ヨハネ福音書4:16~26
「それはあなたと話をしているこの私である」
サマリアのシカルという町の井戸で、あるサマリア人女性とユダヤ人男性の旅人が出会った、という出来事を読んでいます。「私に水を飲ませてください」と言う旅人の一言から会話が始まって行きます。
人目を避けて、一日の一番暑い時間帯に井戸の水を汲みに来た女性にとって、見ず知らずのユダヤ人男性から話しかけられたことは迷惑だったでしょう。しかし、この旅人との会話が 進むに従って彼女は「この人には何かある」と思うようになっていきました。
「私にはこの井戸に勝る水がある。あなたが私が誰かを知ったら、あなたの方から私に水をくださいと言ったでしょう」と旅人は言いました。「私にはこの井戸に勝る水がある」という言葉に、サマリア人女性は食い下がります。このユダヤ人の旅人は、サマリア人の祖であるヤコブよりも、まるで自分の方が偉いかのような言い方をしているのです。
「この井戸は私たちサマリア人の先祖であるヤコブが掘ったのです。あなたはヤコブよりも偉大だと言うのですか」
旅人は、静かに答えました。
「この井戸の水は飲んでも渇くが、私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」
女性は「水が湧き出る」、と聞いて、「もう水くみに来なくてもいいのでは」、という期待を抱きました。しかしそこまで会話が進むとなぜか旅人は女性に「あなたの夫をここに呼んできなさい」と言います。
「私に夫はいません」と答える女性に、「あなたはこれまで5人と結婚して、今は夫ではない男性と暮らしている」と答えました。女性は初めて会うこのユダヤ人の旅人が、自分のことを全て知っていることに驚きました。彼女の誰にも知られたくない生活のすべてを見通しているこの方のことを、女性は本当にサマリア人の先祖であるヤコブよりも偉大な方ではないかと思い始めるのです。
「あなた」という呼び方から「主よ」という呼び方になり、「あなたは預言者だとお見受けいたします」と言うようになりました。不審に思いながらも、女性は少しずつこの旅人の言葉に恐れを抱くようになっていき、この方の言葉を神の言葉として聞くようになっていったのです。
使徒パウロはコリント教会にこういう言葉を書いています。
「神は・・・私たちを通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」Ⅱコリ2:14
「キリストを知るという知識の香り」とは何でしょうか。
「キリストを知る」とは、どういうことなのでしょうか。
この女性はキリストと会話を続ける中で、少しずつ、「この方は預言者ではないか」、「この方は本当にキリストではないか」と心の目が開かれていきました。本を読んで、聖書学者が書いていることを理解して「キリストを知る」ということももちろん大事なことでしょう。しかし、このサマリア人女性は、難しい内容の宗教の本を読んだり、キリスト教の講演を聞いたのではないのです。
この女性は、自分に声をかけて来られたキリストに対して、「この方は誰なんだろう」と思いながらも、キリストの言葉を聞き続けた、求め続けた、ただそれだけで「この方は本当にメシアかもしれません」と人々に告げるようになります。彼女は諦めなかったのです。救いを、キリストをも求めることを諦めなかったのです。
当時はユダヤ人男性がサマリア人女性に声をかけることなど非常識なことだった。
それでも、彼女はこの方に出会い、言葉を交わしながら「あなたはヤコブに勝る方なのですか、あなたがおっしゃる水とはなんですか。なぜ私のことを全てご存じなのですか」と言って、その場を立ち去ることをしなかったのだ。
これが、「キリストを知ろうとする」ということではないでしょうか。この方に出会い、この方に全てを知られていることを知り、自分の内にあるあらゆる醜さをご存じの上で招いてくださる懐の深さを知って、どんどん求めていくことです。
このサマリア人女性は、目の前に座って自分に話しかけているユダヤ人の旅人の名前すら知ります。恐らく、主イエスとこの女性との会話は数分のやりとりだったでしょう。キリストを求め、真の礼拝を求め、罪の許しを求める女性は、目の前に現れ、全てを知ってくださっている方に、命の水を求め続けました。そのことによって、キリストを知っていったのです。
私達はキリストを知って、求め始めるのではないのでしょう。逆ではないでしょうか。キリストに知られ、キリストを求めるからこそ、キリストのことが少しずつ分かって来るのではないでしょうか。パウロが「キリストを知る」、と表現しているのは、そういうことではないでしょうか。
1世紀のキリスト者たちは、キリスト教の勉強をしてキリストを知ったのではないのです。聖霊の導きとしか言いようのない、「キリストとの出会いだった」としか言いようのないことを経験して、「キリストを知る知識の香り」を身にまとったのです。キリスト者たちは、その「キリストを知る知識の香り」をまとって生きることで、隣人をキリストの元へと導いて行ったのです。
招いてくださるイエス・キリストに向かって、直接「あなたは一体誰なのですか」と問いかける、そこにこそ、「キリストに出会う」、ということの本質があるのでしょう。それは、私たちのキリスト教についての知識量というようなものとは関係なく、もっと、単純なことではないでしょうか。
「このような私まで、神は探し求め、招いて下った」、という事実に打たれ、ひれ伏すことです。それが、本当の意味で「キリストを知る」ということでしょう。
さて、サマリア人女性は旅人に向かって、「あなたを預言者とお見受けします」と告白した。そして一つのことを尋ねた。
「サマリア人はサマリアの山で礼拝しましたが、ユダヤ人はエルサレムに礼拝の場所があると言っています」
女性は何を知りたがっているのでしょうか。彼女の言葉は、「預言者であるあなたに、サマリア人の私が一体どこで礼拝すればいいかを教えてほしい」、という訴えだった。彼女は、礼拝の場所を探し求めていたのです。
自分の私生活を全て知っているということは、この方は預言者なのだろう、そして預言者は神の言葉を託されているのだから、私が神を礼拝するためには、どこに行けばいいのか教えてほしい、と思ったのだ。
それにしてもなぜ突然、女性は正しい礼拝の場所がどこなのかを尋ねたのでしょうか。礼拝の場所を知りたいと願うことは、どこで罪の許しを得られるのか知ろうとした、ということです。
女性の訴えは、「私の罪は一体どこに持っていけば許されるのですか」ということでした。
申命記18章15節に「モーセのような預言者が来る」と言われています。それは、神から離れた人を神の元へと招く言葉を伝えてくれる人、正しい神との関係へと導いてくれる人が来る、ということです。このサマリア人女性は、今自分の目の前にいるユダヤ人男性が、その預言者ではないかと希望を持ちました。それは、罪の許しの希望だったのです。
女性は、「私どもの先祖はこの山で礼拝しました」と言っています。サマリアは、信仰の父と呼ばれるアブラハムやイスラエルという名前を神から与えられたヤコブが礼拝を捧げた場所でした。
アブラハムが神に召され、故郷ウルを離れ、旅をしてたどり着いた場所は、サマリアでした。アブラハムはそこで礼拝を捧げています。創12:6
また、一度は逃げ出したヤコブが家族と兄エサウの下に戻った時にも、そこで礼拝を捧げました。創 33:20
しかし、主イエスの時代には、サマリアから礼拝の場所が無くなってしまっていました。イスラエルは歴史の中で、南北に分裂してしまいます。南のユダヤ人と北のサマリア人に別れ、ユダヤ人たちはエルサレムで、サマリア人たちはサマリアでそれぞれ礼拝をささげるようになりました。
サマリアの人たちは Continue reading →