MIYAKEJIMA CHURCH

4月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書4:1~9

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

イエス・キリストと、一人のサマリア人女性の出会いが記録されています。主イエスがユダヤ地方からサマリアを通って旅をされていた途中のことでした。2人の出会いは、主イエスが旅に疲れてそのまま座られた井戸のそばでした。

旧約聖書を読むと、井戸のそばでいろんな人たちの出会いがあったことが書かれています。イサクや、ヤコブ、モーセもそうです。彼らは、井戸で何かしらの出会いがあり、それが結婚のきっかけとなったりしました。小さな偶然のような誰かの井戸での出会いが、歴史の中で全ての人間にとって大きな意味を持つことがあります。

今日私達が読んだところを何気なく読むと、サマリアの井戸で主イエスと女性が出会った、というだけのことでしょう。しかし旧約聖書の物語や、当時のユダヤとサマリアの背景を踏まえて読むと、表面を読んだだけではわからない、この出会いに隠された神の導きの深さを見ることが出来るのです。

主イエスはユダヤ地方で洗礼者ヨハネと同じように、人々に洗礼を授けていらっしゃいました。「実際に授けていたのは弟子達であった」、と書かれていますが、主イエスの権威のもとに弟子達は人々に洗礼を授けていたのでしょう。

主イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を造り、洗礼を授けている、ということがファリサイ派の人たちに知られることになりました。

「イエスはそれを知ると、ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。

ファリサイ派の人たちから警戒され、宣教活動の邪魔をされることを煩わしく思われたのでしょう。

ヨハネ福音書を読むと、主イエスの一行は頻繁にユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していたことが分かります。北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方を行き来する際、一つ問題がありました。ガリラヤ地方とユダヤ地方の間に、サマリア地方があったということです。

何が問題かというと、ここにも書かれているように、この当時、ユダヤ人はサマリア人と交際しなかったのです。ユダヤ人がガリラヤとユダヤを行き来する際、サマリアを通るか、迂回するかを決めなければなりませんでした。ユダヤからガリラヤまで、まっすぐ行けば三日ぐらいで行けますが、サマリアを通らず迂回していくとなれば、二倍か三倍、時間がかかるのです。

主イエスと弟子達は、サマリアを通ってガリラヤに向かうことにしました。そして一行がサマリアに来た時、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座られました。て弟子達は食べ物を買うために町に行っていました。主イエスは井戸のそばにお一人でいらっしゃいました。そこに一人のサマリア人女性が井戸に水を汲みに来ます。主イエスはこの女性に「私に水を飲ませてください」と頼まれました。

女性は驚いています。

「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」

この女性の驚きは当時では普通のことでした。ユダヤ人がサマリア人に、しかも男性が女性に、こんなにも大っぴらに話しかけ、ものを頼むということは考えられないことだったのです。

少し、この時の女性の驚きについて、背景の解説を加えておきたいと思います。

BC870、ダビデの治世が終わり、ソロモンが死ぬと、イスラエル王国は北と南に分かれました。北王国はサマリアを首都に、南王国はエルサレムを首都にしました。

北王国はBC721にアッシリア帝国に占領されてしまいます。アッシリアは、そこにユダヤ人以外の民族を入れました。そのことで、サマリアを中心とする北王国は混血が進んでいきました。

一方、南王国もバビロニアによってBC586に滅ぼされましたが、人々はそのままバビロンへと連れて行かれ、捕囚生活を送りました。やがてその人たちの子孫は、エルサレムのあるユダヤ地方に戻って来ることになります。捕囚からの帰還民は自分たちのユダヤ人としての純血が保たれたことを大切にし、サマリアの人たちを異民族として見るようになります。こうして、歴史の中で北のサマリアと、南のエルサレムの間に深い溝が出来ていったのです。

元は同じ国民だったのに、国が分裂し、外国に滅ぼされることを通してこんなにも深い溝が出来ていたのです。そのような背景の中で、ユダヤ人の主イエスと、サマリア人女性が出会い、言葉を交わしたのです。

問題はそれだけではありません。主イエスが話しかけられた相手がサマリア人であったということに加え、それが女性だった、ということです。主イエスの時代、ユダヤ人とサマリア人という民族の違いに加え、性別の違いも大きなものでした。

当時、律法の教師は、道で女性に話しかけてはならないと教えていました。ファリサイ派の一部の人たちは、女性を見ないように、目を閉じて歩くほどでした。

そしてもう一つ、踏まえておかなければならないのは、この女性が、正午ごろ、水を汲みに来た、ということです。正午ごろというのは一日の中でも一番暑い時間帯です。

そんな時には普通水を汲みに来る人はいなません。

しかし、この女性はわざわざ正午ごろ水を汲みに来ました。つまり、人目を避けていたのです。この女性は、人目を避けなければならないような、後ろめたい生活・不道徳な生活をしていた人であった、周囲の人たちから「罪人」として蔑まれていたような人であった、ということがわかります。

主イエスが声をかけられたのは、普通、ユダヤ人の律法の教師が絶対に声をかけることのないような、人目をはばかるような生き方をしているサマリア人の女性だったのです。

ここで私達は主イエスと女性が出会った場所に注目したいと思います。それはシカルという町でした。そしてこの井戸は「ヤコブの井戸」とあります。

旧約聖書の創世記に出てくるアブラハムの孫にあたるヤコブにまで歴史をさかのぼる町であり、この井戸はヤコブに由来する井戸でした。福音書は、イエス・キリストとサマリア人女性が出会ったのはその街のその井戸だった、ということを強調しています。何かその場所に象徴的な意味があったのです。

ヤコブは、兄エサウを騙したことで恨まれ、家から逃げ出した人でした。荒野を逃げる途中、野宿した時、夢を見ます。

「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、そこを神のみ使いたちが上ったり下ったりしている」、という夢でした。

夢の中でヤコブは神から言葉をいただきます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

主イエスが弟子の一人ナタナエルを召された時、こうおっしゃいました。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなた方は見ることになる。」1:51

ヤコブが見た天と地をみ使いたちが行き来するあの光景を、主イエスの弟子達は、主イエスを通して見ることになる、と約束されたのです。

キリストがこのシカルに来られた、そしてこの女性に話しかけられた、ということは、天の招きがここまで来た、神の招きがこのような女性にも届けられた、ということです。天に続くはしご、天に至る道、真理と永遠の命に至る道が、このシカルに、サマリアにも、そして周りから蔑まれていた女性にまでも示されたということなのです。

洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「花婿」になぞらえ、自分はその「介添え人」であると言いました。誰かが主イエスと出会うということは、ある意味、その人がキリストの花嫁として迎え入れられる、ということです。

主イエスは今、一人の異邦人女性が井戸のそば出会われました。当時のユダヤ人の感覚では一番接点のない相手でしょう。対照的な二人の出会いです。男性と女性、教師と罪人、天から来られた方と、この世で最も低い者、ユダヤ人とサマリア人の出会いです。民族、信仰、階級、性別、職業、地位・・・そういった人を隔てるものすべてがここに含まれている。しかしそれを超えて、主イエスは全ての人を探し求めていらっしゃいます。ヤコブが見た天と地を結ぶ階段として、神と世をつなげようとなさっているのです。人間が愚かにも造り上げて来てしまった、その互いの溝を埋めようと、キリストは世に来られました。

私達は、神が選んでくださらなければ、神のものとなることは出来ません。キリストに選んでいただかなければ、キリストのものとなることは出来ません。 Continue reading

3月31日の礼拝説教

創世記4:13~26

「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」

最初の人間アダムとエバがそうであったように、その息子であるカインも神の前に罪を犯しました。アダムは土から造られ、土を耕し、土に仕える生き方が神から与えられが、大地を治める神のようになろうとして、自ら神の祝福から離れる一歩を踏み出してしまいました。

神は人間に「土を耕す」ことをお求めになりました。「土を耕す」というのは、「大地に仕える」ということでした。人は神がお創りになった祝福の大地仕え、祝福の実りを得て生きる楽園にいました。しかし楽園から追放されてしまった人間は、大地を祝福から呪いへと変えてしまうことになります。

アダムの長男カインは、アダムが犯した人間としての罪を、繰り返してしまいました。弟アベルを殺してしまったのです。祝福の実りをもたらすはずの大地に、カインは自分の弟の地を吸わせてしまいました。

カインが自分の弟アベルを殺したことで、カイン自身だけでなく「大地も呪われることになった」、と書かれています。カインが大地に仕えても、大地はカインのために産物をうみださない、と神から宣言されてしまいました。そして、カインは、「地上をさすらう者」とされてしまいます。

聖書の中でも有名な、創世記の兄弟殺しの事件です。カインは、計画的に自分の弟を殺しました。神から「あなたの弟はどこにいるのか」と聞かれても、「私は弟の番人でしょうか」などと、小馬鹿にした答え方をしています。

カインは、アベルを殺しても、神にはばれないと思っていたのでしょうか。神がアベルの捧げものに目を向け、自分の捧げものには目を向けてくださらなかった、という恨みもあったでしょう。神に対して不貞腐れた子供のように振る舞っています。

土の中に染み込んだアベルの血は叫び声となり、神にまで届いていました。カインの罪を糾弾する声は、消えることはなかったのです。神の前に自分の罪を隠し切れない人間の姿がここにあります。

神の前に虚勢を張っていたカインでしたが、「あなたは呪われる」という神の言葉を聞いて、崩れ落ちました。それまで、自分が神から離れ、土から離れ、地上をさすらう者となるなどということを考えたこともなかったのです。神がいらっしゃって、土が自分に実りをもたらす、という大前提が崩れるなど、考えもしなかったことでした。皮肉なことにカインは土を耕すものであったにもかかわらず土から呪われ土から見捨てられるものとなってしまいました。

カインは神ご自身から直接「あなたは呪われる」という言葉を言われ、初めて自分がしたことの罪の重さを知りました。カインはここに至って自分を生かすものなんであるかを知ったのです。

結局、人は罪の歩みの中で、神の声を聞かされるのです。人は欺くことは出来ます。しかし、血の叫びを聞かれた神から、自分の罪をごまかすことは出来なくなり、神からの罪の宣言を聞いて、崩れるのです。

最終的に罪が結ぶ実とは何でしょうか。カインが犯した罪は、カイン自身を失わせるものでした。これまで彼は神と共に生き、大地に仕え、家族の調和の中で生きて来ました。しかしここに来て、それまでの自分と決別しなくてはならなくなりました。彼は自分自身を失うことになったのです。

カインは自分の罪を嘆きます。

「私の罪は重すぎて負いきれません」

自分が犯した罪の重さを知って、もう自分が自分の足で立って生きることが出来なくなりました。大きな石を乗せられているように、罪の重さにつぶされ、生きていくことはできない、と嘆きます。

この時ほどカインは孤独を感じたことはなかったでしょう。自分の手で大地を耕し、弟を簡単に殺せるほどの力をもっていた人です。自信にあふれ、神からとがめられても臆することなく言い返していたカインです。それが、自分の罪を神から指摘されたとたんに、崩れ落ちたのです。そして疎外感の中で神に向かって嘆きました。

しかし神は、蛇の誘惑に負けたアダムをエバをお見捨てにならなかったように、弟を殺したカインをお見捨てにはなりませんでした。アダムとエバをエデンの園から追放された際に守りをお与えになったように、これから「地上をさすらう者」となるカインに守りのしるしをお与えになったのです。どんなしるしであったのかは書かれていませんが、カインが他の人から暴力を振るわれないよう、何かしらの目印をお与えになりました。

ここを読むと、神の許し深さを感じさせられます。しかし、カインがアベルと神に対して犯した罪がなかったことされた、ということではありません。カインは今自分が生きている場所から追放されることになりました。それは神の前から追放され、「さまよう者」とされた、ということです。

土を耕すものであったカインは、神と大地から追放され、地上をさまようものとなりました。4:17を見ると彼は結婚して、一つの街を築いたことが書かれています。一度は「地上をさすらう者」とされたカインですが、街を築き、そこに定住したようです。町をつくり、そこに人々を迎え入れるようになった、ということですので、カインはその街の支配者になった、ということでしょう。

カインはどのような街を築いていったのでしょうか。カインが住んだのは「ノド」という土地でした。ノドは「さすらい」という意味です。カインが造った街は、ノド、つまり「さすらい」の町でした。「地上をさすらう者たち」が集まり、カインがその中心にいて築かれていった町であった、ということでしょう。

神から離れたカインは、自分と同じような人たちを集めて街を作ったのです。「善悪を知る木の実を食べた」ような人たち「土の上で誰かの血を流した」ような人たちが集まって来て、カインはその中心にいたのです。カインは再び土を耕す生活に戻ることなく、自分と同じように神様の元からから追放されてしまったような人たちを集めて自分をその中心に置いていたのです。

聖書は、守りのしるしを与えられたカインのその後を描くことによって私たちに何を伝えているのでしょうか。カインのような人でも、神に許されるのだ、という愛の物語なのでしょうか。

そうではないでしょう。カインが築いた町は、神から追放された人たち、「地上をさまよう者たち」が集まってくるような町でした。とても平和な町であったとは考えられません。

その町は、そしてカインの子孫はどうなったのでしょうか。聖書にはそのことも書かれています。カインからエノクが生まれ、その後も、イラド、メフヤエル、メトシャエル、レメクと代が替わっていきます。

カインから5代目のレメクのことが19節以下に書かれています。レメクは、ある時自分の二人の妻を呼んで、誇らしげに語っています。

「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐7倍ならレメクのためには77倍」

細かいことはわかりませんが、レメクは暴力を持って誰かに復讐をしたようです。そして自分の妻たちにその自分の暴力を誇らしげに語るのです。「自分は自分の先祖カインに与えられたしるしよりももっと強い守りのしるしを持っているのだ、自分は無敵だ」と言って、暴力を誇るレメクの姿が描かれています。

カイン同様、レメクは自分の持つ力、暴力の強さをもって、神を軽んじていることが分かります。神に背を向け、神のもと離れたカインの罪は、世代を超えて実りを結んでしまっているのです。

カインの物語は、私たちに大きな警告として与えられています。これは、カインが罪赦されて町を築くほどの者とされた、という美談ではありません。神から追放され「地上をさすらう者」となったカインが、同じように神に背を向けた者たちと一緒に町を築き、暴力と不信仰を育ててしまったという物語なのです。

カインとアベルの物語全体の結末が最後に記されています。「カインとは別の系譜が生まれた」、ということです。アダムとエバの夫婦に、セトという名前の新しい子が授かりました。「カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられたからである」とあります。

カインが弟アベル殺し、土を耕す生活から追放されてしまったために、地を受け継ぐ者がいなくなってしまい、祝福の系譜が途切れてしまいました。だから神は再び創造の御業をもって、夫婦にセトの命を授けられ、新しい祝福の系譜を造られたのです。

セトにはエノシュという子が授かりました。「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とあります。「主の御名を呼び始めた」というのは、「神を礼拝し始めた」ということです。ここから礼拝の歴史が始まるのです。罪に苦しむ人間は、礼拝無しに自分を保つことは出来ません。

カインとセトが、神から離れてさすらう命と神を礼拝する命の分かれ目になりました。このセトの子孫にノアという人が生まれやがてイエス・キリストへとつながっていくことになります。

イエス・キリストは、山上の説教の中で「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」とおっしゃいました。キリストはご自分を求める人たちには「受け継ぐべき大地」があることをしめされたのです。

人間は神から離れるという罪を犯し、楽園を失いました。それで受け継ぐ地がなくなってしまった、ということではありませんでした。立ち返るべき場所があるのです。キリストは「あなたがたが立ち返る場所は私だ」、と世に向かって呼びかけられたのです。

神はカインとは別の系図をお創りになり、エデンの園から追放されもう楽園とは切り離された人間が、再び神と共に生きる命へと戻れる道筋を残されました。何によってか。キリストの復活によって、です。

今日はイースターです。キリストが墓の中から復活なさったことを記念し、与えられた祝福を祝う日です。もう、私たちはこの地上をさすらう必要はありません。キリストが蘇られたあの朝に、天の故郷へと戻る道筋が示されました。

私達は誰もがいずれ肉体の死を迎え、墓に入ることになります。しかし、私達の墓は世の終わりに空っぽになります。「起きなさい」というキリストの一言によって、私達は永遠の命へと招き入れられることになるのです。礼拝を続け、そこに至る道をしっかりと踏みしめて行きましょう。

3月24日の礼拝説教

創世記4:1~12

「あなたはなぜ怒り、顔を伏せたのか。そうではないか。もしあなたが正しく振舞っているというなら、顔を上げることだ。もし正しく振舞おうとしないのであれば、戸口に罪が待ち伏せよう。」

神が「極めてよい」と思われた世界の秩序の中で人間は蛇の誘惑に負け、自分が神のようになろうと、食べてはならない木の実を食べてしまいました。聖書が私たちに描き出しているのは、神の創造の秩序が罪の力によって、また罪の誘惑に身を委ねた人間によって壊れていった、ということです。

世界の調和の中で土に仕え、土を耕し、土から生きるための恵みを与えられていた人間は、エデンの園という楽園から追放されてしまいました。神は、蛇の誘惑によって善悪を知る木の実を食べてしまった人間におっしゃいます。

「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」

人間はヘブライ語でアダムです。アダムは「土なる存在」という意味です。その「土なる存在・大地に生きる存在」である人間が、神になろうとして神から離れてしまったことによって、土・大地までが呪われることになってしまいました。

創世記は、我々人間の歩みは、ある意味ここから始まった、ということを教えています。聖書が証しする歴史は、神が人間を取り戻そうと働かれる救いの御業の歴史であり、招きの手を振り払う人間の罪の歴史でもあるのです。

ある人は、「創世記には人間の全ての罪が描かれている」と言いました。その通りでしょう。もし聖書が、人間が目指すべき理想郷が描いているのであれば、もっと多くの人が素直に聖書を楽しんで読んできたでしょう。しかし、聖書には醜い人間の罪の姿がなまなましく描き出されています。読む私たちへの警告として、神の前に愚かな歩みをする罪の失敗事例として突きつけているのです。

園を追放されてから、アダムとエバに二人の男の子が生まれました。ここから人間が家族を形成し、互いに助け合い、共同体を平和に築き上げていった、というのであれば、私たちは安心して聖書を読み進めることが出来ます。しかし、聖書が私たちに示すのは、最初の夫婦の間に生まれた二人による兄弟殺し、人間の最初の殺人なのです。

レントの時を過ごしている私たちはカインとアベルの兄弟の姿を通して、自分が今神にどう向き合っているかを捉えていきたいと思います。

エバは、カインを生んだ時、「私は主によって男子を得た」と言いました。母としての喜び、また神への感謝を言い表しています。その後、弟のアベルも生まれ、二人の兄弟は成長しました。

2人の兄弟は、それぞれ違う生き方をするようになりました。「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕すものとなった」と書かれています。カインは農夫として、アベルは羊飼いとして生きるようになりました。

聖書は、この二人は仲が良かったのか悪かったのか、親子でどんな風に生活していたのか、ということは書いていません。ここではただ、カイン1人だけに焦点を当てています。アベルの言葉も、アベルが殺された後のアダムとエバの悲しみも、全く書かれていないのです。聖書がカインの罪だけに焦点を当てて私たちに突き付けているということは、私たちがここで心を向けるべきは、その一点である、ということでしょう。

2人は、自分たちの労働の中で取れたものを神への捧げものとして持参しました。神はアベルの捧げものだけに目を留められた、とあります。

さて、私たちはここで戸惑うのではないでしょうか。なぜ神がアベルのささげた羊を喜ばれ、カインの捧げた土の実りを目を留められなかったのか。神は農耕よりも遊牧を喜ばれる方なのだろうか。農耕よりも牧畜の方が優れているということを聖書は伝えているのだろうか。そもそも、カインの捧げものは何が足りなかったのだろうか・・・。

よく聖書を読んでみる必要があるでしょう。字面ではなく旧約聖書が書かれているヘブライ語の表現を踏まえて読むと、また別の見方ができます。カインとアベルが、「捧げものとして持ってきた」とありますが、これは「初物を神の前に捧げる」ということの表現です。つまり、毎年、その年の初めに神から与えられた恵みを、感謝を持って神に捧げる、ということを二人はしていたのです。

聖書は、「アベルは彼の羊の初子の中から、しかもその肥えたものの中から携えて来た」と書いています。アベルが、初物の中で最もよいものをささげた、ということが強調されています。それに対してカインの捧げものに関してはただ、「大地の実りの中から捧げものを持ってきた」とだけ書いています。

「主はアベルとその捧げものに目を留められた」というのは、アベルの生業の方がこの年、豊かに恵まれたということの表現です。神がアベルの方をひいきされた、とか、神は農業よりも遊牧を好まれた、とかいうことではありません。年によって豊作と不作があります。この年は、アベルの方が豊作で、カインの方が不作だった、ということです。

この年、アベルが豊作でカインが不作であった、ということでカインは、神に対して怒り、落胆したのです。

神は、初物の中で最もよいものをささげたアベルの御自分に対する感謝をその捧げものの中に見出されました。どうやらカインの捧げものは、初物でも最も良いものでもなかったようです。そのことによって、神がカインの心の中に御自分への信仰を見出されることがありませんでした。神は二人の捧げものを通して、二人の心の内をご覧になったのです。

この場面を読むと、普通は「神はなぜアベルをひいきしたのか、なぜ理由もなくカインを嫌われたのか」、と考えるでしょう。しかし、聖書がここで描いているのは、神の「好み」ではなく、神に捧げものをした人間の心なのです。

自分だけが不作の年を迎えたということであっても、大切なのは、その後なのです。その後、神にどう向き合うか、ということです。

詩編51編にこういう言葉がある。

「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす捧げものが御旨にかなうのなら私はそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」

神の前に打ち砕かれ悔いる心、それこそが私たち人間が神に捧げるべきものなのです。豊作の年であろうが、不作の年であろうが、です。順境でも逆境でも、です。

カインもアベルも、自分の働きの中で得たものを神にささげました。しかしカインは、それが神から与えられた恵みであるということを心の内に思っていなかったようだ。不作の年を迎えたカインは、与えられた恵みではなく、足りないものから数えてしまっていたのです。それが、カインの捧げものに、またカインの態度に現れていました。

神はカインの心の内にあるものを見抜いておっしゃいました。

「あなたはなぜ怒り、顔を伏せたのか。そうではないか。もしあなたが正しく振舞っているというなら、顔を上げることだ。もし正しく振舞おうとしないのであれば、戸口に罪が待ち伏せよう。」

カインが本当に正しい思いを持っていれば、その場で顔を上げて神に正面から向き合うことが出来たでしょう。しかし、彼は顔を上げることが出来ませんでした。カインは自分自身の中に、神に対して疚しいものがあったことを否定できなかったのです。

神は、そのカインに対して、「正しくふるまいなさい」とおっしゃいました。それは、「神に対する正しさ」だ。自分を生かしてくださっている神に対して、心からの感謝をもって捧げものをし、自分の心を神に向けることです。それだけのことです。神への自分の思いをただして、低くなり、神と共に生きれば、それで終わったでしょう。それが「悔い改める」「立ち返る」ということです。

しかし、もしカインがそうしないのであれば、「戸口に罪が待ち伏せている」、と神はおっしゃいます。アダムとエバと同じ、罪の道・神から離れる道へと踏み出してしまうことを警告なさったのです。

カインは今、神と共に生きるインマヌエルの道と、神から離れる罪の道との分かれ道に立たされました。「正しく振舞いなさい、私から離れることのないようにしなさい」、と招かれる神に対して、カインは聞き従うことが出来ませんでした。まるで、アダムとエバが、「食べてはならない」と言われていたにも関わらず、善悪を知る実を食べてしまったように、自分を抑えられず神に背を向ける選択をしてしまうのです。

神に怒りを覚えたカインは、弟を野原に連れ出し、そこで殺しました。声をかけて野原に連れ出したということは、計画的に殺人を行った、ということです。衝動的に殺したのではありません。時間と場所とやり方を決めて、弟を殺したのです。

神から離れた人間、神に背を向けた人間が何を考え、何をしてしまうのか、聖書は私たちに教えています。私たちの誰が、カインと自分は違うと言い切れるでしょうか。自分は神に認められていない、神は自分ではなく自分以外の人を愛していらっしゃる、この世で自分だけが呪われていると思う瞬間は、誰にだってあるでしょう。

自分の弟を殺したカインの姿を通して私たちは何かを見せられています。神を憎むものは、自分の兄弟・隣人に対する憎しみまで抱くようになるのです。人間は、人間である以上、罪と無関係ではいられません。自分の罪が姿を現そうとするのをどうすればいいのでしょうか。

「正しく振舞いなさい」とおっしゃる神の言葉を聞く、ということ、それしかないのです。それが、今私達に与えられている聖書の言葉なのです。人間はいとも簡単に自分を罪の力に明け渡してしまいます。私たちは誰も、蛇の誘惑の言葉を聞いたアダムとエバを、神に怒り、弟を殺したカインを笑うことはできません。聖書は、「これが人間の心の一番奥に潜んでいる罪だ」ということを私たちに突き付けているのです。 Continue reading

3月17日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:31~36

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」

今日読んだ言葉は、誰が話している言葉なのかがよくわからない言葉です。普通に読むと、27節から続く洗礼者ヨハネの言葉のように読めます。しかし、聖書が書かれた時代にはカギカッコはありませんでした。聖書の原文では、どこまでがヨハネの言葉のか、という区切りははっきりしないのです。

聖書学者の中でも意見が分かれていて、「これは洗礼者ヨハネの言葉だ」と言う人もいれば、「これは福音書を書いたヨハネによる説明の言葉だ」と言う人もいれば、「これはイエス・キリストご自身の言葉として読むべきだ」という人もいます。

これが一体誰の言葉なのか、ということははっきりしませんが、それ以上に大切なことは、今日私たちが読んだこの言葉が、イエス・キリストのことを証ししている、ということ。そして、キリストに対して私達がどうあるべきか、ということを直接私達に訴えていることです。

31節「上から来られる方は、全てのものの上におられる」

これはイエス・キリストのことを指しています。この福音書の初めの1章で言われているように、キリストが「上から来られた方・天から来られた方」であることを改めて強調しています。その「上から来られる方」が、「地に属する者」のために天から地上に来てくださり、天にいらっしゃる神を証ししてくださる、と1章のキリスト証言を繰り返しているのです。

今日読んだ言葉の前半部分では、天から来られた方に対して、地に属する私たちがどう向き合うべきなのか、ということが言われています。

32節では、キリストがおっしゃることを、「この世の人々は誰も受け入れない」と言われています。これも、1章で言われていることの繰り返しです。

「暗闇は光を理解しなかった」

「言葉はご自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」

ここを読んで、私たちは主イエスとニコデモの会話を思い出すのではないでしょうか。ニコデモは、主イエスに向かって、「あなたは神の元から来られた教師です」と言いました。「この方には何かある。この方は特別な方だ」と、ニコデモはイエスという方に大きな期待を抱いてやってきました。

しかし、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と主イエスから言われると「どうしてそんなことができましょうか」と理解することが出来ませんでした。

天から来られたキリストが「霊の言葉」を聞かせても、地に属するニコデモは「どうしてそんなことができるでしょうか。どうしてそんなことがあるでしょうか」と繰り返すのです。

ニコデモは主イエスのことを「あなたは神の元から来られた教師です」と言ってはいますが、本当に「神の元から来られた方」であると信じ切ることはできませんでした。主イエスがおっしゃることを何も理解できないまま、頭の中にいろんな疑問を抱いたまま、主イエスの元から去って行きました。

ニコデモは、キリストの言葉を聞き理解するための前提を持っていませんでした。それは、「この方は本当に天から来られた神の子である、天の言葉を伝えてくださるキリストである」ということです。それが無ければ、主イエスの業も、言葉も、あの夜のニコデモのように、なんだかよくわからないものとして終わってしまうでしょう。

今でも、イエス・キリストのことを、知っている人はたくさんいます。しかし、一体どれだけの人が、キリストのことを本当に知っているでしょうか。本当に知ろうとしているでしょうか。「人々に愛を伝えて、最後に十字架にかけられて殺された、歴史上の偉人」というように考えている人は多いのでしょうか。どれだけの人が、「過去の偉人」としてではなく、「天から来られ、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、復活して永遠の命に至る道を拓いてくださり、今も私たちに聖霊を拭き注いでくださっている方」として見ることができているでしょうか。

主イエスはニコデモに「上から新たに生まれなければならない、水と霊とによって新たに生まれなければならない」と言われました。なぜ私たちは洗礼によって新たに上から生まれなければならないのでしょうか。

洗礼を受けて、そこから本当の意味でイエス・キリストを知ることが始まるからです。私達はキリストを全て理解して、洗礼を受けるのではありません。キリストを知りたいから、キリストを少しでも理解したいから洗礼を受けるのです。聖霊の注ぎ、聖霊の交わりを通して、キリストを知って行くことになります。

私たちは教科書を読んで理解するような仕方でキリストを知っていくのではありません。生きることを共にすることで知って行くのです。

34節 「神がおつかわしになった方は、神の言葉を話される」

これがイエス・キリストの地上での使命でした。キリストがこの地上で私達にお伝えになったことは、地上に生きる私達が自分たちで見聞きすることのできない天のことです。

主イエスはニコデモにおっしゃいました。

「はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り見たことを証ししているのに、あなた方は私たちの証を受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば。天上のことを話したところでどうして信じるだろう。」

キリストには苦しみがありました。地上にいる人たちは、地上のことにしか目を向けていませんでした。だから天上のことをどれだけ話して聞かせ、奇跡を見せても、信じようとしませんでした。

この後の7:28を見ると、主イエスはエルサレムの人々に向かって大声で叫んでいらっしゃいます。

「あなたたちは私のことを知っており、また、どこの出身かも知っている。私は自分勝手に来たのではない。わたしを遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。私はその方を知っている。私はその方のもとから来た者であり、その方が私を遣わしになったのである」

また、8:26以下にはこんなユダヤ人たちと主イエスのやりとりが記されています。

「あなたは一体どなたですか」とユダヤ人たちが主イエスに尋ねて来ました。

「それは初めから話しているではないか。あなた達については言うべき事、裁くべきことがたくさんある。しかし私を遣わしになった方は真実であり私はその方から聞いたことを世に向かって話している」と主イエスはお答えになります。

福音書はユダヤ人たちについてこう記しています。「彼らはイエスが御父について話されていることを悟らなかった」

主イエスがニコデモにおっしゃったように、神は風を吹かせるように、霊を吹かせていらっしゃいます。自分に向かって吹いてくる霊の音に、どれだけ耳をすませるか、ということが、私達の信仰の姿勢でしょう。

自分の知識で、この世の知恵で神を知ることはできません。

使徒パウロは、手紙の中で書いています。

「神は世の知恵を愚かなものにされた・・・世は自分の知恵で神を知ることができませんでした・・・ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています・・・神は知恵あるものに恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選ばれました」 Continue reading

3月10日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:22~30

「あの方は栄え、私は衰えねばならない」

イエス・キリストが、実際に福音宣教を始められたお姿が描かれています。主イエスは、ニコデモとの出会いの後、ユダヤ地方に行ってそこに滞在し、ご自分の下にやってくる人たちに洗礼を授けていらっしゃいました。

ヨハネ福音書は、洗礼を授けられる主イエスのお姿そのものに焦点を当てて描いてはいません。人々に洗礼を授けられる主イエスを、ヨルダン川の対岸にいた洗礼者ヨハネがどのように見ていたか、という視点で描いています。

私達は洗礼者ヨハネの視点で、このイエスという方をどう見るべきなのか、そしてイエスという方の前で自分はどうあるべきなのか、ということを考えるよう促されているのです。

主イエスはユダヤ地方で、洗礼者ヨハネはヨルダン川をはさんだ対岸のアイノンというところで、それぞれ人々に洗礼を授けていました。ヨハネの弟子達が、ヨハネの下に来て言います。

「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」

ヨハネの弟子たちにとって、自分たちの先生よりも後からやってきたイエスという人の下に人々が流れていくことは面白くないことでした。これに先立って、「ヨハネの弟子達と、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」、と書かれています。詳しい内容は書かれていませんが、おそらく、ユダヤ人の1人がヨハネの弟子達に「向こうにいるイエスと、あなたがたの先生であるヨハネと、どちらの洗礼の方が優れているのか」と聞いてきたのでしょう。

洗礼者ヨハネの弟子達は、当然自分たちの先生が授ける洗礼の方が上だ、と思っていたでしょう。ナザレのイエスに洗礼を授けたのは、そもそも自分たちの先生なのです。それを、後から来たイエスが、自分たちの先生と同じように洗礼を人々に授け始め、ユダヤ人からは「ヨハネよりもイエスの洗礼の方が優れているのではないか」と言われたり、人々がイエスの方に多く流れて行くようになると危機感を覚えたのでしょう。

イエスの方が栄え、自分たちの先生であるヨハネが衰えるということが、ヨハネの弟子達には辛いことでした。ヨハネの弟子達は、たまらなくなって、自分たちの先生に訴えたのです。

主イエスと洗礼者ヨハネは、この福音書の中でもよく比較されています。(4:1、5:33、10:41)

ナザレのイエスも洗礼者ヨハネも人々に洗礼を授けていたので、どちらの洗礼が優れているのか、ということは議論になっていたのでしょう。

洗礼者ヨハネが殺され、主イエスが十字架で殺された後にも、「自分が受けた洗礼はヨハネのものか、イエスのものか」ということは重要視されました。使徒言行禄の19章を見ると、エフェソの町でパウロが、ヨハネの洗礼を受けていた人たちに改めてイエス・キリストの洗礼を授けなおしたことが書かれています。

パウロは、その際、エフェソの人たちにこう言っている。

「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」

このパウロの言葉は、洗礼というものの本質を言っています。キリストに向かうものであるということです。

我々キリスト者の間でも、「自分が誰から洗礼を受けたのか」ということを必要以上に重要視することがあります。しかし、自分に洗礼を授けた信仰の指導者がどんなに立派な人か、ということよりも、洗礼を受けた自分が今どれだけキリストに向かっているか、ということにこそ本質があるのです。

ヨハネの弟子達は何とかしなければならないと思い、「みんながあの人の方に行っています」とヨハネに訴えました。しかし当の洗礼者ヨハネはそのことに何の問題も感じていませんでした。ヨハネは、自分の弟子達に言います。

「天から与えられなければ、人は何も受けることが出来ない」

ヨハネは、対岸で洗礼を授けているイエスという方こそ、天から来られた方であり、自分はあの方を待っていた、あの方の前に遣わされた者に過ぎない、と言いました。

弟子達の予想に反して、洗礼者ヨハネは、人々が自分ではなくイエスという方に向かっていくことをむしろ喜んでいるのです。ヨハネはこれまで、自分の弟子たちにも、エルサレムから遣わされてきた使者たちにも「自分はメシア・キリストではない」と伝えてきました。自分はキリストの到来を告げる前触れの声にしか過ぎない、自分の後から来られる方は自分よりも偉大である、その方は神の子羊であり、聖霊によって洗礼を授ける神の子である、と言ってきました。

2人が同じように洗礼を授けるのであれば喧嘩になりそうなものですが、違うのです。洗礼者ヨハネはイエスという方を見て、今こそ自分が小さくならねばならない、ということを知ってむしろ喜んだのです。

ヨハネは、主イエスと自分との関係を花婿とその介添え人に例えています。主イエスが花婿であり、ヨハネが介添え人です。

この当時のユダヤの結婚式は、花婿は1人か2人の友人に付き添われて花嫁の下まで結婚式場まで向かっていました。花婿の付添人は結婚式場に花婿が入り、その会場に喜びの声が上がるのを聞くことを喜びとし、そこで自分の役割が終わった後満足して、身を引くのです。介添え人は決して結婚式の主人公にはなりません。主人公は花婿であり花嫁なのです。

聖書は神とイスラエルの契約関係を男女の結婚関係と重ね合わせて私たちに見せています。イスラエルは神と結婚の契りを交わした信仰の契約共同体なのです。

イスラエルの歴史は、神との契約に対する不誠実の歴史でした。イスラエルは神との愛の契約を結んだにも関わらず、歴史の中で偶像礼拝を続けたのです。そのことによってバビロンに国を滅ぼされ、捕囚とされました。数十年続いた捕囚生活から解放され、エルサレムへと戻ることが許される時、預言者イザヤが神の言葉を告げました。

イザヤ書54:6

「捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若い時の妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、私はあなたを捨てたが、深い憐みをもって私はあなたを引き寄せる」

イザヤ書62:5

「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」

洗礼者ヨハネはヨルダン川の向こう側に見える主イエスと、主イエスを求める人たちの姿を見て、今こそ自分が小さくなる時であると悟り、そのことを喜びました。花婿の介添え人のように、花婿と花嫁を引き合わせることを喜びとし、自分は静かに身を引くのです。

私たちも、誰かを教会へと招き、キリストと出会ってもらうことを喜びとします。大切なことは、自分がキリストになることではありません。誰かをキリストの下に連れて行くことを喜びとするのです。そこで自分の手柄を誇ったり、自分には人を導く力があるなどと勘違いしてはならないのです。

私たちには、自分自身がキリストに出会った時の喜びがあります。その喜びは、キリストと自分を結んでくれた、誰かがいたから、何かがあったからでしょう。もう自分が忘れてしまっている、たくさんの小さな小さなきっかけがあったはずです。

私たちはキリストを大きくするのであって自分が中心になって目立つことや、自分の姿が知られることを喜ぶのではありません。洗礼者ヨハネのようにイエスキリストと誰かをで合わせてその喜びの声を聞いて喜ぶ。そのようにして神のお名前が大きくされることだけを望むのです。

私達は思い出したいと思います。カナの婚礼の際、婚礼の宴の裏で、キリストが水から変えられた葡萄酒を黙々と運んだ使用人たちがいました。キリスト者の働きはいつでも日の当たらないようなものかもしれません。しかし、人知れず誰かのために執成しの祈りをして、その祈りが聞かれた時、私たちはキリスト者としてこの上ない喜びを感じるのです。

24節には「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」と書かれています。後に洗礼者ヨハネに何が起こるのかが暗示されています。投獄され、首を切られて殺されることになるのです。

洗礼者ヨハネの働きは、大きなものでした。荒れ野で悔い改めを人々に叫び求めながらメシアの到来の前触れを告げていたのです。神がこの世にお与えになった大きな招きの御業、救いの御業のために大きな働きをした人です。それにも関わらず、ヨハネは牢に入れられて、殺されてしまうことになるのです。なんと報われないことか、と思わされるのではないでしょうか。

ヨハネは主イエスの方に人々が行くのを見て、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」と言いました。ヨハネは命を落とすほどに衰えることになるのです。洗礼者ヨハネは、キリストの到来の前触れとして荒れ野で叫んだだけでなく、キリストの受難の前触れとして、自分の命を用いました。そうやって、ヨハネはキリストのために道ぞなえをしていったのです。 Continue reading

3月3日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:16~21

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

おそらく、ヨハネ福音書の中で、いや聖書の中でも最も有名な言葉ではないでしょうか。「聖書の中の聖書」と呼ばれたりもする言葉です。聖書の全てがこの1節に凝縮されていると言ってもいいでしょう。

ニコデモというファリサイ派の議員が、夜主イエスの下にやって来て、二人だけで会話をしました。ヨハネ福音書は不思議な文体で書かれていて、この16節以下は、ニコデモとの会話の中でキリストが語られた言葉のようにも読めるし、福音書の解説文のようにも読めるし、キリストの独り言のようにも読めます。

3章はキリストとニコデモの出会いと会話として描かれてはいるのですが、よく読むと、10節まではキリストはニコデモに対して「あなたは」と語りかけていらっしゃいます。しかし、その後、3章の後半になると、「あなたがた」という言い方になり、だんだんニコデモの姿が消えてしまいます。

この言葉が、キリストご自身の言葉なのか、福音書の解説の一文なのか、またこれが、ニコデモに向けられた言葉なのか、キリストの独り言なのかは、よくわかりません。

ただ間違いなく言えるのは、この言葉は、ニコデモだけでなく、今この福音書を読んでいる私たちに向かって、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と証ししている、ということです。これは、ニコデモだけにお教えになった言葉ではなく、「神はそれほどにあなたを愛されているのだ、私はあなたのために命を差し出すのだ」という、世の全ての人に対する証しなのです。

今日私たちが読んだのは、ヨハネ福音書が世に向かって一番伝えようとしているテーマが凝縮されている箇所です。この福音書の頂点と言ってもいいような言葉が語られています。

福音書が書かれた当時のギリシャ哲学では、天上にあるものを崇高なものと捉え、地上のもの、私たちの目に見える者、手で触れるモノを劣ったものと考えました。そしてこの地上の物質世界から解放されることを目指していました。そのような時代に書かれた福音書なので、ヨハネ福音書は天の領域のものと地上の領域を対比させている表現が多く出てきます。

しかし、この聖書の福音、天と地を分けてはいるが、地上のものを全否定しているわけではありません。むしろ、天にいらっしゃる神が、この世・この地上に生きる我々人間を価値あるものとして愛してくださっている、ということを力強く描き出しています。天の世界・霊の世界が優れていて、地上の世界、物質の世界が劣っているから価値がない、などということは言いません。

そうではなく、「神はこの世を愛された」、と書かれています。しかも、独り子をお与えになるほどに、です。

天の世界は天の世界、地上の世界は地上の世界で別々に考えて生きればいい、というのではないのです。天地をお創りになった神が、地上に生きる私たちを愛し、この世の罪深い有様を憂い、天から地上に来てくださったように、この世に生きる私達も、天にいらっしゃる神に、また生きて私達を天の国へと導いていらっしゃるキリストに向かわなければ、聖書が伝える福音・喜びの知らせを理解することはできないのです。

ヨハネ福音書では、神が独り子を世に送られた、という表現が50回以上も出てきます。今日私たちが読んだところでは、神が独り子を何のために遣わされたのか、その目的が書かれています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

世を救う、ということは、神から離れてしまった世の全ての人をご自分の下に取り戻す、ということです。御子イエス・キリストの命は、そのために使われる、というのです。

「独り子の命を差し出す」、ということで思い出されるのは、アブラハムが自分の子イサクを生贄として捧げるよう神から命じられた出来事でしょう(創世記22章)。

なかなか子供が授からなかったアブラハムとサラに、ようやく愛する独り子が与えられました。それなのに、神から突然、「イサクを私に捧げなさい」、と言われるのです。アブラハムは黙ってそれに従いました。イサクも黙って生贄台に身を横たえました。そしてアブラハムがイサクを殺そうと手を挙げた時、神は「あなたの信仰はわかった」とおっしゃり、代わりに羊をお与えになるのです。

創世記のその場面を読むと、私たちには神はなんと残酷なことをなさるのだろうか、と思うのではないでしょうか。アブラハムの信仰を試すために、イサクの命をお用いになったのです。

なぜ神は、そこまでしてアブラハムを試されたのでしょうか。アブラハムは、75歳の時に、神の召し出しによって自分の故郷を捨て、外国へと旅立ちました。そして神が示される地に入り、神を礼拝し、その後も神に従い続けました。そこまで神への信頼を抱いていたアブラハムなのに、神は更に信仰を試されたのです。

神は、「モリヤの地に行き、あなたの愛する独り子イサクをささげなさい」、とおっしゃいました。「モリヤの地」とはどこでしょうか。後にソロモンが神殿を建築することになる場所です(歴代誌下3:1)。そしてそこは後に、イエス・キリスト、神の独り子が生贄として十字架に上げられることになる場所なのです。

アブラハムが独り子をささげようとしたモリヤの地、エルサレムの山、まさにその場所で、神の独り子は十字架へと上げられました。

神は独り子をささげるほどのアブラハムの思いをご覧になったのです。だからこそ、神は同じ場所で、世を救うためにご自分の独り子をささげることを決断されたのではないでしょうか。アブラハムに与えられた信仰の試練は、時を経て、イエス・キリストの十字架という救いの実りへとつながっていくのです。

神の子イエス・キリストは、私たちのために神と共に生きる道を示そうと命をかけてくださいました。そうであるなら、私たちもそれに対して命を懸けなければならないのではないでしょうか。アブラハムのように、命を懸けて神と共にいる道を行くか、命を懸けて神から離れるか、決断がうながされているのです。

いつでも、私たちには目の前に二つの道が置かれています。

BC6世紀、預言者エレミヤは、差し迫るバビロンの軍隊を前にして、ユダの王にこう告げました。

「主はこう言われる。見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く」エレ21:8

信仰者は、命の道と死の道を常に選択する岐路に立たされているのです。

使徒パウロも手紙の中でこう書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」ロマ6:16

洗礼を受けたからと言って、私たちの信仰生活が完結する、完成する、ということはありません。洗礼を受け、そこから信仰の歩みが始まる、というだけのことです。むしろ、洗礼から、信仰の本当の試練が始まるのです。

信仰者にこそ、サタンの誘惑はやって来ます。

「キリストから離れてはどうか。あなたが救い主になってみてはどうか」という声が近寄ってくるのです。

私たちは一生涯をかけて、私のために命を捨ててくださったキリストと共に歩みぬく、という信仰の戦いを続けることになります。その際に何度も立ち返るのが、今日私達が読んだ、キリストの言葉ではないでしょうか。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

私たちは、この夜、イエス・キリストのことを理解できなかったニコデモと、キリストを裏切ることになるユダを比較することが出来ます。

この夜、ニコデモは無理解でした。しかし、エルサレムでしるしを行い、福音を告げるイエスという方のことを少しずつ理解し、キリストの十字架を見て、キリストの下に立ち返っていくことになります。独り子をお与えになるほどの神の愛を見出したのです。闇の中から、光の下へと立ち返ったのです。

しかしユダは、キリストと一緒にいて共に旅を続けてきましたが、夜、闇の中へと出て行き、キリストを引き渡すことにしました。そしてその後もキリストの元へと立ち返ることなく、自らの命を絶ってしまいました。 Continue reading

2月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~15

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

夜、誰にも知られずにイエス・キリストを訪れたニコデモは、「人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」と言われ戸惑いました。「あなたは神の元から来られた教師ですね」と尊敬の意を示したのに、主イエスから「あなたはまだ私について何もわかっていない」ということを示されてしまったのです。ファリサイ派でありユダヤの議員であったにも関わらず、「上から生まれ変わらなければならない」と言われたニコデモは「どのようにして生まれ変われるというのか」と無理解でした。

ヨハネ福音書は、主イエスが天から来られ、天の言葉を世に聞かせてくださった方であることを1章で証ししています。全ての初めにあった神が、人となり、この世に人間として生まれ、世に向かって神の言葉を伝えた、それがあのイエスという方であったという、この福音書を読む上での大前提を示しています。

ヨハネ福音書を通して私たちはイエス・キリストの公の生涯を見ていますが、その前提を無しにこの方の業と言葉に向き合うと本当には何も理解できないことになってしまいます。

この夜のニコデモがそうでした。そして、当時にユダヤ人たちがそうでした。主イエスは神殿でお怒りになって商人たちをそこから追い出された時、ユダヤ人たちから詰め寄られました。その際、「この神殿を倒して見なさい。三日で建て直していせる」とおっしゃいました。ユダヤ人たちは、「46年もかけて建築して来たこの神殿を三日で建て直すのか」、と表面的にしか主イエスの言葉を理解できなかったことが記されています。

しかし、主イエスがおっしゃったのは、十字架の死から三日目に復活なさった御自分の体のことでした。弟子達が主イエスの十字架と復活を見た時、初めて、「あの時主イエスが神殿でおっしゃったのは、御自分の体のことだったのだ。キリストご自身が、今、新しい神殿となられたのだ」と悟ることになりました。

世の人々は、主イエスがなさること、おっしゃることをこの世の基準で見ようとしました。だから、皆、理解できなかったのです。主イエスが「神殿を三日で建て直して見せる」とおっしゃったことも、「人は新しく上から生まれなければならない」とおっしゃったことも、字義通りのこととして、そして世のものさしでしかとらえることが出来なかったのです。

ニコデモは、「どうしてそんなことが出来るでしょうか」「どうしてそんなことがありえるでしょうか」と言い続けました。この主イエスとニコデモのやりとりを通して、私たちも今日、主イエスがお伝えになろうとした霊的な意味を探っていきたいと思います。

キリストは不思議なことをおっしゃっています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

これは、「風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く」という言葉です。原文のギリシャ語で「風」という単語には「霊」という意味もあるので、「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く」と訳してもいい言葉です。

主イエスははっきりと、ニコデモに、「あなたは実は今、霊の声を聞いている」とおっしゃっているのです。霊の声はきこえているはずなのに、あなたは聞こうとしていないのだ、と暗におっしゃっているのです。

ニコデモには霊の声、目の前にいらっしゃる神の子が話される神の言葉を捉えることができませんでした。このニコデモの霊的な無理解は、私たちにとって大きな警告となるのではないか。

神が語りかけてくださっているのに、聖霊の招きが自分に確かに及んでいるのに、自分の心がそちらに向いていないのであれば、この夜のニコデモのように、私たちはキリストの前に「どうしてそんなことが出来るでしょうか、どうしてそんなことがあり得るでしょうか」と、ただ、自分の理解を超えたものに対して心を閉ざすことを続けてしまうことになります。

風が吹くように、神の霊は吹いているのです。風の音が聞こえるように、実は私たちは霊の声が聞こえているのです。私たちは普段、風の音など気にしていません。いつ、どこで風に吹かれたか、など、意識して生きていません。それと同じように、霊の声に心を向けなければ、どれだけキリストの言葉を聞いても、聖書を読んでも私たちは何とも思わないのです。

この夜の主イエスとニコデモの噛み合わないやりとりは、この福音書を通じて、主イエスとユダヤ人との間に続いていくことになります。「あなたは一体何者なのですか」と尋ねてくるユダヤ人たちに主イエスがいくらお答えになっても、ユダヤ人たちは理解できませんでした。

ユダヤ人たちだけでなく、弟子達もそうでした。十字架に上げられるために逮捕される夜、主イエスは弟子達の足を洗われた際、おっしゃいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って、あなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる」

しかし、それを聞いた弟子の一人トマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか」と言いました。

弟子達も、主イエスと一緒に三年以上寝食を共にして旅を続け、教えを聞いていたにも関わらず、主イエスがおっしゃる言葉の本当の意味は理解できていなかったのです。

天にある神の御心を知る、ということに、地上に生きる我々人間がどれだけ心を向けることができていないか、ということを思わされます。私たちは自分自身を天の領域へと上げることができません。いつも自分のことで手一杯です。自分が聞きたい言葉だけを選び、聞きたくないことには心を向けようとしないのです。自分の中にある言葉を空っぽにして、聖書の言葉を迎え入れようとする隙間をなかなか作ることができません。

だからこそ、天にいらっしゃる神が、天の言葉を伝えるために、この世にまで来てくださったのです。

主イエスはニコデモに「はっきり言っておく」とおっしゃっています。主イエスはこの夜だけで、ニコデモに三度、この言葉をおっしゃっています。ヨハネ福音書全体では、25回もおっしゃっています。

これは、直訳すると「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」という言葉です。

主イエスは、ナタナエルをご自分の弟子として召される時、おっしゃいました。

「天が開いた状態になり、人の子の上に神のみ使いたちがのぼったりくだったりしているのを、あなたがたは見ることになる」

「人の子」というのは、主イエスご自身のことです。主イエスが、創世記でヤコブが見たというあの天と地を結ぶはしごとなられる、とおっしゃるのです。

そのように、主イエスはナタナエルやニコデモをはじめとして、世の人々に「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」と、天の言葉をお伝えになります。そうやって、天と地を結ぼうとされるのです。

「アーメン、私はあなたに告げる」と、キリストは今でも私たちにおっしゃっています。私たちは、風が吹く音が聞こえているように、霊の声が聞こえているのです。その音、その声を聞こうとするかどうかです。

この夜、ニコデモが聞かなければならなかったことは何だったのでしょうか。イスラエルの教師として、思い出さなければならなかったのは何だったのでしょうか。

BC6世紀の預言者エゼキエルが、バビロンで捕囚とされていたイスラエルの人たちに神の言葉を告げました。

「『イスラエルの家よ・・・お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ』と主なる神は言われる」

エゼキエルの口を通して、神は、イスラエルの背きからの立ち返りをお求めになりました。その際、「新しい心と新しい霊を造り出せ」とおっしゃっています。神から離れた場所から、神の元へと戻ってくる、ということ。神を知るということは、新しい命を生きることなのです。

この夜、ニコデモは、「新しく上から生まれなければ神の王国には入れない」と言われ、理解できませんでした。しかし、もし聖書の言葉に詳しいはずの律法学者のニコデモが、このエゼキエルの預言を思い出していたらどうだったでしょうか。今こそ真の神の元に立ち返り、新しい命に生きる時が来た、と理解できたはずでしょう。

主イエスは14節で、こうおっしゃっています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

民数記21:4以下で、イスラエルの民が神とモーセに逆らった時のことが記されています。荒野を歩く生活に嫌気がさしたイスラエルの民は怒って不満をぶつけました。

「なぜ私たちをエジプトから導き上ったのか。私たちを荒れ野で殺すためか」 Continue reading

2月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~8

「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

先週、私たちは、イエス・キリストが、御自分を信じる人たちのことを、信用なさらなかった、ということが書かれているのを読みました。「なにが人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」と書かれています。

福音書に記録されているこのような主イエスの人間に対する見方、また厳しい言葉を通して、私たちは自分たちの信仰の姿勢を改めて見つめなおすことになると思います。

この後も福音書を読んでいくと、主イエスが示されるしるしを通して主イエスに出会う人たちが次々に登場します。その一人一人が、主イエスのことを信じているかどうかということに加え、「どう信じているか」ということまで問われていくことになるのです。

その初めが、ニコデモという人でした。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた」とありますが、少し細かく訳すと、「ニコデモという『人間』がいた」となります。「なにが人間の心の中にあるのかよく知っておられた」主イエスのもとに、ニコデモという「人間」が来た、という文脈です。

ニコデモは確かに主イエスのことを求めて来ました。しかし、ここに記録されている主イエスとニコデモの会話を読むと、ニコデモはまだ「闇の中にいる人」であることがわかります。

「ラビ、私どもは、あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」

ニコデモはそう言って、主イエスへの尊敬を伝えますが、主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。つまり、ニコデモは主イエスのことを尊敬もし、信頼もしているが、本当の意味で主イエスのことを理解しておらず「今のあなたは私に従うことはできない」ということを示されたのです。

ニコデモは主イエスのことをどう見ていたのでしょうか。彼は主イエスに「ラビ、先生」と呼びかけています。ニコデモは、主イエスのことを「偉い先生」と見ていたようです。「人としてお生まれになった神ご本人」としては見ていません。「世の全ての人の罪を背負うために十字架にかかり、三日目に復活するメシア」として信じていないのです。

この時点でのニコデモは、当然そんなことは知りませんでした。ただ、人間離れしたしるしを行われるのを見て、この方には何かある、という期待だけもってやって来たのです。

その夜、主イエスはニコデモがそのような「人間」であることを見抜かれていました。だから主イエスはニコデモをまだ信頼していらっしゃらないのです。

ヨハネ福音書は、「キリストのしるしを見てみんなが信じるようになった」という喜びを描いているのではありません。福音書が焦点を当てているのは、「人々がキリストのしるしを見て信じるようになったが、本当の意味で正しく信じることができていなかった」、ということなのです。キリストに対する人間の無理解、また誤った期待が描かれています。

このニコデモという人を通して、私たちの信仰を新たに吟味したいと思う。

ニコデモは夜に主イエスの下にやって来ました。なぜ夜にやって来たのか、その理由は書かれていません。主イエスに教えを乞うことを他の人たちに見られたくなかったのかもしれません。律法学者として、夜、誰にも邪魔されず静かに神の言葉について語り合いたかったのかもしれません。

ニコデモ本人の実際の事情は分かりませんが、福音書はニコデモのことを、「夜の人」として描いています。つまり、まだ無理解の闇の中にいる人、そして闇の中で光を求める人として描いているのです。

ニコデモは、ファリサイ派の議員であり、最高法院の中の議員の1人であり、ユダヤの指導者でした。主イエスはニコデモのことを「イスラエルの教師」と呼ばれているので、律法学者・神学者でもあったのでしょう。聖書の言葉の専門家であり、神の御心をよく知っているはずの人でした。

しかしこの夜、ニコデモは「夜の人・闇の人」人でした。この夜の闇は、神の御心に対する闇を象徴しています。

ニコデモは確かに主イエスのことを「神のもとから来られた教師だ」と信じていました。しかし、主イエスがおっしゃることを聞いても、全く理解できませんでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われても、ニコデモは理解できなかったのです。

ユダヤ人たちが、主イエスが神殿を三日で建て直して見せる、とおっしゃったのを字義通りに解釈したように、ニコデモもここで同じように表面的に解釈している。

「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」

キリストがおっしゃる「新たに生まれる」とはどういうことなのでしょうか。これは、「もう一度生まれる」という意味と、「上から生まれる」という二つの意味があります。福音書は両方の意味を込めているのでしょう。「上から新しく生まれる」、そのことがあって、初めてイエス・キリストが導き入れて下さる神の国へと入ることが出来る、ということです。

聖書の専門家でありユダヤの指導者であり、イスラエルの教師であったにも関わらず、ニコデモは主イエスがおっしゃる言葉の意味が分かりませんでした。

キリストの使徒パウロが書いた手紙や使徒言行禄を読むと、キリスト者たちがどれだけキリストを証ししても、なかなか信じてもらえなかったということがわかる。パウロ自身、ある時は同胞のユダヤ人たちから、ある時は異邦人から迫害を受けました。

そもそもパウロ自身、キリスト者たちを迫害する側の人でした。キリスト者たちが信じていることを理解できなかったです。しかし、復活のキリストに召され、神のために教会を迫害する者から、神のために教会のために働く者とされました。そして自分がキリスト者になったとき、イエス・キリストを証しするということがどれだけ伝わらないことであるか、ということを知ったのです。

パウロはイエス・キリストを証しする言葉を、「十字架の言葉」と表現している。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です・・・世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」1コリ1:18以下

神の救いの御業は、躓きに満ちています。簡単に信じられるようなものではありません。神が御自分の愛する独り子を、世の罪びとのためにいけにえとして十字架に上げられた、そして三日目に死人の内から復活させられた、というのです。

「それを信じてください」と言っても、誰も簡単に信じることはできませんでした。神の子が人間に殺される、というのです。死人がよみがえった、というのです。

パウロは「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」と書いています。確かにそうでしょう。世の知恵、自分の知恵で神の御心をはかり知ることはできません。

だからパウロは言っています。

「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう」1コリ2:7 

ではどうすれば、我々人間はその闇の中から抜け出すことが出来るのでしょうか。まずは、自分の人間的な常識や、地上の知識を脇に置いて、差し出されたキリストの御手をとることです。そこから始まるのです。

主イエスはニコデモの無理解に対して「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。ここを読んで、私たちはすぐに洗礼を思い浮かべると思います。

しかし、ニコデモは分かりませんでした。霊的に新しく生まれ変わる、ということではなく、文字通りもう一度生まれなおさなければならないと理解しました。「もう一度母の胎内に戻らなければならないのですか」とニコデモは混乱します。

そのニコデモに主イエスは続けておっしゃいます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」 Continue reading

2月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:21~25

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」

主イエスはユダヤ人の過越祭に加わるためにガリラヤ地方からユダヤ地方へと巡礼されました。エルサレムの都に入り神殿に行かれると、突然怒り出して鞭を造って動物たちを追い払い、そこにいた両替人や商人たちも追い出されました。イエス・キリストの「宮清め」と呼ばれている出来事です。

ユダヤ人たちはそれを見て、主イエスに対して敵意を持つようになりました。当然でしょう。神聖な神殿でここまでのことをするのは非常識です。周りにいたユダヤ人たちは主イエスに言いました。

「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」

神殿で大暴れする正当な理由を示せ、というわけです。これに対して主イエスの答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」という言葉でした。

ユダヤ人たちは全く納得しませんでした。神殿を馬鹿にしているようにもとれる言葉です。「この程度の神殿、俺なら三日あれば十分だ」と言っているようにも聞こえます。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」とユダヤ人たちは怒りました。ここから、主イエスとユダヤ人たちの間には溝ができ、やがて主イエスは逮捕され、十字架はと上げられていくことになります。

今日私たちが読んだのは、神殿で暴れてユダヤ人たちから敵意をもたれてしまった主イエスのことを信じる人たちもいた、というところです。

過越祭の間主イエスはエルサレムに滞在されていましたが、その間、たくさんのしるし・奇跡を行われたようです。そして、多くの人たちが主イエスのことを信じるようになりました。

不思議なのは、主イエスがそのことをお喜びにならなかった、ということです。たくさんの人たちがご自分のことを信じるようになったのに、主イエスは、その人たちのことを「信用なさらなかった」、というのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられたのである」と書かれています。

このことは私達にとって、大きな衝撃ではないでしょうか。キリストは、「あなたを信じます」と告白する人を、無条件に、愛をもって受け入れてくださるのではないか、と私たちは考えるのではないでしょうか。私達が信じても、主イエスの方が私達を信じてくださらない、というのであれば、私達はどうすればいいのか、と思ってしまいます。

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」という一文を読むと、私たちは不安になるでしょう。自分の心の中まで見透かされていることに恐れを抱きます。

今日私たちは、ここでしっかり腰を据えて、「イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか」ということを改めて捉えなおさなければならないと思います。そして、「自分の心の中に何があるのか」ということを、聖書を通して吟味していきたいと思います。

ヨハネ福音書は、この世界をお創りになった神が人間として生まれ世に来てくださったのに、この世はその方を神として見ることができなかった、ということを書いています。

キリストの弟子達でさえそうでした。イエス・キリストがなぜ神殿でここまでお怒りになり、大暴れされたのかを、理解できませんでした。弟子達は主イエスと一緒に3年もの間寝食を共にし、旅を続けました。ずっと一緒にいたのです。それでも、弟子達は主イエスがおっしゃった言葉を聞き、主イエスがなさった業を見ても、その時には理解できなかったのです。

弟子達がキリストの言葉や業を本当の意味で理解したのは、キリストの十字架と復活の後でした。キリストの十字架と復活を通して思い返した時に、「あの方のあの言葉は、こういう意味だったのだ。あの時の奇跡は、このような意味があったのだ」と初めて分かったのです。

このことは、私達にとって、自分たちが生きている今にどう向き合うべきか、ということに大きな示唆を与えてくれます。

私達は、「今」という時の意味を知ることが下手なのです。自分が見たものを、自分が見たままに解釈します。物事が上手くいっているときは、「神に感謝しよう」と言えるでしょう。しかし、物事が自分の思うとおりに行かない時、どこに向かえばいいのか分からなくなった時に、「神に感謝しよう」とはなかなか言えません。

むしろ、「神は私のことをご覧になっていないのではないか。私は何か悪いことをしてしまったのではないか」「自分は神から愛していただけるような者ではないのではないか」などと考えこんでしまいます。

しかし、時が経って後からその苦難の時を思い返すと、「あの時の苦しみ、悲しみ、不安は、神がこのことを私に教えるために見せてくださったものではないか」と思うことがあります。失敗や試練も、その時はただ辛いだけのものだったのが、後になって、「あのことを経験していなければ、今の自分はなかった」と思えるようなことはたくさんあるのではないでしょうか。

後にキリストが十字架の死から3日目に蘇られたのを見た時、弟子達は、「三日で建て直して見せる」と主イエスがおっしゃった神殿とは御自分の体であったということを悟りました。

私たちはこのことから、自分たちの信仰生活の今にどう向き合うべきか、どういう視点をもって今を見るべきなのか、ということを教えられるのです。

今私たちは、聖書を鏡にして、自分自身の今をどう見ているでしょうか。私達が生きている「今」という時は、ただ漠然とある今ではありません。私たち生きている「今」は、イエス・キリストの十字架と復活があっての「今」なのです。そのことを日々どれだけ思っているでしょうか。キリストの十字架によって神の元へと立ち返る道が示され、キリストの復活によって自分の死の向こうに永遠の命が備えられている「今」なのです。

私たちの「今」はいつでも考えなければならないこと、心配しなければならないことに溢れています。肉の目に見えることで心がいっぱいになり、自分が生きている「今」を信仰を通して俯瞰することがなかなかできません。

しかし、自分が生きている今を、キリストの十字架と復活という出来事を通して見つめなおすと、今まで見えなかったものが見えてくるのです。私たちは自分たち生きている今に、どれだけの恵みを見出しているでしょうか。

闇を感じる時にこそ、私たちは静かに祈りの中に身を沈めて、キリストの静かな声を聞こうとしなければならないのではないでしょうか。自分が生きている「今」の意味が見えなくても、キリストの十字架の姿と、キリストが墓から蘇られた朝の光に心を向ける時、少しずつ何かが示されていくのです。

だからキリストは私たちに「祈りなさい」とおっしゃるのです。

キリストの弟子達は、自分たちの期待を主イエスにかけていました。弟子達は主イエスの十字架の姿を見た時、愕然としたでしょう。

「自分は3年間、何のためにあの方に従って来たのだろうか。無駄な期待、無駄な福音に生きて来ただけなのだろうか」

十字架へと連れて行かれるキリストから離れ、キリストを見捨てた罪悪感と、キリストに従って来た結末が十字架の死という失望に弟子達は力を失いました。弟子達はその時まだ知らなかったのです。主イエスが死の力に勝る方であることを。

十字架へと引き渡される夜、キリストは弟子達におっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

弟子達がこの主イエスの言葉の本当の意味を知ったのは、主イエスの復活の後でした。主イエスの十字架を前にした時、弟子達は「この方は敗北した。この方は世に負けた」と思っただろう。しかし、主イエスは十字架の死では終わりませんでした。復活によって死に勝る栄光の光が世に示されたのです。

私たちはこの世に闇を感じると、もうそこで自分は負けた、この世の中で敗北した、と思ってしまいます。しかし、そうではない。闇は闇で終わらないのです。祈りの先に、キリストの栄光の光を見る時が備えられています。そして、「私はあの闇の中で、あなたと一緒にいたのだ」という御声を聞くのです。

私達には、弟子達がそうであったように「あの時自分が感じた苦しみ・悲しみ・痛みは、キリストが共にあっての試練だった。そしてあのことがあって、自分は今ここへと導かれたのだ」と、後になって祈りの中で示される時が備えられています。

私たちは「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか」と問いかけながら、祈りながら生きています。祈り続けるその先で、「あの時も、私はあなたと共にいたのだ」というキリストの声を聞くことになるのです。

この福音書の8章で、主イエスは、「あなたは何者か」と尋ねるユダヤ人たちに、こうお答えになっています。

「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」

ユダヤ人たちが「信仰の父」と呼ぶアブラハムがうらやむ時を、私たちは生きています。今、私たちは、キリストが、救い主が来てくださった後の時代を生きているのです。

私たちにはキリストが敷いてくださった神の元に続く道があります。その恵みは、私たちの肉の目には映りません。信仰の目、霊の目を通してしか見えないものです。 Continue reading

2月4日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「『この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる』」

先週に引き続いて、キリストの「宮清め」と呼ばれる出来事を読みました。イエス・キリストが過越祭でエルサレム神殿に巡礼された際、神殿の境内で商売をしている人たちをご覧になってお怒りになり、商人たちをその場から追い出された地面です。

この出来事は、4つの福音書全てに記録されていますが、ヨハネ福音書だけは、他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカと比べると、独特の描き方をしています。他の福音書とは違った強調点があるようです。

他の福音書では、この神殿での出来事は主イエスの福音宣教の最後に起こったこととして書かれているのに対して、ヨハネ福音書では福音宣教の最初に記録しています。更に、ヨハネ福音書では、この宮清めの出来事を、弟子達が後にどのように思い出したのか、という視点で書かれているのです。

主イエスは、「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」と言ってきたユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」とおっしゃいました。しかし、その時は誰もその言葉の意味が分かりませんでした。主イエスが十字架で殺されて三日後に復活された時、はじめて弟子達は、その時の言葉を思い出してその意味を理解したのです。

ヨハネ福音書は、水を葡萄酒に変え、宮清めをされたイエス・キリストのお姿を通して、霊の神殿が建ちあがり、祝福の葡萄酒があふれる新しい時代の到来を描いているのです。

今日は特に、キリストの謎かけの言葉に焦点を当てて、この宮清めの場面を見たいと思います。

神殿の境内から商人たちを追い出された主イエスに対して、ユダヤの指導者たちは質問してきました。

「こんなことをするからにはどんなしるしを見せてもらえるのか」

神殿でこれほどのことをしたのだから、皆が納得するだけの理由と、あなたの権威を示しなさい、ということです。

主イエスはこうお答えになりました。

「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」

ユダヤ人たちの言葉に対して、正面から答えているような言葉ではありません。随分乱暴な答え方です。ユダヤ人たちが実際に神聖な神殿を壊せるはずがないのだ。乱暴なことを言って言い逃れしているようにもとれます。

ユダヤ人たちはそれを聞いて「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました。

ソロモンによって建築されたエルサレム神殿はBC6世紀にバビロンの軍隊によって破壊されました。バビロンでの捕囚生活からエルサレムに戻って来た人たちは、破壊された神殿を再建します。その神殿は、紀元前20年からヘロデ王が修復・建築をはじめ、最終的にその工事は紀元後63年まで続くことになる。ユダヤ人たちはここで「46年」と言っているので、キリストの宮清めの出来事は紀元26年のことだったのでしょう。

それほどの大工事によって建てられている神殿を三日で建て直すなど、無理に決まっています。この時の主イエスの言葉を聞いた人たちは、後に主イエスのことを「神殿を壊そうとする者」であるとか、「神殿を三日で造る大言壮語した者」として思い出すことになります。

この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人の指導者たちは、その言葉を字義通りに解釈しました。しかし、キリストの言葉には、霊的な意味を含んだ謎かけとしておっしゃったのです。そしてその意味を知ったのは、キリストの復活を見た弟子達でした。

キリストの弟子達は、この宮清めを、後にどのように思い出したでしょうか。

17節には、「あなたの家に対する熱情が私を食い尽くすだろう」という詩編69編の言葉と共に思い出した、と書かれています。

あの時、神殿でお怒りになり、暴れて商人たちを追い出された主イエスは、「父なる神への熱情に食い尽くされた」「神への愛に身を焦がした」お姿だったことを理解したのです。そして神殿に対するキリストのその愛が、キリストご自身を十字架の死へと追いやってしまったことを弟子達は知りました。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、信仰者の受難の歌です。ヨハネ福音書は、イエス・キリスト十字架と復活を、詩編69編の言葉の実現として描き出しています。

「恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください。あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむ私に急いで答えてください。私の魂に近づき、贖い、敵から解放してください。私が受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」

まさに、詩編69編十字架で苦しまれるイエス・キリストのお姿そのものではないでしょうか。

キリストの復活の後、宮清めの際のキリストの姿を思い出し、その意味を知った弟子達は、どうしたでしょうか。弟子達は、この詩編の言葉と、イエス・キリストの死をどのように捉えたでしょうか。

神への愛を貫くことでキリストは殺されてしまったのです。弟子達は、「神への熱情を持つこと、信仰を持つことは自分の身を滅ぼしてしまうものなのだ」、と考えたでしょうか。

そうではありませんでした。弟子達は、イエス・キリストと同じ道を歩み始めたのです。

十字架へと連行される主イエスを見て、弟子達はその場から逃げ去りました。神への愛を、神への信頼を捨て、イエス・キリストを見捨てたのです。そして彼らは、苦みました。神を捨てた者、キリストを見捨てた者として生きることこそが、彼らにとって何よりの受難だったのです。そして弟子達は神への愛を貫き、キリストに従う苦しみを選び取りました。

使徒言行禄に、弟子達の活動が記録されている。

一度はキリストを知らないと言って見捨てたあのペトロが、キリストを捕らえた最高法院の人たちを前に言っています。

「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」

そして、鞭で打たれても弟子達は「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ。

聖書の信仰は、いわゆる御利益宗教とは違います。私たちキリスト者には、キリストに従うがゆえの苦しみがあります。キリストを信じるがゆえの苦しみがあります。

しかし、信仰の苦しみが無駄になることはありません。この世の価値観でははかり知ることのできない実りをもたらすのです。キリストを信じてこの世で金持ちになれるというのではありません。私たちはキリストに従う中で、天に富を積むのです。苦難の中で祈り、キリストを求める私達の姿が、信仰の種まきとなるのです。

一度はキリストを見捨てた弟子達は、復活なさったキリストの元へと立ち返りました。キリストは許してくださったのです。そして、キリストを見捨てた一人一人に、もう一度「私に従いなさい」と招いてくださいました。

私たちにとって、一番大きな財産はキリストの許しではないでしょうか。天の御国への道を外れた私たちを、キリストは何度でも、許し、招き入れてくださいます。

なぜ弟子達は確信をもって、自分たちの一生をキリストの証し人として捧げることが出来たのでしょうか。キリストの復活を見た弟子達の確信は、主イエスが「神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」とおっしゃったあの言葉でした。

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