マルコ福音書9:42~50

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ福音書9;49~50)

エルサレムへの旅の途中、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」という議論をしていた弟子達に、主イエスは「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」とおっしゃいました。

神の前に子供のような人、神に対して水一杯を差し出すような人・・・そのような小さな信仰者の信仰を傷つけてはいけないことを教えるために、主イエスはとても厳しい言葉をつかわれています。「誰かの信仰を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。片方の手があなたを躓かせるなら、切り捨ててしまいなさい。足も、目も同じだ」。

主イエスがこれほど激しい言葉を使っていらっしゃるということは、この時弟子達の心を支配していた「自分は他の人よりも偉い」という思いはそれだけ危険なものであったということでしょう。

誰かを「躓かせる」とは、「誰かの信仰を傷つける・誰かのキリストへの思いをなくさせる」ということです。主イエスがここでおっしゃっているのは、この世の誘惑や迫害という外からもたらされる躓きではありません。教会が内側に抱えている躓き、信仰者同士の間にある躓きです。

12弟子が「12人の中で誰が一番偉いのか」とか、「自分たちはイエス様に近い弟子だから他の人たちよりも偉いだろう」と考えていたことは、私達にとって決して他人事ではありません。

パウロの手紙を見ると、実際に1世紀のコリント教会の中で「私はパウロにつく、私はアポロに付く、私はペトロにつく」などという派閥争いがあったことが書かれています(1コリ1章)。パウロは、「教会はキリストの体だ」と書いてコリント教会の人たちを戒めました。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体の全ての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(1コリ12章)

キリスト信仰者同士が、争いあい、互いの信仰を傷つけあうことほど愚かなことはありません。それは自分の体の右手と左手が喧嘩をするようなものです。右手と左手が喧嘩をして傷つけあっても、同じ体なのだから、相手に与えた傷は自分の痛みとなります。そしてそれは、体全体の痛みとなるのです。

私達の一体何が、誰かの信仰を傷つけてしまうのでしょうか。主イエスはここで「あなたの、手、足、目が人を躓かせるなら」とおっしゃっています。それはつまり、私達が持っている全てのもの、ということでしょう。私達は自分が持っている全てのものを用いて、誰かの信仰を傷つけてしまう弱さ抱えているのです。

ヤコブの手紙にはこう書かれています。

「ごらんなさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「『不義の世界』です。私達の体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・私達は舌で、父である主イエスを賛美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙3章)。私達は自分の言葉一つで、誰かをキリストから引き離してしまう刃を秘めているのです。

パウロやヤコブの手紙にこれらのような言葉が残っているということは、1世紀の教会の中にはいつもこういう問題が起こっていた、ということでしょう。1世紀の教会には、特別に悪い人たちが集まっていたのでしょうか。そんなことはありません。そこに集まっていた人たちは皆普通の人たちであり、純粋にイエス・キリストを求めていた人たちです。今の教会の中にも「躓き」の刃は日常的に潜んでいます。だからこそ、キリストはここまで厳しい言葉で私達に警告の言葉を残していらっしゃるのです。

さて、主イエスは、49~50節で意味深なことをおっしゃっています。

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は、良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなた方は何によって塩に味をつけるのか」

「火」は、聖書の中で、金属の中から不純物を取り除くものとして書かれています(マラキ3章)。「塩」は、旧約聖書のレビ記では、神への捧げものを清めるものとして言われています(レビ記2章)。

主イエスは弟子達のことを「精錬され不純物が取り除かれた神への聖い捧げもの」としてお考えになっているのでしょう。パウロも、ロマ12章で書いています。「兄弟たち、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

「人は皆、火で塩味を付けられる」・・・私達信仰者は、信仰の試練を通して強められていく、ということです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない・・・霊の父は私達の益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです」(ヘブ12章)

「塩」にはもう一つの意味があります。ユダヤ教の教師たちは、塩を、知恵の比喩として用いました。パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と書いています(コロ4:5~6)。キリストに従う人は、塩味の聞いた言葉(神の国の知恵)を語り、塩味のきいた生活(神の国を求める信仰生活)を送ることが求められているのです。

そう言われると「自分には難しい」と身構えてしまうかもしれませんが、そんなに難しいことではないはずです。神学をたくさん勉強して難しいことを言わなければならない、ということではありません。ただ、キリストに救われて自分の今があること、キリストによって今生かされていることをわきまえて日々を過ごす、ということです。

主イエスは最後に、「互いに平和に過ごしなさい」と弟子達にお命じになりました。「誰が一番偉いのか」という弟子達の議論に対する結論はこれです。誰が一番偉いのかを決めるのが私達の信仰ではありません。「互いに平和に過ごしなさい」というキリストのご命令は、言葉にすれば簡単なことですが、実はこれこそ人間的な弱さを持つ私達にとって一番忍耐のいる信仰の業であり、祈りながら乗り越えて行かなければならない試練ではないでしょうか。