3月8日の礼拝説教

 ヨハネ福音書19:31~37

ローマ帝国内で行われていた十字架刑ほど、残酷で人々の心に恐怖を与える処刑法はないでしょう。罪人を木に釘で打ち付け、腰の当たりに小さな椅子を備え付けておいて少しだけ座って休んで呼吸ができるようにしておきます。そうやって、長く十字架の上で生き延びるようにしておき、苦痛が長引くように設計されていました。頭よりも上に上げられた腕から血が胸におりてきて、罪人は最後に呼吸ができなくなり、最後は窒息死するのです。

それで終わりではありませんでした。十字架刑は、ローマに対する反逆者のための刑でしたので、民衆への見せしめのために、罪人が息を引き取ってからもその死体は十字架の上にさらされました。そして動物や鳥にその遺体が食べられるままにしておかれていたそうです。

今日私たちは、十字架で死なれたイエス・キリストがどのように扱われたか、という場面を読みました。主イエスの場合は、息を引き取られてからも十字架の上にさらされる、ということはありませんでした。その日が過越祭の準備の日で、過越祭と安息日の前日だったからです。

「ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り下ろすように、ピラトに願い出た」、とあります。これは「苦しませずに早く死なせてやってほしい」という憐れみから出た申し出ではありません。「十字架の上で死んだ者をその日の内に埋葬しなければならない」、という律法があったからです。

申命記21:22~23

「ある人が死刑にあたる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごす事なく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」

ユダヤ人たちにとって、十字架の上で死んだナザレのイエスは、神に呪われた者であり、汚れた者であり、その遺体は神がイスラエルに下さった土地を汚すものでした。自分たちの過越祭をイエスの遺体によって汚されたくないという思いからユダヤたちはピラトに願い出たのです。

翌日には、神がイスラエルをエジプトから救い出してくださり神の民としてくださったあの「過ぎ越し」の出来事を記念する大切な祭が控えています。「この日は、過越祭の準備の日であった」、とありますが、それはつまり、羊をいけにえとして捧げる時でした。

大切な過越祭を執り行うのに、十字架で死んだ罪人のせいでその時・その場を汚すわけにはいきません。だから、ユダヤ人たちは「イエスを十字架から降ろしてほしい」とピラトに願い出たのです。

「足を折って取り下ろすようにピラトに願い出た」とありますが、これは、「十字架の上の罪人を早く殺してくれ」ということです。十字架の上の罪人の足を下から叩いて折ることによって、体重を支えられなくなり、罪人は窒息死します。

ユダヤでは一日は日没から始まります。もうすぐ日が暮れるのです。「死体を木にかけたまま夜を過ごす事なく、必ずその日のうちに埋めねばならない」という律法の言葉を実行するために、ユダヤ人たちは日没前にイエスの遺体を木から降ろし、埋める必要がありました。

「罪人の足を折ってほしい」という願いをピラトは聞き入れ、ローマ兵たちは主イエス以外の 2人の罪人の足を折って、その場で2人を殺しました。しかし兵士たちが主イエスのところに来ると もう足を折る必要はないと判断しました。すでに息を引き取っていたからです。そして間違いなくイエスが死んでいるかどうかを確かめるために、兵士たちは主イエスの脇腹を刺しました。「すると、すぐ血と水とが流れ出た」と書かれています。

聖書は、主イエスの足が折られず、わき腹を突き刺されたことも、全て聖書の預言の実現であった、と解説しています。その聖書の実現に関しては、次にお話しすることにして、私たちは今日、主イエスの体から流れ出た「血と水」について見ていきたいと思います。

なぜ主イエスの体から血と水が流れたのか、ということに関して、これまで様々なことが言われてきました。このことを医学的な視点で解説する人たちもいました。しかし私達はここではそのような表面的な解説を必要としていません。医学的な説明ではなく、十字架を通してキリストがこの世にくださった「血と水」が何を現わしているのか、ということです。

ヨハネ福音書はここで私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。まず一つ言えるのは、「この方は誠に人間として死なれた」ということです。

古代には「イエス・キリストは神の子なのだから、本当に人間として死んだはずがないのではないか。人間として死んだように見せただけではなかったか」と主張する人たちもいました。神が人間として生まれるなんてことは信じられない、ましてや、神が人間に殺されるなんて考えられない、ということです。

しかしヨハネ福音書ははっきりと、主イエスがこのように血と水を流されて、神の子でありながらも、真の人間として最も苦しい死に方をされた、ということを生々しく描き出します。

この福音書の序文では、「神の言が人となった」ということを書いています。そしてその神の言が、このように本当に人間となり、人間として生きて、人間の体であらゆる痛みを担ってくださった、ということをここで証言しているのです。

ヘブライ人への手紙2:17にこう書かれています。

「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」

主イエスは、全ての点で兄弟たち、つまり私たち人間と同じようになってくださいました。全ての試練、痛みを受けてくださったからこそ、私たちに御手を差し伸べてくださる方である、と証言しています。

神の子なのだから、十字架の上で苦しんだふりをしていたのだろう、とか、人間として痛むように見せていただけだ、などという考えに対して、聖書は、イエス・キリストが真の神の子でありながら、真の人間として、私たちと同じ生身の、血の通う人間として、全ての痛みを担ってくださった、ということを訴えるのです。

キリストの体から「血と水が流れ出た」ということは、その証しでした。35節では「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者はあなた方にも信じさせるために自分が真実を語っていることを知っている」、と書いています。非常に力を込めて、福音書はここを強調します。

さて、それでは、キリストが十字架の上で流された血と水は、それぞれ何を意味しているのでしょうか。

「血」は命の象徴です。キリストは私たちに命をくださったということです。この日は過越祭の前日、祭りの準備の日であり、それはいけにえの羊が捧げられる時でした。キリストはまさに、いけにえとしてご自分の命をこの十字架の上で捧げてくださった、ということです。「生贄」というのは私たちの「死の身代わり」です。

皮肉ではないでしょうか。イスラエルの祭司たちは、羊を神にささげ、自分たちに与えられた救いと、罪の許しに感謝していました。しかし、同時に、神の子をいけにえとして十字架に上げていたのです。そのことに気づかずに。

過越の子羊は、救いの象徴であり、神との契約の象徴でした。子羊の血によって神の裁きはイスラエルの上を過ぎ越しました。動物の血によって神とイスラエルは契約を結びました。主イエスは真の過ぎ越しの子羊として死なれ、それゆえに新しい契約というものを示すものとして見らました。つまり主イエスの血は私たちの死と、神との契約を現わしているのです。

ヘブライ人の手紙9:12以下にこう書かれています。

「キリストは・・・ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

あの方は、十字架の上で、私たちが神の民とされることの契約の血を流してくださったのです。それが、キリストの体から流れ出た血の意味でした。

一方で水は仮庵祭で主イエスが立ち上がって大声で叫ばれた言葉を思い起こさせます。7章38節以下『渇いている人は誰でも私のところへ来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』

キリストの下に行く人は、「生きた水」、命の水が与えられる、というのです。水が与えられるだけでなく、自分の内側から水が川となって流れ出る、という壮大なことが言われています。

聖書は、この言葉に関して、このように解説しています。「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである」

キリストの言葉を通して、信仰者に与えられ、信仰者の内から流れ出る水とは、霊のことだ、というのです。私たちはこの方の十字架の下で、聖霊をいただくのです。それが、キリストが十字架の上で流された水の意味でした。

私たちはこの方が十字架の上で流された「血と水」に、私たちに与えられた神との新しい契約と聖霊の注ぎを見るのです。

神の子イエス・キリストの死、それも十字架の死は私たちにとってあまりにも大きな悲劇的な謎です。そこで示された神の救いのご計画の深い神秘は、誰もその全てを解き明かすことはできないでしょう。

私たちはただこの方の十字架のもとに立つだけです。そこに立たなければ、何もわからないのです。遠くから主の十字架を眺めているだけでは、ただ、「罪人がローマの処刑法によって殺された」、というだけで終わるでしょう。

あの時、主の十字架のもとにいた4人の女性たちのように、そして主イエスが「愛された弟子」のように、そこに立って主イエス・キリストを仰ぎ見なければ、私たちは罪の許しの恵みも、永遠の命の希望も、新しい神との契約に生かされ聖霊をいただいている喜びも、知ることはありません。

聖書は、私たちに問いかけています。「今、あなたはどこに立って、何を見ているのか」

私たちは、主の十字架の下に立って、驚くだけです。

イザヤ書53章の苦難の僕の歌にこうあります。

「私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか」

神が世の全ての病と痛みと罪をこの方に背負わせ、十字架に上げられた、しかもその方は神の独り子であった、ということを、誰が信じることができるでしょうか。そんな理屈に合わない許しはないでしょう。信じられないでしょう。神のことをよく知っているはずの祭司たちですら、イエス・キリストを罪人としか見えなかったのです。

一体何人の人が、主の十字架の前にいたでしょうか。弟子達も、兄弟すらもいなかった、あの孤独の中でキリストは死なれました。しかし、4人の女性と、1人の弟子がいました。そこで、神の御業を見た人たち数人の人たちがいました。数人、です。神の救いの御業の神秘は、いつでも、数人の目撃者、数人の証人から福音の広がりとなっていくのです。

一番みすぼらしく、汚らしい死に方をした罪人が、なぜ世の救い主として今、礼拝されているのでしょうか。キリストの十字架に近づかなければ、その足元から見上げなければ、分かりません。

私たちは、主の十字架の下に立って仰ぎ見たから、今この礼拝の中にいます。あの十字架という最も見苦しい死の中から、イエス・キリストは美しい契約の血と聖霊の注ぎをくださいました。

生涯、主の御許に立ち返り、あの血と水をいただき続けたいと思います。神の民である教会は、主の十字架の下に立ち続け、聖霊をいただきながら神の御業の不思議を見せられていくのです。