MIYAKEJIMA CHURCH

7月28日の礼拝案内

次週 礼拝(7月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ヨハネ福音書6:60~65

 交読文:詩編18:36~39

讃美歌:讃詠546番29番、177番、331番、頌栄544番

【報告等】

◇会計報告 裏面をご覧ください。

◇8月18日(日)の礼拝に下谷教会の皆さまが訪問してくださる予定です。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

7月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:51~59

「これは天から降ってきたパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食している人は永遠に生きることとなる」(6:58)

二匹の魚と五つのパンで群衆を満たされた主イエスを、群衆は求めました。自分たちの王様にしようと考えたのです。自分たちの都合でご自分を求めてきた人たちに対して、主イエスは「命のパン・天からのパン」についてお話なさいました。少しずつ、御自分を求める群衆に、御自分が行われた奇跡の意味を話していかれます。

「私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」

この言葉を聞いて人々は期待しました。自分たちイスラエルの先祖が、出エジプトの際天から与えられたマナを思い浮かべたのです。群衆は「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言いました。しかし、主イエスがおっしゃるパンと人々が期待したパンとは違っていました。

「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない」

主イエスがおっしゃる天からのパンは、荒野でイスラエルを養ったマナに勝る全く次元の異なるものであることが言われています。毎日天からパンが降って来て、もう食事の心配をする必要がなくなる、というようなことではありませんでした。

主イエスは「私があなたたちにパンを分け与える」ではなく、「私が命のパンである」とおっしゃいます。「私は天から降ってきたパンである」

それだけでも戸惑うのに、今日読んだところで主イエスは更に「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」とおっしゃっています。主イエスが何をおっしゃっているのかを理解しようと話を聞いていた人たちは、ここで躓きました。「どうして、この人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」

主イエスによって養われ、主イエスを求めて来た群衆は、ここで「ユダヤ人たち」と呼ばれています。先週もふれましたが、ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」は、主イエスに対して敵意を持つ人たち、という意味を含まれています。「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」という言葉を聞いて、主イエスを求めてやってきた「群衆」が、敵意を持つ「ユダヤ人」に変わりました。

主イエスの言葉をここまで聞いてきた人たちはこの言葉に強く反応しました。「互いに激しく議論し始めた」と書かれています。「つぶやき」が、「激しい議論」にまで発展しました。

確かに、主イエスの言葉は聞いた人を驚かせる内容でした。自分の肉を誰かに食べさせる、などということを聞いたら誰でも驚き、「どういう意味だろう」と激しい議論を引き起こすでしょう。

ユダヤの律法にある食物規定では特に動物の肉と血を食することは禁じられていました。血はその動物の命そのものを象徴するものでした。

申命記12章23節「(生贄の)血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである」

生贄として捧げられた動物の血を飲むことは、その捧げられた動物と命・存在を共有することを意味したのです。このような掟があるのに、このイエスという人は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物だからである」と言うのです。

自分たちが教えられてきた神の掟に反するようなことを言っているだけでなく、自分を食べさせるとはどういうことか、と人々は戸惑いました。

結局、この言葉を聞いた人たちは主イエスの下から去って行くことになります。今日読んだところの次の場面になりますが、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と言って、皆離れていくのです。パンと魚で主イエスによって満たされ、主イエスに期待した人たちはその教えを聞いて、失望して去って行くのです。

この時、群衆は主イエスがおっしゃっているご自分の血、御自分の肉とはなんのことか、まだ理解できませんでした。それはそうだろう。主イエスの十字架と復活をまだ見ていないのです。主イエスが「そのパンとは私の肉である」とおっしゃったのは、つまり「十字架であなたたちの代わりに裂かれ、血を流すことになる私の体である」ということだ。

私たちはそのことを知っている。主イエスの言葉の霊的な意味をくみ取ることが求められています。出エジプト記出エジプト記16章8節で、モーセがイスラエルにこう言っています。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる」

主イエスは「私は、天から降って来た生きたパンである」という言葉の後、「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」とおっしゃいました。モーセが言ったように、神がお与えになる「世界の命のため」のパンであり肉である、というのです。

ここで我々は聖餐式を思い出すでしょう。いつも、聖餐式の中で、パウロがコリント教会に記した主の晩餐の言葉が読み上げられる。

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」

「あなたがたのための体」というのは、「あなたがたの代わりの体」ということです。主イエスがこの世に、御自分の命というパンをお与えになる、ということは、ご自分の命をお与えになる、ということです。私たちの代わりに命を捧げてくださる、ということです。

この方が命を差し出してくださらなかったら、この世の命はなかった、ということです。主イエスがここで「世界の命のため」「世を生かすため」とおっしゃっているのは、そういうことなのです。

主イエスは、御自分が過ぎ越しの食事そのもの、子羊の血そのものでした。奴隷とされていたエジプトから脱出する際、神はエジプトを打たれました。イスラエルの人たちは、自分の家の鴨居に子羊の血を塗り、それを目印として神の裁きは通り過ぎて行きました。こうやって、イスラエルは解放され、神への礼拝の中へと導き入れられていきました。子羊の犠牲がなければ、イスラエルはエジプトで奴隷として死に絶えていたでしょう。

今、イエス・キリストは、ご自身が出エジプトの際に与えられた子羊の血であり、天からのマナであることを人々に示されています。私たちにとって「キリストと食べる・キリストを飲む」、というのは、キリストの十字架を自分の十字架として見つめる、ということです。

本当はそこに上げられるはずだった自分がなぜ今生きているのか。キリストが私の代わりに肉を裂かれ、血を流してくださったからです。

キリストの血と肉を食することによって私たちは主イエス一体となります。それは神秘です。主イエスをこの世に送られた父なる神は全ての命の源です。キリストを食すということは神と一つになるということ、神と存在を共有するということでもあるのです。

ヘブライ人への手紙に、こう書かれている。

「(イエスは)ご自分の血で民を聖なるものとするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。私たちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して讃美の生贄、すなわち御名を讃える唇の実を、絶えず神に捧げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」ヘブ13:14以下

私たちは、この地上に永遠の都を持ってはいません。来るべき都へと、キリストによって導き入れられることになります。

聖書を読んでいると、生贄とか契約の血とか、生々しい言葉がよく出てきます。なぜそんな言葉が頻繁に出て来るか、というと、神と人間との関係は命がけだからです。

聖書が示している契約とは、紙切れ一枚の約束ではありません。神と人間との契約は、神が人の神となり、人が神の人となって愛と平和の内に共に生きる、というものです。単なる口約束ではありません。

契約の儀式において動物を二つに裂いて、「契約をやぶるとこうなる」ということを確認してから、契約します。

人は神から離れてしまいました。契約を破りました。しかし神は人間を諦められませんでした。神ご自身が、人間を取り戻すことを諦めず、この世にまで迎えに来てくださったのです。それがイエス・キリストです。

先ほどのヘブライ人への手紙では、「血を流すことなしには罪の許しはあり得ないのです」と書いています。それが、神と人間との間に交わされた契約でした。契約をやぶった人間は、本当は血を流さなければなりませんでした。しかし、キリストがご自分の血をもって、私たちの身代わりとなってくださったのです。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

私たちは、今生きている自分の命をどのように捉えているでしょうか。この世に生まれ、日々生きて、今日も、明日も当然生きているだろう、という感覚で生きているのではないでしょうか。

自分が生きることが許されている今がどれほど大きな犠牲によるものか、聖書は伝えています。使徒パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と書いています。地中海沿岸全域を、アジアからヨーロッパまで福音宣教して大きな働きを成したあのパウロが「働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」と書いています。

私たちは、「十字架の上で裂かれたキリストの肉が、十字架の上で流されたキリストの血が今の自分を生かしている」、と、どれほど心の内で捉えることができているでしょうか。 Continue reading