10月7日の礼拝案内

次週 礼拝(10月7日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書8:31~38

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番60番、168番、270番、頌栄540番

【牧師予定】

◇10月15日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

9月29日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:31~38

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

ユダヤ人の仮庵祭は水と光の祭りでした。その最後の日に主イエスはご自分こそ「命の水」であり「世の光」であると明言されました。主イエスがエルサレムで何かをおっしゃるごとに、人々は「イエスとは何者か」ということを議論しました。

今日読んだところの直前、30節を見ると「多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。そして今日読んだはじめの所、31節で「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と続いています。

その主イエスを信じようとする人たちにおっしゃった言葉は、こういうものでした。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」主イエスは、誰にでもこうおっしゃったのではありません。ご自分を信じようとする人たちにおっしゃいました。

真理が私たちを自由にする、という言葉には新鮮な驚きを感じるのではないでしょうか。主イエスがおっしゃっている真理とはご自分のことです。信仰とか聖書とかいう言葉に置き換えてもいいでしょう。

普通、

「聖書の教え」とか「律法」とか「信仰」とか聞くと、私たちの生活を縛るもの、制限するもの、という風にとらえられがちです。「宗教的な戒律など、自分の自由を制限するものではないか」、と考えてしまいます。「キリストに従う、またキリストの教えに従うということは、自分らしさを押さえつけなければならないのではないか」と思うのです。

しかし、主イエスは反対のことをおっしゃいます。

「真理はあなたを自由にする」

道を求め、神のもとにある平安を求めている人には大きな希望となる言葉です。

しかし、「自分はすでに自由であり、イエスが言っている自由など必要ない」と考える人にとっては、戸惑いを感じる言葉でした。ユダヤ人たちは主イエスの言葉を聞いて不思議に思いました。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」

彼らは「自分たちは奴隷ではない、自分たちは自由だ」と考えていました。自分たちが何かから解放される必要があるなどということは考えてもいなかったのです。その理由は「自分たちがアブラハムの子孫だから」です。

「アブラハムの子孫である」という自己認識を彼らは強く持っていました。アブラハムの子孫である」ということはすなわち自由であり、何かから解放される必要はないということを意味していました。

ここでまた主イエスとユダヤ人たちの意識が食い違っています。ユダヤ人たちは自分たちは何にも縛られない自由なアブラハムの子孫であると考え、主イエスは彼らは何かに支配されているとご覧になっていました。

確かにユダヤ人たちは奴隷という身分にはなかったかもしれません。特にここに出てくるユダヤ人というのはユダヤ人の指導者たちのことなので社会的には高い地位にある人たちでした。自分たちが何かの奴隷とされているなんて言うことは考えてもいませんでした。

この時代、ユダヤ人はローマ帝国という巨大な帝国の支配下に置かれていたので「外国の支配のうちに生きている」という意味では奴隷と言えるかもしれません。しかしローマ帝国では法によって支配されその法を犯さない限りは平和に暮らすことができたのです。

だから自分たちが主イエスによって自由にされる、主イエスが自分たちを解放してくださるということがよくわかりませんでした。そもそも「私たちは自由だ」と思っていたのです。

主イエスが彼らにおっしゃったのは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」という言葉でした。イエス・キリストはこの世は罪の支配の下にあるとご覧になっていました。この世は罪の奴隷とされている、この世は創造主である神から離れている、とご覧になっていたのです。この世を神の平和の支配の元へと連れ戻すこと、それがメシアの使命であり、主イエスが世に来られた理由でした。

キリストの使徒パウロがローマの信徒の手紙の中でこう書いています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかどちらかなのです」

人は神の奴隷として生きるか罪の奴隷として生きるか・・・言葉を変えると、神と共に生きるか、神から離れて生きるか、どちらかだということです。

多くの人は、神から離れて生きることが自由だと感じます。宗教的な戒律に縛られたら自分の自由がなくなる、と思うでしょう。自分の支配者は自分であるべきであり、自分は誰の支配からも自由でありたい、と考えるでしょう。

しかしよく考えると、神から離れたそこに本当の自由はあるのでしょうか。私たち人間は自分自身を持て余すのです。思うようにならないことばかりです。生活も、人間関係も、気楽に気ままに生きることなどできません。人間は自分の手綱をうまくさばくことすらできない、頼りなく弱いものだと、生きていれば気付いてきます。

人間は自分で自分をどうすることもできないのです。自分ほど思い通りにならないものはありません。自分の欲望や弱さに振り回され簡単に誘惑に負けてしまう、自分の意図しないところで、誰かを気付ける・・・実は自分は罪の奴隷である罪の支配下にあるということに気づいていくのではないでしょうか。

パウロが言っている「神の奴隷」とは何でしょうか。神の恵みの支配のうちに生きるということです。そしてそれがわれわれ人間にとっての本当の自由である、ということです。

「神の奴隷として生きる」と聞くと、なんだか堅苦しくて自分の楽しみを全部脇に置いて苦行を続けないといけないようなイメージを持ってしまいますが、そうではありません。そこに本当の自分らしさがあるのだ。被造物が創造主の愛のもとに生きるというところに私たちの本当の自由と平和があるのです。

では具体的にその自由がどこにあるのでしょうか。イエス・キリストのもとにあるのです。だからキリストははっきりとここで「私の言葉にとどまりなさい。そこに真理がありその真理があなたを自由にする」とおっしゃいます。

主イエスはこの後ご自分のことを葡萄の木に例えて弟子たちにお話しなさいます。「私はぶどうの木、あなたたちはその枝である」「枝が木から離れては実を結ぶことができない」「それと同じようにあなたたちは私と離れては生きて行くことができない」

だから「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。「聖書をよく勉強しなさい」ではなく、「私につながっていなさい」です。聖書の知識がどれだけたくさんあっても、律法の掟に従う生活を続けても、イエス・キリストにつながっていなければ意味がないのです。

主イエスはここで「私の言葉に留まるならば」とおっしゃっています。この「留まる」という言葉は、「つながっていなさい」というのと同じ言葉です。イエス・キリストにつながっている、というところに私たちの本当の自由があるのです。

なぜ主イエスは繰り返し「私の言葉にとどまりなさい」「私につながっていなさい」とおっしゃっているのでしょうか。イエス・キリストの弟子となるということは一度きりの点で終わる出来事ではないからです。それは一生涯にわたることであり、その一生涯の全ての瞬間において、絶えず主イエスから離れる危機が訪れるからです。

律法を重んじるユダヤ人たちにとって、律法が真理でした。理性と哲学を重んじるギリシャ人たちにとって、理性と哲学が真理でした。そして今、主イエスは、ご自分が真理である、とおっしゃいました。イエス・キリストのもとに、私たちにとって必要なすべての問いと、すべての答えがあるのです。

私たちは今、イエス・キリストのことを知っています。最初に聖書を読んで、「これは自分のための言葉だ」と思った時、喜びがあったでしょう。「キリストは確かに私を愛してくださっている」と思えた時、喜びがあったでしょう。

しかし、その喜びを持ち続ける、ということは簡単なことではないのです。何かあるとすぐに、聖書の言葉を、キリストの愛を疑います。キリストという真理にとどまり続ける、つながりつづけることは簡単ではないのです。

今日読んだところに出て来た、主イエスを信じるようになった人たちも、すぐに主イエスから離れていくことになってしまいます。少し先を読むとこの人たちが主イエスの言葉を聞いて去っていったということが書かれています。

主イエスの言葉を信じ従おうとして結局主イエスの教えをよくよく聞くと立ち去ってしまう・・・これまでと同じなのです。一度は主イエスのことを信じるけれども、結局自分の考えとは異なる主イエスの教えを聞いて、「そんなことなら信じるのをやめよう」、とみんないなくなってしまうのです。

今私たちの周りでも起こっていることです。その中で私たちは問われます。イエス・キリストは、人々がご自身から去っていくのをご覧になりながら、12弟子たちにお尋ねになりました。

「あなたがたも、離れていきたいか」

何かを、また誰かを信じようとするとき、自分に都合よく信じたいと思う私たちにとって、そのキリストからの問いかけは非常に厳しいものです。私たちを真理から引き離そうとする誘惑の力、罪の力は絶え間なく私たちを襲うのです。キリストに出会った喜びも、聖書の真理に感動した嬉しさも、時間が経って新鮮さが薄れていく中で、この世の一瞬の快楽の誘惑が常に私たちにささやいてきます。

だからこそ、私たちには聖書の言葉が必要なのです。パウロは、イスラエルが歴史の中で犯した様々な過ちによって滅んでしまった体験を、「これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです」と書いています。罪の働きを、人間の弱さを、聖書は教え、私たちの信仰に警鐘を鳴らすのだ。 Continue reading

9月29日の礼拝案内

 次週 礼拝(9月29日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書8:31~38

 交読文:詩編18:40~46

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◇10月12日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会

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9月22日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:21~30

「だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

2000年前、一人のユダヤ人の若者がガリラヤとユダヤで神の国の到来を宣言し、教えを残し、奇跡の業を行いました。そしてその人生は、十字架による死で終わりました。その十字架の後、「ナザレのイエスとは一体何者だったのか」ということが大きな謎として人々の間に残されました。イエスの墓が空になり、たくさんの人たちが、「復活したイエスに出会った」と証言したからです。

あのイエスという人は何者だったのか・・・ヨハネによる福音書は、冒頭の一章でそのことを記しています。「神の言」「命」「光」「栄光」「恵み」「真理」と、様々な言葉で表現しています。そして「父の懐にいる独り子である神、この方が神を示された」と記すのです。

ヨハネ福音書は冒頭で、世に来られた神に対して人々がどのように向き合ったか、ということを書いています。「暗闇は光を理解しなかった」「世は言を認めなかった」「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

「この地上に来られた神を、人間は受け入れなかった」ことを、そして「どのように人間が神の子を排斥したのか」ということを福音書は全体を通して描くのです。今この福音書を読んでいる私たちに問いかけるのです。

「あなたはどうなのか。あなたはイエスを何者だと言うのか」

私たちは仮庵祭での主イエスとユダヤ人とのやりとりを見ています。主イエスは、私は「命のパン」「命の水」「世の光」であると、祭りの中で声を大にしておっしゃいました。

それに対して、エルサレムの人たちはさまざまな反応を示しました。「あの人は良い人だ」と言う人もいれば、「いやあの人は群衆を惑わしている」という人もいました。主イエスのことを信じようした人たちも、主イエスの語られる言葉を聞いて、皆離れていきました。主イエスの謎めいた言葉に、ついていけなかったのです。

今日私たちが読んだところでも、主イエスは謎めいた言葉をおっしゃっている。

「私は去っていく。あなたたちは私を探すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行くところに、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちはこれを聞いて、「イエスは自殺でもするのだろうか」と話し合いました。

7:33以下でも主イエスはこうおっしゃっています。

「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない。私のいるところに、あなたたちは来ることができない。」

その時も、ユダヤ人たちは、「私たちが見つけることはない、とは、一体どこへ行くつもりだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか」と主イエスの言葉を理解することはできませんでした。

主イエスの言葉はたしかにわかりにくいかもしれません。一つわかるのは、主イエスが人々の前からいなくなる時が迫っている、ということです。「迫りくる時」とは何の時なのでしょうか。それは主イエスがご自身が「上に」帰って行かれる時、ご自分の十字架と復活の時のことです。

人々は主イエスの死を始めましたが、主イエスの言葉を見ると、ご自分を受け入れない人たちに訪れる死のことをおっしゃっていることがわかります。「世の光」を受け入れないということは神の光の支配、恵みの支配から離れる、ということです。それは罪の闇に陥るということであり、神から離れた命、すなわち死に至る、ということなのです。

今日私たちが読んだところに出てきた人たちを見ればわかります、人間は目の前のことしか見てないのです。自分が見えるもの、自分が理解できるものがすべてであり、自分に入りきらないものは受け入れようとしないのです。

主イエスの十字架の死、そして三日目の復活を体験していない人には確かに難しいでしょう。「ナザレのイエスは一体何者だったのか」・・・そのことを知ろうと思えば、私たちは主イエスの十字架と復活、そして昇天を知らなければなりません。イエス・キリストの十字架と復活なしにキリストを信じるということはできないのです。

目の前だけを見ている人々に、しかしキリストは、世の終わりに心を向けるようおっしゃいます。私たちが世の終わりに心を向け、そこから今を捉えなおした時、私たちは自分の今が天の故郷へと向かう歩みであり、この世は仮住まいであることを知るのです。

私たちは世の終わり立って今の自分を見つめる視点を持たなければなりません。そこから今の自分を見てどうでしょうか。キリストが命をかけて永遠の命・メシアの宴を示してくださったのに対して、自分はそれをどれだけ信じることができているだろうか、と信仰を省みるのではないでしょうか。

使徒パウロは、イエス・キリストのことを、「死を永遠に滅ぼされる方」として手紙の中で書いています。「キリストは、神がすべての敵をキリストの足元に置く時まで、支配することになっている。最後の敵として死が滅ぼされる」1コリ15:26

イエス・キリストが私たちのために用意してくださっている最終的な目的、また最後の目的地は死が滅ぼされた世界、永遠の命なのです。

主イエスは地上のものと天からものとをはっきり分けてお話しなさっています。ユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたがたは下からのものであり、私は上からのものである」。そしてご自分を信じない彼らに向かって「あなたがたは自分たちの罪の内に死ぬであろう」とおっしゃいました。

「死」とは何でしょうか。神から離れた暗闇に留まることです。それは罪の支配、死の支配です。創造主から離れた被造物は、創造主の御手から離れた場所では生きられません。自分が神になるか、自分のために神を作り出すかしかなくなってしまいます。被造物らしさ、人間らしさを失うのです。

主イエスは「わたしはある」ということを知らなければならないとおっしゃいます。「わたしはある」と聞いて思い出すのは、出エジプト記でモーセが神に名前を尋ねる場面でしょう。神はお答えになりました。「わたしはある、わたしはあるというものだ」

神は、共にいてくださる神であることをモーセに示されました。その名が示す通り、40年間の荒野を神は片時もイスラエルから離れず、昼も夜も共にいて約束の地へと導いてくださいました。

そして今、インマヌエル「神我らとともにあり」と呼ばれるメシアがこの世にお生まれになったのです。

人々は、イエス・キリストを前にして、「わたしはある」という方であり、この方を通して神は共にいてくださることを学ぶのです。共にいてくださるインマヌエルの神から離れようとするのであれば、私たちは闇と死の中に生きることになります。そしてそれは、本当の自分らしさを失う、ということなのです。

創造主である神が私たちに望んでいらっしゃるのと反対の生き方をすれば、私たちはどんなにあがいても、破滅へと向かっていきます。だから、キリストは「私のもとに来なさい」と招かれるのです。

キリストは「時が迫っている」ことを繰り返されます。共観福音書に帰ってきた主人の例え話が語られています。旅に出た主人が、突然家に戻ってきて、僕たちを裁く、という話です。任されていた仕事をきちんと果たしていた部下は「よくやった私のよいしもべよ」と褒めてもらえましたが、「主人はもう帰って来ないだろう」と思って任された仕事をしていなかった僕たちは主人から厳しく裁かれることになった、という話だ。これは世の終わりに私たちを待つ裁きを指すたとえ話です。

イエス・キリストはいつでも世の終わりにある裁きに目を向けるようおっしゃいます。しかし、世の終わりというところに人間はなかなか目を向けることができません。今自分の目の前にあることだけを見て、目に見えることだけで判断して生きてしまうのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。「すべての者は自分自身の事柄は熱心に求めるが、イエス・キリストの事柄は熱心に求めはしない。」フィリ2:21

私たちが自分自身のことしか考えないのであれば、この世の歩みの中で失望することになります。肉体の死を間近に見た時、希望を持てなくなるのです。そこで終わりだ、と思うからです。

しかし神が用意してくださっている永遠の命を信じる者にとっては、その肉体の死は終わりではありません。それは絶望ではないのです。その向こうにまでキリストのお姿を見るからです。

信仰者はいつでもキリストの姿を見ようとします。生きている間も、死の向こう側にも。そしてイエスキリストが私たちの肉体の死の向こう側に用意してくださっている永遠の命を見ようとします。キリストと共に囲むメシアの宴を見据えます。

メシアの宴の席で、「よくやった良いしもべよ。あなたは私が与えた地上での時間を私に忠実に生きてくれた。あなたがしたことは小さな種まきだったが必ずその種を私が大きく育てる」とキリストから言っていただけることを信じるのです。

イエス・キリストから託されている賜を一人一人に与えられたこの地上での時間の中で充分に用いて行きたいと思います。 Continue reading

9月22日の礼拝案内

次週 礼拝(9月22日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書8:21~30

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番57番、291番、316番、頌栄540番

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◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

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9月15日の礼拝説教

ヨハネ福音書8:12~20

「私は世の光である。私についてくるものは闇の内を歩むことなく、命の光を持つことになる」

主イエスはエルサレムに下り、仮庵祭の中で人々にお教えになりました。これまでも何度か触れてきましたが、仮庵祭は「水と光の祭り」です。イスラエルの先祖が、出エジプトの際荒野で神から水をいただき、神ご自身が火の柱をもって夜寝ずの番をしてくださったことで解放への旅路を歩んだことを思い出す祭りです。

イスラエルは、出エジプトという40年の荒野の旅を通して、自分たちが神によって生かされているということを学びました。そして、荒野で神からいただいた命のパンであるマナを、命の水である岩からの水を、世の光である火の柱・神の守りを忘れないように、祭りを行ってきたのです。

主イエスはご自分の兄弟たちから「祭りに行って、自分の教えを言い広めてはどうか」と提案されました。しかしここで大切なことは、ご自分の意志で、時と方法をお選びになり、そうなさった、ということです。

仮庵祭が一番の盛り上がりを見せる最終日に、立ち上がって大声で叫ばれました。

「誰でも、渇いている者は誰でも私のもとに来て飲みなさい」

仮庵祭では、水汲みの儀式が行われます。その時を選び、主イエスは立ち上がって大声で叫ばれました。人々が自分を生かす命の水に心を向けているまさにその時、ご自分こそが生きた水の源であるということを宣言されたのです。

「渇いている人は、ここに来なさい」というのは、神が預言者を通してイスラエルに呼びかけられた言葉です。預言者イザヤを通して神はおっしゃいました。

「苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、渇きに舌は干上がる。主である私が彼ら答えよう。イスラエルの神である私は彼らを見捨てない。」41:17

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。・・・耳を傾けて聞き、私のもとに来るがよい。聞きしたがって、魂に命を得よ」55:1~3

そして同時に、ご自分のことを「私は世の光である」とおっしゃいました。それが今日私たちが読んだところです。

仮庵祭では最初の夜、4つの金のランプが神殿の庭に掲げられ照らされます。人々はそこで夜通し踊って祝います。そのようにしてイスラエルが出エジプトの際、荒野で神の光によって守られていたということに思いをはせるのです。

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」 出エジプト記13:21

イスラエルが大切にしてきた「光」とは何でしょうか。現代の我々は、「光」と聞くと電気の明かりを思い浮かべるでしょう。私たちは電気の光の中に生きているので、古代の人たちの見ていた闇の深さ、またその恐ろしさがどれほどのものであったかは想像しにくいと思います。

深い闇の中で与えられた小さなランプの光がどれほど人々に安心をもたらしたか、私たちの想像をこえたものがあったでしょう。ましてや、荒野の夜の闇となると、どんなに普段力があっていばっている人であってもなすすべ無くおびえるしかなかったでしょう。

その闇の中で求める光・その闇の中に与えられる光こそが、聖書が指し示すものなのです。それは、暗いところでものが見えるようになる、という意味での光ではありません。生きる中で感じる闇、道を失い、すべての方向がわからなくなった時に感じる闇の中で与えられる神の導きの光のことです。

人は、光を求めます。出エジプトの際の雲の柱、火の柱を今でも求めます。荒野での導きとは、道なきところに自分が行くべき道が示されるということです。それは、言葉を変えると「救い」です。道を失い、もうそのまま滅びるしかない自分に、また生きる道が与えられる、ということです。イスラエルの先祖は荒野で過ごす夜を、神の火の柱の光によって守られました。信仰者にとって、主なる神自身が光なのです。

詩篇27篇1節「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう」

神ご自身が光です。そして私たちにとっては、イエス・キリストが光そのものなのです。

キリストは「私は世の光である」とおっしゃいました。つまりそれは、出エジプトによってイスラエルを救われた神ご自身であるということです。遠くからご覧になっていた神ではなく、イスラエルと共に荒野を歩み、守り導き続けられた神です。

聖書は、「光」のことを神の言葉・律法の象徴として伝えています。

「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らすともしび」 詩篇119篇105節

イスラエルの人たちは、闇を知っていました。それは、単に太陽が沈んで暗くなった闇のことではなく、神から離れた闇です。罪です。

イスラエルの歴史は、神から離れた歩みの歴史、罪の歴史でした。罪の歩みの中で与えられる本当の救い・光は、神であり、神の言葉なのです。

そして今、イエス・キリストはご自分を「真の世の光」として人々に示されました。

「私に従うものは暗闇の中を歩かない」

そうおっしゃる方が、この世に来てくださったのです。キリストに出会う、キリストを知る、ということはそういうことではないでしょうか。キリストは、後で弟子たちに、「私は道であり真理であり命である」とおっしゃいます。キリストこそ、私たちにとって歩むべき道であり、私たちが求めて進む方向であり、私たちを生かす希望なのです。

イエス・キリストが神殿でご自分のお姿を公に現し、皆に聞こえる言葉でご自身が光であることを示されたことがどれだけ大きな意味をもつことであったか、ということを捉えたいと思います。

イスラエルは出エジプトの荒野を神と共に歩みました。神に導かれて、一歩一歩が守られ、歩みを進めることができました。40年間、神は、昼間は雲の柱としてイスラエルを導き、夜は火の柱として寝ずの番をしてくださったのです。

イスラエルの民は、そこに神を見ながら歩きました。しかし荒野を歩き続けるのはつらいのです。イスラエルは叫びました。

「荒野を歩くよりもエジプトで奴隷として生きるほうがよかった」

我々地上を生きる人間にとって、つらいのは、神のお姿が自分の目には見えない、ということではないでしょうか。目に見えないから、神の存在そのものを疑ったり、辛いことがあれば「神は本当にいらっしゃるのか、神は本当に今の自分をご覧になっているのか」、と不安になって信仰が揺れるのです。

では神のお姿が見えたら、私たちの信仰の不安はすべてなくなるのでしょうか。そうではないでしょう。神のお姿が目の前に見えていたとしても、たとえ昼は雲となり夜は火となって守り導いてくださるのが見えていたとしても、「今よりも過去のほうが良かった」、と思うことがあれば、神に不満をぶつけるのです。出エジプトのイスラエルの民の姿を通して、そのことが示されています。全幅の信頼を寄せて従うことに疑問を持ってしまうのです。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストのことをとても象徴的に描き出しています。人を生かす水として、パンとして。そして世を照らす光として描きます。

私たちは今、世の光を知っています。光を知っている、ということは、すべての悩み・迷いが消えてなくなる、ということではありません。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはおっしゃいます。

「あなた方は世の光である。」 Continue reading

9月15日の礼拝案内

次週 礼拝(9月15日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書8:12~20

 交読文:詩編18:40~46

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9月8日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:53~8:11

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」

ヨハネ福音書には、姦通した女性が主イエスのもとに連れてこられた出来事が記録されています。主イエスのもとに、ファリサイ派の人たちが姦通の現場を押さえられた女性を連れてきて、たくさんの人たちが見ている前で、「律法に書かれているように、この女性を殺すべきか」と質問しました。

この出来事は、もともとはヨハネ福音書には書かれていなかった出来事だろうと言われています。物語の流れとして、この事件は唐突すぎるのです。文脈のつながりもありません。今日読んだところが、カッコでくくられているのはそういういう理由です。

ヨハネ福音書 20章30節には、主イエスがなさったことは「この世の書物には書ききれない」と書かれています。その言葉通り、この姦通を犯した女性のエピソードのような、本当は福音書の中に入れられなかったイエス・キリストの奇跡やしるしや教えたくさんあったのでしょう。

福音書には入れられなかったけれども、このエピソードはとても有名でたくさんの人が知っていたことなので、福音書の中に入れて後世の信仰者に語り伝えよう、ということで、後の時代にヨハネ福音書のここに挿入されたのだろう、と考えられています。

この場面を通して描かれているのは、裁かれているのは実は逮捕された女性ではない、ということです。女性を利用してナザレのイエスを裁こうとしてファリサイ派の人たち本当に神の子を裁くことができるのか、人間は神を裁くことができるのか、ということが問われているのだ。

実際に裁かれたのは、この女性を連れてきた人たちのほうでした。「罪を犯したことがない者からこの女性に石を投げなさい」と言われ、一人、また一人と年長者からその場を去って行きます。結局、罪が明らかにされたのはこの女性を引っ張ってきた人たちだったのです。

そして、女性は主イエスから「私はあなたを罪に定めない」と言われ、許しを得て、また日常に戻っていくことになりました。私たちはこのエピソードから何を学ぶことができるでしょうか。

事件は、神殿の境内で起こりました。朝早く主イエスはそこに行き、人々に教えていらっしゃいました。

主イエスの時代の神殿は、誰がどこまで入れるか、という区別が細かくされていました。祭司の庭というのがあり、その手前にはイスラエルの庭、つまり男性が入れる庭、その外側には婦人の庭、異邦人の庭、という風に、誰がどこまで入れるか、ということが細かく分けられていたのです。

そこにファリサイ派と律法学者たちが姦通の現場で捕えられた女性を連れて来ました。つまり、主イエスは「婦人の庭」でお教えになっていた、ということになります。異邦人でなければ誰でも入れる場所であり、誰でも主イエスの話を聞ける場所でした。男性も女性も、すべてのユダヤ人が大勢いるところに、あえてファリサイ派の人たちは捕えた女性を連れて、さらし者にしたのです。その女性をみんなに見えるところ、「真ん中」に立たせた、と書かれています。

しかし、本当の標的は、ナザレのイエスでした。イエスを大勢のユダヤ人の前で失墜させることが彼らの目的でした。そのための舞台は整いました。

彼らは主イエスに向かって「先生」と呼び掛けます。律法の専門家として意見を聞かせてほしい、というのです。「こういう女は石で撃ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」

女性を辱めつつ、「彼らは主イエスを試して、訴える口実を得るため」にそう言った、と書かれています。よく考えられた罠です。この女性は現場を取り押さえられた、ということなので、姦通の罪は明らかでした。

主イエスには二つの選択肢しかありません。「律法で言われている通り、殺すべきだ」と答えるか、「律法ではそう言っているが、従う必要はない。殺すのはやめなさい」と答えるか。

一つ不思議に思うのは、姦通の現場を取り押さえられたのに、女性の相手の男性は連れてこられていないということです。申命記の律法を見ると、姦淫の罪に関しては、男性も女性も両方裁かれなければならないと書かれています。しかしここには、この女性の相手は連れてこられていないのです。貫通の現場で捕えられたのであれば、男性も一緒に捕えられていたはずです。

男性だけは許されて解放されたということでしょうか。ファリサイ派の人たちが主イエスを陥れるために、その二人の関係を利用したということなのでしょうか。男性を使って女性を陥れ、それを利用してナザレのイエスを陥れようとしたのでしょうか。

ファリサイ派の人たちの裏での工作があったのかどうかは書かれていません。しかし女性一人だけが連れてこられたということは不自然であり、用意周到にナザレのイエスを陥れようとしていた人たちの意図が見え隠れしています。大体、ファリサイ派や律法学者たちは、こんなことを公衆の面前で尋ねる必要などなかったはずです。

今彼らが知ろうとしているのは、「モーセがどう言っているか・律法でどう定められているか」、ではなく、「イエスがそのモーセの律法に従うかどうか」、ということでした。ファリサイ派の人たちにとって、男女の貫通の罪を裁くよりもこの2人を使ってナザレのイエスを陥れることの方が大きな目的だったのです。

主イエスはどうなさったでしょうか。「地面に何かを書き始めた」、と書かれています。何を書き始められたのかは、聖書にははっきり記されていません。

主イエスが「女性に石を投げてはいけない」と言えばモーセの律法・聖書の掟を否定することになります。「石を投げて殺すべきだ」と言えば、ローマの法律ではそのような殺人の罪に問われるので、主イエスは殺人を主導した罪で裁かれることになります。

主イエスが律法を否定すれば神殿で教えることはできなくなります。女性を殺すことを認めれば、人々を救うために来たというご自分の主張が崩れてしまいます。

とてもよく考えられた罠だ。主イエスは「どう思いますか」と尋ねられているのに地面に何かを書き続けておられました。

主イエスは一体何を地面に書いていらっしゃったのでしょうか。想像するしかありませんが、ある人は 出エジプト記23章1節の法廷におけるあり方の律法を書いていたのではないか、と言っています。

「あなたは根拠のないうわさ話を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」

これは推測でしかありませんが、確かに、この場面にふさわしい律法の言葉でしょう。地面に書いた文字を通して、ファリサイ派の人たちに、自分たちが犯している過ちに気づかせようとなさったのでしょうか・・・。

ファリサイ派の人たちは、なかなか答えようとしないナザレのイエスに対して、しつこく問い続けました。ついに主イエスは立ち上がってお答えになります。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

そしてまた、地面に何かを書き続けられました。

「姦通の罪を犯した者に石を投げるべきかどうか」、という問題が、主イエスの一言によって、「誰が罪人に石を投げることができるか・自分は罪のない人間であるかどうか」、という問題になりました。

すると「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、主イエスと女性だけになった」と書かれています。長く生きてきた人たちから順にその場を立ち去った、ということに、私たちは深く考えさせられるのではないでしょうか。人は生きれば生きるほど、思い出す罪が増えていくでしょう。

一体誰が、手放しで他の人を裁くことができるでしょうか。皆、自分の罪に目を向けないからこそ、他人を裁くのです。

主イエスは女性にお尋ねになりました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」女性は答えます。「主よ、誰も。」

女性は、ナザレのイエスに向かって、「主よ」と呼びかけました。本当に自分を許し、自分を救ってくださったのはこの方であり、この方こそ本当の裁きをなさる方であるということを知ったのです。

主イエスは以前エルサレムでおっしゃったことがあります。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。全ての人が、父を敬うように、子を敬うようになるためである」5:22

この方が本当の裁きを行われる方であるということは、この方にこそ本当の許しがあるということです。 Continue reading

9月8日の礼拝案内

 次週 礼拝(9月8日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書7:53~8:11

 交読文:詩編18:40~46

讃美歌:讃詠546番55番、399番、492番、頌栄539番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月1日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:40~52

「下役たちは祭司長たちとファリサイ派の人々のところに戻ってきた」

ナザレのイエスとは何者なのか・・・これが、主イエスを見た人たちが問われたことでした。そしてこの謎は、主イエスの十字架の後にも残されることになります。ゴルゴタの丘で十字架にかけられ処刑されたイエスは、一体何者だったのか?主イエスの死後何世紀も議論され、今でも、すべての人が問われていることです。

「2000年前に、十字架で殺されたイエスという青年は、あなたにとってどういう存在なのか。」聖書は、この世のすべの人に問いかけているのです。

主イエスは仮庵の祭りの中で、ご自分のことを命のパン、命の水であると大声で人々に叫ばれました。ご自分のことを安息日やこの祭りを超えた存在であること示されたことで、人々は様々な反応を示します。エルサレムの群衆の中には「この人は本当にあの預言者だ」という人、「この人はメシアだ」という人たちが出てきました。

、主イエスを信じる人もいた一方で、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言って、信じない人たちもいました。特に、ユダヤ人の指導者たち、聖書の言葉に精通している人たちは、主イエスがガリラヤ地方のナザレ出身であることを理由に、メシアであることを否定しました。

「メシアは誰も知らないところから、誰にも知られずに来る」と考えられていました。ナザレのイエスは神からの預言者またメシアのようにも思えても、自分たちが伝え聞いてきたメシアの条件に当て嵌まらない、ということでエルサレムの人々は困惑しました。イエスがガリラヤ出身でヨセフとマリアの子であるということを皆知っていたからです。

確かに、旧約の預言者たちは、メシアがどこから来るのか、ということを様々に預言しています。預言書ミカ書ではメシアはベツレヘムから来ると預言されています。イザヤ書にも、「異邦人のガリラヤに光が差し込む」と預言されています。しかし、それらは地上的な意味においての出身地のことでした。

預言者たちがそもそも伝えてきたのは、「天にいらっしゃる神ご自身がやがてメシアとして地上に来られる」、ということでした。そしてこのヨハネ福音書でもイエスが天の父のもとから送られた方であると証されています。主イエスご自身が何度も「天の父が私をおつかわしになった」とおっしゃるのです。

「イエスは何者なのか」ということで人々は議論し、分裂していきました。ナザレのイエスは律法の破壊者なのか、神の権威を持ったメシアであるのか。ユダヤ人の信仰を惑わせて神の礼拝から人々を引き離そうとしているのか、それとも、律法の言葉、預言の言葉を実現させようとしているのか。ガリラヤのナザレ出身の大工なのか、神から遣わされた、天の力と権能を持った方なのか。

人々の困惑の中、主イエスを逮捕しに行った下役たちは、手ぶらで戻ってきました。遣わしたファリサイ派の人たちは、「どうしてあの男を連れてこなかったのか」と驚きました。

下役たちの答えはこうでした。

「今まで、あの人のように話した人はいません」

下役たちも、主イエスの教えを聞いたのです。そしてイエスがメシアであるということを否定することができなくなったのです。ユダヤの指導者たちでさえ、主イエスの教えを聞いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と驚いたぐらいなので当然彼らも感銘を受けました。

「もしナザレのイエスがキリストだったとしたら・・・自分たちはメシアを捕えようとしているのではないか」、と下役たちは恐ろしくなったのです。報告を聞いたファリサイ派の人たちは怒りました。

彼らは、自分たちの律法理解と違う人たちはすべて間違っているという考えを持っていました。自分たちこそ聖書を、律法を正しく解釈しているという自信があったのです。ファリサイ派の人たちは、律法に詳しくない一般の人たちのことを見下して、「律法を知らない群衆は呪われている」とまで言っています。

このような彼らの姿勢が、天から来られた神の子を十字架へと上げることになっていきます。私たちは考えたいと思います。「自分の理解と違う人たちは、間違っている」、という極端な考えは、実は誰もが陥ってしまう信仰の罠ではないでしょうか。

使徒パウロがそうでした。まだサウロと呼ばれていた頃、キリスト者を迫害しました。自分が学んできた聖書の理解と異なる人たちを牢に送り込む活動をしていたのです。パウロは迫害に熱心でした。それは「自分が正しい」「自分がやっていることは神のみ旨にかなっている」、と信じ切っていたからです。

パウロは手紙の中でこう書いています。

「私は生まれて八日目にイスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした」

ファリサイ派の一員であったパウロは自分が非の打ちどころのない正しさを持っていることを確信して、迫害していたのです。

今、主イエスを全く受け入れようとしないファリサイ派の人たちは、パウロがサウロであった時と同じ熱心さで否定しています。自分の信仰が正しくて他の人たちの信仰は間違っている、という姿勢を貫くことで、皮肉にもファリサイ派の人たちが一番神のメシアの姿が一番見えなくなっているのです。

自分こそ一番神の御心に近いところにいると思っているのにと、実は一番遠いところにいた、ということは、笑い話のようなことですが、実は信仰者が簡単に陥る罠ではないでしょうか。

そのことを本当に教えられるのは、キリストとの出会いです。パウロは復活のイエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか」と声をかけられ、自分がやっていることが神の御心に反していることを知りました。

パウロは言います。

「私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています。」

私たちも、同じことが言えるでしょう。自分の力で得て来たもの、勝ち取ってきたものが、キリストとの出会いのすばらしさには叶わない、と思わされる瞬間があるはずです。それこそが人を新しくするのです。

ファリサイ派の人たちは、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか」と言いました。その言葉を受けて、ニコデモという人が発言しました。

「私たちの律法によれば、まず本人から事情を聴き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないということになっているではないか」

この人は三章に出てきたイスラエルの教師です。ニコデモもファリサイ派の一員だったのです。自分の仲間たちが、主イエスのことを何も聞こうとも知ろうともせずに有罪にしようとしていたことをおかしく思ったのです。

しかしニコデモの仲間たちは聞く耳を持ちませんでした。

「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことがわかる。」

イエスがどんな教えを説いているのか、どんなしるしをおこなっているのか、ではなく、イエスがガリラヤ出身だからメシアではないのだ、と言い切っています。彼らが主イエスを否定するのは、ガリラヤ出身であるという、ただそれだけのことでした。

イザヤ書の預言に「異邦人のガリラヤ」という言葉があります。それほど、ユダヤ地方の人たちから見てガリラヤ地方というのは中央から遠い場所だったのです。エルサレムの人たちからすれば、むしろ外国に近い、国の端っこ、という意識があったのでしょう。

そのような言い方をされたら、ニコデモも黙るしかなかったのでしょう。しかしニコデモの中に一つの大きな疑問が残りました。律法に反しているのは、神の御心に反しているのは、ファリサイ派なのか、ナザレのイエスなのか。

ニコデモが他のファリサイ派の人たちと違うのは、一度主イエスに会い、時間をかけて言葉を交わしたことがあるということです。3章にその時のことが書かれています。

ニコデモは夜、誰にも知られないように、ひそかに主イエスのもとを訪ねた。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたニコデモは、「どうしてそんなことがありましょうか」と主イエスに向かって繰り返しました。主イエスが何をおっしゃっているのか、わからなかったのです。

あの夜以来、ニコデモは主イエスがおっしゃった言葉を自分の中で繰り返し思い出し、吟味してきたでしょう。「あの方は私に何を伝えようとなさったのか。」 Continue reading