と、この福音書には名前が記されていない「愛する弟子」と呼ばれる人をご覧になりました。そしてご自分の母に向かって、「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」と「愛する弟子」を示されました。それからその弟子に「見なさい。あなたの母です」とおっしゃいました。「その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。

普通であれば、主イエスはご自分の弟たちに言うべき言葉を、ご自分の弟子におっしゃっています。この時主イエスの弟たちはどこにいたのでしょうか。この時、弟たちは十字架の下にはいなかったのです。

主イエスは家の中では長男であったので、父ヨセフの死によってご自分が母と兄弟たちの生活を担って働いてこられました。しかし主イエスはある時から、福音宣教のために働き始められます。主イエスの弟たちは、兄がそのように突然預言者のような活動を始めたことを快く思わなかったようです。

ほかの福音書では、「自分たちの兄がおかしくなってしまったのではないか」、と主イエスを連れ戻しに来たことが書かれています。ヨハネ福音書では、7章5節に「兄弟たちはイエスを信じていなかった」とはっきり書かれている。

だから主イエスの弟たちは、この時十字架の下にいなかったのです。そこで、主イエスはご自分の「愛する弟子」にご自分の母のことを託し、母には、その弟子を自分の子のように頼るように、とおっしゃいました。

ヨハネ福音書は、なぜこのようなやり取りを記録しているのでしょうか。キリストは、ご自分の死後の母マリアの生活を心配して、そこにご自分の弟たちがいないので仕方なく弟子に母の面倒を見るように、とおっしゃった、ということなのでしょうか。

主イエスがどのような意味でこれをおっしゃったのか、福音書は詳しく説明をしていません。

はっきりとこの言葉の意味の解説はありませんが、間違いなく言えることは、神が御子イエス・キリストに託された使命は、この十字架の死によって途切れることはなかった、ということです。母マリアの生活をご自分の「弟子」に託された、ということの中に、キリストの使命が弟子たちに引き継がれていく様を見ることができるのです。

この弟子の言葉や業が、やがて「神の息・聖霊の風」によってキリストの言葉・キリストの業として用いられていくのです。そして、地縁や血縁を超えた、信仰の家族としての姿が立ち上がっていくことになります。

マルコ福音書で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私の母、私の兄弟とはだれか・・・神の御心行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」

十字架のもと、信仰の家族としての一歩が主イエスの言葉によって作り上げられたのです。

そしてこの後、主イエスは二つの言葉を短く発していらっしゃいます。「渇く」「成し遂げられた」という言葉です。

これらも、一つずつ見て行きたいと思います。

主イエスは、「渇く」とおっしゃいました。十字架の罪人は地中海の暑さの中、呼吸が十分にできず、喘ぎ苦しみ、最後は脱水になって喉が渇いてきます。しかし、ここでの主イエスの言葉は、ただ喉が渇いて漏れ出た言葉、というだけのものではないようです。

「イエスは、全てのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」、と書かれています。暑くて喉が渇いたので「渇く」とおっしゃったのではありません。全てのことが「成し遂げられた」のを知って、「渇く」とおっしゃったのです。

「成し遂げられた」というのは、全てが「終わった」という意味もあります。そして福音書は、「こうして、聖書の言葉が実現した」と書いています。主イエスが十字架の上で「渇く」とおっしゃったのは、何かの預言の実現した、ということでしょう。

これは詩編22:16の実現でした。詩編22編は、信仰者の苦しみの祈り・訴えの詩です。

「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上あごに張り付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」22:16

詩人は神に自分の苦しみをそのように訴えています。キリストは、十字架の上で、あの詩編22編の苦しみの詩人を体現されているのです。

私たちは覚えたいと思います。この方の十字架の上での渇きは、本当は世の全ての人が神の前に感じなければならないものでした。信仰者の苦しみの渇きを、主イエスは十字架の上で全て担ってくださっているのです。罪による渇きである、ということです。 Continue reading