MIYAKEJIMA CHURCH

3月12日の礼拝案内

次週礼拝(3月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書: 創世記1:1~2:3

 交読文:詩編16編

 讃美歌:讃詠546番、5番、138番、263番、頌栄542番

【牧師予定】

◇3月14日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会、東支区総会

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

3月5日の礼拝説教

創世記1:1~2:3

「初めに、神は天地を創造された」(1:1)

創世記の一番初めの章を読みました。イースターへと向かうレントの時、聖書のはじめに立ち返って、キリストの十字架の痛みの意味をしっかりと捉えなおしたいと思います。

有名な、天地創造の場面です。現代を生きる私たちが、ここを読んでまず思うのは、「世界は本当にこのように始まったのだろうか」ということではないでしょうか。素朴な疑問ではありますが、創世記は聖書全体の一番初めの書物なので、ここを読んで持つ疑問は、聖書全体を読む際について回ることになります。

旧約聖書の言葉は、紀元前のイスラエルの民が書き記し、伝えて来たものです。果たして、聖書は「科学的」な書物なのでしょうか。私たちはこの創世記を科学の教科書・科学の論文のように、額面通り読むべきなのでしょうか。

創世記の始まりの1~11章は特に有名な、壮大なスケールの出来事が書かれています。天地創造、人間の堕罪と楽園追放やノアの洪水、バベルの塔の出来事など・・・不思議な物語が続きます。

創世記の初めから読んでいくと、素朴な疑問が次々に湧いてくるでしょう。

「創世記を書いた人は、神が天地お創りになるのを実際に見て、書いたのだろうか。エデンの園の様子や、アダムとエバのやりとりをこんなに詳しく、どうやって知ったのだろうか」・・・そのような疑問です。

私たちがなぜそんなことを思うかというと、創世記を、単なる歴史書か、理科の教科書のように読んでしまうからです。しかし、これらの出来事を記したイスラエルの歴史家は、信仰の教訓を伝える文学作品としてこれらの不思議な物語を後世に伝えたのです。イスラエルは世代を超えて、その物語を大切に受け取り、自分たちが生きる時代の中で信仰を吟味して来たのだ。

私たちは今日天地創造の初めの部分を読んだが、創世記の第一章を読んで、字面を鵜呑みにしたり、自分の科学の知識と照らし合わせて内容をつついたりすることは間違いです。

そうではなく、自分とは何者なのか、自分が生きているこの世界にはどんな意味があるのか、という、生きる上での根源的な問に向き合うために聖書を読むのです。天地創造から始まる不思議な物語は、今聖書を読んでいる私たちに問いかけている。

「これらの物語の中に、今のあなたがいるのだ。これらの物語を通して、今あなたがどのように神に向き合っているか、顧みなさい」

1:1には、「初めに、神は天地を創造された」とあります。ここだけを読むと、何にもないところ・無から神は天と地をお創りになったと理解するでしょう。

しかし、2節を読むと、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と続いています。神はその「混沌の闇に包まれた地」に向かって「光あれ」とおっしゃって、照らされたのです。

こうして見ると、神の「天地創造」は、「何にもないところからこの地球をお創りになった」ということではなく、秩序の崩れてしまった闇の世界に、神が光を照らし、神の秩序を整えていかれた出来事であったということがわかります。

1:1の「初めに」という言葉は、単に「時間の初め」というだけでなく「根源」という意味もあります。私たちが自分の存在、この世界の意味を考える時には、神がご自分の光の秩序の中に私たちの命をお創りになった、ということから考え始めなければならないのです。

「初めに、神は天地を創造された」という言葉は、創世記の初めの言葉であり、それはすなわち、聖書全体の初めの言葉でもあります。これから聖書を最後まで読むのであれば、「神が天地を創造された」ということが大前提となるのです。そのことなしには、聖書をいくら読んでも、本当に聖書が伝えようとしていることを受け取ることはできないでしょう。まさにこの一文こそ、自分について、この世界について考えて行くための「根源」となるのです。

聖書は創世記の初めで「神」という言葉を使っています。これは聖書の中で一番大切な言葉でしょう。

我々現代人は神について考える時、「神は存在するかどうか」ということを考えたり議論したりします。しかし、聖書はそんなことを問題にはしません。「神が存在する」ということは大前提なのだ。聖書は、「神が存在するかどうか」ではなく、この世界をお創りになった神が人間(あなた)を、どれだけ愛して追い求めていらっしゃるか、ということを伝えているのです。

「神とか、奇跡とか、そのような非科学的なことを無しにして、倫理的、道徳的な教えだけを抜き出して読むのであれば、聖書はもっと読みやすくなるのではないか」という意見もあるかもしれません。しかし、そんなことをしても意味はないのです。例えるなら、聖書は神を指さしている指です。全ての言葉が、読む私たちを神へと導こうとしているのです。

創世記は、バビロンという国に滅ぼされたイスラエルの人たちによって書かれました。真の神から離れ、偶像礼拝に走った人間がどんな破滅を迎えるか体験した語り部たちが、「私達と同じ過ちを繰り返してはならない」この聖書の言葉を紡いて構成に残したのです。だから聖書はどこを読んでも、「神がこの世界をお創りになり、自分たちがその光の秩序の中に生かされている恵みを忘れてはならない」、という教訓に満ちているのです。

聖書はまず、創世記の初め「天地創造」を描き出して我々に問いかけます。

「あなたは自分が生きているこの世界をどう捉えているか」

「あなたは自分の命の源がどこにあると考えているのか」

「あなたは神が光をもってお創りになった聖い秩序の中でどう生きているのか」

「あなたは造り主に対してどんな姿勢でいるのか」

それらは、私達が生きていく上で「根源」となる問いであり、聖書はまず私達自身の「根源」を教えてくれているのです。

創世記1:1は、神のことをただ「神」と呼んでいます。聖書を読んでいくと、神はいろんな呼び方をされています。「イスラエルの神「とか、「アブラハムの神」とか、「万軍の主」とか、いろいろです。

しかし、世界の初めにおいては、神は、ただ、この世界をお創りになった「神」という言葉で書かれています。特定の国や民族や個人の神ではなく、ただ、この世界をお創りになり、ご自分の光の下に全ての命をお創りになった「あなたの神だ」と伝えているのです。

さて、我々は今日聖書の初めの創世記を読みましたが、忘れてならないのは、聖書には終わりもある、ということです。創世記から始まってヨハネ黙示録まで、聖書は、世界の始まりから、世界の終わりまでを私たちに見せています。

神によって造られ、始まった世界は、どこへと導かれて終わるのでしょうか。世界の終わりに私たちを待っているのは何でしょうか。ヨハネ黙示録を見ればわかります。いや、黙示録だけでなく、聖書のいろんな箇所で、私たちには世の終わりに「神の裁き」が待っていることが言われています。私たちが「生きる」ということ・私達の信仰生活は、どのように神の裁きに備えるか、ということでもあるのです。

終わりの日に、私たちは神にどう向き合うでしょうか。光をもって私たちの命を造ってくださった方から、問われることになります。

「あなたは、あなたの命をどう使ったのか。あなたは私の光の中を生きたか。暗闇を求めることはなかったか。」

果たしてその時、私たちは自分の顔を上げることはできるでしょうか。

繰り返しますが、創世記1~11章まで不思議な物語が続きます。私たちは、それらの物語を通して今の自分を問われていくことになります。楽園追放、兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔・・・それらを過去の出来事や、意味のない神話のように読んでしまっては、本当の意味で聖書を読んだことにはなりません。聖書は、それらの物語を通して、今この瞬間私たちが置かれている現実を伝え、問いかけているからです。

創世記が時代を超えて描き出しているのは、創造主から離れようとする人間の姿・人間の罪の現実です。

楽園で人間が最初に受けた誘惑は、「あなたは神のようになれるのだ」という声でした。被造物である人間が、「創造主と同じ位置に立てる」、と言われ、その声に従った結果、人間は崩れてしまいました。世界の根源を描いている創世記は、人間の根源を壊すものが何か、ということを描き出し、伝えているのです。

被造物は、「創造主になってみてはどうか」という誘惑の声によって滅びへと向かってしまうのです。創造主を離れた被造物はどうなるのだろうか。自分が創造主になろうとして、自分の手で偶像をつくるようになるのです。そしてその偶像の神に自分を委ね、神の光の秩序を失い、混沌の闇へと戻ってしまうことになります。 Continue reading