ヨハネ福音書8:48~59
「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」
エルサレムでの仮庵の祭の最後の場面です。仮庵祭の中で主イエスはご自身のことを「命の水」「世の光」であると宣言されました。それを聞いたユダヤ人たちは「ナザレのイエスは何者か」、ということを議論しました。さらに、「イエスの権威はどこから来ているのか」「イエスの目的は何か」、ということも考えさせられました。
主イエスご自身は「天の父が私を世に遣わされたのだ」とおっしゃいます。つまり、神が主イエスを天からこの世に遣わされたということです。主イエスが行われる様々な奇跡のしるしを見た人たち、語られる聖書の教えを聞いたエルサレムの人たちの一部はそれを信じました。
しかし主イエスのおっしゃることを信じなかった人たちは殺意を抱きました。主イエスは彼らの殺意を見抜き、彼らの父がアブラハムでも神でもなく、悪魔であると痛烈に非難されました。
当然ユダヤ人たちは主イエスが自分たちの父のことを悪魔と言ったことに対して反応します。それが、今日私たちが読んだ場面です。
反対者たちから3つの質問がされました。
「あなたはサマリア人で、悪霊に取りつかれているのではないか」
「私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。一体あなたはあなた自身を何者だと思っているのか」
「あなたはまだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」
彼らは主イエスのことを「サマリア人」と呼び「悪霊に取りつかれている」と言いました。「サマリア人」と呼んだのは、律法を正しく理解していない、正しい信仰をもっていない、という悪口です。
主イエスは冷静にお答えになっています。「私は悪霊に取りつかれてはいない。私は父を重んじているのに、あなたたちは私を重んじない」「私の栄光を求め、裁きをなさる方が、他におられる」
他の福音書に、こういう出来事が書かれています。悪霊を追い出される主イエスに向かって、「あの人は悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出している」という人がいました。ナザレのイエスは確かに悪霊を追い出す力を持っているが、その力の源は、悪霊の力だ、と言うのです。
しかし、主イエスは「悪霊の力で悪霊を追い出すということがあろうか」とお答えになりました。そして、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて許される。しかし、聖霊を冒涜するものは永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」とおっしゃいました。
人は、誰かが不思議な業を行うのを見ると、その業を行う力の源を知りたがります。その力の源がいいものなのか、悪いものなのか、ということを知りたがるのです。いろんなしるしを行われる主イエスを見て、人々は主イエスの力の源が神からのものか、悪霊からのものか、知りたがりました。そしてある人たちは、イエスは悪霊の力で奇跡を行っていると考えたのです。
しかし主イエスがおっしゃるように、悪霊の力で悪霊を追い出すということはおかしな話です。主イエスは警告されました。「人間が犯す罪は、許される。しかし、人の罪を許す聖霊を冒涜すれば、許しは一体どこにあるというのか。」
確かにそうでしょう。今、主イエスのことをユダヤ人たちは悪霊呼ばわりしました。自分たちが自分たちの罪のために命を投げ出そうとしてくださっている神の子を悪霊呼ばわりして、罪の許しを自ら遠ざけようとしていることに気づいていません。そしてそれがどんなに愚かなことであるのかも見えていないのです。
主イエスはご自分のことを「命のパン」「命の水」「命の光」として世に示されました。ご自分のもとに罪の許しが、永遠の命があるからです。だから主イエスはおっしゃる。
「私の言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」
どこに罪の許しがあるのかを示されています。それは主イエスご自身のもとにあるのです。だから、この方はキリストと呼ばれるのです。
しかし主イエスのこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした」と言いました。アブラハムや、預言者といった偉大な信仰者たちも、皆、死んだのに、自分の言葉を守る人は死なないなどとイエスは言うからです。
「私たちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。・・・一体あなたは自分を何者だと思っているのか」
彼らはもうついていけなくなってきました。人が死なないなんてことがあるのか、というのが彼らの考えです。当然だろう
しかし主イエスはおっしゃいます。「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」
アブラハムは創世記15章で神から言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」
夜空を見上げて満天の星を見たアブラハムは、神の祝福の大きさに息をのんだでしょう。
主イエスはご自分がアブラハムよりも偉大な者であるということを否定されませんでした。それどことか、アブラハムはご自分のことを待ち焦がれていた、とおっしゃいます。
これまでも、「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい」とか、「私は世の光である」とおっしゃってきました。ユダヤ人たちは、まるで自分が神であるかのように話をするナザレのイエスを赦せませんでした。
だから彼らは問いただします。
「あなたは、まだ50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」
すると主イエスは「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」とおっしゃった。自分がアブラハムより前にいた、ということ、そして「わたしはある」という言い方に、ユダヤ人たちは怒りました。「わたしはある」というのは、モーセが神に名前を尋ねた時に神がお答えになった言葉です。
アブラハムは創世記に出てくる、信仰の父と呼ばれている人です。そのアブラハムよりも自分は偉大で、アブラハムよりも前に「わたしはある」などと言うのは、自分のことを神のように考えているとしか思えません。神を自称することは神への冒涜でした。自分自身を神とし、まことの神を冒涜したという罪を彼らは見出しました。ユダヤ人たちはこれを聞いて、主イエスに石を投げつけようとしました。
主イエスはその場を立ち去られました。「イエスは身を隠して、神殿の境内から出ていかれた」と書かれています。仮庵祭の中でご自分を晒し、真理を示して、あとは神殿から身を隠されたのです。
人々に大きな問いを残して、主イエスはその場を去って行かれました。あとに残された人たちは、主イエスが仮庵祭の間、神殿でおっしゃった言葉を心に刻み、主イエスの業や言葉の意味を考えさせられることになりました。
私たちは、この仮庵祭の場面を通して、世の人々がどれだけ世に来られた光・世に与えられた言葉に対して無理解だったか、ということを知ります。
ナザレのイエスがアブラハムよりも年上であるなどということは、当然誰も信じられませんでした。それが普通でしょう。しかしその中にあって、この方には否定しきれない神の権威がありました。
主イエスは、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」とおっしゃいました。もし人々がアブラハムの子、信仰の子であるなら、彼らは主イエスが誰であるか分かったはずです。 Continue reading →