MIYAKEJIMA CHURCH

1月29日の礼拝案内

次週礼拝(1月22日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄16:25~40

 交読文:詩編14編

 讃美歌:讃詠546番、85番、168番、402番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月22日の礼拝説教

使徒言行禄16:16~24

「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」(16:18)

パウロ、シラス、テモテの三人の使徒たちは、フィリピの町の外の川岸という社会の片隅で、神を求めて祈りを捧げていた女性たちにイエス・キリストの福音を伝えました。祈りの群れの中心となっていたリディアという女性は使徒たちを自分の家に招待して、福音を詳しく語ってもらったようです。使徒たちは、リディアの家に滞在し、祈りの場所へと通いながら宣教を続けてました。

ある時、祈りの場所に向かうその途中、パウロたちは「占いの霊」に取りつかれている女奴隷に出会いました。この女奴隷は、名前さえ残されていません。

この女奴隷は主人たちによって、また「占いの霊」によって自分の人生を支配されていました。自分の意志を持つことも許されず、ただ主人のために占いをして金を稼ぐための道具として使われていたのです。当時の世界の感覚では、奴隷というのは主人にとって「生きた道具」でした。主人は奴隷の所有者であり、奴隷は主人の意志によって使われる道具だったのです。

女奴隷は、パウロたちに向かって「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けました。何日も繰り返しパウロたちの後についてきて同じことを叫ぶので、パウロはたまりかねて、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言って、霊を追い出しました。

さて、ここで考えてみたいと思います。なぜ、パウロがこの女性から占いの霊を追い出したのでしょうか。パウロは、この女奴隷を利用することも出来たと思います。女性を支配していた悪霊はパウロたちのこと正しく言い表しています。「この人たちは神の僕であり、救いの道を宣べ伝えている」

霊は、パウロたちの悪口を言っているのではありません。むしろ、パウロたちが何者か、そして何を伝えているのかを大きな声で叫んで正しく宣伝してくれています。しかし、パウロたちは彼女の叫びを利用しませんでした。

なぜでしょうか。

もしパウロたち悪霊の叫びを利用してキリストの福音を宣教するのであれば、この奴隷の主人たちと変わらないことになるでしょう。そして何より、イエス・キリストが悪霊に取りつかれた人を救われていたからです。

キリストは悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出し、その人を悪霊の支配から解放されていきました。パウロはキリストの業に倣ったのです。イエス・キリストがなさったように、悪霊に取りつかれている人に、自分の人生を取り戻させました。

パウロがどのように悪霊を追い払ったのかをよく見てみましょう。パウロは「イエス・キリストの名によって命じる」という言葉と共に「この人から出て行け」と霊に命じました。悪霊は女性から出て行きました。それはイエス・キリストがそうなるように望まれた、ということです。

使徒言行禄3章には、ペトロによる癒しの業が記録されていますが、その際、ペトロも同じ言葉をつかっています。

「私たちには金や銀はないが、持っているものをあげよう。イエス・キリストの名において立ちなさい」。その言葉によってエルサレム神殿の境内にいた足の悪い人は癒され、立ち上がりました。

ペトロも、パウロも、キリストの使徒たちはイエス・キリストがお望みになることを行っていったのです。キリスト者には、悪霊・誘惑との霊的な戦いがあります。「神ではなく、自分を頼りにしなさい」「自分が神になればいいではないか」という声との戦いです。

その際キリスト者が持っている唯一の武器は「イエス・キリストの名」です。信仰者は、キリストを信じて「自分自身が」強くなるのではありません。キリストという「強い方」が弱い自分と共にいてくださるという強さです。

キリスト者は、「イエス・キリストの名において」生きます。それは、キリストがお望みになることをなしていく、ということです。キリストがお望みになることであれば、私たちの小さな信仰の技を通して、何かしらの奇跡が起こっていくのです。

イエス・キリストは、女奴隷を支配していた悪霊による証を必要とはされませんでした。むしろ、キリストの使徒を通して、御自分のお名前が、悪霊の支配から解放する道であることを示されたのです。

それにしても、なぜ女性に取りついていた悪霊は、なぜパウロたちのことを「いと高き神の僕だ」とか「この人たちは救いの道を伝えている」などと叫んだのでしょうか。

以前、イエス・キリストが宣教の旅をなさった時に、異邦人の土地でレギオンという悪霊の大群に取りつかれた人と出会われたことがあります。レギオンは主イエスの前にひれ伏して、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言いました。悪霊は、主イエスの前にひざまずいて命乞いをしました。このイエスという人が、神の子であり、自分たち悪霊が束になって勝つことはできないことを知っていたのです。

恐らく、女奴隷に取りつきパウロたちの後ろで叫び続けた占いの霊も、パウロたちが持つイエス・キリストのお名前を恐れ、負けを認めてこのように叫んでいるのではないでしょうか。そうでなければ、パウロたちに立ち向かって来たでしょう。

この世で悪霊ほど神のことを、キリストのことを正しく理解し、恐れている存在はありません。誰よりも神を理解し、キリストを恐れているのは、実は悪霊なのです。

私たちはどのように、私たちを支配しようとする悪しき力、罪の力、神から引き離そうとする誘惑の力に対抗すればいいのでしょうか。私たちが持っている武器はただ一つ、イエス・キリストのお名前です。キリストが共にいてくださる、ということです。

繰り返しますが、信仰者の強さは、ただイエス・キリストのお名前を知っている、ということです。そしてキリストのお名前を知っているというそれだけのことが、私たちを信仰者としてどれだけ強くするか、ということを、この場面から学びたいと思います。

パウロたちは、悪霊を女奴隷から追い出し、女性を解放しました。しかし、この女性の主人たち恨みを買うことになりました。自分たちの金儲けの道具をダメにされてしまったのだ。奴隷の主人たちは、パウロたちをローマの役人へと引き渡しました。

当時、ローマ帝国では宗教に対しては寛容でした。しかし、「貿易や商売の邪魔をしなければ」、という条件がありました。自分たちの商売を邪魔された主人たちは、仕返しとしてローマの役人たちに、「この者たちユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております」と訴え出ました。このことで、パウロたちは逮捕され、鞭うたれ、牢に入れられてしまいます。

使徒たちにとっては不本意だったでしょう。しかし、不思議なことに、パウロたちは一言も弁明をしていません。いくらでも弁明することはできたはずなのに、パウロたちはむしろ甘んじてこの信仰の苦難を受け入れています。

「なぜなのだろうか」、と思わされます。

キリストの使徒たちは、イエス・キリストの苦しみに与ろうしているのではないでしょうか。彼らはまるで、十字架に上げられていったときのイエス・キリストのようです。

ユダヤの最高法院は、主イエスをローマ総督ポンテオ・ピラトの元へと連れて行ったとき、こう言いました。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。これは、でっちあげです。しかし主イエスはご自分のために弁明をなさいませんでした。

ローマ総督ポンテオ・ピラトも、ユダヤの領主だったヘロデも、主イエスにいろいろと質問しましたが、主イエスは何も言い返さず、苦難の僕として、毛を刈られる子羊のように沈黙をもってご自分の受難へと身を捧げられたのです。

ご自分の十字架へと身を捧げていかれるイエス・キリストのお姿と、ここでのパウロ達の姿は重なります。神の救いのご計画を信じて、自分たちの身を沈黙のうちにゆだねていく信仰の姿です。

パウロは、一回目の宣教旅行の最後で、自分に従う人たちに向かって言いました。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」

パウロたちは、その言葉通り、神の国に入るための苦しみを担い、イエス・キリストの痛みに倣おうとしたのではないでしょうか。霊に取りつかれた女奴隷は、パウロたちが「救いの道を宣べ伝えている」と叫びました。「救いの道」とは、つまり神の国へと続く道のことです。その道を切り開くためにイエス・キリストはご自分の命を捧げられました。パウロたちは使徒として、キリストの歩みに倣い、神の国への道を示そうとしているのでしょう。

主イエスは、御自分に従う人に向かって、「自分の十字架を背負いなさい」とおっしゃいました。信仰者は自分の十字架を背負います。しかし、「自分の十字架を背負う」とはどういうことなのでしょうか。キリストがご自分の命をかけて通してくださった道を、私たちも歩き続ける、ということです。

キリストが歩まれた道は、苦難の道でした。逆風が吹く道です。しかし、その道は確かに、神の国へと続いていることをキリストは命をかけてお示しくださいました。神の国へと続く道を示すために、私たちはその道の上を歩くのです。どんなに逆風が吹いても。その道を歩くことで、その道を世に示していくのです。

キリストが敷いてくださった道の上には、多くの苦難があります。私たちがキリストのために働こうとすればするほど、罪の力は私たちに逆風として向かってきます。それでも、教会は逆風の中立ち続けます。キリストの使徒たちがそうだったように、教会は、神の国に入るための苦しみに勝る喜びを知っているからでしょう。

私たちにはこの地上の富に勝る天の宝があります。ペトロが言った通り、私たちには

金や銀はありません。しかし、イエス・キリストのお名前という天の宝を持っています。私たちキリスト教会がもっているイエス・キリストのお名前は、何よりも豊かな財産です。地上の富をどれだけ積んでも売り買いできる財産ではありません。

パウロたちは、逮捕されても、イエス・キリストのお名前という宝を手放すことはありませんでした。鞭打たれ、一番奥の牢に入れられ、足枷をはめられても、使徒たちは救いの道を捨てませんでした。

この後パウロたちは牢から救い出されることになります。そして、その出来事を通して、牢屋の看守たちが神を信じるようになり、洗礼を受けることになるのです。使徒たちの苦しみは、不思議な仕方で用いられていきます。私たちの信仰の痛みは、新たな信仰者を生みだすための、「生みの苦しみ」として用いられるのです。

私たちに与えられ、歩かせていただいているこの「救いの道」の上で、私たちが逆風に対して持っている武器は一つだけだ。イエス・キリストのお名前だけです。私たちはイエス・キリストのお名前をもって生きるしかありません信仰者が受ける苦難は、聖霊の導きの下にある苦難であり、キリストがくびきを共に担ってくださっている、インマヌエルの歩みです。苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む。私たちは希望に向かっていることを忘れてはいけません