【次週 礼拝(7月13日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:ヨハネ福音書14:15~21
交読文:詩編19:8~11
讃美歌:讃詠546番、24番、293番、336番、頌栄544
【報告等】
◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 Continue reading
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ヨハネ福音書14:8~14
キリストが十字架に上げられる前の最後の晩、キリストと弟子達の告別の時が持たれていました。13章のはじめで、まもなく十字架に上げられることをご存じだったキリストは「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」、と書かれています。
福音宣教の旅の最後の時、弟子達への愛が高まったキリストがなさったことは、弟子達の足を洗うということでした。そして互いに仕えあうことをお命じになります。弟子達の中には裏切る者がいることをおっしゃり、ご自分は去っていくことになるけれども、弟子達は今ついてくることはできない、とお伝えになりました。
心を騒がせる弟子達に主イエスはおっしゃいます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている」
この夜、自分たちの先生がなさること、おっしゃることすべてに弟子達は戸惑いました。
先生はまるで自分たちが全てを理解しているかのような口調でお話なさっている。でも自分たちは先生がおっしゃっていることがまるで分からない。なぜ先生は自分たちと離れ離れになるとか、自分たちが先生のことを知らないと言うだろうなどとおっしゃるのだろうか。
弟子のトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と訴えました。主イエスは「私の父の家には住むところがたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」とおっしゃいました。「住むところがたくさんある父の家」とはどこなのか。そこへと至る道はどこにあるのか。トマスは知りたかったのです。
トマスはキリストの言葉を物理的な道として理解したようです。キリストと過ごす最後の時になっても、自分たちに言われている霊的な意味を理解することができませんでした。
「私は道であり、真理であり、命である」
イエス・キリストはご自分のことを「道」とおっしゃいました。普通は道というのはどこかにあってそれを自分の足で歩いていくものなのです。主イエスはどこに道があるのかを教える先生ではなく、 道とは私のことだとおっしゃるのです。我々が普通に頭の中で思い描く道とは違います。
キリストはトマスを、より深く、ご自身と神との霊的な関係に目を向けるよう誘われます。
「あなた方が私を知っているなら、私の父をも知ることになる」
主イエスを知ることは、父なる神を知ることだ、と明確に示されました。「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃったのはそういうことでした。キリストが、神へと至る道であり、神を示す真理であり、神と共にある命そのものだったのです。
次に反応したのはフィリポでした。彼もこの時まだ主イエスのことを表面的にしか見ることができていません。フィリポは最初からの弟子であり、ナサニエルやギリシャ人たちを主イエスのもとに連れてきた人でした。主イエスの弟子たちの中でも古株です。それでもペトロやトマスと同じように主イエスのことを自分の人間的な知識でしか捉えることがまだできていません。
フィリポの願いは単純でした。「主よ、私たちに御父を示してください。そうすれば満足できます。」とてもまっすぐで単純で正直な言い方です。そして深い想いのこもった願いだと思います。
たくさんの人たちを主イエスの下に連れてきたフィリポですら、「主イエスを見る者はすでに神を見ている」ということがわかっていなかったのです。主イエスは「フィリポこんな長い間一緒にいるのに私が分かっていないのか。私を見た者は父を見たのだ。なぜ私に御父をお示しくださいというのか」
十字架を前にした、キリストの驚きと悲しみの言葉です。
「神を見たい」という願いは、最も基本的な私たちの本能ではないでしょうか。フィリポは正直です。旧約聖書に出てくるあのモーセも神を見たいと願いました。
出エジプト記33:18~23にそのことが書かれています。
「どうかあなたの栄光をお示しください」とモーセが言うと、神はおっしゃいました。「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見てなお生きていることはできないからである。」神の神聖さの前に私たちはその姿を見て生きることはできないというのです。
しかしそれでもこのフィリポの願いは地上に生きる者であれば誰もが抱く思いではないでしょうか。ヨハネ福音書の冒頭部分1:18でこう書かれています。
「未だかつて神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方神を示されたのである。」
イエス・キリストはどのように私たちに神を示してくださったのでしょうか。神の手を引いて、「この方が神だ」と引き合わせるような、そんな仕方で神を示してくださったのではありません。
まっすぐにご自分に向かって神を見たいと言ってくるフィリポに対して主イエスがおっしゃったのは「私が言うことを信じられないのであれば、業そのものによって信じなさい」とおっしゃいました。
ここで考えたいと思います。キリストがおっしゃっている「業」とは何でしょうか。確かにこれまでキリストは数々の奇跡を行って来られました。足がたたない人を立たせ、盲人の目を開き、ラザロを墓の中から蘇らせて来られたキリストの業は、神の御業でした。
キリストが語られる言葉は、神がご自分の民に従うことをお求めになる教えであり、水を葡萄酒に変え、群衆をパンと魚で満腹させられたのはその業を通して神の祝福の豊かさが現わされるためでした。神の元から来たのでなければ、神が共にいなければ、神の力を持っているのでなければあのようなしるしを行うことができません。
しかしキリストはただ、「私がこれまですごいことを行ってきたのだから、それを思い出してわたしを通して神を見ればいい」とおっしゃっているのでしょうか。
もちろんこれまでキリストが行ってこられた業のことも含まれているのでしょう。しかし、ここでキリストが「私の業」というのはそれ以上の何かではないでしょうか。
私たちが今日読んだところを見ると、イエス・キリストはこれまでご自分がどんなすごい御業を行ったかということではなく、ご自分の御業に従っていく弟子たちのこれからについてお話しなさっています。
「私を信じる者は私が行う業を行ない、またもっと大きな業を行うようになる」
キリスト者はキリスト以上の業を行うことになる、と言われています。少し驚かされる言葉だと思います。キリスト者がキリスト以上の存在になるということなのだろうか。
キリストがおっしゃっている「私よりも大きな業」というのは、キリストが神の下に行かれ、そこから聖霊を教会に送り、弟子達が、教会がキリストの御業を「世界中で」行っていく、ということでしょう。
人として世に来られた神はイエス・キリストはガリラヤとユダヤ、サマリアという地方で御業を行われました。復活後は聖霊を通して、教会を通して、世界中で神の御業が示されていくことになるのです。それが、キリストが「私よりも大きな業」とおっしゃっていることです。
そして教会が伝えるのは、イエス・キリストの十字架と復活という御業です。キリストがここで「私の業」を信じなさいとおっしゃっている御業とは、これから弟子達に見せられる十字架と復活という大きな御業のことなのです。
キリストは弟子たちに一つの約束をここでなさっています。「私の名によって願うことはなんでもかなえてあげよう。」キリストに従おうとする者にとってこんなに嬉しい言葉はないのではないでしょうか。
しかしよく読んでみますと、「私たちが願うこと」ではなく「イエス・キリストの名によって願うこと」と言われています。私たちは自分たちの祈りを思い浮かべるでしょう。
祈る時には私たちはキリストのお名前を通して祈ります。私たちの祈りは、私たちに何が必要なのか、私たちがどんな望みをもっているのかということを神に教えて差し上げることではありません。祈りの言葉をもつキリストのうちに生き、私たちが祈りの言葉をいただき、キリストの祈りを自分の祈りとさせていただき、キリストのお名前によって祈るのです。そうやって私たちの願い・祈りはキリストの祈りとして神に捧げます。
私たちは自分の祈りを、自分の祈りでありながら、キリストの祈りとして神に届けようとするのです。キリストが私たちの祈りをキリストの祈りとして神のもとに届けてくださるというのです。 Continue reading →
【次週 礼拝(7月6日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:ヨハネ福音書14:1~7
交読文:詩編19:8~11
讃美歌:讃詠546番、23番、90番、249番、頌栄544
【報告等】
◇7月8日(火) 三宅島伝道所支援委員会・伊豆諸島伝道委員会
◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。
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主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
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ヨハネ福音書14:1~7
過越祭を目前に控えた夜、主イエスは「あなたがたは私を探すだろう」と、弟子達と一緒に過ごす時間が終わろうとしていることをお伝えになりました。そして「あなたがたに新しい掟を与えある。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃいました。別れの時間が迫っている中で残されたキリストの言葉には、キリストの万感の想いが込められています。
先生との別れの時が来たことを告げられて、弟子のペトロは驚いて尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか」それに対して、主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。謎めいた主イエスの言葉です。
ペトロは食い下がりました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。「離れ離れになるなど、死んでも嫌だ」、というペトロの気持ちのこもった言葉です。
しかしそれほど強く主イエスのことを慕って訴えるペトロに向かって、主イエスは衝撃的な言葉を告げられました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」
「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、夜が明ける前に、あと数時間のうちに、まだその舌の乾かないうちに、「イエスなど知らない」と三度繰り返すだろう、と予告されたのです。
弟子達はこのペトロへの言葉を聞いて驚いたでしょう。主イエスと自分たちとの美しい師弟関係に皆心打たれていたところでした。
「そんなバカなことがあるだろうか。これだけ自分たちは主イエスのことを慕い、福音宣教の旅を共にしてきた。その自分たちがこのあとすぐ、『イエスなど知らない』と言ったりすることがあるだろうか。先生はたった今、自分たちの足を自ら洗ってくださった。共に夕食も囲んで、素晴らしい時間を過ごしているではないか。」
この時は、皆主イエスに対して強い気持ちを持っていました。誰もが、命がけで主イエスに従う覚悟を持っていました。
ペトロに話しをされていた主イエスは、弟子達全員に向かって「心を騒がせるな」とおっしゃいました。弟子達は、主イエスがおっしゃった「私が行くところにあなたたちは来ることができない」という言葉の中に主イエスがご自分の死に向き合っていらっしゃることを感じ取ったのでしょう。彼らは「心が騒いだ」のです。
主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃいました。しかし「私が死ぬことはないから安心しなさい」とご自分の死を否定なさいませんでした。むしろ主イエスは、「私はこれから死ぬけれども、恐れなくていい」と示されるのです。死を覚悟した主イエスの言葉と表情を見たら恐れるのが当然でしょう。なぜ弟子達は恐れる必要がなかったのでしょうか。
主イエスは「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とだけおっしゃいました。全ては、神の御手の内にある救いのご計画の実現である、ということです。人の目には受け入れがたい悲劇に映るだろう、しかし、すべては神の大きな御心の中にある、ということをお伝えになるのです。
「先生はこれから自分たちと離れてどこに行こうとされているのか」、と考えている弟子達に、主イエスはこれから起こることの意味をお示しになりました。
「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」
この言い方からすると、主イエスとの別れは永遠のものではなく、一旦は離れ離れになってもまた再会が与えられることになっていることが分かります。弟子達は、また主イエスを求める者たちは、やがて主イエスによって迎え入れられ、父の家、つまり神のもとに用意された場所に共に生きることになるという計画の中に入れられるのです。
「こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とおっしゃいました。
弟子達にとって、この夜、主イエスがおっしゃったことは謎でした。謎であると同時に、それはいくら解説されても分からないものでした。主イエスは前もってご自分に、また弟子達に何が起こるかということだけをおっしゃいました。あなたがたは私を見捨てて離れ離れになるが、神の下に場所を用意して私はまたあなたがたを迎えに来る、とおっしゃるのです。
当然、弟子達はそれを聞かされても理解できませんでした。主イエスは「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ってくださっても、分かりませんでした。その時は、です。
キリストの十字架と復活を見て、さらにそこからキリストを見捨てて逃げた自分をキリストご自身が迎えに来てくださったとき、彼らはあの夜のキリストの言葉の意味を本当の意味で知ることになるのです。
この弟子達の信仰体験は、私たちにも与えられているものです。聖書の言葉を読んでも、なんだかよくわからないし、すべて簡単に理解することはできません。しかし、その時キリストの言葉をたとえ理解できなくても、その言葉を心にとめて生きる中で、キリストが何かを見せてくださる時、何かを分からせてくださる時が与えられるのです。
二千年も前に書かれた聖書の言葉が、実は本当に自分のために書かれ、今の自分を生かしているということを教えられる瞬間があるのではないでしょうか。キリストの言葉を、その時は分からなくても、心に留めて生きる中で何かを見せられることがあるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。その時わからなくても、この方を信頼して生きる中でその意味が示されるのです。
私たちは出エジプトを思い起こしたいと思います。エジプトで奴隷とされていたイスラエルは、「エジプトから出て行きなさい」と言われました。モーセが指導者として立てられ、エジプトの奴隷から解放された後、イスラエルは40年間荒れ野を歩くことになりました。
何度もイスラエルの人たちは、「なぜエジプトから出てきたのか、荒れ野で死ぬためなのか」と不平を口にしました。それでも彼らは、昼は雲の柱、夜は被の柱となって導いてくださる神に従って歩き続けました。どこに行くのかわからない、何のために歩いているのかわからない、しかし、神の導きがそこにあるから、神を信じて歩き続けたのです。
荒れ野というのは、道のないところです。荒れ野で神の導きを捨てるということは、自分の道を捨てるということでもありました。
イスラエルが荒れ野の40年の意味を知るのは、約束の地に入る直前、旅の終わりでした。
神はモーセを通しておっしゃいました。
「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」
私たちにも、生きる上での謎があります。試練の時、苦難の時、「一所懸命に生きているのに、なぜ自分にこんなことが起こるのか」と、上に向かってて叫びたくなる時があります。自分が行こうとしている道を進めなくなって、「なぜ前に進めないのか」と悩む時があります。「主よ、なぜですか。キリストよ、なぜですか」と祈る時があります。
しかし、イスラエルが出エジプトの旅の最後にその意味を示されたように、「自分が歩むことを求められていた道は、ここに通じていたのか」と示される時が来るのです。
神の御心がわからず祈る時は、信仰の苦しみの時であるかもしれません。しかし、それでもあきらめずに、聖書の言葉を捨てず、祈った先で、キリストが自分のために用意してくださった道を知れた時、そこにこそ私たちの信仰の喜びがあるのです。
この夜、主イエスがおっしゃる「道」について、弟子達は理解できませんでした。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃる主イエスに、弟子の1人、トマスが言います。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。」
ここで主イエスはおっしゃいます。「私は道であり、真理であり、命である」
「私が行こうとしている道はこういう道だ」という説明ではありません。「私が道である・道とは私である」という言い方をされています。
私たちはどのように「道」を探しているのでしょうか。その道を自分で切り開かなければならないと思っています。しかし、本当は、この方が道であり、この方が私たちに道をくださるというところから信仰の歩みは始まるのです。
主イエスは以前、「私は羊の門である」とおっしゃいました。これも、不思議な表現です。「あそこに行けば門がある」ではなく、「私が門である、私が入り口だ」という言い方です。そうであれば、このイエスという方こそが救いの道そのものであり、救いの入り口そのものであるということになります。
私たちはいつでも「救い」を求めています。「今自分を苦しめているこのことから救われたい」「今自分を支配している空しさから救われたい」という漠然とした思いを持っている。人間関係の悩みかもしれないし、仕事のつらさかもしれない、将来への不安かもしれません。些細なことかもしれないし、死の恐怖へのおびえのような重いものかもしれません。何であれ、心の奥底に、「助けてほしい」という思いを抱えて生きています。
自分で何とかできるのであれば、救いを求めたりはしません。解決策がわかっているのであれば、少しばかり努力をすればいいだけです。しかし、自分にはどうしようもないこと、自分を超えた存在にすがるしかないことがあります。そのようなことを感じた時に私たちは、救いに至る「道」をまた救いに通じる「門・入口」を求めるのです。
ユダヤでは、律法の言葉が、人々を神へと導き、神の支配のもとにとどめるものでした。そして今イエス・キリストは、ご自身が神へと導き、神の支配のもとに人々を休ませる律法そのもの、神の言葉そのものであることを明らかにされたのです。道を探し、真理を求め、命の置き所を探している者にとって、イエス・キリストこそが答えとなるのです。
弟子達はもうすぐそのことを、身をもって知ることになります。キリストを見捨てた自分たち、神から離れた自分たちが、次にどこに道を見出せばいいのか途方に暮れていた時に示された道が、復活のキリストでした。イエス・キリストを通して、弟子達は休息を見出し、永遠の神への礼拝の場を見出すことになります。 Continue reading →
【次週 礼拝(6月29日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:ヨハネ福音書14:1~7
交読文:詩編19:8~11
讃美歌:讃詠546番、22番、217番、48番、頌栄544
【牧師予定】
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ヨハネ福音書13:31~38
13章の最後のところを読みました。13章の最後ですので当然このあと14章を読んでいくことになります。ヨハネ福音書の14章からは17章にまで続くイエス・キリストの最後の別れの教えと祈りの言葉が記録されています。今日私たちが読んだところは14章からのイエスキリストの弟子達への最後の教えを読むための導入の部分でもあります。
ヨハネ福音書はほかの福音書よりもキリストと弟子達との別れの場面に多くの文字を費やしています。キリストは弟子達と過ごされる最後の地上の時、何度も同じことを繰り返しお伝えになります。
ご自分がこれから去って行かれること。
ご自分がいなくなった後への備え。
そしてご自分がいなくなったとしても、それは神の救いのご計画であること。
イエスキリストが最後に弟子たちにお伝えになった言葉は、細かく学問的に分析するというよりも、私たち自身が祈りを持って霊的に自分に語られた言葉として受け止めるべきものでしょう。
私たちが今日読んだのは、イスカリオテのユダがイエスキリストを裏切るために夜の闇の中へと出て行った直後のところです。ユダがそこを去り、物事が主イエスの逮捕と十字架の死へ動き始めました。
そこで主イエスは弟子たちにまた話し始められます。弟子たちがこれから見ることになるイエスキリストの十字架は、決してキリストの敗北はないということ。むしろ神の救いのご計画の実現であるということ。それは神の子の十字架を通して神が栄光をお受けになる時であるということ。
主イエスは、これまで奇跡のしるしと教えの言葉を通して神の栄光を現してこられました。水をぶどう酒に変えたり、病の人を癒したり、何千人もの人の空腹を満たしたりされた不思議なしるしの意味はイエス・キリストの十字架を通して示されることになります。
イエスキリストが十字架の上で最後の瞬間までこれ以上ない痛みと苦しみを背負い、息を引き取られることこそが、神がこの世にお与えになった最大のしるしでした。
キリストは何か人を驚かすようなことをして、ご自分の人間としての地上の栄光を示されたのではありませんでした。神の子の死という痛みを通して、ひざまずくべきは神であるということを世に示されたのです。
その神秘の栄光について弟子達に思い出させたのち、主イエスはご自分の愛する弟子達に、これが別れの言葉であるということを示されました。「私はあとしばらくあなた方と一緒にいる」
彼らは主イエスを探すことになる、しかし、弟子達は一緒に来ることはできない、とおっしゃいます。
弟子たちは衝撃を受けました。これから実際に主イエスがいらっしゃらない道を歩まねばならなくなるのです。そしてそれは、キリストが弟子達を愛したように、弟子達も互いに愛し合うという道でした。
「あなた方に新しい掟を与える。お互いに愛し合いなさい。私があなたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならばそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる。」
なぜキリストは「新しい掟」とおっしゃったのでしょうか。何が新しいのでしょうか。「互いに愛し合いなさい」ということは、新しい掟ではないのです。旧約聖書のレビ記19:18には「隣人を自分自身のように愛しなさい」という有名な律法の言葉があります。これこそ律法の核心とでも言うべき古くから大切にされてきた教えでした。
では一体何が新しいのでしょうか。それは、愛し方でした。「私があなた方を愛したように」互いに愛しなさい、ということです。
13章はキリストが「この上なく弟子達を愛された」という言葉で始まっています。その思いの現れとして、キリストは弟子達一人ひとりの前に跪いて足を洗われました。神は独り子をお与えになったほど世を愛されたとあるように、キリストは弟子達を愛し、足を洗い、そしてこれから彼らのために死なれるのです。
そのキリストに愛された弟子達、キリスト者は、どう生きるべきなのか。どのようにキリストの愛に報いればいいのか。キリストは「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。それが、独り子をお与えになるほどの神の愛への報い方なのです。
キリストに愛されたように互いを思いあう、いたわりあうということが、キリスト者であることの証となり、そしてそれが、イエス・キリストを指し示す証、しるしとなる、と言われています。
私たちは立ち止って考える必要があるでしょう。私たちはなぜ人を愛するのでしょうか。少なくとも、キリスト者として私たちが互いを大切にしようとするのは、相手が愛しやすいからではないでしょう。人を愛することは道徳的・倫理的にそれが正しいだろうと思って愛するのではありません。誰かを愛して、自分が満足するためでもありません。イエス・キリストへの応答として我々は互いを愛するのです。そこにこそ、キリストにある平和が生まれるのです。
弟子達は、この時キリストがおっしゃっていることが理解できませんでした。「あなたがたは私を探すだろう」などと先生はおっしゃっている。「だから互いに愛し合いなさい」などとおっしゃる。
たまらずペトロは尋ねました。「主よ、あなたはどこに行かれるのですか。」それに対して主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とお答えになりました。
ペトロは不服でした。なぜ先生は自分たちから離れていかれるのか。そしてなぜ今一緒について行くことができないのか。
ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。強い気持ちの表明です。しかし、キリストはおっしゃいます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」
この後、ペトロは主イエスがおっしゃったように、わずか数時間後、私はナザレのイエスなど知らない、と三度繰り返してしまいます。そのことを知っている私たちにとって、「あなたのためなら命を捨てます」と豪語したペトロの姿は滑稽に見えるでしょう。しかし、誰も彼を笑うことはできないでしょう。ペトロだけでなく、他の弟子達も同じでした。
キリストの十字架の死の後、ペトロをはじめ弟子達は一か所に集まり、身をひそめていました。皆、キリストを見捨てて逃げたのです。そして「あなたはナザレのイエスの弟子だ」と指さされることが恐ろしかったので身を寄せ合って隠れていたのです。早くエルサレムの人たちがナザレのイエスのことを忘れてほしい、自分たちの顔も忘れてほしい、と願ったでしょう。
主イエスの十字架の出来事から三日目の朝、その墓が空になったという知らせが入りました。ペトロは墓に走って行き、墓が空になったことを自分の目で見ました。そしてその日の夕方、ペトロは、弟子達は、復活のキリストに再会しました。
イエス・キリストは、「なぜあの時私を見捨てたのか」とはおっしゃいませんでした。「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって再び彼らを召し出されたのです。
ペトロは故郷ガリラヤに戻り、再び漁師として魚を採るようになりました。そこでまた復活のイエス・キリストに再会します。彼はそこで主イエスから「私を愛しているか」と三度問われました。「あなたを愛しています」と答えたペトロは、主イエスから言われます。「あなたは行きたくないところへと連れていかれる」
キリストに愛され、召された者として、ペトロ自身が行きたいところではなく、神がペトロにお求めになるところへと連れていかれることになるのです。ペトロは、キリストに許された者として、自分の道からキリストの道を歩むことになるのです。
これが、「信仰に生きる」ということではないでしょうか。自分が行きたいところではないところへと連れていかれることになるのです。自分が行きたいところではなく、神が私たちに必要な道へと導き入れてくださるのです。中には、自分が行きたくない場所もあるでしょう。しかし、「行きたい・行きたくない」とかいうことを超えた何かが、私たちのために用意されているのです。
使徒言行録を見ると、そのことがよくわかります。キリストの使徒たちは、自分が行きたいところではなく、行くべきところへと聖霊によって導かれていきました。
ペトロがヤッファという港町にいた時、ローマの百人隊長コルネリアスという人からの招きの使者が迎えに来ます。ガリラヤの田舎のユダヤ人の漁師に、ローマの軍人が、しかも百人隊長が会いたいと言って来ました。
ペトロとコルネリウスの間には、当時では天と地ほどの身分の違いがありました。ペトロには、キリストの使徒として働く自分をローマの軍人が殺しに来たのかもしれない、という不安もあったでしょう。
しかし、ペトロは、コルネリアスが聖霊によって幻を見せられて自分を招いているということを知って、はるか北のカイサリアまで出向いて行きました。ペトロは自分が行きたい場所ではなく、行くべき場所へと向かったのです。 Continue reading →
【次週 礼拝(6月15日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:ヨハネ福音書13:21~30
交読文:詩編19:8~11
讃美歌:讃詠546番、20番、226番、461番、頌栄544
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◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
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使徒言行録9:1~9
今日はペンテコステです。祈る群れの上に聖霊が注がれ、そこからイエス・キリストの出来事を証言する群れが起こされ、キリスト教会となりました。ペンテコステはギリシャ語で50という数字を表す言葉です。過越祭から数えて50日、つまり、イエス・キリストの十字架から50日目に、聖霊が下るという出来事が起こりました。
ペンテコステは「言葉の出来事」と呼んでもいい事件ではないでしょうか。十字架で殺され、墓に埋葬されたはずの主イエスが復活され、ご自分の弟子達をはじめ多くの人たちに復活のお姿を現わされました。
死人の復活など、誰も信じることができなかったことです。主イエスの墓が空になったということを伝え聞いた弟子達でさえ、「あの方は復活された」という証言を信じることはできませんでした。弟子のトマスは「私は先生の手と脇腹に自分の手を入れて確かめないと信じない」と言ったほどです。しかし、信じることができない人たちも、実際に復活なさったイエス・キリストに出会うことで、信じざるを得なくなりました。
なぜ死人の復活などということを、キリスト教会の人たちは真剣に、自分の人生や命をかけて伝え残してきたのでしょうか。「死人が復活した」などということを、なぜそんなにも多くの人が、時代を超えて信じることができたのでしょうか。そしてその信仰を貫き、命をかけてまで伝えてきたのでしょうか。
キリスト者は、厳密にいえば、「信じた」のではなく、「信じさせられた」「信じざるを得なかった」のではないでしょうか。死者の復活などありえない、しかし、実際にイエス・キリストが自分の目の前に立っていらっしゃる。信じられないようなことが自分の身に起こった、だから「信じざるを得なかった」のです。
私たちの信仰も、実はそのようなものなのではないでしょうか。何の疑いもなくキリストの復活を信じ、なんの疑問もつまずきもなくキリストに身を委ねることができる人は少ないでしょう。
キリストの復活は本当だろうか。本当にあの方は神の子だったのか、メシアだったのか。そう思いながら、それでも、キリストの救いを否定しきれない、信じざるを得ない導きが確かに自分に及んでいる、というのが、弱い私たちの姿勢なのではないでしょうか。
キリスト者の群れ、教会は実は弱いのです。本当は自分たちの力では何もできないのです。使徒言行録を読むと、ペトロやパウロといった使徒たちが活躍する様子が描かれているので、「こんなにも強い伝道者たちがいたのか」と思わされます。
しかし、よく読むと、彼らは、皆、聖霊に導かれて、自分の思いを超えたところへと連れていかれ、自分が思ってもいなかった働きをするよう用いられていることが分かります。
キリストの復活の後、祈る群れがありました。復活のキリストに会い「時を待て」と言われたキリストの弟子達をはじめとする人たちです。その中には主イエスの母マリアもいました。ペンテコステの日には、120人が祈っていた、と書かれています。その祈りの群れに、聖霊が注がれたのです。
「時を待て」と言われた人たちは、「あなたがたは地の果てに至るまで私の証人となる」と言われていました。しかし、時が来たらイエス・キリストを地の果てまで、世界中に伝える証言者となる、と言われても、どうしていいのかわかりませんでした。だから彼らは祈ったのです。祈って待ったのです。
どうしていいかわからない中、人々にできたことは、ただ「祈ってその時を待つ」ということでした。教会というのは、「祈るしかない」「祈って待つしかない」群れであると言ってもいいかもしれません。「祈って時を待つしかない」、実はそれが教会の信仰なのです。
祈っていた群れに、ついにその時が来ました。120人の上に聖霊が注がれ、突然その人たちが、様々な言語で話し始めたのです。何を話し始めたのでしょうか。「神の業」を話し始めたということが使徒言行録には書かれています。「神の業」それはつまりイエス・キリストを通して現わされた神の救いの御業のことです。人々はキリストの十字架と復活の目撃談を語り始めたのです。
そこには諸国からの巡礼者たちがいました。エルサレムに巡礼に来ていた人たちは、自分の国の言葉でナザレのイエスという人に起こった不思議な神の御業が語られていることに驚きました。
祈る群れに聖霊が注がれ、イエス・キリストという救いの言葉を語り始めた、という不思議な出来事が起こったのです。言い方を変えると、イエス・キリストという言葉の中に人々が一つとされていく時がついに来たのです。ペンテコステはまさに、「言葉の出来事」でした。世界が、一つの言葉の中へと招かれ、一つとされていく時の到来だったのです。
聖書の中には、他にも、「言葉の出来事」と呼べる話があります。旧約聖書のバベルの塔です。これはペンテコステとは反対の「言葉の出来事」でした。創世記の初めには、神がおつくりになった秩序が人間の背きによって壊れていく様子が描かれています。天地創造の秩序の崩壊、人間の罪による混乱の物語が、創世記1章から11章まで続きます。その混乱の頂点ともいえるのが、「バベルの塔」として知られている物語です。
聖書にはこう書かれています。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」その人たちが、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と相談して、大きな塔を作ろうとしました。
「シンアルの地」というのは、バビロンのことです。バビロンは昔強大な帝国を築き、ジグラットと呼ばれる大きなピラミッドを建築しました。この物語の背景には、そのようなバビロンの巨大な建造物があるのでしょう。そして、世界を自分の支配下に置こうとしたバビロン帝国の末路も、この物語の背景にあるのでしょう。
神は建築に携わっていた人たちの言葉を混乱させ、言葉が聞き分けられないようにされました。こうしてバベルの塔は完成することはありませんでした。それだけでなく、人々をそこから全地に散らされた、とあります。神が、混乱を人々にお与えになったのです。そうやって、「天に近づこう」「神に近づこう」とする人間の計画を砕かれました。
バベルの塔の物語は、ペンテコステの出来事と真逆のことが描かれています。上から聖霊が注がれ一つの言葉の中へと人々が招かれたというペンテコステとは反対に、人が地上から、下から積み上げていったものを、神は上・天から壊し、ばらばらにされたのです。「人間が一つの言葉の中に平和に生きることができなくなった」という悲劇の現実が描かれているのです。
それは、私たちが生きているこの現実です。このバベルの塔の出来事は、決して過去のことではないのです。今もこの地上にいくらでも作られているし、私たちの心の内にもバベルの塔は簡単に建造されている、ということは、誰も否定できないでしょう。
人間の「天を目指そう、神のようになろう」という思いはいつから始まったのでしょうか。創世記の初め、天地創造の初めからです。神から与えられた楽園で生きていた人間は、楽園以上のものを求めました。
最初の人間が蛇の誘惑に負けます。蛇はエバに言いました。「その実を食べると、あなたは神のようになれるのだ。」その言葉を聞いたエバが木の実を見ると、おいしそうに見えた、とあります。アダムも、エバに勧められてその実を食べました。
人は、美味しそうなものには手が伸びるのです。最も心惹かれるのは、「あなたは神のようになれるのだ」、という囁きです。あの時以来、人は神のようにふるまいたい、天にまで届きたいという思いを内に秘めたまま生きてきたのです。
ダニエル書に、バビロンの王ネブカドネツァルが王宮の屋上の散歩をしていた時の言葉が記されています。「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、この私が都として建て、私の権力の偉大さ、私の威光の尊さを示すものだ」
自画自賛の言葉、神のように振る舞うネブカドネツァルの言葉です。その言葉に対して、神の言葉が与えられます。「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。・・・お前は、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神はみ旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう」
このような神とのやりとりを、誰もがしているのではないでしょうか。本当はネブカドネツァルと同じことを自分も言ってみたい、と思うのです。すべてが、自分の思うようになれば、どんなに楽で、楽しいでしょうか。
しかし、その言葉を求める人は必ず、神からの追放の言葉が下ります。そして、神から離れた場所へと追いやられ、また立ち返りの道を模索し始めることになるのです。人の歴史はこの連続でした。
今日私たちはペンテコステを迎えました。あのバベルの塔の悲劇を踏まえて、ペンテコステの出来事を読むと、まさに、「救いの時が来た」ということが分かるのではないでしょうか。神から離れていた世の人々を、イエス・キリストという一つの言葉の中へと招く聖霊が祈りの群れに注がれたのです。
聖霊が注がれた弟子達はどういう人たちだったでしょうか。「聖霊を受けるにふさわしい人たちだ」と誰もが思えるような群れだったでしょうか。そうではないでしょう。
キリストが十字架に上げられた時に、弟子達は皆逃げ去っていました。ペトロは三度「ナザレのイエスなど知らない」と言ったほどです。これはペトロだけではなく、他の弟子達もそれぞれが逃げた先で同じような言い逃れをしたでしょう。
しかしそのような弟子達を、復活のキリストは再び招かれ、「時に備えよ」と言われました。彼らにもう一度神と共に生きる道を示されたのです。彼らは祈り続けました。祈って時を待ったのです。
そして、ペンテコステの日、聖霊が彼らに下さり、世界中の言葉で、世界中の人たちにどこで一つになれるか、ということを語り始めたのです。神にふさわしくないと思われる人にこそ、神の招きの言葉は伝えられていったのです。
今日私たちは教会の迫害者サウロにキリストが呼びかけられる場面を読みました。キリストの招きは、弟子達だけでなく、教会の迫害者にまで及びました。サウロは熱意をもってキリスト者を迫害していた人です。自分は神のために正しいことをしているのだ、と自信を持っていました。
しかし、復活のキリストは呼びかけられるのです。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」。このことがあってサウロはパウロと呼ばれるようになり、キリストの霊、聖霊に導きにその生涯をささげることになります。
キリストに出会い、パウロは性格が変わったのでしょうか。違います。パウロはキリストを知って、世界の見え方が変わったのです。聖書の言葉の意味が今までと変わったのです。これまで自分が積み上げてきたものは、しょせん、自分という小さな人間が積み上げてきたものにしか過ぎない。しかし、パウロはイエス・キリストという神の子メシアの導きによって、神の御業のために働く喜びを知りました。パウロは、それまで自分が築き上げてきた人間としての誇りなど、キリストに比べれば塵芥でしかない、と手紙の中で書いているほどです。
私たちも同じでしょう。聖書を読んで、キリストを知って、自分の中身が突然聖くなった、聖人のようになったということはないでしょう。むしろ、キリストに相応しくない自分に、なぜかキリストが出会ってくださった。そしてなぜか自分のような者を用いてくださっている、という不思議の方が大きいでしょう。
私たちはこのペンテコステの日、考えたいと思います。「自分の手は何を積み上げているか。この世界をどう見ているか。人間の欲に基づく計画に自分をささげるのか、神のご計画の中で生かされるのか。」 Continue reading →
【次週 礼拝(6月8日)】
招詞:詩編100:1b~3
聖書:使徒言行録9:1~9
交読文:詩編19:8~11
讃美歌:讃詠546番、19番、128番、392番、頌栄544
【報告等】
◇次週はペンテコステ礼拝です。礼拝で聖餐式があります。
【牧師予定】
◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。
集会案内
主日礼拝: 日曜日 10:00~11:00
祈祷会: 日曜日 礼拝後
牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください
ヨハネ福音書13:12~20
イエス・キリストと弟子達の最後の時間を読んでいます。それは「過越祭の前」のこと、つまりキリストの十字架の前の晩のことでした。キリストは弟子達のために上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれ、たらいに水を汲んで、弟子達の足を洗われました。
ヨハネ福音書に記録されているこの夜の様子は、他のマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書とはずいぶん違っています。私たちがよく知っているのは、最後の晩餐の席で、イエス・キリストがパンと葡萄酒をとって、「これは私の体である、これは私の血である」弟子達におっしゃって手渡された、現在の聖餐式の原型となった食卓の光景です。
しかしヨハネ福音書は、そのことよりも、キリストが弟子達の足を洗われたということに焦点を当てて、キリストが最後の夜に弟子達にこのように僕として仕える姿勢を示されたことを描いているのです。
ヨハネ福音書では、6章全体を通してイエス・キリストが、ご自分が天からのパンであり、命の水であることを示された出来事が書かれています。「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と群衆に語りかけていらっしゃいます。4つの福音書の内ヨハネ福音書だけ、キリストがご自分の体と血を人々に差し出される様子の描き方が全く違っているのです。
なぜこのような描き方をしているのでしょうか。少し、福音書の成り立ちについて解説を加えておきたいと思います。ヨハネ福音書は、他の三つの福音書よりも、10~20年、後に書かれたと考えられています。
つまり、ヨハネ福音書を最初に読んでいたのは、イエス・キリストが最後の晩餐の席でパンと葡萄酒をご自分の体と血として弟子達にお与えになり、ご自分の救いの御業を思い出すように、とお命じになっていたことをすでに知っていた人たちでした。
他の福音書ですでに知っていた人たちのために、さらにヨハネ福音書は書かれた、と言っていいでしょう。だから、マタイ、マルコ、ルカの福音書と重複する内容はとても少なくて、ヨハネ福音書独自の内容が描かれているのです。
ヨハネ福音書は、他の福音書とは異なる文体、異なる視点、異なる強調点で書かれています。他の三つの福音書とは違い、ヨハネ福音書は、ご自分が逮捕される最後の夜、弟子達の足を洗い、最後の晩餐を共にし、弟子達に最後の教えを残し、弟子達のためこの世のためにとりなしの祈りを捧げるイエス・キリストのお姿を非常に多くの文字を費やして描いています。最後に弟子達と過ごされる最後の時間の様子は、13章から17章にかけて長々と書かれているのです。
主イエスの最後の夜のヨハネ福音書の強調点はどこにあるのでしょうか。他の三つの福音書は、弟子達にパンと葡萄酒を配って、ご自分の体と血の象徴として思い出すようお命じになったことを描いています。
ヨハネ福音書は、弟子達に、最後の瞬間までこの世に徹底的に仕える、僕としてのイエス・キリストのお姿を我々に描き出そうとしています。私たちは、キリストに従う者としてどのような姿勢で生きていけばいいのか、ということを示されるのです。
ご自分の十字架を前にして、キリストは弟子達の足を洗われました。驚く弟子達に、質問されます。「私があなたがたにしたことがわかるか」
これまでキリストは多くのしるしを行い、人々を驚かせて来られました。皆、そのしるしの意味を知りたがりました。キリストはご自分が行われた御業の意味を細かく説明はなさいませんでした。しかしここでは、キリストは弟子達の足を洗ったことの意味を問うていらっしゃいます。
「私があなたがたにしたことが分かるか」
キリストがこの晩弟子達になさったことは、まさに「しるし」なのです。神の御業の奇跡なのです。それは神が人の足元にひざまずき、自らの手で洗われたという信じがたい奇跡でした。単に、弟子達との最後の時だから何か心に残るようなことをして感動させようとしたというのではありません。
主イエスは弟子達の足を洗われたことを、しるしとして、弟子達がどう理解したか、そしてどう理解すべきなのか、ということをここで説明されます。
主イエスが否定されるのは、弟子達が互いの上に立とうとすることでした。ご自分の十字架の後、弟子達が愚かな権力争いを始めることほどくだらないことはありません。しかし実際、人間はそのようなことに終始するのです。
他の福音書でも、弟子達が「我々の中で一番偉いのは誰か」という議論をしたということが書かれています。キリストの弟子達がそうなのですから、私たちだってこのような思いを抱かないということはないでしょう。
主イエスはおっしゃいます。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあわなければならない。」
弟子達が「キリストの弟子」なのであれば、彼らはキリストがなさったことに倣い、キリストが生きたように、生きることになります。先生が弟子の足を洗うということは、先生が弟子の僕となって仕えた、ということでした。上に立って満足を覚えることではありません。それがキリストの模範でした。
私たちは、イエス・キリストを文字通り「キリスト・救い主」として、生きています。そうであるなら、我々が主イエスを超えるとか、他のキリスト者よりも一段高い位置に居座るとかいうことはあり得ないのです。
7:48に、ファリサイ派の人たちが、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言ったことが書かれています。主イエスの教えに耳を傾ける群衆のことをそう言ったのです。ファリサイ派の人たちは、群衆よりも、主イエスよりも、自分たちの方が偉いと考えました。律法のことは自分たちの方がよく知っている、と。