3月17日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:31~36

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」

今日読んだ言葉は、誰が話している言葉なのかがよくわからない言葉です。普通に読むと、27節から続く洗礼者ヨハネの言葉のように読めます。しかし、聖書が書かれた時代にはカギカッコはありませんでした。聖書の原文では、どこまでがヨハネの言葉のか、という区切りははっきりしないのです。

聖書学者の中でも意見が分かれていて、「これは洗礼者ヨハネの言葉だ」と言う人もいれば、「これは福音書を書いたヨハネによる説明の言葉だ」と言う人もいれば、「これはイエス・キリストご自身の言葉として読むべきだ」という人もいます。

これが一体誰の言葉なのか、ということははっきりしませんが、それ以上に大切なことは、今日私たちが読んだこの言葉が、イエス・キリストのことを証ししている、ということ。そして、キリストに対して私達がどうあるべきか、ということを直接私達に訴えていることです。

31節「上から来られる方は、全てのものの上におられる」

これはイエス・キリストのことを指しています。この福音書の初めの1章で言われているように、キリストが「上から来られた方・天から来られた方」であることを改めて強調しています。その「上から来られる方」が、「地に属する者」のために天から地上に来てくださり、天にいらっしゃる神を証ししてくださる、と1章のキリスト証言を繰り返しているのです。

今日読んだ言葉の前半部分では、天から来られた方に対して、地に属する私たちがどう向き合うべきなのか、ということが言われています。

32節では、キリストがおっしゃることを、「この世の人々は誰も受け入れない」と言われています。これも、1章で言われていることの繰り返しです。

「暗闇は光を理解しなかった」

「言葉はご自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

ここを読んで、私たちは主イエスとニコデモの会話を思い出すのではないでしょうか。ニコデモは、主イエスに向かって、「あなたは神の元から来られた教師です」と言いました。「この方には何かある。この方は特別な方だ」と、ニコデモはイエスという方に大きな期待を抱いてやってきました。

しかし、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と主イエスから言われると「どうしてそんなことができましょうか」と理解することが出来ませんでした。

天から来られたキリストが「霊の言葉」を聞かせても、地に属するニコデモは「どうしてそんなことができるでしょうか。どうしてそんなことがあるでしょうか」と繰り返すのです。

ニコデモは主イエスのことを「あなたは神の元から来られた教師です」と言ってはいますが、本当に「神の元から来られた方」であると信じ切ることはできませんでした。主イエスがおっしゃることを何も理解できないまま、頭の中にいろんな疑問を抱いたまま、主イエスの元から去って行きました。

ニコデモは、キリストの言葉を聞き理解するための前提を持っていませんでした。それは、「この方は本当に天から来られた神の子である、天の言葉を伝えてくださるキリストである」ということです。それが無ければ、主イエスの業も、言葉も、あの夜のニコデモのように、なんだかよくわからないものとして終わってしまうでしょう。

今でも、イエス・キリストのことを、知っている人はたくさんいます。しかし、一体どれだけの人が、キリストのことを本当に知っているでしょうか。本当に知ろうとしているでしょうか。「人々に愛を伝えて、最後に十字架にかけられて殺された、歴史上の偉人」というように考えている人は多いのでしょうか。どれだけの人が、「過去の偉人」としてではなく、「天から来られ、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、復活して永遠の命に至る道を拓いてくださり、今も私たちに聖霊を拭き注いでくださっている方」として見ることができているでしょうか。

主イエスはニコデモに「上から新たに生まれなければならない、水と霊とによって新たに生まれなければならない」と言われました。なぜ私たちは洗礼によって新たに上から生まれなければならないのでしょうか。

洗礼を受けて、そこから本当の意味でイエス・キリストを知ることが始まるからです。私達はキリストを全て理解して、洗礼を受けるのではありません。キリストを知りたいから、キリストを少しでも理解したいから洗礼を受けるのです。聖霊の注ぎ、聖霊の交わりを通して、キリストを知って行くことになります。

私たちは教科書を読んで理解するような仕方でキリストを知っていくのではありません。生きることを共にすることで知って行くのです。

34節 「神がおつかわしになった方は、神の言葉を話される」

これがイエス・キリストの地上での使命でした。キリストがこの地上で私達にお伝えになったことは、地上に生きる私達が自分たちで見聞きすることのできない天のことです。

主イエスはニコデモにおっしゃいました。

「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り見たことを証ししているのに、あなた方は私たちの証を受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば。天上のことを話したところでどうして信じるだろう。」

キリストには苦しみがありました。地上にいる人たちは、地上のことにしか目を向けていませんでした。だから天上のことをどれだけ話して聞かせ、奇跡を見せても、信じようとしませんでした。

この後の7:28を見ると、主イエスはエルサレムの人々に向かって大声で叫んでいらっしゃいます。

「あなたたちは私のことを知っており、また、どこの出身かも知っている。私は自分勝手に来たのではない。わたしを遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私を遣わしになったのである」

また、8:26以下にはこんなユダヤ人たちと主イエスのやりとりが記されています。

「あなたは一体どなたですか」とユダヤ人たちが主イエスに尋ねて来ました。

「それは初めから話しているではないか。あなた達については言うべき事、裁くべきことがたくさんある。しかし私を遣わしになった方は真実であり私はその方から聞いたことを世に向かって話している」と主イエスはお答えになります。

福音書はユダヤ人たちについてこう記しています。「彼らはイエスが御父について話されていることを悟らなかった」

主イエスがニコデモにおっしゃったように、神は風を吹かせるように、霊を吹かせていらっしゃいます。自分に向かって吹いてくる霊の音に、どれだけ耳をすませるか、ということが、私達の信仰の姿勢でしょう。

自分の知識で、この世の知恵で神を知ることはできません。

使徒パウロは、手紙の中で書いています。

「神は世の知恵を愚かなものにされた・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています・・・神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました」

一体だれが、神を知り、神を信じることができるのでしょうか。この世の知恵や知識に優れた人だからキリスト者になれるのでしょうか。そうではありません。逆です。この世の知恵・知識ではどうにもならない苦しみを知り、自分の無力さに絶望した時にこそ、祈りの中で神の招きの言葉を聞くことが出来るのです。

神にすがる人のことを、世の人は「弱い人」だと言うでしょう。実際、そうなのです。キリスト者というのは、神を知らず生きる自分がどれだけ弱いのか、どれだけもろいのか、ということを知っている人たちのことでしょう。

低くされた魂をもって祈り、聖書の言葉に向き合う時、イエス・キリストの声は私たちに届くのです。

キリストは十字架の死に至るまで、天の招きを伝え続けられました。

「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。人を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく御子によって世が救われるためである」3:16

最後に36節を見ます。

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」

もし人がキリストの伸ばしてくださった救いの御手を振り払ったとしたらどうでしょうか。私たち人間にはいつでも、神の招きを受け入れる自由と、神に背を向ける自由があります。

聖書は、御自分から離れてしまった人間を神が取り戻そうと御手を伸ばしてこられた、救いの歴史が書かれています。神による救いの歴史である、ということは、人間がその救いの御手に対して背を向けて来た罪の歴史でもある、ということです。

聖書に書かれている「神は愛なり」という言葉を聞いて、「自分は何をしても神に許される」と誤解してしまうと大変なことになります。人間が何をしても神は許してくださる、という甘い救いが書かれているのではありません。

聖書はイスラエルが経験して来た滅びを記録しています。それは、人間が神の救い、神の招きに対してどんなに鈍感で、自分の欲に飲み込まれてしまい、神に背を向けた歩みを続け自分で滅びに陥って来たか、という人間の罪の歴史です。

神がおつかわしになる預言者たちに背を向けて、やりたいようにやって国が亡ぶことになったイスラエルの姿を通して、聖書の語り部たちは私たちに訴えるのです。

「これを繰り返してはいけない」

出エジプトを終えてこれから約束の地に入ろうとするイスラエルに、モーセは神の言葉を告げた。

「見よ、私は今日あなた達の前に祝福と呪いを置く。あなたたちは今日、私が命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もしあなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、私が命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば呪いを受ける」申命記11:26

36節の言葉は、イエスキリストを拒絶することは神の怒りに通ずるとはっきり書かれています。

神の裁きとか、神の怒りとか聞くと、すぐに神について恐怖政治を行う暴君のように捉えてしまう人もいますが、決してそうではありません。「神は、その独り子をお与えになったほど、世を愛された」と書かれている通りです。

神は人間が暗闇の中で滅びないように独り子を送って下さいました。この世をご自分の光のうちに留めようとしてくださいました。その招きのための神の言葉が、イエス・キリストでした。もし神が光へと招いてくださっているのに私たちが、イエスキリストに背を向けるのであれば暗闇以外他に何が待っているでしょうか。

ヘブライ人への手紙

10:26「もし、私たちが真理の知識を受けたのちにも故意に罪を犯し続けるとすれば、罪の為の生贄はもはや残っていません」

12:25「あなた方は、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし地上で神のみ旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天からみ旨を告げる方に背を向ける私たちは、尚更そうではありませんか」

私たちは、いつでも、キリストから離れるぎりぎりのところを生きている、ということを忘れてはならないのです。受難節を過ごしている私達に、大きな警告が与えられています。