11月13日の説教要旨

使徒言行禄15:12~21

「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」(15:19)

先週に引き続き、エルサレムの使徒会議の場面を見ていきましょう。

エルサレムのユダヤ人キリスト者が、アンティオキアの異邦人キリスト者たちのところに来て、「あなたがたも割礼を受けなければ、救われない」と言いました。異邦人教会であったアンティオキア教会の人たちは、戸惑ったことでしょう。

「イエス・キリストを信じて洗礼を受けても、割礼を受けていなければ、神に受け入れられていない、ということなのか??」

このことが、エルサレム教会とアンティオキア教会という二つの教会の間に議論を起こしました。宣教旅行の中で、割礼を受けていない異邦人たちにも聖霊が降ったのを見たパウロとバルナバは、キリストを信じることが全てであるということをはっきりさせるためにエルサレム教会へと向かいました。

今の私たちには、なぜ当時のユダヤ人キリスト者たちが「割礼」というものにそこまでこだわったのか、よくわからないのではないでしょうか。

パウロは後に、フィリピの教会に「切り傷に過ぎない割礼をもつ者たちを警戒しなさい」と書き送っています。割礼のことを「切り傷に過ぎない」ものだ、と言っています。私たちにとっても、割礼は「切り傷に過ぎないものである」という感覚ではないでしょういか。

1世紀当時のユダヤ人にとっての割礼がどんな意味を持っていたのか、そしてどれほど大切にしていたのか、その背景をお話しておきたいと思います。

紀元前167年、シリアの王であったアンティオコス・エピファネスがエルサレム神殿から宝を奪っていきました。それだけでなく、ユダヤ人に対して神の教え・律法を捨てるよう命じました。

神の言葉、神の教えである律法・聖書を捨てる、ということはユダヤ人たちにはできませんでした。ユダヤ人は反乱を起こして、エピファネスに勝利します。

このことを通して、ユダヤ人たちの中で「自分たちは神の教えである律法を守った。無割礼の異邦人から守り抜いた」という意識が強く芽生えました。そして「自分たちが割礼を受けている」、ということが重要な意味をもつようになったのです。律法を捨てるよう迫って来た異邦人たちに勝利したことを通して、ユダヤ人にとって割礼が「自分たちと異邦人とを区別するしるし」となっていったのでした。

イエス・キリストやパウロが生きた時代は、そのような意識が強くなっていた時代でした。だから、ユダヤ人キリスト者たちは割礼の有無にこだわって、異邦人キリスト者たちに、「割礼を受けていないのであれば、まだあなたたちはだ偶像礼拝者と変わらない。異邦人のままだ」と言って来たのです。

私たちは、新約聖書を読む際、この時代の教会の中には、ユダヤ人と異邦人との間にいろんな意識の差があった、ということを忘れてはならないのです。

さて、エルサレム教会はパウロとバルナバを迎えて、「割礼を受けていない人は神に受け入れられていないのか」ということが改めて議論になりました。議論の中で、特にユダヤ教のファリサイ派からキリスト者になった人たちが割礼の必要性を主張したことが書かれています。

ファリサイ派の人たちは、神の律法をとにかく忠実に、また厳格に守ろうと生活の中で努力していた人たちでしたので、「割礼のない信仰」は考えられなかったのです。

しかし、議論の中でペトロが立ち上がって、自分が見たことを皆に話すと、全会衆は静かになりました。ペトロは、自分がローマの百人隊長に福音を告げた時に、割礼を受けていないその人の上に神が聖霊を注がれたことを証しました。

ペトロは、「彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」「私たちは主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と言って、神が割礼を受けていない人もご自分の救いへと招かれていることを説きました。

ペトロの言葉を聞いて、会堂は静かになりました。エルサレム教会にいた人たちは言葉を失ったのです。

静まり返ったエルサレム教会の中で、次にパウロとバルナバが、自分たちが見たことを証ししました。二人もペトロと同じように、神が自分たちを通して不思議な業を行われ、割礼を受けていない異邦人たちをそのままご自分の救いへと招かれたことを話しました。

「全会衆は静かになった」とあります。この静けさは、とても大切なものだと思います。この時エルサレム教会に生じた静けさは、神がお創りになった静けさではないでしょうか。自分たちの考えを声高に叫んでいた人たちが、神の御業の証を聞いて、黙らされたのです。そしてその沈黙の中で、神の御業の証が語られたのです。

人々の声が小さくされ、神の御声が大きくされていく・・・これが、教会の中で起こることです。

改めて思わされます。我々は、どれだけたくさんの雑音の中を生きているでしょうか。自分の心の中にはどれだけたくさんの雑音があるでしょうか。私たちは、互いがそれぞれの主張をして譲らないのです。そして自分が正しいと信じているのです。

しかし、神の言葉を聞き、それに従う時には、我々には本当は沈黙・静けさが必要なのです。そしてそのために、神は私たちから不必要な言葉を取り去ってくださり、必要な聖い静けさを与えてくださるのです。

エルサレム教会は、またユダヤ人キリスト者たちは、ペトロとパウロの証を聞いて、神のご計画を知り、新しい一歩へと踏み出すことになりました。

ペトロとパウロとバルナバの証を聞いて、イエス・キリストの弟、ヤコブが口を開きました。ヤコブは、預言者アモスの預言が実現したことを皆に伝えました。

「人々のうちの残った者や、私の名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになる」

イスラエルの神への信仰は、一つの民族の人たちだけのものではありませんでした。後にパウロも手紙の中で書いています。

「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」

アモスは、割礼を受けていない異邦人も皆、神を求める日が来る、という預言を残しました。神は、はるかに時代を超えて、ユダヤ人でない人たち、割礼を受けていない人たちのための信仰への招きの時を備えて来られたのです。

そして今、ヤコブがアモス預言の実現を伝えました。今が、その時だ、と。

ヤコブは、神に立ち返る異邦人キリスト者を悩ませないために、エルサレム教会でいくつかのことを決めました。

割礼を強要しない、ということ。

偶像に備えた動物の肉・血を避けること。

みだらな行いを避けること。

「動物の血を避ける」、というのは、血が命の象徴だったからです。偶像に捧げられた動物の血に近づくということは偶像と命を共有する、ということでした。

エルサレムの使徒会議で決められたことは、どれも大した決定ではないように思えるのではないでしょうか。今の私たちからすると、こんな大きな会議を開いて決定するようなことではなく、少し考えればわかりそうなことばかりに思えるのではないか。

しかし、ユダヤ人と異邦人が共にお一人の神を信じるようになっていく過程で、教会はこのような誠実な議論が積み重ねていきました。そのような誠実な議論の上に、今の私たちの教会があるのです。

私たちは、このエルサレムの使徒会議に出て来た人たちを鏡として、自分の信仰の姿を省みたいと思います。自分こそ正しいと思っていた人たちが、静かに神の御業の証を聞いて、謙遜に新しい一歩を踏み出していきました。

教会生活は、本当は単純なものであるはずです。イエス・キリストの十字架と復活に心を向け、神を信頼して生きることです。神は、預言者アモスを通しておっしゃいました。

「私を求めよ、そして生きよ」

神を求める、それがすなわち私たちにとって生きる、ということです。私たちの教会生活・信仰生活は、そのような、単純で、誰でも理解できるもの、実践できることのはずです。

しかし、私たちはいとも簡単に「信仰だけではだめでないか」、という不安に陥ります。特に、自分に何か不都合があった時、不幸を感じる時、悩みや恐れを抱く時です。「キリストを信頼するだけでは、ダメなのではないか」「自分は本当は神に救われていないのではないか。だからこんなにしんどいことが起こるのではないか」、と心配になるのです。

そのような時にすぐ、神を信頼して生きることに加えて、何か特別なことをしなければならないのではないか、と揺らいでしまいます。

神を礼拝するだけではだめなのでしょうか、神に祈るだけではだめなのでしょうか。

そんなことはありません。「私を求めよ、そして生きよ」と神は預言者を通しておっしゃいました。

神を求める、ということがすなわち、私たちにとって本当の意味で「生きる」ということなのに、その単純なことを人間はすぐに忘れてしまうので、何かがあった時にすぐに「何か特別なことをしなければならない」と焦ってしまうのです。

当時のユダヤ人にとって割礼こそが信仰のしるしであり、割礼こそが律法の象徴でした。そのことで、キリストを信頼することが全である、という単純なことを忘れてしまったのです。

本当に大事なのは、律法が、神の言葉が全体を通して、信仰者に何を求めているのか、ということです。パウロは自分の手紙の中でそのことを記しています。

「人を愛する者は、律法を全うしているのです」

「愛は律法を全うするものです」

「律法全体は、隣人を自分のように愛しなさい、という一句によって全うされるのです」

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」

パウロは、「信仰の律法」、「キリストの律法」という言葉を使っています。神を信じる者に求められているキリストの律法とは、愛、なのです。

私たちは忘れてはならないと思います。私たちの信仰の一番根底にあるものは何でしょうか。それは、インマヌエル、神が私たちと共にいてくださる、という信仰です。

マタイ福音書の最後で、復活されたイエス・キリストが弟子達にガリラヤの山でおっしゃいました。

「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」

私たちにとって、そのことが全てではないでしょうか。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」

主イエスは、「私の元に来る人は、重荷がなくなる」とはおっしゃっていません。なぜ私たちはイエス・キリストの下で休むことが出来るのでしょうか。キリストが共に私たちの重荷を担ってくださるからです。それが、インマヌエルの恵み、「神我らと共にあり」、という恵みです。生きる中で不安や迷いや、問題が何もなくなる、ということではなく、不安や迷いや問題の中にあっても、神が私たちと共にいて、重荷を共に歩んでくださる、ということなのです。

ただイエス・キリストを信じる、という信仰の素朴さをかき乱すものは、割礼や動物以外にも今の私たちの周りにたくさんあるでしょう。私たちは、このエルサレム使徒会議で話し合われたことを他人事と考えることはできません。

主イエスは神にこう祈られました。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のようなものにお示しになりました。」

我々信仰者にとって、一番大切なことは、幼子のように神を求め、キリストを慕い続ける、ということではないでしょうか。本当に恐れるべきことは、神に対して、キリストに対して、私たちが幼子の心を失ってしまうことです。いつでも、ただ神を素朴に信頼して生きるということを大切にしていきたいと思います。