ヨハネ福音書9:1~7
「神の御業がこの人の現れるためである」
ここまで7章と8章には、イエス・キリストの仮庵祭でのお姿が描かれてきました。「アブラハムが生まれる前から私はある」とおっしゃった主イエスの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは石を投げつけようとしましたが、主イエスは神殿から出て身を隠されました。
今日私たちは神殿を出たところで、主イエスが一人の盲人を癒されたという場面を読みました。有名な場面です。盲人は神殿の入り口のところに座っていたのでしょう。そこは巡礼者に 物乞いをする場所でもありました。
主イエスの弟子たちはその盲人を見て、自分たちの先生に素朴な質問を投げかけた。
「この人が生まれつき目が見えないのは誰のせいですか。この人の罪ですか、その家族の罪ですか」
その弟子たちの質問に答える形で、主イエスは癒しを行われました。その際におっしゃった主イエスのお答えの言葉が、今でも広く知られているのです。
弟子たちが抱いた疑問は、弟子たちだけのものではないでしょう。当時の人たち、また今の私たちにとっても、自然に心に湧いてくる疑問ではないでしょうか。人が苦しむのは、背後に何かそれに値するほどの罪があるからではないか、と考えるのです。
悪いことをした人に何か悪いことがあったら、「あの人は悪いことの報いを受けたのだ」とすぐに思うでしょう。しかし、何の罪もない人が苦しむのを見ると、その理由を人は知りたいと思います。「なぜ何もしていない自分が」とか「なぜあんないい人が」と考えてしまうのです。
弟子たちはこの時、神殿の入り口のところで物乞いをする盲人を見て、この人にはどんな罪があるのだろうか、と主イエスに尋ねました。「こうしたら幸せになる」「こうしたら不幸になる」、という単純な原則があればわかりやすいでしょう。しかし、世の中には嫌と言うほど不条理があるのです。
理由が見いだせない不幸せがあります。そのたびに私たちはこの時の弟子たちと同じ問いを神に向かって心の中で投げかけるのではないでしょうか。
旧約聖書には、正しい人ヨブに神が苦しみをお与えになるという不思議な物語があります。ヨブ記の物語の中でヨブの友人たちは、ヨブが神に罪を犯したから苦しみがふりかかったのだ、とヨブ本人を責めます。初めの内は、ヨブは「神から苦しみをいただくのであれば甘んじて受けよう」、と従順でした。
しかし 自分に罪があると友人たちから糾弾され続けると、「そんなことはない、自分は罪を犯していない、潔白だ」と言い始めます。そしてヨブは「自分の潔白を晴らすために神と裁判で争ってもいい」、とまで言うのです。正しい人が苦しむ、という不条理について考えさせられる、人間にふりかかる苦しみの意味を問う文学作品です。
信仰者がいい人生を送って幸せになり、信仰を持たない人が悪い人生を送って不幸せになる、というのなら簡単です。しかし、そんな単純なことではないのです。自分に何か辛いことがあれば、自分は何か悪いことをしたのだろうか、と自然と考えるのが人間です。
弟子たちは物乞いをしている盲人を見て、この人の罪を見出そうとしました。
「この人が罪を犯したからですか?」と尋ねます。
それに対する主イエスのお答えはこうでした。
「神の御業がこの人の現れるためである」
弟子たちがこの盲人に見出そうとしたのは、この人の罪でした。しかし主イエスは、その盲人を、神の御業が現れる器としてご覧になっていたのです。
仮庵の祭りの中でキリストはご自分のことを「私は世の光りである」とおっしゃいました。その言葉の通り、主イエスはこの盲人の目を開かれ、光をお与えになります。闇の中を生きていた人がキリストに出会って、光を知り、自分が従い進むべき道を見出していく、という信仰の出来事がこの後起こっていきます。
イエス・キリストがなぜこの自分に出会ってくださったのか、ということを改めて考えさせられる癒しの出来事だと思います。
「キリストはなぜこの私に出会ってくださったのか」
清いキリストにふさわしい、罪とは無縁の人間だったからでしょうか。そうではないでしょう。そこには、確かにイエス・キリストの選びがあったのです。
使徒パウロは、コリント教会への手紙の中でこう書いています。
「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。・・・私たちは、このような宝を土の器に収めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。・・・私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」
キリスト者は、あの神の創造の光を収める土の器だ、とパウロは言います。土の器というのは、日々の生活の中で普段使いする器です。特別な日にだけ使われる高級品ではありません。普段使いの中で酷使される、日用品です。その日用品の器の中に、神はご自身の栄光を入れて、世に運ばれるのです。
パウロ自身、キリストに召された時に目が見えなくなりました。しかし、洗礼を受けて、目からうろこのようなものが落ちて、再び光を得ました。はっきり言って、私たちは自分がなぜキリスト者とされたのか、理由はわからないのではないでしょうか。誰からも尊敬される、社会的な影響力がある人だけが選ばれるというのであればわかります。
しかし、パウロは手紙の中で神は「世の無力な人を選ばれた」と書き残しています。そして、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」とも書いているのです。
「思いあがることのないようにと、私の身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、私を痛めつけるために、サタンから贈られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるよういに、私は三度主に願いました。すると主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」
あれだけ大きな宣教の足跡を残したパウロであっても、自分がなぜキリストに選ばれたのか、理由を見いだせませんでした。なぜこんな自分が、という思いがずっとあったのです。ただ、神の恵みがあって、パウロの弱さが神によって用いられる、ということだけを彼は知っていました。そしてそれだけで信仰者には十分なのです。
主イエスは神殿から出たところにいた一人の盲人を癒されました。「神の御業がこの人の上に現れる」という言葉の通り、救いが現実のものとなりました。旧約聖書では、神が世にいらっしゃる時、「目の見えないものの目が開かれる」という預言がいつくも残されています。
詩篇146編 8~9節
「主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は気流の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。」
イザヤ書29章18節
「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び岩井、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」 Continue reading →