ヨハネ福音書6:41~51
「預言者たちの書に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろうと書かれている」(6:45)
山の上で二匹の魚と五つのパンによって満たされた人々は、主イエスを追い求めてやってきました。自分たちの王様になってもらうためです。主イエスは、群衆から距離を取り、一人山へと退かれました。人々に求められて地上の王になることをお望みにならなかったのです。
群衆から距離を取られた主イエスは、諦めずにさらにご自分を探し求めてきた群衆に、ご自分をどのように求めるべきなのか、ということをお伝えになりました。
五つのパンと二匹の魚は何のしるしだったのか。
「天からのパン」とは何のことなのか。
天からの食べ物をお与えになるイエスという方は何者なのか・・・
群衆は考えさせられることになります。人々の興味は、「イエスは一体何者か」ということに集約していくことになります。
これまで人々は、申命記18:5で言われていた「モーセのような預言者・モーセの再来」として主イエスに期待をかけていました。山の上でパンと魚で満たれた人々は、出エジプトの際、荒野でモーセが神に執成してイスラエルの人々にマナが与えられた出来事を思い起こしていたのです。だから、「この方は天からパンを降らせてくださるのでは」と期待した人々は、「私は天から下ってきたパンである」という主イエスの言葉をいぶかしく思いました。
主イエスは「天からのパン」というものがあることをおっしゃいます。しかし、御自分のことをモーセのように神に執成してパンを皆に配る者ではなく、御自分が天からのパン・命のパンそのものであるとおっしゃいました。「私はパンを与える者だ」ではなく、「私がそのパンである」とおっしゃるのです。
「ナザレのイエスは、モーセモーセの再来ではないか」、という話ではなくなりました。パンのために神に執成す人ではなく、パンそのものだ、と言っているのです。この言葉を聞いた人々は「つぶやき始めた」と書かれています。これは、「不満を言い始めた」ということです。つまり、主イエスがおっしゃっていることは、群衆にとっては期待外れだったのだ。
ここで、一つ、ヨハネ福音書の言葉のつかいかたに注目したいと思います。これまで主イエスの言葉を聞いてきた人たちは「群衆」と呼ばれてきましたが、ここでは「ユダヤ人」という言葉で呼ばれています。
ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」という主イエスに敵対する人たちという意味で用いられています。「私が天から下ってきたパンである」という言葉を聞いて、期待外れに感じた人たちは、主イエスを自分たちの王として求める「群衆」から、主イエスに敵対する「ユダヤ人」に変わったのです。
それまで彼らはパンと魚によって養われたことによって、主イエスにモーセのような預言者としての姿を、この地上でイスラエルを力強く導く指導者としての姿を期待しました。自分たちの先祖が、荒野でマナをいただいたように、自分たちも神によって養われる生き方ができると思ったのです。
人々はモーセの再来を期待し、新しい出エジプトを期待しました。しかし皮肉なことに、人々は、荒野で神に向かって不平をもらす、というイスラエルの先祖たちの過ちを繰り返しているのです。
出エジプトの際、荒れ野で歩みながらイスラエルは不平を述べました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだほうがましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」
モーセは彼らに言いました。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」出エジ16章
主イエスの言葉を聞いた人々はなぜ不平を漏らしたのでしょうか。この方のことを知っていたからです。父が大工のヨセフであり、母がマリアであることも知っていました。ヨセフとマリアの子であるイエスがなぜ「私は天から降ってきた」などと言うのだろうか。
主イエスと人々の会話がかみ合っていません。主イエスがここでおっしゃっている天の父というのは、ヨセフのことではありません。天からご自分をおつかわしになった神のことを「私の父」とおっしゃっているのです。
主イエスが地上のことをお話しなさっているのか、天のことをお話しなさっているのか、それを踏まえて言葉を聞かないと、私たちもこの方がどなたでいらっしゃるのかを見失ってしまいます。
主イエスは「つぶやいてはならない」「不平を言ってはならない」と群衆に向かっていさめておられます。
「私をおつかわしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」
主イエスの言葉に不平不満を言っていては神の御姿が見えなくなるのです。
先週読んだところで、主イエスはこうおっしゃっています。「父が私に与えてくださっている者を皆、わたしが1人も失うことなく、終わりの日に蘇らせること、これが私を遣わした方の思いである」
この言葉は、主イエスご自身が、単に見た目通りのヨセフとマリアの長男というだけでなく、モーセよりも偉大な存在、神によって天から遣わされた存在であることを示しています。
「私を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私はその人を終わりの日に蘇らせる」
これは、神にしか言えないような言葉です。
主イエスは預言者の言葉を引用なさっています。
「彼らは皆、神によって教えられる」
イザヤ54:13「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」
これはバビロン捕囚から解放されるイスラエルが預言者から聞かされた言葉です。預言者たちは神の愛を知っていました。神ご自身が、人に必要なものをお教えになるということを伝えて来られたのです。
預言者ホセアも神の言葉を残しています。
「私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」ホセア書 11章4節
預言者エレミヤを通してはこう語られている。
「私は、とこしえの愛を持ってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、私はあなたを固く建てる」エレミヤ書 31章3節
「私は永遠の愛をもって、人を引き寄せる」神はとおっしゃいます。そのように預言者たちの口を通して言われてきたことが、今、イエス・キリストを通して現実のものとなっているのです。預言者たちは、この方による招きの時代を見据えて、預言を残してきたのだ。
そして今主イエスは、このような預言者たちの言葉を引用して、「しっかり私の言葉を聞きなさい」と促されます。
さて、ここで一つ大切なことを思い出したいと思います。神からマナをいただきながらも、荒野でイスラエルは不平を漏らし、神に反抗しました。そして神に従いきれなかったイスラエルの人たちは皆、荒野で死んでしまいました。荒野を歩き切って、約束の地に入ることができたのは彼らの次の世代の人たちでした。(民数記14章26節から35節) Continue reading →