MIYAKEJIMA CHURCH

2月4日の礼拝案内

次週 礼拝(2月4日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:13~21

 交読文:詩編18:26~31

讃美歌:讃詠546番番、187番、394番、頌栄542番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2月10日(土)に三宅島伝道所で東支区青年部修養会が行われます。翌11日(日)の礼拝に東支区青年部が来てくださり、礼拝後愛餐会をいたします。どうぞお残りください。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)

カナで最初のしるしを行われたイエス・キリストは、ご自分の家族と弟子達と一緒にカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在されました。その後、過越祭が近づいたので、弟子達と一緒にエルサレムへと上って行かれました。

主イエスがエルサレムに上り、神殿でなさったことは、境内にいた生贄の動物を売る人たちや両替商の人たちを追い出す、ということでした。神の家であり、全ての人の祈りの家であるはずのエルサレム神殿の境内で、商人たちの商売が行われていたのです。

キリストがここまで大暴れしてお怒りになることなど他にないので、読む者にとっては印象に残る場面でしょう。この事件は、どの福音書にも記されているので、よほど人々の記憶に残っていたのでしょう。キリストによる「宮清め」と呼ばれています。

どの福音書にも記録されているキリストの宮清めですが、ヨハネ福音書だけは、他の福音書とは随分違った描き方をしています。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、この事件を、イエス・キリストの公の生涯の最後に起こったこととして記録しています。しかしヨハネ福音書は、この出来事を、キリストの公の生涯のはじめで、「最初のしるし」を行われたすぐ後に描いているのです。

ヨハネ福音書は、私たちに何を伝えようとして、この宮清めの出来事を描いているのでしょうか。

主イエスはカナの婚礼の席で、水を葡萄酒に変えられました。そのしるしは、旧約の預言者たちが伝えて来たメシアの宴が現実のものとなったというしるしであり、救いの到来、新しい時代の到来のしるしであった、ということを前にお話ししました。

そのすぐ後に書かれているこの宮清めの出来事も、預言の実現なのです。

旧約の預言者、ゼカリヤは、こんな預言の言葉を残している。

「主は地上を全て治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる・・・その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」ゼカ14:21

ゼカリヤは、「主の神殿に商人がいなくなる」日の到来を預言しました。ゼカリヤが言う「その日」とは、「主の日」です。「主の日」とは、神が世に来られる時のことです。

主イエスが追い出されたことで、神殿の境内から商人がいなくなりました。ゼカリヤが到来を預言した「主の日・神が世に来られた日」に、神殿から商人がいなくなる、という預言が実現したのです。

神殿から商人たちを追い出されたイエス・キリストこそ、世に来られた神でした。神がご自分の家に来て、清められたのです。

ゼカリヤだけではない。

他にも、この時のキリストのお姿を預言していた預言者がいます。マラキです。

「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる・・・彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に捧げものを正しく捧げる者となるためである。その時、ユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々・・・そうであったように主にとって好ましいものとなる。」(マラキ書3:1~4)

なぜこの出来事が「宮清め」と呼ばれているのでしょうか。金属を精錬する火のように、神ご自身が神殿を清められたのです。捧げものを、正しく捧げる神の家とするためです。

主イエスの宮清めはゼカリヤやマラキの預言の実現でした。私たちは、水を葡萄酒に変え、神殿から商人たちを追い出されたキリストに、神の秩序の回復を見ます。神が世に来られ、祝福の葡萄酒で満たし、信仰を磨き上げてくださる時が来たのです。

キリストは祈りの家を清めてくださいます。では、今の私たちにとっての祈りの家とは、神殿とはどこにあるのでしょうか。

弟子達は、後にイエス・キリストが復活なさったのを見て、「三日で建て直す」とキリストがおっしゃったのは、石でできた建造物としての神殿ではなく、御自分の体のことであったということを理解しました。

イエス・キリストは神殿から商人を追い出して、神の家を清められました。そしてそれは、「目は見えない」新しい神殿の到来をも意味していました。ここから神殿が刷新されていくことになります。その神殿こそ、イエス・キリストご自身だった、というのです。

しかし、キリストが神殿から商人たちを追い出された時には、誰もそのことがわかりませんでした。それが分かったのは、キリストの十字架と復活の後でした。

キリストが復活なさった後、弟子達はなぜキリストが神殿であれだけお怒りになり暴れたのかも理解しました。

17節 「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」

弟子達は神殿でお怒りになったキリストを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」という言葉と共に思い出しました。これは詩編69:10の言葉です。

詩編69編は、信仰者の受難をうたった詩です。詩編の元の言葉は、このような言葉です。

「あなたの神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上に降りかかっています。私が断食して泣けば、そうするからと言って嘲られ、粗布を衣とすれば、それも私への嘲りの歌になります」

神を愛するが故の信仰の苦しみを謳い上げた詩です。後に弟子達がなぜこの詩編の言葉と共にキリストの宮清めを思い出したか・・・彼らはキリストの十字架を見たからです。

神殿への愛・熱情がキリストの身を焦がすほどでした。その神への愛を貫くために、あの方は十字架に上げられたということを、弟子達は詩編の言葉と共にキリストの宮清めの姿を思い出したのです。

キリストが神殿であれほど乱暴なふるまいをなさったのは、神殿に対する熱意、神の家に対する愛ゆえのことでした。そしてその神への愛によって、キリストは十字架に上げられてしまったのです。

キリストの弟子達をはじめ、代々のキリスト者たちは、信仰ゆえの痛みを担って来ました。神を愛し続けるには、忍耐がいります。神を愛そうとする者を傷つけようとする力があるからです。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、確かに信仰ゆえの痛みを歌っています。

「恵みと慈しみの主よ、私に応えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください」

「私が受けている嘲りと、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます」

しかし、信仰の痛みの先にある慰めも歌い上げています。

「神の御名を讃美して私は歌い、御名を告白して、神を崇めます。・・・貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には健やかな命が与えられますように。主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の囚われ人らを決しておろそかにはされないでしょう」 Continue reading

1月28日の礼拝案内

【本日の予定】

◇礼拝後、祈祷会があります。

 次週 礼拝(1月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:13~21

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番番、263番、500番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」(2:11)

ヨハネ福音書は、カナという小さな村で行われた婚礼の宴の舞台裏で行われた奇跡を、キリストが最初に行われた「しるし」として描いています。ヨハネ福音書で、弟子達を召し出されたキリストの公の活動として最初の事件となります。そしてこの出来事は、この後のキリストの公の活動を暗示するものでもあり、旧約の預言の実現でもあります。

キリストが六つの水がめに水をいっぱいにし、それを葡萄酒へと変えられたということの意味は何なのでしょうか。「この方にはこんなにも人間離れした力があった」ということを伝えるだけのものではないはずです。

カナの婚礼で行われた「しるし」を通して、私達は、このイエスという方が世に来られた意味を、そしてこの方がやがて十字架で流す血の意味を見せられることになるのです。先週に引き続いて、カナの婚礼の場面を見ていきたいと思います。

キリストが最初にお見せになった「しるし」は、婚礼の宴の席で、人々が飲み切ることが出来ないほど豊かな葡萄酒をおつくりになるということでした。「婚礼の席」で、「豊かな葡萄酒」が出される、というところに、この「しるし」の意味があります。「婚礼」は契約の象徴だし、「葡萄酒」は血の象徴です。私たちは、この場面に、「契約の血」がやがて与えられることを見るのです。

旧約時代の預言者たちの言葉と、カナの婚礼のしるしを照らし合わせて見ると、私たちは、メシア到来の祝福の実現を見ることが出来ます。

BC8世紀、預言者アモスは当時偶像礼拝に腐敗していた北イスラエル王国で、神の律法の言葉が守られていないことを糾弾ました。当時の北イスラエル王国では、「弱者を守れ」という神の愛の教えが守られず、貧しい人がわずかな値段で売りとばされたりしていたのです。

アモスはそのような腐敗した北イスラエル王国の滅びを預言して人々に告げました。そして滅びを預言すると同時に、その滅びの先にある神の救いの幻も伝えました。

アモスの預言書の最後の言葉はこういうものです。

「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ブドウを踏む者は、種まく者に続く。山々はブドウの汁を滴らせ、全ての丘は溶けて流れる。私は我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から再び彼らが引き抜かれることは決してないと、あなたの神なる主は言われる。」

北イスラエル王国は弱く貧しい者たちを顧みないその罪ゆえに滅びることになる、しかしその先で、神は許しの時・再建の時を既に備えていらっしゃる、とアモスは預言したのです。

アモスは、罪の許しの時に何が起こるかを預言しました。

「丘が溶けて流れるほど豊かな葡萄酒」をもって神は祝福をくださる、というのです。。

預言者イザヤも、終わりの日に与えられる神の救いの様子を伝えています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民に良い肉と古い酒を供される。・・・主はこの山で・・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私達の神。私達は待ち望んでいた。この方が私達を救ってくださる。この方こそ私達が待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(25:6以下)

「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:6)

イザヤは、神と人が宴の中で一緒に座ることを預言しました。花婿と花嫁のように神と人が宴の中で一緒に座ることになる、そして神が人の顔から涙をぬぐってくださる時が来る、と言っています。

私達が今日読んだ、カナの婚礼のイエス・キリストこそ、アモスやイザヤの預言の実現なのです。

神の子が、婚礼の席に共に座って下さり、祝福の葡萄酒を豊かに与え、涙をぬぐってくださる時が来たのです。

アモスが預言した許しの時、イザヤが預言した神との契約の回復の時が来た、ということです。預言者たちが伝えて来た「神との新しい契約の時・祝福の時」が、このカナの婚礼で示された「しるし」の意味なのです。

婚礼の世話役は、花婿を呼んで「あなたは良い葡萄酒を今まで取っておかれました」と言いました。キリスト以前にはなかった、良いことが始まっていくことが示されています。イエス・キリストから祝福が新しく始まるのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが私たちの間に来ました。私たちはそのことを喜ぶべきなのです。

そうして見ると、カナの婚礼のしるしは、私たちにとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。私たち一人一人にとって、イエス・キリストに出会う前と後では、生きる意味が大きく変わったはずです。自分の中から何かが無くなってしまいそうになった時、自分の知らないところで、自分の人生の舞台裏で、キリストが祝福を用意して満たしてくださったのではないでしょうか。

教会は、主日ごとに礼拝します。私達の礼拝の中心には聖餐卓があります。私たちは神と共に、キリストと共に席に着き、礼拝の中で自分と神との出会いを喜び、神との契約を喜ぶのです。

さて、私たちは今日、一つの言葉に注目したいと思います。「しるし」という言葉です。他の福音書では、「奇跡」とか「偉大な業」とかいう言葉がつかわれていますが、ヨハネ福音書はイエス・キリストが水を葡萄酒に変えられたことを「しるし」と呼んでいます。主イエスが行われたことを「しるし」と呼んでいることには、何か特別な意図があるようです。

2:11「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」

実は、このカナの婚礼と呼ばれている出来事で本当に変えられたのは弟子達でした。花婿と花嫁でもなく、婚礼の世話人たちでもなく、参列者たちでもありません。厳密に言えば、これはその婚礼の場にいた人たちが主イエスの行われた奇跡を見て驚いた、という出来事ではないのです。むしろ婚礼の表舞台では誰もキリストがなさったしるしを見ていません。これは婚礼の舞台袖で小さな奇跡を行われた主イエスに神の栄光を見て、弟子達が「信じる者」となったという出来事なのです。

弟子達は確かに、主イエスを求め、ここまで付いてくるようになりました。しかし改めて、弟子達はこの婚礼で主イエスが行われた「しるし」を見て、「信じた」と書かれています。

この「しるし」を見て、弟子達の中で何かが大きく変わったのでしょう。この「しるし」を通して、本当の意味で、「この方が神のメシアであり、この方を通して神の栄光を現われる」ということを「信じた」のです。弟子達は、「しるし」を通して「主イエスについていく者」から、「主イエスを信じる者」になった。

このことを見ると、「しるし」というのは、私たちをただ驚かせるものではなく、キリストと私たちを結び付けるものであることがわかります。聖書が私たちに示す「しるし」は、「何か信じがたい現象」「何か魔術的なもの」ではありません。神の栄光が表され、私たちをキリストへと結びつけるものということです。

主イエスはガリラヤでこのあといくつもの「しるし」を行われます。それは、人々を驚かせるものではなく、むしろ「私を本当に神の子・キリストと信じるか」と問いかけるものでもありました。

このような「しるし」は、今も私たちにも与えられています。まず、今私たちが教会でキリストを礼拝している、ということが、すでに「しるし」が与えられたということの証拠でしょう。

誰もが、教会へと足を向けるようきっかけとなった「あのこと」があり、「あの人」がいたのです。それこそ、それぞれに与えられた神からの「しるし」、と言っていいのではないでしょうか。他の人たちからすれば、奇跡には見えないかもしれません。「そんなのはあなたの思い込みだ、偶然だ」と言われるかもしれません。しかし、自分にとって必然としか思えない時に、自分とキリストにしかわからない「しるし」が見せられたから、今私たちはこの礼拝にいるのではないでしょうか。

私たちは、何となく興味を持って教会に来て、一度礼拝に加わった、というのではないのです。何よりの奇跡は、自分が礼拝の中に身を置くようになり、そして今も礼拝者として、信仰者としてあり続けている、ということではないでしょうか。楽しいことがあっても、辛いことがあっても、毎週礼拝に来て、神の言葉を聞き、祈りを捧げ、礼拝ごとに新たにされていく自分を感じるということです。

この福音書の最後の方、20:30でこう書かれています。

「このほかにも、イエスは弟子達の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである」

キリストの弟子達は福音書に書ききれないほどのしるしを見たのです。しかしこのヨハネ福音書の中に書かれているのは、書ききれるだけのしるしです。書ききれないほどのしるしが、これまで与えられてきました。何も誇るものをもたないこの私にも、こんなにも小さな者にも、神は福音の種を大切に蒔いてくださってきたのです。

なぜイエス・キリストが十字架で殺された後も、キリストを信じる人たちが起こされたのでしょうか。なぜ直接キリストを見知っている世代の人たちがいなくなっても、キリストを信じる信仰者が次の世代にも起こされてきたのでしょうか。そしてなぜ今も、この聖書という不思議な、信じがたいことばかりが書かれている書物が求められ、読まれているのでしょうか。

ここに真理があるからでしょう。「しるし」があるからでしょう。キリストと私たちを結び付ける何かがあるからでしょう。

私たち自身、肉の目を通して、キリストのしるしを直接見たわけではないのに、なぜ教会に足を運ぶのでしょうか。今私たちがキリスト者として今ここに生きているということこそが、何よりキリストが生きて私たちを導いておられる「しるし」ではないでしょうか。

この島の中で私たちはキリスト者として生かされていることこそ、神がこの島の人たちにお与えになった招きの「しるし」なのです。

私たちにはキリストのように人の目を引き付ける奇跡を行うことは出来ません。しかし、私たちが今ここで礼拝し、祈り、讃美をささげるこの小さな信仰の業は、キリストが起こされた大きな奇跡であり、この島の中で「しるし」として確かに用いられていくのです。

1月21日の礼拝案内

 次週 礼拝(1月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:1~12

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番番、228番、321番、頌栄541番

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「婦人よ、私と何の関係があるのです」

「カナの婚礼」と呼ばれている場面です。主イエスが、御自分の母マリアと弟子達と一緒に参列していた結婚式の祝いの席で、葡萄酒がなくなってしまいました。マリアからそのことを知らされた主イエスが水を葡萄酒に変えられた、という奇跡の出来事です。

小さな村でキリストが行われた、小さな奇跡・しるしです。決して大きな、華々しい奇跡ではありません。主イエスが水を葡萄酒にされた、ということを知っていたのは、婚礼の舞台裏にいたわずかな人たちでした。しかしこの小さな奇跡が、イエス・キリストの福音宣教を理解する上で重要な意味を持っているのです。

これが、キリストが行われた最初の「しるし」であった、と書かれています。ヨハネ福音書がわざわざ、「これが最初のしるしであった」と書いているということは、キリストが行われたこの小さな奇跡によって、一組の新しい夫婦、またその親族の面目が保たれた、というだけでなく、今ここで生きている私たちにとっても、大きな意味をもつ「しるし」である、ということでしょう。

カナはガリラヤ湖の北、ナザレの町から数キロのところにある小さな町です。キリストが婚礼の祝いの席でしるしを行われたということがヨハネ福音書に記録されているので、この町はキリスト教会の中で、結婚の儀式の始まりの町であるかのように言われることもあります。今でも、結婚の記念日に訪れたりする人が多いそうです。

しかし、ヨハネ福音書がこのカナの婚礼の場面で焦点を当てているのは、結婚式そのものでも、花婿・花嫁でもありません。むしろ、この時の結婚式・新郎新婦については何も触れられていません。焦点はむしろ、この婚礼の舞台裏に当てられています。「結婚とはこうあるべき」とか、「夫婦とはこういうものだ」ということに焦点があるのではないのです。

まず大切なことは、その婚礼の席にイエス・キリストが参列されていた、ということです。「言は肉となり、私たちの間に宿られた」と1章に書かれてます。「私たちの間に住まれた」という意味の言葉です。神が人間と同じ地平に住まれる、ということは信じがたいことですが、それが真実であったことを、このカナの婚礼のイエス・キリストのお姿に見ることが出来るのです。婚礼の宴という私たち人間の日々の営み、人間のささやかな喜びの生活の中に、神は共にいてくださいました。人となられた神が、人間の生活の中で御業を行われたのです。

このことは今の私たちにも言えることです。自分の目の前や真横に神がいて共に生活してくださっている、ということが何も特別なことでなく、それが私たち信仰者の日常であるということを、ここに見たいと思います。

さて、その婚礼の席でマリアは自分の息子のイエスに「葡萄酒がなくなりました」と告げました。マリアがなぜ主イエスに助けを求めたのかは何も書かれていません。新郎新婦とマリアが特に親しい関係にあったのか、マリアの親族だったのか・・・

「イエスも、その弟子達も婚礼に招かれた」と書かれてますので、自分の息子が弟子達を連れて参列したせいで、婚礼の葡萄酒がなくなってしまった、と、責任を感じていたのでしょうか。

当時の婚礼は数日続くものでした。食べ物や飲み物が途中でなくなってしまうことは、招待する側にとっては不名誉なことでした。マリアは婚礼の葡萄酒がなくなってしまったことを深刻にとらえました。彼女は主イエスに状況を伝えます。

しかし、それを聞かれた主イエスの言葉に、私たちは驚くのではないでしょうか。

「婦人よ、私とどんな関りがあるのです」

主イエスはそれほど深刻に捉えてはいらっしゃいません。むしろ母マリアを冷たく突き放すような言い方をなさっています。ここでは「私とどんな関わりがあるのです」と訳されていますが、細かく訳すと「『私とあなた』にとってどうしたというのです」という言葉になります。

主イエスにとっても、マリアにとっても、婚礼で葡萄酒が足りなくなるということは深刻な問題ではない、それは新郎新婦の問題であって、私たちには関係ないじゃないか、というような言い方です。慈愛に満ちた「優しいイエス様」とはかけ離れた反応です。

主イエスがそのようにおっしゃった理由が、その後で言われています。

「私の時はまだ来ていません」

主イエスがおっしゃる「私の時」に目を向けることこそ、婚礼の席で葡萄酒がなくなることよりも重要なことだ、ということでしょう。では主イエスがおっしゃる「私の時」とは何のことなのでしょうか。いつ、何が主イエスに起こる時のことなのでしょうか。

神の子イエス・キリストが「私の時」とおっしゃっているのだから、イエス・キリストが救い主として救いの御業を行われる時、ということでしょう。主イエスはその「時」を見据えて、今この婚礼の時を過ごしていらっしゃるのです。主イエスが見据えていらっしゃるその「時」に比べると、今起こっている婚礼の不手際など、本当は問題ではない、ということなのでしょう。

では、それは具体的に何の「時」なのでしょうか。それは、十字架の時でした。この福音書を最後まで読んでいくと、イエス・キリストは、十字架に上げられ、酸い葡萄酒をお受けになると、「成し遂げられた」とおっしゃって、息を引き取られます。キリストがキリストとして「成し遂げる」救いの時、それが、主イエスがここでおっしゃっている「私の時」です。

12章で、主イエスがエルサレムにロバに乗って入場された場面が描かれています。その時、ギリシャ人が主イエスの下に会いに来ました。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、つまりユダヤの律法を知らない人たちも、イエスという方の業と教えを伝え聞いて、主イエスの救いを求めてやってきたのだ。

主イエスはその人たちをご覧になってこうおっしゃいました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」

主イエスは、ついに自分が一粒の麦として地に落ちる時が来たことを悟られました。自分は一粒の麦として地に落ちなければならない。実りをもたらすために、自分は落ちなければならない、ということをご存じでした。そしてその時のことを主イエスは御自分が「栄光を受ける時」とおっしゃるのです。

主イエスはご自分が逮捕される夜、弟子達の足を洗い、執り成しの祈りをささげられました。その祈りの初めで「父よ、時が来ました」とおっしゃっています。それは十字架の時であり、主イエスが栄光をお受けになる時であり、神のこの世に対する愛が頂点に達する時でした。

カナの婚礼の席で行われたキリストの奇跡は、「最初のしるし」と書かれています。この最初のしるしから、最後のしるし・十字架の死への歩みが始まるのです。この葡萄酒の奇跡から、キリストが十字架の上で口に含まれるあの葡萄酒へと歩みがつながって行くということです。

主イエスは、一度は「私にもあなたにも関係ないでしょう」と母マリアにおっしゃいましたが、すぐにこの婚礼の席の祝福が壊れないように水を葡萄酒に変えるという奇跡を行われました。

さて私たちは、カナで行われた婚礼の席でキリストが水を葡萄酒に変えられた出来事の中に何を見ればいいのでしょうか。キリストが私たちを祝福で満たしてくださる、ということです。

キリストはあの十字架で、御自分の血をもって私たちを祝福へと導いてくださいました。男女が夫婦としての契約を交わす婚礼の席で、キリストは葡萄酒をお与えになったことはとても象徴的です。この葡萄酒は、神との新しい契約の血であるイエス・キリストの血の象徴・契約の祝福の象徴なのです。

カナで行われたしるしは、ただ、「イエスという人が不思議な力を持っていることを示した」というだけのものではありませんでした。キリストの十字架という栄光の時、神の子としての受難の時への秒読みが開始されたしるしであり、神と新たに結ぶ契約の血のしるしが与えられた、ということなのです。

マリアは一度主イエスから「あなたと私に何の関係があるのですか」と言われても諦めなかった。彼女は給仕の人たちに、主イエスが何か指示を出したら従うよう伝えました。「何かを言いつけたら、その通りにしてください」と言っています。これは「彼があなた方にどんなことを言っても、してやってください」という言葉です。

主イエスは人の理解を超えた仕方で何かを示される、ということをマリアは知っていたようです。だから「どんなことを言っても言う通りにしてください」と給仕係の人たちに前もって念押ししています。

主イエスは大きな清めの石の水瓶に水をいっぱい入れるようにお命じになりました。普通なら、「なんでそんなことをするのか」と言うでしょう。それは手や足を洗うためのものです。「水瓶に水を満たすことと葡萄酒がなくなりそうなこととどう関係があるのですか」と言いたくなるのではないでしょうか。しかし、給仕していた人たちはマリアから言われていたこともあり、何も言わず、黙々とその言葉に従いました。

給仕をしていた人たちが主イエスにそう言われて何を思ったのかは書かれていません。ただ、従った、とだけ書かれています。彼らはただ水を瓶に入れるだけでなく「縁・口」までいっぱい入れました。言い返さず従っただけではなく、徹底した従いの姿勢が見られます。

ここで大切なことは、イエス・キリストの最初の「しるし」は、諦めなかったマリアと給仕係の人たちの徹底した従いを通して起こされていった、ということです。諦めずにキリストを求め、示された道に従うこと・・・その先で私たちは神の栄光を見ることになるのです。

この最初のしるしから、ご自身の十字架という神の救いの御業のしるしへの公の歩みが始まります。イエス・キリストの周りには、いつも信仰者たちの従いの姿があったことを見逃してはならないと思います。

カナの婚礼の席ではマリアが、給仕係が、キリストを求め、キリストの言葉に徹底して従った信仰の業がありました。万策尽きて、もうキリストにすがるしかない中で、信仰者たちに、自分たちの力では見出すことが出来なかった道が示されたのです。

私達は人間としての力の終わりに来た時、そして私達がただ言葉を失った時、何も出来ない時・ただ神に祈るしかない時があります。自分で何とかできればいいのです。祈りなしで何でもできれば楽です。しかし、私たちには祈るしかない時があります。

そのような時にこそ、神が私たちの日常の中に共に生きてくださっているという真理を見出すのです。婚礼のような喜びの中でも、荒野のような飢え渇きの中でも、神は私達に祝福をくださろうとしています。希望がもてない時にも・・・いや、希望が持てない時にこそ、私たちには祈るべき方が近くにいてくださるのです。

1月14日の礼拝案内

次週 礼拝(1月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書2:1~12

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番番、217番、396番、頌栄541番

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

1月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:43~51

「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

アンデレとペトロをご自分の弟子として召された翌日、主イエスはエルサレムやベタニアのあるユダヤ地方から、北のガリラヤ地方へと向かわれました。その途中、フィリポという人に会い、「私に従いなさい」と御自分の弟子へと召されました。

前に、「弟子のアンドレは誰かを主イエスの下へと連れて行く人だった」、ということをお話ししましたが、このフィリポも同じです。福音書を読んでいくと、フィリポとアンドレはいつも、一緒に誰かを主イエスのもとに連れて行く役割を果たしていることがわかります。

フィリポも、アンドレも、ギリシャ名の人です。2人とも、「ユダヤ人だから」「ギリシャ人だから」というような人種や民族の分け隔てをすることなく、誰かを着やすく主イエスの下に連れて行く社交的な人だったようです。

キリストに召し出されたフィリポは、自分の友人のナタニエルに会って言いました。

「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」

この言葉からすると、フィリポは、モーセの律法や預言書の言葉、つまり旧約聖書の言葉をよく知っていた人だったのでしょう。フィリポの友人の「ナタニエル」はヘブライの名前です。「神がお与えになった」、という意味の名前です。

ナタニエルは、「神がお与えになった」という名前でしたが、「神がお与えになった」恵みを、フィリポのように素直に見ることが出来ませんでした。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

ナタニエルには、フィリポやアンドレのように、ユダヤ人・ギリシャ人に関係なく物事を見る感覚はなかったようです。

ガリラヤ地方は神の都エルサレムからはるか北にあり、外国との境に接していました。

イスラエルの中心から地理的に遠く離れた田舎でした。イザヤ書では、「異邦人のガリラヤ」という言葉で呼ばれたりしている。

なぜナタニエルがそんなことを言ったのかというと、自身がガリラヤの出身だったからです。21:2で、彼はナザレよりも北にあるカナの出身であったことが書かれています。

自分自身がガリラヤの人間であったからこそ、到来が預言されて来たメシアがガリラヤから出るはずがない、と思っていたのです。彼はガリラヤがどんな土地かよく知っていました。自分と同じ地平からメシアのような神聖な存在が出てくるはずがない、と思っていたのです。

ナタニエルの見方は、一般的なガリラヤの人が持っていたものだったでしょう。メシアがガリラヤの大工の家に生まれるなどということは考えられませんでした。エルサレムの祭司階級に生まれ、大祭司となって民衆を導くようなメシアなら理解できたかもしれません。もし神が特別なものをお与えになるのであれば、もっと特別な場所に、特別な家に生まれるだろう、と考えていたのでしょう。

この福音書は初めに、「万物をお創りになった神が、人となって世に来られた」、ということを書いています。神が我々と同じ場所に生まれ、生活されるということは確かになかなか想像がつかないでしょう。誰だった、神がその辺を歩いていらっしゃるような光景を想像できません。

当時の人たちにとって、神がガリラヤの大工の家にお生まれになったということは躓きとなりました。「あの人は大工のヨセフの子ではないか」と、そこで人々はキリストに近づくことをためらってしまうことになるのです。6:42

ナタニエルもその1人だった。

ガリラヤのナザレへの偏見をもって話しを聞こうとしないナタナエルを、フィリポは自分の言葉で説得しようとはしませんでした。彼がしたのは、「来なさい、そうすればわかる」と、主イエスご本人の下へと連れて行くことでした。

そのイエスという人がキリストであることを知るには、言葉を尽くした説明ではなく、ご本人のもとに連れて行くしかないのです。

ナタニエルはフィリポに付いて行きました。「キリストに会いたい」と思ったからではないでしょう。「ナザレからメシアが出ることはない」という自分の考えが正しいことを知るためでしょう。

しかし、ナタナエルは驚くことになります。主イエスは、初めて会ったはずのナタニエルに「あなたはイチジクの木の下にいた」とおっしゃいました。「イチジクの木の下にいた」というのは、「律法を学んでいた・聖書を読んでいた」ということです。当時の律法の教師たちは、イチジクの木の下で生徒に聖書の言葉を教えていたのです。

キリストはイチジクの木の下にいたナタナエルの姿に、「真のイスラエル人だ」とおっしゃいました。真剣に神の言葉を求めていたことを見抜かれたのです。ナタニエルは既に自分が見られ、心の内まで知られていたことを知り、疑いを捨てて信仰を告白しました。

私たちは、神が自分のことを自分以上によく知っていらっしゃることを知った時、驚きます。そして私達が神を信じる以上に、神が私達を信頼してくださっていることを知った時、自分の常識が砕かれ、信仰の道を見出すのではないでしょうか。

イエス・キリストは、マタイ福音書の山上の説教の中で、こうおっしゃっています。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」

キリストは聖書の言葉を求めて学びを続けているナタナエルに必要なものを既にご存じでした。主イエスは「そのままイチジクの木の下で聖書の学びを続けなさい」とはおっしゃいませんでした。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と、御自分に従う信仰の道をお与えになったのです。

ナタナエルは、自分がイチジクの木の下にいた、という、自分しか知らないことを知っていたイエスという方に信仰を告白しました。

「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」

しかしキリストはナタニエルの信仰告白に対して「まだあなたは何も見ていない」とおっしゃいました。信仰は、何か驚くべきことを見て終わりではないのです。何かを見るために歩み続けるのが信仰です。信仰の歩みの上で、信仰者は更に大きな奇跡を見ていくことになるのです。

キリストに従うということは、キリストの偉大な知識や能力、奇跡に驚いて完結することではありません。この方の後に付いて行く先で、この方が見せてくださることを見続けるということなのです。

私達はキリストに従う先で何を見せていただくのだろうか。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなたがたは見ることになる」1:50

「天が開け、神の天使たちが上り下りする」、という言葉で思い起こすのは、創世記28章に記されているヤコブの夢です。兄エサウを騙して怒りをかったヤコブは、家から逃げ出しました。兄から逃げる途中、ヤコブは野宿をしました。

その際、彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって延びており、神のみ使いたちがそれを昇ったり下ったりする夢です。ヤコブはその夢の中で神の祝福の声を聞きます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

兄を騙し、父親も欺いて、家から逃げることになったようなヤコブに、神は守りを約束されました。私達は創世記を読む際、「どうして神はヤコブのような人を追いかけて守ろうとなさるのだろうか」と不思議に思うでしょう。神の選びということは、私達にとっては不思議です。

ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」 Continue reading

1月7日の礼拝案内

次週 礼拝(1月7日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書1:43~51

 交読文:詩編18:17~25

讃美歌:讃詠546番79番、220番、280番、頌栄541番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月31日の礼拝説教

創世記3:14~24

「アダムは女をエバと名付けた。彼女が全て命あるものの母となったからである」(3:20)

神がお創りになったエデンの園は、完全な豊かさと美しさをもっていました。人はそのエデンの園に置いていただき、自分が創り出された土に仕え、土を守り、そこから与えられる恵みを夫婦で楽しむ命が備えられました。心地よい風が吹く夕方には、一日の生活の充実感をもって神と語り合う時間をもっていたのです。

しかし、人は蛇の誘惑によって、一瞬でその平安を失ってしまうことになりました。創世記は、その悲劇を淡々と描いています。そしてその悲劇を通してイスラエルの信仰の失敗の歴史を描き出し、神から離れた偶像礼拝がもたらす悲惨な現実を突きつけるのです。

神の言葉を捨てた人間は何を失ったのでしょうか。神を中心に世界・自分見る、という視点を失ったのです。自分を世界の中心に据え、自分だけを見るようになり、神に対して恥を覚える者となってしまいました。

風が吹く夕方、自分を探しに来てくださった神に向かって「私はあなたから隠れています。裸であることを知って恐ろしくなったのです」と言う者になってしまいました。そして「自分以外のものが悪い」と他に責任を押し付ける者となり、神を中心とした大地との調和、神を中心とした夫婦の調和が崩れました。

神への不従順によって人間が何を失ってしまうのか、聖書は一番初めに楽園で人間が犯した失敗を描き、警告を発しているのです。

まず私達は今日読んだ場面で、神が蛇、女、人にそれぞれなんとおっしゃったのかを見たいと思います。

女が「自分は蛇に騙された」と言ったので、神はまず蛇を裁かれました。蛇に対して、蛇が呪われるものとなり、生涯這いまわり、塵を食らうことになる、とおっしゃいます。そしてこれまで普通に語り合っていた蛇と人は互いを忌み嫌い、殺しあうことになると言われました。

次に神は女に対して言葉をお与えになります。女は蛇のように呪われはしませんでした。しかし、三つの辛い現実が示されます。出産の痛み、夫を求めなければならない生活、男による支配です。

そして最後に神は男に向かって言葉を発せられました。男自身は蛇のように呪いは受けてはいません。しかし、「男のゆえに、土が呪われるものとなった」とおっしゃっています。

神の言葉に背いた人間の罪によって、大地が呪われることになったというのです。

エデンの園ではありあまる豊かさを大地から得ていた人間でした。しかし神から離れたせいで、自分が土に返る時まで汗を流し、苦労しても楽園でそうだったように豊かな実りがもたらされることはない、と宣言されます。

土から造られ、土に仕える存在であったアダムは、神から離れることで土との調和を失いました。それどころか、アダムは、土の上で苦しむことになったのです。園の中で与えられた豊かな木の実はなくなり、大地に仕えて園を守るという調和が崩れ、風を感じながら夕方神と語らう至福の時間はもうなくなってしまいました。これから一生男は呪われた土の上で労苦し、そして死ぬという定めとなったのです。

神が夫婦におっしゃった言葉を見ると、この世に生きる辛さが凝縮されていないでしょうか。

私たちがこの創世記を読む際に気を付けなければならないのは、字面を読んでそのまま自分の生活に持ち込んではならない、ということです。

神がここでそうおっしゃったから、「女は男に支配されるべきものである」とか、「外で働くのは男の役割であり、土の上で苦しむのは男だから仕方ない」とか、いうことではないのです。聖書がここで描いているのは、神に背き楽園を失った「あるべきでない」人間の姿なのです。

私たちが聖書を読む際に一番気をつけなければならないのは、その言葉、その物語が書かれた時代背景を踏まえる、ということです。どのような時代に書かれ、その時代の人たちはこの物語に何を見出したのかを踏まえて読まなければ、「男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ」、というような、安っぽい理解になってしまいます。

創世記の物語は、この創世記が記されたその時代のイスラエルが置かれた現実と、なぜイスラエルがそのような苦しみに陥ったのか、ということを描き出しているのです。

この不思議な物語は、紀元前のイスラエルの人たちにとって単なる娯楽ではありませんでした。神が人をエデンの園の外へと出され、人は出産の痛みを感じつつも生きるために土の上でもがき、しまいに死ぬ者とされた・・・イスラエルはこの物語の中に信仰の教訓を見出していました。

創世記が書かれたのは、イスラエルがバビロン捕囚を体験した時代です。BC6世紀、イスラエルの民は聖なる都エルサレムを失い、異教の国バビロンへと連行され、偶像の信仰に囲まれる苦しみの生活を体験しました。

神の言葉に背いてエデンの園から追放されたアダムとエバに、自分たちの姿を重ねて見たでしょう。神の言葉に背を向け、祝福を失った男と女の悲惨は、当時のイスラエルの人たちの現実そのものだったのです。

何百年も預言者たちが偶像礼拝をやめるよう神の言葉を伝えたにも関わらず、イスラエルはやめませんでした。遂に、バビロンの軍隊によってエルサレムに裁きがもたらされました。エルサレムは破壊され、人々はバビロンへと連行されて行きました。異教の地バビロンで、偶像礼拝の誘惑に囲まれた中での生活を余儀なくされたのです。

バビロンでの捕囚生活の中で、家が途絶えないように女性は子を産むことが求められ、家父長制度の中で男に支配されていました。男は炎天下、土の上で来る日も来る日も働かねばならず、その日一日を生き延びるのに精いっぱいでした。

そういう人たちが、この創世記を読んだのです。その時代のイスラエルの人たちにとって、ただ確かだったのは、苦しみの先で死ぬ、ということだけでした。神から離れ、「死ぬ者となった」という厳しい現実が創世記に記されています。

それこそが、バビロン捕囚の中で生きる意味を見失いかけていたイスラエルの人々の現実だったのです。国を失い、ただその日一日を生き延びることが、生きる全てとなっていた無味乾燥な時代に創世記は記されました。エルサレムを失った人たちは、楽園を失った夫婦に自分たちの姿を重ね、信仰の失敗の教訓としたのです。

そのようにして聖書を読むと、神がくださった祝福の生活を自ら捨ててしまったイスラエルの姿が透けて見えてきます。聖書は、ある意味、イスラエルの嘆きの書です。「なぜ自分たちは滅んでしまったのか。自分たちはどこで道を踏み外してしまったのか。自分たちをそそのかす蛇の声とは一体何だったのか。」

女が男に支配されながらも男を求めなければならないような苦しみ、男が必死で汗を流して働いても報いが少ない苦しみ・・・そのような苦しみが一体どこから来ているのか・・・。

驚くべきことに、創世記は神を責めていません。この世に生きる苦しみを神のせいにしていないのです。神はもともとは祝福の世界をお創りになったのに、人間が自らその楽園を捨ててしまった、その愚かさを描いている。「この愚かさを繰り返してはいけない」、という信仰の教訓として創世記は書かれました。

創世記は私たちにただ生きる絶望を伝えているのでしょうか。最後にこのことを考えたいと思います。

創世記が示しているのは、罪の絶望だけなのでしょうか。「あなたには今もこの先も、希望を持つことはできない」ということなのでしょうか。

22節に神の心の言葉が書かれています。

「人は善悪を知る者となった。」

これは以前にお話ししたように、「支配者になろうとする存在となった」ということです。

そして神は一つのことを憂いていらっしゃいます。

「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」

人は支配者になろうとする心を持ってしまった、自分中心の生き方を知ってしまった・・・そのような人間が、それぞれが「自分こそ世界の中心である」と思うようになったらどうなるか・・・。

人間同士で殺し合い、自然をも支配しようとして大地を痛めつけることになります。今この世界にある環境破壊の問題も、一番の大元は創造主を見失っている、という人間の罪に原因があるのです。

そのような人間が「命の木を知ってはいけない」、と神は思われました。だから人はエデンの園から追放されたのです。永遠の命に相応しくないと思われたからです。 Continue reading