MIYAKEJIMA CHURCH

5月12日の礼拝案内

 次週 礼拝(5月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書5:1~9

 交読文:詩編18:32~35

讃美歌:讃詠546番17番、310番、399番、頌栄543番

【牧師予定】

◇5月12日(日)~15日(水) 東京に出張(島しょ部民生委員)

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

5月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:43~54

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

ある一人のサマリア人女性を通じて、主イエスはサマリア人たちにご自身を示されました。シカルというサマリアの街に住んでいた人々は、サマリア人でありながらユダヤ人であられた主イエスの下に来て、「私たちは自分で聞いて、あなたが本当に世の救い主であると分かった」と言いました。ユダヤ人とサマリア人の間に会った壁を越えて、人々はキリストを見出したのです。非常に印象深い、主イエスのサマリア滞在です。

その滞在の後、主イエスはガリラヤへと移動されました。44節にこう書かれています。

「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」

サマリアで人々からキリストとして受け入れられた主イエスでしたが、これからの故郷のガリラヤ滞在でどんなことが待っているのかを暗示している言葉です。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが、最初のしるしを行われたカナで再び奇跡を行われた、という場面です。王の役人が、エルサレムでたくさんのしるしを行ったイエスという人に、自分の息子を癒してもらおうとしてやってきました。キリストはその人に「あなたの息子は生きる」という言葉をお与えになり、その言葉通り、役人の息子の病は治りました。

ヨハネ福音書はこれを、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」と記録しています。最初のしるしは、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えられた奇跡でしたが、福音書はその1つ目のしるしの後、キリストが行われたエルサレムでのたくさん行われたことを記録しています。しかしエルサレムで行われたそれらのしるしは数として数えられていません。「その他のしるし」のように扱っています。

ヨハネ福音書にはキリストが行われた大きな7つのしるしがあると言われています。

1つ目は カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡

2つ目は 王の役人の息子の癒し

3つ目は 足の萎えた人の癒し

4つ目は 5000人にパンと魚をお与えになった奇跡

5つ目は キリストが水の上を歩かれた奇跡

6つ目は 盲人の癒し

7つ目が ラザロのよみがえり

ヨハネ福音書は最後で、「世界中の書物に収めきれないほど」キリストのしるしは行われた、と記録していますが、聖書が特に私たちに大切なしるしとして見せようとしているのが、これらの七つのしるしである、ということです。

これらの奇跡の出来事を通してヨハネ福音書は私たちに何を証ししようとしているのでしょうか。一言で言えば、「新しい時代が来た」、ということです。

主イエスはエルサレム神殿で、「新しい神殿を建てて見せる」とおっしゃいました。イスラエルの教師ニコデモには、「人は新しく生まれ変われなければ神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。サマリアの女性には「私は生きた水である。エルサレムでもサマリアでもないところで礼拝がささげられる時が来る。今がその時である」とおっしゃいました。そして今日読んだところでは、キリストは御自分に癒しの救いを求める者に新しい命をお与えになりました。

キリストがもたらしてくださった、新しい神への招きの時代、新しい礼拝の時代、新しい命の時代は、私たちの生活の中に届いたのです。神殿の奥の、祭司しか入れないようなところで私たちはキリストと出会うのではありません。

生活の中にある痛みの中に、悩みの中に、自分の努力だけではどうしようもない苦しみの中で、祈るしかない中で、「渇く者は私の下に来なさい。値無しに命の水を飲ませよう」という御声を聞くことが出来る時代を迎えたのです。

今日私たちが読んだのは、単に「不思議な奇跡の業が行われた」というだけのことではありません。生活の中で、自分が考えてもいなかった方向から与えられるキリストの言葉・救いがある、ということ、そしてそのような恵みに満ちた新しい時代を生きているということを、福音書に証しされたしるしを通してかみしめたいと思います。

さて、サマリアで女性とお話しをなさった後、主イエスはガリラヤへと戻って行かれました。ガリラヤの人たちはイエスを歓待しました。人々は、エルサレムの祭りで主イエスがなさった奇跡を見ていたからです。自分たちの土地から出た英雄のように迎え入れました。

しかし、主イエスはガリラヤの人たちの喜びを冷めた目でご覧になっています。「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」という思いをもっていらっしゃるのです。

何か不思議な業を見た人たちは、興奮して御自分に近寄ってくるということをご存じでした。エルサレムでたくさんのしるしを行われた際、人々は主イエスの下にやってきました。2章の最後で、福音書にはこう書かれています。

「イエスご自身は彼らを信用されなかった・・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」 Continue reading