5月26日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:19~30

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声と聴く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5:25)

ユダヤ人たちがナザレのイエスに対する敵意を抱くようになり、その敵意が殺意へと深まっていった、という場面を読んでいます。安息日であったにも関わらず癒しを行い、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と告げたイエスのことを、ユダヤ人たちは律法の言葉に反する危険人物として見るようになりました。安息日は、仕事の手を休めて神を礼拝すべき聖なる時であるはずなのです。

そのユダヤ人たちに対して、主イエスは「私の父は安息日も働いていらっしゃる」とおっしゃいました。その言葉が更にユダヤ人たちの敵意を深めることになりました。自分が神と同等の権威を持っているように振舞い、まるで自分が神であるかのようなものの言い方をしたからです。

今日私達が読んだのは、主イエスがはっきりと御自分と神との関係を語られた場面です。この福音書の中で最も明瞭にキリストがご自身と神との関係を語られた言葉ではないかと思います。

何の権威で神殿から商人を追い出すようなことをされたのか、なぜニコデモやサマリア人の女性に、あんなにもはっきりと永遠の命について語ることがおできになったのか・・・この主イエスの言葉を読めばわかります。

御自分が何者であるか、御自分の権威の源がどこにあるのか、ということをお話しなさっています。それだけでなく、この世でなさっている御業の意味、またこの世の終わりに何が待っているのか、ということまで明らかになさっています。

私達は、このキリストの言葉を通して、キリストと共に生きる自分たちの今がどこに向かっているのか、何に向かっているのか、キリストが今を生きる私たちに何を約束してくださっているのか、ということを知るのです。改めて、世の終わりから、自分たちが生きている今という時を見つめなおしていきたいと思います。

キリストはガリラヤで、王の役人の息子を癒されました。続けて、エルサレムのベトザタの池では病人を癒されました。キリストの癒しは、ただ御自分が持つ奇跡の力を見せびらかすためのものではありませんでした。ただ、人として良いことをした、というだけのことでもありませんでした。

キリストが誰かを癒されたその癒しには、癒された人にとってだけでなく、この世の全ての人にとって大きな意味があったのです。旧約聖書を見ると、神から力を託された預言者たちが、誰かを癒したり命を与えたりしています。預言者が行う、ということは、神が行われる、ということでした。

預言者サムエルの母ハンナが祈りの中でこう言っている。

「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」サムエル記上 2:6

我々人間の命、人間の存在はまるごと神の御手の内に置かれている、という信仰が祈られています。人は命の作ってくださった創造主の御手の内にあることを歌っています。

キリストはユダヤ人たちにおっしゃいました。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」

「神がそうなさるように、私もそうする」、という言い方です。キリストが誰かを癒されたということは、神がその人を癒された、ということなのです。そしてそのことは、神が愛を持ってこの世に御手を伸ばしていらっしゃる、ということを世に示す大きなメッセージでした。

主イエスは25節で、人々が目撃した奇跡の意味をお教えになっています。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聴いたものは生きる」

主イエスが誰かを癒された、ということは、「来ると言われていた時が来た」ということなのです。

主イエスは最初のしるしを行われたカナの婚礼で、「私の時」という言葉をつかわれました。母マリアが「婚礼の葡萄酒が無くなりました」と言ってきた時、「私の時はまだ来ていません」とおっしゃっています。

イエス・キリストの時とはいつのことなのでしょうか。その「時」を見極めることが、私たちの信仰の中で大切なことであるようです。

主イエスはサマリア人の女性に、おっしゃいました。

「婦人よ、私を信じなさい。あなた方がこの山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る・・・今がその時である」

主イエスは「霊と真理をもって礼拝する時」が来た、とおっしゃいました。そしてその「霊と真理をもって礼拝する時」は、主イエスご自身の十字架という罪の許しの御業によってもたらされることになるのです。

キリストが行われる奇跡を通して私たちは何が見せられているのでしょうか。「真の礼拝の時が迫っている」、ということだ。一つ一つの奇跡の御業が、十字架への秒読みとなり、伏線となっているのです。

聖書はただ、「この人には不思議な力があったのだ」ということを伝えているのではありません。私たちが生きている「時」がどういう時なのかを伝えようとしているのです。そして今、私たちは真の礼拝の時が来た時代を生きている、ということを知るのです。

聖書を読みながら、私達自身、キリストの御業に何を見出しているでしょうか。

「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」19節

この言葉を聞くと、主イエスは無力な方のように思えます。しかしそうではありません。ご自身がなさることは、全て神の御業であるということを示されているのです。ヨハネ福音書の中で、主イエスは神のことを100回以上「父」と呼ばれています。そしてご自身のことを「子」という言葉で約50回おっしゃっています。

イエス・キリストと神の関係は同一なのです。私たちはイエス・キリストの言葉を神の言葉として聞き、キリストの御業に神の働きを見ます。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」21節

命をつかさどる神が、世に来られました。それが、イエス・キリストです。キリストは神として、復活の命、永遠の命へと世の全ての人を招こうとなさっています。「時」は来ています。復活という神秘は、現実に起こることであり、私たちが生きる今はそこに向かって生きている今であることを聖書は証ししているのです。

キリストは救いを求める人に、必要な時と必要な場所を備えて出会い、救いの言葉をくださいます。王の役人の祈りに、ベトザタの池で救いを求める人の訴えに、キリストは寄り添われました。

もし我々がキリストに救いを求めていなかったとしたらどうでしょうか。キリストを拒絶するということは、キリストを世にお遣わしになった神を退けるということでもあるのです。

この世の終わりに起こることは神秘です。聖書を読むと、今の私たちにとっては、「本当にこんなことが起こるのだろうか」と不思議に思うような、世の終わりの様子が描かれています。今まで誰も見たことのない光景が記されています。

聖書が「世の終わりにはこうなる」と示していることについては、我々は信じるか信じないか、どちらかしかありません。

私たち今地上に生きる人間の一番の憂いは、死ぬ、ということです。そして、「死ぬ」ということは全ての終わりなのかどうか、ということです。自分が死んだら、その後はどうなるのか。自分は、家族は、どうなるのか。愛する人とのつながりはどうなってしまうのか。聖書はその我々の憂いに答えてくれています。

使徒パウロはこう言っている。

「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと。また、聖書に書いてある通り3日目に復活したこと、ケファに現れその後、12人に現れたことです」1コリ15章

パウロは、キリストに起こった受難、復活を「聖書に書いてある通りに」起こったことだ、と繰り返して強調しています。それは、神のご計画でした。長い歴史の中で神は人間を取り戻そうと招きを続けて来られました。それは神が預言者を通して語られ、その言葉が聖書として残されて、今も私たちに伝えられている、とパウロは言います。私たちの信仰は、私たちの命は、肉体の死で終わるものではありません。それも神のご計画です。

その聖書の証言を、私達が退けたとしたらどうでしょうか。私達が絶望の中、祈ることを止めたとしたらどうなるのでしょうか。

「もし、私たちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです」ヘブライ人への手紙10:26

我々にとって、生きる中で問われる究極の選択は、キリストか、キリストでないか、ということです。キリストを信じるか、信じないか、ということです。

この世を終わらせる方が その世の終わりに何が起こるのかということを前もって教えてくださいました。

「驚いてはならない。時が来ると墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」28節

私たちは、自分が生きている今をどう捉えているでしょうか。我々の今は、ただ漫然と過ぎて行く今ではない、と聖書は訴えています。私達の今は、世の終わりへと向かっている今なのです。復活へと向かう今なのです。自分の肉体の死のはるか先までキリストは道を示してくださいました。

復活に至るまでには、「老いる」ということがあり、「死ぬ」、ということがあります。成功や失敗に泣いたり笑ったりします。退屈を覚えたり、忙しさの中で自分を見失いかけたりします。いろんな人生の営みの全てが復活へと向かっている、とキリストは希望を示してくださるのです。

我々にとって生きることは永遠の命を受ける希望につながっているのか、それとも、裁きを受ける絶望につながっているのか・・・私達はキリストの言葉から考えたいと思います。

キリストは、私たちの今は、復活の希望への秒読みであることを教えてくださいました。そのことは、我々肉体の死を迎える者にとっては究極の希望となるでしょう。そして同時に、今をどう過ごすべきか、ということを恐れをもって考えなければならなくなるでしょう。

「今さえよければいい」「食べたり飲んだりして楽しもう」というだけの一瞬の快楽を積み重ねることでは人は満たされないのです。自分が生きる今が確かにキリストと共に座る宴に向かっていることを知った時、私達は全てのことに意味を見出すことができるのです。

復活と裁きが待っている世の終わりに向かっている今は、我々にとって全てが信仰の試練となるでしょう。しかし、試練の先に、天に積まれた富があることを知っていれば、我々の今は希望で満たされるのです。キリストが世の終わりに、墓の中で眠る我々に「起きよ」と声をかけてくださる時、我々は喜びをもってはずんだ声で答えたいと思います。