MIYAKEJIMA CHURCH

10月30日の礼拝案内

次週礼拝(10月30日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄14:19~28

 交読文:詩編12編

 讃美歌:讃詠546番、58番、181番、508番、頌栄544番

【牧師予定】

◇11月3日(木)香川県高松教会にて さぬき島しょ部伝道協議会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月23日の説教要旨

使徒言行録14:8~20

「パウロは彼を見つめ、癒されるのに相応しい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさいと大声で言った』」

ピシディア州のアンティオキアまで来たパウロとバルナバは、安息日のユダヤ人の会堂で行われた礼拝に入って行きました。二人はその礼拝の中で、「聖書で預言されてきた神の救いの約束は、ナザレのイエスという方を通して実現した」、ということを語りました。

次の安息日に、パウロとバルナバの元に町中の人たちが集まって来たのを見て嫉みをもった一部のユダヤ人たちは、パウロたちが語る福音を受け入れず、語ることに反対しました。

パウロたちは、福音を受け入れなかったユダヤ人たちに言います。「神の言葉は、まずあなたがたユダヤ人に語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」

ユダヤ人たちは人々を扇動してパウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出しました。パウロとバルナバは次にイコニオンという町に行き、同じようにユダヤ人の会堂に入って話をしますが、そこでも同じことが起こりました。福音を信じる人と信じない人に別れ、信じない人たちがまたパウロとバルナバを追い出しのです。

今日私たちが読んだのは、迫害によって追い立てられたパウロとバルナバが、リカオニア州のリストラという町に来て、一人の足の不自由な人を癒したという場面です。

二人は、キリストの使徒としてどんどんユダヤ人が少ない地域・異邦人世界へと深く入って行っています。ここは小アジアの南部で、独自の言葉、独自の宗教観をもっていた地域です。大きな国際都市ではなく、地方の小さな町でした。人々は自分たちの土地のルールで生きて、保守的な考え方を持っていたようです。

これまでパウロとバルナバは、初めて行く町ではユダヤ人の会堂に入って、礼拝の中で聖書の話をしてきました。しかし、リストラの町では会堂ではなく道端で福音を語ったようです。ユダヤ人の会堂が建てられていないぐらい、ユダヤ人の少ない町だったのだろう。

リストラの町の道端に、足の不自由な男性が座っていました。「生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった」とあります。使徒言行禄の3章にも、足の不自由な人が出てきました。その人は、エルサレム神殿に入って行く人たちに向かって物乞いをしていました。このリストラの町にいた足の不自由な男性も、道を通る人たちからの施しを求めていたのではないでしょうか。家族に養ってもらわなければならず、社会的な地位もなく、道端に座って時を過ごすしかなかった人だったのではないでしょうか。

もしかしたら、生まれた時から足が不自由だったことで、町の人たちからは優しくされていたかもしれません。しかし、その人自身は、道端に座っているしかできない自分、他の人たちに生かしてもらうしかない自分を、どれだけ受け入れることができていたでしょうか。

この人がリストラの町の道端に座っていると、パウロとバルナバという二人が来て、イエスという方の話をしました。聖書には、パウロは「彼を見つめ、癒されるのにふさわしい信仰があるのを認めた」とあります。この人はよほど真剣にイエス・キリストの救いの出来事の話を聞いていたのでしょう。群衆の中でも、ひと際パウロの目を引くほど熱心に福音を聞いていたようです。

ここを読むと不思議に思えます。この足の不自由な男性は、イエスという方を見たことも、会ったこともないのです。なぜそこまで真剣にイエスという人に起こった十字架と復活という出来事を聞いたのでしょうか。

言えるのは、この人が救いを求めていたからでしょう。心に飢え渇きを覚え、魂を包んでくれる福音を求めて一番真剣に聞いていたのがこの人だったから、パウロはこの人に信仰を見出したのでしょう。

この人は見たこともない、会ったこともないイエスという人に起こったことを、パウロとバルナバの言葉を通して信じました。

ヘブライ人への手紙にはこういう言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

この人はまさに、見えないものを確信した信仰者でした。パウロは大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と言いました。するとその人は踊りあがって歩き出したのです。

私たちは、聖書が、この足の不自由な人の信仰に焦点を当てていることに注目したいと思います。聖書は、パウロが特別な人間で、奇跡を行う力があった、ということを伝えようとしているのではありません。この人の信仰が、神の奇跡を起こした、ということです。信仰が、奇跡を起こしたのです。奇跡を見て信仰を持った、というのではありません。

マタイ福音書に、カナン人の女性が主イエスに自分の娘から悪霊を追い出してほしいと願った女性のことが書かれています。この女性は何度も主イエスに願いました。しかし主イエスは何度も拒否されました。それでも女性はあきらめず、何度もすがって主イエスに救いを求めました。そして主イエスは最後に、「夫人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とおっしゃったのです。キリストを求め、信じぬく先に奇跡があるのです。

今日私たちが見た、リストラの町にいた足の不自由だった男性もそうでした。この男性は、自分の人生を呪っていたかもしれません。そこにキリストの福音がもたらされ、そして信じました。その信仰を通して、聖霊による救いが訪れました。

この人は、主イエスに癒されたカナン人の女性と同じ異邦人でした。ユダヤ人ではありません。ユダヤ人のように、聖書のことは知りません。この人はただ、目の前でイエスという方の十字架と復活を語るパウロの言葉を信じました。ただ、信じたのです。その信仰が、この人に奇跡をもたらしたのです。

信仰が持つ力を改めて、ここで確認したいと思います。私たちの信仰は、「ただ信じるだけ」ではありません。私たちの信仰を通して、何かしらの聖霊の業が行われ、私達自身、自分の信仰を通して奇跡を見せられるのです。信仰によって自分が思いもしなかったことが起こり、考えもしなかった道へと導かれていきます。神は私たちの信仰を通して働かれます。私たちは、信頼して、歩めばいいのです。

さて、リストラの町の人たちは、足の悪い人が癒された奇跡を見て、群衆はパウロをヘルメスと呼び、バルナバをゼウスと呼び、礼拝しようとしました。町の人たちは、聖書を知らない異邦人でしたので、自分たちが知っている神話に当てはめて、パウロとバルナバを神だと信じ込んでしまいました。ヘルメスは水星の神、ゼウスは木星の神です。

このリストラの群衆の反応は、「2000年も前の聖書を知らない人たちの無知」として済ませられるものではないと思います。このリストラの町で起こったことは、今まさに私たちの周りで起こっていることでもあるからです。何か不思議なことがあれば、人は自分の信仰の型にはめて理解しようとするのではないでしょうか。

教会には奇跡が起こります。信仰が、祈りがあるところには、本当に不思議なことが起こります。もしそれを聖書の言葉抜きで解釈する時、私たちの周りには簡単に偶像礼拝が始まってしまうでしょう。

何か不思議なことを行う人を見たら、「この人は神ではないか」「この人は神に近い人ではないか」とすぐに信じて、その人を拝む、ということは今だって起こることだ。誰かをすぐに神格化してしまうことは、昔だけのことではありません。

パウロとバルナバは、リストラの町でキリストを伝えたのに、自分たちが神に祭り上げられてしまいました。二人はリストラの人たちが自分たちを礼拝しようとしているのを見て、全力でやめさせました。2人は「自分たちは神ではない」というところから始めなければならなかったのです。

パウロとバルナバはこの時、誘惑を受けました。信仰者にとって、人々が自分を神のように崇めてくれる、というのは、心地よいものです。神ではなく自分に讃美の言葉が向けられることがあると心地よいのです。これは、キリスト者を襲う誘惑の力です。

イエス・キリストが宣教の最初に与えられた試練・誘惑でした。荒野で主イエスは悪魔から誘惑をお受けになりました。

「私を拝むなら、地上の栄光をあげよう」

十字架で殺されるよりも、この世界で快楽に浸った方が楽に決まっています。迫害されるよりも、世に迎合して楽しんだ方が楽に決まっています。

私たちはイエス・キリストのお名前を利用して自分が祭り上げられることへの誘惑が絶えずあるのです。キリストはそれでもサタンの誘惑を退けて、受難の使命を課せられた生贄の子羊として十字架への歩みをお選びになりました。私たちは信仰者としてそのキリストの歩みに従うのです。キリストのお姿を見つめるしか、私達には誘惑を退ける方法はありません。

さて、パウロとバルナバは、アンティオキアとイコニオンから追いかけてきたユダヤ人たちによってまた追い払われてしまいました。石を投げつけられ、半殺しにされてしまいました。イエス・キリストのお名前を用いて、足の悪い人を癒したのに、二人は暴力を振るわれたのです。そして町から追い出されてしまいました。理不尽です。彼らがリストラの町に立ち寄ったのは、無意味だったのでしょうか。

そんなことはありません。パウロは次の宣教の旅で、もう一度リストラに戻ってくることになります。その際、このリストラの町で、テモテという青年をキリストの使徒として仲間に加えることになるのです。

彼らが語った福音、また行った奇跡の業は、福音の種としてリストラに蒔かれ、育っていきました。キリストの使徒たちは迫害を受けながら次の町へ、次の町へと追いやられ、そうやって福音は町々をめぐっていったのです。

私たちはキリストを信じる中で、良いことも悪いことも起こります。聖書を通して言えるのは、そこに信仰がある限り、私たちの苦難も、全て聖霊が用いてくださる、ということです。

パウロは後にローマの信徒たちにこう書き送っています。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くと言うことを、私たちは知っています」

私たちの信仰生活の中にある誘惑との闘いは、必ず用いられます。信仰が持っている力を信じたいと思います。

10月16日の説教要旨

使徒言行録13:42~51

「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついてきたので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」(13:43)

キリストは弟子達にこうおっしゃったことがあります。

「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

イエス・キリストに従おうとする信仰生活には、必ず逆風が吹く、という前提の言葉です。

キリストの言葉通り、使徒言行禄を読んでいると、キリストの使徒たちは聖霊に導かれて福音を告げているにも関わらず、いたるところで反対されたり迫害を受けたりしているのがわかります。

今日私たちが読んだパウロとバルナバもそうでした。二人は、ピシディア州のアンティオキアという町に行き、ユダヤ人の会堂に入り、安息日の礼拝の中で、イエス・キリストの福音を伝えました。

「聖書で告げられている神の救いの約束は、ナザレのイエスという方を通して実現した」

「その方は死人の中から復活され、神がご自分の下に全ての人をお集めになるために遣わされた救い主・メシアだった」

二人の言葉を聞いて信じた人たちは、二人の後を追いかけてきて、「もっと聞かせてください」「次の安息日にも同じことを話してください」と頼みました。

しかし、次の安息日になると、パウロたちが告げる「主の言葉」を聞こうとやってきた町中の人を見て、一部のユダヤ人たちが嫉みを起こし、パウロたちが話すことに反対したのです。

アンティオキアの会堂では、福音を受け入れ「もっと聞きたい」と願う人たちがいる一方で、パウロとバルナバに話をさせようとしないユダヤ人たちもいたのです。恐らくパウロたちに反対したのは、「ユダヤ人だけは特別に神に選ばれた民だ、異邦人とは違う」いう意識をもっていた人たちでしょう。

彼らはパウロ達に対して、「ねたみ」をもった、と書かれています。これは「熱心」という意味の言葉です。「自分たちユダヤ人こそ、神に選ばれたイスラエルの民であり、自分たちこそ神の御心に従っている民だ」、という「熱心さ」をこの人たちはもっていたのです。だから彼らは、「ユダヤ人でない人たちまでキリストは神の元へと招いていらっしゃる」、と伝えるパウロたちの言葉に対して、熱心に反対したのです。

イエス・キリストが弟子達に前もっておっしゃったとおりでした。「主の言葉」が語られるところでは、旧約の預言者たちが迫害されたように、キリストの使徒たちも、教会もののしられ、悪口を浴びせられ、反対されるのです。

私たちは聖書を読んでいると、福音が語られるところではいつでも、福音を受け入れる人と受け入れない人に分かれる、ということを見ます。そして、福音を受け入れようとしない人たちから、信仰者は反対を受けるのです。

イエス・キリストでさえもそうでした。神の救いの言葉が伝えられる所には必ず反対が起こるということは、イエス・キリストが幼子の時から、聖霊によって示されていたことでもあります。

主イエスがお生まれになってすぐ、母マリアは、幼子イエスを抱いて神殿に参拝しました。そこに、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを聖霊から受けていたシメオンという人がいました。

シメオンは幼子イエスを腕に抱いて、主イエスの父・母に祝福して告げました。「この子は、反対を受けるしるしとして定められています。」

シメオンがマリアに告げた祝福は奇妙なものだった。

「この子は神の救いを告げることになるから、いいことがたくさんあるだろう」、というのではないのです。「神の救いのために働くことになるこの幼子は、多くの人たちから反対を受けるだろう、この子には逆風が吹くだろう、多くの人の心にある罪がこの子に向かってくるだろう」、と、祝福とは思えないようなことを言うのです。

更にシメオンはマリアにも言いました。

「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」

痛みがこの子を襲うだろう、母であるあなたも心に痛みが与えられるでしょう、というのが、シメオンの「祝福」でした。

その言葉通り、イエス・キリストの公の宣教の生涯を見ると、確かにたくさんの人たちが主イエスに神のお姿を見出し、従いました。しかし最後には、キリストは十字架で殺されてしまうのです。

今、キリストに召されたパウロとバルナバは、同胞であるはずのユダヤ人たちから、キリストの福音を語ることに対して反対を受けました。これは、驚くようなことではないのです。主イエスが以前弟子達におっしゃったように、福音が告げられる所では反作用が起こるのです。だから福音を語る人には痛みがあるのです。キリストへの信仰を持ち続ける、ということには、痛みが伴い続けるのです。そしてその痛みは、キリストご自身が担われたものでした。私たちの信仰生活というのは、そのキリストの痛みに与る、ということなのです。

パウロとバルナバは今キリスト者として、使徒として、イエス・キリストの痛みに倣っています。福音を受け入れようとしないユダヤ人たちにパウロは言いました。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しないものにしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」

このパウロとバルナバの姿は、故郷ナザレでの主イエスのようです。主イエスも、故郷のナザレの礼拝堂で、安息日に聖書の言葉の解き明かしたことがあります。しかし、主イエスのことを少年の時からよく知っていた人たちは、「あのヨセフの息子のイエスが、あんなことを言っている」と言って、受け入れませんでした。主イエスはそのことで「福音・神の救いは異邦人へと向かっていくだろう」とおっしゃいました。

私たちはここに、不思議な逆転現象を見ます。神が初めにお選びになったユダヤ人が、神のメシアを受け入れず、むしろイスラエルの神を求める異邦人が主イエスのことをメシアとして受け入れました。

これはどういうことなのでしょうか。

パウロもキリストと同じ言葉を告げました。「福音は異邦人に向かう」

それでは、神はもうユダヤ人をお見捨てになった、ということなのでしょうか。そうではありません。キリストの使徒たちは、その後もユダヤ人にキリストの福音を伝え続けています。

ロマ書9章の初めでパウロはこう書いています。

「私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

パウロの悲しみ、痛みとは何だったのでしょうか。それは、自分と同じユダヤ人たちが、主イエスのことをメシアとして受け入れていない、ということでした。

しかしパウロは、神がユダヤ人をお見捨てになったとは考えません。このユダヤ人たちの不信仰を通して福音は異邦人にまで広がり、やがて、ユダヤ人も異邦人も、全ての人が神の元に・キリストの元に集められるのだ、と書いています。パウロは、壮大な、神の招きの御業を見据えていたのです。

確かに今はイエス・キリストに対してユダヤ人たちは不信仰かもしれません。しかし「ユダヤ人の不信仰を通して神の招きのご計画は進んでいる・教会の成長は進んでいるのだ」、と言うのです。「神のなさることはなんと深いことか」と結んでいます。

今私たちが聖書の言葉を語り、イエス・キリストへの信仰を言い表しても多くの人たちは受け入れないでしょう。

「それは、あなたが信じていることで、私に押し付けないでほしい」

「キリストの救いなどというものを知らなくても、私は生きていけますから」 Continue reading