7月28日の礼拝案内

次週 礼拝(7月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:60~65

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番29番、177番、331番、頌栄544番

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◇8月18日(日)の礼拝に下谷教会の皆さまが訪問してくださる予定です。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

7月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:51~59

「これは天から降ってきたパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食している人は永遠に生きることとなる」(6:58)

二匹の魚と五つのパンで群衆を満たされた主イエスを、群衆は求めました。自分たちの王様にしようと考えたのです。自分たちの都合でご自分を求めてきた人たちに対して、主イエスは「命のパン・天からのパン」についてお話なさいました。少しずつ、御自分を求める群衆に、御自分が行われた奇跡の意味を話していかれます。

「私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」

この言葉を聞いて人々は期待しました。自分たちイスラエルの先祖が、出エジプトの際天から与えられたマナを思い浮かべたのです。群衆は「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言いました。しかし、主イエスがおっしゃるパンと人々が期待したパンとは違っていました。

「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない」

主イエスがおっしゃる天からのパンは、荒野でイスラエルを養ったマナに勝る全く次元の異なるものであることが言われています。毎日天からパンが降って来て、もう食事の心配をする必要がなくなる、というようなことではありませんでした。

主イエスは「私があなたたちにパンを分け与える」ではなく、「私が命のパンである」とおっしゃいます。「私は天から降ってきたパンである」

それだけでも戸惑うのに、今日読んだところで主イエスは更に「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」とおっしゃっています。主イエスが何をおっしゃっているのかを理解しようと話を聞いていた人たちは、ここで躓きました。「どうして、この人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」

主イエスによって養われ、主イエスを求めて来た群衆は、ここで「ユダヤ人たち」と呼ばれています。先週もふれましたが、ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」は、主イエスに対して敵意を持つ人たち、という意味を含まれています。「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」という言葉を聞いて、主イエスを求めてやってきた「群衆」が、敵意を持つ「ユダヤ人」に変わりました。

主イエスの言葉をここまで聞いてきた人たちはこの言葉に強く反応しました。「互いに激しく議論し始めた」と書かれています。「つぶやき」が、「激しい議論」にまで発展しました。

確かに、主イエスの言葉は聞いた人を驚かせる内容でした。自分の肉を誰かに食べさせる、などということを聞いたら誰でも驚き、「どういう意味だろう」と激しい議論を引き起こすでしょう。

ユダヤの律法にある食物規定では特に動物の肉と血を食することは禁じられていました。血はその動物の命そのものを象徴するものでした。

申命記12章23節「(生贄の)血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである」

生贄として捧げられた動物の血を飲むことは、その捧げられた動物と命・存在を共有することを意味したのです。このような掟があるのに、このイエスという人は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物だからである」と言うのです。

自分たちが教えられてきた神の掟に反するようなことを言っているだけでなく、自分を食べさせるとはどういうことか、と人々は戸惑いました。

結局、この言葉を聞いた人たちは主イエスの下から去って行くことになります。今日読んだところの次の場面になりますが、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と言って、皆離れていくのです。パンと魚で主イエスによって満たされ、主イエスに期待した人たちはその教えを聞いて、失望して去って行くのです。

この時、群衆は主イエスがおっしゃっているご自分の血、御自分の肉とはなんのことか、まだ理解できませんでした。それはそうだろう。主イエスの十字架と復活をまだ見ていないのです。主イエスが「そのパンとは私の肉である」とおっしゃったのは、つまり「十字架であなたたちの代わりに裂かれ、血を流すことになる私の体である」ということだ。

私たちはそのことを知っている。主イエスの言葉の霊的な意味をくみ取ることが求められています。出エジプト記出エジプト記16章8節で、モーセがイスラエルにこう言っています。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる」

主イエスは「私は、天から降って来た生きたパンである」という言葉の後、「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」とおっしゃいました。モーセが言ったように、神がお与えになる「世界の命のため」のパンであり肉である、というのです。

ここで我々は聖餐式を思い出すでしょう。いつも、聖餐式の中で、パウロがコリント教会に記した主の晩餐の言葉が読み上げられる。

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」

「あなたがたのための体」というのは、「あなたがたの代わりの体」ということです。主イエスがこの世に、御自分の命というパンをお与えになる、ということは、ご自分の命をお与えになる、ということです。私たちの代わりに命を捧げてくださる、ということです。

この方が命を差し出してくださらなかったら、この世の命はなかった、ということです。主イエスがここで「世界の命のため」「世を生かすため」とおっしゃっているのは、そういうことなのです。

主イエスは、御自分が過ぎ越しの食事そのもの、子羊の血そのものでした。奴隷とされていたエジプトから脱出する際、神はエジプトを打たれました。イスラエルの人たちは、自分の家の鴨居に子羊の血を塗り、それを目印として神の裁きは通り過ぎて行きました。こうやって、イスラエルは解放され、神への礼拝の中へと導き入れられていきました。子羊の犠牲がなければ、イスラエルはエジプトで奴隷として死に絶えていたでしょう。

今、イエス・キリストは、ご自身が出エジプトの際に与えられた子羊の血であり、天からのマナであることを人々に示されています。私たちにとって「キリストと食べる・キリストを飲む」、というのは、キリストの十字架を自分の十字架として見つめる、ということです。

本当はそこに上げられるはずだった自分がなぜ今生きているのか。キリストが私の代わりに肉を裂かれ、血を流してくださったからです。

キリストの血と肉を食することによって私たちは主イエス一体となります。それは神秘です。主イエスをこの世に送られた父なる神は全ての命の源です。キリストを食すということは神と一つになるということ、神と存在を共有するということでもあるのです。

ヘブライ人への手紙に、こう書かれている。

「(イエスは)ご自分の血で民を聖なるものとするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。私たちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して讃美の生贄、すなわち御名を讃える唇の実を、絶えず神に捧げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」ヘブ13:14以下

私たちは、この地上に永遠の都を持ってはいません。来るべき都へと、キリストによって導き入れられることになります。

聖書を読んでいると、生贄とか契約の血とか、生々しい言葉がよく出てきます。なぜそんな言葉が頻繁に出て来るか、というと、神と人間との関係は命がけだからです。

聖書が示している契約とは、紙切れ一枚の約束ではありません。神と人間との契約は、神が人の神となり、人が神の人となって愛と平和の内に共に生きる、というものです。単なる口約束ではありません。

契約の儀式において動物を二つに裂いて、「契約をやぶるとこうなる」ということを確認してから、契約します。

人は神から離れてしまいました。契約を破りました。しかし神は人間を諦められませんでした。神ご自身が、人間を取り戻すことを諦めず、この世にまで迎えに来てくださったのです。それがイエス・キリストです。

先ほどのヘブライ人への手紙では、「血を流すことなしには罪の許しはあり得ないのです」と書いています。それが、神と人間との間に交わされた契約でした。契約をやぶった人間は、本当は血を流さなければなりませんでした。しかし、キリストがご自分の血をもって、私たちの身代わりとなってくださったのです。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

私たちは、今生きている自分の命をどのように捉えているでしょうか。この世に生まれ、日々生きて、今日も、明日も当然生きているだろう、という感覚で生きているのではないでしょうか。

自分が生きることが許されている今がどれほど大きな犠牲によるものか、聖書は伝えています。使徒パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と書いています。地中海沿岸全域を、アジアからヨーロッパまで福音宣教して大きな働きを成したあのパウロが「働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」と書いています。

私たちは、「十字架の上で裂かれたキリストの肉が、十字架の上で流されたキリストの血が今の自分を生かしている」、と、どれほど心の内で捉えることができているでしょうか。 Continue reading

7月21日の礼拝案内

 次週 礼拝(7月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:52~59

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番28番、172番、324番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:41~51

「預言者たちの書に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろうと書かれている」(6:45)

山の上で二匹の魚と五つのパンによって満たされた人々は、主イエスを追い求めてやってきました。自分たちの王様になってもらうためです。主イエスは、群衆から距離を取り、一人山へと退かれました。人々に求められて地上の王になることをお望みにならなかったのです。

群衆から距離を取られた主イエスは、諦めずにさらにご自分を探し求めてきた群衆に、ご自分をどのように求めるべきなのか、ということをお伝えになりました。

五つのパンと二匹の魚は何のしるしだったのか。

「天からのパン」とは何のことなのか。

天からの食べ物をお与えになるイエスという方は何者なのか・・・

群衆は考えさせられることになります。人々の興味は、「イエスは一体何者か」ということに集約していくことになります。

これまで人々は、申命記18:5で言われていた「モーセのような預言者・モーセの再来」として主イエスに期待をかけていました。山の上でパンと魚で満たれた人々は、出エジプトの際、荒野でモーセが神に執成してイスラエルの人々にマナが与えられた出来事を思い起こしていたのです。だから、「この方は天からパンを降らせてくださるのでは」と期待した人々は、「私は天から下ってきたパンである」という主イエスの言葉をいぶかしく思いました。

主イエスは「天からのパン」というものがあることをおっしゃいます。しかし、御自分のことをモーセのように神に執成してパンを皆に配る者ではなく、御自分が天からのパン・命のパンそのものであるとおっしゃいました。「私はパンを与える者だ」ではなく、「私がそのパンである」とおっしゃるのです。

「ナザレのイエスは、モーセモーセの再来ではないか」、という話ではなくなりました。パンのために神に執成す人ではなく、パンそのものだ、と言っているのです。この言葉を聞いた人々は「つぶやき始めた」と書かれています。これは、「不満を言い始めた」ということです。つまり、主イエスがおっしゃっていることは、群衆にとっては期待外れだったのだ。

ここで、一つ、ヨハネ福音書の言葉のつかいかたに注目したいと思います。これまで主イエスの言葉を聞いてきた人たちは「群衆」と呼ばれてきましたが、ここでは「ユダヤ人」という言葉で呼ばれています。

ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」という主イエスに敵対する人たちという意味で用いられています。「私が天から下ってきたパンである」という言葉を聞いて、期待外れに感じた人たちは、主イエスを自分たちの王として求める「群衆」から、主イエスに敵対する「ユダヤ人」に変わったのです。

それまで彼らはパンと魚によって養われたことによって、主イエスにモーセのような預言者としての姿を、この地上でイスラエルを力強く導く指導者としての姿を期待しました。自分たちの先祖が、荒野でマナをいただいたように、自分たちも神によって養われる生き方ができると思ったのです。

人々はモーセの再来を期待し、新しい出エジプトを期待しました。しかし皮肉なことに、人々は、荒野で神に向かって不平をもらす、というイスラエルの先祖たちの過ちを繰り返しているのです。

出エジプトの際、荒れ野で歩みながらイスラエルは不平を述べました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだほうがましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」

モーセは彼らに言いました。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」出エジ16章

主イエスの言葉を聞いた人々はなぜ不平を漏らしたのでしょうか。この方のことを知っていたからです。父が大工のヨセフであり、母がマリアであることも知っていました。ヨセフとマリアの子であるイエスがなぜ「私は天から降ってきた」などと言うのだろうか。

主イエスと人々の会話がかみ合っていません。主イエスがここでおっしゃっている天の父というのは、ヨセフのことではありません。天からご自分をおつかわしになった神のことを「私の父」とおっしゃっているのです。

主イエスが地上のことをお話しなさっているのか、天のことをお話しなさっているのか、それを踏まえて言葉を聞かないと、私たちもこの方がどなたでいらっしゃるのかを見失ってしまいます。

主イエスは「つぶやいてはならない」「不平を言ってはならない」と群衆に向かっていさめておられます。

「私をおつかわしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」

主イエスの言葉に不平不満を言っていては神の御姿が見えなくなるのです。

先週読んだところで、主イエスはこうおっしゃっています。「父が私に与えてくださっている者を皆、わたしが1人も失うことなく、終わりの日に蘇らせること、これが私を遣わした方の思いである」

この言葉は、主イエスご自身が、単に見た目通りのヨセフとマリアの長男というだけでなく、モーセよりも偉大な存在、神によって天から遣わされた存在であることを示しています。

「私を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私はその人を終わりの日に蘇らせる」

これは、神にしか言えないような言葉です。

主イエスは預言者の言葉を引用なさっています。

「彼らは皆、神によって教えられる」

イザヤ54:13「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」

これはバビロン捕囚から解放されるイスラエルが預言者から聞かされた言葉です。預言者たちは神の愛を知っていました。神ご自身が、人に必要なものをお教えになるということを伝えて来られたのです。

預言者ホセアも神の言葉を残しています。

「私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」ホセア書 11章4節

預言者エレミヤを通してはこう語られている。

「私は、とこしえの愛を持ってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、私はあなたを固く建てる」エレミヤ書 31章3節

「私は永遠の愛をもって、人を引き寄せる」神はとおっしゃいます。そのように預言者たちの口を通して言われてきたことが、今、イエス・キリストを通して現実のものとなっているのです。預言者たちは、この方による招きの時代を見据えて、預言を残してきたのだ。

そして今主イエスは、このような預言者たちの言葉を引用して、「しっかり私の言葉を聞きなさい」と促されます。

さて、ここで一つ大切なことを思い出したいと思います。神からマナをいただきながらも、荒野でイスラエルは不平を漏らし、神に反抗しました。そして神に従いきれなかったイスラエルの人たちは皆、荒野で死んでしまいました。荒野を歩き切って、約束の地に入ることができたのは彼らの次の世代の人たちでした。(民数記14章26節から35節) Continue reading

7月14日の礼拝案内

次週 礼拝(7月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:41~51

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番27番、93番、507番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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7月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:34~40

「私が、その命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」

イエス・キリストは、御自分を非難してきたユダヤ人たちにおっしゃいました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

福音書を読むと、たくさんの人たちが、主イエスが行われた奇跡のしるしを目撃したことが書かれています。しかし、その人たちが全て「この方はまことにキリストだ」と信じたわけではありませんでした。

しるしを見たことによって、主イエスのことを自分に都合よく理解して、自分勝手に期待した人たちがいました。主イエスの教えを聞いて、「自分の聖書の理解とは違う」、と拒絶したりする人もいました。

主イエスご自身が、「聖書は私について証しをするものだ」とおっしゃっているように、福音書はいろいろな角度から、「この方こそ神の子・キリストである」と私たちに伝えています。そして、キリストをキリストとして受け入れなかった人たちの姿を通して、私たちは自分の信仰を、また聖書に対する私たちの姿勢を問うているのです。

このイエスという方が何者なのか。この方の言葉・業の権威はどこから来ているのか。

その言葉の意味、業の意味、そして福音書の中に残されたキリスト証言がどのように人を変えるのか。今の私たちにとって聖書が伝えているイエスという方は、私たちをどのように変えるのか。

今日はそのことを考えたいと思います。

主イエスはこの福音書の中で、御自分のことをいろんな呼び方でおっしゃっています。「私は〇〇である」という言い方をなさっているのを一つ一つを見ていくと、何か霊的な意味をもった言葉でご自身のことを言い現していらっしゃるのがわかります。

6章では、「私は命のパンである」とおっしゃっています。五つのパンと二匹の魚でお腹を満たした群衆に向かって、主イエスは「私は命のパンである」とおっしゃいました。群衆は当然考えさせられることになります。それが、今私たちが読んでいるところです。

この後も、主イエスは8章、9章で「私は世の光である」とおっしゃって、目の見えない人を癒されます。ヨハネ福音書の冒頭で主イエスのことを「この方は光であった」と書かれていますが、主イエスが目の見えない人に光をお与えになったことは、主イエスが世の光である、ということを象徴的に表しています。

10章では、「私は羊の門である」とおっしゃっています。「私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」

神の国を求める人にとって、主イエスご自身が入り口であることを告げていらっしゃいます。

更に10章で「私は良い羊飼いである」ともおっしゃいます。「私は羊のために命を捨てる」と約束なさるのです。

11章では、「私は復活であり 命である」とおっしゃって、死んだラザロという若者を生き返らせます。そして、「私を信じる者は、死んでも生きる」と謎めいたことをおっしゃいます。

弟子達と過ごす最後の夜に、主イエスは「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃいます。主イエスがこれから去って行かれることを知って不安がる弟子達に、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」と言って、御自分が道であり真理であり命であることを示されたのです。

そして最後に、「私はまことのぶどうの木である」と15章でおっしゃいます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と弟子達におっしゃって、「私につながっていなさい」とお命じになります。

このように、主イエスが「私は〇〇である」とおっしゃっている言葉を見ていくと、それだけ聞いてもよくわからない表現ですが、その霊的な意味を探ろうとすると、理解するのは難しくないと思います。

主イエスは、聞く人たちの日常の中にあるものにご自分をたとえていらっしゃいます。実は、神の国への招きは私たちの日常の中にある、ということを主イエスはお教えになっているのです。

さて、主イエスを求めてやってきた群衆は、「主よ、天から降ってくる神のパンをください」と頼みました。すると主イエスは「私が命のパンである」とお答えになります。

「命のパン」と聞いてユダヤ人たちが思い浮かべたのは、出エジプトの際イスラエルに天から与えられたパン、マナでした。イスラエルが、荒野で天からマナを与えられたように、自分たちにも天からパンが降ってくるのではないか、と期待したでしょう。

しかし、そのマナ・パンは、「私のことだ」と主イエスはおっしゃるのです。これを聞いた人たちは、すぐに理解できなかったでしょう。

私たちは、「イエス・キリストが命のパンである」ということは、聖餐式の言葉や賛美歌の歌詞などを通して馴染みがある表現となっていますが、キリストの十字架をまだ知らないこの人たちにとっては、謎の言葉だったでしょう。

申命記を見ると、なぜ神が40年もイスラエルに荒野を歩ませられたのか、なぜ40年も神ご自身がイスラエルと共に歩まれたのか、ということが語られています。神が荒れ野の40年間、マナを彼らにお与えになったのは、「人がパンだけで生きるのではなく神の口から出る全ての言葉によって生きる」ということを悟らせるためであった、とモーセは告げています。

ユダヤ人たちは「天からのパン」という言葉を、単なる食べ物としてのパンではなく、「自分たちを活かす神の言葉」の象徴としてつかってきました。「律法」「聖書」「神の知恵」の象徴です。自分たちを神のもとへと導き、神とともに生きるようにさせる言葉のことを、「天からのパン」と言っていたのです。

箴言9章5節「私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」

主イエスは群衆に「私は命のパンである」とおっしゃり、サマリア人女性には、「私が与える水を飲む者は決して渇かない」とおっしゃいました。主イエスはご自分こそが、世の人々の命の源であり、神ご自身であることをお伝えになっているのです。

しかし、そのことを主イエスの十字架と復活をまだ見ていない人たちは信じることはできませんでした。この群衆は、主イエスが行われた奇跡を見てこの方を預言者と信じ、自分たちの王様にしようとしました。自分たちの都合で、自分たちの期待をかけて主イエスのことを見ていたのです。

今でも、イエス・キリストを特別に思う人はいるでしょう。しかし、聖書の証言を信じて本当に神として従う人はどれだけいるでしょうか。この方を、自分の知恵や知識の型にはめて、自分に何か利益をもたらしてくださる方・何か道徳的な業を行って偉人のように期待して信じる人は多いのです。

私たちも、この群衆と同じようにキリストにパンを求めています。この場面を通して問われるのは、「私たちはキリストにどのようなパンを求めているのか」ということなのです。

私たちは礼拝の中で、「主の祈り」を共に祈ります。その中で、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。日毎の糧とはなんでしょうか。字義通りに言えば、毎日の食べ物、ということになります。

しかしキリストは、弟子達に「私にはあなたたちの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。私たちが信仰を通してしか知ることのできない食べ物・糧があるのです。

主の祈りで「日用の糧・日毎の糧」を祈り求めるということは、単に「今日もお腹が減りませんように」、という願いではありません。神はモーセを通して、荒れ野でマナが与えられてきたイスラエルに、「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃいました。イエス・キリストも、荒野で悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉によって生きる」と言って、誘惑に対抗されました。

私たちがキリストに求めるパンは、荒野のイスラエルを生かし、約束の地へと導き入れた神の言葉・神の導きのことです。それこそが、私たちが日毎に祈り求める天からの糧なのです。神の国へと、また終わりの日の復活へと、永遠の命へと向かわせ、導き入れてくださる神の言葉、キリストの招き、聖霊の働きのことです。 Continue reading

7月7日の礼拝案内

 次週 礼拝(7月7日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:34~40

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番26番、179番、452番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

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6月30日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:22~35

「私がその命のパンである。私のところに来る人は決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」(6:35)

御自分を追いかけて来た群衆に、イエス・キリストが教えを示されている場面を読みました。

神の業とは何か?

天からのパンとは何か?

無くならない食べ物とは何か?

ヨハネ福音書を見ると、いろんな人たちが、キリストのしるしを見たり、体験したりしています。キリストからしるしを見せられた人々は、そのしるしを通して心を天に向けることを促されています。

しかし、キリストのしるしを見た人たちが皆主イエスのことをキリストであると信じるようになり、信仰の群ができていったか、というとそうではないのです。見せられたキリストのしるしを、世の人々はどのように見たのでしょうか。与えられたキリストの言葉を世の人々はどのように聞いたのでしょうか。どれだけの人が主イエスのことを神の子として信じるようになったでしょうか。反対に、どれだけの人が、自分勝手に解釈したり、信じたいように信じたのでしょうか。

しるしを見せられても、言葉を与えられても、全ての人たちが信じたわけではありませんでした。信じなかった人たち、また信じたとしても誤った信じ方をした人たちの姿が福音書にはありのままに記録されています。

これまでも何人かそのような人たちが登場しました。3章ではニコデモという人が出てきます。

「人は上から生まれなければ神の国に入ることはできない」という主イエスの霊的な言葉を、ニコデモは理解することができませんでした。「なぜそんなことがありえるでしょうか」と答えています。イスラエルの教師でありながら、ニコデモは目の前に現れた神の子の姿を正しく捉えることはできませんでした。

4章では主イエスとサマリア人の女性との会話が書かれています。水くみに来た女性は、「私には尽きることのない命の水がある」という主イエスの言葉を聞いて、「もう水くみに来なくてもいいように、その水をください」と言いました。女性もまた、ニコデモと同じように、主イエスの言葉の表面だけを理解したのです。

しかし、ニコデモもサマリア人女性も、時間をかけて主イエスの霊的な言葉を少しずつ理解していきました。そのように、主イエスに出会った人は、「この方は何者か」ということを、考えさせられることになるのです。そして、しるしと言葉を通して、「この方はメシアだ」という信仰に至るか、「そんな話は聞いていられない」とキリストに背を向けるか、というどちらかの道を選ぶことになっていきます。

山の上から主イエスを追いかけて来た群衆は、どうだったでしょうか。見ていきましょう。

いつの間にか主イエスと弟子達の一行がいなくなったことに気づいた群衆は、主イエスを探し求めて、湖の反対側のカファルナウムまで追いかけて来ました。群衆は主イエスに尋ねます。

「いつここに来られたのですか」

この言葉の中には「なぜ私たちから離れたのですか」という思いも含まれているでしょう。

彼らにはまだ主イエスによって五つのパンと二匹の魚によってお腹いっぱいにしていただいた興奮が残っています。せっかく自分たちの王様になってもらおうとしているのに、どうして自分たちから離れるのか、ということを不思議に思っているのです。

彼らは主イエスのことを、ニコデモが初めそう呼んだように、「ラビ」と呼んでいます。偉大な聖書の教師として見ているのです。同時に、主イエスのことを「やがて来ると預言されていた預言者」と信じ、「この方に自分たちの王様になってもらおう」と願っていました。

「ラビ、いつここに着かれたのですか」という群衆からの質問に対して、主イエスはお答えにならなっていません。むしろ、彼らの質問については全く無視されています。「どうして私たちから離れるのですか。せっかく王様にしようと思っているのに」という人たちの期待に対して、全く応じていらっしゃいません。

主イエスは彼らの心の中に何があるのかをはっきりおっしゃいました。「あなた方が私を求めるのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。」

「自分の都合で私を求めているだけではないか」と痛烈な指摘です。ニコデモも、サマリア人女性も、初めは自分たちの目に見える範囲で主イエスの言葉を理解し、主イエスのお姿を捕らえようとしましたが、ここでの群衆も同じです。

主イエスは「無くなっていく食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物を求めなさい」とおっしゃいました。「君たちは私に求めるものを間違っている。私は地上の王になりたくて業を行ったのではない」ということを、この言葉を通して示されます。群衆を霊的な理解へと導こうとされるのです。

イザヤ書にこういう神の呼びかけの言葉がある。

「渇きを覚えている者は皆水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。・・・なぜ・・・飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良い物を食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、私の下に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」

主イエスが山の上で5000人に行われた奇跡は確かに群衆を満腹させました。しかし、その時パンと魚を食べた人たちは、時間が経つとまたお腹が減るのです。群衆は奇跡をおこなわれた主イエスよりも、自分たちを満たしたパンと魚を欲していました。そのことにはまだ気づいていないようです。

イザヤ預言の言葉の通り、神がお示しになった豊かさは魂の豊かさであり、魂が命を得る、ということなのです。わずか一時、お腹が満たされた、ということで終わるものではありません。主イエスがおっしゃる「無くならない食べ物」とは何か、群衆は改めて考えさせられることになります。

主イエスと群衆の間には大きなズレがあります。このことは、私たちもこの群衆の中に身を置いて共に考えなければならないことです。単なる物質的に満たされるということが、キリストの祝福を得る、ということではないのです。

聖書を読むことで、イエス・キリストを信じることで、その時何かが上手いってそれで終わり、というのが信仰者に与えられる祝福ではありません。キリストを信じていようが信じていまいが、私たちは、生きる上での荒野や嵐を体験します。信仰者がその中で神に祈ることを知り、祈りを通して神の御声をいただける、ということが祝福なのです。

生きる上での荒野においても、嵐においても、イエス・キリストが共にいてくださる、そして祈りを通して「インマヌエル・神我らと共にあり」という真理を身をもって学ばせていただけることこそが、神から与えられる「なくならない食べ物」なのです。

私たちは主の祈りの中で「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。それは、ただ「食べるものをください」、というだけのことではありません。イエス・キリストというパンを求める祈りです。インマヌエルを求め、神に生かされる恵みを求める祈りの言葉なのです。

それでは、主イエスは群衆に、また私たちに対してまず何をお求めになっているのでしょうか。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」

群衆は主イエスに尋ねました。「神の業をなしていくために、私たちは何を行えばよいのでしょうか。」自分たちが何をなすべきか、自分たちはどう生きるべきか、という根本を問うています。

「神の業」と聞くと、自分たちにはとてもできないような、例えば、海を二つに割るような奇跡のことが言われているのか、と身構えてしまうのではないでしょうか。しかし、そういうことではないようです。

「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」

主イエスご自身を信じる、ということがすでに奇跡であり、神の業だ、とおっしゃるのです。イエス・キリストを信じるということは、自分の業でもなく、人の業でもありません。キリストを信じて従うということは、実は神なしにはできないことなのです。

キリストを信じるということは、海を二つに割るよりも、簡単なことに思えるでしょう。しかし、キリストを信じてこの方に一生涯従い抜くということは、実は神の招きがなければできないことであり、人間の業ではなしえないことなのです。

私たちは、主イエスのことを「神から遣わされた神の子である」、と信じても、何かこの世の財産が得られるわけではありません。それでも全力でそれを信じ、その信仰をもって自分の人生の全てを貫くということは、ただ根気があればできるということではありません。 Continue reading

6月30日の礼拝案内

次週 礼拝(6月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:22~34

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番25番、233番、501番、頌栄544番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月23日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:14~24

「私だ。こわがることはない」(6:20)

イエス・キリストが山の上で、御自分を求めてやってきた5000人もの群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させられた、という奇跡を行われました。今日私たちが読んだのは、その後どうなったのか、という場面です。人々が主イエスに感謝し、主イエスは人々を受け入れ、いい絆が生まれた、という話ではありません。むしろ主イエスと群衆はこの奇跡の後、相容れずに、群衆から距離をとることになった、ということが記録されています。

おなかを満たしてもらった人々は「この人は、世に来るはずのあの預言者だ」と言い始めました。イエスという方は、1人の少年が持っていたわずかな食事を、御自分の手で増やして群衆を祝福で満たしてくださいました。「この方は、普通の人ではない、天からの権威を持った預言者に違いない」、と人々は思ったのです。

旧約聖書の申命記にそのような預言があります。申命記18章15節に「いつかモーセのような預言者が起こされるだろう」と書かれているのです。

この時代、ユダヤ人は皆、モーセの再来となる預言者を待っていました。洗礼者ヨハネが荒れ野で人々に洗礼を授けていた時、ユダヤ人たちはエルサレムから人を遣わして「あなたは預言者ですか」と尋ねさせています。申命記に書かれている預言者ではないか、と期待したからです。

主イエスがサマリアで出会われたサマリア人女性も、主イエスと話をしているうちに「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。これも、申命記の預言実現の期待の表れです。

ユダヤ人もサマリア人も、モーセのような預言者が自分たちの下に来るのを待っていたのです。そしてこの山の上で主イエスによってお腹を満たされた人々は、このイエスという方に新しいモーセの姿を見出し、期待を抱いたのです。

人々は、主イエスを求めました。しかし、主イエスは群衆を残して一人で山に引きこもられました。「人々が自分を王にするため、連れて行こうとしているのを知っておられたからである」と書かれています。

人々は預言者に神の言葉を求めたではありませんでした。主イエスのことを「自分たちの王に仕立て上げるために連れて行こうとした」のです。自分たちに都合のいいように主イエスを持ち上げようとしたのです。主イエスはそれを見抜かれました。そして人々の心の内をご覧になって、お一人でそこを後にして山に引きこもられました。

もし主イエスがこのまま群衆の期待に応えて、身を委ねていらっしゃったとしたらどうだったでしょうか。もっと華々しい地上での生活が待っていたかもしれません。人々から尊敬され、十字架などに上げられることなく穏やかに一生を過ごされたかもしれません。

しかし、主イエスが神から与えられた使命は、地上の王になることではありませんでした。人々が求めたのは、自分たちの期待に応えてくれる、都合のいい王様でした。神がお求めになったのは、「命のパンとして、この世に自分の体をささげる」ことでした。

人々は、神の御心を求めて主イエスを求めたのではなかったのです。「この人が自分たちの王様だったらいいじゃないか」という自分たちの思いを満たすために求めたのです。

人間が誰しも持っている、自分本位の期待です。いつの時代にも、誰にでも、あるものでしょう。自分の期待に応えてくれるキリスト、自分が欲しいものを用意してくださるキリストを、都合よく求めてしまいます。

サマリアの女性は、主イエスが「尽きることのない命の水」とおっしゃったのを聞いて、「もう水くみに来なくてもよいのではないか」と勝手に期待しました。同じように、山の上で満腹した人たちも、自分たちに食べ物を豊かに与えてくれる王様として主イエスに期待し、祭り上げようとしました。

人間は、キリストに期待するのです。それはどのような期待でしょうか。神が私に必要なものをくださることよりも、自分が欲しいものを都合よくくれることを求めてしまうのではないでしょうか。神の御業が行われること以上に、自分がしてほしいこと、自分を満たすことを求めてしまうのです。

群集から離れて、山に引きこもられた主イエスは1人になって祈る時間を持たれたのでしょう。御自分の行く手に十字架が待っていることをご存じだった主イエスにとっては群衆の期待は誘惑でした。十字架への道を捨てて、群衆の期待に応えれば、もう受難に向かって歩まなくてよくなります。他の福音書で書かれているように、ゲツセマネの祈りのように、主イエスは血のような汗を流して、祈られたのではないでしょうか。十字架とは別の道が今目の前に見せられていることは誘惑だったでしょう。

主イエスだけでなく、弟子達も群衆から遠ざかりました。人々が主イエスを探し求めている間、弟子達は群衆から離れ、湖に降りていき、船に乗り込んで向こう岸のカファルナウムに行こうとします。

日が沈んで暗くなっても、主イエスは弟子達と合流できていませんでした。仕方ないので弟子達は主イエスが山から下りて来られるのを待たずに、自分たちだけでカファルナウムへとこぎ進んでいきます。

夜の闇の中弟子達の漕ぐ舟は嵐に揺られていました。ガリラヤ湖は山に囲まれていて、夕方には強風が吹く地形になっているそうです。嵐の中、船を5,6キロメートル進めたところで、弟子達は主イエスの姿を見ました。湖の水の上を歩き、自分たちに近づいてくる姿でした。

弟子達は恐れましたが、主イエスが彼らに声をかけられました。

「私だ、もう恐れることはない。」

弟子達は群衆とは離れたところで、また奇跡を見せられました。キリストの弟子達は、キリストの奇跡を一番間近で見た人たちと言っていいでしょう。彼らは主イエスが5000人の人々を満腹させられたのを見、その余ったパンくずを拾いました。12の籠一杯になったパンくずを見て、弟子達は主イエスの祝福の大きさを噛みしめたでしょう。

そしてその夜、また弟子達はキリストのしるしを見せられたのです。水の上を歩かれるキリストのお姿です。

弟子達は恐れました。夜の闇の中、誰かが水の上を歩いているように見えます。怖がるのが当然です。その怖がる弟子達にキリストが何とおっしゃったか。

「私だ、もう恐れることはない。」

この言葉は大切に見たいと思います。キリストがおっしゃったこの「私だ」というのは、英語ではI am です。「私はある」とも訳せるし、「私が共にいる」とも訳せる言葉です。

モーセが神にお名前を尋ねた時に、神は「私はある。私はあるという者だ」とお答えになりました。それと同じ言葉なのです。弟子達は恐れる必要はありませんでした。それがイエス・キリストだったからです。

この世の荒波を生きる私たちの恐れをかき消す言葉、それが、イエス・キリストの

「私だ」という言葉ではないでしょうか。「私があなたとここにいる。共にいるではないか。共にいるのは私ではないか」という励ましの言葉です。

イザヤ書43章に、こういう神の言葉があります。

「あなたたちは私を知り、信じ、理解するであろう・・・わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」

私たちが心の奥底でいつも求めているのは、この神の声ではないでしょうか。

「私だ。私がここにいる。安心しなさい」

この神の声、このキリストの声さえ祈りの中で聞こえれば、私達は嵐の中にあっても安心できるのです。

私達は、普段は自分の考えで行動し、何かあれば誰かのアドバイスを求めます。「そういう時はこうすればいい」と言ってもらえれば助かります。

しかし、人の知恵や頑張りではどうしようもない時があります。この世の荒野、この世の嵐とでもいうべき、どうしようもない時です。イスラエルはエジプトを脱出しても、目の前に海があってそれ以上前に進めなくなってしまいました。同じように、私たちが生きる道が突然断たれることがあります。

その時に本当に求めるのは、人間の知恵や工夫ではありません。ただ静かに神の声を待つしかない時があるのです。祈るしかない時。 Continue reading