MIYAKEJIMA CHURCH

8月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:32~39

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」

イエスは仮庵祭りの最中、エルサレム神殿の境内で人々にお教えになりました。人々は主イエスの教えに対して、そして主イエスご自身に対して、様々な反応を示します。

7:30~31を見ると、「人々はイエスを捕えようとしたが、手をかける者はいなかった」「群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、『メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか』と言った」と書かれています。主イエスを逮捕しようとする人たちもいたし、信じようとする人たちもいたのです。

ファリサイ派の人たちはこのような群衆のささやきを聞いて、ナザレのイエスのことをメシアとして認め始めている人たちが多くいることを知り、危機感を覚えました。そして祭司長たちと一緒に、ナザレのイエスを捕えるための下役たちを遣わしました。

私たちはまず、ファリサイ派と祭司長たちが「一緒に」そうした、ということに注目したいと思います。ファリサイ派と祭司長たちは、共にユダヤの最高法院の構成員でしたが、親密な仲間同士ではありませんでした。派閥が違うし、身分が違うのです。

ファリサイ派は、集会所の礼拝で律法を学ぶことに重きを置き、生活の中で律法の掟を実践することを大切にしていました。祭司長たちは神殿で活動し、生贄を捧げる儀式に責任を持っていました。律法や神殿のとらえ方や教えの重点が異なっていたので、普段から親密な関係にあった、ということはなかったでしょう。

祭司長たちは神殿の秩序を乱す者として、ファリサイ派の人たちは律法の教えを冒涜する者として、ナザレのイエスの存在に危機感を抱き、共通の敵と見なして手を組んで捕えようとしたのです。

人は、普段は仲が良くなくても、共通の敵を見つけると仲良くなれてしまいます。キリストを前にしたユダヤ人たちがそうでした。ナザレのイエスを殺すために、派閥を超えて一致していきました。そして最高法院にいるファリサイ派、サドカイ派、祭司長たちは、派閥を超えて一致して、イエスに有罪を宣告することになります。

これは、歴史の中で繰り返されてきたことでもあります。ユダヤ人たちだけのことではなく、嘆かわしいことですが、キリスト教会の歴史の中でもそういうことがありました。また今の私たちの世界においてもそうでしょう。普段は敵対するもの同士が、自分たちの立場を脅かす新しい動きに対して、一緒に対応できるようになるのです。

しかし人間の歴史を振り返ると、そのような人間の愚かさの中にあっても神の御業は行われていったことを思わされるのではないでしょうか。

主イエスの十字架の後、イエスをメシアと認めないユダヤ人と、主イエスこそキリストであったと信じるユダヤ人に分かれることになります。キリスト教会を迫害するユダヤ人と、キリスト者として迫害されるユダヤ人に分かれました。

そのような中で迫害者の中からサウロが主イエスによって召され、使徒パウロとしてキリスト教会のために大きな働きを残すことになりました。キリストの迫害者の中から新たなキリスト者が召されてくるというのは、不思議なことではないでしょうか。不思議な仕方で神はご自分の御心をこの歴史の中に実現されていくのです。

主イエスのもとに祭司長たちの下役が遣わされましたが、主イエスはこうおっしゃいました。

「今しばらく、私はあなたたちと共にいる。それから、自分をおつかわしになった方の元へ帰る。あなたたちは、私を探しても、見つけることがない」

謎めいた言葉です。

これを聞いた人たちは、主イエスがユダヤから出て行って、地中海全域に離散して住んでいるユダヤ人たちのところに行き、ギリシャ世界に活動の場を移して自分の教えを広めようとしているのではないか、と考えました。それだったら、彼らが主イエスについていくことができない、という理由がわかります。

しかし、主イエスはそんなことをおっしゃったのではありませんでした。主イエスの言葉を地上的な意味でしか捉えようとしない人々には、本当の意味は分からなかったのです。

ヨハネ福音書は、主イエスがすべてのことにおいて、ご自分で時と場所をお選びになるということを強調しています。あれほど目立つことを嫌っていらっしゃった主イエスが、仮庵際の真ん中で神殿の境内に立ち、人々にお教えになりました。そして今、 主イエスは自分をお遣わしになった方のもとに戻るまで「今しばらくの時間がある」とおっしいます。

これはご自分の十字架と復活のことです。主イエスがおっしゃる「私の時」であり「栄光の時」のことです。

この秋の収穫祭から、次の春の過ぎ越しの祭りまでの6ヶ月間、主イエスはエルサレムに滞在なさることになります。それが、「今しばらく、私はあなたたちと共にいる」とおっしゃっている意味です。キリストはその過越祭において十字架で死に、ご自分を遣わされた天の父のもとに帰って行かれることになります。

主イエスの地上での時間が少なくなっていく中、残された時間で本当に大切なことは何でしょうか。イエス・キリストを求めることです。ユダヤ人たちに与えられたこの時は、「ナザレのイエスを逮捕する時」ではありませんでした。この方が理解し受け入れる時としなければならなかったのです。

今の私たちにも同じことが言えます。私たちがこの地上で生きている間に、キリストに対してどう向き合うか、ということが聖書を通して問われているのです。私たちの人生の時間は有限です。

キリストに対して無関心に生き、一生知らないまま人生を終える人もいます。キリストに敵意を抱き、積極的にキリストに背を向けて人生を終える人もいます。

人は生まれてから死ぬまでの地上での日々の中で、聖書を通して招かれています。しかし、どれだけの人がその招きに応じているでしょうか。どれだけ招きに応じ続けているでしょうか。

この地上で私たちに与えられている時間は、キリストに出会い、キリストと対話し、学び、キリストと共に生きるために与えられた時間なのです。私たちはそのためにもがくのです。聖書を通して、信仰を通して、私たち自身に与えられている今という時、また人生全体の意味を考えさせられています。

キリストの謎めいた言葉は人々にはなかなか理解されませんでした。人々は主イエスのことをよく知っていたからです。神の子としてではなく、自分たちと同じ人の子として、です。

ナザレ出身でヨセフとマリアの子であるイエスが、何を言っているのだろうか、という感覚から抜け出ることができませんでした。天の地なる神のもとから来られ、間もなくそこに戻られるということをこの時点では誰もわかりませんでした。

イザヤ書55:6「主を尋ね求めよ、見出しうるときに。呼び求めよ、近くにいます内に。・・・主に立ち返るならば、主は憐れんでくださる」

旧約時代の預言者と同じことをイエス・キリストはおっしゃいます。全ての機会を用いて、いついかなる時も、神に立ち返ることを訴えています。私たち人間が、いかに簡単に神が示してくださっている時を逃しているか、ということだ。

皮肉なことにこの仮庵祭から約70年が経った時、ヨハネ福音書福音書が書かれた紀元100年前後には神殿はローマ軍によって破壊され、祭司たちもいなくなっていました。逆に、ユダヤの外のギリシャ世界で、ユダヤ人でない異邦人の中にイエス・キリストを信じる人たちが増えていました。神の御業の不思議を思わされます。

イエス・キリストに反対する力、抵抗する力がありながらも、キリストの招きは絶えることがありません。聖霊の力は消えません。敵意や迫害の中にあってもキリストの招きの言葉は消えないのです。

水の祭りでもある仮庵の祭りの最終日、最大に祝われるその日に、主イエスは「立ち上がって大声で」叫ばれました。人々が自分たちの仮庵をこれから片付けようとしている時に、主イエスは大きな声で宣言なさいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。」

イザヤ書55章に、神の言葉が預言されています。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」

預言者が伝えた神の招きの言葉を、神の子イエス・キリストが神の家である神殿で叫ばれたのです。イザヤの預言では、「水のところに来るがよい」ですが、主イエスは「私のところに来て飲みなさい」とおっしゃっています。「私こそ、預言者たちが伝えてきた命の水の源泉なのだ」とご自身を示されたのです。

仮庵際は、収穫を祈る祭りです。それは雨を求める祭りでもありました。仮庵の祭りは秋の祭りで、ユダヤでは、これから雨が増える時期でもあります。祭りの間、毎日シロアムの池から大きな瓶に水を入れて、それが神殿に運び込まれます。神殿では水が祭壇の周りに注がれます。人々はそれを見ながらイザヤ書や詩編の言葉を歌いながら、迎えます。 Continue reading

8月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:19~31

「うわべだけではなくさばくのはやめて、正しいさばきを下しなさい」(7:24)

イザヤ書11:3にこう記されています。

「エッサイの株から芽が萌え出で、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。知恵と識別の霊。主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。」

預言者イザヤが残したメシア預言です。その方は、「目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」と言われています。

主イエスはエルサレム神殿で、人々に向かっておっしゃいました。

「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」

メシア到来の預言を受け継ぎ、聞いてきた人たちが、実際に目の前に現れたメシアにどのように向き合ったのか、今日も見ていきたいと思います。

エルサレムでナザレのイエスを待ち受けていたユダヤの指導者たちは、神殿でイエスが人々に教えを説くのを聞いて驚きました。

「この人は学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

誰かの弟子になったわけでもない、何年も聖書を学んだわけでもないナザレのイエスが、聖書の深いところまでお教えになっていたのです。

主イエスは「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求めるのである」とおっしゃって、ご自分の教えが聖書の自分勝手な解釈ではなく、ご自分をおつかわしになった方のものであることを示されました。

そしてその場にいた人たちに逆に質問されました。

「モーセがあなた方に律法を与えたのに、なぜあなた方は、私を殺そうと狙うのか」

主イエスは以前、エルサレムのベトザタの池のほとりで、38年間病気で立てなかった人を癒されました。その癒しを行ったのが安息日だったため、ユダヤの指導者たちは、「安息日のおこなってはならないことをした」と非難し、殺意を抱くようになりました。

そのことを指摘して、「なぜ私を殺そうと狙うのか。あなたがたこそモーセの律法に反しているではないか」、とおっしゃるのです。

それを聞いた群衆はその言葉の意味が分かりませんでした。「誰もあなたのことを殺そうとしていないではないか」と言います。実際、エルサレムの群衆はそうだったでしょう。

しかし、ユダヤ人指導者たちの心のうちにはまだ主イエスへの殺意が残っていたのです。主イエスは何が人の心のうちにあるのかをご存じでした。

主イエスはユダヤ人たちの律法の理解の矛盾を明らかにされます。ユダヤの人たちは生まれたばかりの赤ん坊に割礼を施していました。子供が生まれて8日目にはそれが安息日であっても割礼を施して良いと考えていました。そうやって割礼の掟を優先させて、律法を守っていたのです。

主イエスはそのことを引き合いなさっています。割礼は体の一部分に関わることです。しかし、主イエスが安息日に行われた癒しは体全体の癒しでした。安息日に割礼を施すこと許されるなら、体全身を癒す業は、なおさら正しいことではないか、ということです。そもそも、主イエスを殺そうと考える人たちは、「あなたは殺してはならない」という十戒の第五戒を破ろうとしているのです。

安息日に誰かを癒すことは、律法に反することなのでしょうか。「安息日は仕事の手を休めて神を礼拝しなさい」とモーセの律法は確かに言っています。しかし、それは、安息日に人を癒してはいけない、ということなのでしょうか。人を癒すということが、誰かを礼拝から引き離すこと、神に背を向けることなのでしょうか。

主イエスは、律法の細部に目を奪われてしまっている人たちに、神の御心の根本を問いかけていらっしゃいます。主イエスの教えは、これまでになかった真新しい教えに聞こえました。しかし、そんなことはありません。主イエスの教えは、誰よりも保守的なものでした。

マタイ福音書5章での山上の説教の中でおっしゃっている。

「私が律法や預言者たちを廃棄するために来た、と思ってはならない。廃棄するためではなく、満たすために来たのだ」

主イエスは律法の新しい解釈をもたらされたのではありません。神がお求めになること、神の御心を実現させるために来られたことを明言していらっしゃいます。人々が失いかけていた、律法のもともとの意味を、神の思いを取り戻すために世に来られたのです。

最後に主イエスはおっしゃいました。

「うわべだけで裁くのはやめて、正しい裁きを下しなさい」

主イエスは神殿の境内で、こんなにも大胆に人々にお話しなさいました。ユダヤ人の指導者たちが聞いたら黙っていないようなことでした。しかし、指導者たちは主イエスのことを捕えようとしていませんでした。このことを群衆は不思議に思ったようです。

「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」

ここまで大胆なことを神殿で話したら、普通は捕えられてしまうのに、指導者たちがこの人に何もしないということは、この人がキリストだと認めたということなのだろうか・・・人々は新しい議論を始めました。ナザレのイエスについて、「いったい何者なのか」いうことをまた新たに考え始めたのです。

人々は「この人こそ、本当のキリストではないか」、と思い始めました。しかし、同時に戸惑いもありました。群衆はこんな風に言っています。「しかし、私たちは、この人がどこの出身が知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ」

ユダヤ人の間に伝わっていた伝承では、メシアは預言者エリヤによって示される時まで隠れているだろう、言われていました。メシアがどこから来るのかは誰にも分からないとされていたのです。そしてそのメシア自身も、自分がメシアであるということに最後の瞬間まで気づくとはないと考えられていました。

マラキ書3:1「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる」

神が神殿に突然来られるというマラキの預言を、人々は「メシアは誰にも知られていない人だろう」と考えられるようになったのでしょう。

主イエスは「ヨセフの子イエス」とか、「ナザレのイエス」として人々に広く知られていました。「ナザレのイエスは、メシアであるように思える。しかし皆によく知られているから、やはりメシアではないのだろうか」、という戸惑いが人々の間にあったようです。

「イエスとはいったい何者なのか」

このことで迷い、人々の間で戸惑うのは、今の私たちも同じではないでしょうか。

よっぽど特別な神秘体験をしないと人はキリストを信じることはできないのではないか、と多くの人は考えます。普通の人には見えないものが見えるような人だけが信仰を持つことができるのではないか。特別な人が、または立派な人が、信仰というものを持つことができるのではないか、と思われています。 Continue reading

8月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:10~18

「自分から語る人は自分の栄誉を求める」(7:18)

主イエスはご自分の兄弟たちから「エルサレムでもたれる仮庵の祭りに行って、自分の奇跡の力を人々に見せてはどうか」と提案されました。そうすれば世間から評価されるようになるじゃないか、ということでしょう。

兄弟たちの思いは全くその通りだが、主イエスは「私の時はまだ来ていない。私はこの祭りには上っていかない」とお伝えになり、ご自分はガリラヤにとどまり、エルサレムに上っていく兄弟たちを見送られました。

しかし、そのあとすぐに人目を避けて隠れるようにしてエルサレムへと向かわれます。ガリラヤからエルサレムに向かう巡礼者たちの群れとは別に、お一人でエルサレムに行かれたということに、主イエスのお考えが隠されています。人々の思いではなくご自分の思いで、人間の計画ではなく神の御計画の中で、ご自分の歩みを進めていかれた、ということでしょう。

ガリラヤの多くの人たちが、主イエスの兄弟たちと同じように考えていたことでしょう。自分たちと同じガリラヤ出身のイエスに、何か偉大なことをエルサレムでしてほしい、ガリラヤから有名な人が出てほしい、という期待があったと思います。

しかし、主イエスは人々の期待を背負ってエルサレムに向かわれるのではありませんでした。そのような人たちと一緒にエルサレムに向かっては、いいように担ぎ上げられてしまいます。主イエスが担っていらっしゃったのは、人間の計画ではなく、神の計画でした。

一方で、エルサレムでもナザレのイエスを待っていた人たちがいました。「祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し『あの男はどこにいるのか』と言っていた」と11節に書かれています。

この「ユダヤ人」というのは、特に主イエスに対して敵意を抱いていたユダヤの宗教指導者たちのことを指しています。指導者たちは、「イエスはこの祭りにきっと来るはずだ」と考えていました。前の祭りの際、ナザレのイエスはベトザタの池で38年間病気で寝たきりだった人を癒しましたが安息日にその癒しを行ったのです。そのことが大きな議論に発展しました。安息日に仕事をしたことを指摘すると、ナザレのイエスは「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」と答えたのです。

それ以来ユダヤ人指導者たちは、安息日の規定を破り、神をまるで自分の父であるかのように呼び、自分を神と等しい者として語るイエスのことを危険視するようになりました。

そして今、「あのイエスはまたこの祭りに来る」、と警戒して待ち構えていたのです。

さらに、エルサレムの群衆もナザレのイエスを待っていたようです。12節の「群衆」の中には、エルサレムからガリラヤまで主イエスを追いかけてパンと魚で満たしていただいた人たちも含まれていたでしょう。あの5000人の人たちは、主イエスが「私が命のパンである・・・私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る」とおっしゃったのを聞いて、「実にひどい話だ」と皆離れて行きました。

群衆の間では主イエスは「いろいろとささやかれていた」と書かれています。「ささやく」というのは不平を漏らすという意味の言葉です。主イエスのことを「良い人だ」と言う人たちもいたようですが、「群衆を惑わしている」と言う人もいた、と書かれています。恐らく、主イエスのことを悪く捉える人たちの方が多かったのでしょう。

このように見ていくと、エルサレム全体が主イエスのことを敵意をもって待ち構えていたようだ。

ヨハネ福音書の初めを読むと、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。

「神の言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

この福音書は、神の愛をこの世がどのように拒絶したか、ということの記録なのです。

聖書を読むと、主イエスに出会った人たちの反応が分かれる様がよく描かれている。主イエスのことを信じる人と信じない人。また、信じたとしても、最後まで信じぬくことができなかった人。主イエスを通して何か自分を超えたものを見たり感じたりしたとしても、そのあと、実際の主イエスの教えを聞くと、「よくわからない」と言って多くの人は離れて行ってしまうのです。

信じるか、信じないか。そして、信じたとしても、信じ続けることができるか、離れてしまうか。今もまさに世界が、また教会がこの瞬間も問われていることではないでしょうか。

「世は言を認めなかった」というヨハネ福音書冒頭の言葉は、過去のことなのでしょうか。福音書に登場する、主イエスに出会い向き合う人たちは、まさに私たちの姿でもあるのです。我々の姿であり、そして我々の周りにある人々の姿です。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証をするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

これは主イエスがご自分を否定するユダヤの指導者たちにおっしゃった言葉です。今でもこの世全体に向けられているキリストの言葉ではないでしょうか。

エルサレムではナザレのイエスのことを人々はささやきあっていました。多くの人たちは、「ナザレのイエスは群衆を惑わしている」と考えていました。「惑わす」というのは、神の礼拝から人々を迷い出させる、ということです。それは深刻な罪であり、聖書の掟によれば、「死に値するほどの罪」だと言われています(申命記13:1~13)。

それでも、群衆は「ユダヤ人たちを恐れて公然と語ることはしなかった」と書かれています。ユダヤの民衆は、自分たちの指導者たちを恐れていたようです。自分たちが恐れる指導者たちが、群衆を惑わすイエスを待ち構えている・・・緊迫した空気がエルサレムに満ちていました。

主イエスはそのようなエルサレムでどうなさったでしょうか。仮庵の祭りの半ばで主イエスは神殿の境内に上って行って、教え始めらました。あれほど人目を避けていた主イエスが、一番目立つ場所で、突然このようなことをされたのです。

エルサレムの人々の中に緊張がありましたが、イエス・キリストにも緊張がおありでした。神の救いの御計画の実現が迫っている、という、エルサレムの人たちとは別の、メシアとしての緊張感です。主イエスが「私の時」とおっしゃった時、十字架が近づいているのです。

仮庵の祭りは、水と光の祭りでした。出エジプトをしたイスラエルは荒野で神から水が与えられ、神ご自身が光となって導かれたことを記念します。ユダヤ人は、自分たちを生かす「命の水」「世の光」をこの祭りを通して記念するのです。

主イエスはその祭りの中でおっしゃいます。

「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書にかいてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」

「私は世の光である。私に従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」

主イエスは仮庵の祭りという時、神殿という場所を選んで、ついにご自分が何者であるかを公にされます。ご自分こそが命の水であり、世の光であることを宣言なさるのです。

神殿の庭は広く、柱廊玄関があります。普段、律法の教師たちはそこで教えを請う人たちを座らせて講義をしていました。たくさんの人々が主イエスの教えを聞くために足を止めていたことでしょう。

ユダヤ人たちは主イエスがお話しなさるのを聞いて驚きました。

「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」

ユダヤ人指導者たちは、ナザレのイエスは聖書のことをよく知らないはずだと思い込んでいました。聖書を知らないから安息日の決まりを破ったり自分のことをまるで神の子であるかのように思い込んだりしているのだと思っていました。

しかし、彼らも認めざるを得ませんでした。イエスは聖書をよく知っている。普通であればユダヤの若い生徒は律法の教師の弟子となって律法や伝統を学びながら数年を過ごします。しかしイエスは誰かの弟子になって律法を学んだのではありません。それにも関わらず、文字が読め、律法の教えを説いたのです。

自分が誰かに律法を教える時、普通は「誰々先生はこう言った。一方で、誰々先生はこう言っている」という教え方をします。しかしナザレのイエスはそういう教え方をしないのです。「誰々先生がこう言った」ではなく、「これはこういうことだ」と自身の言葉で教えておられました。

エルサレムの群衆が驚いたのはこれでした。イエスが律法の言葉をご自分の言葉として教えた、ということ。神の言葉を、まるで神ご自身が語っておられるかのように、イエスは語ったのです。神の権威をもって神の言葉を語っていることに驚きました。

主イエスは以前おっしゃったことがあります。

「私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとする」5:30 Continue reading

8月4日の礼拝説教

ヨハネ福音書7:1~10

「私の時はまだ来ていないが、あなた方の時はいつでも用意されている」

ヨハネ福音書は主イエスが宣教なさった3年間の様子を記録しています。宣教の1年目に主イエスはガリラヤで弟子たちを集め カナで最初のしるしを行われました。

過越祭の時期、つまり春にエルサレムに上り、神殿から商人たちを追い出し、夜ニコデモと対話をなさいます。そしてユダヤを離れ、サマリアを通ってガリラヤに戻り、再びカナで2度目の印を行われました。

その年の終わりに再びエルサレムに登って祭りに参加し、安息日に病気の人を癒されたことで、ユダヤ人の指導者たちの内に、主イエスへの殺意が芽生えました。これを知って、主イエスはリラヤへと戻ることにされました。

これが、イエス・キリストの宣教1年目の活動です。

宣教の2年目には春の過ぎ越し祭の時期に5000人の人たちを癒し、その後彼らと対話をされました。今、我々が見ているところです。

今日読んだところのはじめには、「こののち、イエスはガリラヤをめぐり歩いていた」とあります。この半年間、主イエスはガリラヤを巡回しながら、神の国の福音を宣教しておられたのでしょう。季節は秋になり、収穫の祭りである「仮庵祭」の時期となりました。

仮庵際について、少し解説を加えておきたいと思います。この祭りは収穫のある 9月か10月の1週間、開催される秋の収穫祭です。これが、ユダヤの人たちにとっては年末の収穫祭であり、新年祭でもありました。つまり仮庵祭が、年の変わり目となるのです。

祭りの間の1週間、人々は畑に小屋を建ててそこで過ごします。そうやって自分たちの先祖が体験した出エジプトの荒野の苦しみと天幕生活を記念し、追体験するのです。同時に、神の導きと守りを思い出して、自分たちが生きているこの世が仮の住まいであることを告白するしるしとしました。終わりの日には自分たちが天の国という「約束の地」に入れられることに思いを馳せる祭りでした。

主イエスの兄弟たち、つまり弟たちは自分たちの兄イエスが、エルサレムに行くことを期待しました。主イエスはもうガリラヤでは有名人でした。ガリラヤ地方を巡り歩いて、いろんな会堂で宣教なさっていました。水をワインに変え、役人の息子を癒し、5000人を満腹させ、水の上を歩くという全ての奇跡はガリラヤにおいてなされたことでした。

主イエスの兄弟たちは「ことをひそかに行って自分を知ってもらうような人はいません」と言って、自分たちの兄がエルサレムで有名になるよう励まし、勧めます。確かに、仮庵の祭りで、たくさんの人たちがエルサレムに巡礼に来ている中で何か奇跡を行えば、人々からの賞賛を得ることになります。兄弟たちの言うことは正論です。

しかし、ヨハネ福音書は、主イエスの兄弟たちも主イエスのことを「信じていなかった」、と書いています。

ここで私たちは考えさせられることになります。ここで聖書が言っている「信じる」とはどういうことなのでしょうか。

主イエスの兄弟たちは、自分たちの兄のことを信頼していたことは間違いありません。

自分たちの兄に対する信頼があったからこそ、エルサレムの人たちに奇跡を見せよう、と提案したのです。

しかし、そのような信頼について、聖書は、「それは信じるということではない」と断じています。それでは、イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか、ということです。

主イエスの弟たちは、間違った期待を持っていました。それは「自分たちの」期待でした。彼らが自分たちの兄イエスに求めたのは、公の場で奇跡を行って自分の力を示してこの世の成功を収めることでした。兄が成功を収めると自分たちにも何かいいことがあるのではないか、という期待があったのではないでしょうか。

しかしそれは、主イエスがお望みになったことではありませんでした。主イエスを信じる、ということは主イエスがお望みのことを同じように求める、ということでしょう。

主イエスはご自分の兄弟たちに「あなたたちはエルサレムに上りなさい。私の時はまだ来ていないから祭りには行かない」とおっしゃいました。「私の時はまだ来ていない・私の時はまだ満たされていない」とおっしゃいます。

主イエスは、最初のしるしを行われたカナの婚礼の席でも、同じことをおっしゃいました。母マリアから「葡萄酒がなくなりそうだから何とかしてほしい」と頼まれたとき、主イエスは「私の時はまだ来ていない」とお答えになるのです。

「キリストの時」というものがあります。主イエスの兄弟たちをはじめ、主イエスを信じられなかった人たちが求めていたのは、「キリストの時・神の時」ではなく、「自分たちの時」でした。「自分たちにとって何かいいことが起こる時」です。

しかし主イエスにとっての御自分の「時」は、十字架の時なのです。ヨハネ福音書は、主イエスの十字架のことを「栄光」と呼んでいます。十字架という処刑方法による死がなぜ「栄光」なのか、普通に考えると分かりません。

しかし、聖書は、この方の十字架上の姿こそ「栄光の姿」であり、それこそ私たちにとっての「救いの時」であり、自分たちの罪が許され神への立ち返る道が切り拓かれた「時」であることを伝えています。

その「救いの時」「キリストの栄光の時」を求めることが、この福音書においては本当の意味で「信じる」ということなのです。

私たちは福音書を読むたびに、「キリストを信じるとはどういうことか」ということを問われています。それは「キリストと共に歩むとはどういうことか」ということでもあります。

都合のいい時だけキリストと共に歩いて、少ししんどくなったら、キリストから離れて楽な道を選ぼうとしてしまうのが、我々弱い人間の歩みではないでしょうか。

しかし今、私たちには「キリストの時」が十字架という栄光の時であったことを知っています。自分が今キリストに抱いているものが、本当に信仰と呼べるものなのか、自分の身勝手な期待なのか聖書は私たちに常に問いかけるのです。

さて、御自分の兄弟たちに「私はエルサレムに行かない」とおっしゃった主イエスでしたが、兄弟たちがエルサレムに出かけた後、ひそかにエルサレムに向けて出発されました。皆に知ってもらえばいいのに、という期待を持っていた兄弟たちとは思いとは反対に、主イエスは誰にも知られない仕方でエルサレムに上って行かれた。

大切なことは、主イエスは人が望む仕方でエルサレムには行かれていない、ということです。そして、人が期待する仕方ではエルサレムで活動なさっていない、ということです。

仮庵の祭りは、水と光の祭りでした。神はイスラエルの出エジプトに水を与え、光で導かれことによります。人々はそれを仮庵の祭りの中で思い出すのです。そしてこの水と光の祭りの中で主イエスはご自分のことを「命の水」「世の光」として示されることになるのです。

「祭りの盛大な最終日に、イエスは立ったまま叫んだ。『誰か渇いている人があれば、私のところに来て飲むがよい』」(7:37)

「私は世の光である。私についてくる者は闇の内を歩むことなく、命の光を持つことになる」(8:12)

この主イエスの言葉に対して、世の人々はどうだったでしょうか。人々は主イエスのことを命の水として求めただろうか。主イエスのことを世の光として求めたでしょうか。

人々は疑いました。目の前にいる人が自分のことを命の水だと言っても、世の光だと言っても、簡単に信じられるものではないのです。多くの人は疑いました。信じた人たちも、主イエスの言葉を更に聞いているうちに、「よくわからない」と離れて行ってしまいます。

このことは、今でも変わらないのではないでしょうか。聖書を読んでも、聖書の言葉を聞いても、簡単に受け入れて信じる人はほとんどいません。聖書に興味が湧いても、自分の主義主張と異なることが書かれていたり、理解しづらいことがあったりすると背を向けてしまうのです。自分の期待に応えてくれないキリストであれば、ついて行こうとしなくなります。

繰り返しますが、キリストに自分に都合のいい期待をかけるということは、本当の意味で「信じる」ということではありません。キリストがお求めになることを、キリストと共に求めていく、ということが私たちにとって「信じる」ということなのです。

キリストがどこに行こうとそこへとついて行くことが出来るか。 Continue reading

7月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:60~71

「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」

6章の締めくくりとなる場面を読みました。6章は山の上で5000人の人たちを主イエスが養われるところから始まります。大きな奇跡の後、主イエスは群衆から離れ、嵐の中湖の上を歩いて弟子達の船に乗り込んで嵐を沈められました。

主イエスを自分たちの王様に祭り上げようとしてやってきた群衆がカファルナウムまでやって来ます。その人たちに主イエスは「私は命のパンである。私の血を飲み、私の体を食べる者は永遠の命を得る」とお教えになりました。

「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである」と書かれています。主イエスは、ガリラヤのカファルナウムの町にある会堂で、神の教えとしてご自分のことを命のパンであり、ご自分を食べる者は永遠の命を得る、と伝えていらっしゃったのです。

「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」

主イエスを求めて来た人たちが最後にこのようにつぶやいて、6章は終わります。不思議な教えを聞いた人々は、主イエスを求めることをやめて去って行ったというのが6章の結末なのです。

5000人の給食という大きな奇跡で始まったのに、主イエスのもとから弟子達が去って行った、という残念な結果に終わっています。主イエスの奇跡を体験した人たちが皆従うようになった、という話ではないのです。

残念な結果だが、多くの弟子たちが主イエスのもとから去って行ったということは驚きではないでしょう。

66節「このために、弟子達の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」。主イエスによって養われたあの5000人の中に、「弟子」としてついて行こうとしていた人たちがたくさんいたのでしょう。彼らは熱心に主イエスを探し求め、教えを聞こうとしました。あれだけの奇跡をおこなわれた方です。期待が高まっていました。

しかし、どんなに奇跡の業に感激しても、主イエスの教えを実際に聞いてみると、「実にひどい話だ。誰が、こんな話を聞いていられようか」と失望した、というのです。ご自分のことを「命のパンである」とか、「私の肉を食べ、血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃる主イエスの教えは確かにわかりにくいでしょう。

この福音書を最後まで読まなければ、主イエスが何をお伝えになろうとしていたのかはわかりません。主イエスの十字架の姿、そして主イエスの復活のお姿を通して、私たちは生前主イエスが何をお教えになっていたのかが明らかにされていくのです。

この時、主イエスの教えを字面だけで理解した多くの人たちは離れ去って行きました。五つのパンと二匹の魚で主イエスに養われ、主イエスの言葉を聞いた人たちは皆ユダヤ人だったので、自分たちの先祖が出エジプトの際、荒れ野で神によって養われたことを思い出しながら主イエスの言葉を聞いていたでしょう。荒野でマナが神から与えられたように、「この方がこれから私たちにパンをくださるのではないか」、と期待したのです。

しかしこの方は、「私自身がパンである」と、意味がよくわからないことを言います。人々にとってこのイエスという人は期待外れでした。これからご自分のもとを離れていこうとする人たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなた方はこのことにつまずくのか。それでは、人の子が元いたところに上るのを見たならば・・・」

これは、「もしあなた方が私の十字架と復活をみたならばどうだろうか」ということです。もしこの群衆が主イエスの十字架と復活を見たとしたらどうだったでしょうか。その出来事がまさに自分のために起こったこととして受け止めることが出来たとしたら、彼らはどうしたでしょうか。

聖書を通して、キリストの十字架と復活を知っている私たちであっても、キリストを信じ一生従い抜く、ということは簡単なことではないでしょう。人の知恵で主イエスの教えを知ろうとしても、主イエスの十字架や復活を理解しようとしても、私たちの頭には入りきりません。

キリストの言葉は、いつでも霊の言葉です。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とおっしゃっています。私たちは聖書を読んでも普通の本を読むように簡単に理解することはできません。

しかし、聖霊の働きとしか言いようのない瞬間があります。キリストの十字架は、私のためのものでした。キリストの復活は、私たちのために用意されている永遠の命のしるしだ、と思える瞬間が与えられるのです。あれだけ頭の中で考えて来たのにわからなかった聖書の教えや出来事が、「これは自分に起こったことだ」と悟る瞬間が確かに与えられるのです。

しかしそれでも、心の高ぶりが収まるとまたキリストを疑い始めます。「心は燃えても、肉体は弱い」とキリストがおっしゃったとおりです。主イエスの言葉に隠された霊的な意味をくみ取ろうとしなかった群衆は、結局主イエスから離れて行くことになってしまいました。

私たちはここに、生と死の分かれ道を見ます。キリストに従うか、離れて行くか。命のパンをいただく歩みに向かって踏み出すか、命のパンとは無縁の生活を続けていくか。自分の理解だけに生きるか、霊の言葉を信じ、霊の働きに身をゆだねるか。

多くの弟子たちはもう主イエスのことが理解できないと言って去って行きました。ご自分のもとに残ったのははじめから従ってきた12人だけとなりました。主イエスは残った12人を試すようなことをおっしゃいます。

「あなたがたも離れていきたいか」

これは、「あなたたちは行かないのか」という言葉です。むしろ、イエス・キリストから離れて行くことの方が普通である、という前提の言葉です。

「あなた方はどこにも行かないのか」と聞かれた弟子達を代表して、ペトロが答えます。「他に誰のところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています」ペトロは主イエスのことを「メシア」として信従を表明しました。

「言っていることがよくわからない」と言って多くの人々が去って行く中で、イエス・キリストに向かって「あなたこそメシアです」と言い現し、そこに留まる弟子達。彼らはキリスト教会の姿です。

繰り返しますが、5000人の人たちをキリストが養われる奇跡から6章は始まりました。しかし6章の最後にはその5000人がキリストの下からいなくなったのです。弟子たちはまた12人に戻ったことが6章で描かれています。

5000人を養い、嵐の湖の上を歩かれた方に向かって、12人が「あなたこそメシア、神の聖者である」という真理にたどり着いた、ということ。5000人はいなくなっても、小さな信仰の群れが残った、ということ・・・このことを通して、キリストから離れるということがいかに簡単で、キリストのもとにとどまることがいかに困難であるか、ということを考えさせられるのではないでしょうか。

その小さな群れの中には、裏切り者もいました。イスカリオテのユダです。ユダは後に主イエスを引き渡す役割を演じてしまいます。

そしてここで信仰を告白したペトロも、やがて主イエスのことを知らない、と言って逃げてしまいます。他の弟子達も同じです。

これが、教会の姿です。教会はむしろ、「あなたがたも離れて行きたいか」とキリストから問われるような群れなのです。私たちにはいつでも、誘惑の力が迫ってきます。キリストが荒れ野で誘惑をお受けになったように、イスラエルが荒れ野で様々な誘惑を受けたように、教会も、今この世界で、荒野の誘惑を受けています。

イエス・キリストに対して 人々は様々に反応します。自分の王様にしようとする人、つぶやく人、不平を漏らす人、質問する人、反対する人がいました。従う人、背を向ける人、裏切る人、そしてこの方こそ命の希望であり この方の血と肉によって自分は生きると信じる人たちがいました。

私たちが今日読んだ場面は、のちの時代にも繰り返されてきたことなのです。主イエスの十字架と復活の出来事の後も、「あのイエスという人は何者だったのか」という議論は続けられました。主イエスをキリストと信じる人たちと、信じない人たち、そして一度は信じたのに離れてしまった人たち、信じないと拒絶したのに後に信仰を貫いた人たちの議論が続いたのです。

さらに、「主イエスは何者か」という議論は、キリスト教会の中でも議論されて続けて来ました。イエスこそ天から来られた神であるあるかどうか。神の言葉である律法そのものなのか。

これは今の私たちにとって他人事ではない議論です。「あなたはイエスを何者だと信じているか」と言われると、どのように答えるでしょうか。そのようにして今日の場面を読むと、実はキリストのもとから去って行く人たちがいて、残る人たちがいる、というのは、今私たちの目の前で起こっていることである、ということが分かります。 Continue reading

7月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:51~59

「これは天から降ってきたパンである。父祖たちが食べて死んだようにではなく、このパンを食している人は永遠に生きることとなる」(6:58)

二匹の魚と五つのパンで群衆を満たされた主イエスを、群衆は求めました。自分たちの王様にしようと考えたのです。自分たちの都合でご自分を求めてきた人たちに対して、主イエスは「命のパン・天からのパン」についてお話なさいました。少しずつ、御自分を求める群衆に、御自分が行われた奇跡の意味を話していかれます。

「私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」

この言葉を聞いて人々は期待しました。自分たちイスラエルの先祖が、出エジプトの際天から与えられたマナを思い浮かべたのです。群衆は「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と言いました。しかし、主イエスがおっしゃるパンと人々が期待したパンとは違っていました。

「私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマナを食べたが死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない」

主イエスがおっしゃる天からのパンは、荒野でイスラエルを養ったマナに勝る全く次元の異なるものであることが言われています。毎日天からパンが降って来て、もう食事の心配をする必要がなくなる、というようなことではありませんでした。

主イエスは「私があなたたちにパンを分け与える」ではなく、「私が命のパンである」とおっしゃいます。「私は天から降ってきたパンである」

それだけでも戸惑うのに、今日読んだところで主イエスは更に「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」とおっしゃっています。主イエスが何をおっしゃっているのかを理解しようと話を聞いていた人たちは、ここで躓きました。「どうして、この人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」

主イエスによって養われ、主イエスを求めて来た群衆は、ここで「ユダヤ人たち」と呼ばれています。先週もふれましたが、ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」は、主イエスに対して敵意を持つ人たち、という意味を含まれています。「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」という言葉を聞いて、主イエスを求めてやってきた「群衆」が、敵意を持つ「ユダヤ人」に変わりました。

主イエスの言葉をここまで聞いてきた人たちはこの言葉に強く反応しました。「互いに激しく議論し始めた」と書かれています。「つぶやき」が、「激しい議論」にまで発展しました。

確かに、主イエスの言葉は聞いた人を驚かせる内容でした。自分の肉を誰かに食べさせる、などということを聞いたら誰でも驚き、「どういう意味だろう」と激しい議論を引き起こすでしょう。

ユダヤの律法にある食物規定では特に動物の肉と血を食することは禁じられていました。血はその動物の命そのものを象徴するものでした。

申命記12章23節「(生贄の)血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである」

生贄として捧げられた動物の血を飲むことは、その捧げられた動物と命・存在を共有することを意味したのです。このような掟があるのに、このイエスという人は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物だからである」と言うのです。

自分たちが教えられてきた神の掟に反するようなことを言っているだけでなく、自分を食べさせるとはどういうことか、と人々は戸惑いました。

結局、この言葉を聞いた人たちは主イエスの下から去って行くことになります。今日読んだところの次の場面になりますが、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と言って、皆離れていくのです。パンと魚で主イエスによって満たされ、主イエスに期待した人たちはその教えを聞いて、失望して去って行くのです。

この時、群衆は主イエスがおっしゃっているご自分の血、御自分の肉とはなんのことか、まだ理解できませんでした。それはそうだろう。主イエスの十字架と復活をまだ見ていないのです。主イエスが「そのパンとは私の肉である」とおっしゃったのは、つまり「十字架であなたたちの代わりに裂かれ、血を流すことになる私の体である」ということだ。

私たちはそのことを知っている。主イエスの言葉の霊的な意味をくみ取ることが求められています。出エジプト記出エジプト記16章8節で、モーセがイスラエルにこう言っています。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる」

主イエスは「私は、天から降って来た生きたパンである」という言葉の後、「私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」とおっしゃいました。モーセが言ったように、神がお与えになる「世界の命のため」のパンであり肉である、というのです。

ここで我々は聖餐式を思い出すでしょう。いつも、聖餐式の中で、パウロがコリント教会に記した主の晩餐の言葉が読み上げられる。

「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」

「あなたがたのための体」というのは、「あなたがたの代わりの体」ということです。主イエスがこの世に、御自分の命というパンをお与えになる、ということは、ご自分の命をお与えになる、ということです。私たちの代わりに命を捧げてくださる、ということです。

この方が命を差し出してくださらなかったら、この世の命はなかった、ということです。主イエスがここで「世界の命のため」「世を生かすため」とおっしゃっているのは、そういうことなのです。

主イエスは、御自分が過ぎ越しの食事そのもの、子羊の血そのものでした。奴隷とされていたエジプトから脱出する際、神はエジプトを打たれました。イスラエルの人たちは、自分の家の鴨居に子羊の血を塗り、それを目印として神の裁きは通り過ぎて行きました。こうやって、イスラエルは解放され、神への礼拝の中へと導き入れられていきました。子羊の犠牲がなければ、イスラエルはエジプトで奴隷として死に絶えていたでしょう。

今、イエス・キリストは、ご自身が出エジプトの際に与えられた子羊の血であり、天からのマナであることを人々に示されています。私たちにとって「キリストと食べる・キリストを飲む」、というのは、キリストの十字架を自分の十字架として見つめる、ということです。

本当はそこに上げられるはずだった自分がなぜ今生きているのか。キリストが私の代わりに肉を裂かれ、血を流してくださったからです。

キリストの血と肉を食することによって私たちは主イエス一体となります。それは神秘です。主イエスをこの世に送られた父なる神は全ての命の源です。キリストを食すということは神と一つになるということ、神と存在を共有するということでもあるのです。

ヘブライ人への手紙に、こう書かれている。

「(イエスは)ご自分の血で民を聖なるものとするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。私たちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して讃美の生贄、すなわち御名を讃える唇の実を、絶えず神に捧げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」ヘブ13:14以下

私たちは、この地上に永遠の都を持ってはいません。来るべき都へと、キリストによって導き入れられることになります。

聖書を読んでいると、生贄とか契約の血とか、生々しい言葉がよく出てきます。なぜそんな言葉が頻繁に出て来るか、というと、神と人間との関係は命がけだからです。

聖書が示している契約とは、紙切れ一枚の約束ではありません。神と人間との契約は、神が人の神となり、人が神の人となって愛と平和の内に共に生きる、というものです。単なる口約束ではありません。

契約の儀式において動物を二つに裂いて、「契約をやぶるとこうなる」ということを確認してから、契約します。

人は神から離れてしまいました。契約を破りました。しかし神は人間を諦められませんでした。神ご自身が、人間を取り戻すことを諦めず、この世にまで迎えに来てくださったのです。それがイエス・キリストです。

先ほどのヘブライ人への手紙では、「血を流すことなしには罪の許しはあり得ないのです」と書いています。それが、神と人間との間に交わされた契約でした。契約をやぶった人間は、本当は血を流さなければなりませんでした。しかし、キリストがご自分の血をもって、私たちの身代わりとなってくださったのです。

「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」

私たちは、今生きている自分の命をどのように捉えているでしょうか。この世に生まれ、日々生きて、今日も、明日も当然生きているだろう、という感覚で生きているのではないでしょうか。

自分が生きることが許されている今がどれほど大きな犠牲によるものか、聖書は伝えています。使徒パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と書いています。地中海沿岸全域を、アジアからヨーロッパまで福音宣教して大きな働きを成したあのパウロが「働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです」と書いています。

私たちは、「十字架の上で裂かれたキリストの肉が、十字架の上で流されたキリストの血が今の自分を生かしている」、と、どれほど心の内で捉えることができているでしょうか。 Continue reading

7月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:41~51

「預言者たちの書に、彼らは皆、神に教えられた者になるだろうと書かれている」(6:45)

山の上で二匹の魚と五つのパンによって満たされた人々は、主イエスを追い求めてやってきました。自分たちの王様になってもらうためです。主イエスは、群衆から距離を取り、一人山へと退かれました。人々に求められて地上の王になることをお望みにならなかったのです。

群衆から距離を取られた主イエスは、諦めずにさらにご自分を探し求めてきた群衆に、ご自分をどのように求めるべきなのか、ということをお伝えになりました。

五つのパンと二匹の魚は何のしるしだったのか。

「天からのパン」とは何のことなのか。

天からの食べ物をお与えになるイエスという方は何者なのか・・・

群衆は考えさせられることになります。人々の興味は、「イエスは一体何者か」ということに集約していくことになります。

これまで人々は、申命記18:5で言われていた「モーセのような預言者・モーセの再来」として主イエスに期待をかけていました。山の上でパンと魚で満たれた人々は、出エジプトの際、荒野でモーセが神に執成してイスラエルの人々にマナが与えられた出来事を思い起こしていたのです。だから、「この方は天からパンを降らせてくださるのでは」と期待した人々は、「私は天から下ってきたパンである」という主イエスの言葉をいぶかしく思いました。

主イエスは「天からのパン」というものがあることをおっしゃいます。しかし、御自分のことをモーセのように神に執成してパンを皆に配る者ではなく、御自分が天からのパン・命のパンそのものであるとおっしゃいました。「私はパンを与える者だ」ではなく、「私がそのパンである」とおっしゃるのです。

「ナザレのイエスは、モーセモーセの再来ではないか」、という話ではなくなりました。パンのために神に執成す人ではなく、パンそのものだ、と言っているのです。この言葉を聞いた人々は「つぶやき始めた」と書かれています。これは、「不満を言い始めた」ということです。つまり、主イエスがおっしゃっていることは、群衆にとっては期待外れだったのだ。

ここで、一つ、ヨハネ福音書の言葉のつかいかたに注目したいと思います。これまで主イエスの言葉を聞いてきた人たちは「群衆」と呼ばれてきましたが、ここでは「ユダヤ人」という言葉で呼ばれています。

ヨハネ福音書の中で「ユダヤ人」という主イエスに敵対する人たちという意味で用いられています。「私が天から下ってきたパンである」という言葉を聞いて、期待外れに感じた人たちは、主イエスを自分たちの王として求める「群衆」から、主イエスに敵対する「ユダヤ人」に変わったのです。

それまで彼らはパンと魚によって養われたことによって、主イエスにモーセのような預言者としての姿を、この地上でイスラエルを力強く導く指導者としての姿を期待しました。自分たちの先祖が、荒野でマナをいただいたように、自分たちも神によって養われる生き方ができると思ったのです。

人々はモーセの再来を期待し、新しい出エジプトを期待しました。しかし皮肉なことに、人々は、荒野で神に向かって不平をもらす、というイスラエルの先祖たちの過ちを繰り返しているのです。

出エジプトの際、荒れ野で歩みながらイスラエルは不平を述べました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだほうがましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」

モーセは彼らに言いました。「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」出エジ16章

主イエスの言葉を聞いた人々はなぜ不平を漏らしたのでしょうか。この方のことを知っていたからです。父が大工のヨセフであり、母がマリアであることも知っていました。ヨセフとマリアの子であるイエスがなぜ「私は天から降ってきた」などと言うのだろうか。

主イエスと人々の会話がかみ合っていません。主イエスがここでおっしゃっている天の父というのは、ヨセフのことではありません。天からご自分をおつかわしになった神のことを「私の父」とおっしゃっているのです。

主イエスが地上のことをお話しなさっているのか、天のことをお話しなさっているのか、それを踏まえて言葉を聞かないと、私たちもこの方がどなたでいらっしゃるのかを見失ってしまいます。

主イエスは「つぶやいてはならない」「不平を言ってはならない」と群衆に向かっていさめておられます。

「私をおつかわしになった父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとへ来ることはできない」

主イエスの言葉に不平不満を言っていては神の御姿が見えなくなるのです。

先週読んだところで、主イエスはこうおっしゃっています。「父が私に与えてくださっている者を皆、わたしが1人も失うことなく、終わりの日に蘇らせること、これが私を遣わした方の思いである」

この言葉は、主イエスご自身が、単に見た目通りのヨセフとマリアの長男というだけでなく、モーセよりも偉大な存在、神によって天から遣わされた存在であることを示しています。

「私を信じる人が皆、永遠の命を持ち、私はその人を終わりの日に蘇らせる」

これは、神にしか言えないような言葉です。

主イエスは預言者の言葉を引用なさっています。

「彼らは皆、神によって教えられる」

イザヤ54:13「あなたの子らは皆、主について教えを受け、あなたの子らには平和が豊かにある」「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、私の慈しみはあなたから移らず、私の結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと、あなたを憐れむ主は言われる」

これはバビロン捕囚から解放されるイスラエルが預言者から聞かされた言葉です。預言者たちは神の愛を知っていました。神ご自身が、人に必要なものをお教えになるということを伝えて来られたのです。

預言者ホセアも神の言葉を残しています。

「私は人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」ホセア書 11章4節

預言者エレミヤを通してはこう語られている。

「私は、とこしえの愛を持ってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、私はあなたを固く建てる」エレミヤ書 31章3節

「私は永遠の愛をもって、人を引き寄せる」神はとおっしゃいます。そのように預言者たちの口を通して言われてきたことが、今、イエス・キリストを通して現実のものとなっているのです。預言者たちは、この方による招きの時代を見据えて、預言を残してきたのだ。

そして今主イエスは、このような預言者たちの言葉を引用して、「しっかり私の言葉を聞きなさい」と促されます。

さて、ここで一つ大切なことを思い出したいと思います。神からマナをいただきながらも、荒野でイスラエルは不平を漏らし、神に反抗しました。そして神に従いきれなかったイスラエルの人たちは皆、荒野で死んでしまいました。荒野を歩き切って、約束の地に入ることができたのは彼らの次の世代の人たちでした。(民数記14章26節から35節) Continue reading

7月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:34~40

「私が、その命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」

イエス・キリストは、御自分を非難してきたユダヤ人たちにおっしゃいました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

福音書を読むと、たくさんの人たちが、主イエスが行われた奇跡のしるしを目撃したことが書かれています。しかし、その人たちが全て「この方はまことにキリストだ」と信じたわけではありませんでした。

しるしを見たことによって、主イエスのことを自分に都合よく理解して、自分勝手に期待した人たちがいました。主イエスの教えを聞いて、「自分の聖書の理解とは違う」、と拒絶したりする人もいました。

主イエスご自身が、「聖書は私について証しをするものだ」とおっしゃっているように、福音書はいろいろな角度から、「この方こそ神の子・キリストである」と私たちに伝えています。そして、キリストをキリストとして受け入れなかった人たちの姿を通して、私たちは自分の信仰を、また聖書に対する私たちの姿勢を問うているのです。

このイエスという方が何者なのか。この方の言葉・業の権威はどこから来ているのか。

その言葉の意味、業の意味、そして福音書の中に残されたキリスト証言がどのように人を変えるのか。今の私たちにとって聖書が伝えているイエスという方は、私たちをどのように変えるのか。

今日はそのことを考えたいと思います。

主イエスはこの福音書の中で、御自分のことをいろんな呼び方でおっしゃっています。「私は〇〇である」という言い方をなさっているのを一つ一つを見ていくと、何か霊的な意味をもった言葉でご自身のことを言い現していらっしゃるのがわかります。

6章では、「私は命のパンである」とおっしゃっています。五つのパンと二匹の魚でお腹を満たした群衆に向かって、主イエスは「私は命のパンである」とおっしゃいました。群衆は当然考えさせられることになります。それが、今私たちが読んでいるところです。

この後も、主イエスは8章、9章で「私は世の光である」とおっしゃって、目の見えない人を癒されます。ヨハネ福音書の冒頭で主イエスのことを「この方は光であった」と書かれていますが、主イエスが目の見えない人に光をお与えになったことは、主イエスが世の光である、ということを象徴的に表しています。

10章では、「私は羊の門である」とおっしゃっています。「私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」

神の国を求める人にとって、主イエスご自身が入り口であることを告げていらっしゃいます。

更に10章で「私は良い羊飼いである」ともおっしゃいます。「私は羊のために命を捨てる」と約束なさるのです。

11章では、「私は復活であり 命である」とおっしゃって、死んだラザロという若者を生き返らせます。そして、「私を信じる者は、死んでも生きる」と謎めいたことをおっしゃいます。

弟子達と過ごす最後の夜に、主イエスは「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃいます。主イエスがこれから去って行かれることを知って不安がる弟子達に、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」と言って、御自分が道であり真理であり命であることを示されたのです。

そして最後に、「私はまことのぶどうの木である」と15章でおっしゃいます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と弟子達におっしゃって、「私につながっていなさい」とお命じになります。

このように、主イエスが「私は〇〇である」とおっしゃっている言葉を見ていくと、それだけ聞いてもよくわからない表現ですが、その霊的な意味を探ろうとすると、理解するのは難しくないと思います。

主イエスは、聞く人たちの日常の中にあるものにご自分をたとえていらっしゃいます。実は、神の国への招きは私たちの日常の中にある、ということを主イエスはお教えになっているのです。

さて、主イエスを求めてやってきた群衆は、「主よ、天から降ってくる神のパンをください」と頼みました。すると主イエスは「私が命のパンである」とお答えになります。

「命のパン」と聞いてユダヤ人たちが思い浮かべたのは、出エジプトの際イスラエルに天から与えられたパン、マナでした。イスラエルが、荒野で天からマナを与えられたように、自分たちにも天からパンが降ってくるのではないか、と期待したでしょう。

しかし、そのマナ・パンは、「私のことだ」と主イエスはおっしゃるのです。これを聞いた人たちは、すぐに理解できなかったでしょう。

私たちは、「イエス・キリストが命のパンである」ということは、聖餐式の言葉や賛美歌の歌詞などを通して馴染みがある表現となっていますが、キリストの十字架をまだ知らないこの人たちにとっては、謎の言葉だったでしょう。

申命記を見ると、なぜ神が40年もイスラエルに荒野を歩ませられたのか、なぜ40年も神ご自身がイスラエルと共に歩まれたのか、ということが語られています。神が荒れ野の40年間、マナを彼らにお与えになったのは、「人がパンだけで生きるのではなく神の口から出る全ての言葉によって生きる」ということを悟らせるためであった、とモーセは告げています。

ユダヤ人たちは「天からのパン」という言葉を、単なる食べ物としてのパンではなく、「自分たちを活かす神の言葉」の象徴としてつかってきました。「律法」「聖書」「神の知恵」の象徴です。自分たちを神のもとへと導き、神とともに生きるようにさせる言葉のことを、「天からのパン」と言っていたのです。

箴言9章5節「私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」

主イエスは群衆に「私は命のパンである」とおっしゃり、サマリア人女性には、「私が与える水を飲む者は決して渇かない」とおっしゃいました。主イエスはご自分こそが、世の人々の命の源であり、神ご自身であることをお伝えになっているのです。

しかし、そのことを主イエスの十字架と復活をまだ見ていない人たちは信じることはできませんでした。この群衆は、主イエスが行われた奇跡を見てこの方を預言者と信じ、自分たちの王様にしようとしました。自分たちの都合で、自分たちの期待をかけて主イエスのことを見ていたのです。

今でも、イエス・キリストを特別に思う人はいるでしょう。しかし、聖書の証言を信じて本当に神として従う人はどれだけいるでしょうか。この方を、自分の知恵や知識の型にはめて、自分に何か利益をもたらしてくださる方・何か道徳的な業を行って偉人のように期待して信じる人は多いのです。

私たちも、この群衆と同じようにキリストにパンを求めています。この場面を通して問われるのは、「私たちはキリストにどのようなパンを求めているのか」ということなのです。

私たちは礼拝の中で、「主の祈り」を共に祈ります。その中で、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。日毎の糧とはなんでしょうか。字義通りに言えば、毎日の食べ物、ということになります。

しかしキリストは、弟子達に「私にはあなたたちの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。私たちが信仰を通してしか知ることのできない食べ物・糧があるのです。

主の祈りで「日用の糧・日毎の糧」を祈り求めるということは、単に「今日もお腹が減りませんように」、という願いではありません。神はモーセを通して、荒れ野でマナが与えられてきたイスラエルに、「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃいました。イエス・キリストも、荒野で悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉によって生きる」と言って、誘惑に対抗されました。

私たちがキリストに求めるパンは、荒野のイスラエルを生かし、約束の地へと導き入れた神の言葉・神の導きのことです。それこそが、私たちが日毎に祈り求める天からの糧なのです。神の国へと、また終わりの日の復活へと、永遠の命へと向かわせ、導き入れてくださる神の言葉、キリストの招き、聖霊の働きのことです。 Continue reading

6月30日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:22~35

「私がその命のパンである。私のところに来る人は決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」(6:35)

御自分を追いかけて来た群衆に、イエス・キリストが教えを示されている場面を読みました。

神の業とは何か?

天からのパンとは何か?

無くならない食べ物とは何か?

ヨハネ福音書を見ると、いろんな人たちが、キリストのしるしを見たり、体験したりしています。キリストからしるしを見せられた人々は、そのしるしを通して心を天に向けることを促されています。

しかし、キリストのしるしを見た人たちが皆主イエスのことをキリストであると信じるようになり、信仰の群ができていったか、というとそうではないのです。見せられたキリストのしるしを、世の人々はどのように見たのでしょうか。与えられたキリストの言葉を世の人々はどのように聞いたのでしょうか。どれだけの人が主イエスのことを神の子として信じるようになったでしょうか。反対に、どれだけの人が、自分勝手に解釈したり、信じたいように信じたのでしょうか。

しるしを見せられても、言葉を与えられても、全ての人たちが信じたわけではありませんでした。信じなかった人たち、また信じたとしても誤った信じ方をした人たちの姿が福音書にはありのままに記録されています。

これまでも何人かそのような人たちが登場しました。3章ではニコデモという人が出てきます。

「人は上から生まれなければ神の国に入ることはできない」という主イエスの霊的な言葉を、ニコデモは理解することができませんでした。「なぜそんなことがありえるでしょうか」と答えています。イスラエルの教師でありながら、ニコデモは目の前に現れた神の子の姿を正しく捉えることはできませんでした。

4章では主イエスとサマリア人の女性との会話が書かれています。水くみに来た女性は、「私には尽きることのない命の水がある」という主イエスの言葉を聞いて、「もう水くみに来なくてもいいように、その水をください」と言いました。女性もまた、ニコデモと同じように、主イエスの言葉の表面だけを理解したのです。

しかし、ニコデモもサマリア人女性も、時間をかけて主イエスの霊的な言葉を少しずつ理解していきました。そのように、主イエスに出会った人は、「この方は何者か」ということを、考えさせられることになるのです。そして、しるしと言葉を通して、「この方はメシアだ」という信仰に至るか、「そんな話は聞いていられない」とキリストに背を向けるか、というどちらかの道を選ぶことになっていきます。

山の上から主イエスを追いかけて来た群衆は、どうだったでしょうか。見ていきましょう。

いつの間にか主イエスと弟子達の一行がいなくなったことに気づいた群衆は、主イエスを探し求めて、湖の反対側のカファルナウムまで追いかけて来ました。群衆は主イエスに尋ねます。

「いつここに来られたのですか」

この言葉の中には「なぜ私たちから離れたのですか」という思いも含まれているでしょう。

彼らにはまだ主イエスによって五つのパンと二匹の魚によってお腹いっぱいにしていただいた興奮が残っています。せっかく自分たちの王様になってもらおうとしているのに、どうして自分たちから離れるのか、ということを不思議に思っているのです。

彼らは主イエスのことを、ニコデモが初めそう呼んだように、「ラビ」と呼んでいます。偉大な聖書の教師として見ているのです。同時に、主イエスのことを「やがて来ると預言されていた預言者」と信じ、「この方に自分たちの王様になってもらおう」と願っていました。

「ラビ、いつここに着かれたのですか」という群衆からの質問に対して、主イエスはお答えにならなっていません。むしろ、彼らの質問については全く無視されています。「どうして私たちから離れるのですか。せっかく王様にしようと思っているのに」という人たちの期待に対して、全く応じていらっしゃいません。

主イエスは彼らの心の中に何があるのかをはっきりおっしゃいました。「あなた方が私を求めるのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。」

「自分の都合で私を求めているだけではないか」と痛烈な指摘です。ニコデモも、サマリア人女性も、初めは自分たちの目に見える範囲で主イエスの言葉を理解し、主イエスのお姿を捕らえようとしましたが、ここでの群衆も同じです。

主イエスは「無くなっていく食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物を求めなさい」とおっしゃいました。「君たちは私に求めるものを間違っている。私は地上の王になりたくて業を行ったのではない」ということを、この言葉を通して示されます。群衆を霊的な理解へと導こうとされるのです。

イザヤ書にこういう神の呼びかけの言葉がある。

「渇きを覚えている者は皆水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。・・・なぜ・・・飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良い物を食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、私の下に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」

主イエスが山の上で5000人に行われた奇跡は確かに群衆を満腹させました。しかし、その時パンと魚を食べた人たちは、時間が経つとまたお腹が減るのです。群衆は奇跡をおこなわれた主イエスよりも、自分たちを満たしたパンと魚を欲していました。そのことにはまだ気づいていないようです。

イザヤ預言の言葉の通り、神がお示しになった豊かさは魂の豊かさであり、魂が命を得る、ということなのです。わずか一時、お腹が満たされた、ということで終わるものではありません。主イエスがおっしゃる「無くならない食べ物」とは何か、群衆は改めて考えさせられることになります。

主イエスと群衆の間には大きなズレがあります。このことは、私たちもこの群衆の中に身を置いて共に考えなければならないことです。単なる物質的に満たされるということが、キリストの祝福を得る、ということではないのです。

聖書を読むことで、イエス・キリストを信じることで、その時何かが上手いってそれで終わり、というのが信仰者に与えられる祝福ではありません。キリストを信じていようが信じていまいが、私たちは、生きる上での荒野や嵐を体験します。信仰者がその中で神に祈ることを知り、祈りを通して神の御声をいただける、ということが祝福なのです。

生きる上での荒野においても、嵐においても、イエス・キリストが共にいてくださる、そして祈りを通して「インマヌエル・神我らと共にあり」という真理を身をもって学ばせていただけることこそが、神から与えられる「なくならない食べ物」なのです。

私たちは主の祈りの中で「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。それは、ただ「食べるものをください」、というだけのことではありません。イエス・キリストというパンを求める祈りです。インマヌエルを求め、神に生かされる恵みを求める祈りの言葉なのです。

それでは、主イエスは群衆に、また私たちに対してまず何をお求めになっているのでしょうか。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」

群衆は主イエスに尋ねました。「神の業をなしていくために、私たちは何を行えばよいのでしょうか。」自分たちが何をなすべきか、自分たちはどう生きるべきか、という根本を問うています。

「神の業」と聞くと、自分たちにはとてもできないような、例えば、海を二つに割るような奇跡のことが言われているのか、と身構えてしまうのではないでしょうか。しかし、そういうことではないようです。

「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」

主イエスご自身を信じる、ということがすでに奇跡であり、神の業だ、とおっしゃるのです。イエス・キリストを信じるということは、自分の業でもなく、人の業でもありません。キリストを信じて従うということは、実は神なしにはできないことなのです。

キリストを信じるということは、海を二つに割るよりも、簡単なことに思えるでしょう。しかし、キリストを信じてこの方に一生涯従い抜くということは、実は神の招きがなければできないことであり、人間の業ではなしえないことなのです。

私たちは、主イエスのことを「神から遣わされた神の子である」、と信じても、何かこの世の財産が得られるわけではありません。それでも全力でそれを信じ、その信仰をもって自分の人生の全てを貫くということは、ただ根気があればできるということではありません。 Continue reading

6月23日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:14~24

「私だ。こわがることはない」(6:20)

イエス・キリストが山の上で、御自分を求めてやってきた5000人もの群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させられた、という奇跡を行われました。今日私たちが読んだのは、その後どうなったのか、という場面です。人々が主イエスに感謝し、主イエスは人々を受け入れ、いい絆が生まれた、という話ではありません。むしろ主イエスと群衆はこの奇跡の後、相容れずに、群衆から距離をとることになった、ということが記録されています。

おなかを満たしてもらった人々は「この人は、世に来るはずのあの預言者だ」と言い始めました。イエスという方は、1人の少年が持っていたわずかな食事を、御自分の手で増やして群衆を祝福で満たしてくださいました。「この方は、普通の人ではない、天からの権威を持った預言者に違いない」、と人々は思ったのです。

旧約聖書の申命記にそのような預言があります。申命記18章15節に「いつかモーセのような預言者が起こされるだろう」と書かれているのです。

この時代、ユダヤ人は皆、モーセの再来となる預言者を待っていました。洗礼者ヨハネが荒れ野で人々に洗礼を授けていた時、ユダヤ人たちはエルサレムから人を遣わして「あなたは預言者ですか」と尋ねさせています。申命記に書かれている預言者ではないか、と期待したからです。

主イエスがサマリアで出会われたサマリア人女性も、主イエスと話をしているうちに「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。これも、申命記の預言実現の期待の表れです。

ユダヤ人もサマリア人も、モーセのような預言者が自分たちの下に来るのを待っていたのです。そしてこの山の上で主イエスによってお腹を満たされた人々は、このイエスという方に新しいモーセの姿を見出し、期待を抱いたのです。

人々は、主イエスを求めました。しかし、主イエスは群衆を残して一人で山に引きこもられました。「人々が自分を王にするため、連れて行こうとしているのを知っておられたからである」と書かれています。

人々は預言者に神の言葉を求めたではありませんでした。主イエスのことを「自分たちの王に仕立て上げるために連れて行こうとした」のです。自分たちに都合のいいように主イエスを持ち上げようとしたのです。主イエスはそれを見抜かれました。そして人々の心の内をご覧になって、お一人でそこを後にして山に引きこもられました。

もし主イエスがこのまま群衆の期待に応えて、身を委ねていらっしゃったとしたらどうだったでしょうか。もっと華々しい地上での生活が待っていたかもしれません。人々から尊敬され、十字架などに上げられることなく穏やかに一生を過ごされたかもしれません。

しかし、主イエスが神から与えられた使命は、地上の王になることではありませんでした。人々が求めたのは、自分たちの期待に応えてくれる、都合のいい王様でした。神がお求めになったのは、「命のパンとして、この世に自分の体をささげる」ことでした。

人々は、神の御心を求めて主イエスを求めたのではなかったのです。「この人が自分たちの王様だったらいいじゃないか」という自分たちの思いを満たすために求めたのです。

人間が誰しも持っている、自分本位の期待です。いつの時代にも、誰にでも、あるものでしょう。自分の期待に応えてくれるキリスト、自分が欲しいものを用意してくださるキリストを、都合よく求めてしまいます。

サマリアの女性は、主イエスが「尽きることのない命の水」とおっしゃったのを聞いて、「もう水くみに来なくてもよいのではないか」と勝手に期待しました。同じように、山の上で満腹した人たちも、自分たちに食べ物を豊かに与えてくれる王様として主イエスに期待し、祭り上げようとしました。

人間は、キリストに期待するのです。それはどのような期待でしょうか。神が私に必要なものをくださることよりも、自分が欲しいものを都合よくくれることを求めてしまうのではないでしょうか。神の御業が行われること以上に、自分がしてほしいこと、自分を満たすことを求めてしまうのです。

群集から離れて、山に引きこもられた主イエスは1人になって祈る時間を持たれたのでしょう。御自分の行く手に十字架が待っていることをご存じだった主イエスにとっては群衆の期待は誘惑でした。十字架への道を捨てて、群衆の期待に応えれば、もう受難に向かって歩まなくてよくなります。他の福音書で書かれているように、ゲツセマネの祈りのように、主イエスは血のような汗を流して、祈られたのではないでしょうか。十字架とは別の道が今目の前に見せられていることは誘惑だったでしょう。

主イエスだけでなく、弟子達も群衆から遠ざかりました。人々が主イエスを探し求めている間、弟子達は群衆から離れ、湖に降りていき、船に乗り込んで向こう岸のカファルナウムに行こうとします。

日が沈んで暗くなっても、主イエスは弟子達と合流できていませんでした。仕方ないので弟子達は主イエスが山から下りて来られるのを待たずに、自分たちだけでカファルナウムへとこぎ進んでいきます。

夜の闇の中弟子達の漕ぐ舟は嵐に揺られていました。ガリラヤ湖は山に囲まれていて、夕方には強風が吹く地形になっているそうです。嵐の中、船を5,6キロメートル進めたところで、弟子達は主イエスの姿を見ました。湖の水の上を歩き、自分たちに近づいてくる姿でした。

弟子達は恐れましたが、主イエスが彼らに声をかけられました。

「私だ、もう恐れることはない。」

弟子達は群衆とは離れたところで、また奇跡を見せられました。キリストの弟子達は、キリストの奇跡を一番間近で見た人たちと言っていいでしょう。彼らは主イエスが5000人の人々を満腹させられたのを見、その余ったパンくずを拾いました。12の籠一杯になったパンくずを見て、弟子達は主イエスの祝福の大きさを噛みしめたでしょう。

そしてその夜、また弟子達はキリストのしるしを見せられたのです。水の上を歩かれるキリストのお姿です。

弟子達は恐れました。夜の闇の中、誰かが水の上を歩いているように見えます。怖がるのが当然です。その怖がる弟子達にキリストが何とおっしゃったか。

「私だ、もう恐れることはない。」

この言葉は大切に見たいと思います。キリストがおっしゃったこの「私だ」というのは、英語ではI am です。「私はある」とも訳せるし、「私が共にいる」とも訳せる言葉です。

モーセが神にお名前を尋ねた時に、神は「私はある。私はあるという者だ」とお答えになりました。それと同じ言葉なのです。弟子達は恐れる必要はありませんでした。それがイエス・キリストだったからです。

この世の荒波を生きる私たちの恐れをかき消す言葉、それが、イエス・キリストの

「私だ」という言葉ではないでしょうか。「私があなたとここにいる。共にいるではないか。共にいるのは私ではないか」という励ましの言葉です。

イザヤ書43章に、こういう神の言葉があります。

「あなたたちは私を知り、信じ、理解するであろう・・・わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」

私たちが心の奥底でいつも求めているのは、この神の声ではないでしょうか。

「私だ。私がここにいる。安心しなさい」

この神の声、このキリストの声さえ祈りの中で聞こえれば、私達は嵐の中にあっても安心できるのです。

私達は、普段は自分の考えで行動し、何かあれば誰かのアドバイスを求めます。「そういう時はこうすればいい」と言ってもらえれば助かります。

しかし、人の知恵や頑張りではどうしようもない時があります。この世の荒野、この世の嵐とでもいうべき、どうしようもない時です。イスラエルはエジプトを脱出しても、目の前に海があってそれ以上前に進めなくなってしまいました。同じように、私たちが生きる道が突然断たれることがあります。

その時に本当に求めるのは、人間の知恵や工夫ではありません。ただ静かに神の声を待つしかない時があるのです。祈るしかない時。 Continue reading