ヨハネ福音書8:31~38
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
ユダヤ人の仮庵祭は水と光の祭りでした。その最後の日に主イエスはご自分こそ「命の水」であり「世の光」であると明言されました。主イエスがエルサレムで何かをおっしゃるごとに、人々は「イエスとは何者か」ということを議論しました。
今日読んだところの直前、30節を見ると「多くの人々がイエスを信じた」と書かれています。そして今日読んだはじめの所、31節で「イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と続いています。
その主イエスを信じようとする人たちにおっしゃった言葉は、こういうものでした。「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」主イエスは、誰にでもこうおっしゃったのではありません。ご自分を信じようとする人たちにおっしゃいました。
真理が私たちを自由にする、という言葉には新鮮な驚きを感じるのではないでしょうか。主イエスがおっしゃっている真理とはご自分のことです。信仰とか聖書とかいう言葉に置き換えてもいいでしょう。
普通、
「聖書の教え」とか「律法」とか「信仰」とか聞くと、私たちの生活を縛るもの、制限するもの、という風にとらえられがちです。「宗教的な戒律など、自分の自由を制限するものではないか」、と考えてしまいます。「キリストに従う、またキリストの教えに従うということは、自分らしさを押さえつけなければならないのではないか」と思うのです。
しかし、主イエスは反対のことをおっしゃいます。
「真理はあなたを自由にする」
道を求め、神のもとにある平安を求めている人には大きな希望となる言葉です。
しかし、「自分はすでに自由であり、イエスが言っている自由など必要ない」と考える人にとっては、戸惑いを感じる言葉でした。ユダヤ人たちは主イエスの言葉を聞いて不思議に思いました。「私たちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」
彼らは「自分たちは奴隷ではない、自分たちは自由だ」と考えていました。自分たちが何かから解放される必要があるなどということは考えてもいなかったのです。その理由は「自分たちがアブラハムの子孫だから」です。
「アブラハムの子孫である」という自己認識を彼らは強く持っていました。アブラハムの子孫である」ということはすなわち自由であり、何かから解放される必要はないということを意味していました。
ここでまた主イエスとユダヤ人たちの意識が食い違っています。ユダヤ人たちは自分たちは何にも縛られない自由なアブラハムの子孫であると考え、主イエスは彼らは何かに支配されているとご覧になっていました。
確かにユダヤ人たちは奴隷という身分にはなかったかもしれません。特にここに出てくるユダヤ人というのはユダヤ人の指導者たちのことなので社会的には高い地位にある人たちでした。自分たちが何かの奴隷とされているなんて言うことは考えてもいませんでした。
この時代、ユダヤ人はローマ帝国という巨大な帝国の支配下に置かれていたので「外国の支配のうちに生きている」という意味では奴隷と言えるかもしれません。しかしローマ帝国では法によって支配されその法を犯さない限りは平和に暮らすことができたのです。
だから自分たちが主イエスによって自由にされる、主イエスが自分たちを解放してくださるということがよくわかりませんでした。そもそも「私たちは自由だ」と思っていたのです。
主イエスが彼らにおっしゃったのは「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」という言葉でした。イエス・キリストはこの世は罪の支配の下にあるとご覧になっていました。この世は罪の奴隷とされている、この世は創造主である神から離れている、とご覧になっていたのです。この世を神の平和の支配の元へと連れ戻すこと、それがメシアの使命であり、主イエスが世に来られた理由でした。
キリストの使徒パウロがローマの信徒の手紙の中でこう書いています。「あなた方は罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るかどちらかなのです」
人は神の奴隷として生きるか罪の奴隷として生きるか・・・言葉を変えると、神と共に生きるか、神から離れて生きるか、どちらかだということです。
多くの人は、神から離れて生きることが自由だと感じます。宗教的な戒律に縛られたら自分の自由がなくなる、と思うでしょう。自分の支配者は自分であるべきであり、自分は誰の支配からも自由でありたい、と考えるでしょう。
しかしよく考えると、神から離れたそこに本当の自由はあるのでしょうか。私たち人間は自分自身を持て余すのです。思うようにならないことばかりです。生活も、人間関係も、気楽に気ままに生きることなどできません。人間は自分の手綱をうまくさばくことすらできない、頼りなく弱いものだと、生きていれば気付いてきます。
人間は自分で自分をどうすることもできないのです。自分ほど思い通りにならないものはありません。自分の欲望や弱さに振り回され簡単に誘惑に負けてしまう、自分の意図しないところで、誰かを気付ける・・・実は自分は罪の奴隷である罪の支配下にあるということに気づいていくのではないでしょうか。
パウロが言っている「神の奴隷」とは何でしょうか。神の恵みの支配のうちに生きるということです。そしてそれがわれわれ人間にとっての本当の自由である、ということです。
「神の奴隷として生きる」と聞くと、なんだか堅苦しくて自分の楽しみを全部脇に置いて苦行を続けないといけないようなイメージを持ってしまいますが、そうではありません。そこに本当の自分らしさがあるのだ。被造物が創造主の愛のもとに生きるというところに私たちの本当の自由と平和があるのです。
では具体的にその自由がどこにあるのでしょうか。イエス・キリストのもとにあるのです。だからキリストははっきりとここで「私の言葉にとどまりなさい。そこに真理がありその真理があなたを自由にする」とおっしゃいます。
主イエスはこの後ご自分のことを葡萄の木に例えて弟子たちにお話しなさいます。「私はぶどうの木、あなたたちはその枝である」「枝が木から離れては実を結ぶことができない」「それと同じようにあなたたちは私と離れては生きて行くことができない」
だから「わたしにつながっていなさい」とおっしゃいます。「聖書をよく勉強しなさい」ではなく、「私につながっていなさい」です。聖書の知識がどれだけたくさんあっても、律法の掟に従う生活を続けても、イエス・キリストにつながっていなければ意味がないのです。
主イエスはここで「私の言葉に留まるならば」とおっしゃっています。この「留まる」という言葉は、「つながっていなさい」というのと同じ言葉です。イエス・キリストにつながっている、というところに私たちの本当の自由があるのです。
なぜ主イエスは繰り返し「私の言葉にとどまりなさい」「私につながっていなさい」とおっしゃっているのでしょうか。イエス・キリストの弟子となるということは一度きりの点で終わる出来事ではないからです。それは一生涯にわたることであり、その一生涯の全ての瞬間において、絶えず主イエスから離れる危機が訪れるからです。
律法を重んじるユダヤ人たちにとって、律法が真理でした。理性と哲学を重んじるギリシャ人たちにとって、理性と哲学が真理でした。そして今、主イエスは、ご自分が真理である、とおっしゃいました。イエス・キリストのもとに、私たちにとって必要なすべての問いと、すべての答えがあるのです。
私たちは今、イエス・キリストのことを知っています。最初に聖書を読んで、「これは自分のための言葉だ」と思った時、喜びがあったでしょう。「キリストは確かに私を愛してくださっている」と思えた時、喜びがあったでしょう。
しかし、その喜びを持ち続ける、ということは簡単なことではないのです。何かあるとすぐに、聖書の言葉を、キリストの愛を疑います。キリストという真理にとどまり続ける、つながりつづけることは簡単ではないのです。
今日読んだところに出て来た、主イエスを信じるようになった人たちも、すぐに主イエスから離れていくことになってしまいます。少し先を読むとこの人たちが主イエスの言葉を聞いて去っていったということが書かれています。
主イエスの言葉を信じ従おうとして結局主イエスの教えをよくよく聞くと立ち去ってしまう・・・これまでと同じなのです。一度は主イエスのことを信じるけれども、結局自分の考えとは異なる主イエスの教えを聞いて、「そんなことなら信じるのをやめよう」、とみんないなくなってしまうのです。
今私たちの周りでも起こっていることです。その中で私たちは問われます。イエス・キリストは、人々がご自身から去っていくのをご覧になりながら、12弟子たちにお尋ねになりました。
「あなたがたも、離れていきたいか」
何かを、また誰かを信じようとするとき、自分に都合よく信じたいと思う私たちにとって、そのキリストからの問いかけは非常に厳しいものです。私たちを真理から引き離そうとする誘惑の力、罪の力は絶え間なく私たちを襲うのです。キリストに出会った喜びも、聖書の真理に感動した嬉しさも、時間が経って新鮮さが薄れていく中で、この世の一瞬の快楽の誘惑が常に私たちにささやいてきます。
だからこそ、私たちには聖書の言葉が必要なのです。パウロは、イスラエルが歴史の中で犯した様々な過ちによって滅んでしまった体験を、「これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです」と書いています。罪の働きを、人間の弱さを、聖書は教え、私たちの信仰に警鐘を鳴らすのだ。 Continue reading →