ヨハネ福音書6:60~71
「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」
6章の締めくくりとなる場面を読みました。6章は山の上で5000人の人たちを主イエスが養われるところから始まります。大きな奇跡の後、主イエスは群衆から離れ、嵐の中湖の上を歩いて弟子達の船に乗り込んで嵐を沈められました。
主イエスを自分たちの王様に祭り上げようとしてやってきた群衆がカファルナウムまでやって来ます。その人たちに主イエスは「私は命のパンである。私の血を飲み、私の体を食べる者は永遠の命を得る」とお教えになりました。
「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」と書かれています。主イエスは、ガリラヤのカファルナウムの町にある会堂で、神の教えとしてご自分のことを命のパンであり、ご自分を食べる者は永遠の命を得る、と伝えていらっしゃったのです。
「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」
主イエスを求めて来た人たちが最後にこのようにつぶやいて、6章は終わります。不思議な教えを聞いた人々は、主イエスを求めることをやめて去って行ったというのが6章の結末なのです。
5000人の給食という大きな奇跡で始まったのに、主イエスのもとから弟子達が去って行った、という残念な結果に終わっています。主イエスの奇跡を体験した人たちが皆従うようになった、という話ではないのです。
残念な結果だが、多くの弟子たちが主イエスのもとから去って行ったということは驚きではないでしょう。
66節「このために、弟子達の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」。主イエスによって養われたあの5000人の中に、「弟子」としてついて行こうとしていた人たちがたくさんいたのでしょう。彼らは熱心に主イエスを探し求め、教えを聞こうとしました。あれだけの奇跡をおこなわれた方です。期待が高まっていました。
しかし、どんなに奇跡の業に感激しても、主イエスの教えを実際に聞いてみると、「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」と失望した、というのです。ご自分のことを「命のパンである」とか、「私の肉を食べ、血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃる主イエスの教えは確かにわかりにくいでしょう。
この福音書を最後まで読まなければ、主イエスが何をお伝えになろうとしていたのかはわかりません。主イエスの十字架の姿、そして主イエスの復活のお姿を通して、私たちは生前主イエスが何をお教えになっていたのかが明らかにされていくのです。
この時、主イエスの教えを字面だけで理解した多くの人たちは離れ去って行きました。五つのパンと二匹の魚で主イエスに養われ、主イエスの言葉を聞いた人たちは皆ユダヤ人だったので、自分たちの先祖が出エジプトの際、荒れ野で神によって養われたことを思い出しながら主イエスの言葉を聞いていたでしょう。荒野でマナが神から与えられたように、「この方がこれから私たちにパンをくださるのではないか」、と期待したのです。
しかしこの方は、「私自身がパンである」と、意味がよくわからないことを言います。人々にとってこのイエスという人は期待外れでした。これからご自分のもとを離れていこうとする人たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなた方はこのことにつまずくのか。それでは、人の子が元いたところに上るのを見たならば・・・」
これは、「もしあなた方が私の十字架と復活をみたならばどうだろうか」ということです。もしこの群衆が主イエスの十字架と復活を見たとしたらどうだったでしょうか。その出来事がまさに自分のために起こったこととして受け止めることが出来たとしたら、彼らはどうしたでしょうか。
聖書を通して、キリストの十字架と復活を知っている私たちであっても、キリストを信じ一生従い抜く、ということは簡単なことではないでしょう。人の知恵で主イエスの教えを知ろうとしても、主イエスの十字架や復活を理解しようとしても、私たちの頭には入りきりません。
キリストの言葉は、いつでも霊の言葉です。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とおっしゃっています。私たちは聖書を読んでも普通の本を読むように簡単に理解することはできません。
しかし、聖霊の働きとしか言いようのない瞬間があります。キリストの十字架は、私のためのものでした。キリストの復活は、私たちのために用意されている永遠の命のしるしだ、と思える瞬間が与えられるのです。あれだけ頭の中で考えて来たのにわからなかった聖書の教えや出来事が、「これは自分に起こったことだ」と悟る瞬間が確かに与えられるのです。
しかしそれでも、心の高ぶりが収まるとまたキリストを疑い始めます。「心は燃えても、肉体は弱い」とキリストがおっしゃったとおりです。主イエスの言葉に隠された霊的な意味をくみ取ろうとしなかった群衆は、結局主イエスから離れて行くことになってしまいました。
私たちはここに、生と死の分かれ道を見ます。キリストに従うか、離れて行くか。命のパンをいただく歩みに向かって踏み出すか、命のパンとは無縁の生活を続けていくか。自分の理解だけに生きるか、霊の言葉を信じ、霊の働きに身をゆだねるか。
多くの弟子たちはもう主イエスのことが理解できないと言って去って行きました。ご自分のもとに残ったのははじめから従ってきた12人だけとなりました。主イエスは残った12人を試すようなことをおっしゃいます。
「あなたがたも離れていきたいか」
これは、「あなたたちは行かないのか」という言葉です。むしろ、イエス・キリストから離れて行くことの方が普通である、という前提の言葉です。
「あなた方はどこにも行かないのか」と聞かれた弟子達を代表して、ペトロが答えます。「他に誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」ペトロは主イエスのことを「メシア」として信従を表明しました。
「言っていることがよくわからない」と言って多くの人々が去って行く中で、イエス・キリストに向かって「あなたこそメシアです」と言い現し、そこに留まる弟子達。彼らはキリスト教会の姿です。
繰り返しますが、5000人の人たちをキリストが養われる奇跡から6章は始まりました。しかし6章の最後にはその5000人がキリストの下からいなくなったのです。弟子たちはまた12人に戻ったことが6章で描かれています。
5000人を養い、嵐の湖の上を歩かれた方に向かって、12人が「あなたこそメシア、神の聖者である」という真理にたどり着いた、ということ。5000人はいなくなっても、小さな信仰の群れが残った、ということ・・・このことを通して、キリストから離れるということがいかに簡単で、キリストのもとにとどまることがいかに困難であるか、ということを考えさせられるのではないでしょうか。
その小さな群れの中には、裏切り者もいました。イスカリオテのユダです。ユダは後に主イエスを引き渡す役割を演じてしまいます。
そしてここで信仰を告白したペトロも、やがて主イエスのことを知らない、と言って逃げてしまいます。他の弟子達も同じです。
これが、教会の姿です。教会はむしろ、「あなたがたも離れて行きたいか」とキリストから問われるような群れなのです。私たちにはいつでも、誘惑の力が迫ってきます。キリストが荒れ野で誘惑をお受けになったように、イスラエルが荒れ野で様々な誘惑を受けたように、教会も、今この世界で、荒野の誘惑を受けています。
イエス・キリストに対して 人々は様々に反応します。自分の王様にしようとする人、つぶやく人、不平を漏らす人、質問する人、反対する人がいました。従う人、背を向ける人、裏切る人、そしてこの方こそ命の希望であり この方の血と肉によって自分は生きると信じる人たちがいました。
私たちが今日読んだ場面は、のちの時代にも繰り返されてきたことなのです。主イエスの十字架と復活の出来事の後も、「あのイエスという人は何者だったのか」という議論は続けられました。主イエスをキリストと信じる人たちと、信じない人たち、そして一度は信じたのに離れてしまった人たち、信じないと拒絶したのに後に信仰を貫いた人たちの議論が続いたのです。
さらに、「主イエスは何者か」という議論は、キリスト教会の中でも議論されて続けて来ました。イエスこそ天から来られた神であるあるかどうか。神の言葉である律法そのものなのか。
これは今の私たちにとって他人事ではない議論です。「あなたはイエスを何者だと信じているか」と言われると、どのように答えるでしょうか。そのようにして今日の場面を読むと、実はキリストのもとから去って行く人たちがいて、残る人たちがいる、というのは、今私たちの目の前で起こっていることである、ということが分かります。 Continue reading →