MIYAKEJIMA CHURCH

12月24日の礼拝案内

 次週 礼拝(12月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マタイ福音書1:18~24

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番102番、108番、112番、頌栄544番

【報告等】

◇12月24日(日)はクリスマス礼拝です。聖餐式があります。礼拝後に愛餐会があります。ご予定ください。

◇12月24日(日)19時からイブ礼拝があります。どうぞお越しください。

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月17日の礼拝説教

創世記3:1~13

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り・・・」(3:7)

エデンの園で土に仕え土を守る生き方を与えられた夫婦は、蛇の誘惑に負けてしまいました。神から「食べると死んでしまう。食べてはならない」と命じられていた木の実を、二人はあっけなく食べてしまったのです。

夫婦で相談することなく、神の言葉を思い出して互いに戒めあうことなく、二人は順番に実を食べました。本当はこのような時にこそ、神の言葉のうちに留まるよう夫婦で励ましあうことが求められていたはずなのに、です。

この場面を読むと、誰もが「なぜ二人はこんなにも簡単に誘惑に負けてしまったのか」と思うのではないでしょうか。私たちは、ここに人間のもろさを見ます。

イエス・キリストは十字架に上げられる直前、弟子達に「あなたたちは私を見捨てるだろう」とおっしゃいました。弟子達は言い返します。「あなたを見捨てることなど決してありません」。

しかし主イエスがゲツセマネの園で、「心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃった通り、「死ぬことになってもあなたを知らないなどと言いません」と言った弟子達は、わずか数時間の内にキリストを見捨てて散り散りに逃げて去りました。

人が心の中でどんなに強く「自分は神の言葉から離れない」と思っていたとしても、誘惑の言葉を聞いて崩れるのは一瞬なのです。だからこそ創世記はこの夫婦の罪の姿を通して私たちに警告しているのです。

「自分は大丈夫だ、自分だけは大丈夫だ」と思っている人ほど、実は脆かったりします。自分の弱さを知り、自分の弱さを恐れている人の方が、慎重に神の言葉を吟味するのではないでしょうか。

私たちは今日、木の実を食べた夫婦と同じ弱さ・キリストを見捨てた弟子達と同じ弱さを持つ者として、聖書の言葉に向き合いたいと思います。

2:17で神は人におっしゃいました。

「あなたは園のどの木からも実を取って食べてよいが、善悪を知る木、これから実を取って食べてはならない。これから取って食べる日、あなたはかならずや死ぬであろう」

神がおっしゃった「これから取って食べる日」・・・その日が本当に来てしまいました。

この「善悪を知る木の実」は、「人がわきまえておかねばならない一線・侵してはならない領域」の象徴として描かれているのでしょう。人には神の平和の支配の内側に留まるために、超えてはならない一線があります。それは一体何か、そしてその一線を越えてしまうとその先に何があるのか、ということをこの物語は私たちに考えさせているのです。

聖書の物語は字面だけを追ってもよくわからないので、少し聖書で使われている表現を丁寧に見ていきたいと思います。

聖書は蛇のことを「賢い」ものだった、と書いています。蛇の賢さは破滅をもたらす賢さでした。「賢い」という言葉は、旧約聖書が書かれたヘブライ語では、「裸」という言葉と語呂があいます。更に、「賢い」「裸」という言葉は「呪い」という言葉と語呂があうのです。

蛇は、その賢さを用いて人が裸であることを教え、そのことで、神から呪いを受けることになります。創世記は、「賢い」「裸」「呪い」という三つの言葉をセットにして描き出しているのです。

誤った賢さによって自分が裸であることを知り、呪いの内に破滅する・・・神のような支配者になれる、と錯覚した人間の姿を我々は決して他人事として終わらせることができないでしょう。

それでは、聖書が言っている「善悪を知る」とはどういうことなのでしょうか。「善悪の知識」と聞いて私たちが思い浮かべる「道徳的な生き方をするための善悪の分別」のようなものとは全く違うようです。神は、「その実を食べると死ぬ」とおっしゃいました。その木の実は人が知るべきでない知識、人を死に導く知識をもたらすものでした。

蛇は、人にこう言っている。

「それを食べる日、あなたがたの目が開いて、あなた方が神のように善悪を知るようになる、と神は知っていらっしゃるのだ」

蛇は、ただ「善悪を知るようになる」ではなく、「神のように」という言葉を付けています。「神のように善悪を知るようになる」

「君たちが神のようになることを、神は恐れているのだ」というような言い方です。

「善と悪を知る」、という表現が、サムエル記で使われているところがあります。ある女性がダビデに訴えます。

「主君である王様は、神のみ使いのように善と悪を聞き分けられます。」サム下14:17

旧約聖書では、「善と悪を聞き分ける・善と悪を知る」という表現は、王として民を支配することを意味しました。つまり、「善悪を知る」というのは、「道徳的な人間になる」ということではなく、「王様になる・支配者になる」ということなのです。

蛇の誘惑はそれでした。

「その木の実を食べると神のように善悪を知ることが出来る」と言ったのは、「木の実を食べると神のようにこの世を支配することができるようになるのだ」ということだったのです。「もう神の支配の下に生きることはない、君たちは、自分が世界の支配者になれるのだ、神と同列になれるのだ」、と言って、木の実を示しました。その言葉が決め手になり、二人は実を食べてしまいます。

7節を見ると、2人が実を食べると、「二人の目が開けた」とあります。今まで見えなかったものが見えるようになった、知らなかったことを知った、ということです。2人は木の実を食べて何を知ったのでしょうか。「自分たちが裸であること」でした。

では「自分が裸であることを知る」ということは、どういうことなのでしょうか。それがなぜ「死んでしまう」ことに結びつくのでしょうか。聖書独特の表現が続きます。

ある人は、「ここで言われている『裸であることを知る』というのは、『人が自分に目を向け始めた』ということではないか」と言います。確かに、それまでは神に目を向け、心を向けていたのが、自分を・自分だけを見るようになっています。

「自分が裸である」ことを知って、人はどう変わったのでしょうか。人の中で中心が変わったのです。世界の中心が変わったのです。神を中心に見えていた景色が、自分を中心に据えて世界を見始めました。

そして面白いことに、人は「自分を恥じるようになった」と書かれています。実を食べる前、人はエデンの園で神との交わりを楽しみ、満ち足りた命を生きていました。しかしそれが自分だけを見るようになったとたんに、自分の恥が見え始め、もとは一つの存在であった夫婦でありながら互いに自分を隠し始めたのです。

神から離れた人間が自分だけを見るようになり、自分の恥だけが見え始めた・・・このことには、深い教訓が隠されているのではないでしょうか。

「人が1人でいるのはよくない」と思われた神は人に夫婦という単位をお与えになりました。存在を共有する「夫婦と」いう「二人で一つの肉」として生きるようにされました。神の支配の下、御心に沿って生きるよう励ましあい、その恵みを分かち合うはずの夫婦でした。

しかし木の実を食べた後はどうなったでしょうか。実を食べたその日の夕方、神から声をかけられるまで、この夫婦は二人で会話をしなかったようです。神から離れた男と女は、互いに恥を感じ、互いから隠れ、神から隠れました。

8節を見ると、エデンの園に心地よい風が吹く頃、神が人に会いに来られたことが書かれています。神と人は毎日この夕方の心地よい時間、語り合っていたようです。しかしいつもの時間に、いつもの場所に人はいませんでした。 Continue reading