05月30日の礼拝案内

【次週礼拝(5月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書10:32~34

 交読文:詩編1編

 讃美歌:讃詠546番、12番、336番、280番、頌栄539番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

05月23日の説教要旨

使徒言行録2:14~21

「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る』」(2:16~17)

ペンテコステは、「五旬祭」と呼ばれるお祭りでした。収穫のお祝いであると同時に、エジプトから脱出したイスラエルが、シナイ山で律法を与えられたことを祝う祭りでした。過越祭の安息日の翌日から数えて50日目に当たる日、つまり、イエス・キリストの十字架と復活の出来事から50日を数えた時に起こった出来事が記されています。聖霊が降り、教会が造られた瞬間です。

イエス・キリストが十字架で殺されてから三日目の朝、その墓が空になり、そのことがキリストの弟子達に伝えられました。しかし「あの方は墓の中から、死人の中から蘇られました」と伝えられても弟子達は、はじめは信じられませんでした。

復活なさったキリストは弟子達と、ご自分を信じて従っていた人たちにご自分を現わされました。

主イエスは弟子達におっしゃいました。「あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられる」

これを聞いた弟子達は期待しました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」

弟子達にとって、主イエスが、当時ローマに占領されていたイスラエルをローマから解放して、自分たちに支配を取り戻してくださることが「救い」だったようです。

しかし、主イエスはこうおっしゃいました。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなた方の知るところではない。あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、地の果てに至るまで、私の証人となる。」

神が歴史の中で用意してくださっていた「救い」と、弟子達が期待していた「救い」は、どうやら違っていたようです。

天に昇って行かれる主イエスを見送った弟子達、また主の復活を見た人たちは、その後一か所に集まって祈り始めました。その祈りはペンテコステの日まで続きます。その祈りの群れの上に、聖霊が注がれたのです。

こうして見ると、教会というのは、人間が作ったものではない、ということがわかります。主イエスを慕っていた人たちが、「一緒に教会というものを作ろう」と相談して、計画してできたものではありません。教会は、我々人間の力で建ち上げたものではなく、神の創造の御業によって創造されたものなのです。そして神に造られた教会が今日までイエス・キリストへの祈りを捧げ続けて来た、ということも、時代を超えた聖霊の働きによるものなのです。

三宅島伝道所は、昨年度から毎週の主日礼拝を再開しています。38年間、三宅島伝道所には定住の牧師がいませんでした。それでも三宅島のクリスチャンは信仰をすてず、祈り続けました。その間、噴火があり、避難生活がありました。伝道所の礼拝堂は溶岩で燃えてしまい、礼拝の場所を失った三宅島のキリスト者は一人、二人と減っていきました。

しかし、今、こうして、新しい礼拝堂が備えられ、牧師が招聘され、新しい信仰者も導かれ、こうして三宅島伝道所の礼拝が新たに創造されたのです。

信じられないような奇跡だと思います。もちろん、三宅島伝道所を支えるためにたくさんの人たちの働きがありました。東京の諸教会が三宅島伝道所のために祈り、支え、牧師たちが御言葉を伝えるために島に通い続けてくれました。

しかし、三宅島伝道所を支えてくださったそのたくさんの信仰者を起こしたのは、聖霊の働きなのです。もし、教会が人の手によって、人間の力、人間力によって造られていくものだったとしたら、世代が変わるとすぐにダメになってしまうでしょう。教会は上から造られたものであり、上から造られ続けるものである、ということを覚えたいと思います。

さて、ペンテコステに聖霊が注がれ、炎のような舌が与えられたキリストの弟子達、信仰者たちは、突然それぞれがいろんな国の言葉で話し始めました。それを周りで見た人たちは驚きました。

この時、周りにいたのは、過越祭や五旬祭を祝うために世界中からエルサレムへと巡礼に来ていたユダヤ人たちでした。

当時、ローマ帝国のいろんな場所にユダヤ人たちは散らばって住んでいましたが、彼らはこの時、過越祭やペンテコステの祭りを祝うために、それぞれ住んでいた場所から巡礼に来ていたのです。

その人たちは、キリストの弟子達がいろんな言葉で話しているのを見て、「あの人たちは酒に酔っているのだ」と言いました。そのように考えて納得するしかなかったのでしょう。

しかし、それを聞いた主イエスの一番弟子であったペトロは、立ち上がって言いました。「我々は酒に酔っているのではありません。我々がいろんな言葉で神の御業について語っているのは、預言者が残していた預言の実現なのです。」

ペトロは、旧約聖書の預言書の一つ、ヨエルの預言を周りの人に言って聞かせます。「神は言われる。終わりの時に、私の霊を全ての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・。」

彼らがいろんな言葉で神の偉大な御業について語り始めた、ということ、それはまさに「終わりの時に神が全ての人に霊を注がれ、神の言葉を語り始める」というヨエル預言の実現だったのです。

ヨエルが預言した「終わりの時」とは裁きの時のことです。神の前に全ての人が立たされ、裁かれる時・・・ペトロは「それが今なのだ」と言います。

私達が今日読んだこのペンテコステの出来事は、今でもキリスト教会に起こっていることです。私達が今ここに集まり、祈りを一つにする、そして聖書の言葉を聞き、賛美を神に捧げる・・・これは周りの人達から見たら、「あの人たちは一体何をしているのか」と笑われるようなことかもしれません。

しかし、私達は、あの時のペトロのように、自分たちの礼拝。祈りを通して、この裁きの時にどう生きるべきか、人々に示すのです。そして、今こそ神を知り、神に立ち返って、神と共に生きることが求められているのだ、ということを伝えるのです。

今、私達は岐路に立たされています。神の前に立たされた今、イエス・キリストの許しの御業を見上げ、招きの言葉に耳を傾けるか、それとも、キリストに背を向け、神を捨てて生きるか、問われているのです。神の裁きの時を迎えている、ということを我々はどれだけ真剣に捉えているでしょうか。

復活なさった主イエスは弟子達にご自分のことを「地の果てまで」伝えなさい、とおっしゃいました。そしてペンテコステの日に聖霊が注がれ、キリストの弟子達はいろんな言葉で福音を語り始めました。いや、「語らされた」と言った方がいいでしょう。

神が、地の果てまで語り伝えるべき言葉を教会に注ぎ込んでくださったのです。福音はそこから世界中に、地の果てまで広まっていくことになります。

そして、あの時、ペンテコステの際に人々が聞いた福音は、ここにまで届いています。「地の果てまで告げなさい」とキリストがおっしゃった福音は、時代を超えて、三宅島にまで届けられました。

教会の外にいる人たちから見れば、「礼拝堂に集まって毎週礼拝など捧げて何の得になるのだろうか」、と思われるかもしれません。しかし、私達は何か得になるようなことがあって、教会に集まっているのではないのです。神が独り子の命を犠牲にして私達の罪を救いだしてくださった、その神の愛にすがっている、ただそれだけです。

神と共に生きるのか、神に背を向けて生きるのか、私達は選択の時を過ごしています。今こそ、神の裁きの時であり、神の許しの言葉に耳を傾ける時だ、とペトロは伝えました。私達はこの島で、あの時のペトロのように、イエス・キリストの復活の証し人として聖霊に用いられて、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」というヨエルの預言を伝えるために用いられます。

05月16日の説教要旨

マルコ福音書10:23~31

「イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ』」(10:27)

イエス・キリストの弟子達は、「金持ちは神の国に入ることが出来ない」という言葉に驚きました。当時の人たちにとって、財産というのは神からの祝福だったのです。

「永遠の命を得るには自分は何をすればいいのですか」と主イエスに尋ねた人は、「あなたに欠けているものが一つある。財産を貧しい人たちにあげて、私に従いなさい」と言われ、結局従うことが出来ませんでした。これまで自分が積み上げて来た財産を手放すことができず、イエス・キリストの内に天の宝を見出せなかったのです。彼は肩を落として去っていきました。

弟子達は言いました。「あの人が神の国に入ることができないのであれば、誰が救われるのだろうか」。弟子達にすれば、主イエスの元を去っていった金持ちは理想的な信仰者でした。律法を守り、財産を持っていて人々から尊敬される典型のような人です。

私達は、キリストがここでおっしゃった言葉を丁寧に考えなければならないと思います。

これは、信仰者は財産をもってはいけない、お金を持っている人ほどダメな人で、お金を持っていない人ほどいい人、ということなのでしょうか。キリストに従うためにはお金を全否定して、世捨て人にならなければならいけないのでしょうか。

主イエスはそんな乱暴なことをおっしゃっているのではないでしょう。

ここでおっしゃっているのは、自分の財産のせいで天の宝を見る目が曇り、キリストの招きを受け入れず、キリストに背を向けてしまう金持ちのことです。主イエスは「先のものが後になる」とおっしゃいます。去っていった金持ちは、「先の人」でしたが、結局主イエスに従うことが出来ず、「最後の人」になってしまったのです。

この人はキリストを見ずに自分だけを見ていました。目の前にいらっしゃるイエスという方が一体誰なのか、ということよりも、「神の国に入るには何が必要か教えてほしい、教えてくれれば、あとは自分でやる」、という姿勢です。

しかし、神の国というのは、文字通り「神の」国なのです。神に導き入れていただかなければならない国であり、人を神の国へと招き入れてくださるのはあくまでも神なのです。だから主イエスは、「私にあなた自身を委ねなさい」、とおっしゃいました。「あなたにあと一つ必要なことは、自分の力を手放して、私の導きに委ねることだ」、と。

この福音書の4章で、主イエスの「種まく人のたとえ」が語られています。

こういう内容です。種を蒔く人が家から出て行って種を蒔きました。ある種は道端に、ある種は石だらけで土の浅いところに、ある種はいばらの中に落ちました。それらの悪い土地に落ちた種は当然実を結びませんでした。

これは、どれだけ神の招きの言葉がこの世で聞かれずに無駄になっているか、という話です。神の国の福音がこの世界で語られても、艱難やこの世の思い煩いや富の誘惑によってほとんどがダメにされてしまっているのです。

主イエスの下から去っていったあの金持ちの心には、神の言葉の種を受け入れる場所がありませんでした。「捨てられない自分」で満たされていたのです。キリストが蒔かれた「私に従いなさい」という招きも、石だらけの土地に落ちた種のように、根っこが張ることはありませんでした。

ペトロは、「私達は何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」と言いだしました。「自分たちは大丈夫ですよね」ということです。安心したかったのでしょう。

キリストはこれまで繰り返し、「神の前に子供のようになり、神の招きに応じなさい」、と弟子達におっしゃってきました。しかし、この時の弟子達の心を占めていたのは、「偉くなって神の国に入ろう・12人の中で誰が一番偉いのだろうか」、という思いでした。

主イエスはそのような弟子達に「全てを捨てて私に従う者は、この世で苦しみがある」とはっきりとおっしゃいました。信仰者には、キリストへの信仰ゆえの苦しみというものがあるのです。

それでも、「子供のような思いをもって私に従いなさい」、とキリストは招かれます。弟子達がキリストのおっしゃる神の国・永遠の命というものを理解するにはもう少し時間がかかります。

教会の宣教はいつでも失敗の連続です。キリストを証ししたら皆すぐに信じてくれるようになる、なんてことはありません。ほとんどの御言葉の種は、根を張らず、実を結びません。しかし、私達は、希望を捨てません。

なぜでしょうか?

キリストが諦めていらっしゃらないからです。

あの金持ちが落ち込んで家に帰って行く姿に、私達はキリストの種まきの失敗を見ます。それでもキリストは、理解をしない弟子達にも、ご自分に誤った期待を寄せる人にも、忍耐強く神の言葉の種を蒔き続けていかれます。私達もそれに習うのです。私達自身が、キリストのその御業によって救われたから。

種まきのたとえ話では、種を蒔く人は、まず悪い土地に種を蒔いています。普通は、良い土地から種を蒔きます。いや、普通は、良い土地「だけ」に種を蒔きます。

しかし、たとえ話の中で、種まく人は貴重な種を悪い土地から蒔き始めています。

なぜでしょうか。

神の御言葉は、神の招きに相応しくない人にこそ蒔かれるのです。罪人こそ、神の許しの言葉が必要だからです。神の愛に値しないような罪人ほど、神の許しの言葉に飢え渇いていることを神がご存じだからです。

人は自分の内側にある何かが崩れた時、初めてキリストの声を受け入れる余地が出来ます。心の中に神の言葉を受け入れる場所を作り、キリストの言葉を待ち望む人がいる限り、教会は、種まきの労苦を担い続けていきます。

主イエスの下から去っていったあの金持ちが、その後どうなったのかは書かれていません。あの金持ちは確かにあの時、キリストの元から去っていきました。しかし、それで終わりではなかったはずです。

この後、主イエスの十字架と復活の出来事が起こります。復活の主イエスは、一度ご自分の下から去っていった人を、命をかけて招かれる方です。全ての人に立ち返りの道は開かれています。

この後、あの人はどうしたでしょうか・・・。

パウロがフィリピ教会にこう書き送っています。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです。」

キリストは我々に神の言葉の種を、命をかけて蒔いてくださいました。私達はそのキリストの種まきの担う光栄を頂いているのです。

05月23日ペンテコステ礼拝のお知らせ

【次週礼拝(5月23日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行録 2:14~21

 交読文:詩編1編

 讃美歌:讃詠546番、11番、185番、376番、頌栄539番

【報告等】

◇次週の礼拝はペンテコステ礼拝です。聖餐式があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

05月16日の礼拝案内

【次週礼拝(5月16日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコによる福音書 10:23~31

 交読文:詩編1編

 讃美歌:讃詠546番、10番、352番、517番、頌栄539番

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

05月09日の説教要旨

マルコによる福音書10:17~22

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。」(10:21)

ある人が主イエスの下に走って来て、跪いて「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」聞いてきました。いきなりこんなことを聞くということはよほど切羽詰まっていたようです。「自分は永遠の命を受け継ぐことができるのか?最大限の努力をしているが、何か足りないのではないか」という不安を感じていたのでしょう。

この人の気持ちは私達にもよくわかるのではないでしょうか。神の国に入るため・永遠の命を受け継ぐための基準を自分の中で作り、不安になるのです。「自分は基準を十分に満たしている」と安心できる人は少ないでしょう。

しかし、主イエスがおっしゃったのは、難しいことではありませんでした。

「子供のように神の国を受け入れなさい。」

ただ、それだけでした。子供のように、素直に、神が差し出してくださった招きの御手に自分を委ねる、ということだけでした。

しかし、このことが難しいのです。私達にとって、神の招きに子供のように素直に応じる、ということは実は簡単なことではないのです。主イエスに質問しにやってきたこの人のように、私達は神の国に入るのを自分で難しくしてしまっているのです。

主イエスは、この人に何をすればいいのかをお教えになりました。

「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」

これらは、ユダヤ人であれば誰でも知っている十戒の教えでした十戒の中には神に対する掟と、隣人に対する掟がありますが、主イエスは十戒の中でも、隣人に対する教えをこの人に示されました。

主イエスの答えは、この人にとっては拍子抜け・期待外れでした。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。

そう言い切れることはすごいことです。この人は、そう言い切れるほど十戒の教えに対して潔癖で忠実に生きて来たのでしょう。周りの人たちのために尽くし、人々からも感謝され、尊敬され、「あの人は神の国に相応しい、永遠の命を継ぐのに相応しい」と思われるような人だったのでしょう。

しかし、それでもこの人は不安だったのです。「もっと、他の人が誰もやっていないような特別なことをしなければならないのではないか。永遠の命を受け継ぐためには、もっと何か特別なことをしなければならないのではないか」、という思いをもって主イエスを見つめ続けます。

主イエスは、この人を「慈しまれた」とあります。永遠の命を受け継ぎたいと願う純粋で熱心な姿勢を好ましく思われたのでしょう。そして、こうおっしゃいました。

「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい」

この人にあと一つ欠けていること・・・それは、地上の宝以上に、目の前にいるイエス・キリストに従う、ということでした。地上の富に勝る天の富を得るための道が示されました。

この人は永遠の命へと通じる道の岐路に立つことができました。しかし、「この道を行けば永遠の命に至るのだ」と主イエスから示された道を歩むことが出来ませんでした。

「その言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」、とあります。「たくさんの財産をもっていたからである」と最後に書かれています。最後の最後で、地上の富と天の富を天秤にかけて、どうしても地上の富を手放すことが出来なかったのです。財産を手元に残し、キリストに従わず地上に富を積む方の道を選びました。

この人は、隣人に対しての律法は完璧でした。隣人を愛するということに関しては非の打ちどころがない人でした。隣人に対してもっと何かすべきことはないか、自分の徳を積むようなことはできないか、という熱心さもありました。

しかし、一つのことが出来なかったのです。目の前のイエスという方に従う、とういことです。子供が無心に親を慕い求めるようにキリストを求め、キリストに身を委ねる、ということが出来なかったのです。

イエス・キリストから「私に従いなさい」というこの一言こそ、私達が与えられる一番重要な人生の分岐点ではないでしょうか。

私達はここを読むと、「主イエスを信じて従うためには自分の全財産を捨てなければいけないのだろうか」と不安になります。しかし、文脈を捉えましょう。主イエスに従うということは、「財産を捨てる・貧しくなる」という単純なことではありません。

これからエルサレムに入ろうとなさる主イエスから「私に従いなさい」と声をかけられるということは、「十字架に上げられる私の姿を見なさい」「罪を背負って死ぬ私の目撃者となり、証言者となりなさい」ということでした。

主イエスの下に質問に来たこの人にとって、これが十字架に向かわれる主イエスに従う最後の機会でした。本当はこの人にとって、全財産を投げうっても惜しくない、歴史の頂点であり、歴史の中にある一番重大な分岐点に立って、神の御業の目撃者として召される最後の機会だったのです。この人はそれを逃してしまいました。

なぜこれほど立派な生き方をしてきた人が主イエスに従う道を選び取ることが出来なかったのでしょうか。それがわかるのが、この人の主イエスに対する呼び方です。「善い先生」と呼んでいます。この人にとって、このイエスという方は、「主・メシア・救い主」ではなく、律法の教師以上ではなかったのです。

なんと多くの人が、イエス・キリストからの「私に従いなさい」という言葉を逃しているでしょうか。「地上の富の方が大事」「天の富と言われても実感がわかない」・・・それはそうでしょう。

しかし、私達が求める究極のものは、天にあるのです。イエス・キリストの内に永遠の命があり、私達にとってキリストこそ、一生かけて求めるべき宝なのです。

この金持ちは、神の前に、イエス・キリストの前に、子供になることが出来ませんでした。イエス・キリストに出会う、ということは、「地上の富と天の富、どちらを求めるか」という岐路に立たされる、ということです。キリストに出会い、共に生きる者として、キリストの証しという天の富を蓄えていきましょう。

次週のお知らせ

【次週礼拝(5月9日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコによる福音書 10:17~22

 交読文:詩編1編

 讃美歌:讃詠546番、9番、269番、243番、頌栄539番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

05月02日の説教要旨

マルコによる福音書10:13~16

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」(10:14~15)

人々が、主イエスに触れていただろうと子供たちを連れて来ました。しかし、それを見た弟子達は叱って追い払おうとしました。

「先生のところに子供たちを連れてくるな、軽々しく話ができる方ではないのだ、この方には大切な使命がある。邪魔をするな」、おそらくそのような言い方をしたのでしょう。

しかしその弟子達をご覧になって、今度は主イエスが激しく憤られます。「子供たちを私の下に来させなさい。神の国は、このような者たちのものである」

主イエスは宣教の初めから、「神の国」ということをおっしゃってきました。「神の国は近づいた。福音を信じて悔い改めなさい」「神があなたを求めていらっしゃる、その招きに応じなさい」、それが主イエスが伝え続けてこられた福音(喜びの知らせ)です。

イエス・キリストがこの世にもたらしてくださった信仰の喜びは、「神が私達を愛し、招いて下さっている」、ということ、そして「神は私達を愛し、決してお見捨てにならない」、ということでした。それが主イエスが私達にもたらしてくださった「救い」でした。

弟子達は、イエス・キリストのそばにいて一緒に旅を続けていたのに、主イエスがおっしゃる「神の国」というものがまだよくわかっていませんでした。

主イエスは子供たちをご覧になって弟子達に「神の国はこのような人たちのものである」とおっしゃいます。神の前に子供のような人、ということでしょう。子供は弱く、大人の力無しには生きられません。親に抱かれ、叱られ、支えられ、生かされ、成長していきます。

マタイ福音書の山上の説教の中にこういう言葉があります。

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものある。」

「心が貧しい」、というのは「霊が乏しい」、という意味の言葉です。人は自分の力で神を見出すことができない、神に救われなければどうしようもない、小さな存在ことです。

子供たちのように素直に神の祝福を頂き喜ぶ人、それが主イエスがここでおっしゃっている「神の国に相応しい人たち」です。子供のように神の招きを素直に受け入れて、素直に神の導きを求める人のことです。

どうして、これほど弟子達はキリストがおっしゃる「神の国」に対して無理解だったのでしょうか。この時の弟子達は、「偉くなりたい」と思っていました。「12人の中で一番偉いのは誰か」という思いに心が支配されていたからです。小さい者として神の支配に生かされることよりも、大きな者になって人を支配したい、という思いの方が強かったからです。

自分がどれだけ神の前に小さい者であるか、ということをわきまえることが信仰です。

私達はどのようにして「子供のように」なれるのでしょうか。

パウロがガラテヤの信徒への手紙の中にこう書いています。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(326) 

「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私達の心に送ってくださった事実からわかります。」(4:6)

私達は、自分の意思や力で神を見出すことは出来ません。ただ、イエス・キリストが私達に、神を父と呼ぶ霊を送ってくださることによって、神の前に「子供のように」なるのです。

「神があなたを求めていらっしゃる」ということを、主イエスは「福音」と呼んでいらっしゃいます。「喜びの知らせ」という意味の言葉です。

しかし、私達は、どれだけ普段の生活の中で、聖書が伝えているその信仰の本当の喜びを、心から喜ぶことが出来ているでしょうか。

「神の国」は、「神の支配」という意味の言葉です。人間は、「自分は神のようになれる」、という誘惑に負け、神から離れました。楽園を捨てて、自分から神の国・神の支配から出てしまいました。そして、自分の国・自分の支配を求め、さ迷う者となりました。

自分たちをお創りになった創造主を捨てた人間を待っていたのは、暗闇でした。神の国を捨てた人間は、道を失ったのです。

しかし今、救い主が人間を迎えに来てくださいました。キリストが神の招きの声としてこの世に来てくださいました。

私達は「救い」と聞くと、もっとわかりやすい救いをすぐに求めてしまいます。何か問題が解決するとか、何か自分に利益になることが舞い込んでくるとか、そんなことを信仰の先に求めてしまいます。

しかし、究極の救いというのは、神の国へと帰る道を見出すことなのです。

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」

これは、子供のようにイエス・キリストを受け入れる人のことでしょう。今一度、子供の様に、神の前に自分をさらけ出していきましょう。

5月2日礼拝のお知らせ

【次週礼拝(5月2日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコによる福音書 10:13~16

 交読文:詩編1編

 讃美歌:讃詠546番、8番、460番、461番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

マルコ福音書10:1~12

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(マルコ福音書10:5)

主イエスがエルサレムへと近づいて行かれると人々が集まって来ました。人々は主イエスのガリラヤ宣教の噂を聞いていたのでしょう。いつものように神の国の福音を人々にお教えになっていらっしゃったところに、ファリサイ派の人たちもやって来ました。彼らはこれまでにそうしてきたように、主イエスを試して陥れようと聖書の解釈に関する議論を仕掛けて来ました。

ここでファリサイ派の人たちが持ち出したのは、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているかどうか」という繊細な問題でした。

ここを読む上で踏まえておかなければならないのは、これは「夫婦の離婚がいいことか悪いことか」などという単純なことが話し合われているのではない、ということです。

ここで主イエスとファリサイ派の間に交わされた議論は、夫が妻に離縁状を渡すことについて、「それを聖書の律法がどういっているか」「ファリサイ派の人たちがそれをどう解釈し実践していたか」「イエス・キリストがそのファリサイ派の信仰の姿勢についてなんとおっしゃっているか」ということを踏まえて、慎重に、そして丁寧に読んでいかなければなりません。

この時主イエスの下にやって来たファリサイ派の人たちは、「夫が妻を離縁することは当然許されることであり、それは夫の側に強い決定権がある。夫は自分の都合で、妻を自由に離縁することができる」と考えていました。

主イエスの時代のファリサイ派の中には、妻が作る料理がおいしくないとか、妻の見た目が自分の好みと違うとか、今の私達からすれば信じられないほど些細で身勝手な理由で妻を離縁する人たちがいたのです。

さて、ファリサイ派の人たちの質問に対して、主イエスのお答えはこうでした。

「天地創造の始めから、神は人を男と女とにおつくりになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。したがって、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」

ファリサイ派の人たちが主イエスに聞いたのは、夫婦の離縁についての律法の解釈でした。しかし主イエスは天地創造まで遡って、そもそも神が人間をどのように造られたのか、ということを答えとされたのです。

主イエスは、男女の結婚が神の創造の御業であり創造の秩序であることをおっしゃいます。「夫の身勝手な都合で妻を自由に離縁できるようなものではない。身勝手な軽々しい都合で結婚を解消することは、神聖な神の創造の御業を人間が弄ぶことになる」ということを示されたのです。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはもっと直接的にこうおっしゃっています。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者は誰でも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ5:31)

申命記の24章の初めには、このような一文があります。

「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24:1)

この一文だけを切り取って読むと、確かにこの時のファリサイ派の人たちが考えていたように、夫は妻に気に入らない理由があれば自由に離縁することが許されているように聞こえます。

しかしこの申命記の言葉は「離婚したければこうしなさい」という規定ではなく、「どうにもならない事情で離婚せざるをえなくなったとしても、その後、このような再婚はしてはいけない」という規定の中の一文なのです。

改めて、私達は主イエスがファリサイ派に最初におっしゃった言葉に注目しましょう。

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」

ここで一番恐ろしいのは、このキリストの言葉ではないでしょうか。

神がお創りになった秩序・調和を壊す力・・・夫婦関係を、親子関係を、友人関を破壊する人間の心の頑なさ、弱さ・・・聖書はそれを「罪」と呼んでいます。

「あなたも神のようになれるのだ」という誘惑の言葉に負け、人は世界の初めに神から離れ、自分が神になろうとして罪に堕ち、罪に支配されるようになりました。

主イエスは、ある時、「律法で一番大切な教えは何か」と聞かれた際、「神を愛し、人を愛することだ」とお答えになりました。神から離れる、ということは、神を愛し人を愛する、という創造の秩序の崩壊を意味します。

私達の内にある頑なさ・弱さを認め、神の創造の御業にまで遡って、この世界を見つめ直しましょう。そして神がお創りになった調和の中へと再び導いて下さるキリストに身を委ねて生きましょう。