MIYAKEJIMA CHURCH

11月26日の礼拝案内

次週 礼拝(11月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:Ⅰコリント12:12-27 「恵みを共に生きる」

 交読文:詩編18:8~16

讃美歌:讃詠546番70番、444番、385番、頌栄543番

【報告等】

◇次週11月26日(日)の礼拝は、西千葉教会と講壇交換になります。(真壁巌牧師)礼拝後に愛餐会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

◇11月21日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会

◇11月26日(日) 西千葉教会で説教

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11: Continue reading

11月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:35~43

「『来なさい、そうすればわかる』」(1:39)

洗礼者ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、人々に歩むべき道を示し続けて来ました。彼が指し示していたのは、世にいらっしゃる神の言・救い主イエス・キリストと共に歩む「道」でした。ヨハネの使命は、キリストという「道を」を指し示すことでした。彼は主イエスのお姿を見るたびに、「見よ、神の子羊だ」と人々に行っています。

洗礼者ヨハネには弟子達がいました。エルサレムの都でから離れた荒野で、洗礼者ヨハネの下で厳しい信仰生活を送っていた人たちがいました。ヨハネは、その人たちを自分の弟子として受け入れてはいましたが、その人たちに「ずっと私の下に留まって、私の教えに従って過ごしなさい」とは言っていませんでした。

ヨハネは、「荒野で叫ぶ声」として、自分の弟子達にも、「私ではなく、私の後から来られる偉大な方に従いなさい。私が指さす方を見なさい。その先に、あなた方が本当に求め従うべき方がいらっしゃる」と、言い続けて来たのでしょう。

ヨハネの弟子達は、自分たちの先生が常々「私は荒野で叫ぶ声である」と言うのを聞きながら、「いつ、先生が言っているメシアは来るのだろうか、いつ、自分が本当に従うべき方が現れるのだろうか」と、荒野でメシアの到来を待っていたのです。

荒野にいるヨハネこそメシアではないか、という期待を持ってエルサレムから送られて来た人たちに、「私はメシアではない」とヨハネははっきり答えました。皮肉にも、その人たちがエルサレムに帰って行った翌日、ヨハネは自分のもとに歩いて来たイエスという人を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。

弟子達はついにヨハネが「見よ、あの方だ」と言うのを聞きました。ヨハネはその翌日にも、自分から洗礼を受け歩いているイエスという人を見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言いました。

その際、二人の弟子達がヨハネと一緒にいました。ヨハネが「見よ、神の子羊だ」と言ったということは、その二人にとっては「私から離れて、あの方に従いなさい」と言われたのと同じことでした。

「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った」とあります。

私達はここに、ここに信仰の共同体である教会の芽生えを見ることができます。普通、教会はペンテコステの日に聖霊が上から注がれて出来た、と言われることが多いでしょう。ペンテコステの聖霊はキリストを信じて祈り従う小さな信仰の群れの上に注がれました。ではその小さな群れは、どこから始まったか。イエス・キリストに従い始めたこの二人の小さな従いから始まっていったのです。

二人はイエスに近づきました。初めはただ、おそるおそる、イエスという方がどこに泊まっているのか、ということを知ろうとしただけです。そこから「従う」という信仰の生き方に変わっていくことになります。

37~38節には、二度、「従う」という言葉がつかわれています。二人の弟子は主イエスに「従い」、そして主イエスは二人が「従ってくるのを見て」声をかけられました。「従い」ということは、福音書において、いや、聖書全体において、一番大きなテーマです。

私達はそれぞれ、どのように主イエスに従うようになったでしょうか。初めはこの二人のように、恐る恐る近づいて行ったのではないでしょうか。「自分が本当に従うべきものは何か、自分を委ねることのできる真理は何か」、ということを考えているところに、この二人にとってのヨハネのように、キリストを指さす誰かがいたり、何かのきっかけがあって、少しずつ近づいて行ったのではないでしょうか。

友人だったかもしれない、家族だったかもしれない、本やテレビやラジオだったかもしれない・・・キリストを指し示す誰か・何かがあったでしょう。そして示された方を見て、本当にその方が自分の道となる方であるかどうかを知ろうとしたでしょう。

キリストはご自分のもとに近づいて来た二人に、逆に問いかけていらっしゃいます。。

「何を求めているのか」

これが、この福音書で発せられた最初のキリストの言葉です。

「何を求めているのか」

私達は福音書全体を通してこのことを問われることになります。

ヨハネ福音書の最後で、一度はキリストを知らないと言ったペトロが、復活のキリストから問われます。

「あなたは私を愛しているか」

これこそ信仰者が一生涯を通してキリストから、神から問われ続けることではないでしょうか。

「あなたは私を求めるか。あなたは私を愛しているか」

「何を求めているのか」というキリストの一言は、改めて私達が心の奥底で求めている救いを思い起こさせます。私達はキリストに何を求めているのでしょうか。実は、私達は「何か」を求めている。そして「誰か」を探し求めているのです。

私たちがキリストに求めているのは、キリスト教の知識ではありません。知識としてのキリストではなく、キリストご本人です。幼子がただ親を求めるように、私達はキリストを求めるのです。キリストに求められることを求め、そしてキリストと共に生きることを求めています。一言で言うと、「インマヌエルのぬくもり」ではないでしょうか。

キリストは、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねる二人に、「来なさい、そうすればわかる」とおっしゃいました。「私は誰それの家に滞在している」という答え方ではありません。二人の本当の興味は、キリストの宿泊場所ではありませんでした。本当にこの方が、自分の一生をかけて従うだけの方なのかどうかを見極めてたかったのでしょう。

2人は主イエスと一日共に時間を過ごし、この方こそキリストであると知りました。全ては、イエス・キリストの後に付いて行く、従うところから始まるのです。そしてその従いの中で、全てが示されていくのです。

キリストの後ろを歩む中で、私達は「何を求め、どこに向かえばいいのか」が示されていくことになります。キリストはご自身に従うところから始まる道へと招かれるのです。

ヨハネ福音書を読んでいると、私達は何度も同じ問いを投げられることになります。

「何を求めているのか」

そして私達は同じ招きを与えらます。

「来なさい。そうすればわかる」

ヨハネの二人の弟子たちは、世に来られたイエス・キリストに出会いました。それは、二人にとって、「荒野に道が通された」、ということでした。この世の中に示された、天のみ国・永遠の命へと至る道です。

創世記で、神が人間を探される場面があります。アダムとエバが蛇の誘惑によって食べてはならない実を食べ、楽園の木の間に隠れ、神から身を隠してしまいました。神は、人をお求めになります。

「どこにいるのか」

これこそ私たちが置かれている現実です。

神は今でも「あなたはどこにいるのか」と探し求めてくださっています。神が私達を求めて「どこにいるのか」とおっしゃるその声こそ、イエス・キリストなのです。神の招きの言葉は、私達と同じ人となって世に来てくださいました。 Continue reading

11月19日の礼拝案内

次週 礼拝(11月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書1:35~42

 交読文:詩編18:8~16

讃美歌:讃詠546番69番、164番、376番、頌栄543番

【報告等】

◇11月26日(日)の礼拝は、西千葉教会と講壇交換になります。(真壁巌牧師)礼拝後に愛餐会があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽においでください。

◇11月21日(火) 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道懇談会

◇11月26日(日) 西千葉教会で説教

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:Continue reading

11月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:24~34

「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水でバプテスマを授けに来た」(1:31)

福音書は、イエス・キリストを証言した言葉です。このヨハネ福音書は、主イエスが公に活動を始められたところからでもなく、この世にお生まれになったところからでもなく、世界の初めにまで遡ってこの方が何者でいらっしゃるのか、というところから書き始めています。

イエス・キリストが、この世界をお創りになった神であり、この世に人間として来てくださった光であり、そしてヨハネという人が、この光を指し示すために神から遣わされた人であるということを冒頭で書いています。

先週私達は、荒野で人々に悔い改めの洗礼を授けていたヨハネの下に、「あなたは一体誰なのですか」と尋ねに来た人たちがやって来たところを読みました。エルサレムのユダヤ人指導者たちから遣わされた祭司やレビ人たちでした。

洗礼者ヨハネは自分に何者かを尋ねて来た人たちに、「私はメシアではない。終わりの日に遣わされると伝えられているエリヤでもない。モーセのような預言者でもない」と言いました。「自分が何者でないか」、ということを告げたのです。

そして自分は「荒れ野で叫ぶ声である。私の自分の後からいらっしゃる方の前触れに過ぎない」、と言いました。ヨハネは、人々の目を自分ではなくこれからいらっしゃる方、これから現れる光に向けさせようとしたのです。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と、福音書の冒頭で言われている通りです。

ヨハネに質問した人たちがエルサレムに戻った次の日、ついにイエスという方が公の場に姿を現されました。私たちは、このイエスという方が万物をお創りになった神であり、人となってこの世に生まれヨハネの下にいらっしゃった方である、ということを踏まえなければ、これから描かれていくイエス・キリストの公生涯の意味を知ることはできません。

イエス・キリストが洗礼者ヨハネの下に来て、洗礼をお受けになりました。なぜ、キリストは公の活動の初めにご自身が洗礼をお受けにならなければならなかったのでしょうか。考えて行きましょう。

よく見ると、ヨハネ福音書では他の福音書とは違って、「主イエスがヨハネから洗礼をお受けになった」、という直接の記述はありません。洗礼者ヨハネが、「霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言っているだけです。

「主イエスに洗礼を授けたヨハネ」ではなく、あくまでも「主イエスの証人・証言者ヨハネ」としての姿の方に焦点を置いた描き方をしています。

ヨハネは、「私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである」と荒れ野で叫び続けて来ました。「その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」。主人の履物のひもを解く、というのは、当時の奴隷の仕事でした。自分などキリストの前では奴隷以下の小さなものでしかない、という表現です。

エルサレムから来た祭司やレビ人たちは、荒れ野で人々に洗礼を授けるヨハネを、何か偉大な力を持つ人だと考えていたようです。しかし、ヨハネは自分の偉大さを否定しました。「自分はその方の到来を前もって告げているだけだ。自分には偉大さなどなく、自分の後から来られる方が偉大なのだ」、と。「私ではなく、私の後から来る方を見なさい」、と叫び続けたのです。

その洗礼者ヨハネよりも偉大な方であるはずの主イエスが、洗礼者ヨハネの下に来て、ヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼を授ける者よりも偉大な方が、あえて低くなり、洗礼をお受けになったのです。

マタイ福音書では、その時のヨハネとキリストのやりとりが記されています。

「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか。」恐縮するヨハネに主イエスはおっしゃいました。「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは、我々に相応しいことです」マタイ3:14

なぜ神の子が、罪びとと同じように洗礼をお受けになったのでしょうか。

ヘブライ人への手紙の中にこのような言葉がある。

「イエスは、神のみ前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです」ヘブ2:17

キリストが私達と同じように洗礼をお受けになったということは、神が私たちと全ての点で同じようになってくださった、ということなのです。神が、人と同じ場所に同じ痛みをもって生きてくださった、ということなのです。

「神に人間の痛みがわかるのか。今自分がこんなに苦しんでいるのに神は高みにいて、傍観しているだけではないか」・・・我々は、何かあるとすぐに神の憐みを疑います。しかしキリストはご自身が洗礼を受ける所から、私たちの痛みを共にしてくださっているのです。

洗礼者ヨハネは、自分の方に来られる主イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。この「子羊」というのは「生贄」のことです。自分に与えられる裁きを自分の代わりに子羊に受けてもらうために差し出される命、それがキリストでした。

昔、イスラエルが奴隷とされていたエジプトから出て行く時、神はイスラエルを苦しめたエジプトに裁きをくだされました。その裁きの中で巻き添えにならないように、イスラエルは子羊の血を自分の家の鴨居に塗りました。神の裁きはその子羊の血を目印にして、イスラエルの家を過ぎ越していきました。これが、今でも語り継がれている「過ぎ越し」の起源です。 出エジ12章

そして今、ヨハネは主イエスを見て「世の罪を取り除く神の子羊だ」と断言しました。「新しい過ぎ越し・救いが起ころうとしている。あの方はそのための生贄だ」と言っているのです。この世の罪を全て背負って、自らが生贄として捧げられる方をヨハネは人々に示したのです。

預言者イザヤが言葉を残しています。

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された」イザ53章

屠り場に引かれる子羊ように口を閉ざし、自分を人々の罪を担う生贄として差し出す神の僕の到来をイザヤは預言しています。そして今、ヨハネはイザヤの預言で言われていた方の姿を示しました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」

ヨハネはこの一言で、イエスという方が何者であるか、ということだけでなく、どのような最期を遂げられるのか、ということまで言い表しています。

「この方は、他の大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日生贄をささげる必要はありません。というのは、この生贄はただ一度、ご自身をささげることによって、成し遂げられたからです。」ヘブ7:27

祭司は、神と人間の間に立って仲介する役割を担っています。祭司は生贄をささげて、神と人を執成すのです。イエス・キリストは大祭司でありながら、同時に、ご自身を生贄として捧げるために世に来られたことを聖書は言います。自分をいけにえとして捧げる大祭司、それがイエス・キリストなのです。

洗礼をお受けになった主イエスに聖霊が降り留まるのをヨハネは見ました。そして「水で洗礼を授ける自分とは違い、この方は聖霊で洗礼を授ける方だ」、と言いました。

私たちは、自分が受けた洗礼を思い返したいと思います。肉の目には見えなくても、私たちには聖霊が与えられました。それは、この時キリストに降り、キリストに留まった聖霊です。

霊というのは、「息・息吹・風」という意味の言葉です。私たちには神の息が吹き入れられた。聖い風が私たちを導いています。私たちの目には、それは見えません。しかし、見ていなくても私たちは聖霊を信頼します。それが、キリストの下から吹いてくる風だからです。

キリストはユダヤ人のファリサイ派の議員ニコデモにこうおっしゃっています。

「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに驚いてはいけない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」

風が目に見えないように、霊もまた目には見えません。しかし、その霊が、私たちをキリストにとって、また私たちにとって必要なところへと導くのです。

神は息を吹き込んで土を生きる人間とされました。私たちに吹き込まれている命の息はイエス・キリストの息です。私たちは今、自分の命でありながら、同時にイエス・キリストの命を生きています。

使徒パウロは手紙の中でこう書いています。 Continue reading

11月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:19~28

「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて行った。『わたしは荒野で叫ぶ声である。「」主の道をまっすぐにせよ』と」(1:23)

ヨハネ福音書の冒頭が終わり、ここから、ヨハネ福音書の本編が始まります。

ヨハネ福音書は「神の言が、天からこの世に来た」という、当時の人たちにとっては衝撃的な記述から始まっています。世界を物質世界と霊的世界の二つに分けて考えていた二元論を信じていた人たちは、神と人間の間には接点はない、と考えていました。ところが、聖書は、「万物を造り、万物を生かす神の言葉が、天から人間となってこの地上に生まれた」、と語り始めるのです。

その神の言が私たちと同じ人間となって来てくださったこの世で何が起こったのか、これから本編でここから描かれ始めることになります。

今日読んだ箇所では、この福音書の主人公であるイエス・キリストはまだ出てきていません。キリストの前に、まず、洗礼者ヨハネが登場します。福音書の冒頭では、「ヨハネは光ではなく、光について証しをするために来た」と言われています。

ヨハネはエルサレムから離れた荒れ野で、叫んでいました。

「『私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである」

彼はヨルダン川沿いの荒れ野で、「悔い改めに相応しい実を結べ」と叫び続けました。

たくさんの人々がエルサレムから、またエルサレム以外の地域から荒れ野にいるヨハネの下に来て、悔い改めの洗礼を受けました。そのヨハネの下に、エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司やレビ人たちがやって来て、「あなたは、どなたですか」と尋ねました。

この「エルサレムのユダヤ人たち」とは、エルサレムのユダヤ人宗教指導者たちのことです。荒野で悔い改めを人々に求めながら洗礼を授けていたヨハネは、エルサレムにいたユダヤの宗教指導者たちにとっては無視できない存在となっていたのでしょう。

一世紀のユダヤ人歴史家のヨセフスという人は、洗礼者ヨハネが「預言者」として人々に知られていたことを書き残しています。しかしユダヤの指導者たちにとって、ヨハネは預言者以上の存在かもしれないという期待があったでしょう。

「荒れ野で叫ぶヨハネは一体何者なのか。」

その問いはつまり、「ヨハネはメシアではないのか」という期待でもありました。ダヤ人は何百年も自分たちを救い主・メシアを待っていたのです。何百年も外国の支配の下で生きて来たユダヤ人たちは、イスラエル王国を築き上げたあのダビデ王の再来を待っていました。聖書で「いつかイスラエルを救うメシアが来る」という預言が残されていたからです。

そして今、荒れ野で洗礼を授けるヨハネという人が現れ、人を惹きつけているのです。エルサレムのユダヤ人指導者たちは使者を送ってヨハネに尋ねさせます。

「あなたは、どなたですか」

ヨハネの答えははっきりしていました。

「私はメシアではない」

「私はメシアではない」と言われて、使者は「では、エリヤですか」と尋ねます。旧約の預言者マラキが、エリヤの到来を預言していたからです。

「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす」マラキ書3:18

神は世の終わりに預言者エリヤを前触れとしてお送りになる、と言われているのです。

この預言を知っていたエルサレムからの使者たちは、ヨハネに「あなたはあのエリヤですか」と尋ねますがヨハネはこれも否定します。

これを聞いて使者たちは「では、あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねました。「あの預言者」というのは、モーセのような預言者のことです。申命記の中で、モーセがイスラエルにこう言っているところがあります。

「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる」18:15

しかしヨハネは「私はあの預言者でもない」と言いました。

洗礼者ヨハネは、「私はメシアではない」「私はエリヤではない」「私はモーセのような預言者ではない」と答えます。面白いのは、ヨハネが「自分が何者か」ではなく、「自分は何者ではないのか」ということから答えていることです。ヨハネは、自分は聖書で到来を預言されているような、何か偉大な者、特別な者ではない、と否定するのです。

エルサレムから遣わされた人たちは困りました。

「それでは一体、誰なのです。私たちを遣わして人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」

そう聞かれて初めてヨハネは自分のことを言います。

「私は荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

「荒れ野で叫ぶ声」・・・なんだかよくわからない答えですが、ヨハネは自分のことをキリストの到来を告げる前触れの声に過ぎない、と言っているのです。

ヨハネのことを、「メシアかもしれない」「終わりの日の到来を告げる預言者エリヤかもしれない」「いつか来る、と預言されているモーセのような預言者かもしれない」、という期待を抱いていた人たちはこれを聞いてどう思ったでしょうか。

エルサレムからの使者たちがヨハネの答えを聞いてどうしたのか、ということは何も書かれていなません。恐らく、そのまま荒れ野からエルサレムへと戻って行ったのでしょう。おそらく、失望を感じてエルサレムへと戻って行ったのではないでしょうか。「ヨハネはメシアでも預言者でもありませんでした」と報告したのでしょう。

私たちは洗礼者ヨハネの言葉・姿に何を見出すでしょうか。私たちは、このヨハネの言葉の中に、福音の響きを聞くのです。

ヨハネは荒れ野で叫ぶ声でした。「主の道をまっすぐにせよ」という叫び声です。ヨハネは、もうすぐ「主の道」が敷かれる、と世に向かって伝えました。

「主の道をまっすぐにせよ」・・・これは、イザヤ書40章の最初の言葉です。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」

イザヤ書で言われている「主の道を荒れ野に通す」とは何のことでしょうか。これはBC6Cにバビロンで捕囚とされていたイスラエルの民に解放がもたらされる直前に、預言者イザヤが聞いた天の声です。バビロンで半世紀もの間囚われていた人たちに、エルサレムに帰る時が近い、ということが天から告げられた言葉です。

バビロンからエルサレムまでは荒れ野が広がっています。その荒れ野に神は道を通して、イスラエルの民を約束の地エルサレムへと連れて帰られる、と宣言されたのです。イスラエルの人たちにとって、その荒れ野に通される道は故郷への帰還の道でした。囚われの生活からの解放の喜びの道でした。

出エジプトの際、イスラエルは奴隷とされていたエジプトから荒れ野を通って約束の地に向かいました。神が、約束の地へと続く道を荒れ野に通されたのです。バビロン捕囚からの解放は第二の出エジプトでした。 Continue reading

10月29日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:1~18

「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)

ヨハネ福音書では「知る」とか「知識」という言葉が140回以上つかわれています。「真理とは何か・真理はどこにあるのか」、ということがこの福音書の大きなテーマとなっているのです。

真理とは何でしょうか。私たちには自分が正しいと思っていたものが実はそうではなかった、ということあります。その逆もあります。馬鹿にしていたこと・信じられないと思っていたことが実は真実であった・正しかった、ということもあるのです。価値がある、と思っていたものが、突然価値を失うこともあり、価値がないと思っていたものが、実は価値あるものだと知らされることもあります。

私たちはそのたびに考えさせられるのです。

「自分が追い求めるべきものは何か。一生かけて追い求めるものとは何なのか」

ヨハネ福音書が書かれた時代の哲学や諸宗教は、「真理はこの世界の外側にある」と考えていました。真理は神の領域であり、肉なる存在である人間がこの物質世界に見出すことはできない、という捉え方です。肉体をもつ私たちには到達できない霊的な世界に真理は存在していて、人々は目に見える世界とは別の、霊の世界にあこがれを持っていたのです。

十字架に引き渡される夜、イエス・キリストは弟子達の前でこのように神に祈りを捧げられました。

「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのおつかわしになったイエス・キリストを知ることです。」

これが、キリストの示された「真理」でした。真理とは、イエス・キリストご自身であると断言なさっています。キリストは祈りの中で、御自分こそが一生かけて追い求めるべき真理であり、御自分の下にこそ真理があることを示されたのでした。

足を洗ってくださるキリストから弟子達は言われます。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の下に行くことが出来ない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」

先生はいなくなるんじゃないか、と不安になった弟子達に、キリストはたとえご自分が十字架で殺されたとしても真理は決してなくならない、ということを前もってお教えになったのです。

ヨハネ福音書は、真理がどこか手の届かないところにあるものではないことを証ししています。肉体を脱ぎ捨てて別の世界に行かなければ真理を知ることはできない、などということはないのです。むしろ真理の光の方からこの世界の中に来てくださったことを伝えています。イエス・キリストご自身が真理そのものであり、生きるにしても死ぬにしても、変わらず求める真理である、ということを私たちに教えているのです。

私たちの真理に関する知識は、どこかこの世界の外側に求めるものではなく、イエス・キリストを信じることから始まっていきます。信仰の先に、「知る」ということがあります。知って、信じるのではありません。信じた先で知っていくのです。

さて、1:9では「その光は、まことの光で、世に来て全ての人を照らすのである」と書かれています。ここでは、「その光は」と訳されていますが、元の聖書の言葉を直訳すれば、「彼は」という言葉になります。

「彼は、まことの光で、世に来て全ての人を照らす」

聖書が伝える「光」は、私たちが考えるような、暗いところを見えるようにする単なる光ではなく、私たちと同じ人格をもった人として世に来た、というのです。

ヨハネ福音書が冒頭で書いていることは、二元論者たちが考えもしなかったことでした。この世は邪悪な世界なのだから神聖なものが来るはずがない、と思っていた人たちの下に、神の領域から真理の光がこの世界に来た、と言っているのです。

その「命を照らす光」は、イスラエルの預言者たちがその到来を告げて来たものでした。例えば、預言者イザヤは、こう預言しています。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。・・・ひとりのみどりごが私たちのために生まれた。ひとりの男の子が私たちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」

真理の光は既に、この世に来て、私達の命を照らしています。真理はどこか私たちのはるか上に存在するのではありません。この世界から離れたところに探しに行かなくてもいいのです。私たちの目の前まで、神は迎えに来てくださいました。

しかし私たちは、今この世界を見て、「本当に光に満ちた平和な世界か」、と問われると、どうでしょうか。聖書は天地創造の最後で、この世界が神の目には「極めてよい」ものとしてうつったことが記されています。

私達は今世界を見て「極めてよい世界だ」、と手放しで納得できるでしょうか。むしろ「神がいるなら、どうして世の中はこんなに混乱しているのか。辛いことがあるのか。目をそむけたくなるようなことばかりなのか」という人の方が多いでしょう。

この世の不条理や混乱を見ると、人はそんなことをすぐに言ってしまいます。そうやって、この世の混乱を全て神の責任にしようとしてしまうのです。そのように言いながら、この世界で神から自分に与えられた責任は顧みていないのではないでしょうか。

人はすぐに「どうして神はこの世界の苦しみや混乱を黙って見過ごしているのか」と言います。しかし、聖書は、逆に私たちに問いかけます。

どうして人間は神の秩序を壊すのか。

どうして人間は神の創造の御業に反抗するのか。

どうして人間は神の平和への招きの言葉を聞こうとしないのか。

聖書は、その一番初めに、神の秩序を台無しにする力がこの世にあることを伝えています。「罪」です。創造主である神から引き離そうとする力、神が造られた美しい平和の秩序を破壊する力です。

美しい自然・人間同士の交流を破壊しているのは、人間自身を支配する罪なのです。人は自分が取り込まれている誘惑には目を向けず、「どうして神は何もしないのか」、などと言ってしまいます。しかし聖書が伝えようとしている一番根本的なことから目を背けては、キリストの十字架への歩みの意味を知ることはできません。

ヨハネ福音書は、世に来た神の言・光を、世は理解しなかった、ということから始まっています。つまり、この世が神の平和を拒絶した罪の様子を描くのです。

11節「言はご自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。これは、ヨハネ福音書の前半のまとめと言っていい言葉です。主イエスはユダヤ人の下に来られました。しかし、ユダヤの指導者たちは拒絶することになります。

12節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」

これは、ヨハネ福音書の後半部分のまとめといっていいでしょう。多くの人は神の言を受け入れない中で、受け入れる人たちも起こされていきます。主イエスはそのような人たちのことを、「羊飼いの声を聞き分ける羊」と呼んでいらっしゃいます。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」

そしてキリストはご自分の声を神の声として聴き分けるこの人たちを愛し抜かれるのです。

「私は羊のために命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

この福音書を読んでいくと、主イエスをキリストとして受け入れる人とそうでない人に分かれていく様子が描かれていきます。主イエスのことをキリストとして受け入れた人たちであっても、自分の都合のいいように信じる人たちがいました。主イエスのことをキリストと信じても、自分の都合のいいキリストとして期待し、まつりあげようとする人たちからは、主イエスはむしろ離れて行かれます。 Continue reading