MIYAKEJIMA CHURCH

7月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:34~40

「私が、その命のパンである。私のところに来る人は、決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」

イエス・キリストは、御自分を非難してきたユダヤ人たちにおっしゃいました。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

福音書を読むと、たくさんの人たちが、主イエスが行われた奇跡のしるしを目撃したことが書かれています。しかし、その人たちが全て「この方はまことにキリストだ」と信じたわけではありませんでした。

しるしを見たことによって、主イエスのことを自分に都合よく理解して、自分勝手に期待した人たちがいました。主イエスの教えを聞いて、「自分の聖書の理解とは違う」、と拒絶したりする人もいました。

主イエスご自身が、「聖書は私について証しをするものだ」とおっしゃっているように、福音書はいろいろな角度から、「この方こそ神の子・キリストである」と私たちに伝えています。そして、キリストをキリストとして受け入れなかった人たちの姿を通して、私たちは自分の信仰を、また聖書に対する私たちの姿勢を問うているのです。

このイエスという方が何者なのか。この方の言葉・業の権威はどこから来ているのか。

その言葉の意味、業の意味、そして福音書の中に残されたキリスト証言がどのように人を変えるのか。今の私たちにとって聖書が伝えているイエスという方は、私たちをどのように変えるのか。

今日はそのことを考えたいと思います。

主イエスはこの福音書の中で、御自分のことをいろんな呼び方でおっしゃっています。「私は〇〇である」という言い方をなさっているのを一つ一つを見ていくと、何か霊的な意味をもった言葉でご自身のことを言い現していらっしゃるのがわかります。

6章では、「私は命のパンである」とおっしゃっています。五つのパンと二匹の魚でお腹を満たした群衆に向かって、主イエスは「私は命のパンである」とおっしゃいました。群衆は当然考えさせられることになります。それが、今私たちが読んでいるところです。

この後も、主イエスは8章、9章で「私は世の光である」とおっしゃって、目の見えない人を癒されます。ヨハネ福音書の冒頭で主イエスのことを「この方は光であった」と書かれていますが、主イエスが目の見えない人に光をお与えになったことは、主イエスが世の光である、ということを象徴的に表しています。

10章では、「私は羊の門である」とおっしゃっています。「私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」

神の国を求める人にとって、主イエスご自身が入り口であることを告げていらっしゃいます。

更に10章で「私は良い羊飼いである」ともおっしゃいます。「私は羊のために命を捨てる」と約束なさるのです。

11章では、「私は復活であり 命である」とおっしゃって、死んだラザロという若者を生き返らせます。そして、「私を信じる者は、死んでも生きる」と謎めいたことをおっしゃいます。

弟子達と過ごす最後の夜に、主イエスは「私は道であり、真理であり、命である」とおっしゃいます。主イエスがこれから去って行かれることを知って不安がる弟子達に、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える」と言って、御自分が道であり真理であり命であることを示されたのです。

そして最後に、「私はまことのぶどうの木である」と15章でおっしゃいます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と弟子達におっしゃって、「私につながっていなさい」とお命じになります。

このように、主イエスが「私は〇〇である」とおっしゃっている言葉を見ていくと、それだけ聞いてもよくわからない表現ですが、その霊的な意味を探ろうとすると、理解するのは難しくないと思います。

主イエスは、聞く人たちの日常の中にあるものにご自分をたとえていらっしゃいます。実は、神の国への招きは私たちの日常の中にある、ということを主イエスはお教えになっているのです。

さて、主イエスを求めてやってきた群衆は、「主よ、天から降ってくる神のパンをください」と頼みました。すると主イエスは「私が命のパンである」とお答えになります。

「命のパン」と聞いてユダヤ人たちが思い浮かべたのは、出エジプトの際イスラエルに天から与えられたパン、マナでした。イスラエルが、荒野で天からマナを与えられたように、自分たちにも天からパンが降ってくるのではないか、と期待したでしょう。

しかし、そのマナ・パンは、「私のことだ」と主イエスはおっしゃるのです。これを聞いた人たちは、すぐに理解できなかったでしょう。

私たちは、「イエス・キリストが命のパンである」ということは、聖餐式の言葉や賛美歌の歌詞などを通して馴染みがある表現となっていますが、キリストの十字架をまだ知らないこの人たちにとっては、謎の言葉だったでしょう。

申命記を見ると、なぜ神が40年もイスラエルに荒野を歩ませられたのか、なぜ40年も神ご自身がイスラエルと共に歩まれたのか、ということが語られています。神が荒れ野の40年間、マナを彼らにお与えになったのは、「人がパンだけで生きるのではなく神の口から出る全ての言葉によって生きる」ということを悟らせるためであった、とモーセは告げています。

ユダヤ人たちは「天からのパン」という言葉を、単なる食べ物としてのパンではなく、「自分たちを活かす神の言葉」の象徴としてつかってきました。「律法」「聖書」「神の知恵」の象徴です。自分たちを神のもとへと導き、神とともに生きるようにさせる言葉のことを、「天からのパン」と言っていたのです。

箴言9章5節「私のパンを食べ、私が調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」

主イエスは群衆に「私は命のパンである」とおっしゃり、サマリア人女性には、「私が与える水を飲む者は決して渇かない」とおっしゃいました。主イエスはご自分こそが、世の人々の命の源であり、神ご自身であることをお伝えになっているのです。

しかし、そのことを主イエスの十字架と復活をまだ見ていない人たちは信じることはできませんでした。この群衆は、主イエスが行われた奇跡を見てこの方を預言者と信じ、自分たちの王様にしようとしました。自分たちの都合で、自分たちの期待をかけて主イエスのことを見ていたのです。

今でも、イエス・キリストを特別に思う人はいるでしょう。しかし、聖書の証言を信じて本当に神として従う人はどれだけいるでしょうか。この方を、自分の知恵や知識の型にはめて、自分に何か利益をもたらしてくださる方・何か道徳的な業を行って偉人のように期待して信じる人は多いのです。

私たちも、この群衆と同じようにキリストにパンを求めています。この場面を通して問われるのは、「私たちはキリストにどのようなパンを求めているのか」ということなのです。

私たちは礼拝の中で、「主の祈り」を共に祈ります。その中で、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ります。日毎の糧とはなんでしょうか。字義通りに言えば、毎日の食べ物、ということになります。

しかしキリストは、弟子達に「私にはあなたたちの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。私たちが信仰を通してしか知ることのできない食べ物・糧があるのです。

主の祈りで「日用の糧・日毎の糧」を祈り求めるということは、単に「今日もお腹が減りませんように」、という願いではありません。神はモーセを通して、荒れ野でマナが与えられてきたイスラエルに、「人はパンだけで生きるのではない」とおっしゃいました。イエス・キリストも、荒野で悪魔に対して「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る言葉によって生きる」と言って、誘惑に対抗されました。

私たちがキリストに求めるパンは、荒野のイスラエルを生かし、約束の地へと導き入れた神の言葉・神の導きのことです。それこそが、私たちが日毎に祈り求める天からの糧なのです。神の国へと、また終わりの日の復活へと、永遠の命へと向かわせ、導き入れてくださる神の言葉、キリストの招き、聖霊の働きのことです。 Continue reading

6月30日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:22~35

「私がその命のパンである。私のところに来る人は決して飢えることがない。私を信じる人は、決して渇くことがない」(6:35)

御自分を追いかけて来た群衆に、イエス・キリストが教えを示されている場面を読みました。

神の業とは何か?

天からのパンとは何か?

無くならない食べ物とは何か?

ヨハネ福音書を見ると、いろんな人たちが、キリストのしるしを見たり、体験したりしています。キリストからしるしを見せられた人々は、そのしるしを通して心を天に向けることを促されています。

しかし、キリストのしるしを見た人たちが皆主イエスのことをキリストであると信じるようになり、信仰の群ができていったか、というとそうではないのです。見せられたキリストのしるしを、世の人々はどのように見たのでしょうか。与えられたキリストの言葉を世の人々はどのように聞いたのでしょうか。どれだけの人が主イエスのことを神の子として信じるようになったでしょうか。反対に、どれだけの人が、自分勝手に解釈したり、信じたいように信じたのでしょうか。

しるしを見せられても、言葉を与えられても、全ての人たちが信じたわけではありませんでした。信じなかった人たち、また信じたとしても誤った信じ方をした人たちの姿が福音書にはありのままに記録されています。

これまでも何人かそのような人たちが登場しました。3章ではニコデモという人が出てきます。

「人は上から生まれなければ神の国に入ることはできない」という主イエスの霊的な言葉を、ニコデモは理解することができませんでした。「なぜそんなことがありえるでしょうか」と答えています。イスラエルの教師でありながら、ニコデモは目の前に現れた神の子の姿を正しく捉えることはできませんでした。

4章では主イエスとサマリア人の女性との会話が書かれています。水くみに来た女性は、「私には尽きることのない命の水がある」という主イエスの言葉を聞いて、「もう水くみに来なくてもいいように、その水をください」と言いました。女性もまた、ニコデモと同じように、主イエスの言葉の表面だけを理解したのです。

しかし、ニコデモもサマリア人女性も、時間をかけて主イエスの霊的な言葉を少しずつ理解していきました。そのように、主イエスに出会った人は、「この方は何者か」ということを、考えさせられることになるのです。そして、しるしと言葉を通して、「この方はメシアだ」という信仰に至るか、「そんな話は聞いていられない」とキリストに背を向けるか、というどちらかの道を選ぶことになっていきます。

山の上から主イエスを追いかけて来た群衆は、どうだったでしょうか。見ていきましょう。

いつの間にか主イエスと弟子達の一行がいなくなったことに気づいた群衆は、主イエスを探し求めて、湖の反対側のカファルナウムまで追いかけて来ました。群衆は主イエスに尋ねます。

「いつここに来られたのですか」

この言葉の中には「なぜ私たちから離れたのですか」という思いも含まれているでしょう。

彼らにはまだ主イエスによって五つのパンと二匹の魚によってお腹いっぱいにしていただいた興奮が残っています。せっかく自分たちの王様になってもらおうとしているのに、どうして自分たちから離れるのか、ということを不思議に思っているのです。

彼らは主イエスのことを、ニコデモが初めそう呼んだように、「ラビ」と呼んでいます。偉大な聖書の教師として見ているのです。同時に、主イエスのことを「やがて来ると預言されていた預言者」と信じ、「この方に自分たちの王様になってもらおう」と願っていました。

「ラビ、いつここに着かれたのですか」という群衆からの質問に対して、主イエスはお答えにならなっていません。むしろ、彼らの質問については全く無視されています。「どうして私たちから離れるのですか。せっかく王様にしようと思っているのに」という人たちの期待に対して、全く応じていらっしゃいません。

主イエスは彼らの心の中に何があるのかをはっきりおっしゃいました。「あなた方が私を求めるのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。」

「自分の都合で私を求めているだけではないか」と痛烈な指摘です。ニコデモも、サマリア人女性も、初めは自分たちの目に見える範囲で主イエスの言葉を理解し、主イエスのお姿を捕らえようとしましたが、ここでの群衆も同じです。

主イエスは「無くなっていく食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物を求めなさい」とおっしゃいました。「君たちは私に求めるものを間違っている。私は地上の王になりたくて業を行ったのではない」ということを、この言葉を通して示されます。群衆を霊的な理解へと導こうとされるのです。

イザヤ書にこういう神の呼びかけの言葉がある。

「渇きを覚えている者は皆水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。・・・なぜ・・・飢えを満たさぬもののために労するのか。私に聞き従えば、良い物を食べることが出来る。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、私の下に来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」

主イエスが山の上で5000人に行われた奇跡は確かに群衆を満腹させました。しかし、その時パンと魚を食べた人たちは、時間が経つとまたお腹が減るのです。群衆は奇跡をおこなわれた主イエスよりも、自分たちを満たしたパンと魚を欲していました。そのことにはまだ気づいていないようです。

イザヤ預言の言葉の通り、神がお示しになった豊かさは魂の豊かさであり、魂が命を得る、ということなのです。わずか一時、お腹が満たされた、ということで終わるものではありません。主イエスがおっしゃる「無くならない食べ物」とは何か、群衆は改めて考えさせられることになります。

主イエスと群衆の間には大きなズレがあります。このことは、私たちもこの群衆の中に身を置いて共に考えなければならないことです。単なる物質的に満たされるということが、キリストの祝福を得る、ということではないのです。

聖書を読むことで、イエス・キリストを信じることで、その時何かが上手いってそれで終わり、というのが信仰者に与えられる祝福ではありません。キリストを信じていようが信じていまいが、私たちは、生きる上での荒野や嵐を体験します。信仰者がその中で神に祈ることを知り、祈りを通して神の御声をいただける、ということが祝福なのです。

生きる上での荒野においても、嵐においても、イエス・キリストが共にいてくださる、そして祈りを通して「インマヌエル・神我らと共にあり」という真理を身をもって学ばせていただけることこそが、神から与えられる「なくならない食べ物」なのです。

私たちは主の祈りの中で「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。それは、ただ「食べるものをください」、というだけのことではありません。イエス・キリストというパンを求める祈りです。インマヌエルを求め、神に生かされる恵みを求める祈りの言葉なのです。

それでは、主イエスは群衆に、また私たちに対してまず何をお求めになっているのでしょうか。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」

群衆は主イエスに尋ねました。「神の業をなしていくために、私たちは何を行えばよいのでしょうか。」自分たちが何をなすべきか、自分たちはどう生きるべきか、という根本を問うています。

「神の業」と聞くと、自分たちにはとてもできないような、例えば、海を二つに割るような奇跡のことが言われているのか、と身構えてしまうのではないでしょうか。しかし、そういうことではないようです。

「神が遣わした者を信じること、これが神の業である」

主イエスご自身を信じる、ということがすでに奇跡であり、神の業だ、とおっしゃるのです。イエス・キリストを信じるということは、自分の業でもなく、人の業でもありません。キリストを信じて従うということは、実は神なしにはできないことなのです。

キリストを信じるということは、海を二つに割るよりも、簡単なことに思えるでしょう。しかし、キリストを信じてこの方に一生涯従い抜くということは、実は神の招きがなければできないことであり、人間の業ではなしえないことなのです。

私たちは、主イエスのことを「神から遣わされた神の子である」、と信じても、何かこの世の財産が得られるわけではありません。それでも全力でそれを信じ、その信仰をもって自分の人生の全てを貫くということは、ただ根気があればできるということではありません。 Continue reading

6月23日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:14~24

「私だ。こわがることはない」(6:20)

イエス・キリストが山の上で、御自分を求めてやってきた5000人もの群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させられた、という奇跡を行われました。今日私たちが読んだのは、その後どうなったのか、という場面です。人々が主イエスに感謝し、主イエスは人々を受け入れ、いい絆が生まれた、という話ではありません。むしろ主イエスと群衆はこの奇跡の後、相容れずに、群衆から距離をとることになった、ということが記録されています。

おなかを満たしてもらった人々は「この人は、世に来るはずのあの預言者だ」と言い始めました。イエスという方は、1人の少年が持っていたわずかな食事を、御自分の手で増やして群衆を祝福で満たしてくださいました。「この方は、普通の人ではない、天からの権威を持った預言者に違いない」、と人々は思ったのです。

旧約聖書の申命記にそのような預言があります。申命記18章15節に「いつかモーセのような預言者が起こされるだろう」と書かれているのです。

この時代、ユダヤ人は皆、モーセの再来となる預言者を待っていました。洗礼者ヨハネが荒れ野で人々に洗礼を授けていた時、ユダヤ人たちはエルサレムから人を遣わして「あなたは預言者ですか」と尋ねさせています。申命記に書かれている預言者ではないか、と期待したからです。

主イエスがサマリアで出会われたサマリア人女性も、主イエスと話をしているうちに「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。これも、申命記の預言実現の期待の表れです。

ユダヤ人もサマリア人も、モーセのような預言者が自分たちの下に来るのを待っていたのです。そしてこの山の上で主イエスによってお腹を満たされた人々は、このイエスという方に新しいモーセの姿を見出し、期待を抱いたのです。

人々は、主イエスを求めました。しかし、主イエスは群衆を残して一人で山に引きこもられました。「人々が自分を王にするため、連れて行こうとしているのを知っておられたからである」と書かれています。

人々は預言者に神の言葉を求めたではありませんでした。主イエスのことを「自分たちの王に仕立て上げるために連れて行こうとした」のです。自分たちに都合のいいように主イエスを持ち上げようとしたのです。主イエスはそれを見抜かれました。そして人々の心の内をご覧になって、お一人でそこを後にして山に引きこもられました。

もし主イエスがこのまま群衆の期待に応えて、身を委ねていらっしゃったとしたらどうだったでしょうか。もっと華々しい地上での生活が待っていたかもしれません。人々から尊敬され、十字架などに上げられることなく穏やかに一生を過ごされたかもしれません。

しかし、主イエスが神から与えられた使命は、地上の王になることではありませんでした。人々が求めたのは、自分たちの期待に応えてくれる、都合のいい王様でした。神がお求めになったのは、「命のパンとして、この世に自分の体をささげる」ことでした。

人々は、神の御心を求めて主イエスを求めたのではなかったのです。「この人が自分たちの王様だったらいいじゃないか」という自分たちの思いを満たすために求めたのです。

人間が誰しも持っている、自分本位の期待です。いつの時代にも、誰にでも、あるものでしょう。自分の期待に応えてくれるキリスト、自分が欲しいものを用意してくださるキリストを、都合よく求めてしまいます。

サマリアの女性は、主イエスが「尽きることのない命の水」とおっしゃったのを聞いて、「もう水くみに来なくてもよいのではないか」と勝手に期待しました。同じように、山の上で満腹した人たちも、自分たちに食べ物を豊かに与えてくれる王様として主イエスに期待し、祭り上げようとしました。

人間は、キリストに期待するのです。それはどのような期待でしょうか。神が私に必要なものをくださることよりも、自分が欲しいものを都合よくくれることを求めてしまうのではないでしょうか。神の御業が行われること以上に、自分がしてほしいこと、自分を満たすことを求めてしまうのです。

群集から離れて、山に引きこもられた主イエスは1人になって祈る時間を持たれたのでしょう。御自分の行く手に十字架が待っていることをご存じだった主イエスにとっては群衆の期待は誘惑でした。十字架への道を捨てて、群衆の期待に応えれば、もう受難に向かって歩まなくてよくなります。他の福音書で書かれているように、ゲツセマネの祈りのように、主イエスは血のような汗を流して、祈られたのではないでしょうか。十字架とは別の道が今目の前に見せられていることは誘惑だったでしょう。

主イエスだけでなく、弟子達も群衆から遠ざかりました。人々が主イエスを探し求めている間、弟子達は群衆から離れ、湖に降りていき、船に乗り込んで向こう岸のカファルナウムに行こうとします。

日が沈んで暗くなっても、主イエスは弟子達と合流できていませんでした。仕方ないので弟子達は主イエスが山から下りて来られるのを待たずに、自分たちだけでカファルナウムへとこぎ進んでいきます。

夜の闇の中弟子達の漕ぐ舟は嵐に揺られていました。ガリラヤ湖は山に囲まれていて、夕方には強風が吹く地形になっているそうです。嵐の中、船を5,6キロメートル進めたところで、弟子達は主イエスの姿を見ました。湖の水の上を歩き、自分たちに近づいてくる姿でした。

弟子達は恐れましたが、主イエスが彼らに声をかけられました。

「私だ、もう恐れることはない。」

弟子達は群衆とは離れたところで、また奇跡を見せられました。キリストの弟子達は、キリストの奇跡を一番間近で見た人たちと言っていいでしょう。彼らは主イエスが5000人の人々を満腹させられたのを見、その余ったパンくずを拾いました。12の籠一杯になったパンくずを見て、弟子達は主イエスの祝福の大きさを噛みしめたでしょう。

そしてその夜、また弟子達はキリストのしるしを見せられたのです。水の上を歩かれるキリストのお姿です。

弟子達は恐れました。夜の闇の中、誰かが水の上を歩いているように見えます。怖がるのが当然です。その怖がる弟子達にキリストが何とおっしゃったか。

「私だ、もう恐れることはない。」

この言葉は大切に見たいと思います。キリストがおっしゃったこの「私だ」というのは、英語ではI am です。「私はある」とも訳せるし、「私が共にいる」とも訳せる言葉です。

モーセが神にお名前を尋ねた時に、神は「私はある。私はあるという者だ」とお答えになりました。それと同じ言葉なのです。弟子達は恐れる必要はありませんでした。それがイエス・キリストだったからです。

この世の荒波を生きる私たちの恐れをかき消す言葉、それが、イエス・キリストの

「私だ」という言葉ではないでしょうか。「私があなたとここにいる。共にいるではないか。共にいるのは私ではないか」という励ましの言葉です。

イザヤ書43章に、こういう神の言葉があります。

「あなたたちは私を知り、信じ、理解するであろう・・・わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない」

私たちが心の奥底でいつも求めているのは、この神の声ではないでしょうか。

「私だ。私がここにいる。安心しなさい」

この神の声、このキリストの声さえ祈りの中で聞こえれば、私達は嵐の中にあっても安心できるのです。

私達は、普段は自分の考えで行動し、何かあれば誰かのアドバイスを求めます。「そういう時はこうすればいい」と言ってもらえれば助かります。

しかし、人の知恵や頑張りではどうしようもない時があります。この世の荒野、この世の嵐とでもいうべき、どうしようもない時です。イスラエルはエジプトを脱出しても、目の前に海があってそれ以上前に進めなくなってしまいました。同じように、私たちが生きる道が突然断たれることがあります。

その時に本当に求めるのは、人間の知恵や工夫ではありません。ただ静かに神の声を待つしかない時があるのです。祈るしかない時。 Continue reading

6月16日の礼拝説教

ヨハネ福音書6:1~15

「人々が満ち足りると、自分の弟子達に言った。『無駄になるものが何も内容、余ったパンくずを集めなさい』」(6:12)

エルサレムで38年間病気で苦しんでいた人を癒された主イエスは、その日が安息日であったためにユダヤ人たちから敵意を持たれるようになりました。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ」という言葉を聞いて、ユダヤ人たちは、安息日の規定を破るだけでなく、自分を神と等しい者として語る主イエスを見過ごすことはできなくなったのです。

主イエスはユダヤ人たちに御自分には神から救いと裁きの全てが任されていることを明らかにされました。そして、悲しみながらおっしゃいます。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。モーセは、私について書いているからである。モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることが出来ようか。」

この言葉を残して、主イエスはエルサレムを離れて行かれました。北のガリラヤへと戻り、更にガリラヤ湖の向こう岸へと渡って行かれました。御自分を迫害するユダヤ人たちと距離を置こうとされたのでしょう。

しかし、ここには「大勢の群衆が後を追った」と書かれています。主イエスが病人たちになさったしるしを見た人たちでしょう。「あの方はたくさんの病人を癒された。あの方には何かある」、そう思う人たちも多くいたのです。その人たちはエルサレムから主イエスを追い求めました。

今日私たちが読んだのは、弟子達と共に山に登って退かれた主イエスが御自分を追って来た5000人の群衆を満腹させられた、という出来事です。イエス・キリストがわずかのパンと魚で、何千人もの人たちのおなかを満たされたという奇跡は、有名で全ての福音書に記されています。特に、ヨハネ福音書では、十字架へと逮捕される前に群衆に対して行われた唯一のしるしとして描いています。

この出来事から、「永遠の命にいたる食べ物」とは何か、という議論へと発展していくことになります。そして、この時主イエスを求めて来た群衆は、「私が与えるパンとは、世を活かすための私の肉のことである」というキリストの言葉を聞いて、やがて離れていくことになってしまうのです。

この世に理解されないイエス・キリストのお姿・言葉を通して、私たちは、私たちのために捧げられるキリストの血・体について考えさせられていくことになります。

さて、主イエスは群衆がご自分の方に近づいてくるのをご覧になります。普通だったら、「こんなにたくさんの人たちが自分を追って来たが、どうしようか」と焦るのではないでしょうか。しかし主イエスは、焦っていらっしゃいません。

この場面で見過ごしてならないのは、ヨハネ福音書がこの奇跡を、「過越祭の時期に」「山の上」で行われた出来事として描いている、ということです。出エジプト記を見ると、神が荒野のシナイ山の上で、御自分を求めて登って来たモーセに、律法の言葉・命の言葉をお与えになったことが書かれています。山の上で群衆を迎えられた主イエスのお姿は、シナイ山の上でイスラエルを迎え入れられた神のお姿と重なるのです。

群衆が山に登って来たのをご覧になって、主イエスは傍らにいたフィリポに質問をされました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。主イエスは「フィリポを試された」、と書かれています。

黙って御自分1人だけで5000人の人たちの空腹を満たす、ということだって当然お出来になったでしょう。しかし主イエスは御自分の弟子にお尋ねになるのです。。

「どうすればいいと思うか」

フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。200デナリオンとあるが、これは200日分の賃金に相当するお金だ。6ヶ月から7ヶ月分の給与に相当する。かなりの額のお金だが、5000人にパンを配るとなると、全く足りません。つまり、「今の自分たちの手持ちのお金ではどうしようもありません」、と答えたのです。

主イエスは以前サマリアで「私にはあなた方の知らない食べ物がある」と弟子達におっしゃったことがあります。弟子達はその言葉を覚えていたでしょうか。フィリポは主イエスの旅の初めから従って来た弟子です。ここまでいろんな主イエスの奇跡を見て来たはずです。しかし、まだ、「私たちには何もありませんが、ここにあなたがいらっしゃいます」と言うことはできませんでした。「お金はありますが、5000人相手では無理です」と答えるしかなかったのです。

次に弟子のアンデレが少年を主イエスのもとに連れて来て、言いました。

「ここに大麦のパン五つと魚に引き取を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」

「大麦のパン」というのは貧しい人の食べ物でした。小麦のパンの値段の1/3の値段でした(ヨハネ黙示録 6章6節)。ここで書かれている「二匹の魚」というのは小さな干し魚、もしくは漬物の魚のことです。

この少年が持っていた食事は、とても小さく貧しいものでした。ヨハネ福音書だけ、このように、二匹の魚と五つのパンが、貧しい食料だったことを具体的に記録しています。

フィリポも、アンデレも、自分たちの手元に何があるのかを数えました。しかし5000人のお腹を満たすためには無力だということを痛感していたのです。

主イエスは弟子達の言葉をお聞きになってから、やって来た5000人の群衆を座らせられました。そして大麦のパンと二匹の魚を手に取り、「感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に欲しいだけ分け与えられた」と書かれています。

群衆は、奇跡を体験しました。「欲しい分だけ与えられた」というのです。キリストに救いを求める人たちが体験する祝福の奇跡がここにあります。群衆は驚いでしょう。

しかし、それ以上に、本当の意味でこの奇跡の大きさを体験したのは、弟子達だったのではないでしょうか。自分たちの手元に何がどれだけあるか、を弟子達は知っていました。5000人もの人たちを満腹させることなど考えられなかったはずです。

「自分たちが知らない食べ物がある」と主イエスがおっしゃった言葉を、弟子達はこのように、キリストに従う中で少しずつ見せられていった。

これは、教会の体験です。教会はキリストに従う中でこのようなことを体験するのです。自分たちの群れに何が足りないかを考えた時、いくらでも足りないものを数えることが出来るでしょう。

しかし、キリストは「主よ、あれがありません、これも足りません」と言う私たちの焦りを聞きながら、救いの奇跡を行われるのです。私たちは「私には、あなたたちが知らないものがある」という声を聞かされていくのです。足りないものばかり数える私たちに、キリストが共にいてくださっている、という一番大切な祝福を見せてくださるのです。

主イエスは、弟子達に一つの役割を最後にお与えになりました。

「少しも無駄にならないように残ったパンのクズを集めなさい」

弟子達は自分たちの手元にあった食事がどんなに貧しく小さいものであるかを知っていました。それなのに、5000人の人たちのお腹を足して、有り余った分があった、というのです。パンくずを集めながら、キリストがくださる祝福の大きさに打たれていたのではないでしょうか。

主イエスは小さな貧しい食事を大きな祝福へと変えられました。私達の手元にあるものは、小さなものです。教会は貧しいのです。教会は弱いのです。しかし、小さなパン屑ほどの祈りがあれば、キリストはそれを大きな祝福へと変えてくださいます。教会はそれを見せられる。それが教会の強さです。

そしてその祝福は、さらにまたちいさなパン屑を生み出し、それが新しい人への祝福となって行きます。私達はそのような聖霊による祝福の循環の中を生かされていることを知るのです。

キリストは、たとえそれが少しであっても、祝福が無駄になることを惜しまれます。それはつまり、ご自分から離れている全ての人をそれだけ惜しまれている、ということです。

この後6章39節で主イエスは、こうおっしゃっている。

「私をお遣わしになった方のみ心とは私に与えてくださった人を一人も失わないで終わりの日に復活させることである。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」

誰一人失いたくないという神の御心がこのキリストの言葉に表れています。ヨハネ福音書のこの5000人の給食と呼ばれる出来事は表面を読んだだけではなかなかわからない隠された意味があります。弟子達はこの山の上で、主イエスが「あなた方の知らない食べ物」とおっしゃったものを見ました。

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」 Continue reading

6月9日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:39~47

「モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることが出来ようか」(5:47)

ベトザタの池で38年間寝たきりだった人を主イエスが安息日に癒された、ということから始まる、ユダヤ人たちと主イエスの間に交わされた議論を読んでいます。それが安息日でなければ、奇跡を行って歩けなかった人を起こされた主イエスは人々から賞賛を受けたのではないでしょうか。

そもそも主イエスはなぜ安息日に癒しの奇跡を行われたのでしょうか。日を改めて癒しを行えば、こんな面倒に巻き込まれずに済んだのです。考えられるのは、主イエスがむしろ安息日をお選びになって癒しの奇跡を行われた、ということです。「何の仕事もしてはならない」と律法で言われている安息日をあえてお選びになって、癒しの奇跡を行い、癒された人に向かって「床を担いで歩きなさい」とおっしゃったのではないでしょうか。

マルコ福音書3章にも、これとよく似た出来事が記録されています。主イエスが安息日に会堂にお入りになった時に、片手の萎えた人がいました。主イエスはその人を会堂の真ん中に立たせて、人々に質問されました。

「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」

黙り込む人々をご覧になってから、主イエスはその人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃって、癒されました。普通であれば、「この人は良いことをした」と言われるところでしょう。しかしその場にいたファリサイ派の人たちは、イエスを殺そうと相談し始めた、と書かれています。

それほど当時の人々は「安息日には仕事をしてはならない」ということを徹底していました。しかし考えてみると、安息日とは「善を行い、命を救う」ということすら許されていない日なのでしょうか。福音書を見ると、主イエスは「安息日とは何か。安息日の主は誰か。安息日とは何のためにあるのか」ということを人々に問いかけていらっしゃいます。

ユダヤ人たちは、主イエスに向かって「あなたがしたことは安息日の規定に違反している」と言いました。それに対して主イエスは「私は天の父から救いも裁きも任されている」とおっしゃっています。言い方を変えると、「安息日は私のためにあり、救いも裁きも、いつ行うかは私が決める」ということでしょう。

私たちはどうやって、主イエスとユダヤ人たちのどちらの主張が正しいのかを判断すればいいのでしょうか。人々は、主イエスが「自分は神から全ての権能を授かっている」とおっしゃったところで信じなかったでしょう。それを聞かされた人たちにすれば、それは自己主張にしか過ぎません。

では、主イエスがおっしゃっていることが真実であると誰が証明してくれるのでしょうか。今日読んだところで主イエスがおっしゃっているのは、聖書であり、モーセの掟そのものでした。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをする者だ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」

「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることを信じることが出来ようか」

どちらも主イエスの悲しみが満ちている言葉です。「聖書を読んでいるのに、モーセの掟を大切にしているのに、私のことが見えないのか」、という嘆きです。

だから主イエスはおっしゃるのです。

「あなたたちの内には神への愛がないことを、私は知っている。私は父の名によって来たのに、あなたたちは私を受け入れない」

ユダヤ人たちにとって最も大切なものは、モーセの律法でした。私たちは、主イエスが安息日に人を癒されたということをどう見ればいいのでしょうか。

十戒の中で神はこうおっしゃっています。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」

仕事の手を止めて、神に心を向ける日として安息日が与えられています。私達が考えなければならないのは、「いかなる仕事もしてはならない」というのは、「人を癒してはならない」、ということでもあるのか、ということです。

七日目を「聖別しなさい」、というのは、特別に他の六日とは「区別しなさい」、ということです。自分のためではなく神のために自分を時間を使う日です。それでは、主イエスが病の人を癒されたことは、「神に心を向けていない」、ということなのでしょうか。

このように考えて行くと、聖書の言葉の読み方ということに慎重であらなければならないと思わされます。確かに、ユダヤ人たちは、聖書の研究に熱心でした。しかし、主イエスからすれば、細かい掟の分析や実践に偏ってしまい、聖書全体が伝えようとしている大事な点を彼らは見失っていたのです。

聖書は何のための言葉なのでしょうか。聖書の全ての言葉は、神の元へと人々を導くためのものです。そして、神の元へと導いてくださるメシアに目を指し示す言葉です。

たとえ聖書を熱心に読んでいたとしても、神の御心とは違うものに心が向いていてしまいメシアを見ることができなくなってしまっていたとすれば、それは「ただ聖書の研究をしただけ」、ということになってしまいます。

イエス・キリストに出会い、キリストと対話をし、キリストと共に生きるという道へと向かわないのであれば、それは本当に「聖書の言葉を読んだ」ということにならないでしょう。

主イエスのことを非難するユダヤ人たちの中に、主イエスの御業の中に神の愛を見いだすという視点はありませんでした。「安息日に神が誰かの癒しをお求めになった」、とは見ずに、「イエスは安息日の規定をやぶった」、という見方をしてしまっています。

さて、私たちの聖書の読み方はどうでしょうか。何を求めて 聖書を読んでいるのでしょうか。人に褒められることでしょうか。

主イエスは41節で「人間からの誉れは受けない」とおっしゃっています。人々から賞賛を得るために病を癒されたのではありませんでした。普段「人からの誉れ」を欲している私たちには、耳に痛い言葉ではないでしょうか。

たくさんの支持者がいる、ということが一つの正しさの基準となることがあります。1世紀にはたくさんの「自分こそメシアだ」と主張する人たちがいてその周りには支持者たちもいました。そういう人間による称賛を受けた人たちのことをユダヤ人たちは受け入れていたのです。誰かが人から尊敬を受けている、人から支持されている、ということを聞くと、その人はきっと正しいに違いないとすぐに考えてしまうのが人間です。

「神を愛し、隣人を愛すること。これに勝る掟はない」とイエス・キリストはおっしゃいました。全ての律法はこの二つの掟にかかっている、と主は示されます。もし我々が聖書の言葉、律法の言葉を読んで、神への愛、隣人への愛を深めることが出来なければ、また自分の愛の薄さに気づくことがなければ、本当には聖書を読んだ、ということにはならないでしょう。

ユダヤ人たちは、聖書の言葉に対して確かに真剣でした。しかしその真剣さゆえに、本質を見失うほど律法の細かな解釈に引きずられてしまっていました。安息日に、一人の人が神の子と出会い、その人を癒された、という奇跡の御業の中に、神の愛と隣人を思う愛を見出せていません。

神は、御自分への愛、隣人への愛を私たちにお求めになっています。そのために、御自分の言葉を聖書という形で残してくださっているのです。

ここでのユダヤ人たちの姿を見て思わされるのは、ただ神の栄光のみを求めて聖書を読むということは難しい、ということです。聖書の言葉を「あの人は信仰者らしくない」と裁くための道具にしてしまっているとしたらどうでしょうか。聖書を読んで、「自分は模範的なクリスチャンではない」と自分を責める道具にしてしまってはいないでしょうか。そんな読み方をするのでは、聖書が持っている言葉の価値を下げてしまいます。そうではなくて、もっと単純に、聖書はただ神を愛し、隣人を愛するための言葉である、ということを忘れてはならないのです。

主イエスは モーセの律法を犯したということで非難されました。しかし実際にはどうだったのでしょうか。十戒では、安息日には仕事の手を休めて神のもとに集い礼拝せよ、と言われています。つまり、聖書は「安息日にどなたのもとに行って癒しを受ければいいのか・罪の許しを受ければいいのか」ということを示しているのです。つまりイエスキリストのもとに集うことを人々に求めています。

ベトザタの池で主イエスに癒された人は38年間患っていました。これは出エジプトの荒野の年月と重なります。

ベトザタにはそこには5つの回廊がありました。これはモーセ5書、つまり律法の書の数と重なります。

ヨハネ福音書は、ベトザタの池でキリストが行われた癒しの奇跡を、新しい出エジプトとして象徴的に描き出しているのです。

聖書のこの場面を読んで、出エジプトを思い返して、人はどなたの下に集い、どなたの支配の内に生きればいいのか、ということを見出していかなければならないのです。それは、イエス・キリストです。確かな救いが、この方の下にあります。 Continue reading

6月2日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:30~40

「あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない」(5:40)

ヨハネ福音書は、「この世を救いに来られた神の子が、この世の人々に裁かれ、有罪とされ十字架で殺された」、ということを証言しています。福音書の一番初めの書き出しで、この福音書を通して描かれていく悲劇の結末を既に述べているのです。「神の言葉であり、神ご自身であられる方が世を照らす光として来られた」、「しかし、世は光を理解しなかった」、という、イエス・キリストの十字架の死を暗示します。

ユダヤ人の祭りに参加するためにエルサレムに上って来られて主イエスは、38年間病であった人を癒されました。安息日に癒しを行い、「床を担いで歩きなさい」と御命じになったことで、エルサレムのユダヤ人たちは、「安息日にしてはならないことを命じた人」「律法を守ろうとしない人」「神と自分を同等に考えている危険人物」と見るようになりました。

これがきっかけになり、この後何章にも渡ってユダヤ人たちは、「このイエスという人が一体何者であるのか」「このイエスという人が言っていることが本当なのかどうか」を議論していくことになります。そしてイエス・キリストの十字架に向かって、人々の裁きがここから始まっていくことになるのです。

ユダヤ人たちの非難の目に対して、主イエスは、「御自分の業は神から託された業であり、御自分には神から裁きも託されている」とお伝えになります。命を与えること、裁くことを、神の権威をもって行っていらっしゃる、そしてそれは今だけでなく将来においてもご自分が担う、とおっしゃいます。

主イエスの十字架と復活を知り、この方がキリストであると信じる我々にとっては、この主イエスの言葉は希望です。神がこの世で癒しの御業を行ってくださって、そして全ての人を神の元へと招いてくださっているということをキリストの姿を通して私達は示されているからです。

しかし、まだ主イエスの十字架も復活も知らない人たちにとってはどうだったでしょうか。自分の目の前に立っている人が神であるかどうかを判断することは難しかったでしょう。

癒しの奇跡が行われただけならよかったのです。それが「何の仕事もしてはならない安息日」であり、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と命じたことで、議論が複雑になっていくことになりました。

ヨハネ福音書を読み進めていく私たちは、聖書から問われることになります。本当の意味で本当に裁きの場に引き出されているのは、誰なのでしょうか。主イエスが人間によって裁かれているのでしょうか。そうではなくて、本当は、神の子イエス・キリストを裁こうとする人間は裁かれることになるのではないでしょうか。

使徒言行録を見ると、主イエスの十字架と復活の後、ペトロが聖霊に満たされてエルサレムの人々にこう告げています。

「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主として、またメシアとなさったのです」

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロと他の使徒たちに、『兄弟たち、私達はどうしたらよいのですか』と言った」と書かれています。

エルサレムで主イエスを非難したユダヤ人たちは、自分たちが話しているのが誰なのか、まだわかっていませんでした。今日読んだところで、主イエスは「私は人間による証しは受けない」とおっしゃっています。

確かに、使徒言行録を読むと、主イエスのことをメシアであると証ししたのは、聖霊でした。人間の言葉を超えた聖霊の力が働き、人々がキリストを信じるようにされていったことが書かれています。

主イエスがわずかに、御自分のことを証言する人としてお認めになっていたのは、洗礼者ヨハネだけでした。

35節「洗礼者ヨハネは、燃えて輝く灯であった」

洗礼者ヨハネは主イエスを見て、「見よ、神の子羊だ」と弟子達に言いました。しかし、ヨハネの言葉を聞いても、一体どれだけの人がその言葉を信じ、主イエスに従ったでしょうか。イエス・キリストにとっては洗礼者ヨハネの証言すら、灯のような、ろうそくの火のような小さなものでした。

主イエスはおっしゃる。

「私にはヨハネの証に勝る証しがある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をおつかわしになったことを証ししている」

キリストがベトザタの池で病人を癒されたこと、その人に安息日であっても「床を担いで歩きなさい」とおっしゃったこと。そのすべてが、本当は主イエスこそ神から遣わされた方であり、神の子メシアであるということの証拠なのです。主イエスが誰かからご自分がメシアであることを証言してもらう必要はありませんでした。既に、御自分の御業とみ言葉が、メシアであることの証拠となっていたからです。

人間は、メシアの業・メシアの言葉の前でそのまま問われることになります。逆の言い方をすれば、人間の知恵だけで誰かを説得してイエスこそメシアであると証明していくことは出来ません。キリストとの霊的な出会いによって、人は信仰へと誘われていくのです。

私達自身、そうではなかったでしょうか。説得されて、聖書の知識を増やして信じるようになった、ということではなかったでしょう。自分にしかわからない仕方でキリストが出会ってくださり、不思議な仕方で教会へと導かれていったのではないでしょうか。

なぜキリストを信じていなかった自分がキリストを信じるようになったのかを思い返すと、何かの飛躍があったはずです。説明できない飛躍です。何かしらの奇跡を見せられた、何かしらの神秘を体験した、そういうことから信じるという歩みが始まっていったのではないでしょうか。

今日読んだところの最後で、主イエスは、御自分を批判するユダヤ人たちにおっしゃっています。

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない。」

この言葉の中には、イエス・キリストの悲しみが満ちています。ここで言われている「聖書」というのは、今私たちが「旧約聖書」として読んでいるものです。ユダヤ人たちは、永遠の命を求めて一所懸命聖書を研究していたことを主イエスご自身、お認めになっています。

神が預言してこられたように、やがて来るであろうメシアを彼らは待っていました。その彼らが、今、キリストという永遠の命を目の前にしているのに、気づいていないのです。

ユダヤ人たちには既に、メシアに関する知識は持っていました。しかし、実際にメシアが目の前に現れても、気づかなかったのです。主イエスの業を見、主イエスの言葉を聞いても、「この方こそ聖書がその到来を伝えて来た神の子・メシアである」と信じることが出来ませんでした。

彼らは、旧約聖書で預言者の言葉を実際に聞いても信じて従おうとしなかったイスラエルと同じです。神は一体これまで何人の預言者を世に遣わしてこられたでしょうか。しかし人々は聞きませんでした。その過ちを繰り返してはいけない、とイスラエルの民は後世に聖書の言葉を残しました。自分たちの不信仰の歴史と、不信仰が自分たちにどのような滅びをもたらすことになったのかを記録したのです。

しかし、今、イエス・キリストの前にいる人たちは、預言者の言葉を聞こうとしなかったイスラエルの過ちを繰り返しています。主イエスの言葉を聞いても、奇跡を見ても、その中に神の子メシアとしての姿を見出すことが出来ていません。

だから、キリストは深い悲しみをもって、「聖書は私のことを証ししているのに、誰も私のもとに来ようとしない」と嘆いていらっしゃるのです。「あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がおつかわしになった物を、あなたたちは信じないからである」。

さて、私たちは改めてここでよく考えてみたいと思います。ユダヤ人たちの間で、主イエスに対する殺意が生まれていきました。神と自分を対等に考えている、また安息日の規定を重んじていないイエスという人物を彼らは危険視しました。ここから主イエスが何者であるかを聞き出そうとし、試そうとします。最後には主イエスのことを裁判にかけ、十字架に上げて殺すことになります。

繰り返しますが、本当に裁きの場に出されているのは誰なのでしょうか。安息日に仕事をしたイエスが裁かれているのでしょうか。それとも、神の子を殺そうとしている人間が裁きの場に置かれているのでしょうか。

主イエスはおっしゃいます。

「父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」

この世で真の裁きを行うのは、イエス・キリストお一人です。その全権を神ご自身から委ねられているからです。

後にイエス・キリストがローマ総督ポンテオ・ピラトと向き合われた時、二人はこんな言葉を交わしています。ピラトが主イエスに言います。

「お前はどこから来たのか。私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか」 Continue reading

5月26日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:19~30

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声と聴く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(5:25)

ユダヤ人たちがナザレのイエスに対する敵意を抱くようになり、その敵意が殺意へと深まっていった、という場面を読んでいます。安息日であったにも関わらず癒しを行い、癒した人に「床を担いで歩きなさい」と告げたイエスのことを、ユダヤ人たちは律法の言葉に反する危険人物として見るようになりました。安息日は、仕事の手を休めて神を礼拝すべき聖なる時であるはずなのです。

そのユダヤ人たちに対して、主イエスは「私の父は安息日も働いていらっしゃる」とおっしゃいました。その言葉が更にユダヤ人たちの敵意を深めることになりました。自分が神と同等の権威を持っているように振舞い、まるで自分が神であるかのようなものの言い方をしたからです。

今日私達が読んだのは、主イエスがはっきりと御自分と神との関係を語られた場面です。この福音書の中で最も明瞭にキリストがご自身と神との関係を語られた言葉ではないかと思います。

何の権威で神殿から商人を追い出すようなことをされたのか、なぜニコデモやサマリア人の女性に、あんなにもはっきりと永遠の命について語ることがおできになったのか・・・この主イエスの言葉を読めばわかります。

御自分が何者であるか、御自分の権威の源がどこにあるのか、ということをお話しなさっています。それだけでなく、この世でなさっている御業の意味、またこの世の終わりに何が待っているのか、ということまで明らかになさっています。

私達は、このキリストの言葉を通して、キリストと共に生きる自分たちの今がどこに向かっているのか、何に向かっているのか、キリストが今を生きる私たちに何を約束してくださっているのか、ということを知るのです。改めて、世の終わりから、自分たちが生きている今という時を見つめなおしていきたいと思います。

キリストはガリラヤで、王の役人の息子を癒されました。続けて、エルサレムのベトザタの池では病人を癒されました。キリストの癒しは、ただ御自分が持つ奇跡の力を見せびらかすためのものではありませんでした。ただ、人として良いことをした、というだけのことでもありませんでした。

キリストが誰かを癒されたその癒しには、癒された人にとってだけでなく、この世の全ての人にとって大きな意味があったのです。旧約聖書を見ると、神から力を託された預言者たちが、誰かを癒したり命を与えたりしています。預言者が行う、ということは、神が行われる、ということでした。

預言者サムエルの母ハンナが祈りの中でこう言っている。

「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる」サムエル記上 2:6

我々人間の命、人間の存在はまるごと神の御手の内に置かれている、という信仰が祈られています。人は命の作ってくださった創造主の御手の内にあることを歌っています。

キリストはユダヤ人たちにおっしゃいました。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」

「神がそうなさるように、私もそうする」、という言い方です。キリストが誰かを癒されたということは、神がその人を癒された、ということなのです。そしてそのことは、神が愛を持ってこの世に御手を伸ばしていらっしゃる、ということを世に示す大きなメッセージでした。

主イエスは25節で、人々が目撃した奇跡の意味をお教えになっています。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聴いたものは生きる」

主イエスが誰かを癒された、ということは、「来ると言われていた時が来た」ということなのです。

主イエスは最初のしるしを行われたカナの婚礼で、「私の時」という言葉をつかわれました。母マリアが「婚礼の葡萄酒が無くなりました」と言ってきた時、「私の時はまだ来ていません」とおっしゃっています。

イエス・キリストの時とはいつのことなのでしょうか。その「時」を見極めることが、私たちの信仰の中で大切なことであるようです。

主イエスはサマリア人の女性に、おっしゃいました。

「婦人よ、私を信じなさい。あなた方がこの山でもエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る・・・今がその時である」

主イエスは「霊と真理をもって礼拝する時」が来た、とおっしゃいました。そしてその「霊と真理をもって礼拝する時」は、主イエスご自身の十字架という罪の許しの御業によってもたらされることになるのです。

キリストが行われる奇跡を通して私たちは何が見せられているのでしょうか。「真の礼拝の時が迫っている」、ということだ。一つ一つの奇跡の御業が、十字架への秒読みとなり、伏線となっているのです。

聖書はただ、「この人には不思議な力があったのだ」ということを伝えているのではありません。私たちが生きている「時」がどういう時なのかを伝えようとしているのです。そして今、私たちは真の礼拝の時が来た時代を生きている、ということを知るのです。

聖書を読みながら、私達自身、キリストの御業に何を見出しているでしょうか。

「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」19節

この言葉を聞くと、主イエスは無力な方のように思えます。しかしそうではありません。ご自身がなさることは、全て神の御業であるということを示されているのです。ヨハネ福音書の中で、主イエスは神のことを100回以上「父」と呼ばれています。そしてご自身のことを「子」という言葉で約50回おっしゃっています。

イエス・キリストと神の関係は同一なのです。私たちはイエス・キリストの言葉を神の言葉として聞き、キリストの御業に神の働きを見ます。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」21節

命をつかさどる神が、世に来られました。それが、イエス・キリストです。キリストは神として、復活の命、永遠の命へと世の全ての人を招こうとなさっています。「時」は来ています。復活という神秘は、現実に起こることであり、私たちが生きる今はそこに向かって生きている今であることを聖書は証ししているのです。

キリストは救いを求める人に、必要な時と必要な場所を備えて出会い、救いの言葉をくださいます。王の役人の祈りに、ベトザタの池で救いを求める人の訴えに、キリストは寄り添われました。

もし我々がキリストに救いを求めていなかったとしたらどうでしょうか。キリストを拒絶するということは、キリストを世にお遣わしになった神を退けるということでもあるのです。

この世の終わりに起こることは神秘です。聖書を読むと、今の私たちにとっては、「本当にこんなことが起こるのだろうか」と不思議に思うような、世の終わりの様子が描かれています。今まで誰も見たことのない光景が記されています。

聖書が「世の終わりにはこうなる」と示していることについては、我々は信じるか信じないか、どちらかしかありません。

私たち今地上に生きる人間の一番の憂いは、死ぬ、ということです。そして、「死ぬ」ということは全ての終わりなのかどうか、ということです。自分が死んだら、その後はどうなるのか。自分は、家族は、どうなるのか。愛する人とのつながりはどうなってしまうのか。聖書はその我々の憂いに答えてくれています。

使徒パウロはこう言っている。

「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは私も受けたものです。すなわちキリストが聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと。また、聖書に書いてある通り3日目に復活したこと、ケファに現れその後、12人に現れたことです」1コリ15章

パウロは、キリストに起こった受難、復活を「聖書に書いてある通りに」起こったことだ、と繰り返して強調しています。それは、神のご計画でした。長い歴史の中で神は人間を取り戻そうと招きを続けて来られました。それは神が預言者を通して語られ、その言葉が聖書として残されて、今も私たちに伝えられている、とパウロは言います。私たちの信仰は、私たちの命は、肉体の死で終わるものではありません。それも神のご計画です。 Continue reading

5月19日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~18

「もう、罪を犯してはいけない」

今日はペンテコステ礼拝です。キリストが天に昇って行かれ、地上に残された信仰者の群れの祈りの上に聖霊が注がれました。キリストの十字架を見てから隠れていた人たちが聖霊の注ぎによって、地の果てに至るまでキリストを証言する者として召されることになりました。聖霊の働きは今に至るまで続き、キリスト教会が立ち続け、キリストを求める人が新たに起こされています。

不思議ではないでしょうか。私たちが誰かに教会に来るようにと説得して回っているわけではありません。むしろ、私たちが思ってもみなかったところから、聖霊に招かれた人が教会へとやってくるのです。ペンテコステの今日、特にその聖霊の導きの不思議を覚えたいと思います。

今日私達は、主イエスによる癒しと、その後に問題が起こったことを読みました。主イエスはガリラヤのカナから、ユダヤ人の祭りに参加するために、エルサレムへと上って来られました。そしてベトザタの池と呼ばれる水のほとりで、孤独の絶望の中で癒しを求めていた人を癒されました。

その病人にとっては、「ただ癒された」、というだけでなく、キリストに見出された、という救いの出来事でした。救いを求める人、祈り続ける人のところに、救い主は時を選んで訪れてくださいます。そして、信仰者の祈りと救い主が出会う時、人の思いを超えた奇跡が起こるのです。私達はその不思議を聖書から教えられます。

その癒しの出来事の後に何が起こったのでしょうか。1人の人がキリストに見出され、癒されたことを、ヨハネ福音書は単なる「美しい救いの出来事」として描いているわけではありません。この癒しの業によって、ユダヤ人たちの中に主イエスに対する殺意が生まれることになった、ということが書かれているのです。

誰かの病を癒すことでなぜ殺意を抱かれるようになるのでしょうか。感謝されたり、更に救いを求められたりしたというのであればわかります。しかしどうして、誰かを助けることによって殺意を抱かれてしまうのでしょうか。

人間が聖書の言葉・神の御心を歪んで理解してしまうと、神の言葉であるイエス・キリストの救いの御業の意味も、いびつにゆがめられてしまうのです。その聖書への思いが熱心であればあるほど、ゆがんでしまいます。そのことが、ここに現れています。

その日はユダヤ人の祭りであっただけでなく 安息日でもありました。神殿とその周辺にはたくさんのユダヤ人がいたでしょう。

キリストは安息日に38年間寝たきりだった人を癒され、こうお命じになります。

「起きなさい。あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩くのだ」

癒されたその人は、キリストに命じられた通り、自分が今まで身を横たえていた「寝床を担いで」歩きました。ユダヤ人の祭りの最中であり安息日であったので、周りには多くのユダヤ人がいました。「安息日に寝床を担ぐことは許されていない」と周りにいたユダヤ人たちから問題視されてしまいます。この「ユダヤ人」というのは、特に、ユダヤ人の指導者たちです。

これは以前主イエスが神殿で大暴れされた時に、「あなたは何の権威でこんなことをしたのか」と聞いて来た人たちでした。彼らは律法の言葉に関すること・神殿に関することに敏感でした。当時、聖書の律法に書かれている掟を遵守することはユダヤ人にとって生きることそのものだったのです。律法の掟を守って生きるということが、神の恵みの支配に留まる生き方でした。律法から逸れてしまうと、それは、神の支配の外に出てしまう、ということを意味しました。

ユダヤ人たちは、床を担いだ人を見て、「それは安息日にしてはならないことだ」と言っています。安息日の由来は創世記の初めに記されている通りです。神は世界をお創りになり、創造の御業を終えられてから手を止めてその世界を覧になりました。だから被造物である我々人間も、神がなさったように、働く手を止めてこの世界を見るのです。そうやって、創造主への思いを、また創造主に愛されている被造物である自分たちへの思いを深めるのです。それが 安息日です。

安息日は、人が仕事の手を止めて、世界を、また自分を見つめ、創造主へと思いをはせる礼拝の時となりました。

確かに、安息日は大切なものでしょう。問題は、それでは何が「仕事」とされるのかということです。神へと思いを向けることの妨げになる「仕事」とは何なのでしょうか。主イエスがなさった癒しは、神の礼拝を邪魔する「仕事」だったのでしょうか。神の御心にそぐわない「仕事」だったのでしょうか。

安息日に「床を担ぐ」ことは、「神に心を向けていないことだ」、と周りにいたユダヤ人たちは考えました。彼らはこの人が癒されたという救いの御業ではなく、安息日に床を担いではいけない、ということの方に心を向けました。

私たちはこれをどう見るでしょうか。

主イエスに癒された人はユダヤ人たちに答えました。

「私を癒してくださった方が床を担いで歩きなさいと言われたのです」

それを聞いたユダヤ人たちは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのは誰だ」と聞きます。主イエスに癒された人自身、自分を癒してくださった方が一体誰なのか、まだわかっていませんでした。

主イエスは、御自分の奇跡の力を人々に見せびらかすようなことはなさっていません。御自分の力を誇示して注目を集めて人々を信仰へと導くようなことはなさっていないのです。むしろ、神の救いを求めている人を探し出し、その場にいた人、周りにいた人たちに気づかれないように、人々の間に紛れて救いの御業を行っていらっしゃいます。

聖書には、「病気を癒していただいた人は、それが誰であるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである」と書かれています。癒された本人でさえも、その方がイエスという方であることすら知らなかったのです。互いの自己紹介すらすることなく分かれたようです。

私たち自身、キリストとの出会いを思い返すとこのようなものだったのではないでしょうか。自分とキリストとの出会いを振り返ると、キリストは本当に時を選んで自分の前に来てくださった、と思い起こすことが出来るでしょう。聖書を読んでいきなり信じた、教会に行ってすぐに信じた、という人はほとんどいないでしょう。

不思議な仕方で自分はここまで導かれてきた、それはあの時から始まっていた・・・あれが、キリストが自分の思いを知って迎えに来てくださった瞬間だった・・・と思い出すのではないでしょうか。そしてキリストは離れてしまいそうになる自分をその後も、何度も迎えに来てくださった、と思い返すのではないでしょうか。

キリストとの出会いは一つの点で終わることはありません。キリストは私達を探し求め続けてくださいます。出会ってくださり、癒してくださり、道を示してくださり、そしてその道を私たちの肉体の死を超えて共に歩んでくださいます。

この後、主イエスは御自分が癒された人に神殿で会われました。癒された人が見つけたのではなく、主イエスがまたこの人に出会われた、という書き方がされています。

キリストは、神殿の境内でこの人にもう一度出会われておっしゃいます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」

なぜ主イエスはこの人に「もう罪を犯してはいけない」とおっしゃったのでしょうか。どういう意味なのでしょうか。この「もう罪を犯してはならない」というのは、「私に出会う前の古い自分に戻ってはならない」ということでしょう。「あの池のそばで、自分を素通りする人たちの背中を見て痛みを覚えていた、あの時の自分に、私に出会う前の自分に戻ってはならない。そのために私につながっていなさい」ということです。

一度私たちに出会ってくださったキリストは何度も、「私につながっていなさい。私から離れてはいけない。罪を犯してはいけない」と言い続けてくださいます。今に至るまで聖霊を通してキリストが我々に語りかけてくださっているのは、これなのです。

この一言が、この癒された人を変えました。この人は、このキリストの一言を聞いて、自分の身に起こった癒しは、罪の癒しであり、神との関係の回復であることだったと悟りました。そしてこの人は変わったのです。

15節「この人は立ち去って、自分を健やかにしたのはイエスだとユダヤ人たちに告げた。」

この人は、自分の体と罪を癒してくださった方をユダヤ人たちに証しました。イエスという方を積極的に人々に伝え始めたのです。

それまでは、ただ癒された人でした。それが、キリストに言葉をいただき、道を示されたことで、自分が次になすべきことを知ったのです。自分に出会い、癒し、救ってくださったのは、あの方だ、と証言しはじめました。

キリストに出会った人の次の一歩は、自分で決めた一歩ではありません。

詩編37:23 Continue reading

5月12日の礼拝説教

ヨハネ福音書5:1~9

「よくなりたいか」

主イエスがガリラヤのカナに行かれた時、ある役人が自分の息子を癒してほしいと訴えて来ました。彼は、王の役人でありながら、ナザレのイエスに向かって「主よ」と呼びかけ、救いを求めました。ヨハネ福音書は、この癒しを「二回目のしるしである」と記録しています。

続けて、主イエスはユダヤ人の祭りに加わるためにエルサレムに上られました。これが何の祭りであったのかということは書かれていませんが、この時期、エルサレムには多くの巡礼者たちがいて、たくさんの人であふれていたことでしょう。

その祭りの中で、主イエスはエルサレムのベトザタの池のほとりで38年間病気で苦しんでいた人を癒されました。しかしそれは安息日でした。仕事の手を休めるべき安息日に、誰かを癒した、ということでこの後主イエスとユダヤ人たちの間で議論になります。

私達は今日読んだキリストによる癒しの出来事を通して、安息日とは何か、また安息日にしるしを行われたこのイエスという方は何者なのか、ということを見せられていくことになります。ただ、「キリストによって誰かが癒されてよかった」、というだけでは終わりません。

この癒しの出来事には、いろんな象徴的な意味が含まれています。ヨハネ福音書は、

「5つの回廊があった」ベトザタの池で、「38年間」病に苦しんでいた人がキリストによって救われた、ということを通して何か象徴的なものを見せようとしています。

ベトザタの池の近くにあった5つの回廊は、モーセ五書、律法の象徴と考えられます。

池のほとりに横たわっていた人の病気の年数は38年間でした。荒野をさまよったイスラエルの年数と重なります。モーセは出エジプトしたイスラエルに語りかけている。

「我々はゼレド川を渡ったが、カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで38年かかった」(申命記2:13)

この病に苦しんでいた人は、神の言葉である律法が与えられていながら荒野の苦しみを感じていたイスラエルの象徴のような人なのです。

出エジプトをしたイスラエルは荒野を歩き続けました。神の律法をいただいて神に導かれ、神に養われていたにも関わらず、荒野の苦しみを感じ続けました。なぜでしょうか。私達は、キリストが出会われたこの病の人に、救いを求め荒野をさまよう人の痛みを見ることができるのだ。

それは過去のイスラエルだけではなく、今の私たちの痛みでもあります。

キリストは寝たきりになっている人をごらんになって「あなたは健やかになりたいのか、良くなりたいのか」とお尋ねになりました。ベトザタの池に通っている、ということは、「良くなりたい」ということです。いちいちそんなことを聞かなくてもわかることだし、その人もそう聞かれたら「もちろんです」と答えるのが普通でしょう。

しかし、この人の答えは「はい、良くなりたいです」ではありませんでした。

「誰も私を助けてくれないのです。みんな私を置いて行ってしまうのです。私には助けがないのです」

病気で横たわっていたこの人が抱き続けて来た本当の苦しみは、自分が立てないということ以上に、「誰も自分を助けてくれない」という孤独でした。自分を素通りして、皆、先に池の方に降りて行ってしまうのです。この人は自分を置き去りにして進んでいく人たちの背中を見送ることが、自分が病であるということ以上の痛みに感じていたのです。

キリストがこの人に何を見出されたのかは何も書かれていません。しかし、この人の言葉を聞いてすぐにおっしゃいました。

「起きなさい、あなたの寝床を担ぎなさい。そして歩きなさい」

イエス・キリストは人間の心の中に何があるのかをご存じである、と福音書は記しています。キリストは この人の心の内を確かにご覧になって、何かを見出し、癒しの言葉、救いの言葉をお与えになりました。

病の人はキリストの一言によって寝床を担いで起き上がりました。なぜキリストはこの人を癒されたのでしょうか。周りには他にも、この人のように何かしらの不自由を抱えている人たち、病の人たちがいたでしょう。なぜ、この人だったのでしょうか。この人だけ、だったのでしょうか。

キリストはこの人が一番可哀そうと思われた、ということなのでしょうか。この後を読めばわかりますが、癒された人自身が、この後キリストに癒された証し人となり、証の器として用いられていくことになります。キリストはこの人を、御自分の証の器として召し出されたのです。

聖書に描かれているキリストとの出会いはそういうものです。キリストに癒されて終わり、ではなく、その人がキリストを証しするために自分の生き方が変わる様が描かれているのです。

キリストに出会った人は、キリストに救われた者として生きるようになります。

「私に出会ってくださったのはイエス・キリストです。私を癒し、立ち上がらせ、歩ませてくださっているのは、イエス・キリストです」と言って生きるようになるのです。キリスト者は、自分がキリスト者である、ということで既に、キリストの証人なのです。

マルコ福音書に、ゲラサ人の地方でレギオンという悪霊の大群に取りつかれていた人のことが書かれています。その人はキリストによってレギオンから救われた際、「一緒に行きたい」とキリストに従おうとしました。

しかしキリストは、「自分の家に帰りなさい」とおっしゃって、自分の身に起こったことを人々に伝えるようにお命じになりました。この人は、「デカポリス地方に言い広めた」と書かれています。

デカポリスというのは、「10の町々」という意味の言葉です。キリストに出会った一人の人が、10の町々への証しの器とされたのです。私達がキリストに出会う、ということは、ただ、出会った、というだけでは終わりません。自分が思ってもみないような仕方でキリストに用いられていくことが始まる、ということなのです。

さて、キリストに癒された人に焦点を当てて見たいと思います。キリストはこの人の38年間を担われました。この人の38年の苦しみは何だったのでしょうか。この人は、神の救いを求め続けて来た人でした。全てを諦めているなら、ベトザタの池に通ったりはしません。天使が下りてくるときに動く水に、いつか自分も入りたい、と願っていました。その信仰の営みがあったからこそ、キリストが来られた時、この人はそこにいたのです。

イスラエルは出エジプトの荒野の旅の最後で、その旅の意味を知らされた。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

病の38年というこの人の荒野の旅路は、イエス・キリストに出会うための38年となったのです。キリストに出会ったこの人のその後の人生は、痛みと孤独を知ったキリストの証人としての歩みへと変わりました。

マタイ福音書で、キリストは福音を聴いても悔い改めない人たちのことを嘆いて、こうおっしゃっている。

「疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私の下に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜なものだから、わたしのくびきを負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたはやすらぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」

洗礼を受けてキリスト者になれば、痛みや病かとは無縁になるのか、というとそうではありません。むしろ、キリスト者だからこそ、担わなければならない、キリストのための痛みというものもあります。

ベトザタの池で長年横たわり、孤独の中で他の人たちが自分の脇をすり抜けて行くのを見送るしかなかったこの人のように、私たちだって、自分よりも先を行く他の人たちの背中を眺めてうらやむ時はあるでしょう。どうやっても自分で自分を救えない時・試練の時があります。

しかし、私たちにあるのは絶望ではありません。絶望の中に差し込む光を待つ、という選択肢が我々信仰者には与えられています。疲れた時、重荷を負った時、我々はイエス・キリストのくびきを負わせていただきます。それは、自分に課せられた重荷を共にキリストが共に担っていただくということです。

自分でなんとかできるのであれば何とかすればいいでしょう。しかし、どうあがいても道が見いだせない時があります。人としての頑張りではどうにもならない時、その場にしゃがみ込むしかない時が、人にはあります。 Continue reading

5月5日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:43~54

「主よ、子供が死なないうちにおいでください」

ある一人のサマリア人女性を通じて、主イエスはサマリア人たちにご自身を示されました。シカルというサマリアの街に住んでいた人々は、サマリア人でありながらユダヤ人であられた主イエスの下に来て、「私たちは自分で聞いて、あなたが本当に世の救い主であると分かった」と言いました。ユダヤ人とサマリア人の間に会った壁を越えて、人々はキリストを見出したのです。非常に印象深い、主イエスのサマリア滞在です。

その滞在の後、主イエスはガリラヤへと移動されました。44節にこう書かれています。

「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。」

サマリアで人々からキリストとして受け入れられた主イエスでしたが、これからの故郷のガリラヤ滞在でどんなことが待っているのかを暗示している言葉です。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが、最初のしるしを行われたカナで再び奇跡を行われた、という場面です。王の役人が、エルサレムでたくさんのしるしを行ったイエスという人に、自分の息子を癒してもらおうとしてやってきました。キリストはその人に「あなたの息子は生きる」という言葉をお与えになり、その言葉通り、役人の息子の病は治りました。

ヨハネ福音書はこれを、「イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた二回目のしるしである」と記録しています。最初のしるしは、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えられた奇跡でしたが、福音書はその1つ目のしるしの後、キリストが行われたエルサレムでのたくさん行われたことを記録しています。しかしエルサレムで行われたそれらのしるしは数として数えられていません。「その他のしるし」のように扱っています。

ヨハネ福音書にはキリストが行われた大きな7つのしるしがあると言われています。

1つ目は カナの婚礼で水をぶどう酒に変えた奇跡

2つ目は 王の役人の息子の癒し

3つ目は 足の萎えた人の癒し

4つ目は 5000人にパンと魚をお与えになった奇跡

5つ目は キリストが水の上を歩かれた奇跡

6つ目は 盲人の癒し

7つ目が ラザロのよみがえり

ヨハネ福音書は最後で、「世界中の書物に収めきれないほど」キリストのしるしは行われた、と記録していますが、聖書が特に私たちに大切なしるしとして見せようとしているのが、これらの七つのしるしである、ということです。

これらの奇跡の出来事を通してヨハネ福音書は私たちに何を証ししようとしているのでしょうか。一言で言えば、「新しい時代が来た」、ということです。

主イエスはエルサレム神殿で、「新しい神殿を建てて見せる」とおっしゃいました。イスラエルの教師ニコデモには、「人は新しく生まれ変われなければ神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。サマリアの女性には「私は生きた水である。エルサレムでもサマリアでもないところで礼拝がささげられる時が来る。今がその時である」とおっしゃいました。そして今日読んだところでは、キリストは御自分に癒しの救いを求める者に新しい命をお与えになりました。

キリストがもたらしてくださった、新しい神への招きの時代、新しい礼拝の時代、新しい命の時代は、私たちの生活の中に届いたのです。神殿の奥の、祭司しか入れないようなところで私たちはキリストと出会うのではありません。

生活の中にある痛みの中に、悩みの中に、自分の努力だけではどうしようもない苦しみの中で、祈るしかない中で、「渇く者は私の下に来なさい。値無しに命の水を飲ませよう」という御声を聞くことが出来る時代を迎えたのです。

今日私たちが読んだのは、単に「不思議な奇跡の業が行われた」というだけのことではありません。生活の中で、自分が考えてもいなかった方向から与えられるキリストの言葉・救いがある、ということ、そしてそのような恵みに満ちた新しい時代を生きているということを、福音書に証しされたしるしを通してかみしめたいと思います。

さて、サマリアで女性とお話しをなさった後、主イエスはガリラヤへと戻って行かれました。ガリラヤの人たちはイエスを歓待しました。人々は、エルサレムの祭りで主イエスがなさった奇跡を見ていたからです。自分たちの土地から出た英雄のように迎え入れました。

しかし、主イエスはガリラヤの人たちの喜びを冷めた目でご覧になっています。「預言者は、自分の故郷では敬われないものだ」という思いをもっていらっしゃるのです。

何か不思議な業を見た人たちは、興奮して御自分に近寄ってくるということをご存じでした。エルサレムでたくさんのしるしを行われた際、人々は主イエスの下にやってきました。2章の最後で、福音書にはこう書かれています。

「イエスご自身は彼らを信用されなかった・・・イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」 Continue reading