MIYAKEJIMA CHURCH

3月5日の礼拝案内

次週礼拝(3月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄18:12~23

 交読文:詩編15編

 讃美歌:讃詠546番、4番、196番、380番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇3月14日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会、東支区総会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

2月26日の礼拝説教

使徒言行禄18:1~11

「『恐れるな。語り続け世。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』」(18:9~10)

パウロ、シラス、テモテの三人、聖霊に導かれてアジア大陸からヨーロッパ大陸へと渡って来ました。ヨーロッパ大陸へと渡ってからここまで、3人はいくつかの町々に入り、福音宣教をしてきましたが、どの町でも滞在の期間は短いものでした。マケドニアでフィリピやベレア、そしてギリシャに入ってアテネに行きましたが、パウロたちは迫害を受けたり相手にされなかったりで、どの町にも長く滞在できませんでした。

しかしそのような中でも、全ての町で、わずかですがキリストの福音を信じる人が起こされて来ました。

パウロはアテネの次に、コリントという町にやって来ました。アテネと同じ、ギリシャの町です。迫害によって離れ離れになっていたシラスとテモテがようやくここでパウロに追いつき、三人は結局この町に1年6ヶ月滞在して福音宣教をすることになりました。いつも目まぐるしく町々を巡って福音宣教を続けたパウロたちでしたが、このコリントでは長く滞在してキリストを伝えることとなりました。

パウロたちの、コリントの町での宣教の様子を見ていきましょう。

まず、コリントという町についてです。この町は古代世界では最も大きな都市の一つでした。ローマの植民地であり、国際都市でした。人と財が集まってくる地理的条件に恵まれていました。陸と海の要衝で、人の行き来、船の行き来の中心であり、自然と商業の中心になって栄えていました。

パウロはこの町で、これまでとは違う仕方で福音宣教を始めました。職人として町に住み、働きながらキリストを語るやり方をとったのです。

パウロは、コリントの町でアキラとプリスキラというユダヤ人夫婦を訪ねました。紀元49年にローマ皇帝クラウディウスがローマからのユダヤ人追放令を出したことでローマからコリントの町に移住してきた夫婦でした。

二人はパウロと職業が同じだったので、パウロは彼らの家に住み込んで一緒に仕事をはじめました。「同じ職業」というのは、「テント造り」であった、とあります。この「テント造り」というのは、もう少し広く「革製品造り」という意味がある。パウロたちは様々な革製品を作り、販売して生計を立て、同時にその商業的な活動を通して福音を語っていきました。市場で、お店で、通行人や客を相手に会話をしながらキリストを伝え、一か所に腰を落ち着けて福音を語ることができたようです。

こうして見ると、パウロの福音宣教の仕方は、非常に柔軟だと思います。それぞれの町でどのように福音を語ればいいのか、いろんな状況に自分を合わせていっているのです。

パウロは、後にコリント教会に手紙の中でこう書いています。

「私は誰に対しても自由な者ですが、全ての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。全ての人に対して全てのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、私はどんなことでもします」

パウロ自身が後にそう書いているように、アジア大陸ではアジア大陸に適した仕方で、ヨーロッパ大陸に来ればそれぞれの町に適した仕方で、パウロは柔軟に福音宣教のやり方を変えていきました。福音を伝えるために、それぞれの場で自分を変えて行ったのです。

コリントではまず仕事をし、安息日にはユダヤ人の会堂に行って聖書を論じ、キリストの到来を告げました。コリントの町の会堂にはユダヤ人だけでなく、イスラエルの神を求めるギリシャ人もいた、とありますので、聖書を知っているユダヤ人には聖書を詳しく用いて、聖書をよく知らないギリシャ人には、聖書をかみ砕いて福音を伝えて行ったのでしょう。

そのようにして日々を過ごすうちに、シラスとテモテがマケドニアから追いついて来ました。するとパウロはそこで職人としての活動をやめ、み言葉を語ることに専念するようになりました。

このようにパウロは、非常に柔軟でした。コリントに来て革職人として働きながらキリストを伝え、シモンとテモテが来ると、職人としての働きをすぐに辞めて福音宣教に専念するようになったのです。

パウロは福音を語る町、福音を語る相手、福音を語る状況に合わせて、どんどん自分を変えています。「福音のためなら私はどんなことでもします」という姿勢を見ることが出来ます。

このようなパウロの姿勢を通して私達は励まされ、また慰められるのではないでしょうか。「どこに行ってもこういうことをしなければならない」という重圧を、信仰者としてどこかで感じているのではないでしょうか。しかし、重圧を感じながら自分を追い込むようなことはしなくてもいいです。自分にできることを自分がやれる仕方で、キリストに仕えて行けばいいのです。

さて、そのようにしてパウロはコリントの町でキリストの福音を語り続けましたが、時間が経つにつれてコリントのユダヤ人たちから反感を買うようになってきました。パウロが語る福音に対して、「反抗し、口汚くののしった」、と書かれています。どうやらコリントのユダヤ人のほとんどはパウロが語る福音を受け入れなかったようです。

パウロは自分が伝える福音がコリントのユダヤ人に受け入れられないと分かるとすぐに、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。私には責任がない。今後、私は異邦人の方へ行く」と言って、ユダヤ人にキリストを伝えることをやめました。「もう少し頑張って、ユダヤ人たちを説得しよう」とは考えなかったようです。

ここだけ見ると、パウロはいとも簡単にコリントの町にいたユダヤ人たちへの福音宣教の責任を放棄しているように思えるのではないでしょうか。

パウロは、福音を受け入れないユダヤ人たちに対して「服の塵を振り払った」と書かれています。これは、神の言葉を預かる預言者として「自分の責任を全て果たした」ということの表現です。

預言者の責任は、預かった神の言葉を伝える、ということでした。伝えた相手が受け入れるかどうか、ということは、相手の問題です。

旧約聖書にエゼキエルという預言者が出てきます。エゼキエルは、紀元前6世紀に預言者へと召された人です。イスラエルがバビロンに滅ぼされ、祭司であったエゼキエルも捕囚としてバビロンに連行され、バビロンで預言者へと召された。エゼキエルは、預言者として召された際、神からこう言われました。

「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたは私の言葉を語らなければならない」

相手が聞くか聞かないかは、預言者の責任ではない。

預言者の責任は、伝えるか伝えないか、だ。

大体、預言者が伝える神の言葉は、神からのお叱りの言葉であり、普通であれば聴きたくない言葉でした。ほとんど聞き入れてもらえないのです。それでも預言者は、神から預かった言葉は全て伝えなければなりませんでした。そして預言者が語った言葉を受け入れるかどうか、その後のことは預言を聞いた側の責任だったのです。

エゼキエルと同じ時期に預言者として活動したエレミヤも、神からこう言われた。

「主の神殿の庭に立って語れ・・・全ての者に向かって語るように、私が命じるこれらの言葉を全て語れ。一言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない」

神は、正しい道からはずれてしまったイスラエルに、預言者を通して正しい道に立ち帰るよう招いて来られました。パウロの時代にもそれは変わりません。神はイエス・キリストに立ち返り、全ての人が神の元にある平和の内に一つになることをお求めになったのです。キリストの使徒たちは、そのために働きました。パウロたちの使命は、神の言葉を一つも減らすことなく伝えることだった。あとは、福音を聞いたその人の問題だったのです。

今、神の言葉は、教会を通して世に伝えられています。つまり、私達が今、旧約の預言者たち、キリストの使徒たちに託された神の招きの言葉が託されている、ということです。

イエス・キリストはおっしゃっている。

「全てのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」

教会は、この聖書の言葉を、一言も減らさずに、大事に受け止め、信じ、そして伝えていきます。聖書には何が書かれているのでしょうか。一言でいうと、「神は全ての人を愛し、お求めになっている」、ということです。

キリスト教会はなぜイエス・キリストという方を伝えているのでしょうか。キリストを通して神が世にご自分の愛を示されたからです。「私が神に招かれたように、あなたも神に愛され、招かれている。イエス・キリストがその証拠です」と、を教会はキリストを指さして世に伝えるのです。

神は、正しい道を外れた人がそのまま滅んでいくことを良しとされません。だからこそ、預言者は、使徒は、教会は、神の招きの言葉を全て伝えなければならないのです。

神は預言者エレミヤにおっしゃいました。

「私が命じるこれらの言葉を全て語れ。一言も減らしてはならない。彼らが聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない」 Continue reading

2月26日の礼拝案内

次週礼拝(2月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄18:1~11

 交読文:詩編15編

 讃美歌:讃詠546番、3番、264番、312番、頌栄542番

【牧師予定】

◇3月14日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会、東支区総会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月19日の礼拝説教

使徒言行禄17:22~34

「これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことが出来るようにということなのです」(17:27)

ヨーロッパ大陸に入ってからのパウロの福音宣教は、迫害を受けては次の町に逃げる、ということの連続でした。

「メシアはかならず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」

「このメシアは私が伝えているイエスである」

このパウロが語る福音を聞いた一部のユダヤ人たちから迫害され、追い出されてきました。

テサロニケでも、ベレアでもそうでした。

今、パウロは一人でアテネの町へと逃げて来て、シラスとテモテが後から追いつくのを待っています。二人の仲間がアテネに来るのを待ちながら、パウロは今まで同じようにキリストの福音を語りました。

アテネの町の「いたるところに偶像があるのを見て憤慨した」パウロは、広場に行き真の神を伝えようといろんな人たちと討論しました。そこにはストア派やエピクロス派といった哲学者たちがいました。

「全てのアテネ人やそこに滞在する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」と聖書に書かれています。アテネの人たちはパウロが語ることに興味を覚え、パウロをアレオパゴスへと招きました。パウロは一人でアレオパゴスの丘に立ち、人々に真の神を証しすることになったのです。

今日私たちが読んだのは、その時語ったパウロの言葉です。聖書を知らない人たち・イスラエルの神を知らない人たち・イエス・キリストを知らない人たちに、パウロがどのように神を証ししたのか、見ていきたいと思います。

偶像がたくさんある町の人たちだからといって、パウロは諦めませんでした。むしろ、パウロは、アテネの人たちはそれだけ神を求めているのだ、という希望をもって福音を語っています。

パウロははじめにこう言いました。

「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなた方が信仰のあつい方であることを、私は認めます。アテネの人たちが『知られざる神』と呼んでいる神について、あなたがたが知らずに拝んでいるものをお知らせしましょう」

パウロがアテネで見た「知られざる神に」と刻まれた祭壇は、「神をこの目で見たい」という人間の思いの表れでもありました。人は自分の目に映るものに弱いのです。漠然と「神」という存在を認めて、求めてはいる、しかし、目に見える形でなければ、求めにくい・・・だから、自分たちの手で木や石などの像を作って「これが神だ」と見える形にしたがるのです。

そのことは、アテネの人たち・異邦人だけのことではありませんでした。ユダヤ人であったイエス・キリストの弟子達もそうでした。

イエス・キリストと弟子達が、エルサレムに上って来て神殿を見た時、弟子達は興奮して言いました。

「先生、ご覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」

しかしキリストは冷めた口調で答えておっしゃいました。

「これらの大きな建物を見ているのか」

ハッとさせられる言葉ではないでしょうか。弟子達が目に映るもの・外側だけを見て、その本質を全く見ていないことを指摘されたのです。弟子達が見たのは、「神殿の石、神殿の建物」でした。神殿を通して神に心を向けたのではありませんでした。ただ、石と、建物に心を奪われたのです。そのことを主イエスは冷静に指摘なさいます。

「君たちは建物を見ているのか」

また、ヨハネ福音書にはイエス・キリストの墓が空になったのに、主の復活を信じられなかったトマスのことが記録されています。トマスは、他の弟子達から主イエスの墓が空になったと聞いても、主イエスが復活なさったということは信じませんでした。「あの方の手に釘の後を見、この指を釘後に入れて見なければ、また、この手をそのわき腹に入れて見なければ、私は決して信じない」とまで言いました。

その後、復活のキリストに会い、自分の目でその姿を見たトマスは、「私の主、私の神よ」と言いました。キリストはそのトマスにおっしゃいました。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」

「見ないで信じる人は幸いである」とは、私たちがいつ聞いても反省させられる言葉ではないでしょうか。

パウロは、「知られざる神」と刻まれた偶像を礼拝していたアテネの人たちに希望を見出しました。拝んでいるのが「知られざる神」「偶像の神」であっても、そこに神を求める心がある、ということなのです。

アテネの人たちに向かって、パウロが一番に伝えたことは、神は「世界とその中の万物を作られた神である」ということでした。神は天地の造り主である、というのは聖書が創世記で一番に伝えていることです。つまり、神を知ろうとする上で一番大切なことでした。

パウロは、この世界をお創りになった神は人間の手によって造ったものの中に納まるような存在ではない、ということから伝え始めました。繰り返しますが、人は見える物に弱いのです。パウロは、偶像を作って拝むということの恐ろしさを知っていました。聖書が伝えているイスラエルの歴史は、偶像礼拝による滅びの歴史でした。

イスラエルの王、ソロモンがエルサレム神殿を建てた時、ソロモンはこう祈りました。

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることが出来ません。私が建てたこの神殿など、なお相応しくありません。」

ソロモンが言うように、神は天から目を注がれる方でした。人が造った建物の中に押し込められるような方ではありません。

神は、神殿を捧げて祈るソロモンにおっしゃいました。

「もしあなたたちとその子孫が私に背を向けて離れ去り、私が授けた戒めと掟を守らず、他の神々のもとに行って仕え、それにひれ伏すなら、私は与えた土地からイスラエルを断ち、私の名のために聖別した神殿も私の前から捨てる」

しかしイスラエルはその後偶像礼拝に走り、神の言葉通り、400年後にエルサレムは滅んでしまうことになります。パウロは聖書を通してその歴史を知っていました。偶像礼拝がどんな破滅をもたらすかを知っていました。だから、神は人間の手で作られるものではなく、人間を・世界をお創りになった神である、ということを一番に伝えたのです。

パウロは次に、神が人間を求めていらっしゃることを語りました。神は人をお求めになり、人に求められることをお望みになっているのです。

その招きのしるしとして、神はイエス・キリストの十字架と復活を世に示されました。パウロが伝えるのは、この方でした。

パウロは広場で語ったように、アレオパゴスでも、神が天創造の神であり、人を愛して求めていらっしゃる神であり、そのために、御子イエス・キリストを十字架に上げ、墓から復活させられたことを順を追って語りました。

アレオパゴスでパウロの言葉を聞いた人たちはどう反応したでしょうか。人々は「死者の復活」ということを聞いてあざ笑いました。そこでパウロの言葉を聞いていたのは、主に哲学者たちでした。「死者の復活」なんてことは、哲学的ではないのです。

「死者の復活」ということは、信仰の躓きとなる出来事ではないでしょうか。「そんなことは信じられない」と、誰もがトマスのように言うでしょう。

もしもパウロが、イエス・キリストの出来事を死者の復活に触れずに神について・キリストについて語っていたら、もっと受け入れられたかもしれません。しかし、パウロは、メシアの十字架と復活という、一番信じにくいこと・一番信仰の躓きとなることを抜きに神の救いを語ることはできませんでした。 Continue reading

2月19日の礼拝案内

次週礼拝(2月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄17:22~34

 交読文:詩編15編

 讃美歌:讃詠546番、2番、168番、247番、頌栄542番

【牧師予定】

◇3月14日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会、東支区総会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月12日の礼拝説教

使徒言行禄17:10~21

「『彼は外国の神々を宣伝する者らしい』という者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである」(17:18)

テサロニケの町でのパウロの福音宣教は一部のユダヤ人たちによって妨害され、キリストを信じた人たちにも害が及びました。9節にヤソンという人の名前が出てきます。この人は、パウロを捕えようとしていた人たちによってつかまってしまいますが、自分の身を犠牲にしてパウロの福音宣教を続けさせようとしました。ヤソンが捕らわれている間に、テサロニケの町にいたキリスト者の仲間たちが夜の闇に紛れてパウロたちをテサロニケから逃がし、ベレアの町へと送り出したのです。

パウロたちはベレアの町でも同じようにユダヤ人の会堂に入って福音宣教をしました。伝えたのは、テサロニケで伝えたのと同じことでした。

「メシアはかならず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」

「そのメシアは私が伝えているイエスである」

ベレアの人たちは、テサロニケの人たち以上に素直に、そして熱心にみ言葉を受け入れた、と書かれています。それだけではなく、自分たちが受け入れた福音がどれだけ確かなことなのか、毎日聖書を調べ続けた、とあります。

パウロが伝えた福音をベレアの人たちが信じたのは、それが聖書に基づいていたからでした。パウロは、ただ自分に起こった不思議な体験談を語ったのではありませんでした。ベレアの人たちは、パウロが体験したことを面白いから受け入れたのではありませんでした。パウロが伝えるイエスという人の十字架と復活が聖書に預言されていた神の救いと合致していたからです。

ベレアの人たちは、一つ一つ丁寧に聖書の言葉を確認しながら、イエスがキリストであることを受け入れていきました。そして「もっともっと」と、聖書の言葉とパウロが語る福音の内容を吟味していきました。

そのようにして、ベレアの町には、次第にナザレのイエスの十字架と復活を神の救いの御業として受け入れる人が増えていったのです。その人たちの聖書を求める姿が、新たにギリシャ人の上流婦人や男性も信仰へと導くことになりました。聖書を求める人たちの姿が、他の人たちに「聖書には何かがあるのではないか。自分も知りたい」と思わせていき、共に聖書を読むようになり、信仰へと導いて行ったのです。

最初にベレアに福音を伝えたのは、一人のユダヤ人、パウロでした。それを聞いた人たちは、聖書の言葉を熱心に求め、吟味していきました。そしてその人たちの信仰の姿が、人々を新しく信仰へと招き入れることになっていきました。

私達はここで、人をキリストへと招くものは何か、ということを考えることができるのではないでしょうか。ベレアの町でたくさんのギリシャ人を聖書の信仰へと導いたのは、福音を聞いて聖書を求めた人たちの信仰の姿でした。信仰者が聖書の真理を求める姿が、次の聖書を生みだすことになるのです。キリスト者が聖書のみ言葉を求める姿が、聖書の真理へと通じる道を示すことになるのです。

私たちは、ここに自分たちの礼拝生活、信仰生活の意義を見出すことが出来るでしょう。誰かをキリストの元へと導くには雄弁でなければならない、理路整然と聖書を説明できないといけない、自分が立派でなければならない、などと考える必要はないのです。それ以上に、私たちはキリストを求めることで、キリストを世に指し示すことになるのです。道を求める者、つまり、求道者として歩む足跡が、次の求道者のための道しるべとなっていくことになるのです。

一回一回の礼拝に向かう私たちの礼拝者としての姿が、日々の生活の中で人知らず祈る私たちの姿が、次の信仰者を生みだすことになります。そう考えると、私達の小さな礼拝がどれだけ多くの力をもっているのかがわかるのではないでしょうか。

テサロニケでの迫害から逃れてきたパウロたちは、ベレアで人々に福音が受け入れられ、根差していく様を見ました。しかし、それを見てゆっくり喜ぶ時間はありませんでした。テサロニケのユダヤ人たちがベレアにまで押しかけて来て、パウロの福音宣教を妨害したのです。

またパウロはすぐに逃げなければならなくなりました。ベレアのキリスト者たちがパウロをアテネの町へと逃がしました。今回は、パウロだけがアテネに先に逃げました。シラスとテモテと一緒に逃げるだけの時間もないほど、切羽詰まっていたということでしょう。パウロは一人でギリシャのアテネまで逃げて、そこでシラスとテモテが後から来るのを待つことになりました。

パウロの時代、アテネはギリシャ文化の中心でした。広いローマ帝国の中でも、様々な文化の交流地点になっていた国際的な町でした。

ユダヤ人であったパウロの目には、アテネは「偶像の町」として映りました。そもそも、守護神である女神アテネにちなんで名づけられた町です。「パウロは、アテネで二人を待っている間に、この町のいたるところに偶像があるのを見て憤慨した」と書かれています。

パウロは二人が追いつくまでの間、一人でもアテネの町で福音を語り続けました。ユダヤ人の会堂だけでなく、広場にも行って、そこに居合わせた人たちにイエス・キリストのことを伝えていきました。

有名な哲学者、ソクラテス以来、アテネの人々は広場で議論して来ました。パウロが広場に行くと、ストア派、エピクロス派の人たちがいた、ということが書かれています。これは、哲学の学派です。

広場にいた哲学者たちは、パウロが語るのを聞いて、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」とか、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言いました。

「パウロが、イエスの復活について福音を告げ知らせていたからである」と聖書に書かれています。人々は主イエスの復活、死者の復活ということに躓いたのです。

パウロは「外国の神々の宣伝をする者らしい」と言われていますが、アテネでそのように言われることには特別な意味合いがあります。有名な哲学者ソクラテスは、「アテネの人が信じることができない外国の神を持ち込もうとした」という罪で処刑された。パウロがアテネの町でそのように言われることは、敵意をもって見られた、ということですし、下手をするとソクラテスのように殺されかねません。

パウロはアレオパゴスへと招かれました。それは会議や法廷が開かれた場所でした。パウロは公の場で語ることを求められたのです。それは危険なことでもありましたが、パウロはそれでもアレオパゴスでイエス・キリストの復活を語ろうとしました。敵意と嘲笑に囲まれた中でも、イエスという方の復活を語ることをやめなかったのです。

パウロはここまで、イエス・キリストの十字架と復活を語り続けてきた。そのことで迫害されながら次の町、次の町と流れて来ました。それでもパウロはイエス・キリストの受難と復活を語ることをやめませんでした。

パウロは、後に、コリント教会にこう書き送っています。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」

パウロは迫害を受け、何度も町から追い出されても福音宣教を諦めませんでした。迫害の中で宣教を続ける自分のために、神がいつでも「逃れる道」をお与えくださっている、ということを体験から知っていたからです。使徒たちの福音宣教は試練の連続だった。しかしテサロニケでも、べレアでも、パウロたちが宣教を続けられるよう、周りに助けようとするキリスト者たちが備えられていました。

試練の中で「逃れの道」のが与えられてきたパウロはそのことを伝え、コリント教会にこう言っている。

「私の愛する人たち、こういう訳ですから、偶像礼拝を避けなさい」

パウロは、「どんな苦難の中にあっても、耐えられない試練を神はお与えにならない、逃れの道も備えてくださる、だから偶像礼拝を避けなさい、神は信頼に足る方だ」と伝えるのです。

我々人間にとって、偶像礼拝ほど魅力的なものはないでしょう。自分の手で神を作ることが出来るのです。自分の願いを込めて、自分で形作ることが出来る・・・それは自分を神とすることでもあります。

聖書にあるように、私たちにとっての一番の誘惑は、自分が神になる、ということです。真の神を忘れ、自分中心に生きることしかできなくなった人間が行きつくところは、偶像を求める、ということではないでしょうか。

そのことがどんなに危険かことかを、パウロは知っていました。コリントの信徒への手紙の中で、パウロはこう書いています。

「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」

イエス・キリストの復活がもしなかったとしたら・・・我々人間にとって、目の前にある快楽だけが全てになってしまう、明日のことにも希望をもてなくなってしまう・・・空しいのです。快楽による幸せは一瞬なのです。後には空しさが残ります。

パウロはその空しさからキリストは私たちを救い出してくださったことを伝えます。パウロはこう書いています。

「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」

キリストの復活は、我々にとって大きな意味がありました。イエス・キリストが「初穂」として復活なさった、ということは、それに続くものがある、ということです。つつまり、キリスト者です。キリスト者が、キリストの復活に続く者とされている、ということです。

復活が無ければ食べて飲もう、どうせ死ぬのだから、一瞬の快楽を求めようという空しい命になります。しかし今や、キリストの復活が、肉体の向こうにある永遠の命という希望を私たちに見せてくれているのです。 Continue reading

2月12日の礼拝案内

次週礼拝(2月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 使徒言行禄17:10~21

 交読文:詩編15編

 讃美歌:讃詠546番、1番、191番、385番、頌栄542番

【牧師予定】

◇2月7日(火) 富士見町教会にて 三宅島伝道所支援委員会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

2月5日の礼拝説教

使徒言行禄17:1~9

「『メシアはかならず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また『このメシアは私が伝えているイエスである』と説明し、論証した」(17:3)

パウロたちは、フィリピの町を後にしました。アンフィロポリス、そしてアポロニアという町を通り、次はテサロニケという町に着きました。フィリピから、歩いて約100kmの距離です。

テサロニケは古い港町で、貿易・商業で栄えた町でした。フィリピはローマの植民都市でしたが、テサロニケは選挙によって選ばれた代表者によって統治されていた歴史のあるギリシャの町でした。

テサロニケの町に入ったパウロたちは「いつものように」ユダヤ人たちの会堂に入りました。「いつものように」、ということは、パウロたちは、町に入ったら、毎回そのようにしていた、ということです。安息日にユダヤ人の会堂に入り、礼拝の中で聖書の言葉とイエス・キリストの出来事を照らし合わせて語って伝えていたのです。

パウロたちは、テサロニケにあった「ユダヤ人たちの会堂」に入って行きました。テサロニケには、ユダヤ人たちも住んでいて、毎週集まってイスラエルの神を礼拝し、聖書の言葉を学ぶ集まりがあったのです。「会堂」とありますが、ユダヤ人たちの群れ・集まりと訳した方がいいかもしれません。

パウロは、ユダヤ人たちの礼拝の中で二つのことを言っています。「受難と復活のメシアが来るだろう」という聖書の預言と、「私はそのメシアを見た」という、自分の体験だ。パウロたちは宣教をする際、いつでも礼拝の中でこの二つのことを告げていたのです。

当時のユダヤ人たちは、「神はこの世界に救い主を遣わして全ての民をご自分の元へと集めるご計画を持っていらっしゃる」、ということ信じて、救い主の到来を待っていました。

パウロたちは、そのメシアを待っていた人たちに向かって「聖書の預言の実現を私は見た」という実体験を告げて回ったのです。

これは、パウロだけでなく、キリストの使徒たちが伝えていたことです。使徒たちは、聖書の学術的な解説をして回っていたのではありません。聖書の預言が実現したことを見た、その体験を伝えていたのです。

使徒とされたフィリポが、エチオピアの宦官に会ってイザヤ書に記録された預言の言葉を解き明かしたことがあります。その時エチオピアの宦官が読んでいたのは、こういうイザヤの預言でした。「彼は、羊のように屠り場に引かれていった。毛を刈る者の前で黙している子羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は取り去られるからだ」

イザヤは「誰かが殺される」、ということを伝えていますが、エチオピアの高官には、誰のことか、何のことかわかりませんでした。フィリポは聖書の言葉を解説して、イエスという方に起こった十字架と復活の出来事を伝えました。フィリポは、聖書を解説しただけではなく、「自分が実際に見聞きした」イエスという方を伝えたのです。

イエス・キリストご自身も、そのようにご自分を世に証しされました。主イエスの十字架を見たクレオパという弟子が、もう一人の弟子と一緒にエマオへと歩いていた時のことです。自分たちの先生の死を見た後の、絶望の歩みの中で、二人の弟子はキリストから話しかけられました。

「その話は何のことですか」

しかし、二人は、それが主イエスだとはわかりませんでした。二人は、ナザレのイエスという人が十字架で殺されてしまったこと、そして三日目の朝早く、その墓が空っぽになったことを話し、自分たちの絶望を伝えました。すると、キリストは「物分かりの悪い者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではなかったか」と聖書を解き明かした、と書かれています。主イエスは、聖書をただ解説なさったのではなく、「あなたがたはその実現を今見ているではないか、体験しているではないか」と言われたのです。

2人の弟子達は、イエス・キリストの復活を「私たちは実際に見た」と他の人たちに告げました。

私たちにとって、「イエス・キリストを証しする」、というのは、こういうことではないでしょうか。聖書を上手に説明する、ということ以上に、「私は、あの方に出会った」という事実を伝えることです。

私たちは聖書を読むと、「これは自分に起こった出来事なのだ」ということを思い知らされます。それが無ければ、私達がどれだけ聖書の知識を持っていようと、上手に説明しようと、意味がないのです。

今、教会で礼拝している私たちキリスト者一人一人、聖書に記されている出来事を見ながら、「このことは私に起こったことだ、これは私だ」、という思いがあってこそ私たちの証は用いられていくのです。

さて、テサロニケの町の礼拝者たちは、パウロの証を聞いて、どう反応したでしょうか。信じる人と信じない人に分かれました。

信じたのは、テサロニケのユダヤ人、神を畏れるギリシャ人、そしてたくさんの指導的立場の女性たちでした。

信じなかったのは、テサロニケのユダヤ人たちの一部の人たちでした。

信じなかった人たちは、パウロたちを「ねたんだ」とあります。この嫉みは、元は「熱心」という意味の言葉だ。

パウロたちが告げる福音は、メシアが十字架という不名誉な死を遂げたということであり、そのメシアが、死者の中から蘇った、という信じがたいことでした。更に、パウロたちは、ユダヤ人でない人たち、つまり割礼を受けていない異邦人たちも、信仰があれば神に受け入れられるということも伝えただろう。

割礼を重んじ強いメシアを待っていたユダヤ人にとって、パウロが言っていることは冒涜に聞こえたのではないでしょうか。自分たちが先祖から伝え聞いてきたこと、信じてきたことと違うことを言っているように聞こえたでしょう。そして何とかして自分たちが先祖代々受け継いできた信仰を守ろうと、「熱心」になったのです。

彼らは、手段を選びませんでした。広場にたむろしていたならず者を抱き込んで暴動を起こし、パウロたちに向かわました。

聖霊に導かれたはずのパウロたち福音宣教がスムーズにいかないことを見ると私達は戸惑います。なぜ聖霊に導かれた使徒たちの福音宣教がスムーズでないのでしょうか。福音を告げると、そこに信じる人と信じない人に別れ、争いが起きてしまいます。もっと簡単に人は福音を信じられないものでしょうか・・・簡単ではないのです。

聖書の御言葉は、簡単に信じることはできないのです。聖書が伝えるメシアは、殺されたメシアであり、死人の内から蘇ったメシアなのです。躓きの要素に満ちています。

しかし、これこそ、神が世におつかわしになったメシアの本当の姿でした。自らの命を投げうって人々の罪を赦し、死人の内から蘇って永遠の命の希望を示すメシアでした。

イエス・キリストは前もってご自分の弟子達におっしゃっていました。「私が来たのは、地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」

「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

旧約時代の預言者たちは、イスラエルの人たちに神の言葉を伝え続けました。しかし、皆、神の言葉を聞きたがりませんでした。自分たちが聞きたい言葉ではなかったからです。預言者たちが伝えたのは、神のお叱りの言葉でした。人々にとって、都合の悪い言葉だったのです。

旧約時代の預言者と、今を生きる私達は、同じです。キリストがおっしゃった通りです。福音が語られるところでは、受け入れる人と受け入れない人に分かれます。

私達も、預言者や使徒たちのように、ただイエス・キリストを信じている、というだけで、敵意を向けられたりします。

キリストはおっしゃいます。

「はっきり言っておく。私の弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」

私たちは、キリストを伝えることによる報いは多くありません。私達がキリストを信じ、伝えることで誰かから水一杯をもらえるということは少ない。しかし、少なくても、確かに報いはあるのです。少ないけれども、キリストはそのような中にも報いが必ずある、とおっしゃるのです。

テサロニケのユダヤ人たちは、パウロたちが見つからなかったので、パウロをかくまっていたヤソンという人と数人のキリスト者たちを捕らえました。ならず者たちは、町の当局者たちにこう言いました。

「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは肯定の勅令に背いて『イエスという別の王がいる』と言っています」 Continue reading