MIYAKEJIMA CHURCH

3月26日

次週礼拝(3月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記1:1~2:3

 交読文:詩編16編

 讃美歌:讃詠546番、7番、142番、492番、頌栄542番

【牧師予定】

◇4月15日(土)10時より三宅島伝道所総会があります。現住陪餐会員の方はご出席ください。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月19日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(1:26)

聖書は神がこの世界を七日かけて創造されたことをはじめに描いています。

1日目には「光あれ」という言葉と共に、昼と夜を創造されました。二日目には大空と水とを分けられ、三日目には、水を一つの所へとお集めになり、海と地を分け、地には草木が芽生えるようにされました。

四日目には天の大空に光るものをお創りになって、昼と夜を治めるようにされ、五日目に、水に生きるものと空に生きるものをお創りになり、それらの生き物を祝福されました。

神が六日目にお創りになったのは、地の上に生きるものでした。地の獣、家畜、土を這うものをお創りになり、それをご覧になって神は「よし」とされました。六日目の創造の業はそれだけでは終わりませんでした。続けて、神は人間という存在をお創りになったのです。

私達は今日、天地創造の六日目に目を止めて、神がどのような存在として私達人間をこの世界にお創りになったのか、そして神が我々人間に何を期待して、どんな使命をお与えになっているのか、ということを見て行きたいと思います。

創世記は、24節から31節まで、神が人間という存在をどんな思いでお創りになったのか、そして人間に何を期待してお創りになったのか、という六日目の創造の様子を、ほかの被造物の創造よりも詳しく書いています。神が人間という存在を、他の被造物と区別して、特別な存在として創造された、ということがわかります。

私達は、神がどんな思い・決心をもって人間をお創りになったか、神の心の声が記されています。

26節 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう」

この神の声を見ると、人間がこの世界の中に造られた、というよりも、世界が人間のために造られた、ということがわかります。世界にある全てのものが人間に与えられているというのです。

神は人間が生きるための秩序を整えて「よし」とされ、そこに人間の命を造られました。神は、ただ天地をお創りになったのではありません。人間が生きるための世界をお創りになったのです。

神は、人間をお創りになる際、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」とおっしゃっています。そして27節で、「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と、人間が神の似姿として造られたことを強調しています。

「人間は神の似姿である、」とはどういうことなのでしょうか。私達は自分について何か考える際には、そこから始めなければならないのです。この世界に今生きている自分という存在について考える際、「今、ここで生きている自分とは一体何者なのか。」という問いを持ちます。それに対して、聖書は、「あなたは神の似姿なのだ」と答えるのです。

それでは自分が神にかたどられて造られた「神の似姿」である、とはどういうことなのでしょうか。簡単に言えば、人は神からいただいていないものはない、ということです。身体も心も、全て神から与えられた聖いものであり、それは社会的な身分や民族などには関係なく、全ての人が、神の栄光を映し出す聖い器である、ということです。

古代においては、その国の王様が「神の似姿」と見られていました。王が、神の権威をもって自分の国を支配している、と考えられていたのです。

しかし、創世記で明らかになっているのは、特定の人だけでなく、この世界に生きる全ての人間が神にとって特別であり、神は全ての人に等しくそれぞれに聖い使命を託していらっしゃるということなのです。

ある人には特別に価値があり、ある人には全く価値がない、というようなことはありません。人間はそう考えたくなるでしょう。自分は誰かよりも上だ、とか優れているとかいうことに目が向いてしまいます。

しかし、創世記は、全ての人間は神の手によって造られた者であり、神の祝福を受け、それぞれが神の栄光を映し出す器としてこの世界に生かされていることを伝えているのです。

「人間が神の似姿に造られた」ということを読んで間違えてならないのは、人間がこの世界で自分が神のように振る舞ってもいい、ということではない、ということです。

この後、創世記を読んでいくと、アダムとエバが蛇の誘惑に負け、楽園を追放されることが書かれています。

「アダム」は、ヘブライ語では「人間」という言葉であり、エバは「命」という意味の言葉です。アダムとエバが楽園を失った物語は、「人間の命」が神の光から離れてしまった、という私たちの罪の現実を描き出しているのです。

これは今の私達に向けて発せられている警告の物語です。「神の似姿である人間・神に造られた人間が、創造主を忘れて自分が神になろうとすると滅びを招く」という敬称なのです。

蛇の誘惑は、「あなたはその実を食べると神のようになれる」というものでした。アダムもエバも「神の似姿・神の聖さをいただいた者」でした。神に造られた命が神になろうとしたとき、どんな破滅を迎えるのかを創世記は教えているのです。

聖書が私達のことを「神の似姿」と言っているからと、この世界で神のように振る舞っていい、ということではありません。神の栄光を映し出す器が、神になろうとしたとき、その器は耐えられなくなって壊れてしまうのです。

パウロは手紙の中でこう言っている。

「私達は神のために力を合わせて働くものであり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。・・・イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません。・・・あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」1コリ3:9~

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私達の心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私達はこのような宝を土の器に納めています。・・・私達は、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」2コリ4:7~

これらのパウロの言葉から考えると、人が「神の似姿」であるとは、私達が創造主の栄光を現わす器であり、イエス・キリストの命が現れる器である、ということがわかります。

そのことを踏まえると、私達は創世記に向き合いながら神に造られた者としてどうあるべきか、考えさせられるのではないでしょうか。他の被造物とは区別され、特別に祝福されたからと言って、思いあがって神のように振る舞うとどうなるのでしょうか。

キリスト教会が、イエス・キリストから離れ、キリスト者がまるで自分がキリストであるかのように振る舞ったらどうなるのか・・・聖書は私達に警鐘を鳴らしている。

神の救いのご計画のために用いていただく器として謙遜に自分を差し出すことこそが、神に造られた者・キリストに救われた者として一番「人間らしい」生き方なのだ。

神は、ご自分にかたどってお創りになった人間に、「生き物を全て支配せよ」とおっしゃいました。

28節  Continue reading

3月12日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:2)

導入

聖書を読みながらあまり考えないかもしれませんが、聖書の言葉はいつ、どこで、誰が、何のために書いたのか、ということを踏まえることは、誤った読み方をしないために大切なことです。私たちが読んでいる聖書は、突然天から降って来たものではありません。歴史の激動の中でイスラエルが旧約聖書の言葉を残し、キリスト教会が新約聖書を残してきました。信仰の民は、聖書の言葉を「人間に与えられた神の言葉・啓示」として大切に伝えて来ました。

今私たちが読んでいる旧約聖書の言葉は、紀元6世紀、バビロン捕囚という苦しみの中において書かれ、文書として編纂されて今の形になって行ったものです。BC587、エルサレムの町、そしてエルサレム神殿は、バビロンという巨大な帝国に破壊され、滅ぼされました。イスラエルの人たちはエルサレムからバビロンへと連れて行かれ、そこで囚われて生活することになったのです。

イスラエルはそれまで何百年も偶像礼拝を続けていました。そのイスラエルに、何人もの預言者たちが「真の神から離れてはいけない。神はあなたがたがしている偶像礼拝にお怒りになっている」と警告を発し続けてきました。

バビロンに滅ぼされる直前、エルサレムでエレミヤという預言者がこう言っています。

「まことに、ユダの人々は私の目の前で悪を行った、と主は言われる。私の名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた。このようなことを私は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない。・・・私はユダの町々とエルサレムの巷から、喜びの声と祝いの声、花婿の声と花嫁の声を断つ。この地は廃墟となる」エレ7:30以下

偶像礼拝というものが、私たちが考えているよりも恐ろしいものであり、人間を狂わせてしまうものであったことがわかるのではないでしょうか。イスラエルの人たちは、偶像礼拝の儀式の中で自分の子供を火で焼いて捧げたりしていた、というのです。

預言者エレミヤは、「神はそのようなことをお命じになっていない。お怒りになっている。このままではエルサレムは神によって裁かれる」と言い続けました。そして、「神は偶像礼拝を続けるイスラエルを、バビロンの軍隊を用いて裁かれるだろう。だからバビロンに降伏して、素直に神の罰を受け入れなさい」と、伝えたのです。

しかし、イスラエルの人たちは「バビロンに降伏しなさい」と言うエレミヤを売国奴とみなし、預言を受け入れませんでした。エルサレムは神の都であり、自分たちは神の民イスラエルなのだから滅びるはずがない、という根拠のない信仰をもっていたのです。

結局、預言者の言葉は聞かれず、偶像礼拝を続けていたエルサレムにバビロンが攻めて来ました。街も、神殿も徹底的に破壊されました。エルサレムの人々はバビロンへと連行され、そこで囚われの身として生きることになったのです。

私たちが今日読んだ旧約聖書の創世記の言葉は、そのような中で書かれました。創世記から列王記まで、聖書は世界の始まりからバビロン捕囚までのイスラエルの歴史を描いています。この歴史を書いたのは、国を失い、神殿を失い、バビロンへと連れて来られたイスラエルの祭司たちだと言われています。イスラエルの信仰の責任を負っていた人たちです。

彼らには自責の念があったでしょう。自分たちは、祭司としてイスラエルの民の信仰を正しく導くことができなかった・・・預言者の言葉を聞き入れることもせず、偶像礼拝を排除することもできなかった・・・自分たちで神の怒り招き、エルサレムを失い、バビロンで生きることになってしまった・・・。

イスラエルの祭司たちが、「どうして神の民イスラエルがこんなことになってしまったのか」という思いをもって、世界の始まりからバビロン捕囚までの歴史をまとめなおしたのが、この旧約聖書の言葉なのです。

創世記から列王記までを読むと、どこを切っても「私たちは神から離れた。だから滅びたのだ」という反省の教訓に満ちています。どこを読んでも、バビロンで囚われの身として生きる苦しみ、屈辱、そしてその原因となった偶像礼拝への反省が透けて見えるのです。神の裁きを受けた者の悔い改めに満ちた書なのです。

イスラエルの祭司たちは、国を失って初めて預言者エレミヤの言葉が正しかったことを悟りました。エレミヤはエルサレムの滅びを前もって預言してこう言っています。

「多くの国の人々がこの都を通りかかって、互いに訪ね、『なぜ主はこの大いなる都にこのようになさったのか』と聞くならば、『彼らがその神、主の契約を捨てて他の神々を拝み、仕えたからだ』と答えるであろう。」エレ21:8

バビロンに連れて来られたイスラエルの人たちは、信仰の危機にありました。エルサレム神殿を失って、どのように自分たちが先祖から受け継いできた神への信仰を後世に伝えていけばいいのか・・・祭司たちは、言葉を紡いでいったのです。自分たちが聞いた預言の言葉を踏まえ、語り伝えられてきた様々な信仰の物語を一つにまとめていき、それが、今の「聖書」となりました。

バビロンへと連れて行かれたイスラエルの人たちには一つの大きな問いがありました。それは、「なぜこんなことになったのか。イスラエルがバビロンに滅ぼされたのは、イスラエルの神がバビロンの神に負けたからなのだろうか」ということです。バビロンで捕囚とされたイスラエルの民は、エルサレムを失った悲しみ、バビロンで生きる苦しみの意味を求めていたのです。

聖書はその問いに答えます。世界の初めという根源にまで遡って人々に教えるのです。

「イスラエルが国を失い、バビロンで生きるようになったのは、イスラエルの神がバビロンの神に劣っていたからではない。イスラエルが天と地を創られた創造主から離れ、神に裁かれたからだ」

聖書はイスラエルの罪を、世界の初めにまで遡って教え、苦難の中での神への立ち返りを励ますのです。

先週、「初めに、神は天地を創造された」という聖書の最初の言葉で、「初め」というのは、「根源」という意味がある、と話しました。今日私たちが読んだ天地創造の場面は、全ての信仰者にとって、物事を考える上での原点・根源となるところなのです。神に対して、世界に対して、人間に対して、自分に対して疑問がわいた時、私たちは実はここに立ち返って考えて行かなければならないのです。「そもそも自分は、そして自分が生きているこの世界は神がお創りになったものである」ということから考え始めていかなければわからないのです。

バビロンで捕囚とされた人たちにとってだけでなく、時代を超えて、全ての信仰者は聖書から問われます。

「天地創造の神の前に、あなたは今どう生きているのか、どう向き合っているのか。」

実は、この天地創造を描いた創世記一章というのは、過去の歴史としてのみ書かれているのではありません。創世記は、まさに私たちの今を描き出し、今の私達に問いかけている書物なのです。

私たちは大きな問の下に立たされています。聖書に向き合うということ自体、神に向き合うということであり、自分に向き合う、ということです。そしてそれは自分の原点に立ち返るということであり、全ての根源が創造主にあることを思い出すということなのです。

紀元前6世紀にバビロン捕囚を体験したイスラエルの人たちは、この天地創造の言葉をどう読んだのでしょうか。この創世記のどこに、自分の姿を見出したでしょうか。

「初めに、神は天地を創造された」という言葉で始まっています。天地創造というのだから、天と地をお創りになった、ということはわかりますが、2節を見ると、「天」ではなく「地」の方に、焦点が当てられています。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」

何度読み返しても、よくわからない表現ではないでしょうか。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、元のヘブライ語原典を見ると、ここは言葉が韻を踏んでいて、詩的な表現がつかわれています。聖書は、人が言葉で説明しきれないような混沌、無秩序を、詩文学の言葉遣いで、「詩的に」表現しているのです。

それはどのような混沌だったのでしょうか。「地は混沌であった」という詩的な表現を聞いて、バビロンで囚われていたイスラエルの人たちにとってすぐに理解できただろう。「これは自分たちの今だ、自分たちが置かれている闇だ」。それは形もなく、中身も空っぽな、創造主から離れた闇でした。

神を見出すことが出来ず、生きる意味も見失い、自分が見ている景色に意味を見出せないでいたバビロン捕囚民こそ、「混沌・「闇」という言葉を理解できたでしょう。

さて、私達が考えなければならないのは、聖書がここで言っている「混沌」は今どこにあるのか、ということです。BC6世紀のバビロン捕囚が終わったら、この混沌は地上からなくなった、ということでしょうか。そうではありません。私たちが生きる今でも、神から離れた闇は存在し続けてます。

創世記が始めに言っている「深淵の闇」は、どれだけまぶしく電気を使って光らせて照らすことはできるものではありません。神がお与えになる光でしか照らしだすことのできない闇です。

同じ景色を見たとしても、生きる意味をもっている人と、生きる意味を見失った人では、見え方が違います。生きる意味を見出せないでいる人にとっては、この世界がどんなに美しくても無意味で空しいものになってしまいます。

生きる根源である神を見失い、そのことで生きる意味を見失っている人がいるのであれば、創世記が言っている「混沌・闇」は、現代的な問題として今も存在しているのです。

創世記は、絶望を描いているのでしょうか。世界の無意味さを伝えているのでしょうか。そうではありません。逆です。混沌とした地、意味を失ったかのように見えるこの世界を照らす光の存在を伝えているのです。

2 Continue reading