MIYAKEJIMA CHURCH

4月2日の礼拝案内

次週礼拝(4月2日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記2:4~9

 交読文:詩編17:1~5

讃美歌:讃詠546番、8番、132番、522番、頌栄543番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇4月9日(日)イースター礼拝で、洗礼式があります。

◇4月15日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。現住陪餐会員の方はご出席ください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月26日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(2:3)

聖書にはこの天地がどのように神によって造られたのか、そして神が人間にこの世界でどう生きてほしいと願われたか、ということが記されています。我々人間にとってのこの世界の意味と、この世界に生きる自分という存在の意味ということから描き始めるのです。

今日私たちは六日目と七日目の神の創造の御業に注目していきます。

神は人間を祝福してこうおっしゃいました。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」

神が人間にこの大地を「従わせること」と、この世界に生きる生き物を「支配する」ことをお求めになっています。「従わせる」とか「支配する」という言葉がつかわれているので、ここを読んで誤解してしまう人は多いのではないでしょうか。「人間は神から大地を『従わせる』ことと、生き物を『支配する』ことが許されているのだから、この世界の中で自分たち本位で何をしてもいいのだ、人間さえよければいいのだ」という誤解です。

果たして聖書は、この世界における人間至上主義のようなことを伝えているのでしょうか。「地を従わせよ」とは、我々人間が土に対して何をしてもいいということなのでしょうか。「生き物を支配せよ」とは、人間はこの世界で特別な存在として造られたから、他の生き物に対して人間の優位にふるまっていい、人間だけがこの世界で尊厳をもつものである、ということなのでしょうか。

29節の神の言葉を見ると、そうではないことがわかる。

種を持つ草、種を持つ実をつける木が人間に与えられ、土に育った大地の実りで世界の生き物が養われていく・・・神がお創りになった世界の秩序はそういうものでした。人間が大地の土を食いつぶすということは自分の命を食いつぶすことである、ということはすぐにわかります。土は人間だけのものではないのです。大地は、全て命あるものを生かすために恵みを実らせていくものなのです。

「従わせる」「支配させる」という表現を理解する上で、天地創造の第四の日の神の御業を見ておきましょう。神は、天の大空に光る物を造り、昼と夜を分け、季節・日・年のしるしとして、大地を照らされました。二つの大きな光る物と星を造って、大きな方に昼を「治めさせ」、小さな方に夜を「治めさせられた」とあります。「従わせる」「支配させる」という言葉は、「治めさせる」という言葉と似ています。

太陽は昼を、月は夜をどのように治めているでしょうか。太陽は昼を昼とし、月は夜を夜としている・・・それぞれが昼の秩序、夜の秩序を守る、という治め方です。

このように、「支配させる」とか「従わせる」というのは、ここでは、人間が神の創造の秩序の中で、人間が大地に対して、生き物に対して重要な責任を与えられている、ということなのです。太陽と月が、昼と夜という神の秩序を正しく治めているように、人間は大地を、土を、種を実を、青草を、そして空、陸、海の生き物の営みを、神の光の秩序の中に正しく支配しなければならない、ということなのです。

創世記は誤解されやすい書物だと思います。一つ一つの言葉を丁寧に見て、神が一日一日創造の御業を振り返る際に「よし」とされた、ということを踏まえると、人間至上主義・人間中心主義がこの世界の秩序を壊してしまう、ということが分かります。

人間も、この世界の秩序の中に置かれているのですから、人間が創造主・被造物に対する敬いをなくした時、自分たちが秩序の崩壊に巻き込まれることになる・・・その当たり前のことがここで警告されているのです。

「人間は男と女に創造された」、とあります(26節)。男と女は神に「かたどって」造られた、神の似姿ででした。

ここも、いろんな誤った読み方がされるところではないでしょうか。「神に似せて男と女に造られた、というのであれば、男と女、どちらが神に似ているのか」、「そもそも神は男なのか、女なのか」などという議論になってしまうのです。創世記を読みながらそんなことを議論することは無意味です。人間の性別をいきなり神に当てはめて考えても答えは出ません。

神の似姿として男と女が造られた、ということは、人間は男も女も全ての人が神の祝福のもと造られ、神の栄光を与えられ、この世界の「支配」に等しく責任を持っている、ということです。神の創造の光に即して、世界を守り、世界を天地創造以前の「混沌の闇」に戻さないという厳粛な使命を、男・女、という性別にかかわらず持っている、ということなのです。

神は六日かけて天地の秩序を整えられました。1章の最後、31節を見ると、「神はお創りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」とあります。御自分の発する言葉によって造られたこの世界を、わが子のように、御自分の分身のように愛された、ということだ。

創世記1章を読むと、この天地の形は実際には6日間で造られた、ということがわかります。しかし天地創造にはあと一日、七日目がありました。七日かけて神が天地を創造された、ということは有名なことですが、実際は六日で造られ、七日目に神は何もお創りになっていません。7日目に神がなさったのは、休む、ということでした。

「仕事の手を止めて、休む」ということまでが、神の天地創造の業に含まれる、ということは不思議に思えるのではないでしょうか。しかし実はこのことが、大事なのです。天地創造の御業の中で、7日目に神が休まれた、そしてその日を特別に「聖別された」ということが、実は創世記が描いている天地創造の場面で一番大切なことなのです。

我々は神がお疲れになるとか、神にも休みが必要だった、などということはあまり考えないのではないでしょうか。「神なんだから言葉一つで簡単に世界を造った」ように決めつけてしまいがちです。

しかし、この世界の秩序をお創りになる神のお言葉の一つ一つにどれほどの重みがあったのか、ということもまた考えなければならないことではないでしょうか。

神は言葉によって世界を六日間かけて創造され、そして御自分が世界にお与えになった言葉、そしてその世界を、手を止めて見つめるための特別な一日を加えて初めて「天地創造」の完成とされました。逆に言えば、その7日目がなければ、6日間の創造の業は本当の意味では完成してはいなかったということです。

それではこの7日目にはどのような意味があるのでしょうか。「仕事の手を止めて休む、ということには、何の生産性もないではないか」、と考えるかもしれません。しかし、この7日目の「安息」こそが、他の6日間の創造の業に意味を与えるものなのです。

神が人間のために働かれた六日間と、神がご自分のために休まれた一日が、「天地創造の七日間」となりました。この七日間が、私たちがこの世界に生きる時間の秩序となっています。七日が一週間となり、私たちは七日をひとまとまりとして時間を数えています。

天地創造の7日目は、神がこの世界に礼拝を創造された日であると言いでしょう。私たちは自分たちのために日々働き、そして週に一度、働く手を止めて礼拝の時を持っています。私たちは礼拝の中で神の安息に倣い、この世界とその中に生きている自分自身を見つめ、そしてこの世界と自分を造られた神に心を向けます。神が手を休めてこの世界を見つめられたように。私たちは礼拝を通して、この創世記一章に記されている原点に戻るのです。

もしも、天地創造の7日目にもたれた神の安息がなかったとしたらどうでしょうか。人間は、自分たちだけのために生きて、土も、種も、実も、生き物も、自分のためだけにあるものだ、と人間至上主義に陥り、時間の秩序も作れず、滅びに至るのではないでしょうか。

我々は、自分を生かすために働く手を止め、本当に自分を生かしてくださっている神に心を向けます。そうやって、この世界を、自分を、神を見つめています。私たちが本当に人間らしくあれるのは、この時間が神から与えられているからなのです。

「人はパンだけで生きるのではない」、という神の律法、イエス・キリストのみ言葉は、私たちが神の安息に入れられ、礼拝の静けさの中で教えられていく真理なのだ。

そして私たちが忘れてならないのは、聖書が伝えているのは、人間がこの天地創造の光の秩序を壊してしまっているのではないか、という警告である、ということだ。聖書は、「あなたは創造の秩序を正しく『支配』しているか」と問いかけています。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で書いています。

「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます」

だから、私たちには弁解の余地がない、とパウロは言います。

「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなった・・・自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」ロマ書1:18以下

創世記は、天地創造の場面を通して、「あなたは神の秩序を壊していないか」と問いかけてきます。この天地創造で、神がご覧になって「極めてよかった」と思われた世界は、実は人間が失ってしまった世界なのです。

この世界は、神がお創りになったものなのだから、パウロが言うように、神の栄光に満ち溢れています。しかし、人間はどれほどそれを見出しているでしょうか。

聖書は、この世界に神の栄光を見失って空しさを覚えている人に立ち返るべき世界・立ち返るべき創造主を示し、希望を与えようとしています。

イエス・キリストは人間が神から離れた罪を全て十字架で担ってくださいました。御自分の肉を裂かれ血を流し、それによって神殿の垂れ幕を真っ二つに裂いて、創造主へと立ち返る道を拓いてくださいました。

私たちは創世記の天地創造を読みながら、キリストが痛みをもって示してくださった神の国を見せられているのです。今、この礼拝へと、そしてこの天地創造の景色へと導いてくださったイエス・キリストに感謝したいと思います。私たちが立ち返るのは、ここなのです。

3月26日

次週礼拝(3月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記1:1~2:3

 交読文:詩編16編

 讃美歌:讃詠546番、7番、142番、492番、頌栄542番

【牧師予定】

◇4月15日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。現住陪餐会員の方はご出席ください。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月19日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1:26)

聖書は神がこの世界を七日かけて創造されたことをはじめに描いています。

1日目には「光あれ」という言葉と共に、昼と夜を創造されました。二日目には大空と水とを分けられ、三日目には、水を一つの所へとお集めになり、海と地を分け、地には草木が芽生えるようにされました。

四日目には天の大空に光るものをお創りになって、昼と夜を治めるようにされ、五日目に、水に生きるものと空に生きるものをお創りになり、それらの生き物を祝福されました。

神が六日目にお創りになったのは、地の上に生きるものでした。地の獣、家畜、土を這うものをお創りになり、それをご覧になって神は「よし」とされました。六日目の創造の業はそれだけでは終わりませんでした。続けて、神は人間という存在をお創りになったのです。

私達は今日、天地創造の六日目に目を止めて、神がどのような存在として私達人間をこの世界にお創りになったのか、そして神が我々人間に何を期待して、どんな使命をお与えになっているのか、ということを見て行きたいと思います。

創世記は、24節から31節まで、神が人間という存在をどんな思いでお創りになったのか、そして人間に何を期待してお創りになったのか、という六日目の創造の様子を、ほかの被造物の創造よりも詳しく書いています。神が人間という存在を、他の被造物と区別して、特別な存在として創造された、ということがわかります。

私達は、神がどんな思い・決心をもって人間をお創りになったか、神の心の声が記されています。

26節 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう」

この神の声を見ると、人間がこの世界の中に造られた、というよりも、世界が人間のために造られた、ということがわかります。世界にある全てのものが人間に与えられているというのです。

神は人間が生きるための秩序を整えて「よし」とされ、そこに人間の命を造られました。神は、ただ天地をお創りになったのではありません。人間が生きるための世界をお創りになったのです。

神は、人間をお創りになる際、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」とおっしゃっています。そして27節で、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と、人間が神の似姿として造られたことを強調しています。

「人間は神の似姿である、」とはどういうことなのでしょうか。私達は自分について何か考える際には、そこから始めなければならないのです。この世界に今生きている自分という存在について考える際、「今、ここで生きている自分とは一体何者なのか。」という問いを持ちます。それに対して、聖書は、「あなたは神の似姿なのだ」と答えるのです。

それでは自分が神にかたどられて造られた「神の似姿」である、とはどういうことなのでしょうか。簡単に言えば、人は神からいただいていないものはない、ということです。身体も心も、全て神から与えられた聖いものであり、それは社会的な身分や民族などには関係なく、全ての人が、神の栄光を映し出す聖い器である、ということです。

古代においては、その国の王様が「神の似姿」と見られていました。王が、神の権威をもって自分の国を支配している、と考えられていたのです。

しかし、創世記で明らかになっているのは、特定の人だけでなく、この世界に生きる全ての人間が神にとって特別であり、神は全ての人に等しくそれぞれに聖い使命を託していらっしゃるということなのです。

ある人には特別に価値があり、ある人には全く価値がない、というようなことはありません。人間はそう考えたくなるでしょう。自分は誰かよりも上だ、とか優れているとかいうことに目が向いてしまいます。

しかし、創世記は、全ての人間は神の手によって造られた者であり、神の祝福を受け、それぞれが神の栄光を映し出す器としてこの世界に生かされていることを伝えているのです。

「人間が神の似姿に造られた」ということを読んで間違えてならないのは、人間がこの世界で自分が神のように振る舞ってもいい、ということではない、ということです。

この後、創世記を読んでいくと、アダムとエバが蛇の誘惑に負け、楽園を追放されることが書かれています。

「アダム」は、ヘブライ語では「人間」という言葉であり、エバは「命」という意味の言葉です。アダムとエバが楽園を失った物語は、「人間の命」が神の光から離れてしまった、という私たちの罪の現実を描き出しているのです。

これは今の私達に向けて発せられている警告の物語です。「神の似姿である人間・神に造られた人間が、創造主を忘れて自分が神になろうとすると滅びを招く」という敬称なのです。

蛇の誘惑は、「あなたはその実を食べると神のようになれる」というものでした。アダムもエバも「神の似姿・神の聖さをいただいた者」でした。神に造られた命が神になろうとしたとき、どんな破滅を迎えるのかを創世記は教えているのです。

聖書が私達のことを「神の似姿」と言っているからと、この世界で神のように振る舞っていい、ということではありません。神の栄光を映し出す器が、神になろうとしたとき、その器は耐えられなくなって壊れてしまうのです。

パウロは手紙の中でこう言っている。

「私達は神のために力を合わせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。・・・イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」1コリ3:9~

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私達はこのような宝を土の器に納めています。・・・私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」2コリ4:7~

これらのパウロの言葉から考えると、人が「神の似姿」であるとは、私達が創造主の栄光を現わす器であり、イエス・キリストの命が現れる器である、ということがわかります。

そのことを踏まえると、私達は創世記に向き合いながら神に造られた者としてどうあるべきか、考えさせられるのではないでしょうか。他の被造物とは区別され、特別に祝福されたからと言って、思いあがって神のように振る舞うとどうなるのでしょうか。

キリスト教会が、イエス・キリストから離れ、キリスト者がまるで自分がキリストであるかのように振る舞ったらどうなるのか・・・聖書は私達に警鐘を鳴らしている。

神の救いのご計画のために用いていただく器として謙遜に自分を差し出すことこそが、神に造られた者・キリストに救われた者として一番「人間らしい」生き方なのだ。

神は、ご自分にかたどってお創りになった人間に、「生き物を全て支配せよ」とおっしゃいました。

28節  Continue reading

3月12日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:2)

導入

聖書を読みながらあまり考えないかもしれませんが、聖書の言葉はいつ、どこで、誰が、何のために書いたのか、ということを踏まえることは、誤った読み方をしないために大切なことです。私たちが読んでいる聖書は、突然天から降って来たものではありません。歴史の激動の中でイスラエルが旧約聖書の言葉を残し、キリスト教会が新約聖書を残してきました。信仰の民は、聖書の言葉を「人間に与えられた神の言葉・啓示」として大切に伝えて来ました。

今私たちが読んでいる旧約聖書の言葉は、紀元6世紀、バビロン捕囚という苦しみの中において書かれ、文書として編纂されて今の形になって行ったものです。BC587、エルサレムの町、そしてエルサレム神殿は、バビロンという巨大な帝国に破壊され、滅ぼされました。イスラエルの人たちはエルサレムからバビロンへと連れて行かれ、そこで囚われて生活することになったのです。

イスラエルはそれまで何百年も偶像礼拝を続けていました。そのイスラエルに、何人もの預言者たちが「真の神から離れてはいけない。神はあなたがたがしている偶像礼拝にお怒りになっている」と警告を発し続けてきました。

バビロンに滅ぼされる直前、エルサレムでエレミヤという預言者がこう言っています。

「まことに、ユダの人々は私の目の前で悪を行った、と主は言われる。私の名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことを私は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。・・・私はユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を断つ。この地は廃墟となる」エレ7:30以下

偶像礼拝というものが、私たちが考えているよりも恐ろしいものであり、人間を狂わせてしまうものであったことがわかるのではないでしょうか。イスラエルの人たちは、偶像礼拝の儀式の中で自分の子供を火で焼いて捧げたりしていた、というのです。

預言者エレミヤは、「神はそのようなことをお命じになっていない。お怒りになっている。このままではエルサレムは神によって裁かれる」と言い続けました。そして、「神は偶像礼拝を続けるイスラエルを、バビロンの軍隊を用いて裁かれるだろう。だからバビロンに降伏して、素直に神の罰を受け入れなさい」と、伝えたのです。

しかし、イスラエルの人たちは「バビロンに降伏しなさい」と言うエレミヤを売国奴とみなし、預言を受け入れませんでした。エルサレムは神の都であり、自分たちは神の民イスラエルなのだから滅びるはずがない、という根拠のない信仰をもっていたのです。

結局、預言者の言葉は聞かれず、偶像礼拝を続けていたエルサレムにバビロンが攻めて来ました。街も、神殿も徹底的に破壊されました。エルサレムの人々はバビロンへと連行され、そこで囚われの身として生きることになったのです。

私たちが今日読んだ旧約聖書の創世記の言葉は、そのような中で書かれました。創世記から列王記まで、聖書は世界の始まりからバビロン捕囚までのイスラエルの歴史を描いています。この歴史を書いたのは、国を失い、神殿を失い、バビロンへと連れて来られたイスラエルの祭司たちだと言われています。イスラエルの信仰の責任を負っていた人たちです。

彼らには自責の念があったでしょう。自分たちは、祭司としてイスラエルの民の信仰を正しく導くことができなかった・・・預言者の言葉を聞き入れることもせず、偶像礼拝を排除することもできなかった・・・自分たちで神の怒り招き、エルサレムを失い、バビロンで生きることになってしまった・・・。

イスラエルの祭司たちが、「どうして神の民イスラエルがこんなことになってしまったのか」という思いをもって、世界の始まりからバビロン捕囚までの歴史をまとめなおしたのが、この旧約聖書の言葉なのです。

創世記から列王記までを読むと、どこを切っても「私たちは神から離れた。だから滅びたのだ」という反省の教訓に満ちています。どこを読んでも、バビロンで囚われの身として生きる苦しみ、屈辱、そしてその原因となった偶像礼拝への反省が透けて見えるのです。神の裁きを受けた者の悔い改めに満ちた書なのです。

イスラエルの祭司たちは、国を失って初めて預言者エレミヤの言葉が正しかったことを悟りました。エレミヤはエルサレムの滅びを前もって預言してこう言っています。

「多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに訪ね、『なぜ主はこの大いなる都にこのようになさったのか』と聞くならば、『彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ』と答えるであろう。」エレ21:8

バビロンに連れて来られたイスラエルの人たちは、信仰の危機にありました。エルサレム神殿を失って、どのように自分たちが先祖から受け継いできた神への信仰を後世に伝えていけばいいのか・・・祭司たちは、言葉を紡いでいったのです。自分たちが聞いた預言の言葉を踏まえ、語り伝えられてきた様々な信仰の物語を一つにまとめていき、それが、今の「聖書」となりました。

バビロンへと連れて行かれたイスラエルの人たちには一つの大きな問いがありました。それは、「なぜこんなことになったのか。イスラエルがバビロンに滅ぼされたのは、イスラエルの神がバビロンの神に負けたからなのだろうか」ということです。バビロンで捕囚とされたイスラエルの民は、エルサレムを失った悲しみ、バビロンで生きる苦しみの意味を求めていたのです。

聖書はその問いに答えます。世界の初めという根源にまで遡って人々に教えるのです。

「イスラエルが国を失い、バビロンで生きるようになったのは、イスラエルの神がバビロンの神に劣っていたからではない。イスラエルが天と地を創られた創造主から離れ、神に裁かれたからだ」

聖書はイスラエルの罪を、世界の初めにまで遡って教え、苦難の中での神への立ち返りを励ますのです。

先週、「初めに、神は天地を創造された」という聖書の最初の言葉で、「初め」というのは、「根源」という意味がある、と話しました。今日私たちが読んだ天地創造の場面は、全ての信仰者にとって、物事を考える上での原点・根源となるところなのです。神に対して、世界に対して、人間に対して、自分に対して疑問がわいた時、私たちは実はここに立ち返って考えて行かなければならないのです。「そもそも自分は、そして自分が生きているこの世界は神がお創りになったものである」ということから考え始めていかなければわからないのです。

バビロンで捕囚とされた人たちにとってだけでなく、時代を超えて、全ての信仰者は聖書から問われます。

「天地創造の神の前に、あなたは今どう生きているのか、どう向き合っているのか。」

実は、この天地創造を描いた創世記一章というのは、過去の歴史としてのみ書かれているのではありません。創世記は、まさに私たちの今を描き出し、今の私達に問いかけている書物なのです。

私たちは大きな問の下に立たされています。聖書に向き合うということ自体、神に向き合うということであり、自分に向き合う、ということです。そしてそれは自分の原点に立ち返るということであり、全ての根源が創造主にあることを思い出すということなのです。

紀元前6世紀にバビロン捕囚を体験したイスラエルの人たちは、この天地創造の言葉をどう読んだのでしょうか。この創世記のどこに、自分の姿を見出したでしょうか。

「初めに、神は天地を創造された」という言葉で始まっています。天地創造というのだから、天と地をお創りになった、ということはわかりますが、2節を見ると、「天」ではなく「地」の方に、焦点が当てられています。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」

何度読み返しても、よくわからない表現ではないでしょうか。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、元のヘブライ語原典を見ると、ここは言葉が韻を踏んでいて、詩的な表現がつかわれています。聖書は、人が言葉で説明しきれないような混沌、無秩序を、詩文学の言葉遣いで、「詩的に」表現しているのです。

それはどのような混沌だったのでしょうか。「地は混沌であった」という詩的な表現を聞いて、バビロンで囚われていたイスラエルの人たちにとってすぐに理解できただろう。「これは自分たちの今だ、自分たちが置かれている闇だ」。それは形もなく、中身も空っぽな、創造主から離れた闇でした。

神を見出すことが出来ず、生きる意味も見失い、自分が見ている景色に意味を見出せないでいたバビロン捕囚民こそ、「混沌・「闇」という言葉を理解できたでしょう。

さて、私達が考えなければならないのは、聖書がここで言っている「混沌」は今どこにあるのか、ということです。BC6世紀のバビロン捕囚が終わったら、この混沌は地上からなくなった、ということでしょうか。そうではありません。私たちが生きる今でも、神から離れた闇は存在し続けてます。

創世記が始めに言っている「深淵の闇」は、どれだけまぶしく電気を使って光らせて照らすことはできるものではありません。神がお与えになる光でしか照らしだすことのできない闇です。

同じ景色を見たとしても、生きる意味をもっている人と、生きる意味を見失った人では、見え方が違います。生きる意味を見出せないでいる人にとっては、この世界がどんなに美しくても無意味で空しいものになってしまいます。

生きる根源である神を見失い、そのことで生きる意味を見失っている人がいるのであれば、創世記が言っている「混沌・闇」は、現代的な問題として今も存在しているのです。

創世記は、絶望を描いているのでしょうか。世界の無意味さを伝えているのでしょうか。そうではありません。逆です。混沌とした地、意味を失ったかのように見えるこの世界を照らす光の存在を伝えているのです。

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3月12日の礼拝案内

次週礼拝(3月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記1:1~2:3

 交読文:詩編16編

 讃美歌:讃詠546番、5番、138番、263番、頌栄542番

【牧師予定】

◇3月14日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会、東支区総会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月5日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「初めに、神は天地を創造された」(1:1)

創世記の一番初めの章を読みました。イースターへと向かうレントの時、聖書のはじめに立ち返って、キリストの十字架の痛みの意味をしっかりと捉えなおしたいと思います。

有名な、天地創造の場面です。現代を生きる私たちが、ここを読んでまず思うのは、「世界は本当にこのように始まったのだろうか」ということではないでしょうか。素朴な疑問ではありますが、創世記は聖書全体の一番初めの書物なので、ここを読んで持つ疑問は、聖書全体を読む際について回ることになります。

旧約聖書の言葉は、紀元前のイスラエルの民が書き記し、伝えて来たものです。果たして、聖書は「科学的」な書物なのでしょうか。私たちはこの創世記を科学の教科書・科学の論文のように、額面通り読むべきなのでしょうか。

創世記の始まりの1~11章は特に有名な、壮大なスケールの出来事が書かれています。天地創造、人間の堕罪と楽園追放やノアの洪水、バベルの塔の出来事など・・・不思議な物語が続きます。

創世記の初めから読んでいくと、素朴な疑問が次々に湧いてくるでしょう。

「創世記を書いた人は、神が天地お創りになるのを実際に見て、書いたのだろうか。エデンの園の様子や、アダムとエバのやりとりをこんなに詳しく、どうやって知ったのだろうか」・・・そのような疑問です。

私たちがなぜそんなことを思うかというと、創世記を、単なる歴史書か、理科の教科書のように読んでしまうからです。しかし、これらの出来事を記したイスラエルの歴史家は、信仰の教訓を伝える文学作品としてこれらの不思議な物語を後世に伝えたのです。イスラエルは世代を超えて、その物語を大切に受け取り、自分たちが生きる時代の中で信仰を吟味して来たのだ。

私たちは今日天地創造の初めの部分を読んだが、創世記の第一章を読んで、字面を鵜呑みにしたり、自分の科学の知識と照らし合わせて内容をつついたりすることは間違いです。

そうではなく、自分とは何者なのか、自分が生きているこの世界にはどんな意味があるのか、という、生きる上での根源的な問に向き合うために聖書を読むのです。天地創造から始まる不思議な物語は、今聖書を読んでいる私たちに問いかけている。

「これらの物語の中に、今のあなたがいるのだ。これらの物語を通して、今あなたがどのように神に向き合っているか、顧みなさい」

1:1には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。ここだけを読むと、何にもないところ・無から神は天と地をお創りになったと理解するでしょう。

しかし、2節を読むと、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と続いています。神はその「混沌の闇に包まれた地」に向かって「光あれ」とおっしゃって、照らされたのです。

こうして見ると、神の「天地創造」は、「何にもないところからこの地球をお創りになった」ということではなく、秩序の崩れてしまった闇の世界に、神が光を照らし、神の秩序を整えていかれた出来事であったということがわかります。

1:1の「初めに」という言葉は、単に「時間の初め」というだけでなく「根源」という意味もあります。私たちが自分の存在、この世界の意味を考える時には、神がご自分の光の秩序の中に私たちの命をお創りになった、ということから考え始めなければならないのです。

「初めに、神は天地を創造された」という言葉は、創世記の初めの言葉であり、それはすなわち、聖書全体の初めの言葉でもあります。これから聖書を最後まで読むのであれば、「神が天地を創造された」ということが大前提となるのです。そのことなしには、聖書をいくら読んでも、本当に聖書が伝えようとしていることを受け取ることはできないでしょう。まさにこの一文こそ、自分について、この世界について考えて行くための「根源」となるのです。

聖書は創世記の初めで「神」という言葉を使っています。これは聖書の中で一番大切な言葉でしょう。

我々現代人は神について考える時、「神は存在するかどうか」ということを考えたり議論したりします。しかし、聖書はそんなことを問題にはしません。「神が存在する」ということは大前提なのだ。聖書は、「神が存在するかどうか」ではなく、この世界をお創りになった神が人間(あなた)を、どれだけ愛して追い求めていらっしゃるか、ということを伝えているのです。

「神とか、奇跡とか、そのような非科学的なことを無しにして、倫理的、道徳的な教えだけを抜き出して読むのであれば、聖書はもっと読みやすくなるのではないか」という意見もあるかもしれません。しかし、そんなことをしても意味はないのです。例えるなら、聖書は神を指さしている指です。全ての言葉が、読む私たちを神へと導こうとしているのです。

創世記は、バビロンという国に滅ぼされたイスラエルの人たちによって書かれました。真の神から離れ、偶像礼拝に走った人間がどんな破滅を迎えるか体験した語り部たちが、「私達と同じ過ちを繰り返してはならない」この聖書の言葉を紡いて構成に残したのです。だから聖書はどこを読んでも、「神がこの世界をお創りになり、自分たちがその光の秩序の中に生かされている恵みを忘れてはならない」、という教訓に満ちているのです。

聖書はまず、創世記の初め「天地創造」を描き出して我々に問いかけます。

「あなたは自分が生きているこの世界をどう捉えているか」

「あなたは自分の命の源がどこにあると考えているのか」

「あなたは神が光をもってお創りになった聖い秩序の中でどう生きているのか」

「あなたは造り主に対してどんな姿勢でいるのか」

それらは、私達が生きていく上で「根源」となる問いであり、聖書はまず私達自身の「根源」を教えてくれているのです。

創世記1:1は、神のことをただ「神」と呼んでいます。聖書を読んでいくと、神はいろんな呼び方をされています。「イスラエルの神「とか、「アブラハムの神」とか、「万軍の主」とか、いろいろです。

しかし、世界の初めにおいては、神は、ただ、この世界をお創りになった「神」という言葉で書かれています。特定の国や民族や個人の神ではなく、ただ、この世界をお創りになり、ご自分の光の下に全ての命をお創りになった「あなたの神だ」と伝えているのです。

さて、我々は今日聖書の初めの創世記を読みましたが、忘れてならないのは、聖書には終わりもある、ということです。創世記から始まってヨハネ黙示録まで、聖書は、世界の始まりから、世界の終わりまでを私たちに見せています。

神によって造られ、始まった世界は、どこへと導かれて終わるのでしょうか。世界の終わりに私たちを待っているのは何でしょうか。ヨハネ黙示録を見ればわかります。いや、黙示録だけでなく、聖書のいろんな箇所で、私たちには世の終わりに「神の裁き」が待っていることが言われています。私たちが「生きる」ということ・私達の信仰生活は、どのように神の裁きに備えるか、ということでもあるのです。

終わりの日に、私たちは神にどう向き合うでしょうか。光をもって私たちの命を造ってくださった方から、問われることになります。

「あなたは、あなたの命をどう使ったのか。あなたは私の光の中を生きたか。暗闇を求めることはなかったか。」

果たしてその時、私たちは自分の顔を上げることはできるでしょうか。

繰り返しますが、創世記1~11章まで不思議な物語が続きます。私たちは、それらの物語を通して今の自分を問われていくことになります。楽園追放、兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔・・・それらを過去の出来事や、意味のない神話のように読んでしまっては、本当の意味で聖書を読んだことにはなりません。聖書は、それらの物語を通して、今この瞬間私たちが置かれている現実を伝え、問いかけているからです。

創世記が時代を超えて描き出しているのは、創造主から離れようとする人間の姿・人間の罪の現実です。

楽園で人間が最初に受けた誘惑は、「あなたは神のようになれるのだ」という声でした。被造物である人間が、「創造主と同じ位置に立てる」、と言われ、その声に従った結果、人間は崩れてしまいました。世界の根源を描いている創世記は、人間の根源を壊すものが何か、ということを描き出し、伝えているのです。

被造物は、「創造主になってみてはどうか」という誘惑の声によって滅びへと向かってしまうのです。創造主を離れた被造物はどうなるのだろうか。自分が創造主になろうとして、自分の手で偶像をつくるようになるのです。そしてその偶像の神に自分を委ね、神の光の秩序を失い、混沌の闇へと戻ってしまうことになります。 Continue reading