MIYAKEJIMA CHURCH

10月5日の礼拝案内

 次週 礼拝(10月5日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書16:8~15

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番53番、191番、294番、頌栄540

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

9月28日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:8~15

イエス・キリストの最後の夜、弟子たちは確かにキリストから告別の言葉を受けました。はっきりと何度も「私は去ってゆく」とキリストがおっしゃるのを聞きました。

弟子たちは、「先生はどこに行かれるのだろうか」「自分たちは先生と一緒のところに行くことができないのだろうか」と考えました。そして弟子たちが一番恐れたのは、「先生がいなくなった後、自分たちはどうなるのだろうか」ということだったでしょう。

その不安を抱えていた弟子たちに、キリストは「実を言うと私が去っていくのはあなた方のためになる」とおっしゃいます。キリストが弟子たちの元から去っていかれた後、天からの弁護者が送られる、つまり聖霊が注がれることになる、「だからそれはいいことなのだ」とおっしゃいます。

今日私たちはイエス・キリストがこの世を去られたあと遣わされる聖霊の働きについて語られているところを読みました。

「その方が来れば」、つまり聖霊が来れば、罪について、義について、また裁きについての誤りを明らかにするとおっしゃっています。

私たちはこの言葉を通して、聖霊の働きについて教えられることになります。キリストはご自分がいらっしゃらなくなった後、この世は2種類の人に分けられることをおっしゃいました。

ぶどうの枝が幹につながっているように、イエス・キリストにつながりキリストに従って生きる人たち。そして、キリストにつながることをせずキリストを信じる人たちに敵対する人たちです。

イエス・キリストがここで語っていらっしゃる聖霊の働きを読んで面白いのは、聖霊は信仰者だけでなく、信仰者を迫害する人たちに対しても働きかけていくということなのです。

私たちは考えたいと思います。

聖霊が来て、この世の罪について、義について、裁きについて誤りを明らかにしてくださるのであれば、もう安心だ、と弟子たちは思えたでしょうか。私たち自身、聖霊によって罪や義や裁きを明らかにされると聞いて、単純に喜べるでしょうか。

手放しには喜べないと思います。聖霊の裁きの内側に、私たちの罪、私たちの義も置かれるからです。洗礼を受けていない人たちに聖霊の裁きは向かう、というのであれば、少しは安心できるかもしれません。

しかし、聖霊が世に与えられ、その聖霊は自分にも向かってくると言われているのです。

普通は、「信仰を通して自分には聖霊が与えられる」、と聞けば、信仰を持つことによって聖霊が自分を悩みや苦しみを引き離してくれるのではないか、楽な生き方が与えられるのではないか、と期待するのではないでしょうか。信仰者だけに働きかけて、信仰者だけを導いて、いつも笑顔でいられるようにしてくださる、ということを期待し、願うのではないでしょうか。

しかし、それは違うのです。

聖霊は信仰を持っている・持っていないにかかわらず、世の全ての人に自分の罪に向き合うことを求めるのです。神と自分の関係が本当に正しい状態にあるかどうかを突きつけるのです。そして、あなたも、キリストを十字架に上げたあの群衆の中にいたのだ、と気づかせるのです。

キリストがおっしゃる聖霊の働きに、私たちはむしろ緊張するのではないでしょうか。自分の罪について、義について、裁きについて、誤りが明らかにされるというのであれば、私たちのうち一体誰がキリストの前に立たされた時、顔を上げることができるでしょうか。

聖霊の働きとは、まず、私たちを断罪するところから始まるのです。そしてそうやって、イエス・キリストを見たことのない人たち、その十字架も復活も知らない人たちに、どこに許しがあるのかを示し、信仰の入り口の前に立たせるのです。

弟子達はこの夜、「先生がおっしゃっていることが理解できない」、と心の中で思っていたでしょう。

キリストもそのことはご存じでした。だからおっしゃるのです。

「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」

面白い言葉ではないでしょうか。そして、とても大切な言葉だと思います。弟子たちは今、理解できていない。それにもかかわらず、キリストは語り続けて行かれます。しかしそれでいいのです。

今の無理解の中にあってもキリストの言葉は与えられ、その無理解の先には、聖霊が全てを悟らせてくださる時が備えられている。そのこと知っているだけでいい、それが大事なのです。

「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」

この夜、弟子達が学ばなければならなかったのは、聖霊に対する希望でした。すべて理解する必要はない。ただ、希望がある、ということだけを知っていればいいのです。そして後になって、「あの時キリストがおっしゃったことは、これだったのか」と感謝の祈りを捧げればいいのです。

「自分たちの先生がこれから去って行かれることは、すべての終わりではない。逆に、自分たちは今から何か新しいことの始まりに立ち会おうとしている」、このことを知っていればよかったのです。

目の前から先生がいなくなれば信仰の終わり、ということではありませんでした。私たちにとっても、自分にはキリストの姿が見えないから希望が見えない、ということではないのです。

聖霊を通してイエス・キリストと共に生きる道へと導き入れられるのです。そして、弟子達は、また私たち信仰者は、聖霊を通してイエス・キリストの御業を行っていくことになるのです。

信仰の終わりなどというものは無いのです。信仰の希望に壁はないのです。常に、神が、聖霊を通して、信仰者には見えない、一歩先で何かを見せようと用意してくださっています。

思えば、不思議ではないでしょうか。教会は、今でもイエス・キリストの体としてキリストの御心をこの世で行っていこうとします。世代が替わってもそのことは変わりません。決して楽な歩みではありません。礼拝ごとに新しくキリスト者の人数が増えていく、などという単純なものではありません。むしろ、逆風を感じることのほうが多いでしょう。

この夜、キリストの言葉を聞いた弟子たちは、もう今は生きていません。イエス・キリストの十字架と復活という出来事を実際に見た人たちも、はるか昔に死にました。弟子達からキリストについての証言を直接聞いた人たちももういないのです。

それでも、キリスト教会はここまで2000年、立ち続けてきました。その時代、その時代のキリスト者たちの努力もありましたがそれ以上に、人々をキリストへと導き、人々をキリストの体である教会へとつなぎ留め、キリストの業を行わせてきた聖霊の働きがあったからです。

キリスト者が希望を見失いかけた時でも、聖霊は見えないところで動き続けていました。

私たちが聖書を読んでいて、一番よくわからないのが、「聖霊の働き」というものではないでしょうか。私たちの理解や常識を超えた働きを感じた時、「聖霊の働き」としか呼べないものを感じます。

しかし、ここでは、キリストははっきりと、聖霊が何をするのか、おっしゃっています。

「罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」

まず、聖霊が明らかにする「世の罪」とは何でしょうか。この「罪」という言葉は、「過ち」とか「犯罪」という意味もありますが、ここでは霊的な意味で、神に対する罪を指しています。人に対して犯した犯罪・悪事ではなく、神に背を向けること、神を知らないこと、神から離れていることです。

キリストは、ご自分に詰め寄ってくるユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたたちのうち一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属するものは。神の言葉を聞く」 Continue reading

9月7日の礼拝案内

次週 礼拝(9月7日)】

 招詞:詩編100:1b~3

 聖書:ヨハネ福音書16:8~15

 交読文:詩編19:8~11

讃美歌:讃詠546番52番、222番、505番、頌栄540

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇9月21日 田園調布教会の方々が訪問してくださいます。

【牧師予定】

◇毎週土曜日は牧師駐在日となっています。10時~17時までおりますので、お気軽にお越しください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日  Continue reading

8月31日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:1~7

告別の言葉を通して、イエス・キリストは弟子たちに、「私とあなたがたは確かにこれから離ればなれになってしまうけれども、大丈夫だ」と、別れに備えるようおっしゃいます。その別れも、神のご計画の内にあることをお伝えになるのです。キリストと弟子達が離れ離れになっても、弁護者、つまり聖霊が与えられるので、この別れはいいことなのだ、と前もって示されています。

この弟子達への言葉はキリスト教会への言葉、つまり私たちへの言葉でもあります。キリストが自分の目の前に見えないからと言って嘆く必要はありません。聖霊を通してブドウの枝と幹がつながっているように、キリストと信仰者は強く結びつけられ続けるのです。

しかしキリストは、「私がいなくなっても大丈夫だ」と言いながらも、ご自分がいなくなった後、弟子たちを襲うであろう迫害を予告されます。

「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」

キリストに従う私たちの信仰生活は、逆風とは無縁のものではありません。逆風は変わらず吹くのです。イエス・キリストに対して、この世からの逆風が吹いたように、弟子達にも、キリスト教会にも、この後逆風は吹くのです。

それではなぜキリストは「大丈夫だ」「あなた方と別れるのはいいことだ」とおっしゃるのでしょうか。

その逆風の中にあっても、キリストが共にいてくださっているからです。逆風がなくなるのではなく、キリストと一緒に逆風の中を進むことができる、ということが、信仰の強さなのです。

マタイ福音書の10章で、キリストはこうおっしゃっています。

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。・・・私よりも父や母を愛する者は、私に相応しくない。・・・自分の十字架を担って私に従わないものは、私に相応しくない」

非常に厳しい言葉です。家族などどうでもいい、ということでしょうか。そうではありません。キリストを第一に求めることの先に、本当の家族の平和、この世の平和がある、ということでしょう。

キリストは、これから大きな分裂が起こる、とおっしゃいます。この世が、分裂するのです。ナザレのイエスをキリストと信じ従う人たちと、信じない人たち。キリストを愛する人たちと、キリストに敵対する人たちに分かれるのです。ぶどうの枝が幹につながっているようにイエス・キリストと神の愛につながろうとする人たちを、枝を折り焼き払うように迫害する人たちに分かれるのです。

キリスト者は一世紀、ローマ帝国の異邦人、異教徒たちからの迫害だけではなく、同じユダヤ人たちからも迫害されることになりました。キリストは弟子達と過ごす最後の夜、これから弟子たちに起こることを繰り返し話してお聞かせになりました。

主イエスと弟子たちがなぜ離れ離れになってしまうのか、ということ。

主イエスはなぜ十字架の上で死ななければならないのか、ということ。

主イエスの十字架の死がすべての終わりではないのか、ということ。

主イエスの死が弟子たちにとっての信仰の終わりではい、ということ。

むしろ弟子たちの本当の信仰はそこから始まることになる、ということ。

これらのことをこの夜、事前に伝えようとなさったのです。主イエスの言葉は、13章から17章にいたるまで、記録されています。膨大な量です。弟子たちにつまずかせないために、力を込めて多くの言葉を語られました。

「つまずく」という言葉が聖書の中ではよく使われています。信じられないこと、信じることをやめることのことを、「つまずく」という言葉で表現されています。いつの時代でも、迫害や嫌がらせを受けてキリストに従うことをやめる人たちがたくさんいました。だから聖書が書かれたのです。信仰の苦難や迫害の中でつまずく人たちがたくさんいて、その人たちを励まそうとしてこの聖書は書かれました。

新約聖書の中には使徒パウロの手紙がたくさん入っています。このパウロ自身も、教会の迫害者でした。パウロは、ガラテヤの諸教会にこう書いています。

「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し滅ぼそうとしていました」ガラテヤ1:13

キリストはここで、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と弟子達におっしゃっています。まさに、パウロがそうでした。

フィリピの教会への手紙の中で彼はこう書いています。

「私は・・・イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の破壊者、律法の儀については非の打ち所のない者でした」フィリピ3:6

パウロは教会を迫害し、キリスト者を逮捕しながら、自分は神のために正しいことをしている、と考えていました。

使徒言行録を見ても、キリストの使徒ステファノの殉教、キリストの兄弟ヤコブの殉教が記録されています。使徒たちだけでなく、多くのキリスト者が、様々な迫害を受けたことが分かります。

キリストの復活を信じなかった人たちは、キリスト教会の人々を迫害し始めました。そして皮肉にも彼らはキリスト者を迫害することが神のためになると思っていました。

しかし、そのキリスト教会の痛みを通して、人々は変えられていったのです。なぜイエス・キリストは、キリストとして受け入れられなかったのでしょうか。なぜキリスト教会は迫害されたのでしょうか。

以前大祭司カイアファがこう言ったことがあります。

「1人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」11:50

ローマ帝国を刺激するよりはナザレのイエスを犠牲にして騒ぎを起こすことなく、穏便に祭りを済ませた方が良いというカイアファの言葉です。

私たちは考えます。「なぜ、イエス・キリストは死ななければならなかったのか。神は、全能の神なのだから、もっと簡単に、一瞬で世のすべての人の心をご自分に向けることがおできになるのではないのか。」

しかし、神は私たちの心を強制的に支配するのではなく、全ての人が自分の自由意思で神を求めるように、この世にご自分の愛を示されました。

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とキリストはおっしゃいました。神の独り子を世にお与えになるほどの愛を世に示されたのです。そしてその通りになるのです。

この方が十字架で殺された後、復活され、弟子達に聖霊が注がれて、弟子達はキリストの十字架の意味を知りました。それは、自分たちの罪をあの方が十字架で担ってくださった、ということでした。そこに罪の許しがあり、またキリストの復活を通して、永遠の命の希望を示されたのです。

キリストの復活の後、弟子達の宣教活動によって、エルサレムの多くの人たちがキリストを信じるようになった。ナザレのイエスとは何者だったのか、また自分たちがそのナザレのイエスに対して何をしてしまったのかを知ったからです。

人々は自分の罪の重さを知り、同時に、その罪を赦していただいたという恵みを知って打たれたのです。人々は、自分の意思でイエス・キリストへと立ち返っていきました。

イエス・キリストという一粒の麦が、地に落ちて死に、そこから多くの実が結ばれていったのです。キリストを信じるようになった人たちも、一人ひとりが、一粒の麦となり、また次の実りのために自分の生涯をささげるようになっていきました。 Continue reading