ルカ福音書1:26~38
「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)
天使ガブリエルが、ガリラヤ地方にあるナザレという町にいるマリアのところに行き、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。
26節には「六か月目に」こういうことが起こった、とあります。何から数えて六か月目にこのようなことがあったのでしょうか。
マリアに現れる六か月前、天使ガブリエルは、エルサレムの祭司であったザカリアという人に現れていたのです。ザカリアとその妻エリサベトは既に高齢でした。しかし天使はザカリアに「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げたのです。
私達は今日、イエス・キリストがお生まれになった際にはどのようなことが起こったのか、そしてその出来事は、どのような歴史の流れの中で起こったのか、ということを見ていきたいと思います。
マリアの前に、まずザカリアへの天使の告知を見たいと思います。エルサレム神殿の一番奥にある至聖所で、ザカリアが祭司として香をたいていた際に天使は現れました。「子供を授かる」という天使の告知を、ザカリアはそのまま信じることが出来ませんでした。
「私は老人ですし、妻も年をとっています」と答えます。ザカリアは、天使の言葉、つまり神の言葉を信じることはできなかったために、神の言葉が実現するまで口がきけなくされてしまいました。そしてエリサベトは天使が告げた通り、男の子を身ごもったのです。
なぜザカリアは神から与えられた言葉をすぐに信じることが出来なかったのでしょうか。至聖所の中で天使に告げられた言葉を、神殿で神に仕える祭司がすぐに信じることが出来なかった、というのです。
祭司であったとしても、人間にとって自分の知識や経験にそぐわないことは、たとえ神から告げられたことでも簡単には受け入れられないのです。それだけ、人間は自分がもっている常識に縛られている、ということでしょう。
私たちはここで、ガブリエルがザカリアに告げた最初の言葉に注目します。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」。天使は「あなたの願いは聞き入れられた」と言っています。つまり、ゼカリアとエリサベトはこれまで祈り続けて来た、願い続けて来た、ということです。子供を授かることを願って二人は神に祈り続けてきたのです。
それなのに、ザカリアは天使が告げた言葉をすぐに受け入れることができませんでした。この時のザカリアの言葉はとても現実的だ。「私も、妻も、年老いています」
このザカリアの応答は、神がなさる奇跡を前にした人間の姿です。確かに自分は神にそう祈り続けてきたけれども、実際にそれが実現するとなると、なんだか信じられない思いになる、それが実現することに恐れが生じるのです。
私たちも当然祈っているでしょう。しかし、実際に祈りが聞かれると、なんだか信じられない思いになるのではないでしょうか。「私の祈りは本当に神に聞かれていた」という畏れに打たれます。逆説的だが、私たちの信仰にはそのような驚きがあるのではないでしょうか。
ザカリアやマリアのように実際にこんな風に直接天使からのお告げを聞いた人はいないでしょう。しかし、祈りが聞かれた際の驚きというのは理解できるでしょう。神が私たちの祈りを聞いてくださるということは、喜びであると同時に、私達に恐れを感じさせることなのです。
もし、ザカリアとエリサベトが、祈っていなかったとしたら、どうだったでしょうか。少なくとも、天使から「あなたの願いは聞き入れられた」という言葉を聞くことはなかったでしょう。
私達は祈りの力というものを甘く見てはいけないのです。祈る本人の思いを超えた仕方で、神はその祈りを聞いて下さいます。そして私達の思ってもいないような時に、思ってもいなかった場所、「まさか」という仕方で答えてくださるのです。
マリアに天使が現れたのは、そのザカリアの驚きの六か月後のことでした。天使は、神殿のあるエルサレムではなく、「異邦人の地」と呼ばれたガリラヤ地方のナザレという小さな村に現れました。それも、ザカリアのような祭司ではなく、何も特別な身分をもっていない一人の女性、少女と言っていいでしょう、マリアの元に現れました。
マリアにとっては、これは突然の天使のお告げでした。ザカリアとエリサベトのように、長年の祈りが聞かれて神の言葉が告げられた、ということではなかったのです。マリアはまだ結婚していません。それなのに、子供が自分の中に宿った、と言われます。しかも、その子は聖霊によって宿った子で「いと高き方の子、神の子と呼ばれ、神の支配をこの世にもたらすだろう」、と告げられたのです。
当然マリアは戸惑い、「私はまだ男の人を知りません」と言いました。天使は、これは聖霊によることであり、マリアの親類であるエリサベトにも同じことが起こっていることを告げました。そして最後に、「神にできないことは何ひとつない」と言いました。
マリアはこの天使の一言を聞いて、全てを受け入れました。「私は主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」
マリアは、この時、14、5歳の少女だったと言われます。天使の言葉に驚きつつも最後にはその言葉を受け入れました。マリアが少女だったから、純粋な信仰の持ち主だった、あまり考えなかった、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。
マリアの最後の言葉に、マリアの信仰の姿勢が現れています。
「私は主のはしためです」
「はしため」、と訳されているのは、「奴隷・僕」という言葉です。「私は主の奴隷・僕です」という言葉なのです。
「奴隷」と聞くと、我々はあまりいい響きに感じないでしょう。人間が同じ人間を奴隷としたとき、私たちは嫌悪感を覚えます。
しかし、聖書では、神に仕える者・神の御心に従う者、という信仰的な意味で「奴隷」という言葉がつかわれます。
使徒パウロはロマ6:16でこう言っています。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」
神に従順に仕える奴隷となるということ、それは神を自分の支配者とすることです。神の恵みの支配に信頼して身をゆだねることです。マリアが選んだのはそちらでした。
神を信じ、自分を神に委ねることで、信仰者は自分では作り出すことのできない奇跡を見せられることになります。マリアは、自分のことを「神の奴隷・僕です」、と言いました。この信仰が、やがて神の子イエス・キリストの誕生につながるのです。
私たちはマリアという女性を何か特別な人のように思うのではないでしょうか。自分と同じ人間ではないのではないか、自分にはマリアのような特別なことは起こらないのではないか、と考えてしまうのではないでしょうか。
しかし、そうではありません。マリアも一人の信仰者でした。神によって選ばれたから、特別に見られるようになっていますが、私達と変わらない、同じ一人の人間でした。
そして私達も一人の信仰者として、神の奇跡によって選ばれ、今ここにいるのです。マリアがそうだったように、神の尊いご計画の中で私達も用いられているのです。
イエス・キリストは、ある時、一人の女性からこういうことを言われました。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」
女性は、主イエスの母マリアのことをそう讃美しました。主イエスの母であるマリアをうらやましがったのかもしれません。
しかし、主イエスはその女性に向かって、こうおっしゃいました。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」
マリアは主イエスを生むために選ばれた「幸せな女性」のように思われていたのかもしれません。しかし、主イエスご自身は、「本当に幸せなのは、神の言葉を聞き、それを守る人だ」、とおっしゃるのです。
そうであるなら、私たちが今ここで、神の言葉・聖書の言葉を聞き、守ろうとしていることが、実はどれだけ特別で、幸せなことなのか、今一度再認識する必要があるのではないでしょうか。
「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」、ということにおいては、全ての信仰者は平等です。ザカリアやマリアを包んだあの祝福は、私たちも同じように届いているのです。 Continue reading →