【次週 礼拝(4月6日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書12:1~8
交読文:詩編19:2~5
讃美歌:讃詠546番、8番、138番、305番、頌栄543
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

【次週 礼拝(4月6日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書12:1~8
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ヨハネ福音書11:45~57
イエス・キリストがラザロという若者を墓の中から蘇らせる、という神の栄光を現わされました。「死者を起こす」ことは、これまでキリストが行われた奇跡の中で一番大きなものでしょう。
キリストがラザロを墓から起こされた意味は、ただ「非科学的なこと成し遂げた」、というだけのことではありません。「世の終わりに起こる」とされていた死者の復活を人々の前でお見せになったことで、この世の終わりの時が近いことをお示しになったのです。そしてラザロの復活こそ神の救いの御業であり、その業を行うご自分こそがキリストであるということの証でした。
多くのユダヤ人たちはそれを見て信じました。墓から出てきたラザロを見て、そこに神の栄光を見たのです。しかし、ラザロの復活という神の栄光に満ちた御業を見ても、まだ信じない人もいたことが書かれています。主イエスの御業を前にして、また、信じる人と信じない人とに分かれました。
ヨハネ福音書に証されているキリストの福音宣教は、この連続です。これまでもキリストを通して神の御業が見せられても、それを神の御業として見る人と、悪霊の業として見る人に分かれてきました。
私たちは、人間が持っている不信仰がどんなに根強いものであるのか、ということに驚かされるのではないでしょうか。ラザロを墓の中から起こされたという事実さえも、すべての人を信仰に導くことはなかったのです。
人が何かを信じるようになること、そして人が何かを信じ続ける、ということがどんなに難しいことかを見せられるのではないかと思います。何かを見て、一瞬信じる、一時信じるということはよくあります。しかし、時間がたって熱が冷めると、すぐに忘れてしまうことがほとんどです。たとえ素直に信じるようになっても、一生信じて自分の身を委ね続けるということはさらに難しいのです。
死者の復活を見ても主イエスがなさったことを「神の御業」として信じられなかった人たちは、「ナザレのイエスがまたエルサレムの近くに戻ってきて、こんな奇跡をおこなった」、とファリサイ派の人たちに告げ口をしました。
ファリサイ派の人たちは、聖書の言葉の研究に力を注いでいた人たちで、これまで、主イエスと対立してきました。安息日に癒しを行ったということでナザレのイエスのことを聖書の掟に違反している者として見ていたのです。そのイエスがエルサレムの近くでまた不思議な業を行い人々の心をつかんでいる、ということを快く思いませんでした。
ナザレのイエスのことを危険視したのは、ファリサイ派の人たちだけではありませんでした。ファリサイ派の人たちは、事を重大視して、最高法院を召集しました。最高法院には、ファリサイ派以外の派閥、そして祭司長がいました。
ファリサイ派以外の最高法院の人たちには、また別の心配がありました。サドカイ派や祭司長は、このイエスという人物のせいで、ユダヤ人全体がローマから弾圧されるのではないか、と恐れました。
祭司長、またサドカイ派は、ユダヤの政治的・宗教的な権力を持っていた人たちです。神殿でいけにえを捧げたり、祭りを司ったりする立場にある彼らは、ユダヤ人の安定した宗教生活の担い手でした。
ローマ帝国は、帝国にとって害や危険がなければ、その宗教に対しては寛容でした。しかしローマ帝国にとって危険な要素があれば、軍隊でその宗教を取り締まっていました。
ユダヤの政治・宗教を司る立場として、最高法院の人たちは、ナザレのイエスのせいでローマから危険視されるのではないか、イエスが群衆を扇動して、ローマ軍から目を付けられるような騒ぎを起こすのではないかと思ったのです。
最高法院の会議の中で、ナザレのイエスへの対策が話し合われました。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
彼の心にあったのは、イエスは本当に神のメシアなのかどうか、ということではありません。自分たちをどうローマから守るか、ということでした。
この会議の中で大祭司であったカイアファが言いました。
「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む法が、あなた方に好都合だとは考えないのか」
この人は紀元18年から36年まで大祭司だった人です。イエス・キリストは、最後にはこの大祭司の考えによって十字架に上げられることになります。
恐ろしいカイアファの言葉ではないでしょうか。国を守るためには一人の人間を犠牲にすればいい、という恐ろしい考えです。
9章で、主イエスは目の見えない人を癒された際、謎めいたことをおっしゃいました。「私が世に来たのは、裁くためである。こうして、見えないものは見えるようになり、見えるものは見えないようになる」
それを聞いた時、ファリサイ派の人たちはこれを聞いて怒りました。
「我々も見えないということか」
これに対して主イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」とおっしゃいました。
カイアファは、主イエスの御業を見ていながら、主イエスをメシアとして見ることができません。あの主イエスの言葉に照らし合わせて考えると、「カイアファの罪は残る」、ということになります。
主イエスは以前、「羊は羊飼いの声を知っている。しかし、羊飼い以外の者たちの声にはついていかない」とおっしゃいました。カイアファも自分のことをイスラエルの羊飼いと考えていただろう。しかし、彼は果たして何を見ていたのでしょうか。イスラエルの羊飼いとして見るべきものが見えていません。死者を復活させたメシアを目の前にしても、彼はメシアを犠牲にして自分たちが守られればいい、と考えていたのです。
主イエスはこうおっしゃいました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
それに対してカイアファは「一人の人間を犠牲にすれば、民が助かる」と言いました。
全く反対のことを言っています。大祭司でありながら、カイアファは命がけでイスラエルを守りこの世を救おうとなさるメシアを殺そうとしているのです。
普通にここを読むと、カイアファという人の悪意を不快に感じるのではないでしょうか。しかし、このカイアファの思惑に関して、福音書は不思議なことを書いています。
「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬ、と言ったのである。」
カイアファの恐ろしい言葉はカイアファ自身の言葉ではなく、預言であった、神から与えられた言葉であった、というのです。キリストの死の意味が、ここに示されています。イエス・キリストは、カイアファをはじめとしたユダヤ人指導者たちとの権力争いに負けて十字架に上げられたのではないのです。もっと大きな、神の救いのご計画のうちに十字架へと運ばれていったのです。
カイアファの残酷な思惑は、イザヤ書53章に預言されている苦難のしもべの死を思い起こさせます。
「私たちの聞いたことを誰が信じえようか。・・・彼は軽蔑され。人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり打たれたから彼は苦しんでいるのだと。彼がさし貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎ためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって私たちは癒された。」
カイアファをはじめ、最高法院の人たちはナザレのイエスを神の名のもとに排斥しなければならないと考えました。悪意からではない。純粋な彼らの思いからです。イスラエルを守ろう、神の掟を守ろう、そのためにナザレのイエスを殺そう、と考えました。誰も、主イエスの死が自分の罪を背負うための死であるとは考えませんでした。イザヤが預言した通りです。
カイアファたちの企みですら、神はご自分の救いのためにお用いになるのです。聖書にはそのような不思議がたくさん記されています。
旧約聖書の創世記にヨセフ物語があります。兄たちに恨まれ、エジプトに奴隷として売られたヨセフは、エジプト王ファラオの夢の解き明かしをして、やがてエジプトの宰相になりました。そして最後に、自分を奴隷として売った兄たちと再会を果たします。
その際、ヨセフはこう言いました。 Continue reading →
【次週 礼拝(3月30日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書11:45~57
交読文:詩編19:2~5
讃美歌:讃詠546番、7番、330番、329番、頌栄543
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
ヨハネ福音書11:33~44
ラザロの死をめぐる人々の姿を見ています。ラザロの死に対して、イエス・キリストがどのように向き合われたか、またその中で兄弟を失ったマルタとマリアがキリストに対して何を訴えたか、ということをここまで見てきました。
ご自分の足元にひれ伏して愛する者の死と悲しみと怒りを訴えるマリアの祈りを聞かれて、イエス・キリストは激しく反応されたことが書かれています。マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮」された、とあります。また「イエスは涙を流された」と書かれています。そして、主イエスは「再び心に憤りを覚えて」ラザロの墓へと向かわれました。
四つの福音書の中でここまでイエス・キリストの心が・感情が激しく動いたことが書かれているのは、ここだけでしょう。福音書の中には、病や悪霊の支配に苦しんでいる人たちや、教えを求める霊的な飢え渇きをもった人たちを主イエスが憐れまれて、癒されたり教えたりされる姿は多く記されています。しかし、ここまで激しいお姿は他にはないでしょう。キリストはマルタ、マリア、そして人々と共に涙を流され、死の力に対して怒りを覚えられました。
マルコ福音書に、安息日の会堂の中で主イエスが手の萎えた人を癒された出来事が記されています。手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」とおっしゃって、そこにいた人たちにこう質問されました。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」
会堂にいた人たちは黙っていました。その時、主イエスは「怒って人々を見渡し、彼らのかたくなな心を悲し」まれた、と書かれています。怒りと悲しみを抱かれる主イエスのお姿です。その時の主イエスの怒りと悲しみは、人々のかたくなさ、神の御心への無知に対するものでした。
ラザロの死を前にしての主イエスは同じように怒りと悲しみを覚えていらっしゃいます。そして思いは、会堂で感じられたその時よりも激しいものでした。
主イエスは涙を流されました。11:35は「イエスは泣いた」という聖書の中で一番短い一節です。一番短い一節だが、一番我々の心に突き刺さる一節ではないでしょうか。
そしてキリストはラザロの墓に行くことをお望みになりました。そこで死の力に向き合われることになります。
前にも引用しましたが、ヘブライ人への手紙の2章にはこう書かれています。
「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」
キリストは地上を生きる人々・私たちと同じ地平に立ってくださっています。私たちが信じる神は、人と全く同じところで、共に涙を流してくださる神なのです。どこか私たちには届かない、超越したところで、私たちを見下ろしていらっしゃるような方ではありません。
当時のギリシャ世界の世界観では、人間と神の間には無限の隔たりがありました。神は人間には接点がないからこそ、無限の距離があるからこそ、神は神であり、人々は神を信じていました。
しかし、聖書はそうでないことを証ししています。神は、自らが人と同じところに来て、共に泣いてくださる方なのです。聖書は、イエス・キリストがすべての点で人と同じになられた、と記しています。キリストにおいて神は、人間のすべてを体験してくださっています。痛みを、悲しみを、愛を、私たちのすべてを知っていてくださっているのです。
キリストの涙を見た人たちは周りで驚きました。それは、二通りの驚きでした。主イエスがどんなにラザロを愛しておられたか、という愛の深さへの驚き。そして、盲人の目を開けたこの人も、ラザロの死に対しては何もできなかったのか、という驚きです。周りにいたユダヤ人たちは、ナザレのイエスの力がどれほどのものなのか、どこまで及ぶのか、ということを冷静に見極めようとしています。
マルタは、主イエスが墓の石を取りのけるようおっしゃるのを聞いて、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。マルタも冷静です。彼女はついさっき、「あなたが世に来られるはずの神の子・メシアであると私は信じております」と言ったばかりでした。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」と聞いて、「はい、信じます」と言ったばかりでした。
それでもマルタは、主イエスが「墓の石をのけなさい」、とおっしゃってもその意味が分からなかったようです。マルタの信仰告白は、まだ表面的なものでしかなかったようです。キリストはそのマルタに、もう一度ご自分との会話を思い出させていらっしゃいます。
「もし信じるなら、神の栄光がみられると、言っておいたではないか」
「あなたはまだ本当に信じ切れていないのか」というキリストの更なる招きです。私たちはマルタのように、何度もキリストとこのやり取りを繰り返しながら信仰生活を続けているのではないでしょうか。小舟の中でキリストが嵐を鎮められた時、弟子達は「まだ信じないのか、信仰の薄い者たちよ」と叱られました。
マルタも、弟子達も、私たちも、いつも荒波の中でキリストを信じ切ることができず、それでも祈り、最後に、まだ信じないのか」とのお𠮟りを受けます。私たちの信仰生活はこの連続ではないでしょうか。
信仰の先で私たちが見るのは、神の栄光です。それは、信じようとする私たちの思いがなければ、見ることができないものなのです。そんなことがあるわけがないと思えることでも、キリストが「そちらを見なさい」とおっしゃるのであれば、私たちは従います。そしてその従いの先で、この世界が、神の栄光のうちにあるということを、我々は知るのです。
キリストは神に祈られました。11:42「私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」
ラザロは、神の御業が現れる器としてお用いになりました。キリストは墓の中に向かって呼びかけられます。
「ラザロ、出てきなさい」
「ラザロ、さあ、外に」という言葉です。その声に応じて、ラザロは墓の中から出てきました。イエス・キリストがラザロを起こされたのは、日ごろから親しくしていたマルタとマリアの悲しみを癒すため、というだけではありませんでした。もっと大きな意味がありました。
ラザロの病の知らせを受けてから主イエスはおっしゃってきました。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」
「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」
主イエスはベタニアの村で、7つ目のしるしを行われました。死者の復活という最も大きなしるしです。ベタニアは「苦しみの家・戦いの家」という意味の名前の村です。象徴的ではないでしょうか。キリストは、「苦しみの家・戦いの家」において勝利されたのです。死の支配に対する勝利です。それは何のためのしるしでしょうか。人々を信仰への導くためのしるしでした。
ラザロは手と足を布で巻かれたまま、顔も覆われたまま墓から出てきました。主イエスはおっしゃいます。
「ほどいてやって、行かせなさい」
このキリストの言葉にも象徴的な意味が含まれています。復活のラザロは、新しい命へと生まれ変わった者の姿としてみることもできるでしょう。洗礼によって新しい命へと召された私たちは、このラザロの復活を通して考えさせられるのです。新しい命へと召されて、キリストにほどいていただくもの、キリストに取っていただく覆いとは何でしょうか。キリストを知って新しく歩み始める私たちが、後ろに投げ捨てるべきものとは何でしょうか。
ここで言われている「行かせなさい」というのは、主の祈りの中で使われている「許す」という言葉です。「われらの罪をも許したまえ」と言いますが、直訳すると「許したまえ」というのは「手放してください」という言葉だ。「私たちの罪を手放してください」という祈りです。
死から解放され新しい命へと起こされたラザロが、再び自由に自分の足で歩み始めることが許された。そしてラザロは後ろに投げ捨てるべきもの、手放すべきものがありました。
私たちは与えられた新しい命を生きるにあたって、何を手放すべきなのでしょうか。キリストによって自由とされた私たちが、まだ縛られているもの、ほどかなければならないものがあるのです。自分の信仰の目を覆っているものがあるのです。
私たちは誰を許すのだろうか。また、だれに自分の罪から解放していただくのでしょうか。自分を許し、隣人を許し、神の許しの中に生きるということが、新しい命を生きる、ということなのです。
使徒パウロは、手紙の中でこう書いています。
「私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。私たちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほどの重みのある栄光をもたらしてくれます」2コリ4:16 Continue reading →
【次週 礼拝(3月16日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書11:38~44
交読文:詩編19:2~5
讃美歌:讃詠546番、6番、188番、287番、頌栄543
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
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ヨハネ福音書11章28節 から 37節
ラザロという人の死をめぐる一連の出来事を読んでいます。「ラザロが病気で苦しんでいる」、とマルタとマリアの姉妹が主イエスのもとに知らせてきました。主はその知らせを聞かれても、ベタニア村に向かおうとはせず、二日間そこに滞在されます。しかし三日目に、「ベタニアに行こう」、とおっしゃって、弟子達と一緒にラザロのもとへと出発されました。
主イエスが二日間そこから動かれなかったこと、そして三日目に突然出発された、ということは不可解です。驚く弟子達にはっきりとおっしゃいました。「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなた方にとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」
主イエスはラザロの死を通して、弟子達にしるしをお見せになろうとしているのです。
先週私たちは、マルタが主イエスのもとにやって来た場面を読みました。マルタは、主イエスが近くにいらっしゃったと聞いて、妹マリアを一人家に残して「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と思いをぶつけました。「どうしてもっと早く来てくださらなかったのですか。あなたならラザロの病を癒すことがお出来になったでしょうに」という思いの表れです。
そのマルタに「あなたの兄弟は復活する」と主イエスはおっしゃいました。マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。「聖書にそう書かれていることは知っています」ということです。聖書の知識として、マルタは復活のことを知ってはいました。
しかし、まさかラザロがこれから墓の中から起こされるとは考えていませんでした。主イエスはそのマルタを更にお試しになります。「私は復活あり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
主イエスは、マルタに聖書の知識を問われたのではありませんでした。「復活であり命である、この私を信じるか」という、ご自分への死に勝る信頼を問われたのです。
今日、私たちは、妹のマリアがマルタと同じように主イエスに訴えた姿を読みました。2人の姉妹は、一人ひとりが別に主イエスの元に行き、まったく同じ言葉をぶつけています。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」
マリアの怒りと悲しみも、マルタと同じです。ヨハネ福音書は、二人が別々に主イエスのもとに行き、同じことを言った、ということを記していますが、主イエスのそれぞれへの対応の仕方は違っています。
主イエスがマルタにおっしゃったように、「私は復活であり、命であると信じるか」とマリアには問いかけてはいらっしゃいません。そして、マリアの言葉を受け、またマリアと周囲の人たちが泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮して」、「どこに葬ったのか」とラザロの墓に向かわれます。
全く同じ言葉をぶつけるマルタとマリアでしたが、なぜ主イエスはマルタにだけ信仰を試すような質問をなさり、マリアの言葉はそのままお受けになったのでしょうか。
ラザロの死を前にして、キリストはマルタに問われました。
「私は復活であり、命である。・・・このことを信じるか」
聖書は、このことを私たちにも問いかけています。私たちは常に死を前にしています。まだ死に到達していないだけで、死との距離は確実に縮まっています。地上の歩みの中で私たちはこのことを問われるのです。
「この方のことを、復活であり命であると信じるか。」
世の終わりには復活という出来事が起こる、ということはマルタやマリアだけでなく、当時の多くのユダヤ人たちは知っていたし、信じていたのです。しかし主イエスはマルタに対して、死後四日たっているラザロにご自分が再び命をお与えになることができることを信じるかどうかを突っ込んで問われたのです。「いつか起こるとされていること」ではなく、「今これからこの方を通して起こること」として捉えているかどうかを確かめようとなさいます。
私たちも問われているのです。イエス・キリストは5:24でこうおっしゃっている。
「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聴くときがくる。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、ご自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである」
キリストご自身、父である神から命を司る権威を託されていることをおっしゃっています。主イエスは復活の権威をお持ちなのです。そして、いつ、誰を死の眠りから起こされるか、お決めになることができるのです。
8:51では、こうもおっしゃっています。
「はっきり言っておく。私の言葉を守るなら、その人は死ぬことがない」
その時、この言葉を聞いたユダヤ人たちは、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。・・・信仰の父アブラハムでさえ死んだではないか。預言者たちも死んだ。あなたは自分を何者だと思っているのか」と言いました。
私たちは、マルタや、ユダヤ人たちと同じことが聖書から問われているのです。「イエス・キリストがおっしゃる『死なない』とはどういうことか。私たちは主イエスのことを何者だと思っているか」
キリストは、私たちにこの地上の命だけでなく、永遠の命のことも含めて「死なないとおっしゃっています。それは、つまり、キリストは死に勝る方である、ということです。死に勝る方に、私たちはまるごと自分の命をゆだねることができるだろうでしょうか。
人がイエス・キリストを信じようとする理由は様々でしょう。キリストを信じて祈ると心が安らぐ、とか、キリストにいろんなお願いをしているとか、人の数だけキリストに求めるものがあるといっていいかもしれない。
しかし、我々信仰者がキリストに従うのは、自分が欲しいと思うものくださる方だからではありません。マタイ福音書の山上の説教の中でキリストはこうおっしゃっている。
「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」
神は、信仰者に「神が」良いと思われるものをくださるのです。私たちの側から一方的に「あれが欲しい」と言ったものをくださるのではありません。私たちのわがままを聞いてくださるのではなく、本当に私たちに必要なものを、必要なに備えてくださる方なのです。
信仰というのは、この命をキリストにお任せする、ということです。「今、私はこれが欲しいからください」というものではありません。そこには、この方こそが真の命の、魂の支配者であられるという確信が必要なのです。
私たちはここまで、イエス・キリストがラザロの病気のことを聞いても、あえて二日間動かず、ラザロが死んで墓に入れられてからベタニアの村に到着されたことを見てきました。「本当に命を司る方であるなら、すべての人の病を癒し、すべての人が悲しむことのないようにすることがおできになるのではないか」「メシアならそうすべきじゃないか」、と思うのではないでしょうか。
しかし主イエスはあえてラザロの死・マルタの悲しみを通して神の御業をお見せになるのです。弟子達と同じように、マルタと同じように、自分の思いの方が強い私たちは、疑うからです。
私たち人間にはわからない、神の時、神秘の御業が現わされようとしています。ラザロの死によって主イエスに思いをぶつけるしかなかったマリアは、「私は復活であり、命である。・・・このことを信じるか」と問われて、はっきりと、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」と信仰を告白した。
「なぜもっと早く来てくださらなかったのですか」と言ったマルタは、その主イエスの言葉を聞いて、愛する者の死というどうすることもできない悲しみの中で、力強く信仰を告白しました。死の悲しみの中でまだ信じられる方が目の前にいらっしゃることに希望を持ったのです。
さて、このマルタとキリストとのやり取りがあって、マリアとキリストとのやり取りがあります。マルタの時と違って、マリアに対して、主イエスは「私を信じるか」とはお尋ねになっていません。マリアが主イエスのことを「復活であり命である」ことを受け入れているという前提で、話は進んでいきます。
マルタとマリアの何が違っていたのでしょうか。2人が主イエスにぶつけた言葉は全く同じです。同じことを言っています。二人の違いは、その言葉をどこで言ったのか、ということです。こう書かれています。 Continue reading →
【次週 礼拝(3月2日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書11:1~16
交読文:詩編19:2~5
讃美歌:讃詠546番、4番、298番、294番、頌栄543
【報告等】
◇次週、聖餐式があります。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
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ヨハネによる福音書11章の1節から16節
マルタとマリアの姉妹が、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と主イエスに人を遣わして伝えて来ました。しかし主イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在されます。愛しておられたラザロが病であると聞いても、そこを動かれませんでした。
「この病気は死で終わるものではない」と主イエスがおっしゃるのを聞いた弟子たちは、「死ぬほどの病気ではないのだろう」と思います。急いでラザロのもとに駆け付けることをせず、二日間同じ場所に滞在されたのだから、わざわざ主イエスが行って癒しの奇跡を行われなくても、寝ていれば治る程度の病気なのだろう、と理解したでしょう。
ラザロのところへはなるべく行かない方がいいのです。ラザロがいるベタニアは、エルサレムのすぐ近くにあります。エルサレムでは主イエスを捕えようとしたり、石を投げつけたりしようと、待ち受ける人たちがいました。今はヨルダン川の反対側まで避難してエルサレムから離れた場所に身を置いている方が安全です。ラザロが自然に治るのであれば、危険を冒してエルサレムの近くのベタニアまで行くことはありません。
しかし主イエスは三日目になって突然、「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃいました。2日間なぜそこにとどまったのかの説明もなく、突然そんなことを言い出された主イエスに当然弟子たちは驚きました。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で撃ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」
弟子達は、自分たちの先生の心境に一体どんな変化が起こったのかを知りたがりました。しかし、主イエスのお答えはよく意味が分からないものだった。
「昼は12時間あるではないか。昼の内に歩けばつまずくことはない」
ラザロの病気と、昼が12時間あるということは何の関係があるのでしょうか。古代では1日を日の出と日没で2つに分けていました。一日の半分は昼だ、という当然のことを通して主イエスは何をお示しになろうとしたのでしょうか。
主イエスは9章でも同じようなことをおっしゃっています。「我々は、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。私たちは、世にいる間、世の光である」9:4
主イエスが世にいらっしゃる間の時のことを、主イエスご自身「昼」と呼ばれています。「昼」のうちに、つまり主イエスが世にいらっしゃるうちに、ラザロを市の暗闇から起こす必要があるとおっしゃっているのです。
弟子たちは主イエスの言葉の意味を、表面的にしかとらえることはできませんでした。
主イエスが死んだラザロのところに向かわれるのは、弟子達のためでした。「あなた方が信じるようになるためである」とお伝えになっています。
「私たちの友であるラザロが眠っている。しかし私は起こしに行く」
それを聞いて、弟子たちはラザロがただ単に眠っているものだ、と勘違いしました。そして「ただ眠っているだけなら先生がわざわざ行かなくても彼は一人できちんと回復するだろう」と考えました。それよりも、エルサレムの近くに行って、主イエスが石を投げられたり捕えられたりする危険の方が怖かったでしょう。
主イエスの言葉の表面しか捉えられていない彼らに、主ははっきりとおっしゃいます。
「ラザロは死んだのだ」
ヨハネ福音書は、4つの福音書の中で一番理解しにくいものかもしれません。イエス・キリストはいつでも、霊的な言葉でお話しなっています。字義通り、額面通り、表面的に受け止めても、主イエスが何をおっしゃっているのかよくわからない言葉が多いのです。この福音書に込められた霊的な意味を、私たちは探っていくことを求められています。
ラザロは眠っている、とおっしゃる主イエスの言葉を聞いて、弟子たちはそのまま受け取りました。しかしキリストがおっしゃるのは、ラザロは死んでしまった。それでも、キリストの前では一時の眠りにしか過ぎないということでした。
私たちはイエス・キリストの復活を知っています。だから、十字架の死という悲劇も、悲劇と絶望で終わることはなかったということを知っています。キリストの死と復活という信仰者の視点に立つと、この弟子たちの無理解は滑稽に映るでしょう。
しかし、ヨハネ福音書が今の私たちに伝えているのはこれなのです。「世は光を理解しなかった」、という福音書の冒頭の言葉を、私たちは弟子たちやユダヤ人たちの姿を通して見せられています。
そして、私たちが生きている今のこの世の中にも、一体どれだけのキリストに対する無理解があるか、ということを見せられるのではないでしょうか。私たち自身も、この世の無理解に流されていないかどうかを問われています。
イスラエルの教師ニコデモは、キリストから「新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と言われたら、「もう一度母の胎に入って生まれることが出来るでしょうか」と言いました。サマリア人女性も、主イエスがおっしゃる「命の水」のことを単なる井戸の水と考えました。
皆、そうなのです。イエス・キリストのことを表面だけで理解しようとし、知ったつもりになっているのです。だからこそ、キリストをまだ知らない人たちのために、いろんな形でこの世を超えたしるしをお見せになるのです。
主イエスは弟子たちにおっしゃいます。「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなた方が信じるようになるためである。」
イエス・キリストのことをどのように信じ、従えばいいのかまだわからなかった弟子たちにとって、死んでいる人を蘇らせるということほど大きな奇跡はありません。弟子たちはこの後、ラザロが墓の中から呼び出されるのを目撃することになります。そしてゴルゴタの丘で殺された主イエスご自身の墓が空っぽになるのを見ることになります。
彼らは復活なさったキリストに出会い、キリストが蘇られたように、自分たちも復活へと導かれていることを知るようになるのです。終わりの日に、ラザロよ、出てきなさい、とおっしゃったあのキリストの御声が自分に向かっていることを、聖書を通して知らされるのです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中でこう記している。
「神を愛する者たち、すなわち神の計画に従って召された者たちにとっては、万事が益とされるように共に働くということを私たちは知っています」8:28
私たちには、神がどのように私たちを信仰へと導き、そして私たちが次の人を信仰へと導かせるのか、その全て自分の目で見ることはできません。ただ、神の見えざる手が私たちに及び、私たちの思いを超えて、ご自分の救いの御業を進めていらっしゃるのです。
ラザロの病・ラザロの死が、やがて弟子たちをキリストの使徒としてその信仰を強めることになるとは誰にも予測できなかったでしょう。
主イエスは、後に弟子たちにこうおっしゃいます。
「麦の種が地に落ちて死なないなら、それは一粒のままで残る。だが、もしも死ぬなら、多くの実を結ぶ」12:24
ご自分の十字架の死が、世の人々のために神への立ち返りの道を切り拓くことになることをそのようにおっしゃったのです。
この歴史の中でキリストの死がなかったらどうだったでしょうか。神を知らずに生きるか、神を自分で作り出して生きるか、どちらかだったのではないでしょうか。
しかし、神は独り子をお与えになるほど世を愛してくださいました。そして、私たち信仰者がキリストの死に与る者であるなら、私たちの死も、一粒の種が地に落ちてやがて実を結ぶように、用いていただけるはずです。
ラザロの死はそのように用いられました。信仰者の生と死は、必ず神が深み御計画の内で用いてくださいます。
弟子たちはイエス・キリストがおっしゃっていることが、その時はよくわかりませんでした。彼らはただ単に、「ラザロは眠っているだけだろうし、ユダヤに戻ることは危険を冒すだけのこと」だと考えました。
しかし、弟子のトマスは主イエスの弟子として、最後まで従い抜こうとほかの弟子たちに言います。「私たちも行って、一緒に死のうではないか。」危険をおかしてまでラザロのもとに行こうとされる主イエスのお姿に感動したのでしょう。勇ましいことを言っています。
トマスをはじめ、弟子たちは主イエスがおっしゃっていることがよくわかっていませんでした。トマスが主イエスと一緒に死ぬほどの覚悟があったのかどうか、また主イエスのことをどれほど理解していたのか、ということは、後になって明らかになる。トマスも、他の弟子たちも、主イエスが逮捕された時、散り散りに逃げ去ってしまうことになる。
そして主イエスの墓が空になった時、他の弟子たちが主イエスの復活を証しても、トマスだけは信じませんでした。「私たちは主を見た」と言うほかの弟子たちに向かって、トマスは言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘後に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」20:25 Continue reading →
【次週 礼拝(2月23日)】
招詞:詩編100:1b-3
聖書:ヨハネ福音書11:1~16
交読文:詩編19:2~5
讃美歌:讃詠546番、3番、128番、195番、頌栄543
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
ヨハネ福音書11章1節~16節
今日私たちが読んだのは、イエス・キリストがラザロという人を蘇らせる場面の最初の部分です。ヨハネ福音書の前半部分はイエス・キリストの福音宣教が、後半部分はキリストの受難が描かれています。この「ラザロの復活」という出来事はヨハネ福音書の前半と後半をつなげる役割を果たしています。そしてラザロが墓の中からよみがえらせられることを通して、イエス・キリストご自身の復活を暗示されます。キリストには死に勝る力があることが明らかにされていくのです。
私たちはここまでヨハネ福音書を読んできて、福音宣教を行われる主イエスのしるしや言葉を信じる人たちと信じない人たちとに分かれたことを見ました。前半部分の最後に当たる10章では、主イエスはヨルダン川の向こう側へと退かれます。それは主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになり、福音宣教を始められた荒れ野です。
主イエスは宣教の原点である荒野へと一度戻られ、再びそこから新しい一歩を踏み出されることになります。十字架への歩みの開始です。エルサレムでは主イエスのことを信じる人たちと信じない人たちに別れ、主イエスを待ち受けています。これから私たちは、イエス・キリストがまたエルサレムに戻り、十字架へと歩んでいかれる受難のメシアのお姿を見ることになります。
ヨハネ福音書は他の福音書とは随分違う仕方でイエス・キリストの受難を描いています。他の福音書では、過越祭のためにエルサレムに上られた主イエスが神殿で暴れて商人たちを境内から追い出された事件を記しています。そのことで主イエスがエルサレムの人たちから敵意を抱かれ、殺されてしまう様子を描きます。
しかし、ヨハネ福音書では、主イエスが神殿から商人たちを追い出されたことを、福音宣教の初めに書いています。ご自分こそが神殿にとって変わる存在であることを宣教の初めに示され、そこからすでにエルサレムの中にはユダヤ人たちの主イエスに対する殺意があったことを描きます。
イエス・キリストが自らの意思でエルサレムの敵意の中に戻っていかれる、受難のメシアとしてのお姿をここから見ていきたいと思います。
主イエスはここまでの宣教の中で、六つの大きな奇跡を行われました。初めに、ガリラヤのカナの村で、水をワインに変えられました。次に、同じくガリラヤで、役人の息子を癒されます。エルサレムで、38年間病で寝たきりだった人を癒され、続けて、エルサレムからガリラヤまで追いかけて来た5000人の人たちに、二匹の魚と五つのパンを満腹させられました。夜、水の上を歩いて弟子たちの船に乗り込まれました。そしてエルサレムで、物乞いをしていた盲人を癒されます。
これら六つの奇跡一つ一つが人々を驚かせ、主イエスを神の子と信じる人たちと、信じない人たちに分かれて来ました。そして今日私たちが読んだのは、ヨハネ福音書に証されているイエス・キリストの七つ目の奇跡となります。いわば、キリストがこの地上でお見せになった、ご自分が神のメシアであることの証の頂点といっていい奇跡の御業です。
七つ目の奇跡は、これまでの六つの奇跡とは大きな違いがあります。この7つ目の奇跡だけは誰が癒されたのか、その名前がはっきりと記録されているのです。ベタニアのラザロという個人の名前が歴史的事実としてはっきりと記されています。
この七つ目の奇跡がどこで行われたのか、また何という名前の人に行われたのか、ということが、この奇跡の意味を象徴しています。「ラザロ」はヘブライ語のエレアザルという名前のギリシャ読みです。「神こそ私の助け」という意味の名前です。そしてラザロがいた「ベタニア」は「戦いの家」という意味です。
「戦いの家」という村の中で「神こそ私の助け」という名前の人が死から救われた出来事です。常に肉体の死と戦っている私たちにとって、神こそが助けとなってくださるということを象徴的に描き出しているのはないでしょうか。
ラザロが戦う相手は、病であり、死でした。主イエスはラザロの死に目には間に合われませんでした。ラザロは死に負けてしまいます。病との戦いに負け、死の支配の下に置かれてしまうことになります。しかし、イエス・キリストは、人間がどうやっても勝つことのできない死の力からラザロを救い出されるのです。そしてこの奇跡の出来事が、イエス・キリストの十字架と復活を我々読者に暗示することになるのだ。
我々は嫌でも、自分がやがて向か会える死というものを考えさせられます。若く、自分の肉体が強い時には、そんなことを意識することは少ないかもしれません。しかし、たとえ若かったとしても、身近な人の死、愛する人や若くして命を落とす人を見たりすると、自分にも同じことがいつか訪れるのか、と考えさせられることになります。
人間にとって死とは何なのでしょうか。なぜせっかく世に生まれて来たのに、死というものが訪れるのでしょうか。我々人間の歩みは、例外なく「生まれた瞬間から死に向かって生きている」、とい逆説的な意味を含んでいます。「人の人生は生から死に移る過程である」という誰も避けて通れない逆説的なテーマをここに見ることができるのです。
聖書は、イエス・キリストの御生涯を通して、私たちの死は、終わりではないということ慰めを伝えています。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の15章にこう書いています。
「キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっている・・・最後の敵として、死が滅ぼされます」1コリ15:25
キリスト者にとって、死とはやがてキリストによって滅ぼされる力だというのです。さらにパウロはこうも書いています。
「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」1コリ15:20
キリスト者にとって死は復活までの眠りであるという事実を伝え、聖書は我々を慰めてくれています。
今、イエス・キリストは死の力に直面している人に向き合おうとなさっています。これまで、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃってきたこの方は、これから地上での命を終えようとする者、地上での命を終えた者に対して、どう向き合われるのでしょうか。
ヨハネ福音書は ラザロの姉妹であるマルタとマリアのことを書いています。マリアは主イエスの足を香油で濡らし髪の毛で拭った女性として知られていたようです。この2人の女性たちが、主イエスのもとに使いをやって「主よ、あなたが愛する者が病気なのです」と伝えさせました。この言葉から、主イエスがラザロのことを以前からよくご存じで、深く愛していらっしゃったということがわかります。
我々はまず彼女たちの言葉に注目したいと思います。彼女たちはラザロが病気であるということを主イエスに伝えました。ラザロが病気であるということ「だけ」を伝えています。
カナの村で行われた婚礼の中で葡萄酒が足りなくなった時、マリアは自分の息子のイエスに「ワインが足りなくなりました」とだけ伝えました。「あなたなら水をぶどう酒に変えられるでしょう。人助けをしてください」とは言いませんでした。
同じように、マルタとマリアは「ラザロが病気です」とだけ伝えます。普通は「弟のラザロが病気ですから早く来て癒してください」などと願うのではないでしょうか。
このことは、私たち自身の祈りについて考えさせられるのではないでしょうか。私たちも神に祈る際には、「自分は今こんなことで悩んでいるので、こうしてください」と具体的な解決策を神に向かって願うことが多いでしょう。
私たちは神に向かって祈りを捧げます。それは何のためでしょうか。私たちの要望のリストを神に手渡すためでしょうか。私たちが求めることを全て神が叶えてくださるかというとそうではありません。では何のために祈るのでしょうか。
カナの婚礼で、母マリアから「ぶどう酒が足りなくなりました」と言われた時、主イエスは「私の時はまだ来ていません」とお答えになりました。思いもかけない、主イエスの冷たい反応です。
ここでも主イエスはマルタとマリアの願いに対して、思いがけないことをおっしゃいます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」「それは大変だ、ラザロを今すぐ助けに行こう」、ではなく、ラザロの病を通して神の栄光が現わされることになる、とおっしゃるのです。
主イエスお一人の胸の内に、周りの人たちの思いとは何か別のご計画が秘められていることがわかります。主イエスは1人の盲人を癒された時にも同じようなことをおっしゃいました。「この人が生まれつき目が見えないのは、神の業がこの人の上に現れるためである。」あの時と同じように、これからラザロの上に起こる奇跡を通して神の栄光を見ることができるとおっしゃいます。
主イエスは確かにラザロを愛していらっしゃいました。しかし、「すぐに行く」とはおっしゃらず、2日間そこに留まられたことが書かれています。
ヨハネ福音書は、ここで不思議な言葉遣いをしています。日本語ではわからないのですが、もとのギリシャ語では、の5節と6節を「だから」という言葉で結んでいます。
「ラザロが病気です」と伝えられた、「だから」2日間そこに滞在された、という書き方です。「しかし」ではなく、「だから」です。ラザロが病気で死にそうだからこそ、そこから動こうとされなかった、という書き方なのです。
首を傾げるようなことではないでしょうか。誰かを愛していて、その人が病気なのであればすぐにでも出かけて行くべきでしょう。しかも病を癒す力があるのだから、あれば行って癒してやるべきではないでしょうか。私たちはそう思います。
しかし、主イエスは「だからこそ」すぐにラザロのもとに向かわれることなく2日間そこで待たれた、というのです。カナの婚礼の際、主イエスは母マリアに「私の時はまだ来ていません」とおっしゃって、その後水をワインに変えられたように、主イエスには主イエスにしかわからない時をお持ちだったのです。
私たちは祈りの中で神に様々なお願いをします。しかしそれが全て叶えられるわけではありません。その時には「祈りが聞かれなかった」とすぐに思ってしまいます。しかしそれはどうなのでしょうか。
もちろん神が全部自分の言うことを聞いてくださると楽です。しかし神の御心がどのような仕方でいつ現されるのか、私たちは知りません。自分を導いてくださる良い羊飼いが、時と手段をわかっていらっしゃるのであれば、私たちは信頼して自分には計り知れない救いを待つべきではないでしょうか。希望を持って委ねて祈りつつ待つ、ということは、私たちの信仰の大切な部分ではないでしょうか。
ヤコブの手紙5章に、こういう言葉がある。
「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったのかを知っています。主はいつくしみ深く、憐れみに満ちた方だからです。
死がキリストによって滅ぼされるその時まで、神の御心を信じて、忍耐をもって祈り続けたと思います。