MIYAKEJIMA CHURCH

7月23日の礼拝案内

 次週 礼拝(7月23日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:使徒言行禄23:31~24:9

 交読文:詩編17:13~15

讃美歌:讃詠546番、25番、90番、290番、頌栄540番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

7月16日の礼拝説教

使徒言行禄23:10~30

「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」(23:11)

パウロが神殿で受けた誤解は騒ぎとなり、その騒ぎは最高法院によるパウロへの尋問となりました。

パウロを捕らえた千人隊長はパウロが何をしたのか、なぜユダヤ人たちがこんなに騒いでいるのかを知ろうとして、ユダヤの最高法院の人たちを呼んで調べさせました。しかしその尋問では、最高法院のファリサイ派とサドカイ派が真っ二つに割れて、復活についての言い合いになってしまいます。そばで聞いていた千人隊長は結局、なぜユダヤ人たちがパウロを殺そうと騒ぎ出したのかわからないまま、パウロを兵営へと連れて帰ることにしました。

パウロは結局その日は釈放されることなく、ローマ軍の兵営の中に捕らえられたままになりました。使徒言行禄には書かれていませんが、パウロも不安になったのではないでしょうか。確かに聖霊は「エルサレムで投獄と苦難がパウロを待ち受けている」と示してきました。しかしそれでも、「自分の苦難を通してもっと何か福音の実りがあるのでは」、と考えたのではないかと思います。

兵営に連れて行かれて、一人になり、夜になった時、パウロは何を考えたでしょうか。

「この苦難は一体何なのか。神に見捨てられた、ということか。エルサレムに戻って来るべきではなかったのか。ヤコブの提案通りに神殿に参拝したのは間違いだったのか。そもそも、自分の福音宣教は神の御心に適っていなかったのか。」

そのような思いが沸き上がって来たでしょう。

パウロに神の声が与えられたのはその時でした。

11節「勇気を出せ。エルサレムで私のことを力強く証ししたように、ローマでも証ししなければならない」

パウロは、福音宣教の旅からエルサレムに戻って来て、エルサレムで騒動に巻き込まれることになりました。そこで教会の迫害者であった自分がどのようにイエス・キリストに召し出され、教会のために働き、教会のために迫害されるようになったか、ということを証しすることになりました。

それは、本当はパウロの意志ではありませんでした。不本意な誤解を受け、騒動に巻き込まれ、そうやってキリストを証しせざるを得ないところへとパウロ自身が巻き込まれていったのは、それが、神のご計画だったからだ。

パウロがどうあがいても、何もできなかった時・・・自分の訴えをまともに届けることができず、混乱の中、自分の知識も経験も役に立たず、ただ黙るしかなかった時・・・神の声が聞こえ、神のご計画が示されたのは、その時でした。

信仰者には、神の声が与えられる時があります。自分の知恵も知識も経験も役に立たず、自分が無力になり、もう神に祈るしかない時にこそ、神の言葉は聞こえてきます。自分に自信があり、語るべき言葉をしっかり持っている時には、逆に神の言葉は聞こえない。自分の言葉が雑音となって、神の声を聞かせないのです。

主イエスと弟子達がガリラヤ湖で船に乗っていた時、嵐が起こったことがあります。。弟子達は主イエスを乗せて反対の岸へと舟をこぎ出しました。舟をこいでいた弟子達は、ガリラヤ湖で漁師をしていた人たちでした。舟の扱いには慣れていた人たちです。

しかし、激しい突風が起こり、舟が沈みそうになります。弟子達の漁師としての経験は役に立たない状況になりました。ガリラヤ湖での漁の経験役に立たない状況の中で彼らがしたことは、舟の中で眠っておられた主イエスを起こすことでした。その時出来たのは、それだけでした。

「先生、私たちがおぼれても構わないのですか」

主イエスは弟子達の声を聞き、起き上がって、風を叱り、「黙れ、静まれ」とおっしゃいました。すると風がやんだのです。湖の上で船を操る技術をもった弟子達でした。しかし、この方は、嵐を沈める権威をお持ちの方だったのです。

弟子達は、見せられました。自分たちには太刀打ちできない嵐に勝る方が、同じ船に乗っていらっしゃる、ということを。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」

弟子達はそう言われて、返す言葉がありませんでした。

私たちにとって、キリストの声とは、そういうものです。信仰生活の中で何度、このキリストの声を聞くでしょうか。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。私が同じ舟に乗っているではないか。私を見ていないのか」

生きる中で嵐に吹かれる時、私たちの自信も、知識も経験も吹き飛ばされることがあります。その時に求めるのは、嵐を沈めてくださる方の声です。

また別の時に、弟子達だけで湖に乗って、反対の岸に行こうとして、逆風で渡れなかったことがあります。舟は逆風で進むことが出来ず、夜通し船をこいでも、湖の真ん中で立ち往生しました。

夜が明けるころ、弟子達は、湖の上を歩く人の姿を見ました。そしてその姿を見て、幽霊だと思い、恐怖で叫びました。主イエスは「安心しなさい。私だ。恐れることはない」とおっしゃって、船に乗り込まれます。そのとたん、風は静まりました。

嵐の中の小舟、また逆風の中の暗闇・・・苦難の中叫ぶしかなかった弟子達に、私たちは自分たちの姿を見るのです。信仰生活の中で感じる逆風の中で、私たちはそのキリストの言葉が与えられます。主イエスは「安心しなさい」とおっしゃいます。その理由は、「私がいるから」ということです。

「私がここにいる。あなたと共にいる。だから、安心しなさい、恐れることはない」という声を聞くことが出来る、ということが信仰の恵みです。私たちはそのように、神の声を聞くのではないでしょうか。

弟子達は一緒に旅をする中、昼間、落ち着いてキリストの教えを聞くことはたびたびあったでしょう。しかし本当に弟子達がキリストによる救いを痛感したのは、漁師の経験・知識が役に立たない嵐の中・暗闇の逆風の中でキリストの声を聞いた時だったのではないでしょうか。

逆風の中で、自分の力でどうしようもない時、祈るしかない時にこそ初めて聞こえてくるキリストの声です。私たちは、自分の中から自分の声がなくなった時に、神の御心が静かに示されるのです。信仰とはそういうものではないでしょうか。最後の最後で、どなたに向かって叫べばよいのか、そのことを知っているのが「信仰」というものではないでしょうか。

今、パウロが夜、一人でローマ兵たちの兵営に囚われている姿を見ると、「神の導き」とか「神の守り」がどこにあるのか、疑問に思ってしまうでしょう。しかし、ユダヤ人やローマ人たち、人間が意図せず作り出してしまう混乱の中にあっても、神の導きは確かに流れています。自分の力を手放し、すべてを神に委ねて、全ての雑音が自分の中から消えた時、私たちには神の声が与えられるのです。

さて、千人隊長クラウディウス・リシアは、神殿の暴動に関してパウロが無罪であることを確信していました。しかし、もうパウロを釈放して終わり、というわけにはいきませんでした。パウロを殺そうとする計画するユダヤ人人たちがいたのです。彼らは神の教えを無にし、人々の信仰をダメにする、イスラエルの信仰を壊そうとする背教者・危険人物として見ました。

その殺害計画を、パウロの甥が聞いていました。彼はそれを千人隊長に告げます。千人隊長はパウロをどう扱うべきか、すぐに決めました。パウロをカイサリアに送ることにしたのです。

ローマの市民としてパウロは公平な裁判にかけられる必要がありました。エルサレムでは興奮したユダヤ人たちがいてどうなるか分かりません。カイサリアには、ローマの総督フェリクスがいます。そこで裁いてもらおうと考えたのです。千人隊長は、パウロがローマの法律では全くの無罪であり、ユダヤ人の信仰をめぐる問題でパウロは騒がれているということを手紙で書き送りました。

さて、このようにして見ていくと、ただ神のご計画が着実に進んでいる、ということがわかります。

ユダヤ人たちはパウロが神の教えに反することを言い広めている思い、騒ぎ立てましたが、本当にパウロが何か罪を犯したかどうかは分かっていません。

最高法院の人たちもパウロの罪を見出そうとしましたが、結局、死者の復活をめぐって、ファリサイ派とサドカイ派の言い争いになりました。

ローマの千人隊長はパウロがなぜユダヤ人たちから敵視されているのかを明らかにしようとしましたが、結局何もわからずにパウロをカイサリアへと護送することになりました。

ユダヤの群衆も、最高法院も、ローマ兵も、誰もパウロを思い通りにすることができませんでした。誰もパウロを正しく裁くことが出来ていない Continue reading