12月19日の説教要旨

ルカ福音書2:8~21

「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」

私たちは普段、この世界がどうしてできたのか、この世界にどんな意味があるのか、ということを考えず、自分が置かれている日常を過ごしていると思います。これは、何も、聖書を知らない人たちだけのことではありません。聖書を読み、キリストを信じるクリスチャンでも、普段は考えることをせず、そのようなことは忘れて過ごしているではないでしょうか。

もちろんそれは、自分たちの日常が平穏である、ということであって、何も悪いことではありません。しかし、この世界がどこに向かっているのか、また、この世界に自分という命が生きていることの不思議を嫌でも考えさせられる時が与えられることがあります。もっと、単純な言葉で言うと、「立ち止まる時」を与えられることがあります。クリスマスは、まさにそのような時でしょう。

なぜ世界中で「救い主がお生まれになった」ということを祝い、インマヌエル・「神我らと共にあり」というということを喜ぶのか・・・人間はなぜ、イエス・キリストという方の誕生を2千年も記憶してきたのか・・・なぜこの方が世にお生まれになったことを忘れてはいけないのか・・・。私たちには、忘れてはならないことがあるのです。

イエス・キリストを通して知らなければならないこと、忘れてはならないものがあります。それは、神を知り、神を思い、神を求めて生きる道です。今こうして私たちがクリスマス礼拝を捧げることができているということがどれほど大きな恵みであるのか、かみしめつつ聖書の言葉を見ていきましょう。

聖書は、この世界が神によって造られ、私たち人間の命も神によって造られたことを記しています。そして、人間がそのことをすぐに忘れてしまう、ということも書いています

ご自分がなさろうとすること、ご自分のご計画を人間が気付かなかったり、誤解したりすることのないように、神はいつでもご自分がなさろうとすることを前もって知らせてくださいます。

キリストがお生まれになる前の、旧約の時代には預言者が送られました。預言者たちは、救い主・メシアの誕生を預言してきました。すべての人を神の元へと連れ戻す、イスラエルの羊飼いが生まれる、という預言です。

そして今から2000年前、ベツレヘムという小さな町のはずれで、夜、羊の番をしていた羊飼いたちに、天使が神の言葉が告げられました。預言者たちがその誕生を預言していたメシアが、ベツレヘムの家畜小屋の中でお生まれになった、という言葉が与えられたのです。

その時のことを記しているのが、今日私たちが読んだところです。羊飼いたちの周りを、神の栄光の光が照らしました。それは、大きな光ではありませんでした。全世界を照らしたとか、その地域全体を照らしたとかいうものではなく、それは数人の羊飼いたちの周りだけを照らし、数人の羊飼いたちだけに示された小さな光でした。

私たちはまずこのことを不思議に思うのではないでしょうか。神のご計画というのは、いつもこのようにわずかな人にだけ知らされるのです。預言者が一人選ばれ神の言葉を伝えたように、キリストの誕生はこの夜、数人の羊飼いたちだけに知らされました。

神がこの世界にお与えになったこの小さな光は、やがて羊飼いを通して、キリストの弟子達を通して、教会を通して、全世界へと広がっていくことになります。

天使は言いました。

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

羊飼いたちは、ほんの一分前まで、自分たちに天使から言葉が告げられるなどとは考えてもいませんでした。メシアの誕生を知ることになるなどとは思ってもいなかったのです。

神の言葉を聞いた人は、その人生が変えられます。一瞬にして変えられます。聖書には、神の言葉を聞かされた人がたくさん出てきますが、どの人も、神の言葉を聞くことでその後の人生が変えられています。誰一人として、神の言葉を聞いて、何も人生が変わらなかった、という人はいません。神の言葉を聞く前には考えもしなかった人生を生き始めます。

この羊飼いたちもそうでした。彼らはメシアの誕生を確かめるべく、羊をおいてイエス・キリストがお生まれになった場所を探しに出かけました。そして、自分たちに告げられた言葉が本当であることを知ります。彼らは主イエスの母マリアと父ヨセフに、自分たちがどのようにしてメシアの誕生を知り、探し当てたのか、ということを全て話しました。

そして羊飼いたちは羊たちの元へと帰っていきました。羊飼いたちは、「讃美して帰っていった」、とあります。天使たちが羊飼いたちにメシアの誕生を告げたとき、天の軍勢の讃美の声を聴きましたが、その天の軍勢の讃美が、そのまま羊飼いたちの讃美となりました。

羊飼いたちはまた羊のところへと戻りました。恐らく、その後も同じように羊の群れの番をする生活を続けたのでしょう。しかし、その生活は、キリストの誕生を知る前と後では全く違ったものになったでしょう。

キリストを知らなかった生活からキリストを知った生活へと変わったのです。彼らは、この日を境にキリストの証人としての歩みを始めることになりました。毎日生活の中でやることは何一つ変わらなかったかもしれません。しかしキリストを知る者としての人生を、この日を境に生きることになったのです。それは、讃美の生活であり、祈りの生活です。神が自分たちにメシアの誕生を教えてくださった、神は自分たちと共にいてくださる、ということを知った人生になりました。

ここに、クリスマスの喜びがあります。キリストが世に来られた、という喜びに加えて、キリストが世に来られたことを神が私たちに教えてくださった、告げてくださった、ということです。

私たちの知らないところで御子はお生まれになったのではありません。神は確かに、ご自分の救いのご計画を進めていらっしゃることを世にお示しになりました。私たちにとって、神は、どこかで何かをなさっている神ではないのです。神の方から私たちに近づき、私たちにご自分の御心を示してくださる、そのような神です。

神の御声を聞いた時、私たちの人生の意味は大きく変わります。昨日までの自分とは違う自分になっています。イエス・キリストの証人とされるのです。

主イエスの母マリアは、羊飼いたちが、自分たちを探してやってきたことに驚いきました。これまで、マリアには不思議なことが立て続けに起こっていたのです。「あなたは赤ちゃんを産む」と天使から告げられ、聖霊によって身ごもりました。そしてベツレヘムの家畜小屋の中で赤ちゃんを産むと、羊飼いたちがやってきて、「天使からここにメシアが生まれた、と聞きました」と言われます。自分の身に起こる不思議な出来事をマリアは理解できずにいました。

しかし、聖書は、マリアがその不思議な出来事を「心にとめて思いをめぐらした」、と書いている。自分に次々と起こる不思議について考えても、マリア一人では意味が分かるものではありませんでした。それでもマリアは「自分に起こっていることは何なのだろう、神がご計画なさっているのは何だろう」と、思いを秘め、その思いを巡らしていた、というのです。

今日、私たちは、讃美の声を上げながら、キリストの証人としての新しい道を歩み始めた羊飼いたちの姿と、自分に起こることの不思議を自分の中で静かに思いめぐらせるマリアの姿を心に留めたいと思います。

クリスマスは皆でお祝いする喜びがあります。教会で皆で讃美歌を歌い、聖書の言葉を分かちあうような喜びです。

そして、もう一つ、キリストがお生まれになったことで自分一人だけに静かに与えられた喜びもあるのです。クリスマスの、自分だけにわかる喜びが、それぞれにあるはずです。

羊飼いたちのように、皆と一緒に、そしてマリアのように、自分の心の内でキリストのご降誕の喜びをかみしめたいと思います。昔、羊飼いを照らした小さな光は今、全世界へと広がりました。マリアが思い巡らした不思議は、聖書に明らかに記され、私たちに与えられました。

神は、私たちを迎えに、ここまで来てくださいました。今、神と共に生きる命へと招かれています。