ヨハネ福音書13:12~20
イエス・キリストと弟子達の最後の時間を読んでいます。それは「過越祭の前」のこと、つまりキリストの十字架の前の晩のことでした。キリストは弟子達のために上着を脱ぎ、手拭いをとって腰にまとわれ、たらいに水を汲んで、弟子達の足を洗われました。
ヨハネ福音書に記録されているこの夜の様子は、他のマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書とはずいぶん違っています。私たちがよく知っているのは、最後の晩餐の席で、イエス・キリストがパンと葡萄酒をとって、「これは私の体である、これは私の血である」弟子達におっしゃって手渡された、現在の聖餐式の原型となった食卓の光景です。
しかしヨハネ福音書は、そのことよりも、キリストが弟子達の足を洗われたということに焦点を当てて、キリストが最後の夜に弟子達にこのように僕として仕える姿勢を示されたことを描いているのです。
ヨハネ福音書では、6章全体を通してイエス・キリストが、ご自分が天からのパンであり、命の水であることを示された出来事が書かれています。「私の肉を食べ、私の血を飲むものは、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる」と群衆に語りかけていらっしゃいます。4つの福音書の内ヨハネ福音書だけ、キリストがご自分の体と血を人々に差し出される様子の描き方が全く違っているのです。
なぜこのような描き方をしているのでしょうか。少し、福音書の成り立ちについて解説を加えておきたいと思います。ヨハネ福音書は、他の三つの福音書よりも、10~20年、後に書かれたと考えられています。
つまり、ヨハネ福音書を最初に読んでいたのは、イエス・キリストが最後の晩餐の席でパンと葡萄酒をご自分の体と血として弟子達にお与えになり、ご自分の救いの御業を思い出すように、とお命じになっていたことをすでに知っていた人たちでした。
他の福音書ですでに知っていた人たちのために、さらにヨハネ福音書は書かれた、と言っていいでしょう。だから、マタイ、マルコ、ルカの福音書と重複する内容はとても少なくて、ヨハネ福音書独自の内容が描かれているのです。
ヨハネ福音書は、他の福音書とは異なる文体、異なる視点、異なる強調点で書かれています。他の三つの福音書とは違い、ヨハネ福音書は、ご自分が逮捕される最後の夜、弟子達の足を洗い、最後の晩餐を共にし、弟子達に最後の教えを残し、弟子達のためこの世のためにとりなしの祈りを捧げるイエス・キリストのお姿を非常に多くの文字を費やして描いています。最後に弟子達と過ごされる最後の時間の様子は、13章から17章にかけて長々と書かれているのです。
主イエスの最後の夜のヨハネ福音書の強調点はどこにあるのでしょうか。他の三つの福音書は、弟子達にパンと葡萄酒を配って、ご自分の体と血の象徴として思い出すようお命じになったことを描いています。
ヨハネ福音書は、弟子達に、最後の瞬間までこの世に徹底的に仕える、僕としてのイエス・キリストのお姿を我々に描き出そうとしています。私たちは、キリストに従う者としてどのような姿勢で生きていけばいいのか、ということを示されるのです。
ご自分の十字架を前にして、キリストは弟子達の足を洗われました。驚く弟子達に、質問されます。「私があなたがたにしたことがわかるか」
これまでキリストは多くのしるしを行い、人々を驚かせて来られました。皆、そのしるしの意味を知りたがりました。キリストはご自分が行われた御業の意味を細かく説明はなさいませんでした。しかしここでは、キリストは弟子達の足を洗ったことの意味を問うていらっしゃいます。
「私があなたがたにしたことが分かるか」
キリストがこの晩弟子達になさったことは、まさに「しるし」なのです。神の御業の奇跡なのです。それは神が人の足元にひざまずき、自らの手で洗われたという信じがたい奇跡でした。単に、弟子達との最後の時だから何か心に残るようなことをして感動させようとしたというのではありません。
主イエスは弟子達の足を洗われたことを、しるしとして、弟子達がどう理解したか、そしてどう理解すべきなのか、ということをここで説明されます。
主イエスが否定されるのは、弟子達が互いの上に立とうとすることでした。ご自分の十字架の後、弟子達が愚かな権力争いを始めることほどくだらないことはありません。しかし実際、人間はそのようなことに終始するのです。
他の福音書でも、弟子達が「我々の中で一番偉いのは誰か」という議論をしたということが書かれています。キリストの弟子達がそうなのですから、私たちだってこのような思いを抱かないということはないでしょう。
主イエスはおっしゃいます。「主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあわなければならない。」
弟子達が「キリストの弟子」なのであれば、彼らはキリストがなさったことに倣い、キリストが生きたように、生きることになります。先生が弟子の足を洗うということは、先生が弟子の僕となって仕えた、ということでした。上に立って満足を覚えることではありません。それがキリストの模範でした。
私たちは、イエス・キリストを文字通り「キリスト・救い主」として、生きています。そうであるなら、我々が主イエスを超えるとか、他のキリスト者よりも一段高い位置に居座るとかいうことはあり得ないのです。
7:48に、ファリサイ派の人たちが、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言ったことが書かれています。主イエスの教えに耳を傾ける群衆のことをそう言ったのです。ファリサイ派の人たちは、群衆よりも、主イエスよりも、自分たちの方が偉いと考えました。律法のことは自分たちの方がよく知っている、と。
9 Continue reading →