創世記3:1~13
「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」
聖書の初めに記されているこの創造物語は、天地が創造され、人が楽園に住むようになって理想郷ができて終わり、という話ではありませんでした。神が言葉をもって天地の秩序を創造され、人が楽園に生きるようになってからすぐに、人が神から与えられた楽園から追放されてしまう、という悲劇が起こるのです。
天地創造も、楽園からの追放も、私たちにとっては昔話でもなくおとぎ話でもありません。聖書は、私たち一人一人が今置かれている現実を生々しく描き出し、警告を発しています。「ここに、あなたの姿がある。あなたはこの楽園の登場人物なのだ」と突きつけるのです。
聖書は、ここに書かれている出来事を他人事として私たちが読むことを許しません。私たちの目を何度も、この世界の根源にあるもの・我々人間の根源にあるものへと向けさせます。そのことを踏まえなければ、私達がイエス・キリストの言葉を聞いても、キリストの御業を見ても、本当にはわからないのです。
なぜキリストは「私は真のブドウの木、私につながっていなさい」とおっしゃったのでしょうか。
なぜキリストは「私は良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃったのでしょうか。
キリストは私達をどこへと連れ戻そうとしてくださったのか。
なぜキリストは十字架で殺されるために、この世に生まれてくださったのか。
全ては、人が神の言葉を捨てて罪の誘惑に身を委ねた、ここから始まっているのです。ここから人間をご自分の下に取り戻そうとなさる神の招きの御業が始まるのです。その神の招き・救いの御業の歴史を記したのが、聖書です。
私たちは創世記を読んで「太古の昔に、アダムとエバが罪を犯した」という風に、他人事のような言い方をしてしまいます。しかしそうではないのです。天地創造を読むたびに、楽園からの追放を読むたびに、私たちは今自分が置かれている現実を見せられることになるのです。
今日私たちは創世記3章の初めを読みました。天地と生き物の創造が1章2章と描かれてきて、3章に入って、聖書で初めての会話が記録されています。
聖書に出てくる初めての会話は、神と人間の会話ではありませんでした。神と人間が言葉を交わす前に、誘惑がやって来ました。
神と人間が初めて互いに言葉を交わすのは、蛇の言葉を聞いた男と女が善悪の知識の木の実を食べてしまった後です。神は楽園の中で、人に呼びかけられます。
「どこにいるのか。」
それに対して人の答えは「あなたを恐れて隠れております」というものでした。
「あなたはどこにいるのか」 「私はあなたから隠れている」
これが神と人間との間に交わされた最初の会話の内容です。いなくなった人間を追い求めていらっしゃる神と、神から隠れようとする人間の会話です。楽園で交わされた会話とは思えない内容です。
豊かに実を結ぶ木が茂り、その間を美しい川が流れる園で神と人が語りあう、という光景であれば、まさに楽園・パラダイスと呼べたでしょう。しかし、蛇の誘惑の声を聞き、自分が神のようになろうとした人間は、神との間に何か大切なものを失ってしまいました。蛇と女の間に交わされたのは、誘惑する者と、誘惑される者との会話でした。
人間に忍び寄ってくる誘惑の声がどれほど狡猾なのか、そして誘惑にさらされる人間がどれほど弱いのか・・・創世記が私たちに見せようとしているのは、まさにこのことなのです。
救いとは何でしょうか。神から離れていた者がもう一度神の恵みの支配に戻ることです。神の元へと連れ戻すために迎えに来てくださった方を、私たちは「救い主」と呼んでいます。「救い主・キリスト」という言葉の意味を知るためにも、私達は今日特に、蛇の誘惑の言葉をよく見つめたいと思います。
「主なる神が造られた野の生き物の内で、最も賢いのは蛇であった」とあります。蛇は、人を神から引き離そうとする力、罪の象徴としてここに登場します。その「賢さ」は人を誤った方向に導こうとする賢さであり、神がいらっしゃるのとは反対の方向に行きたくさせる「賢さ」でした。
蛇は女に言いました。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」
蛇が女に直接質問しているような言葉です。しかし、元のヘブライ語では蛇が独り言をつぶやいたような言い方をしています。
「そうか、神はどの木からも食べてはいけないなどとおっしゃったのか・・・」
わざと人に聞こえる所で独り言をぼそっとつぶやいたような言い方です。その言葉が聞こえた女は、蛇の誤解を訂正します。
「食べてはいけないと言われている木は一本だけです。食べると死んでしまうと言われています」
何も知らないかのようにふるまっていた蛇は、今度は何でも知っているかのように振舞います。「その木を食べても死にはません。食べると神のようになれるのです」
蛇がしたことは、それだけだった。誘惑の恐ろしいところは、それが誘惑だと分からないことです。蛇の賢さは、一度も「その実を食べてごらんなさい」と言っていないことです。
「そうですか、神はあの木の実を食べてはいけないなどとおっしゃったのですか。神はあなたが賢くなることを、強くなることを怖がっているのですね」・・・こうつぶやいただけなのです。
蛇の言葉を聞いた後、女がその木を見ると「いかにも美味しそうで、目を引き付け、賢くなれるようにそそのかしていた」と6節に書かれています。蛇の誘惑の言葉を聞くまでは、その木の実を「美味しそう」とは思わなかったはずです。「食べると死んでしまう」と神から言われている「おそろしいもの」だったはずです。しかし、蛇の言葉を聞くと、その木の実が、突然美味しそうに見え始めた、というのです。
蛇ではなく、今度はその木の実そのものが女をそそのかすようになりました。女は、蛇に無理矢理食べさせられたのではありません。蛇の言葉を聞いて、自分の意志で手を伸ばし、実を食べ、それを一緒にいた男に渡したのです。
どうでしょうか。私たちは、この蛇の言葉は自分には無縁だと言えるでしょうか。木の実を食べてしまう女と男は、自分よりも弱い、と言えるでしょうか。
使徒パウロが、手紙の中でこんなことを書いています。
「サタンでさえ光の天使を装うのです」
確かにそうでしょう。サタンがサタンの姿でやってきたら、誰だって警戒します。女にとって、この時の蛇は光の天使に見えていたかもしれません。「知らないのであれば、教えてあげましょう」という思いやりに満ちた親切な姿で近寄ってきています。 Continue reading →