12月21日の礼拝説教

 イザヤ書8:5~10

マタイ福音書のはじめに、ヨセフという人の夢に天使が現れいいなずけのマリアが男の子を生む、ということを伝えたことが書かれています。

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」

そしてマタイ福音書は、その夢の意味を、こう記しています。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

「インマヌエル」、という言葉ほど、聖書の信仰を言い表している言葉はないでしょう。神が私たちと共にいてくださる・・・聖書はただそのことを伝えるために書かれました。

イスラエルは国の滅びや偶像礼拝の危機、外国の支配の中で希望を捨てず、自分たちの歴史、そして預言者たちの言葉を記録し、命がけで後世に聖書の言葉を通してインマヌエルの真理を伝え続けてきたのです。

そして今、私たちのもとにまで、インマヌエルという言葉が届けられています。

聖書の中で、時代的に初めて「インマヌエル」という言葉をつかったのは、預言者イザヤです。私たちが今日読んだイザヤ書の8章で、イザヤは「インマヌエル」という言葉をつかっています。

彼は「神我らとともに在り」という意味のインマヌエルという言葉を、誰かを示す言葉として用いています。

「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす」

イザヤは誰かに向かって「インマヌエルよ」と呼び掛け、「あなた」と呼び掛けているのです。

私たちは今日、考えたいと思います。インマヌエル、神が共にいてくださる、とはどういうことなのか。「神が共にいてくださる」、と聞くと確かに、心強い思いがするし、喜びを感じます。その喜びも簡単に忘れてしまったり、薄れてしまったりします。我々信仰者にとって、この世の誘惑に囲まれて、まずは自分に目が向く日常の中で、インマヌエルという言葉に常に新鮮な喜びを覚えていることは簡単なことではありません。

日常の忙しさの中で、特に、試練の中にある時、私たちはインマヌエルという言葉にすがろうとしながらも、少なからず、疑いを抱き、静かに祈るひと時を持つことが少なくなってしまうのではないでしょうか。

キリストの御降誕を覚えるこの礼拝の中で、私たちはその喜びを深く探り、心に刻み付けて行きたいと思います。

預言者イザヤは、BC740に神に預言者として召され、それから約40年間神の言葉を伝え続けた人です。イスラエルが南北に分裂していた時代です。北イスラエル王国と、南ユダ王国に分裂していました。イザヤは南王国で預言者として働きました。

そしてそれは、イスラエルの北西にあった強大なアッシリア帝国の脅威におびえていた時代でしたこの8章の背景には、南ユダ王国の危機がありました。アッシリア帝国がその勢力を広げる中で、小さな国々は、生き残りをかけて反アッシリア同盟を作りつつありました。南ユダ王国も、隣国の北イスラエル王国と、アラムから反アッシリア同盟に加わるよう誘われていました。誘われていた、というよりも、脅されていたのです。「反アッシリア同盟に加わらないと、武力で攻め入るぞ」と武力で威嚇されていたのです。

隣国が武力で威嚇してくる中、ユダ王国は国中が騒ぎ立ちました。ユダ王国の王であったアハズは、あろうことか、アッシリアに助けを求めようとしていました。アッシリアに助けを求めるということは、アッシリアの支配に入る、ということであり、それはつまりアッシリアの神の支配に入る、ということを意味していました。イスラエルの神を捨て、アッシリアの神を自分たちの神とする、ということです。アハズ王は、そうすることでしか、小さなユダ王国は生き残ることはできないと考えたのです。

そういう中で、イザヤは預言者としてユダ王国の王、アハズのもとに遣わされました。イザヤは伝えます。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」

隣接する国々が同盟してこの国を脅かしている。しかし、神は「静かにしていなさい」、とアハズ王におっしゃるのです。

「落ち着いていなさい。静かにしていなさい。恐れることはない・・・心を弱くしてはならない・・・彼らの計画は実現しない」

しかし、アハズ王は静かになどしていられませんでした。目の前にアラムと北イスラエル王国の連合軍が、反アッシリア同盟に加わるよう脅しをかけてきているのです。しかし小さな国々がどんなに集まろうとも、巨大なアッシリア帝国に対抗できるはずがないのです。

ユダの王として、どうすればいいか。アッシリアに降って、アッシリアに守ってもらうしかない、そうやって生き残るしかない、アッシリアの神を拝むことになっても、滅ぼされるよりもいいではないか、と思っていました。

恐れ、焦るアハズ王に、神はイザヤを通して「主なるあなたの神にしるしを求めよ」とまで言ってくださいました。それでも、アハズは「私は主を試すようなことはしない」と、自分がまるで信仰深い者であるかのように、神に頼ることを拒絶します。一刻も早くアッシリアに助けを求めて助かろう、ともがくのです。

こうやって静かに聖書を読むと、アハズ王の不信仰の方に目が行きます。しかし、もし自分がこの時のアハズ王だったとしたらどうでしょうか。ユダ王国は小さく弱い国でした。自分が一国の王として、他国からの侵略にどう備えるでしょうか。預言者から「静かにしていなさい」と言われても、何か手を打って国を、国民を守らなければならない立場にあるのです。

この後アハズは、エルサレム神殿の財宝をアッシリアの王に送り、アッシリアの神の祭壇の見取り図と作り方の説明書を祭司に送り、エルサレムの中にアッシリアの女神像を作ることになります。

神はアハズの決断をお怒りになり、そして悲しまれました。神が預言者イザヤの口を通して「インマヌエル」という言葉を世にお示しになったのは、その時でした。

私たちが今日読んだ8章で、神がイザヤを通して、ユダ王国がアッシリアに攻めこまれる日が来ることを示されたことが書かれています。アッシリアは、ユダ王国を助けてくれなどしないのです。ユダ王国を脅しているアラムと北イスラエル王国を滅ぼし、結局その勢いでユダ王国まで攻め入ってくることになります。

6節「この民はゆるやかに流れるシロアの水を拒んだ」とあります。「シロアの水」とは、エルサレム神殿のある丘から流れる水のことです。それは、イスラエルの命の象徴でした。「シロアの水を拒んだ」ということは、神による救いを拒んだ、ということ。神に生かされるのを拒んだ、ということでした。

7節「それゆえ、見よ、主は大河の激流を彼らの上に襲い掛からせようとしておられる。すなわち、アッシリアの王とその全ての栄光を」

大河の激流とは、ユーフラテス川のこと、つまり、アッシリアの侵略を表しています。その激流・アッシリアの侵略は、ユダ王国にまで及び、アッシリアに救いを求めたユダ王国の国土が蹂躙されるということです。

8節の最後で、イザヤは言います。

「その広げた翼は、インマヌエルよ、あなたの国土を覆い尽くす。」

ここで、「インマヌエル」という存在への呼びかけがあります。このインマヌエルという存在について、イザヤは何も解説していません。一体誰のことなのか、よくわかりません。「あなたの国土」とあるので、ユダ王国を支配する誰か、というようなことは推測できますが、それ以上のことは分りません。

インマヌエルの国土がアッシリアによって攻め入られる、というのであれば、もうインマヌエルと呼ばれるその人も滅ぼされてしまうのでしょうか。そうではないようです。このあと、9節以降、イザヤの口調ががらりと変わっています。

9~10節「諸国の民よ、連合せよ。だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だがおののけ。武装せよ、だがおののけ。戦略を練るが良い、だが挫折する。決定するがよい。だが実現することはない。神がわれらと共におられるのだから」 Continue reading

12月21日の礼拝案内

次週 礼拝(12月21日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:イザヤ書8:5~10

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番109番、111番、112番、頌栄541

【報告等】

◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会

◇次週礼拝後、愛餐会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

12月14日の礼拝案内

次週 礼拝(12月14日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書18:19~27

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番98番、102番、108番、頌栄541

【報告等】

◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

12月7日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:19~27

ヨハネ福音書には、いわゆる「クリスマス物語」がありません。天使がヨセフ、マリアそれぞれにキリストの誕生を告知して、この夫婦の間にイエスという名前の赤ちゃんが生まれる、という出来事は描かれていません。

ヨハネ福音書では、世にお生まれになった神が、世に受け入れられなかった、ということが序文で言われ、創造のはじめよりも前からあった神の子が十字架へと上げられていく様子が描かれていくのです。

今日私たちが読んだのは、まさに「世は言を理解しなかった」という序文の実現です。逮捕されたイエス・キリストがまず連れて行かれたのは、現職の大祭司カイアファの舅であったアンナスのもとでした。アンナスは、カイアファの前の大祭司です。

アンナスは、大祭司の職がカイアファに代替わりしても、裏でカイアファ以上の権力を握っていたようです。最高法院の下役たちは、そのことをわきまえて居ました。カイアファではなく、まずアンナスのもとに連れて行った、ということがそのことを物語っています。

私たちはここで、キリストが逮捕された後のヨハネ福音書の描き方に注目したいと思います。キリストと、弟子のペトロの姿を交互に描いていくのです。

13:18で主イエスは、「私は、どのような人々を選び出したのかわかっている」とおっしゃいました。そしてペトロに対しては直接こうおっしゃいました。「私のために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでにあなたは三度私のことを知らないと言うだろう」。キリストはペトロがこの夜どのように振舞うかを前もってご存じでした。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストがアンナスに対して毅然と弁明なさるお姿と、不安に駆られたペトロが主イエスのことを知らない・自分はイエスの弟子ではない、と否定を重ねてしまう姿を交互に描き、この夜のそれぞれの対照的な信仰の姿を臨場感豊かに描くのです。

ヨハネ福音書の、キリスト逮捕の夜の描き方は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書と随分違っています。最後の晩餐やゲツセマネの祈りの場面はありません。その焦点・強調点はイエス・キリストの十字架への歩みであり、屋敷の中にいるイエス・キリストと、外にいるペトロとの比較にあります。キリストが胸を張り、毅然と救いの十字架へと自ら歩んでいかれるお姿と、自分だけは助かろうとそのキリストを否定するペトロの対照的な姿は対照的です。

もっと言えば、良い羊飼いとして羊のために命を投げ出すキリストのお姿と、羊飼いから離れ逃げ去ってしまった羊の対照的な姿を描いているのです。私のために命を投げ出そうとしてくださるキリストと、そのキリストを知らない、と言ってしまう私たちの弱さを、福音書は私たち読者に突き付けています。

イエス・キリストはこの後、アンナスからカイアファ、カイアファからポンテオ・ピラトのもとへとたらいまわしにされることになります。このアンナスからの尋問は、公の裁判ではありませんが、ヨハネ福音書に記されているユダヤの権威からの尋問は、ここだけです。今日私たちが読んだキリストの言葉が、ユダヤ人に対するイエス・キリストへの弁明となっているのです。

アンナスは、二つのことについて主イエスに尋ねました。主イエスの弟子たちについてと、主イエスの教えについてです。

イエス・キリストの福音宣教を通して、ユダヤの人たちの中から、イエスに従おうとする人が多く起こされました。このことは、アンナス、またユダヤの指導者たちにとって、不安の種でした。

そうやって、公の秩序が、ナザレのイエスによって乱されることに、そして何より、自分たちの支配の秩序が崩されていく、ということに危機感を抱きました。それは、自分の支配力の低下、権威の低下ということにつながります。公の秩序が乱れれば、ユダヤはローマからの締め付けが強くなります。

アンナスは、ナザレのイエスの教えが、真のものかどうかを知ろうとしました。真の神から人々を引き離そうとする偽預言者は、処刑されなければならない、と申命記13:1以下の律法に記されています。

主イエスは、一つ目の質問、「ご自分の弟子たちについて」は、何もお答えになっていません。良い羊飼いとしてご自分の羊である弟子たちを守ろうとなさったのでしょう。

しかし、ご自分の教えについては、はっきりとおっしゃいました。「私は世に向かって公然と話した。私はいつもユダヤ人がみんな集まる会堂や神殿の境内で教えた。秘かに話したことは何もない。なぜ私を尋問するのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている」

確かに、イエス・キリストは福音宣教の中で、全てを公に語ってこられました。アンナスをはじめ、ユダヤ人指導者たちも皆、その内容を知っていたはずです。キリストの福音宣教を振り返ると、キリストが何かの奇跡を行われるたびに、何かをお教えになるたびに、ユダヤ人やユダヤ人指導者たちとの議論になりました。まるで公開裁判のような様子でした。

安息日に、病気で横たわっていた人を癒された時には、「それは正しいことか」とユダヤ人たちから責められました。それに対して、主イエスは父なる神や、律法とモーセをご自分と引き合いに出しながらご自分を証しされました。

仮庵祭では、主イエスの教えを聞いた人たちが驚きました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。それに対して主イエスは、「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである」と、ご自分が何者であるかを示されました。

姦淫の女性が主イエスのもとに連れてこられ、律法に従って石内の刑に処すべきかどうか、と試された時、「罪のない者からこの女性に石を投げなさい」とおっしゃいました。そして年長者から順にその場から去っていったあと、「私はあなたを罪に定めない」と神の許しの宣言をなさいました。

ナザレのイエスは神のもとから来たのか、悪魔のもとから来たのか、ということも人々のうわさになったりしました。

主イエスが目の見えない人を癒された時には、癒された本人と両親が取り調べを受け、結局癒された人は、会堂から追放されてしまいます。

そして、ラザロを復活させて人々が皆驚いたことで、大祭司カイアファは、「このものはユダヤに混乱をもたらしている。そのせいでローマによってユダヤが攻められるよりも、このもの1人が死んだ方が良い」と言いました。

ユダヤの指導者たちは、既に、主イエスの教えをよく知っていたのです。そしてイエス・キリストが行われた癒しの奇跡や、神の国の教えの信ぴょう性に関わらず、もう既に有罪の判決を下していたのです。

ヨハネ福音書は、逮捕されたキリストの描き方がほかの福音書とは違う、ということをお話しました。ほかの福音書とは強調点が違うからです。ほかの福音書では、イエス・キリストは十字架に至るまで、沈黙を貫かれています。屠り場に連れて行かれる子羊のように、沈黙なさるキリストのお姿が描かれています。

しかしヨハネ福音書は、毅然とご自分の身の潔白を主張されるキリストを描いています。ヨハネ福音書を読んだキリスト者たちは、この福音書が書かれた時代の教会の姿をここに見たでしょう。

私たちもヨハネ福音書のこのキリストのお姿に、教会の姿を重ねて見ます。この世の中で、キリストがアンナスから尋問されたように、私たちも尋ねられるのです。

「あなたたちが言っていることは本当か。あなたたちのキリスト証言は本当か。神が我々と共にいてくださっているというのは、本当か」

そう尋ねられた際、私たちは、胸を張りたいと思うのです。この時のキリストのように。その先に、痛みと恥があったとしても、それは「生みの苦しみ」として私たちの信仰の喜びへと変えられていくのです。

ペトロは、のちに手紙の中でこう記しています。1ペトロ4:12

「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるのなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」

あの夜、大祭司の中庭で自分はイエスの弟子ではない、そんな人は知らない、と言ったペトロが、「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」と教会の人たちに励ましの言葉を書いているのです。ペトロは確かに変えられています。

使徒言行録を見ると、ペトロが復活のキリストを証しする様子も記録されています。大祭司から尋問された時、あの夜、キリストがアンナスから尋問されたように、ペトロは大祭司と向き合うことになりました。

大祭司はペトロに言いました。「お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」

ペトロはナザレのイエスのことをエルサレムで語るな、と釘を刺されました。しかしペトロは毅然としてこう言いました。

「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません。私たちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を許すために、この方を導き手とし、救い主としてご自分の右に挙げられました」5:28以下

ペトロをはじめ、あの夜イエス・キリストのもとから離れた弟子たちは、もう一度復活のキリストによって召し出され、聖霊を受け、キリストがそうなさったように、この世からの逆風を受けながら福音宣教を続けました。キリストの十字架と復活を通して、自分たちの死に勝る力を見たからです。 Continue reading

12月7日の礼拝案内

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書18:19~27

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番67番、94番、103番、頌栄541

【牧師予定】

◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月30日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:10~18

今日からアドベントに入ります。救い主の到来が預言され、その到来が本当に実現したという喜びと、私たちの今が、キリストが再び世に来られる再臨の到来を待つ時であるということをこの礼拝の中で覚えたいと思います。

何より、その救い主、キリストは、世の罪を背負って私たち一人ひとりのために死ぬために来てくださった方であったということを改めて心に刻みたいと思います。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリスト逮捕の場面です。ヨハネ福音書ははっきりと明確な場所を書いていませんが、キリストは弟子たちを引き連れて行かれたのは、オリーブ山のゲツセマネの園だったでしょう。

そこに、イスカリオテのユダによって手引きされたローマ兵たちと、大祭司とファリサイ派の下役であるユダヤ人の神殿警備兵がやってきました。ローマの千人隊長がいた、ということですので、イエス・キリストと弟子たち12人に対して、数百人規模の兵士たちがやってきた、ということです。

そこで兵士たちは主イエスを「捕らえて縛り、連れて行った」と書かれています。キリストは縛られてしまいました。私たちはこの、縛られるキリストのお姿をどう見るでしょうか。どんなに力強く教えを説き、神の業としか思えないような癒しの奇跡を行っても、権力の力、政治の力には勝てなかった、「負けた人」として見るでしょうか。

キリストは、「自らご自分に起こることをすべて知っておられ、進み出られた」、と4節に書かれています。弟子たちを後ろにかばい、あなたたちが探しているのは「私だ」とおっしゃいました。「私である」とおっしゃったイエス・キリストを見て、兵士たちは後ずさりして、地に倒れました。彼らは、神の栄光をこの方の内に見たのです。そしてキリストは、「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちの解放をお求めになり、ご自分1人が、自ら兵士たちの縄をお受けになりました。

この一連のお姿を見ると、神の子イエスは決して人の支配の中で敗北したのではなく、ご自分の救いの計画を進めるために、確かにその場を完全に支配なさっていることがわかります。

キリストは、救い主・神の子でありながら、人間の手によって縛られました。神の子でありながら人間に負けたのではありません。ご自分の主導のもと、神の御計画を進めていらっしゃるのです。

表面的には、キリストが人間の支配力に負けた、と見える場面ですが、霊的な意味においては、神の救いの御業が間違いなくキリストの意志によって進められています。

そのような中で、弟子たちはどうしたでしょうか。イエス・キリストは弟子たちの足を洗われた後、弟子たちに「あなたたちは私が行くところに来ることができない」とおっしゃいました。それを聞いた一番弟子のペトロは、「命をかけてもあなたについていきます」、と言いました。ほかの弟子たちも、ペトロと同じくらい強い気持ちでいたでしょう。

しかしそのような強い気持ちで訴えるペトロに対して、主イエスは、「君は私についてくるどころか、私のことを知らないと言うことになるのだ」とおっしゃいました。ペトロも、ほかの弟子たちも、その言葉は不本意だったでしょう。先生は自分たちの思いをその程度にご覧になっているのか、と残念に思ったでしょう。

主イエスを逮捕しに来た大祭司の下役たちの一人に、ペトロは剣を抜いてとびかかりました。そしてマルコスという下役の耳を切り落としました。4つある福音書すべてに、キリストの弟子の1人が下役に剣を抜いて立ち向かったことが記録されています。ヨハネ福音書だけ、それがペトロであったことを書いています。

マルコスというのは、ヘブライ語の「王様」という言葉から来ている名前です。剣を抜いたペトロの姿は、人間の支配に立ち向かう勇気の象徴のようにみることができるかもしれません。

イエス・キリストは兵士たちに、「誰を捕らえに来たのか。誰を探しているのか」とお尋ねになり、「あなたがたが探しているのは私だ」と自ら進み出られました。その後ろから飛び出て、ペトロはキリストの盾となり、ローマ兵とユダヤの神殿警備兵に立ち向かったのです。これは、ものすごい勇気です。その場にはローマの千人隊長がいたのですから、1,000人規模の軍団を相手に立ち向かった、ということです。

しかし、キリストよりも前に出て後ろにかばい、忠義心を見せたペトロに、キリストはおっしゃいました。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」

ヨハネ福音書では、ほかの福音書とは違い、「弟子たちが逃げ去った」という記述はありません。しかし、もうペトロ以外の弟子たちの姿はこの場面から消えています。弟子たちは、逃げたのです。

しかし、ヨハネ福音書の焦点は、弟子たちがキリストを置いて逃げ出した弱さに置かれていません。キリストが「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちを守られた、そのことによって、弟子たちはこの場を無事に離れることができた、そのキリストの献身に焦点を当てています。

キリストと弟子たちのつながりは確かにここで一度途切れてしまいます。しかしそれは一時の離別です。キリストが事前におっしゃったとおりです。このことさえも、神の御計画の内にあった、ということを聖書は伝えているのです。

兵士たちは主イエスをまず、アンナスのところに連れて行きました。ローマ総督でもなく、大祭司カイアファのもとでもなく、アンナスという、前の大祭司のところです。

アンナスは紀元6年から15年まで大祭司を務めた人でした。今はアンナスの甥であるカイアファが大祭司となっています。このことを考えると、当時アンナスとカイアファの一族がどれほどの権力を握っていたのか、想像できるでしょう。

アンナスは公にはもう引退した身でした。しかし、兵士たちがまずアンナスのもとに主イエスを連れて行ったということが、アンナスが陰でまだ実効支配力を握っていたことを示しています。この人は、現職の大祭司カイアファ以上の影響力をもっていたのでしょう。

主イエスがアンナスのところへと連れて行かれたとその時間、ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入っていました。そこには、ペトロともう1人の弟子の姿がありました。この弟子の名前は、ヨハネ福音書には書かれていません。この弟子は、「イエスが愛された弟子」とだけ記されています。この弟子が大祭司の知り合いであったことから、ペトロも大祭司の屋敷の中庭に入ることができました。

さて、ここでいくつかの言葉に注目して、聖書がここで何を描き出そうとしているのかを見たいと思います。興味深い言葉の対比が見られます。「中庭」「門」という言葉に注目したいと思います。

「中庭」というのは、ここと、10章にしか出てこない言葉です。10章の初めで、キリストは、「羊の囲い」のたとえをお話されています。ご自分の支配、つまり神の恵みの支配に生きる信仰者を、羊に例えてお話なさいました。

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかのところを乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。」

キリストは「羊の囲い」という言葉をつかっていらっしゃいますが、この「囲い」というのが、ここで使われている「中庭」というのと同じ言葉なのです。

ペトロは大祭司の屋敷の中庭にいたということは、イエス・キリストという羊飼いの囲いから、大祭司という人間の支配の囲いの中に身を移してしまった、ということが暗示されているのではないでしょうか。

「門」という言葉も、さきほどの10章のたとえ話の中で使われている言葉です。

キリストは、「私は羊の門である」とおっしゃいました。「私を通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」

これまで、ペトロは、イエス・キリストという救いの「門」を通って、キリストの「囲い」の中に生きていました。しかし今、ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入る「門」を通って、大祭司の「囲い」の中に入ってきた、ということが暗示されています。

私たちはこの中庭のペトロの姿を通して、聖書から問われるのです。

「あなたは今、誰の囲いの中に生きているのか」「あなたは今、どのような救いの中に身を置いているのか」

この中庭でのペトロのことを、誰も他人事として見ることはできないでしょう。

自分はペトロとは違う、と言い切れるでしょうか。「あなたのためなら命を捨てます」と言って、大祭司の手下に剣をもって立ち向かった、あのペトロはまさに私のようだ、と言えるでしょうか。大祭司の屋敷の中庭でおびえているペトロと私は違う、と言えるでしょうか。

なんとか主イエスの近くにいようとしてここまで来たペトロは、この中庭の門番であった女性から声をかけられました。

「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」

ペトロはすぐに「違う」と言いました。これは、元の言葉では「私はそうではない」という言葉です。 Continue reading

11月23日の礼拝案内

次週 礼拝(11月23日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書18:1~11

 交読文:詩編19:12~15

讃美歌:讃詠546番63番、90番、324番、頌栄541

【報告等】

◇11月30日(日) 東支区青年部が訪問

【牧師予定】

◇12月20日(土) 三宅島伝道所にてクリスマス会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

11月16日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:1~9

イエス・キリストの、地上での最後の夜のお姿を追って福音書を読んでいます。キリストは弟子たちと過ごされる最後の夜、語るべき言葉をすべて語り、共に祈るべき言葉をすべて祈られました。私たちが今日読んだのは、告別の言葉と、執り成しの祈りが終わり、最後の夜の闇へと出ていかれたキリストのお姿です。ついに、イスカリオテのユダの手引きによって逮捕されることになります。

主イエスは弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出ていかれた」、とあります。そして、「そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」とあります。

一行は神殿のそばにある園・庭へと向かいました。そこは、主イエスと弟子たちがよく集まっていた場所でした。エルサレムに滞在している時には、弟子たちはその庭で主イエスと共に祈ったり、主イエスから教えを聞いたりしていたのでしょう。

当然、イスカリオテのユダもその場所を知っていました。「過越祭を目前に控えて、一行はいつものようにあの場所に、あの園に集まるに違いない」、と考え、ユダは、兵士と下役たちを案内しました。主イエスの一行の行動を先回りした、ユダの裏切りの場面です。

主イエスの一行が向かったのは、オリーブ山のゲツセマネと呼ばれていた場所でしょう。マタイ、マルコ、ルカの福音書には、そこで主イエスが苦しみ悶えて最後に神に祈られた様子が記録されています。

しかし、ヨハネ福音書では、「オリーブ山」とか「ゲツセマネ」という言葉がつかわれていません。おそらく、敢えて、ゲツセマネという言葉をつかっていないのでしょう。そうすることによって、他の三つの福音書とはあえて違うところに焦点を当てようとしているようです。

ヨハネ福音書は、主イエスの一行が「その途中、キドロンの谷を通って行かれた」と書いています。「ゲツセマネに向かって行かれた」ではなく、「キドロンの谷を通って行かれた」です。

ヨハネ福音書は、「ゲツセマネ」ではなく、この「キドロンの谷」という場所に私たち読者の目を向けさせようとしているようです。この夜の「キドロンの谷」には何があったのでしょうか。そこに、イエス・キリストの救いを象徴する何があったのでしょうか。

「キドロンの谷」は文字通り谷ですので、谷底には川が流れています。その流れはエルサレム神殿の脇を通っていました。そして過越祭を控えたこの夜、川の水は神殿で犠牲に使われた動物を洗うのに使われていました。過越祭の前の晩ですので、たくさんの生贄が捧げられていたでしょう。キリストがこの時渡られた川は、血で赤く染まっていたのではないでしょうか。

キリストは赤く血に染まった川の流れを超えていかれた、というその姿は、その先でキリストを待ち受けている流血を象徴的に表しています。まさに、死線を超えていかれるキリストのお姿がここにあるのです。この時の川の色は、キリストご自身の痛みであり、死を象徴していました。その流れを超えていかれるキリストの歩みは、キリストの覚悟そのものを現していたのです。

私たちが何より忘れてならないのは、キリストは、ご自分の歩みの先に何が待ち受けているのかをすべてご存じの上で、その川をご自分の意志で渡られた、ということです。

イエス・キリストは、ご自分に課せられた使命を知らず、運命に抗うこともできずに十字架に上げられた悲劇の英雄ではありません。本当は、逃げようと思えば、いつでも逃げられたのです。やめようと思えば、この夜の内に、やめることはできたのです。

しかし、キリストはご自分の意志で、羊のために命を投げ出す良い羊飼いとして、キドロンの谷を流れる、血で赤く染まった川の向こう側へとご自分の足を進めていかれました。

この「キドロンの谷の向こうへ行かれた」という一文に、キリストはご自分の計画をご自分の意志と力で進めていかれた、ということ、神の御計画にご自分の身を差し出された、ということを、見出したいと思うのです。

イスカリオテのユダに率いられた人たちがナザレのイエスを目指して逮捕しに来ました。「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやってきた」とあります。

「一隊の兵士たち」というのは、ローマ兵の部隊のことで、600人もしくは1000人規模の部隊のことを意味します。600人でも、1000人でも、一人の人間を逮捕するのには、十分な数です。十分どころか、大げさな人数です。

そして兵士たちと一緒にやってきた「下役たち」というのは、ファリサイ派と大祭司の指揮のもとにある神殿警備兵のことです。以前、この下役たちが、で主イエスを逮捕に来ようとしたことがあります。(7:32) しかし、その時、彼らは主イエスの教えを聞き、捕らえることができませんでした。「今まで、あの人のように話した人はいません」と彼らは上役に報告しました。そして今、またその下役たちが主イエスの逮捕のためにやってきました。

こうしてこのヨハネ福音書のキリスト逮捕の場面を見ると、この世の政治権力者・宗教権力者らが総力を挙げてイエス・キリストに向かって来たということがわかります。

ローマ兵が、反乱を企てる危険な人物を捕らえに来たというだけならまだわかります。しかし、これまで主イエスの御業を見て、主イエスの教えを聞いてきたユダヤの祭司や律法学者までが、未だに主イエスに神のお姿を見出すことができていないというのはどういうことなのでしょうか。

それほど、この世の闇は深かった、ということでしょう。キリストを逮捕しに来た彼らの姿は、ヨハネ福音書が書いている「この世」の罪を象徴しています。

彼らは、「松明やともし火や武器を手にしていた」と書かれています。過越祭は満月に行われるので、松明など本当は必要ないぐらい明るかったはずです。しかし彼らは、用心深く「明り」を持って来ました。

このことも象徴的です。自分たちの手に自分たちの明かりを持って、「世の光」であるイエス・キリストに向かっていったのです。それは、彼らの「自分たちこそが真の世の光である」という思いの象徴でもあるのです。

さて、1節に、主イエスと弟子たちが「園に入られた」、と書かれています。4つの福音書の中で、「園に入った」と書いているのはヨハネ福音書だけです。「イエス・キリストの逮捕は、園の中で起こった」、ということをヨハネ福音書はここで強調して私たちに見せようとしています。

園という言葉で思い出すのは、旧約聖書の創世記に記されている「エデンの園」です。エデンの園で、アダムとエバは蛇の誘惑によって神との関係を壊されました。誘惑が、園の中に入って働いていた、ということと、祈りの園にユダに率いられた人々が入って来た、ということに、私たちは変わらない罪の働きを見ることができるのではないでしょうか。

世の誘惑がキリスト教会に向かってくることの象徴として見ることもできるでしょう。つまり、ここに私たちの信仰の現実が描かれていると見ることができるのです。

ユダに率いられた兵士と下役たちがキリストを逮捕しにやって来たその姿に、私たちは、この世の誘惑にさらされるキリスト教会自身の姿を見るのです。

キリストは今ここで起こっていることをすべてご存じでした。その上で進み出て、「誰を探しているのか」とおっしゃいます。兵士たち・下役たちは「ナザレのイエスだ」と答えました。キリストはためらわず、「私である」とおっしゃいました。

6節を見ると、「私である」という言葉を聞いて、兵士たちは「後ずさりして、地に倒れた」、とあります。兵士たちは、「早速、捕らえる相手が見つかった」、と言って喜んだのではありません。彼らは、「私だ」とおっしゃるキリストに圧倒されて、倒れてしまったというのです。

彼らはなぜ倒れてしまったのでしょうか。これは、神のお名前に畏怖する人間の姿です。

ダニエル書10:9で、神の声を聞いた預言者ダニエルが、倒れてしまった、ということが記されています。

「その人の話す声が聞こえてきたが、私は聞きながら意識を失い、地に倒れた」と書かれています。倒れてしまったダニエルを、神が引き起こして、さらに言葉をお聞かせになったとあります。

ヨハネ黙示録でも、イエス・キリストの姿を見たヨハネが、倒れてしまう、という記述があります。

「私は、その方を見ると、その足元に倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。『恐れるな。私は最初のものにして最後のもの、また生きているものである』」

キリストは人間の支配に負けたのではありません。神の救いの御業を進めるために、進んで兵士たちに服従することで、ご自分の支配を貫かれています。ヨハネ福音書は主イエスがすべてをご存じでありすべてのことをご自分の支配の内に置かれていることを強調しています。

今何が起こっているのか、キリストはすべてご存じでした。キリストは一歩前に出て、その場を支配されます。「私である」というのは、英語で言えば、I Continue reading

11月9日の礼拝説教

 ヨハネ福音書17:20~26

大祭司の祈りと呼ばれているイエス・キリストの祈りの最後の部分を読みました。これまでもお話ししてきたように、これはキリストの「執り成しの祈り」です。弟子たちのため、また弟子たちの言葉によってキリストを信じる人々のために、キリストは大祭司として神に執り成してくださっています。

イエス・キリストは神のもとから世に来られ、神の国の教えを説き、神の御業をお見せになりました。キリストの使命はそれだけではありませんでした。この世に神のもとへと続く立ち返りの道を切り拓くという大切な使命がまだ残っていました。文字通り、そのことに命を使われるのです。「神とキリストと信仰者が一つになる」、という救いの平和の完成へとこの世を導いていかれるのです。

旧約聖書の預言書イザヤ書に、預言者イザヤが見た幻が書かれています。

「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登りヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう、と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう』」

「終わりの日」とか「この世の終わり」と聞くと恐ろしいイメージがありますが、聖書が伝えるのは、信仰の民に続いて多くの人々が主の光の中へと立ち返っていく「救いの完成の時」です。

「主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」とこの世の人々は互いに言い合うようになる、とイザヤは預言しています。神の光の中を歩み、天の国を目指すイスラエルの民に向かって、多くの人が「私も一緒に行かせてください」という日が来るのです。

その時が迫っている、そしてその時に至る道が、キリストによって今まさに切り拓かれようとしています。それが、このイエス・キリストの祈りの時なのです。

1人の「良い羊飼い」が、「まだ囲いに入っていない羊」を取り戻し、一つの群れとなります。羊飼いと羊の群れが一つとなる、というのは、神とこの世が一つとなる、キリストの平和の内にすべての命が生きるようになるということです。

弟子たちはこれから「良い羊飼い」が神のもとから来てくださったことと、神のもとへと世を連れ戻してくださることを伝える使命を担うことになります。その弟子たちと、弟子たちに続いて福音宣教の使命を担うキリスト者のために、キリストはこの夜、執り成しの祈りをしてくださったのです。この夜のキリストの祈りは、今の私たちにまでも包み込んでいる、ということです。

この夜の祈りの言葉は厳しいものでした。弟子たちは、この世に残されることになります。しかも、この世に生きながら、この世に属さないことを願っていらっしゃいます。「信仰をもって楽しく、この世で楽しく生を謳歌しなさい」、というのではありません。世に属することなく、天の宝を目指し、キリストに従いながらキリストを証しする厳しさを含んでいることがわかります。

キリストはこの時、祈りながらのちのキリスト教会、私たちの姿をご覧になっています。神とご自分が一つであるように、世の民もご自分と一つとなるように、と願われています。神と信仰の民が一つとなるところ、それこそ、まさに教会の姿ではないでしょうか。

キリストの使徒パウロは、教会のことを、「キリストの体」と呼んでいます。目や鼻や口、体の部分それぞれに役割があるように、教会で生きる一人ひとりには神から与えられた尊い使命があることを伝え、「体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っています。そうやって、完全でない一人ひとりが集められ、キリストの御心を果たしていく共同体となるのです。

キリストの体の一部分として生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストの救いのお働き、招きの御業の一端を僅かであっても担っていく生涯を生きるということでしょう。たとえ小さくても、キリストの福音を携えて生きる、ということです。そしてそれは、キリストと共に生きる喜びを抱いて歩み続けるということです。それがそのまま福音宣教の生涯となるのです。

普通は、「イエスは神のもとから遣わされた方だった、あの方は神だった」、と聞いても誰も信じないでしょう。しかし、キリスト者が神と共に生きる姿は、この世に向かう大きな問いかけとなります。教会の民が互いに愛をもって仕えあい、自分以上に大切な何かを抱いて生きているということが、この世に「キリストは生きてあなたを招いていらっしゃる」という大きな言葉となるのです。

17:22「あなたが下さった栄光を私は彼らに与えました」

キリストは、父なる神から受けた栄光をすべての信仰者と共にしてくださいます。教会は、神がキリストにお与えになった栄光を既にいただいているのです。その栄光とは、24節にあるように、天地創造の前からイエス・キリストが栄光です。

自分の姿を顧みて、「一体自分のどこに栄光を感じることができるだろうか」、と誰もが思うでしょう。しかし、教会の民の一員として過ごす私たちの一日一日は、キリストの体の一部として、キリストの働きをそれぞれが担わせていただいています。これは間違いないことなのです。

自分の無力さを嘆くこともあるでしょう。キリストのために、教会のために自分はどれほどのことができているだろうか、と考えることもあるのではないでしょうか。しかし教会が一番恐れ、嘆かなければならないのは自分の無力さではなく、教会の内に愛が無くなる、ということです。仲たがいや分裂をして神の栄光を映し出さないことです。教会がこの世のつまずきになることほど、愚かなことありません。

「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」とキリストはおっしゃいました。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という命令です。キリストは弟子たちの足を洗われた後、「私があなた方を愛したように」とおっしゃいました。

これは、単なる道徳的な教えではありません。「キリストのように」愛する、ということです。友のために自分の命をお捨てになるイエス・キリストの愛に倣う、という命令です。それは、神と命を共にし、神の働きに自分を差し出すということです。

なんと厳しい命令だろうか、と思わされます。しかし、キリストは、おっしゃっています。

「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

キリストが自分を愛してくださったように、互いに愛し合うこと、そこに真理があり、そこに本当の意味での自由があるのです。実はそのことが私たちにとって一番楽な生き方なのです。

私たちにとって、真理とは何でしょうか。本当の自由とは何でしょうか。「神、我らとともに在り」、インマヌエルという真理がキリストの御生涯を通して示されました。そして、神が共にいてくださるからこそ、私たちは罪の暗闇から解放され、自由とされています。

イスラエルの歴史は、解放を求める歴史でした。エジプトからの解放、バビロンからの解放。イスラエルの民をとらえてきたのは、罪の力でした。イスラエルは、いつでも、異教の偶像に心惹かれてしまい、罪の暗闇の中へと自ら足を運んでいきました。その先で待っていたのは、国の滅びであり囚われの生活でした。

そのような暗闇の中に、神は光をお見せになるのです。神から離れ、神を知らず生きる暗闇の中にあっても、まだ絶望ではありません。神はそのあなたに光の御手を差し伸べて、立ち返りの道を照らし、ご自身のもとへと招き続けてくださるのです。

11月2日の礼拝説教

 ヨハネ福音書17:13~19

イエス・キリストの最後の執り成しの祈りを読んでいます。

キリストがこの世を去って行かれると、キリストを拒絶する人たちとキリストを受け入れる人たちに分かれることになる、ということ、また、弟子たちをはじめ、イエス・キリストを受け入れ信じる人たちは、キリストを信じようとしない人たちから憎まれることになる、ということが、祈りの中で言われています。

キリストはこの祈りの中で、ご自分に従う人たちとのつながりを願い求めていらっしゃいます。キリストがこの後十字架で殺されても、弟子たちとのつながりはなくならないように。弟子たちがキリストの道を歩むようになり、キリストがそうであられたように、世から迫害され憎まれても、守られるように。

イエス・キリストは、弟子たちが自分たちを迫害してくる「この世」から離れたり、迫害が無くなったりすることを祈られておられるのではありません。弟子たちがこの世に留まり、迫害の中にあっても神の守りがあることを願っていらっしゃるのです。

キリストが弟子たちにお教えになった「主の祈り」の中に、「我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉があります。私たちがキリストからいただいた祈りは、「誘惑のないところ・悪のないところに生きる」ことではなく、「誘惑と悪に負けない」ことを願うのです。

弟子たちは「この世に属していない」、とキリストはおっしゃいます。しかし、弟子たちが生きるのは、この世のただ中なのです。この言葉遣いに注意したいと思います。弟子たち・信仰者は、「この世の中に生きながら、この世のものとはならない」のです。キリスト教会は、この世にあるが、この世には染まらない・・・そのような信仰の群れなのです。

私たちが生きるこの世は、誘惑にあふれています。「誘惑」というのは、私たちを神から引き離す力です。聖書はその力を「罪」と呼んでいます。罪は、神など信じることなく生きる道をいくらでも示してきます。信仰者をいろんな方向に導こうとして「神など信じることなく、この道を行けば、もっと自由になれるじゃないか」、という誘惑です。

私たちには、「この世」で迫害があるのなら、「この世」から離れて、「この世」と無関係に生きる道だってあるでしょう。「キリスト者が、信仰ゆえに苦しめられるのであれば、苦しめてくる相手と距離を取ればいい」、そう考えるのではないでしょうか。信仰者だけが集まって、閉鎖的に排他的に生きればいいではないか、という考え方もあるでしょう。

反対に、「この世」に迎合する、というやり方もあります。自分たちの信仰を攻撃してくる人たち、イエス・キリストのお名前を受け入れない人たちがいるのなら、その人たちと同じになる、ということです。そうすれば、もう信仰ゆえの迫害を受けなくて済むようになるのです。この世の楽しみを、キリストを知らない人たちと同じように楽しむ、という道です。

パウロの手紙に、「食べたり飲んだり仕様ではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という、死者の復活を信じない人たちの言葉があります。パウロは、それを受けて、「悪い付き合いは、良い習慣を台無しにする」と書いています。

しかし、イエス・キリストは私たちにそのようなことを望まれたのではないのです。私たちには、様々な誘惑があります。主イエスがそうであったように、私たちも、世にありながら、世に属してはいないのです。

神の言は、この世を照らす光でした。キリストは、おっしゃいます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」

明らかな誘惑が教会にも、クリスチャン個人にも与えられます。この世と自分を切り離そうとする力、もしくは、自分を世と同化させようとする力は働いています。

しかし信仰者は、キリストの光に照らされて、この世の中で、隠れることができないのです。この世に来た光に、この世の暗闇は勝てないということを、私たちは身をもって示していくのです。だから、キリスト者は世の中にとどまって生きることが求められているのです。キリストはその私たちのために、その最期の時間を執り成しの祈りに使ってくださいました。

キリストはご自分の弟子たちを、また弟子たちに続いてきたキリスト教会の信仰者たちのためにこう祈られます。

「真理によって、彼らを聖なる者としてください」

「聖なる者」というのは、「区別された者」という意味の言葉です。神のためにこの世から特別に区別された者、ということです。

旧約聖書を見ると、祭司・預言者・王が神によって聖別されていったことが記されています。彼らが選ばれたのは自分たち自身のこの世の栄光のためではありませんでした。その人たちはこの世の栄光ではなく、ただ神の御計画のために働くためにこの世から区別されたのです。

預言者エレミヤが神に召された時、このように声をかけられました。

「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別して、諸国民の預言者として立てた」

当時まだ二十歳前後だったエレミヤは答えます。

「ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」

エレミヤは神によって聖別されたことを恐れました。自分にはできない。若く、経験もなく、語る言葉も蓄えていないことをよくわきまえていたのです。

しかし、神はおっしゃいました。

「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」

エレミヤが神によって聖別されたのは、エレミヤが優秀で、素晴らしいことをしたそのご褒美としてではありませんでした。なぜ預言者に選ばれたのか。その選びの理由はわかりません。ただ、神はエレミヤにお決めになっていた、ということでした。エレミヤがどうあがこうが、嫌がろうが、神はエレミヤを召し出されたのです。

エレミヤが預言者として聖別されたのは、この世での幸せのためではありませんでした。ただ、神の御心のために働くため、ただ、神の言葉を人々に伝えるためでした。エレミヤが若者にすぎなくても、言葉をもっていなくても、彼は神の器として、その時その時語るべき言葉が神から与えられることになっていたのです。

エレミヤは預言者として苦しみました。神の言葉を伝えても、人々は自分を馬鹿にするのです。エレミヤがどれほど苦しんだか、彼は告白しています。

「主の言葉のゆえに、私は一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上ります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。私の負けです。」

エレミヤは神に訴えました。「もう無理です」。それでも自分の体の内から神の言葉がわきあがってきて、押さえつけられず「私の負けです」、と自分に与えられた使命を果たす道を歩み続けました。

エレミヤは、敵国バビロンに降伏するよう訴えると、売国奴として捕らえられてしまいます。バビロンが攻めて来てもう国の滅びが決定的になったとき、エレミヤはこれまでとは全く違う、「バビロン捕囚の先にある解放」という、救いの預言をすることを求められました。

彼はバビロンにエルサレムが滅ぼされるのを見ました。そして、エジプトに行って再起を図ろうとする人たちに無理やりエジプトまで連れて行かれてしまいます。エレミヤは、そこで偶像礼拝を始めた人たちを非難しなければなりませんでした。

イスラエルの偶像礼拝の罪を糾弾し、イスラエルの滅びを預言しなければならなかったエレミヤの預言者としての40年は、どれほど辛かったでしょうか。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれています。

神に聖別される、ということは、こういうことなのです。神から特別に地上の栄光を与えられて人々からの尊敬を受けるようなことではありません。ただ、神の御用のために、この地上から区別される、ということです。

主イエスはこの祈りの中で、弟子たちが聖別されるようにと願われました。つまりそのことは、キリスト教会である私たちも、この世から聖別されることを願われた、ということでもあります。

預言者エレミヤのように、神のために自分を差し出す中で、涙を流さなければならないこともあるかもしれない。キリストはその一歩のために、執り成して祈って下さるのです。

教会の迫害者であったパウロが、キリストの使徒として選び出される際、神はおっしゃいました。 Continue reading