6月29日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:1~7

過越祭を目前に控えた夜、主イエスは「あなたがたは私を探すだろう」と、弟子達と一緒に過ごす時間が終わろうとしていることをお伝えになりました。そして「あなたがたに新しい掟を与えある。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とおっしゃいました。別れの時間が迫っている中で残されたキリストの言葉には、キリストの万感の想いが込められています。

先生との別れの時が来たことを告げられて、弟子のペトロは驚いて尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか」それに対して、主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。謎めいた主イエスの言葉です。

ペトロは食い下がりました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。「離れ離れになるなど、死んでも嫌だ」、というペトロの気持ちのこもった言葉です。

しかしそれほど強く主イエスのことを慕って訴えるペトロに向かって、主イエスは衝撃的な言葉を告げられました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

「あなたのためなら命を捨てます」と言ったペトロは、夜が明ける前に、あと数時間のうちに、まだその舌の乾かないうちに、「イエスなど知らない」と三度繰り返すだろう、と予告されたのです。

弟子達はこのペトロへの言葉を聞いて驚いたでしょう。主イエスと自分たちとの美しい師弟関係に皆心打たれていたところでした。

「そんなバカなことがあるだろうか。これだけ自分たちは主イエスのことを慕い、福音宣教の旅を共にしてきた。その自分たちがこのあとすぐ、『イエスなど知らない』と言ったりすることがあるだろうか。先生はたった今、自分たちの足を自ら洗ってくださった。共に夕食も囲んで、素晴らしい時間を過ごしているではないか。」

この時は、皆主イエスに対して強い気持ちを持っていました。誰もが、命がけで主イエスに従う覚悟を持っていました。

ペトロに話しをされていた主イエスは、弟子達全員に向かって「心を騒がせるな」とおっしゃいました。弟子達は、主イエスがおっしゃった「私が行くところにあなたたちは来ることができない」という言葉の中に主イエスがご自分の死に向き合っていらっしゃることを感じ取ったのでしょう。彼らは「心が騒いだ」のです。

主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃいました。しかし「私が死ぬことはないから安心しなさい」とご自分の死を否定なさいませんでした。むしろ主イエスは、「私はこれから死ぬけれども、恐れなくていい」と示されるのです。死を覚悟した主イエスの言葉と表情を見たら恐れるのが当然でしょう。なぜ弟子達は恐れる必要がなかったのでしょうか。

主イエスは「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とだけおっしゃいました。全ては、神の御手の内にある救いのご計画の実現である、ということです。人の目には受け入れがたい悲劇に映るだろう、しかし、すべては神の大きな御心の中にある、ということをお伝えになるのです。

「先生はこれから自分たちと離れてどこに行こうとされているのか」、と考えている弟子達に、主イエスはこれから起こることの意味をお示しになりました。

「私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」

この言い方からすると、主イエスとの別れは永遠のものではなく、一旦は離れ離れになってもまた再会が与えられることになっていることが分かります。弟子達は、また主イエスを求める者たちは、やがて主イエスによって迎え入れられ、父の家、つまり神のもとに用意された場所に共に生きることになるという計画の中に入れられるのです。

「こうして、私のいるところに、あなたがたもいることになる」とおっしゃいました。

弟子達にとって、この夜、主イエスがおっしゃったことは謎でした。謎であると同時に、それはいくら解説されても分からないものでした。主イエスは前もってご自分に、また弟子達に何が起こるかということだけをおっしゃいました。あなたがたは私を見捨てて離れ離れになるが、神の下に場所を用意して私はまたあなたがたを迎えに来る、とおっしゃるのです。

当然、弟子達はそれを聞かされても理解できませんでした。主イエスは「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言ってくださっても、分かりませんでした。その時は、です。

キリストの十字架と復活を見て、さらにそこからキリストを見捨てて逃げた自分をキリストご自身が迎えに来てくださったとき、彼らはあの夜のキリストの言葉の意味を本当の意味で知ることになるのです。

この弟子達の信仰体験は、私たちにも与えられているものです。聖書の言葉を読んでも、なんだかよくわからないし、すべて簡単に理解することはできません。しかし、その時キリストの言葉をたとえ理解できなくても、その言葉を心にとめて生きる中で、キリストが何かを見せてくださる時、何かを分からせてくださる時が与えられるのです。

二千年も前に書かれた聖書の言葉が、実は本当に自分のために書かれ、今の自分を生かしているということを教えられる瞬間があるのではないでしょうか。キリストの言葉を、その時は分からなくても、心に留めて生きる中で何かを見せられることがあるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。その時わからなくても、この方を信頼して生きる中でその意味が示されるのです。

私たちは出エジプトを思い起こしたいと思います。エジプトで奴隷とされていたイスラエルは、「エジプトから出て行きなさい」と言われました。モーセが指導者として立てられ、エジプトの奴隷から解放された後、イスラエルは40年間荒れ野を歩くことになりました。

何度もイスラエルの人たちは、「なぜエジプトから出てきたのか、荒れ野で死ぬためなのか」と不平を口にしました。それでも彼らは、昼は雲の柱、夜は被の柱となって導いてくださる神に従って歩き続けました。どこに行くのかわからない、何のために歩いているのかわからない、しかし、神の導きがそこにあるから、神を信じて歩き続けたのです。

荒れ野というのは、道のないところです。荒れ野で神の導きを捨てるということは、自分の道を捨てるということでもありました。

イスラエルが荒れ野の40年の意味を知るのは、約束の地に入る直前、旅の終わりでした。

神はモーセを通しておっしゃいました。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちにも、生きる上での謎があります。試練の時、苦難の時、「一所懸命に生きているのに、なぜ自分にこんなことが起こるのか」と、上に向かってて叫びたくなる時があります。自分が行こうとしている道を進めなくなって、「なぜ前に進めないのか」と悩む時があります。「主よ、なぜですか。キリストよ、なぜですか」と祈る時があります。

しかし、イスラエルが出エジプトの旅の最後にその意味を示されたように、「自分が歩むことを求められていた道は、ここに通じていたのか」と示される時が来るのです。

神の御心がわからず祈る時は、信仰の苦しみの時であるかもしれません。しかし、それでもあきらめずに、聖書の言葉を捨てず、祈った先で、キリストが自分のために用意してくださった道を知れた時、そこにこそ私たちの信仰の喜びがあるのです。

この夜、主イエスがおっしゃる「道」について、弟子達は理解できませんでした。「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃる主イエスに、弟子の1人、トマスが言います。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。」

ここで主イエスはおっしゃいます。「私は道であり、真理であり、命である」

「私が行こうとしている道はこういう道だ」という説明ではありません。「私が道である・道とは私である」という言い方をされています。

私たちはどのように「道」を探しているのでしょうか。その道を自分で切り開かなければならないと思っています。しかし、本当は、この方が道であり、この方が私たちに道をくださるというところから信仰の歩みは始まるのです。

主イエスは以前、「私は羊の門である」とおっしゃいました。これも、不思議な表現です。「あそこに行けば門がある」ではなく、「私が門である、私が入り口だ」という言い方です。そうであれば、このイエスという方こそが救いの道そのものであり、救いの入り口そのものであるということになります。

私たちはいつでも「救い」を求めています。「今自分を苦しめているこのことから救われたい」「今自分を支配している空しさから救われたい」という漠然とした思いを持っている。人間関係の悩みかもしれないし、仕事のつらさかもしれない、将来への不安かもしれません。些細なことかもしれないし、死の恐怖へのおびえのような重いものかもしれません。何であれ、心の奥底に、「助けてほしい」という思いを抱えて生きています。

自分で何とかできるのであれば、救いを求めたりはしません。解決策がわかっているのであれば、少しばかり努力をすればいいだけです。しかし、自分にはどうしようもないこと、自分を超えた存在にすがるしかないことがあります。そのようなことを感じた時に私たちは、救いに至る「道」をまた救いに通じる「門・入口」を求めるのです。

ユダヤでは、律法の言葉が、人々を神へと導き、神の支配のもとにとどめるものでした。そして今イエス・キリストは、ご自身が神へと導き、神の支配のもとに人々を休ませる律法そのもの、神の言葉そのものであることを明らかにされたのです。道を探し、真理を求め、命の置き所を探している者にとって、イエス・キリストこそが答えとなるのです。

弟子達はもうすぐそのことを、身をもって知ることになります。キリストを見捨てた自分たち、神から離れた自分たちが、次にどこに道を見出せばいいのか途方に暮れていた時に示された道が、復活のキリストでした。イエス・キリストを通して、弟子達は休息を見出し、永遠の神への礼拝の場を見出すことになります。 Continue reading

6月29日の礼拝案内

 次週 礼拝(6月29日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書14:1~7

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番22番、217番、48番、頌栄544

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月23日の礼拝説教

 ヨハネ福音書13:31~38

13章の最後のところを読みました。13章の最後ですので当然このあと14章を読んでいくことになります。ヨハネ福音書の14章からは17章にまで続くイエス・キリストの最後の別れの教えと祈りの言葉が記録されています。今日私たちが読んだところは14章からのイエスキリストの弟子達への最後の教えを読むための導入の部分でもあります。

ヨハネ福音書はほかの福音書よりもキリストと弟子達との別れの場面に多くの文字を費やしています。キリストは弟子達と過ごされる最後の地上の時、何度も同じことを繰り返しお伝えになります。

ご自分がこれから去って行かれること。

ご自分がいなくなった後への備え。

そしてご自分がいなくなったとしても、それは神の救いのご計画であること。

イエスキリストが最後に弟子たちにお伝えになった言葉は、細かく学問的に分析するというよりも、私たち自身が祈りを持って霊的に自分に語られた言葉として受け止めるべきものでしょう。

私たちが今日読んだのは、イスカリオテのユダがイエスキリストを裏切るために夜の闇の中へと出て行った直後のところです。ユダがそこを去り、物事が主イエスの逮捕と十字架の死へ動き始めました。

そこで主イエスは弟子たちにまた話し始められます。弟子たちがこれから見ることになるイエスキリストの十字架は、決してキリストの敗北はないということ。むしろ神の救いのご計画の実現であるということ。それは神の子の十字架を通して神が栄光をお受けになる時であるということ。

主イエスは、これまで奇跡のしるしと教えの言葉を通して神の栄光を現してこられました。水をぶどう酒に変えたり、病の人を癒したり、何千人もの人の空腹を満たしたりされた不思議なしるしの意味はイエス・キリストの十字架を通して示されることになります。

イエスキリストが十字架の上で最後の瞬間までこれ以上ない痛みと苦しみを背負い、息を引き取られることこそが、神がこの世にお与えになった最大のしるしでした。

キリストは何か人を驚かすようなことをして、ご自分の人間としての地上の栄光を示されたのではありませんでした。神の子の死という痛みを通して、ひざまずくべきは神であるということを世に示されたのです。

その神秘の栄光について弟子達に思い出させたのち、主イエスはご自分の愛する弟子達に、これが別れの言葉であるということを示されました。「私はあとしばらくあなた方と一緒にいる」

彼らは主イエスを探すことになる、しかし、弟子達は一緒に来ることはできない、とおっしゃいます。

弟子たちは衝撃を受けました。これから実際に主イエスがいらっしゃらない道を歩まねばならなくなるのです。そしてそれは、キリストが弟子達を愛したように、弟子達も互いに愛し合うという道でした。

「あなた方に新しい掟を与える。お互いに愛し合いなさい。私があなたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならばそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる。」

なぜキリストは「新しい掟」とおっしゃったのでしょうか。何が新しいのでしょうか。「互いに愛し合いなさい」ということは、新しい掟ではないのです。旧約聖書のレビ記19:18には「隣人を自分自身のように愛しなさい」という有名な律法の言葉があります。これこそ律法の核心とでも言うべき古くから大切にされてきた教えでした。

では一体何が新しいのでしょうか。それは、愛し方でした。「私があなた方を愛したように」互いに愛しなさい、ということです。

13章はキリストが「この上なく弟子達を愛された」という言葉で始まっています。その思いの現れとして、キリストは弟子達一人ひとりの前に跪いて足を洗われました。神は独り子をお与えになったほど世を愛されたとあるように、キリストは弟子達を愛し、足を洗い、そしてこれから彼らのために死なれるのです。

そのキリストに愛された弟子達、キリスト者は、どう生きるべきなのか。どのようにキリストの愛に報いればいいのか。キリストは「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。それが、独り子をお与えになるほどの神の愛への報い方なのです。

キリストに愛されたように互いを思いあう、いたわりあうということが、キリスト者であることの証となり、そしてそれが、イエス・キリストを指し示す証、しるしとなる、と言われています。

私たちは立ち止って考える必要があるでしょう。私たちはなぜ人を愛するのでしょうか。少なくとも、キリスト者として私たちが互いを大切にしようとするのは、相手が愛しやすいからではないでしょう。人を愛することは道徳的・倫理的にそれが正しいだろうと思って愛するのではありません。誰かを愛して、自分が満足するためでもありません。イエス・キリストへの応答として我々は互いを愛するのです。そこにこそ、キリストにある平和が生まれるのです。

弟子達は、この時キリストがおっしゃっていることが理解できませんでした。「あなたがたは私を探すだろう」などと先生はおっしゃっている。「だから互いに愛し合いなさい」などとおっしゃる。

たまらずペトロは尋ねました。「主よ、あなたはどこに行かれるのですか。」それに対して主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とお答えになりました。

ペトロは不服でした。なぜ先生は自分たちから離れていかれるのか。そしてなぜ今一緒について行くことができないのか。

ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。強い気持ちの表明です。しかし、キリストはおっしゃいます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」

この後、ペトロは主イエスがおっしゃったように、わずか数時間後、私はナザレのイエスなど知らない、と三度繰り返してしまいます。そのことを知っている私たちにとって、「あなたのためなら命を捨てます」と豪語したペトロの姿は滑稽に見えるでしょう。しかし、誰も彼を笑うことはできないでしょう。ペトロだけでなく、他の弟子達も同じでした。

キリストの十字架の死の後、ペトロをはじめ弟子達は一か所に集まり、身をひそめていました。皆、キリストを見捨てて逃げたのです。そして「あなたはナザレのイエスの弟子だ」と指さされることが恐ろしかったので身を寄せ合って隠れていたのです。早くエルサレムの人たちがナザレのイエスのことを忘れてほしい、自分たちの顔も忘れてほしい、と願ったでしょう。

主イエスの十字架の出来事から三日目の朝、その墓が空になったという知らせが入りました。ペトロは墓に走って行き、墓が空になったことを自分の目で見ました。そしてその日の夕方、ペトロは、弟子達は、復活のキリストに再会しました。

イエス・キリストは、「なぜあの時私を見捨てたのか」とはおっしゃいませんでした。「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって再び彼らを召し出されたのです。

ペトロは故郷ガリラヤに戻り、再び漁師として魚を採るようになりました。そこでまた復活のイエス・キリストに再会します。彼はそこで主イエスから「私を愛しているか」と三度問われました。「あなたを愛しています」と答えたペトロは、主イエスから言われます。「あなたは行きたくないところへと連れていかれる」

キリストに愛され、召された者として、ペトロ自身が行きたいところではなく、神がペトロにお求めになるところへと連れていかれることになるのです。ペトロは、キリストに許された者として、自分の道からキリストの道を歩むことになるのです。

これが、「信仰に生きる」ということではないでしょうか。自分が行きたいところではないところへと連れていかれることになるのです。自分が行きたいところではなく、神が私たちに必要な道へと導き入れてくださるのです。中には、自分が行きたくない場所もあるでしょう。しかし、「行きたい・行きたくない」とかいうことを超えた何かが、私たちのために用意されているのです。

使徒言行録を見ると、そのことがよくわかります。キリストの使徒たちは、自分が行きたいところではなく、行くべきところへと聖霊によって導かれていきました。

ペトロがヤッファという港町にいた時、ローマの百人隊長コルネリアスという人からの招きの使者が迎えに来ます。ガリラヤの田舎のユダヤ人の漁師に、ローマの軍人が、しかも百人隊長が会いたいと言って来ました。

ペトロとコルネリウスの間には、当時では天と地ほどの身分の違いがありました。ペトロには、キリストの使徒として働く自分をローマの軍人が殺しに来たのかもしれない、という不安もあったでしょう。

しかし、ペトロは、コルネリアスが聖霊によって幻を見せられて自分を招いているということを知って、はるか北のカイサリアまで出向いて行きました。ペトロは自分が行きたい場所ではなく、行くべき場所へと向かったのです。 Continue reading

6月15日の礼拝案内

次週 礼拝(6月15日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書13:21~30

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番20番、226番、461番、頌栄544

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月8日ペンテコステ礼拝説教

 使徒言行録9:1~9

今日はペンテコステです。祈る群れの上に聖霊が注がれ、そこからイエス・キリストの出来事を証言する群れが起こされ、キリスト教会となりました。ペンテコステはギリシャ語で50という数字を表す言葉です。過越祭から数えて50日、つまり、イエス・キリストの十字架から50日目に、聖霊が下るという出来事が起こりました。

ペンテコステは「言葉の出来事」と呼んでもいい事件ではないでしょうか。十字架で殺され、墓に埋葬されたはずの主イエスが復活され、ご自分の弟子達をはじめ多くの人たちに復活のお姿を現わされました。

死人の復活など、誰も信じることができなかったことです。主イエスの墓が空になったということを伝え聞いた弟子達でさえ、「あの方は復活された」という証言を信じることはできませんでした。弟子のトマスは「私は先生の手と脇腹に自分の手を入れて確かめないと信じない」と言ったほどです。しかし、信じることができない人たちも、実際に復活なさったイエス・キリストに出会うことで、信じざるを得なくなりました。

なぜ死人の復活などということを、キリスト教会の人たちは真剣に、自分の人生や命をかけて伝え残してきたのでしょうか。「死人が復活した」などということを、なぜそんなにも多くの人が、時代を超えて信じることができたのでしょうか。そしてその信仰を貫き、命をかけてまで伝えてきたのでしょうか。

キリスト者は、厳密にいえば、「信じた」のではなく、「信じさせられた」「信じざるを得なかった」のではないでしょうか。死者の復活などありえない、しかし、実際にイエス・キリストが自分の目の前に立っていらっしゃる。信じられないようなことが自分の身に起こった、だから「信じざるを得なかった」のです。

私たちの信仰も、実はそのようなものなのではないでしょうか。何の疑いもなくキリストの復活を信じ、なんの疑問もつまずきもなくキリストに身を委ねることができる人は少ないでしょう。

キリストの復活は本当だろうか。本当にあの方は神の子だったのか、メシアだったのか。そう思いながら、それでも、キリストの救いを否定しきれない、信じざるを得ない導きが確かに自分に及んでいる、というのが、弱い私たちの姿勢なのではないでしょうか。

キリスト者の群れ、教会は実は弱いのです。本当は自分たちの力では何もできないのです。使徒言行録を読むと、ペトロやパウロといった使徒たちが活躍する様子が描かれているので、「こんなにも強い伝道者たちがいたのか」と思わされます。

しかし、よく読むと、彼らは、皆、聖霊に導かれて、自分の思いを超えたところへと連れていかれ、自分が思ってもいなかった働きをするよう用いられていることが分かります。

キリストの復活の後、祈る群れがありました。復活のキリストに会い「時を待て」と言われたキリストの弟子達をはじめとする人たちです。その中には主イエスの母マリアもいました。ペンテコステの日には、120人が祈っていた、と書かれています。その祈りの群れに、聖霊が注がれたのです。

「時を待て」と言われた人たちは、「あなたがたは地の果てに至るまで私の証人となる」と言われていました。しかし、時が来たらイエス・キリストを地の果てまで、世界中に伝える証言者となる、と言われても、どうしていいのかわかりませんでした。だから彼らは祈ったのです。祈って待ったのです。

どうしていいかわからない中、人々にできたことは、ただ「祈ってその時を待つ」ということでした。教会というのは、「祈るしかない」「祈って待つしかない」群れであると言ってもいいかもしれません。「祈って時を待つしかない」、実はそれが教会の信仰なのです。

祈っていた群れに、ついにその時が来ました。120人の上に聖霊が注がれ、突然その人たちが、様々な言語で話し始めたのです。何を話し始めたのでしょうか。「神の業」を話し始めたということが使徒言行録には書かれています。「神の業」それはつまりイエス・キリストを通して現わされた神の救いの御業のことです。人々はキリストの十字架と復活の目撃談を語り始めたのです。

そこには諸国からの巡礼者たちがいました。エルサレムに巡礼に来ていた人たちは、自分の国の言葉でナザレのイエスという人に起こった不思議な神の御業が語られていることに驚きました。

祈る群れに聖霊が注がれ、イエス・キリストという救いの言葉を語り始めた、という不思議な出来事が起こったのです。言い方を変えると、イエス・キリストという言葉の中に人々が一つとされていく時がついに来たのです。ペンテコステはまさに、「言葉の出来事」でした。世界が、一つの言葉の中へと招かれ、一つとされていく時の到来だったのです。

聖書の中には、他にも、「言葉の出来事」と呼べる話があります。旧約聖書のバベルの塔です。これはペンテコステとは反対の「言葉の出来事」でした。創世記の初めには、神がおつくりになった秩序が人間の背きによって壊れていく様子が描かれています。天地創造の秩序の崩壊、人間の罪による混乱の物語が、創世記1章から11章まで続きます。その混乱の頂点ともいえるのが、「バベルの塔」として知られている物語です。

聖書にはこう書かれています。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」その人たちが、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と相談して、大きな塔を作ろうとしました。

「シンアルの地」というのは、バビロンのことです。バビロンは昔強大な帝国を築き、ジグラットと呼ばれる大きなピラミッドを建築しました。この物語の背景には、そのようなバビロンの巨大な建造物があるのでしょう。そして、世界を自分の支配下に置こうとしたバビロン帝国の末路も、この物語の背景にあるのでしょう。

神は建築に携わっていた人たちの言葉を混乱させ、言葉が聞き分けられないようにされました。こうしてバベルの塔は完成することはありませんでした。それだけでなく、人々をそこから全地に散らされた、とあります。神が、混乱を人々にお与えになったのです。そうやって、「天に近づこう」「神に近づこう」とする人間の計画を砕かれました。

バベルの塔の物語は、ペンテコステの出来事と真逆のことが描かれています。上から聖霊が注がれ一つの言葉の中へと人々が招かれたというペンテコステとは反対に、人が地上から、下から積み上げていったものを、神は上・天から壊し、ばらばらにされたのです。「人間が一つの言葉の中に平和に生きることができなくなった」という悲劇の現実が描かれているのです。

それは、私たちが生きているこの現実です。このバベルの塔の出来事は、決して過去のことではないのです。今もこの地上にいくらでも作られているし、私たちの心の内にもバベルの塔は簡単に建造されている、ということは、誰も否定できないでしょう。

人間の「天を目指そう、神のようになろう」という思いはいつから始まったのでしょうか。創世記の初め、天地創造の初めからです。神から与えられた楽園で生きていた人間は、楽園以上のものを求めました。

最初の人間が蛇の誘惑に負けます。蛇はエバに言いました。「その実を食べると、あなたは神のようになれるのだ。」その言葉を聞いたエバが木の実を見ると、おいしそうに見えた、とあります。アダムも、エバに勧められてその実を食べました。

人は、美味しそうなものには手が伸びるのです。最も心惹かれるのは、「あなたは神のようになれるのだ」、という囁きです。あの時以来、人は神のようにふるまいたい、天にまで届きたいという思いを内に秘めたまま生きてきたのです。

ダニエル書に、バビロンの王ネブカドネツァルが王宮の屋上の散歩をしていた時の言葉が記されています。「なんとバビロンは偉大ではないか。これこそ、この私が都として建て、私の権力の偉大さ、私の威光の尊さを示すものだ」

自画自賛の言葉、神のように振る舞うネブカドネツァルの言葉です。その言葉に対して、神の言葉が与えられます。「ネブカドネツァル王よ、お前に告げる。王国はお前を離れた。・・・お前は、いと高き神こそが人間の王国を支配する者で、神はみ旨のままにそれを誰にでも与えるのだということを悟るであろう」

このような神とのやりとりを、誰もがしているのではないでしょうか。本当はネブカドネツァルと同じことを自分も言ってみたい、と思うのです。すべてが、自分の思うようになれば、どんなに楽で、楽しいでしょうか。

しかし、その言葉を求める人は必ず、神からの追放の言葉が下ります。そして、神から離れた場所へと追いやられ、また立ち返りの道を模索し始めることになるのです。人の歴史はこの連続でした。

今日私たちはペンテコステを迎えました。あのバベルの塔の悲劇を踏まえて、ペンテコステの出来事を読むと、まさに、「救いの時が来た」ということが分かるのではないでしょうか。神から離れていた世の人々を、イエス・キリストという一つの言葉の中へと招く聖霊が祈りの群れに注がれたのです。

聖霊が注がれた弟子達はどういう人たちだったでしょうか。「聖霊を受けるにふさわしい人たちだ」と誰もが思えるような群れだったでしょうか。そうではないでしょう。

キリストが十字架に上げられた時に、弟子達は皆逃げ去っていました。ペトロは三度「ナザレのイエスなど知らない」と言ったほどです。これはペトロだけではなく、他の弟子達もそれぞれが逃げた先で同じような言い逃れをしたでしょう。

しかしそのような弟子達を、復活のキリストは再び招かれ、「時に備えよ」と言われました。彼らにもう一度神と共に生きる道を示されたのです。彼らは祈り続けました。祈って時を待ったのです。

そして、ペンテコステの日、聖霊が彼らに下さり、世界中の言葉で、世界中の人たちにどこで一つになれるか、ということを語り始めたのです。神にふさわしくないと思われる人にこそ、神の招きの言葉は伝えられていったのです。

今日私たちは教会の迫害者サウロにキリストが呼びかけられる場面を読みました。キリストの招きは、弟子達だけでなく、教会の迫害者にまで及びました。サウロは熱意をもってキリスト者を迫害していた人です。自分は神のために正しいことをしているのだ、と自信を持っていました。

しかし、復活のキリストは呼びかけられるのです。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」。このことがあってサウロはパウロと呼ばれるようになり、キリストの霊、聖霊に導きにその生涯をささげることになります。

キリストに出会い、パウロは性格が変わったのでしょうか。違います。パウロはキリストを知って、世界の見え方が変わったのです。聖書の言葉の意味が今までと変わったのです。これまで自分が積み上げてきたものは、しょせん、自分という小さな人間が積み上げてきたものにしか過ぎない。しかし、パウロはイエス・キリストという神の子メシアの導きによって、神の御業のために働く喜びを知りました。パウロは、それまで自分が築き上げてきた人間としての誇りなど、キリストに比べれば塵芥でしかない、と手紙の中で書いているほどです。

私たちも同じでしょう。聖書を読んで、キリストを知って、自分の中身が突然聖くなった、聖人のようになったということはないでしょう。むしろ、キリストに相応しくない自分に、なぜかキリストが出会ってくださった。そしてなぜか自分のような者を用いてくださっている、という不思議の方が大きいでしょう。

私たちはこのペンテコステの日、考えたいと思います。「自分の手は何を積み上げているか。この世界をどう見ているか。人間の欲に基づく計画に自分をささげるのか、神のご計画の中で生かされるのか。」 Continue reading

6月8日の礼拝案内

次週 礼拝(6月8日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:使徒言行録9:1~9

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番19番、128番、392番、頌栄544

【報告等】

◇次週はペンテコステ礼拝です。礼拝で聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

6月3日の礼拝説教

 ヨハネ福音書13:12~20

イエス・キリストと弟子達の最後の時間を読んでいます。それは「過越祭の前」のこと、つまりキリストの十字架の前の晩のことでした。キリストは弟子達のために上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれ、たらいに水を汲んで、弟子達の足を洗われました。

ヨハネ福音書に記録されているこの夜の様子は、他のマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書とはずいぶん違っています。私たちがよく知っているのは、最後の晩餐の席で、イエス・キリストがパンと葡萄酒をとって、「これは私の体である、これは私の血である」弟子達におっしゃって手渡された、現在の聖餐式の原型となった食卓の光景です。

しかしヨハネ福音書は、そのことよりも、キリストが弟子達の足を洗われたということに焦点を当てて、キリストが最後の夜に弟子達にこのように僕として仕える姿勢を示されたことを描いているのです。

ヨハネ福音書では、6章全体を通してイエス・キリストが、ご自分が天からのパンであり、命の水であることを示された出来事が書かれています。「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と群衆に語りかけていらっしゃいます。4つの福音書の内ヨハネ福音書だけ、キリストがご自分の体と血を人々に差し出される様子の描き方が全く違っているのです。

なぜこのような描き方をしているのでしょうか。少し、福音書の成り立ちについて解説を加えておきたいと思います。ヨハネ福音書は、他の三つの福音書よりも、10~20年、後に書かれたと考えられています。

つまり、ヨハネ福音書を最初に読んでいたのは、イエス・キリストが最後の晩餐の席でパンと葡萄酒をご自分の体と血として弟子達にお与えになり、ご自分の救いの御業を思い出すように、とお命じになっていたことをすでに知っていた人たちでした。

他の福音書ですでに知っていた人たちのために、さらにヨハネ福音書は書かれた、と言っていいでしょう。だから、マタイ、マルコ、ルカの福音書と重複する内容はとても少なくて、ヨハネ福音書独自の内容が描かれているのです。

ヨハネ福音書は、他の福音書とは異なる文体、異なる視点、異なる強調点で書かれています。他の三つの福音書とは違い、ヨハネ福音書は、ご自分が逮捕される最後の夜、弟子達の足を洗い、最後の晩餐を共にし、弟子達に最後の教えを残し、弟子達のためこの世のためにとりなしの祈りを捧げるイエス・キリストのお姿を非常に多くの文字を費やして描いています。最後に弟子達と過ごされる最後の時間の様子は、13章から17章にかけて長々と書かれているのです。

主イエスの最後の夜のヨハネ福音書の強調点はどこにあるのでしょうか。他の三つの福音書は、弟子達にパンと葡萄酒を配って、ご自分の体と血の象徴として思い出すようお命じになったことを描いています。

ヨハネ福音書は、弟子達に、最後の瞬間までこの世に徹底的に仕える、僕としてのイエス・キリストのお姿を我々に描き出そうとしています。私たちは、キリストに従う者としてどのような姿勢で生きていけばいいのか、ということを示されるのです。

ご自分の十字架を前にして、キリストは弟子達の足を洗われました。驚く弟子達に、質問されます。「私があなたがたにしたことがわかるか」

これまでキリストは多くのしるしを行い、人々を驚かせて来られました。皆、そのしるしの意味を知りたがりました。キリストはご自分が行われた御業の意味を細かく説明はなさいませんでした。しかしここでは、キリストは弟子達の足を洗ったことの意味を問うていらっしゃいます。

「私があなたがたにしたことが分かるか」

キリストがこの晩弟子達になさったことは、まさに「しるし」なのです。神の御業の奇跡なのです。それは神が人の足元にひざまずき、自らの手で洗われたという信じがたい奇跡でした。単に、弟子達との最後の時だから何か心に残るようなことをして感動させようとしたというのではありません。

主イエスは弟子達の足を洗われたことを、しるしとして、弟子達がどう理解したか、そしてどう理解すべきなのか、ということをここで説明されます。                

主イエスが否定されるのは、弟子達が互いの上に立とうとすることでした。ご自分の十字架の後、弟子達が愚かな権力争いを始めることほどくだらないことはありません。しかし実際、人間はそのようなことに終始するのです。

他の福音書でも、弟子達が「我々の中で一番偉いのは誰か」という議論をしたということが書かれています。キリストの弟子達がそうなのですから、私たちだってこのような思いを抱かないということはないでしょう。

主イエスはおっしゃいます。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあわなければならない。」

弟子達が「キリストの弟子」なのであれば、彼らはキリストがなさったことに倣い、キリストが生きたように、生きることになります。先生が弟子の足を洗うということは、先生が弟子の僕となって仕えた、ということでした。上に立って満足を覚えることではありません。それがキリストの模範でした。

私たちは、イエス・キリストを文字通り「キリスト・救い主」として、生きています。そうであるなら、我々が主イエスを超えるとか、他のキリスト者よりも一段高い位置に居座るとかいうことはあり得ないのです。

7:48に、ファリサイ派の人たちが、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言ったことが書かれています。主イエスの教えに耳を傾ける群衆のことをそう言ったのです。ファリサイ派の人たちは、群衆よりも、主イエスよりも、自分たちの方が偉いと考えました。律法のことは自分たちの方がよく知っている、と。

9 Continue reading

6月1日の礼拝案内

次週 礼拝(6月1日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書13:12~20

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番16番、171番、269番、頌栄543

【報告等】

◇次週礼拝で聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

5月25日の礼拝説教

 ヨハネ福音書13:1~11

我々が今日読んだところから、ヨハネ福音書の第二部に入ることになります。ヨハネ福音書の前半部分、ここまで私たちが読んできた第一部はイエス・キリストの福音宣教の様子を描いてきました。13章からの後半部分、第二部はご自分の受難へと進んでいかれるイエス・キリストのお姿が描かれていくことになります。

ヨハネ福音書の前半と後半を比べてみると、描かれている時間の密度が全く違うことに気づかされます。第一部では約3年に渡るキリストの福音宣教が描いてきましたが、第二部では刻一刻と迫りくるご自分の受難に向き合われる主イエスの24時間を詳細に描くのです。

キリストが何をおっしゃっているのか、またどこに行こうとされているのか・・・戸惑う弟子達と、ご自分の十字架の死を見据えて弟子達に言葉を残されるキリストのお姿を、私たちもこの夜の弟子達の輪の中に入って、見つめたいと思います。

「さて、過越祭の前のことである」、という言葉から13章は始まります。主イエスの金曜日の朝に十字架に上げられますので、私たちが今日読んだ場面は、木曜日の夜であったということになります。

この夜、主イエスは弟子達の足を洗い、ご自分を裏切る者がいることをお伝えになります。そしてイスカリオテのユダが外に出て行った後、弟子達に最後の言葉を伝え、祈りを捧げ、自らを十字架につける人たちに委ねていかれます。

これまでの福音宣教で積み上げてきたものが、わずか数時間で全て崩れてしまうのです。少なくとも、弟子達にはそう見えたでしょう。主イエスに地上的な期待を抱いた人々も、主イエスの十字架を見て失望したでしょう。

しかし、イエス・キリストは人間の期待に応えるためではなく、神の救いの御業を完成させるために世に来られました。これからお受けになる痛みが、受難こそが、真のメシアのお姿だと言っていいのです。主イエスは最後の24時間で、弟子達にそのことをお伝えになります。

「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟った」と書かれています。主イエスが迎えられたご自分の「時」と、弟子達が、また人々が主イエスに期待した「時」は全く違うものでした。

人々は主イエスをエルサレムに熱狂的に迎え入れ、イスラエルを強い国として造り上げたダビデ、また外国の侵略からエルサレムを守り解放したユダ・マカバイの再来として期待しました。ナザレのイエスの到来によって「自分たちがイスラエルをローマの支配から取り戻す時」が来たのでは、という期待です。

しかし、主イエスはこれまで「羊のために命を投げ出す良い羊飼い」として世に来られたことを話されてきました。この前日、主イエスはベタニア村でマリアから香油を注がれ、葬りの準備がされていました。

主イエスのエルサレム入場の際のお姿は、滑稽なものでした。小さなロバに乗って入って来られたのです。人々の期待に沿う威風堂々とした革命の指導者ではなく、はるか昔ゼカリアが預言した、「ロバに乗ってやってくる低く謙遜なメシア」でした。

ついに十字架の時・救いの時が目前に来たことを悟られた主イエスは、「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。3年もの間、寝食を共にし、教え、語り、福音宣教の使命を担ってきた弟子達と別れる時が来ました。あと数時間のうちに弟子達は皆主イエスを見捨てて闇の中へと皆逃げ去ってしまいます。明日の朝には十字架に上げられ、ご自分は死ぬのです。主イエスにとって「時が来た」とはそういうことを意味していました。そして、弟子達への愛が溢れて止まらなくなったのです。

「良い羊飼いは自分の羊を知っており、囲いから自分の羊を呼び出す」、と主イエスはおっしゃいました。そして「羊は自分の羊飼いの声を知っている」ともおっしゃってきました。主イエスが「良い羊飼い」であるなら、その声を聞き分ける羊は一体どこにいるのでしょうか。

それは弟子達でした。

私たちは、今、弟子達と一緒にイエス・キリストと夕食の席に座っています。そして弟子達と一緒に、キリストの言葉を聞き、この方の姿を見つめようとしています。ここにこそ、キリストの弟子として、信仰者として見つめなければならないキリストのお姿があるということ踏まえたいと思います。

「私に従おうとするものは、自分の十字架を背負って私に従いなさい」とキリストは弟子達にお教えになりました。キリストに従うということは、キリストが歩まれた道を自分も歩む、ということです。

「自分の十字架を背負いなさい」とはどういうことなのでしょうか。文字通り十字架にかけられて死になさい、ということではないでしょう。キリストがそうなさったように、自分の身を横たえて自分を踏み石にして神のもとへと誰かを行かせるような生き方のことでしょう。

弟子達はこの夜、それを学ばされることになります。彼らはこの後、主イエスを見捨てて逃げてしまうことになります。しかし主イエスの十字架と復活の後、再び復活の主に招かれ、立ち返った時、弟子達はこの夜キリストが自分たちに話してくださったこと、してくださったことの意味を悟り、自分の十字架を背負って生きることを始めることになるのです。

「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」主イエスは何をなさったでしょうか。弟子達の足を洗い、手拭いで拭き始められたのです。当時は皆サンダルを履いていて、舗装されていない道を歩いていたので、当然足は汚れていました。

誰かの家を訪問した際には、足を洗うための水が用意されて、もしその家に僕がいたら、その僕が客人の足を洗いました。足を洗うというのは、僕の仕事でした。更にユダヤではそれは成人男性の僕ではなく、女性、子供、また異邦人の僕の役割とされていました。特別な例外があるとすれば、師弟関係において、弟子が自分の先生の足を洗い、尊敬を示す、または、妻が夫の足を洗って愛情を示す、というようなことでした。

しかし、ここでキリストがなさったことはそれらのどれにも当てはまりません。師である主イエスが、弟子たちの足を、僕のように洗われたのです。

主イエスは「食事の席から立ちあがって上着を」脱いだ、と書かれています。象徴的な動作です。良い羊飼いが自分の命をそこに横たえるかのように、キリストは衣服脱いで置かれました。そして弟子達の足元にひざまずいて僕の役割を担われたのです。

当然弟子達は驚きました。主イエスはまずペトロのところに行かれました。ペトロは恐縮します。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言いました。元の聖書の言葉を見ると、「主よ、あなたは、私の、洗うのですか、足を」と、ペトロは驚きのあまりしどろもどろになっていることが分かります。

ペトロは、弟子として自分が先生の足を洗わないだけでなく、逆に先生が弟子である自分の足を洗おうとしている、ということで驚きました。それは、むしろ恐れだったでしょう。

このペトロの恐れこそ、私たちの信仰の本質ではないでしょうか。キリストが高いところから「ああしろ、こうしろ」とおっしゃるのであれば、わかるのです。しかし、神の子イエス・キリストが、弟子達の前に、そして私たちの前にひざまずき、汚れている足を洗ってくださるのです。

私たちはキリストに仕える、という言い方をよくしますが、聖書が伝えているのは、キリストがまず私たちに仕えてくださった、ということなのです。

そこには、恐れが生じると思います。私たちが仕えるべき方が、神が、それまず私たちに仕えてくださっていた、僕となり、命を投げ出して助けてくださっていたというのです。

私たちの信仰には、必ず恐れがあります。それは、ペトロがここで抱いた恐れです。キリストがまず私に仕えてくださった、そのことに気づいた時に私たちを圧倒する恐れこそ、私たちの信仰の本質ではないでしょうか。

ペトロは混乱しました。恐れおののいて、「私の足など、決して洗わないでください」と言いました。これが普通の反応でしょう。しかし主イエスはそれに対して「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」とおっしゃいました。

主イエスは「私のしていることは、今、あなたにはわかるまいが、後で、分かるようになる」とおっしゃいました。その通り、この時ペトロは主イエスがしていることの意味が分かりませんでした。

ペトロは、「それならば、足だけでなく、手も、頭も洗ってください」と言いました。滑稽なペトロです。それまで遠慮していたのに、その言葉を聞いて、ペトロは主イエスが自分の体のいろんなところを洗ってくださればくださるほど、主イエスとの関係が強くなるということだ、と無邪気に考えたようです。

ヨハネ福音書は、神の民イスラエルが、イエスの本当の姿を見ることができなかったということを我々読者に伝えています。その無理解の中には、キリストの弟子達も含まれています。

キリストが復活なさった後、キリストの使徒たちは言いました。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。それを聞いた人たちは、おおいに心を打たれて、「私たちはどうしたらよいのですか」と言ってきました。弟子達がそうであったように、人々も、自分の無理解に気づいていくのです。

私たちもキリストが共にいてくださった時、キリストが自分に仕えてくださっていた時はそのことに気づかず、後で振り返ってそのことを知ることが多いのではないでしょうか。そしてそれに気づいた時、私たちは恐れるのです。「自分はどうしたらよいのか」と。それが、自分の罪の気づきとなり、神の許しの大きさの感謝となり、その恵みを伝える思いとなっていくのではないでしょうか。

神の御業は、その御心は、私たちの肉の目には徹底的に隠されています。しかし見えなくても、ご自分の十字架へと歩んでくださったキリストのことを思い、そしてキリストを十字架に上げたのはこの私だと知る中で、神は私と共にいてくださっているということを確信して歩むことができるようになるのではないでしょうか。

忘れてならないことは、主イエスはこの夜、イスカリオテのユダの足元にも跪き、ユダの足も洗われた、ということです。主はユダがこれから何をしようとしているのかをご存じでした。それでも、最後までユダに僕としてお仕えになったのです。キリストに足を洗われない人などいません。神は今でも、「あなたはどこにいるのか」と世のすべての人を捜し求めてくださっているのです。

キリストの十字架と復活の後、弟子達はこの夜のことを何度思い出したでしょうか。キリストがどんな思いで、自分たちの足を洗ってくださったのか。自分たちがどれだけキリストの思いを受け止めることができていたか・・・この夜を思い出すたびに、彼らは自分たちの罪を知り、キリストの許しの恵みを知り、キリストを伝えねばならないという使命感を深めていったことでしょう。ユダの足までも洗われたキリストを。

主イエスは遠慮するペトロに「このことはあなたにとって必要なのだ」とおっしゃいました。すべてのことは必要なのです。ペトロだけでなく、誰にとっても、キリストがあの時自分にどう仕えてくださっていたのかということに気づくのは、ずっと後になってからのことでしょう。そのことに気づくために、私たちには生きる中でいろんなものを見せられるのです。ある時は、苦しみの中で、ある時は喜びの中で「キリストはまことに私のために仕えてくださっていた」と振り返るのではないでしょうか。

キリストが弟子達の足を洗われるお姿に、我々は洗礼の恵みを象徴的に見ることができます。洗礼による洗いによって私たちは清くされ、イエス・キリストと関りを持つ者とされました。

この地上を歩んで生きる我々の足は罪による汚れがあります。嫌でも思い出してしまう自分の醜さがあります。神を、キリストを知らなかった時、自分がどんな人間だったか、いや、今でも、自分の醜さに向き合わされることがあります。

主イエスは弟子達の足を一度だけ、洗われました。私たちも洗礼は一度です。何度も洗っていただかなくてもいいのか、と思ったりすることもあるのではないでしょうか。しかし、一度でいいのです。弟子達に、思い出すべきこの夜があったように、私たちにも、何度も思い出すキリストが自分を担ってくださったその時というものがあるでしょう。後に弟子達がこの夜の出来事を思い出したように、私たちにも自分の信仰の原点となるような、思い出し何度も立ち返る時があるはずです。

「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛し抜かれた」キリストに、私たちは聖書を通して何度も出会うのです。

5月4日の礼拝案内

次週 礼拝(5月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書12:36~43

 交読文:詩編19:2~5

讃美歌:讃詠546番12番、147番、365番、頌栄543

【報告等】

◇次週、礼拝で聖餐式があります。

◇5月18日(日)の礼拝に浅草教会の皆さんが訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください