06月27日の説教要旨

マルコ福音書11:1~11

 「もしだれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」(11:3)

ついに主イエスのエルサレムへの旅が終りました。これから私達は、エルサレムに到着し、入場されたイエス・キリストのお姿を見ていくことになります。そしてそれはイエス・キリストの最後の7日間のお姿ということになります。

主イエスがエルサレムに入場されたのは日曜日でした。この日から、ちょうど一週間後の日曜日の朝、過越祭の中で子羊が屠られる時間に、主は十字架に上げられて殺されることになります。

いつ、なんのために主イエスがエルサレムに来られたのか、ということを踏まえて、これからキリストの最後の七日間を見ていきたいと思います。

主イエスがエルサレムへと旅をされたのは、過越祭に参加するためでした。

過越祭は、イスラエルが昔、エジプトでの奴隷生活から神によって救いだされたことを記念する祭りです。エジプトから脱出する夜、イスラエルの人たちは、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神の裁きは子羊の血を塗ったイスラエルの家を過越し、エジプトを打ちました。

神の裁きの過越しによって自分たちの先祖がエジプトから救いだされた、という解放を記念するための祭りです。ユダヤ人にとってとても大切な祭りでしたので、この時期、エルサレムには世界中からユダヤ人たちが巡礼に来ていました。過越祭の前後1~2週間は、エルサレムには大勢の巡礼者が訪れるため、普段の人口の6倍になったと言われています。

大勢のユダヤ人が世界中から巡礼にやって来て集まり、外国の支配からの救いを記念する祭りを祝うのですから、ユダヤのナショナリズム・愛国主義が高まる時でもありました。ローマによる支配に対する反感が高まる時期であった、ということです。

そのため、この時期にはユダヤを占領していたローマ軍は、ユダヤ人たちが暴動を起こさないように警戒を強めていました。ユダヤ人の指導者たちも、ローマとのささいな衝突から反乱や戦争という大きな問題が起きないように、神経をつかっていました。

そのような中、「この方は預言者ではないか」と人々から期待されていたナザレのイエスが、ガリラヤからの巡礼者たちと共にエルサレムの都に入場してきたのです。ユダヤ人指導者たちからすれば、このイエスという人は、要注意人物でした。人々がナザレのイエスを担ぎ上げるようなことが無いように、イエスには、目立つことをしてほしくなかったのです。

当然、これからエルサレムの町の中で、主イエスとユダヤ人指導者たちとの間には緊張が高まっていくことになります。

さて、まず主イエスがどのようにエルサレムに入って行かれたか、ということを見ましょう。主イエスはベタニアという村に宿を取られた。ここは、エルサレムから3キロメートルほどのところにある村で、過越祭の巡礼者たちは、ここに宿をとってエルサレムに通っていました。

主イエスは、この最後の3キロメートルを、ご自分の足で歩いて、ではなく、弟子達にロバを借りて来させ、自分の服をロバの上にかけ、それに乗って入ってエルサレムに入場されました。

なぜそんなことをなさったのでしょうか。ガリラヤからここまで長く旅を続けてきて、最後の最後で疲れてしまったからでしょうか。

もちろん、そうではありません。これこそ、エルサレムの王の入場の姿でした。

旧約聖書のゼカリヤ書に、神が王としてエルサレムに来られる、という預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ロバの子であるロバに乗って。私はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は断たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海は、大河から地の果てにまで及ぶ」

主イエスのエルサレム入場のお姿は、ゼカリア書に預言されているエルサレムの王、ダビデの子そのものそののです。ついにメシアがエルサレムに来たのです。

ガリラヤからの巡礼者たちは主イエスがなさることを見て、不審に思ったのではないでしょうか。主イエスは、エルサレムへの旅の初めに、弟子達にお尋ねになりました。「あなたがたは、私を何者だと言うのか」

弟子達は、そして人々は、ここでロバに乗ってエルサレムに入られる主イエスのお姿から問われことになります。

エルサレムに子ロバに乗って入場する私を見て、あなたは、私を何者だと言うか。」

子ロバに乗ってエルサレムに入場する、という、一見奇妙な主イエスの行動ですが、私達はゼカリヤの預言の実現を見ます。「エルサレムの王が来る、子ロバに乗って。王は戦車も武器もなくし、平和をもたらす」

何百年もの時を超えて、ゼカリヤの預言が実現しました。弟子達は主イエスの言葉通りに、ロバを探しに行くと、そこロバがいました。そしてそこにいた人たちに主イエスから言われたように伝えると、ロバを貸してくれました。

全て、主イエスがおっしゃった通りに物事が進んで行きます。決して偶然ではありません。全て、神のご計画でした。この弟子達と、ロバの持ち主との小さな会話まで、神は何百年も前から預言者の口を通してご準備されていたのです。

イエス・キリストがエルサレムにロバに乗って入場された姿というのは、滑稽だったと思います。普通、王様というのは、立派な馬に乗って兵隊を引き連れて、威厳をもって自分の城に入場するのです。

しかしイエス・キリストという王様は、小さなロバに乗って、とぼとぼとエルサレムに入って行かれます。とても強そうには見えません。弱く、低く、柔和で謙遜な王としてエルサレムに入られました。この方はイスラエルに軍事的な強さをもたらす救い主ではありませんでした。ゼカリアが預言していた、「平和の王」の姿です。

預言者ゼカリヤは、その王によってもたらされる救いについて、こう預言しています。「万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、10人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ』。」

キリストがこの世にもたらしてくださったのは、全ての人が本当の神を知って生きるという平和でした。ゼカリヤ書には、このような預言がある。

「人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。」

「私は、彼らを憐れむゆえにつれ戻す」

「私は彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」

イスラエルの民衆は、指導者たちの間違った導きによって神を見失い、羊飼いを見失った羊のようになってしまっていました。神はその民を憐れんで、ご自分の下に連れ戻す、と預言者の口を通して約束されていたのです。

これから7日間、人々はエルサレムで主イエスのお姿を見ていることになります。人々は、これから一週間かけて、「この方を何者だと言うのか」という問いに向き合うことになるのです。

ガリラヤからの巡礼者たちは、主イエスの一緒にエルサレムに入場しました。主イエスの前を行く人たち、後ろに従う人たちがいた、と書かれています。ガリラヤから来た巡礼者たちだった。

この人たちは、主イエスのことを「ダビデの子にホサナ」と言って讃えています。この人たちは、エリコの町で主イエスに向かって「ダビデの子よ」と叫んだ盲人バルティマイが癒されるのを見たばかりです。「この方はダビデの再来に違いない」、という期待をもって、主イエスのエルサレム入場を喜んだのです。

ダビデはイスラエルを強い国として築き上げた人です。彼はイスラエルの首都をエルサレムに定めました。そしてダビデの子孫が、代々エルサレムを、そしてイスラエルを王として治めて来ました。

しかし、紀元前6世紀にエルサレムはバビロンによって滅ぼされてしまいます。それ以来、主イエスの時代までの約600年間、ダビデの子孫が王としてエルサレムを統治することはありませんでした。

預言者たちが残してきたメシア到来の預言は、人々の心に期待を持たせた。そして今、ガリラヤの巡礼者たちは、主イエスのことを「ダビデの子」、ダビデ王の再来として期待してエルサレムに迎え入れた。「この方こそ、ダビデ王朝を再建する方だ」と思ったのです。ガリラヤからの巡礼者たちは、喜びの叫び声をあげ、自分の服を道に敷き、葉のついた枝をもってきて主イエスの前に敷きました。王を迎え入れるやり方です。

しかし、この人たちは、一週間後、主イエスが十字架で殺されるのを見て驚き、落胆することになります。そして問われることになります。「あの方はメシアではなかったのか、ダビデの子ではなかったのか。」

熱狂してエルサレムに入場したガリラヤの人たちの姿を通して、私達自身も、問われることになります。「私達は、イエス・キリストをどのような救い主として見ているのか。私達は、キリストにどんな救いを求めているのか。」

主イエスは、武器をもって、ローマ軍をユダヤから追い払うメシアではありませんでした。ご自分の血を身代金として支払い、神を見失っていた人たちに神の愛を示す、そのような救い主でした。

神が私達にお与え下さった救い、それは、私達のための神の犠牲でした。羊飼いから離れた羊が、もう一度羊飼いの下に戻るために支払われた代償、それは、神の子の血でした。

熱狂するガリラヤの巡礼者たちは、ロバの背に乗ってエルサレムに入られる主イエスに、屠られる子羊としての姿を見たでしょうか。この方が担ってくださる自分の罪を見たでしょうか。もし見出したのであれば、こんな風に熱狂できなかったでしょう。

これから、キリストの最後の7日間を通して、私達は救いの業へと進んで行かれるメシアの前にどうあるべきか、ということを問われることになります。自分が神から離れている罪を知ってキリストの十字架を見る時、私達はそこに神の許しを見ることになります。悔い改めをもってこれからのキリストのお姿を見ていきましょう。