7月17日の説教要旨

使徒言行禄8:26~40

「主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。」(8:26)

使徒言行禄は「旅の記録」と呼んでいいものでしょう。キリストの福音を携えたある人が、旅の途中で誰かに出会い、そこで福音を伝える、ということが連続して起こっています。

福音が誰かから誰かに手渡される時には、必ずそこには聖霊の働きがあります。一人の信仰者が生まれることは偶然に起こることではなく、私達の知恵や思いを超えた聖霊の働きがそこある、ということを聖書は私達に伝えているのです。私達自身、自分の信仰生活を振り返ると、単なる偶然に思える出会いも、実は聖霊による必然であった、と思わされることはいくつもあるのではないでしょうか。

私たちが今日読んだ場面も、聖霊の導きの不思議さに満ちています。ステファノの殉教をきっかけに、エルサレムで教会に対する迫害が起こり、キリスト者たちはエルサレムから追い散らされました。迫害から逃げた人たちは、逃げながらイエス・キリストの福音を伝えていった、と記されています。

キリストの使徒の一人、フィリポはサマリアに行き、そこでしるしを行い、言葉を語ってイエス・キリストを証しました。フィリポはサマリアでとても重要な働きをした、サマリア伝道の中心人物と言っていいでしょう。

しかしフィリポは、後から来たペトロとヨハネにサマリアでの宣教を任せ、次の宣教の場所へと向かいました。正確に言うと、「主の天使」によっ、新しい場所が示されたのでそこへと向かっていきました。

今日は、サマリアを離れたフィリポの姿を追っていきたいと思います。

主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ降る道に行け」と命じました。聖書には「そこは寂しい道である」と記されています。フィリポにとってそれは唐突で、不可解な導きだったでしょう。聖書を読んでいる我々にとっても、「なぜ、フィリポはそんなところに行かなければならないのだろう」と思わせられます。

フィリポはサマリアでたくさんの人たちをキリストの元へと導きました。サマリアの人たちはフィリポを慕い、キリストを証してくれる使徒として頼りにしていたでしょう。普通に考えると、フィリポはサマリアに留まり福音宣教の業を続けた方がいいのではないだろうか。新しい誰かがサマリアでの宣教活動に入っていくよりは、フィリポがそこに居た方が、効率がいいのではないか。

「どうして自分がそんな寂しい場所に行かなければならないのか。サマリアに、こんなにたくさんのキリストを求める人たちがいるのに」という思いは、フィリポの中にだってあったと思います。

フィリポ自身も、「そこに行け」、と言われただけで、そこで何が自分を待っているのかは知りませんでした。行って見なければ、わかりませんでした。しかし彼は聖霊に従いました。

主の天使は、フィリポを「寂しい」場所へと導きました。たくさん人たちがキリストの福音を待っている場所ではなく、誰もいない、寂しい場所へと導きました。我々人間には予想もしない導きです。

その従いの先で、フィリポは、神がこんな「寂しい場所」で、大切な出会いを用意されていた、ということを知りました。

彼は、主の天使の言葉を信頼し、サマリアを離れ、ガザに向かう寂しい道へと向かい、エルサレムからペリシテのガザへと続く寂しい道で、フィリポは、アフリカのエチオピアからの巡礼者と出会ったのです。

当時の地中海沿岸に住む人たちにとって、エチオピアは「世界の果て」と言っていいような国でした。エチオピアの女王の高官だったその巡礼者は、ユダヤ人が信じるイスラエルの神への信仰を持っていました。その人は、エチオピアからエルサレムまで巡礼し、聖書を読みながら車の中で自分の国へ帰っていたのです。

このエチオピア人との出会いは、フィリポにとっても驚きでした。こんな寂しい場所に、聖書の真理を求める人がやって来たのです。しかも、エルサレムから遠く離れた、アフリカのエチオピアの人で、聖書に証しされているイスラエルの神を求めている人に出会ったのです。

この人は、車の中で聖書を読んでいました。普通は、聖書の言葉を一人で読んだって、よくわからないでしょう。このエチオピア人にとっては外国の神であり、読んでいたイザヤ書は、何百年も昔の言葉です。しかし、それでも彼は聖書の真理を求めていました。

フィリポは、エチオピアの宦官がヘブライ語でイザヤ書を読んでいるのを見て驚き、「読んでいることがお分かりになりますか」と言いました。この人は宦官として女王に仕える人だったので、当然博識な人でした。エチオピア人でありながら、ヘブライ語で書かれた聖書のイザヤ書を読んでいたのです。

当時のユダヤ人は、アラム語を話していました。ユダヤ人でさえ、ヘブライ語をアラム語に直さなければ読めなかったのに、その人はヘブライ語で聖書を読んでいたのです。ものすごい知識人です。

フィリポは、「ここで、読んでいることがお分かりになりますか」と言ったのは、「ヘブライ語がわかりますか」、と言うことではありません。聖書に記されているその預言が、一体何のことを言っているのか、誰のことを預言しているのかわかりますか、と尋ねたのです。。

エチオピア人の宦官は、イザヤ書に書いていることは読めました。ヘブライ語で書かれていても、それを文字としては読むことが出来ました。しかしそれは「ただ、読める」、というだけのことでした。

書かれているイザヤ書の言葉の内容が一体何を指しているのか、誰のことを預言しているのかは、どれだけ読んでも理解できませんでした。

イザヤ書53章は謎に満ちています。そこには、「神の苦難の僕」と呼ばれる人の受難が預言されています。「神はこの僕に全ての罪を背負わせられる」、ということが言われているのです。

誰かが子羊のように殺されてしまう、ということが言われていますが、子羊のように殺されるその人が、一体誰なのか、全く解説されていません。このイザヤの預言の言葉に隠された意味を知りたい、神のご計画を知りたい、と思っているところにフィリポという人が突然現れたのです。

フィリポは、ナザレのイエスという方の十字架と復活をこのエチオピアの宦官に語って聞かせました。何百年も前に語られたイザヤの預言は、自ら苦しみを背負い、自分の命を捨てて人々を罪から救う、受難のメシア、イエス・キリストのことであることを伝えました。宦官はそれを聞いて、イザヤ書の預言を理解しました。

フィリポとエチオピア人の出会いは、エチオピア人がイザヤ書の預言を理解した、というだけでは終わりませんでした。聖霊によって二人が出会わされ、それによって、受洗者が生まれたのです。

このエチオピア人は、イザヤ預言を理解し、信じ、フィリポに言った。

「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」

そして彼はフィリポから洗礼を受けます。

聖書の言葉を読んで、「これは自分に起こったことなのだ」と悟った時、人は洗礼へと導かれます。そして、新しい自分として生きることになるのです。

聖書の言葉、聖書の預言は、理解して終わり、ではありません。人は聖書の言葉が真実である、ということを知った時、「これは自分に起こったことなのだ」と知ります。「イエス・キリストが自分のために死んでくださったのだ」ということを知ることであり、「キリストは復活されて今自分を求めてくださっている」ということを知ることです。

そして、人は洗礼へと導かれるのです。キリストを知らなかった自分に別れを告げ、キリストと共に生きる新しい自分へと生まれ変わります。

使徒パウロは、ローマの信徒たちに、洗礼についてこう書いている。

「我々は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。・・・私たちも新しい命に生きるためなのです」

さて、その後、フィリポとエチオピアの高官はどうなったでしょうか。二人は一緒にエチオピアに行ったのか、というそうではありません。またフィリポは別の場所へと連れ去られました。

そして一人残された宦官は、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。彼には、フィリピとの別れがあった。しかし、それでも、この宦官にとって、エチオピアへと帰っていく旅は、新しい「喜びに満ちた旅」となりました。それは故郷へと戻る旅だったが、同時に、キリスト者として踏み出す新しい出発の旅でもありました。この人にとって人生という旅が全く新しい喜びに満ちたものとなったのです。

キリストを信じて生きることは、私達を日々新しくします。

パウロは手紙の中でこう書いている。

「たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は新たにされていきます。」

神は、サマリアの人たちに慕われたフィリポを、この一人のエチオピア人と出会わせるために、この「寂しい道」へと連れて来られました。フィリポとエチオピアの宦官の出会いは、とても小さな出会いでした。寂しい道での、二人だけの出会いです。

しかし、このことによって、キリストの福音がユダヤの外へと伝わりました。伝説では、この宦官がエチオピアにキリストの福音を伝えた、と言われています。根拠のない話ではないでしょう。それを考えると、フィリポと、エチオピアの高官の、この小さな出会いがどれほど福音の広がりの中で重要な意味を持っていたのか、わかるのではないでしょうか。

この後、フィリポは「アゾトからカイサリアまで行った」、とある。南からユダヤ、サマリア、ガリラヤを抜け、異邦人の土地、外国にまで聖霊によって連れていかれた、ということです。

フィリポは次に自分に何が起こるか、何が与えられるか、何が見せられるのかを知らないままに、ただ聖霊の導きを信じて、自分の身をゆだねました。福音は、人間の計画ではなく、神の不思議なご計画によって、今も、広められています。

キリストは神の国のたとえ話をなさったことがある。

「神の国は、次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」

私たちが知らない間にも、眠っている間にも、種は成長する。私たちがキリストの福音を信じることが出来るのは、自分の思いを超えた大きな導きを目の当たりにするからではないでしょうか。