ヨハネ福音書17:13~19
イエス・キリストの最後の執り成しの祈りを読んでいます。
キリストがこの世を去って行かれると、キリストを拒絶する人たちとキリストを受け入れる人たちに分かれることになる、ということ、また、弟子たちをはじめ、イエス・キリストを受け入れ信じる人たちは、キリストを信じようとしない人たちから憎まれることになる、ということが、祈りの中で言われています。
キリストはこの祈りの中で、ご自分に従う人たちとのつながりを願い求めていらっしゃいます。キリストがこの後十字架で殺されても、弟子たちとのつながりはなくならないように。弟子たちがキリストの道を歩むようになり、キリストがそうであられたように、世から迫害され憎まれても、守られるように。
イエス・キリストは、弟子たちが自分たちを迫害してくる「この世」から離れたり、迫害が無くなったりすることを祈られておられるのではありません。弟子たちがこの世に留まり、迫害の中にあっても神の守りがあることを願っていらっしゃるのです。
キリストが弟子たちにお教えになった「主の祈り」の中に、「我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉があります。私たちがキリストからいただいた祈りは、「誘惑のないところ・悪のないところに生きる」ことではなく、「誘惑と悪に負けない」ことを願うのです。
弟子たちは「この世に属していない」、とキリストはおっしゃいます。しかし、弟子たちが生きるのは、この世のただ中なのです。この言葉遣いに注意したいと思います。弟子たち・信仰者は、「この世の中に生きながら、この世のものとはならない」のです。キリスト教会は、この世にあるが、この世には染まらない・・・そのような信仰の群れなのです。
私たちが生きるこの世は、誘惑にあふれています。「誘惑」というのは、私たちを神から引き離す力です。聖書はその力を「罪」と呼んでいます。罪は、神など信じることなく生きる道をいくらでも示してきます。信仰者をいろんな方向に導こうとして「神など信じることなく、この道を行けば、もっと自由になれるじゃないか」、という誘惑です。
私たちには、「この世」で迫害があるのなら、「この世」から離れて、「この世」と無関係に生きる道だってあるでしょう。「キリスト者が、信仰ゆえに苦しめられるのであれば、苦しめてくる相手と距離を取ればいい」、そう考えるのではないでしょうか。信仰者だけが集まって、閉鎖的に排他的に生きればいいではないか、という考え方もあるでしょう。
反対に、「この世」に迎合する、というやり方もあります。自分たちの信仰を攻撃してくる人たち、イエス・キリストのお名前を受け入れない人たちがいるのなら、その人たちと同じになる、ということです。そうすれば、もう信仰ゆえの迫害を受けなくて済むようになるのです。この世の楽しみを、キリストを知らない人たちと同じように楽しむ、という道です。
パウロの手紙に、「食べたり飲んだり仕様ではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という、死者の復活を信じない人たちの言葉があります。パウロは、それを受けて、「悪い付き合いは、良い習慣を台無しにする」と書いています。
しかし、イエス・キリストは私たちにそのようなことを望まれたのではないのです。私たちには、様々な誘惑があります。主イエスがそうであったように、私たちも、世にありながら、世に属してはいないのです。
神の言は、この世を照らす光でした。キリストは、おっしゃいます。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」
明らかな誘惑が教会にも、クリスチャン個人にも与えられます。この世と自分を切り離そうとする力、もしくは、自分を世と同化させようとする力は働いています。
しかし信仰者は、キリストの光に照らされて、この世の中で、隠れることができないのです。この世に来た光に、この世の暗闇は勝てないということを、私たちは身をもって示していくのです。だから、キリスト者は世の中にとどまって生きることが求められているのです。キリストはその私たちのために、その最期の時間を執り成しの祈りに使ってくださいました。
キリストはご自分の弟子たちを、また弟子たちに続いてきたキリスト教会の信仰者たちのためにこう祈られます。
「真理によって、彼らを聖なる者としてください」
「聖なる者」というのは、「区別された者」という意味の言葉です。神のためにこの世から特別に区別された者、ということです。
旧約聖書を見ると、祭司・預言者・王が神によって聖別されていったことが記されています。彼らが選ばれたのは自分たち自身のこの世の栄光のためではありませんでした。その人たちはこの世の栄光ではなく、ただ神の御計画のために働くためにこの世から区別されたのです。
預言者エレミヤが神に召された時、このように声をかけられました。
「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別して、諸国民の預言者として立てた」
当時まだ二十歳前後だったエレミヤは答えます。
「ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」
エレミヤは神によって聖別されたことを恐れました。自分にはできない。若く、経験もなく、語る言葉も蓄えていないことをよくわきまえていたのです。
しかし、神はおっしゃいました。
「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」
エレミヤが神によって聖別されたのは、エレミヤが優秀で、素晴らしいことをしたそのご褒美としてではありませんでした。なぜ預言者に選ばれたのか。その選びの理由はわかりません。ただ、神はエレミヤにお決めになっていた、ということでした。エレミヤがどうあがこうが、嫌がろうが、神はエレミヤを召し出されたのです。
エレミヤが預言者として聖別されたのは、この世での幸せのためではありませんでした。ただ、神の御心のために働くため、ただ、神の言葉を人々に伝えるためでした。エレミヤが若者にすぎなくても、言葉をもっていなくても、彼は神の器として、その時その時語るべき言葉が神から与えられることになっていたのです。
エレミヤは預言者として苦しみました。神の言葉を伝えても、人々は自分を馬鹿にするのです。エレミヤがどれほど苦しんだか、彼は告白しています。
「主の言葉のゆえに、私は一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上ります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。私の負けです。」
エレミヤは神に訴えました。「もう無理です」。それでも自分の体の内から神の言葉がわきあがってきて、押さえつけられず「私の負けです」、と自分に与えられた使命を果たす道を歩み続けました。
エレミヤは、敵国バビロンに降伏するよう訴えると、売国奴として捕らえられてしまいます。バビロンが攻めて来てもう国の滅びが決定的になったとき、エレミヤはこれまでとは全く違う、「バビロン捕囚の先にある解放」という、救いの預言をすることを求められました。
彼はバビロンにエルサレムが滅ぼされるのを見ました。そして、エジプトに行って再起を図ろうとする人たちに無理やりエジプトまで連れて行かれてしまいます。エレミヤは、そこで偶像礼拝を始めた人たちを非難しなければなりませんでした。
イスラエルの偶像礼拝の罪を糾弾し、イスラエルの滅びを預言しなければならなかったエレミヤの預言者としての40年は、どれほど辛かったでしょうか。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれています。
神に聖別される、ということは、こういうことなのです。神から特別に地上の栄光を与えられて人々からの尊敬を受けるようなことではありません。ただ、神の御用のために、この地上から区別される、ということです。
主イエスはこの祈りの中で、弟子たちが聖別されるようにと願われました。つまりそのことは、キリスト教会である私たちも、この世から聖別されることを願われた、ということでもあります。
預言者エレミヤのように、神のために自分を差し出す中で、涙を流さなければならないこともあるかもしれない。キリストはその一歩のために、執り成して祈って下さるのです。
教会の迫害者であったパウロが、キリストの使徒として選び出される際、神はおっしゃいました。 Continue reading