創世記4:1~12
「あなたはなぜ怒り、顔を伏せたのか。そうではないか。もしあなたが正しく振舞っているというなら、顔を上げることだ。もし正しく振舞おうとしないのであれば、戸口に罪が待ち伏せよう。」
神が「極めてよい」と思われた世界の秩序の中で人間は蛇の誘惑に負け、自分が神のようになろうと、食べてはならない木の実を食べてしまいました。聖書が私たちに描き出しているのは、神の創造の秩序が罪の力によって、また罪の誘惑に身を委ねた人間によって壊れていった、ということです。
世界の調和の中で土に仕え、土を耕し、土から生きるための恵みを与えられていた人間は、エデンの園という楽園から追放されてしまいました。神は、蛇の誘惑によって善悪を知る木の実を食べてしまった人間におっしゃいます。
「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」
人間はヘブライ語でアダムです。アダムは「土なる存在」という意味です。その「土なる存在・大地に生きる存在」である人間が、神になろうとして神から離れてしまったことによって、土・大地までが呪われることになってしまいました。
創世記は、我々人間の歩みは、ある意味ここから始まった、ということを教えています。聖書が証しする歴史は、神が人間を取り戻そうと働かれる救いの御業の歴史であり、招きの手を振り払う人間の罪の歴史でもあるのです。
ある人は、「創世記には人間の全ての罪が描かれている」と言いました。その通りでしょう。もし聖書が、人間が目指すべき理想郷が描いているのであれば、もっと多くの人が素直に聖書を楽しんで読んできたでしょう。しかし、聖書には醜い人間の罪の姿がなまなましく描き出されています。読む私たちへの警告として、神の前に愚かな歩みをする罪の失敗事例として突きつけているのです。
園を追放されてから、アダムとエバに二人の男の子が生まれました。ここから人間が家族を形成し、互いに助け合い、共同体を平和に築き上げていった、というのであれば、私たちは安心して聖書を読み進めることが出来ます。しかし、聖書が私たちに示すのは、最初の夫婦の間に生まれた二人による兄弟殺し、人間の最初の殺人なのです。
レントの時を過ごしている私たちはカインとアベルの兄弟の姿を通して、自分が今神にどう向き合っているかを捉えていきたいと思います。
エバは、カインを生んだ時、「私は主によって男子を得た」と言いました。母としての喜び、また神への感謝を言い表しています。その後、弟のアベルも生まれ、二人の兄弟は成長しました。
2人の兄弟は、それぞれ違う生き方をするようになりました。「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなった」と書かれています。カインは農夫として、アベルは羊飼いとして生きるようになりました。
聖書は、この二人は仲が良かったのか悪かったのか、親子でどんな風に生活していたのか、ということは書いていません。ここではただ、カイン1人だけに焦点を当てています。アベルの言葉も、アベルが殺された後のアダムとエバの悲しみも、全く書かれていないのです。聖書がカインの罪だけに焦点を当てて私たちに突き付けているということは、私たちがここで心を向けるべきは、その一点である、ということでしょう。
2人は、自分たちの労働の中で取れたものを神への捧げものとして持参しました。神はアベルの捧げものだけに目を留められた、とあります。
さて、私たちはここで戸惑うのではないでしょうか。なぜ神がアベルのささげた羊を喜ばれ、カインの捧げた土の実りを目を留められなかったのか。神は農耕よりも遊牧を喜ばれる方なのだろうか。農耕よりも牧畜の方が優れているということを聖書は伝えているのだろうか。そもそも、カインの捧げものは何が足りなかったのだろうか・・・。
よく聖書を読んでみる必要があるでしょう。字面ではなく旧約聖書が書かれているヘブライ語の表現を踏まえて読むと、また別の見方ができます。カインとアベルが、「捧げものとして持ってきた」とありますが、これは「初物を神の前に捧げる」ということの表現です。つまり、毎年、その年の初めに神から与えられた恵みを、感謝を持って神に捧げる、ということを二人はしていたのです。
聖書は、「アベルは彼の羊の初子の中から、しかもその肥えたものの中から携えて来た」と書いています。アベルが、初物の中で最もよいものをささげた、ということが強調されています。それに対してカインの捧げものに関してはただ、「大地の実りの中から捧げものを持ってきた」とだけ書いています。
「主はアベルとその捧げものに目を留められた」というのは、アベルの生業の方がこの年、豊かに恵まれたということの表現です。神がアベルの方をひいきされた、とか、神は農業よりも遊牧を好まれた、とかいうことではありません。年によって豊作と不作があります。この年は、アベルの方が豊作で、カインの方が不作だった、ということです。
この年、アベルが豊作でカインが不作であった、ということでカインは、神に対して怒り、落胆したのです。
神は、初物の中で最もよいものをささげたアベルの御自分に対する感謝をその捧げものの中に見出されました。どうやらカインの捧げものは、初物でも最も良いものでもなかったようです。そのことによって、神がカインの心の中に御自分への信仰を見出されることがありませんでした。神は二人の捧げものを通して、二人の心の内をご覧になったのです。
この場面を読むと、普通は「神はなぜアベルをひいきしたのか、なぜ理由もなくカインを嫌われたのか」、と考えるでしょう。しかし、聖書がここで描いているのは、神の「好み」ではなく、神に捧げものをした人間の心なのです。
自分だけが不作の年を迎えたということであっても、大切なのは、その後なのです。その後、神にどう向き合うか、ということです。
詩編51編にこういう言葉がある。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす捧げものが御旨にかなうのなら私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」
神の前に打ち砕かれ悔いる心、それこそが私たち人間が神に捧げるべきものなのです。豊作の年であろうが、不作の年であろうが、です。順境でも逆境でも、です。
カインもアベルも、自分の働きの中で得たものを神にささげました。しかしカインは、それが神から与えられた恵みであるということを心の内に思っていなかったようだ。不作の年を迎えたカインは、与えられた恵みではなく、足りないものから数えてしまっていたのです。それが、カインの捧げものに、またカインの態度に現れていました。
神はカインの心の内にあるものを見抜いておっしゃいました。
「あなたはなぜ怒り、顔を伏せたのか。そうではないか。もしあなたが正しく振舞っているというなら、顔を上げることだ。もし正しく振舞おうとしないのであれば、戸口に罪が待ち伏せよう。」
カインが本当に正しい思いを持っていれば、その場で顔を上げて神に正面から向き合うことが出来たでしょう。しかし、彼は顔を上げることが出来ませんでした。カインは自分自身の中に、神に対して疚しいものがあったことを否定できなかったのです。
神は、そのカインに対して、「正しくふるまいなさい」とおっしゃいました。それは、「神に対する正しさ」だ。自分を生かしてくださっている神に対して、心からの感謝をもって捧げものをし、自分の心を神に向けることです。それだけのことです。神への自分の思いをただして、低くなり、神と共に生きれば、それで終わったでしょう。それが「悔い改める」「立ち返る」ということです。
しかし、もしカインがそうしないのであれば、「戸口に罪が待ち伏せている」、と神はおっしゃいます。アダムとエバと同じ、罪の道・神から離れる道へと踏み出してしまうことを警告なさったのです。
カインは今、神と共に生きるインマヌエルの道と、神から離れる罪の道との分かれ道に立たされました。「正しく振舞いなさい、私から離れることのないようにしなさい」、と招かれる神に対して、カインは聞き従うことが出来ませんでした。まるで、アダムとエバが、「食べてはならない」と言われていたにも関わらず、善悪を知る実を食べてしまったように、自分を抑えられず神に背を向ける選択をしてしまうのです。
神に怒りを覚えたカインは、弟を野原に連れ出し、そこで殺しました。声をかけて野原に連れ出したということは、計画的に殺人を行った、ということです。衝動的に殺したのではありません。時間と場所とやり方を決めて、弟を殺したのです。
神から離れた人間、神に背を向けた人間が何を考え、何をしてしまうのか、聖書は私たちに教えています。私たちの誰が、カインと自分は違うと言い切れるでしょうか。自分は神に認められていない、神は自分ではなく自分以外の人を愛していらっしゃる、この世で自分だけが呪われていると思う瞬間は、誰にだってあるでしょう。
自分の弟を殺したカインの姿を通して私たちは何かを見せられています。神を憎むものは、自分の兄弟・隣人に対する憎しみまで抱くようになるのです。人間は、人間である以上、罪と無関係ではいられません。自分の罪が姿を現そうとするのをどうすればいいのでしょうか。
「正しく振舞いなさい」とおっしゃる神の言葉を聞く、ということ、それしかないのです。それが、今私達に与えられている聖書の言葉なのです。人間はいとも簡単に自分を罪の力に明け渡してしまいます。私たちは誰も、蛇の誘惑の言葉を聞いたアダムとエバを、神に怒り、弟を殺したカインを笑うことはできません。聖書は、「これが人間の心の一番奥に潜んでいる罪だ」ということを私たちに突き付けているのです。 Continue reading →