MIYAKEJIMA CHURCH

3月3日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:16~21

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

おそらく、ヨハネ福音書の中で、いや聖書の中でも最も有名な言葉ではないでしょうか。「聖書の中の聖書」と呼ばれたりもする言葉です。聖書の全てがこの1節に凝縮されていると言ってもいいでしょう。

ニコデモというファリサイ派の議員が、夜主イエスの下にやって来て、二人だけで会話をしました。ヨハネ福音書は不思議な文体で書かれていて、この16節以下は、ニコデモとの会話の中でキリストが語られた言葉のようにも読めるし、福音書の解説文のようにも読めるし、キリストの独り言のようにも読めます。

3章はキリストとニコデモの出会いと会話として描かれてはいるのですが、よく読むと、10節まではキリストはニコデモに対して「あなたは」と語りかけていらっしゃいます。しかし、その後、3章の後半になると、「あなたがた」という言い方になり、だんだんニコデモの姿が消えてしまいます。

この言葉が、キリストご自身の言葉なのか、福音書の解説の一文なのか、またこれが、ニコデモに向けられた言葉なのか、キリストの独り言なのかは、よくわかりません。

ただ間違いなく言えるのは、この言葉は、ニコデモだけでなく、今この福音書を読んでいる私たちに向かって、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と証ししている、ということです。これは、ニコデモだけにお教えになった言葉ではなく、「神はそれほどにあなたを愛されているのだ、私はあなたのために命を差し出すのだ」という、世の全ての人に対する証しなのです。

今日私たちが読んだのは、ヨハネ福音書が世に向かって一番伝えようとしているテーマが凝縮されている箇所です。この福音書の頂点と言ってもいいような言葉が語られています。

福音書が書かれた当時のギリシャ哲学では、天上にあるものを崇高なものと捉え、地上のもの、私たちの目に見える者、手で触れるモノを劣ったものと考えました。そしてこの地上の物質世界から解放されることを目指していました。そのような時代に書かれた福音書なので、ヨハネ福音書は天の領域のものと地上の領域を対比させている表現が多く出てきます。

しかし、この聖書の福音、天と地を分けてはいるが、地上のものを全否定しているわけではありません。むしろ、天にいらっしゃる神が、この世・この地上に生きる我々人間を価値あるものとして愛してくださっている、ということを力強く描き出しています。天の世界・霊の世界が優れていて、地上の世界、物質の世界が劣っているから価値がない、などということは言いません。

そうではなく、「神はこの世を愛された」、と書かれています。しかも、独り子をお与えになるほどに、です。

天の世界は天の世界、地上の世界は地上の世界で別々に考えて生きればいい、というのではないのです。天地をお創りになった神が、地上に生きる私たちを愛し、この世の罪深い有様を憂い、天から地上に来てくださったように、この世に生きる私達も、天にいらっしゃる神に、また生きて私達を天の国へと導いていらっしゃるキリストに向かわなければ、聖書が伝える福音・喜びの知らせを理解することはできないのです。

ヨハネ福音書では、神が独り子を世に送られた、という表現が50回以上も出てきます。今日私たちが読んだところでは、神が独り子を何のために遣わされたのか、その目的が書かれています。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

世を救う、ということは、神から離れてしまった世の全ての人をご自分の下に取り戻す、ということです。御子イエス・キリストの命は、そのために使われる、というのです。

「独り子の命を差し出す」、ということで思い出されるのは、アブラハムが自分の子イサクを生贄として捧げるよう神から命じられた出来事でしょう(創世記22章)。

なかなか子供が授からなかったアブラハムとサラに、ようやく愛する独り子が与えられました。それなのに、神から突然、「イサクを私に捧げなさい」、と言われるのです。アブラハムは黙ってそれに従いました。イサクも黙って生贄台に身を横たえました。そしてアブラハムがイサクを殺そうと手を挙げた時、神は「あなたの信仰はわかった」とおっしゃり、代わりに羊をお与えになるのです。

創世記のその場面を読むと、私たちには神はなんと残酷なことをなさるのだろうか、と思うのではないでしょうか。アブラハムの信仰を試すために、イサクの命をお用いになったのです。

なぜ神は、そこまでしてアブラハムを試されたのでしょうか。アブラハムは、75歳の時に、神の召し出しによって自分の故郷を捨て、外国へと旅立ちました。そして神が示される地に入り、神を礼拝し、その後も神に従い続けました。そこまで神への信頼を抱いていたアブラハムなのに、神は更に信仰を試されたのです。

神は、「モリヤの地に行き、あなたの愛する独り子イサクをささげなさい」、とおっしゃいました。「モリヤの地」とはどこでしょうか。後にソロモンが神殿を建築することになる場所です(歴代誌下3:1)。そしてそこは後に、イエス・キリスト、神の独り子が生贄として十字架に上げられることになる場所なのです。

アブラハムが独り子をささげようとしたモリヤの地、エルサレムの山、まさにその場所で、神の独り子は十字架へと上げられました。

神は独り子をささげるほどのアブラハムの思いをご覧になったのです。だからこそ、神は同じ場所で、世を救うためにご自分の独り子をささげることを決断されたのではないでしょうか。アブラハムに与えられた信仰の試練は、時を経て、イエス・キリストの十字架という救いの実りへとつながっていくのです。

神の子イエス・キリストは、私たちのために神と共に生きる道を示そうと命をかけてくださいました。そうであるなら、私たちもそれに対して命を懸けなければならないのではないでしょうか。アブラハムのように、命を懸けて神と共にいる道を行くか、命を懸けて神から離れるか、決断がうながされているのです。

いつでも、私たちには目の前に二つの道が置かれています。

BC6世紀、預言者エレミヤは、差し迫るバビロンの軍隊を前にして、ユダの王にこう告げました。

「主はこう言われる。見よ、私はお前たちの前に命の道と死の道を置く」エレ21:8

信仰者は、命の道と死の道を常に選択する岐路に立たされているのです。

使徒パウロも手紙の中でこう書いています。

「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」ロマ6:16

洗礼を受けたからと言って、私たちの信仰生活が完結する、完成する、ということはありません。洗礼を受け、そこから信仰の歩みが始まる、というだけのことです。むしろ、洗礼から、信仰の本当の試練が始まるのです。

信仰者にこそ、サタンの誘惑はやって来ます。

「キリストから離れてはどうか。あなたが救い主になってみてはどうか」という声が近寄ってくるのです。

私たちは一生涯をかけて、私のために命を捨ててくださったキリストと共に歩みぬく、という信仰の戦いを続けることになります。その際に何度も立ち返るのが、今日私達が読んだ、キリストの言葉ではないでしょうか。

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」

私たちは、この夜、イエス・キリストのことを理解できなかったニコデモと、キリストを裏切ることになるユダを比較することが出来ます。

この夜、ニコデモは無理解でした。しかし、エルサレムでしるしを行い、福音を告げるイエスという方のことを少しずつ理解し、キリストの十字架を見て、キリストの下に立ち返っていくことになります。独り子をお与えになるほどの神の愛を見出したのです。闇の中から、光の下へと立ち返ったのです。

しかしユダは、キリストと一緒にいて共に旅を続けてきましたが、夜、闇の中へと出て行き、キリストを引き渡すことにしました。そしてその後もキリストの元へと立ち返ることなく、自らの命を絶ってしまいました。 Continue reading

2月25日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~15

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

夜、誰にも知られずにイエス・キリストを訪れたニコデモは、「人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない」と言われ戸惑いました。「あなたは神の元から来られた教師ですね」と尊敬の意を示したのに、主イエスから「あなたはまだ私について何もわかっていない」ということを示されてしまったのです。ファリサイ派でありユダヤの議員であったにも関わらず、「上から生まれ変わらなければならない」と言われたニコデモは「どのようにして生まれ変われるというのか」と無理解でした。

ヨハネ福音書は、主イエスが天から来られ、天の言葉を世に聞かせてくださった方であることを1章で証ししています。全ての初めにあった神が、人となり、この世に人間として生まれ、世に向かって神の言葉を伝えた、それがあのイエスという方であったという、この福音書を読む上での大前提を示しています。

ヨハネ福音書を通して私たちはイエス・キリストの公の生涯を見ていますが、その前提を無しにこの方の業と言葉に向き合うと本当には何も理解できないことになってしまいます。

この夜のニコデモがそうでした。そして、当時にユダヤ人たちがそうでした。主イエスは神殿でお怒りになって商人たちをそこから追い出された時、ユダヤ人たちから詰め寄られました。その際、「この神殿を倒して見なさい。三日で建て直していせる」とおっしゃいました。ユダヤ人たちは、「46年もかけて建築して来たこの神殿を三日で建て直すのか」、と表面的にしか主イエスの言葉を理解できなかったことが記されています。

しかし、主イエスがおっしゃったのは、十字架の死から三日目に復活なさった御自分の体のことでした。弟子達が主イエスの十字架と復活を見た時、初めて、「あの時主イエスが神殿でおっしゃったのは、御自分の体のことだったのだ。キリストご自身が、今、新しい神殿となられたのだ」と悟ることになりました。

世の人々は、主イエスがなさること、おっしゃることをこの世の基準で見ようとしました。だから、皆、理解できなかったのです。主イエスが「神殿を三日で建て直して見せる」とおっしゃったことも、「人は新しく上から生まれなければならない」とおっしゃったことも、字義通りのこととして、そして世のものさしでしかとらえることが出来なかったのです。

ニコデモは、「どうしてそんなことが出来るでしょうか」「どうしてそんなことがありえるでしょうか」と言い続けました。この主イエスとニコデモのやりとりを通して、私たちも今日、主イエスがお伝えになろうとした霊的な意味を探っていきたいと思います。

キリストは不思議なことをおっしゃっています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」

これは、「風は吹きたいところに吹き、あなたはその音を聞く」という言葉です。原文のギリシャ語で「風」という単語には「霊」という意味もあるので、「霊は吹きたいところに吹き、あなたがたはその声を聞く」と訳してもいい言葉です。

主イエスははっきりと、ニコデモに、「あなたは実は今、霊の声を聞いている」とおっしゃっているのです。霊の声はきこえているはずなのに、あなたは聞こうとしていないのだ、と暗におっしゃっているのです。

ニコデモには霊の声、目の前にいらっしゃる神の子が話される神の言葉を捉えることができませんでした。このニコデモの霊的な無理解は、私たちにとって大きな警告となるのではないか。

神が語りかけてくださっているのに、聖霊の招きが自分に確かに及んでいるのに、自分の心がそちらに向いていないのであれば、この夜のニコデモのように、私たちはキリストの前に「どうしてそんなことが出来るでしょうか、どうしてそんなことがあり得るでしょうか」と、ただ、自分の理解を超えたものに対して心を閉ざすことを続けてしまうことになります。

風が吹くように、神の霊は吹いているのです。風の音が聞こえるように、実は私たちは霊の声が聞こえているのです。私たちは普段、風の音など気にしていません。いつ、どこで風に吹かれたか、など、意識して生きていません。それと同じように、霊の声に心を向けなければ、どれだけキリストの言葉を聞いても、聖書を読んでも私たちは何とも思わないのです。

この夜の主イエスとニコデモの噛み合わないやりとりは、この福音書を通じて、主イエスとユダヤ人との間に続いていくことになります。「あなたは一体何者なのですか」と尋ねてくるユダヤ人たちに主イエスがいくらお答えになっても、ユダヤ人たちは理解できませんでした。

ユダヤ人たちだけでなく、弟子達もそうでした。十字架に上げられるために逮捕される夜、主イエスは弟子達の足を洗われた際、おっしゃいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。私の父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行って、あなた方のために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私の下に迎える。こうして、私のいる所に、あなた方もいることになる」

しかし、それを聞いた弟子の一人トマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることが出来るでしょうか」と言いました。

弟子達も、主イエスと一緒に三年以上寝食を共にして旅を続け、教えを聞いていたにも関わらず、主イエスがおっしゃる言葉の本当の意味は理解できていなかったのです。

天にある神の御心を知る、ということに、地上に生きる我々人間がどれだけ心を向けることができていないか、ということを思わされます。私たちは自分自身を天の領域へと上げることができません。いつも自分のことで手一杯です。自分が聞きたい言葉だけを選び、聞きたくないことには心を向けようとしないのです。自分の中にある言葉を空っぽにして、聖書の言葉を迎え入れようとする隙間をなかなか作ることができません。

だからこそ、天にいらっしゃる神が、天の言葉を伝えるために、この世にまで来てくださったのです。

主イエスはニコデモに「はっきり言っておく」とおっしゃっています。主イエスはこの夜だけで、ニコデモに三度、この言葉をおっしゃっています。ヨハネ福音書全体では、25回もおっしゃっています。

これは、直訳すると「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」という言葉です。

主イエスは、ナタナエルをご自分の弟子として召される時、おっしゃいました。

「天が開いた状態になり、人の子の上に神のみ使いたちがのぼったりくだったりしているのを、あなたがたは見ることになる」

「人の子」というのは、主イエスご自身のことです。主イエスが、創世記でヤコブが見たというあの天と地を結ぶはしごとなられる、とおっしゃるのです。

そのように、主イエスはナタナエルやニコデモをはじめとして、世の人々に「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」と、天の言葉をお伝えになります。そうやって、天と地を結ぼうとされるのです。

「アーメン、私はあなたに告げる」と、キリストは今でも私たちにおっしゃっています。私たちは、風が吹く音が聞こえているように、霊の声が聞こえているのです。その音、その声を聞こうとするかどうかです。

この夜、ニコデモが聞かなければならなかったことは何だったのでしょうか。イスラエルの教師として、思い出さなければならなかったのは何だったのでしょうか。

BC6世紀の預言者エゼキエルが、バビロンで捕囚とされていたイスラエルの人たちに神の言葉を告げました。

「『イスラエルの家よ・・・お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち返って、生きよ』と主なる神は言われる」

エゼキエルの口を通して、神は、イスラエルの背きからの立ち返りをお求めになりました。その際、「新しい心と新しい霊を造り出せ」とおっしゃっています。神から離れた場所から、神の元へと戻ってくる、ということ。神を知るということは、新しい命を生きることなのです。

この夜、ニコデモは、「新しく上から生まれなければ神の王国には入れない」と言われ、理解できませんでした。しかし、もし聖書の言葉に詳しいはずの律法学者のニコデモが、このエゼキエルの預言を思い出していたらどうだったでしょうか。今こそ真の神の元に立ち返り、新しい命に生きる時が来た、と理解できたはずでしょう。

主イエスは14節で、こうおっしゃっています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

民数記21:4以下で、イスラエルの民が神とモーセに逆らった時のことが記されています。荒野を歩く生活に嫌気がさしたイスラエルの民は怒って不満をぶつけました。

「なぜ私たちをエジプトから導き上ったのか。私たちを荒れ野で殺すためか」 Continue reading

2月18日の礼拝説教

ヨハネ福音書3:1~8

「人は上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはこうおっしゃっています。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。」

先週、私たちは、イエス・キリストが、御自分を信じる人たちのことを、信用なさらなかった、ということが書かれているのを読みました。「なにが人間の心の中にあるかをよく知っておられたからである」と書かれています。

福音書に記録されているこのような主イエスの人間に対する見方、また厳しい言葉を通して、私たちは自分たちの信仰の姿勢を改めて見つめなおすことになると思います。

この後も福音書を読んでいくと、主イエスが示されるしるしを通して主イエスに出会う人たちが次々に登場します。その一人一人が、主イエスのことを信じているかどうかということに加え、「どう信じているか」ということまで問われていくことになるのです。

その初めが、ニコデモという人でした。「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた」とありますが、少し細かく訳すと、「ニコデモという『人間』がいた」となります。「なにが人間の心の中にあるのかよく知っておられた」主イエスのもとに、ニコデモという「人間」が来た、という文脈です。

ニコデモは確かに主イエスのことを求めて来ました。しかし、ここに記録されている主イエスとニコデモの会話を読むと、ニコデモはまだ「闇の中にいる人」であることがわかります。

「ラビ、私どもは、あなたが神の元から来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです」

ニコデモはそう言って、主イエスへの尊敬を伝えますが、主イエスは、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とお答えになりました。つまり、ニコデモは主イエスのことを尊敬もし、信頼もしているが、本当の意味で主イエスのことを理解しておらず「今のあなたは私に従うことはできない」ということを示されたのです。

ニコデモは主イエスのことをどう見ていたのでしょうか。彼は主イエスに「ラビ、先生」と呼びかけています。ニコデモは、主イエスのことを「偉い先生」と見ていたようです。「人としてお生まれになった神ご本人」としては見ていません。「世の全ての人の罪を背負うために十字架にかかり、三日目に復活するメシア」として信じていないのです。

この時点でのニコデモは、当然そんなことは知りませんでした。ただ、人間離れしたしるしを行われるのを見て、この方には何かある、という期待だけもってやって来たのです。

その夜、主イエスはニコデモがそのような「人間」であることを見抜かれていました。だから主イエスはニコデモをまだ信頼していらっしゃらないのです。

ヨハネ福音書は、「キリストのしるしを見てみんなが信じるようになった」という喜びを描いているのではありません。福音書が焦点を当てているのは、「人々がキリストのしるしを見て信じるようになったが、本当の意味で正しく信じることができていなかった」、ということなのです。キリストに対する人間の無理解、また誤った期待が描かれています。

このニコデモという人を通して、私たちの信仰を新たに吟味したいと思う。

ニコデモは夜に主イエスの下にやって来ました。なぜ夜にやって来たのか、その理由は書かれていません。主イエスに教えを乞うことを他の人たちに見られたくなかったのかもしれません。律法学者として、夜、誰にも邪魔されず静かに神の言葉について語り合いたかったのかもしれません。

ニコデモ本人の実際の事情は分かりませんが、福音書はニコデモのことを、「夜の人」として描いています。つまり、まだ無理解の闇の中にいる人、そして闇の中で光を求める人として描いているのです。

ニコデモは、ファリサイ派の議員であり、最高法院の中の議員の1人であり、ユダヤの指導者でした。主イエスはニコデモのことを「イスラエルの教師」と呼ばれているので、律法学者・神学者でもあったのでしょう。聖書の言葉の専門家であり、神の御心をよく知っているはずの人でした。

しかしこの夜、ニコデモは「夜の人・闇の人」人でした。この夜の闇は、神の御心に対する闇を象徴しています。

ニコデモは確かに主イエスのことを「神のもとから来られた教師だ」と信じていました。しかし、主イエスがおっしゃることを聞いても、全く理解できませんでした。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われても、ニコデモは理解できなかったのです。

ユダヤ人たちが、主イエスが神殿を三日で建て直して見せる、とおっしゃったのを字義通りに解釈したように、ニコデモもここで同じように表面的に解釈している。

「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」

キリストがおっしゃる「新たに生まれる」とはどういうことなのでしょうか。これは、「もう一度生まれる」という意味と、「上から生まれる」という二つの意味があります。福音書は両方の意味を込めているのでしょう。「上から新しく生まれる」、そのことがあって、初めてイエス・キリストが導き入れて下さる神の国へと入ることが出来る、ということです。

聖書の専門家でありユダヤの指導者であり、イスラエルの教師であったにも関わらず、ニコデモは主イエスがおっしゃる言葉の意味が分かりませんでした。

キリストの使徒パウロが書いた手紙や使徒言行禄を読むと、キリスト者たちがどれだけキリストを証ししても、なかなか信じてもらえなかったということがわかる。パウロ自身、ある時は同胞のユダヤ人たちから、ある時は異邦人から迫害を受けました。

そもそもパウロ自身、キリスト者たちを迫害する側の人でした。キリスト者たちが信じていることを理解できなかったです。しかし、復活のキリストに召され、神のために教会を迫害する者から、神のために教会のために働く者とされました。そして自分がキリスト者になったとき、イエス・キリストを証しするということがどれだけ伝わらないことであるか、ということを知ったのです。

パウロはイエス・キリストを証しする言葉を、「十字架の言葉」と表現している。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です・・・世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした。それは神の知恵に適っています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとお考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」1コリ1:18以下

神の救いの御業は、躓きに満ちています。簡単に信じられるようなものではありません。神が御自分の愛する独り子を、世の罪びとのためにいけにえとして十字架に上げられた、そして三日目に死人の内から復活させられた、というのです。

「それを信じてください」と言っても、誰も簡単に信じることはできませんでした。神の子が人間に殺される、というのです。死人がよみがえった、というのです。

パウロは「世は自分の知恵で神を知ることが出来ませんでした」と書いています。確かにそうでしょう。世の知恵、自分の知恵で神の御心をはかり知ることはできません。

だからパウロは言っています。

「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちは誰一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう」1コリ2:7 

ではどうすれば、我々人間はその闇の中から抜け出すことが出来るのでしょうか。まずは、自分の人間的な常識や、地上の知識を脇に置いて、差し出されたキリストの御手をとることです。そこから始まるのです。

主イエスはニコデモの無理解に対して「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。ここを読んで、私たちはすぐに洗礼を思い浮かべると思います。

しかし、ニコデモは分かりませんでした。霊的に新しく生まれ変わる、ということではなく、文字通りもう一度生まれなおさなければならないと理解しました。「もう一度母の胎内に戻らなければならないのですか」とニコデモは混乱します。

そのニコデモに主イエスは続けておっしゃいます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」 Continue reading

2月11日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:21~25

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」

主イエスはユダヤ人の過越祭に加わるためにガリラヤ地方からユダヤ地方へと巡礼されました。エルサレムの都に入り神殿に行かれると、突然怒り出して鞭を造って動物たちを追い払い、そこにいた両替人や商人たちも追い出されました。イエス・キリストの「宮清め」と呼ばれている出来事です。

ユダヤ人たちはそれを見て、主イエスに対して敵意を持つようになりました。当然でしょう。神聖な神殿でここまでのことをするのは非常識です。周りにいたユダヤ人たちは主イエスに言いました。

「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」

神殿で大暴れする正当な理由を示せ、というわけです。これに対して主イエスの答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」という言葉でした。

ユダヤ人たちは全く納得しませんでした。神殿を馬鹿にしているようにもとれる言葉です。「この程度の神殿、俺なら三日あれば十分だ」と言っているようにも聞こえます。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」とユダヤ人たちは怒りました。ここから、主イエスとユダヤ人たちの間には溝ができ、やがて主イエスは逮捕され、十字架はと上げられていくことになります。

今日私たちが読んだのは、神殿で暴れてユダヤ人たちから敵意をもたれてしまった主イエスのことを信じる人たちもいた、というところです。

過越祭の間主イエスはエルサレムに滞在されていましたが、その間、たくさんのしるし・奇跡を行われたようです。そして、多くの人たちが主イエスのことを信じるようになりました。

不思議なのは、主イエスがそのことをお喜びにならなかった、ということです。たくさんの人たちがご自分のことを信じるようになったのに、主イエスは、その人たちのことを「信用なさらなかった」、というのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられたのである」と書かれています。

このことは私達にとって、大きな衝撃ではないでしょうか。キリストは、「あなたを信じます」と告白する人を、無条件に、愛をもって受け入れてくださるのではないか、と私たちは考えるのではないでしょうか。私達が信じても、主イエスの方が私達を信じてくださらない、というのであれば、私達はどうすればいいのか、と思ってしまいます。

「イエスは、何が人間の心の中にあるのかを知っておられた」という一文を読むと、私たちは不安になるでしょう。自分の心の中まで見透かされていることに恐れを抱きます。

今日私たちは、ここでしっかり腰を据えて、「イエス・キリストを信じるとはどういうことなのか」ということを改めて捉えなおさなければならないと思います。そして、「自分の心の中に何があるのか」ということを、聖書を通して吟味していきたいと思います。

ヨハネ福音書は、この世界をお創りになった神が人間として生まれ世に来てくださったのに、この世はその方を神として見ることができなかった、ということを書いています。

キリストの弟子達でさえそうでした。イエス・キリストがなぜ神殿でここまでお怒りになり、大暴れされたのかを、理解できませんでした。弟子達は主イエスと一緒に3年もの間寝食を共にし、旅を続けました。ずっと一緒にいたのです。それでも、弟子達は主イエスがおっしゃった言葉を聞き、主イエスがなさった業を見ても、その時には理解できなかったのです。

弟子達がキリストの言葉や業を本当の意味で理解したのは、キリストの十字架と復活の後でした。キリストの十字架と復活を通して思い返した時に、「あの方のあの言葉は、こういう意味だったのだ。あの時の奇跡は、このような意味があったのだ」と初めて分かったのです。

このことは、私達にとって、自分たちが生きている今にどう向き合うべきか、ということに大きな示唆を与えてくれます。

私達は、「今」という時の意味を知ることが下手なのです。自分が見たものを、自分が見たままに解釈します。物事が上手くいっているときは、「神に感謝しよう」と言えるでしょう。しかし、物事が自分の思うとおりに行かない時、どこに向かえばいいのか分からなくなった時に、「神に感謝しよう」とはなかなか言えません。

むしろ、「神は私のことをご覧になっていないのではないか。私は何か悪いことをしてしまったのではないか」「自分は神から愛していただけるような者ではないのではないか」などと考えこんでしまいます。

しかし、時が経って後からその苦難の時を思い返すと、「あの時の苦しみ、悲しみ、不安は、神がこのことを私に教えるために見せてくださったものではないか」と思うことがあります。失敗や試練も、その時はただ辛いだけのものだったのが、後になって、「あのことを経験していなければ、今の自分はなかった」と思えるようなことはたくさんあるのではないでしょうか。

後にキリストが十字架の死から3日目に蘇られたのを見た時、弟子達は、「三日で建て直して見せる」と主イエスがおっしゃった神殿とは御自分の体であったということを悟りました。

私たちはこのことから、自分たちの信仰生活の今にどう向き合うべきか、どういう視点をもって今を見るべきなのか、ということを教えられるのです。

今私たちは、聖書を鏡にして、自分自身の今をどう見ているでしょうか。私達が生きている「今」という時は、ただ漠然とある今ではありません。私たち生きている「今」は、イエス・キリストの十字架と復活があっての「今」なのです。そのことを日々どれだけ思っているでしょうか。キリストの十字架によって神の元へと立ち返る道が示され、キリストの復活によって自分の死の向こうに永遠の命が備えられている「今」なのです。

私たちの「今」はいつでも考えなければならないこと、心配しなければならないことに溢れています。肉の目に見えることで心がいっぱいになり、自分が生きている「今」を信仰を通して俯瞰することがなかなかできません。

しかし、自分が生きている今を、キリストの十字架と復活という出来事を通して見つめなおすと、今まで見えなかったものが見えてくるのです。私たちは自分たち生きている今に、どれだけの恵みを見出しているでしょうか。

闇を感じる時にこそ、私たちは静かに祈りの中に身を沈めて、キリストの静かな声を聞こうとしなければならないのではないでしょうか。自分が生きている「今」の意味が見えなくても、キリストの十字架の姿と、キリストが墓から蘇られた朝の光に心を向ける時、少しずつ何かが示されていくのです。

だからキリストは私たちに「祈りなさい」とおっしゃるのです。

キリストの弟子達は、自分たちの期待を主イエスにかけていました。弟子達は主イエスの十字架の姿を見た時、愕然としたでしょう。

「自分は3年間、何のためにあの方に従って来たのだろうか。無駄な期待、無駄な福音に生きて来ただけなのだろうか」

十字架へと連れて行かれるキリストから離れ、キリストを見捨てた罪悪感と、キリストに従って来た結末が十字架の死という失望に弟子達は力を失いました。弟子達はその時まだ知らなかったのです。主イエスが死の力に勝る方であることを。

十字架へと引き渡される夜、キリストは弟子達におっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」

弟子達がこの主イエスの言葉の本当の意味を知ったのは、主イエスの復活の後でした。主イエスの十字架を前にした時、弟子達は「この方は敗北した。この方は世に負けた」と思っただろう。しかし、主イエスは十字架の死では終わりませんでした。復活によって死に勝る栄光の光が世に示されたのです。

私たちはこの世に闇を感じると、もうそこで自分は負けた、この世の中で敗北した、と思ってしまいます。しかし、そうではない。闇は闇で終わらないのです。祈りの先に、キリストの栄光の光を見る時が備えられています。そして、「私はあの闇の中で、あなたと一緒にいたのだ」という御声を聞くのです。

私達には、弟子達がそうであったように「あの時自分が感じた苦しみ・悲しみ・痛みは、キリストが共にあっての試練だった。そしてあのことがあって、自分は今ここへと導かれたのだ」と、後になって祈りの中で示される時が備えられています。

私たちは「神様、あなたは今どこにいらっしゃるのですか」と問いかけながら、祈りながら生きています。祈り続けるその先で、「あの時も、私はあなたと共にいたのだ」というキリストの声を聞くことになるのです。

この福音書の8章で、主イエスは、「あなたは何者か」と尋ねるユダヤ人たちに、こうお答えになっています。

「あなたたちの父アブラハムは、私の日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」

ユダヤ人たちが「信仰の父」と呼ぶアブラハムがうらやむ時を、私たちは生きています。今、私たちは、キリストが、救い主が来てくださった後の時代を生きているのです。

私たちにはキリストが敷いてくださった神の元に続く道があります。その恵みは、私たちの肉の目には映りません。信仰の目、霊の目を通してしか見えないものです。 Continue reading

2月4日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「『この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる』」

先週に引き続いて、キリストの「宮清め」と呼ばれる出来事を読みました。イエス・キリストが過越祭でエルサレム神殿に巡礼された際、神殿の境内で商売をしている人たちをご覧になってお怒りになり、商人たちをその場から追い出された地面です。

この出来事は、4つの福音書全てに記録されていますが、ヨハネ福音書だけは、他の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカと比べると、独特の描き方をしています。他の福音書とは違った強調点があるようです。

他の福音書では、この神殿での出来事は主イエスの福音宣教の最後に起こったこととして書かれているのに対して、ヨハネ福音書では福音宣教の最初に記録しています。更に、ヨハネ福音書では、この宮清めの出来事を、弟子達が後にどのように思い出したのか、という視点で書かれているのです。

主イエスは、「こんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか」と言ってきたユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」とおっしゃいました。しかし、その時は誰もその言葉の意味が分かりませんでした。主イエスが十字架で殺されて三日後に復活された時、はじめて弟子達は、その時の言葉を思い出してその意味を理解したのです。

ヨハネ福音書は、水を葡萄酒に変え、宮清めをされたイエス・キリストのお姿を通して、霊の神殿が建ちあがり、祝福の葡萄酒があふれる新しい時代の到来を描いているのです。

今日は特に、キリストの謎かけの言葉に焦点を当てて、この宮清めの場面を見たいと思います。

神殿の境内から商人たちを追い出された主イエスに対して、ユダヤの指導者たちは質問してきました。

「こんなことをするからにはどんなしるしを見せてもらえるのか」

神殿でこれほどのことをしたのだから、皆が納得するだけの理由と、あなたの権威を示しなさい、ということです。

主イエスはこうお答えになりました。

「この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」

ユダヤ人たちの言葉に対して、正面から答えているような言葉ではありません。随分乱暴な答え方です。ユダヤ人たちが実際に神聖な神殿を壊せるはずがないのだ。乱暴なことを言って言い逃れしているようにもとれます。

ユダヤ人たちはそれを聞いて「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました。

ソロモンによって建築されたエルサレム神殿はBC6世紀にバビロンの軍隊によって破壊されました。バビロンでの捕囚生活からエルサレムに戻って来た人たちは、破壊された神殿を再建します。その神殿は、紀元前20年からヘロデ王が修復・建築をはじめ、最終的にその工事は紀元後63年まで続くことになる。ユダヤ人たちはここで「46年」と言っているので、キリストの宮清めの出来事は紀元26年のことだったのでしょう。

それほどの大工事によって建てられている神殿を三日で建て直すなど、無理に決まっています。この時の主イエスの言葉を聞いた人たちは、後に主イエスのことを「神殿を壊そうとする者」であるとか、「神殿を三日で造る大言壮語した者」として思い出すことになります。

この主イエスの言葉を聞いたユダヤ人の指導者たちは、その言葉を字義通りに解釈しました。しかし、キリストの言葉には、霊的な意味を含んだ謎かけとしておっしゃったのです。そしてその意味を知ったのは、キリストの復活を見た弟子達でした。

キリストの弟子達は、この宮清めを、後にどのように思い出したでしょうか。

17節には、「あなたの家に対する熱情が私を食い尽くすだろう」という詩編69編の言葉と共に思い出した、と書かれています。

あの時、神殿でお怒りになり、暴れて商人たちを追い出された主イエスは、「父なる神への熱情に食い尽くされた」「神への愛に身を焦がした」お姿だったことを理解したのです。そして神殿に対するキリストのその愛が、キリストご自身を十字架の死へと追いやってしまったことを弟子達は知りました。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、信仰者の受難の歌です。ヨハネ福音書は、イエス・キリスト十字架と復活を、詩編69編の言葉の実現として描き出しています。

「恵みと慈しみの主よ、私に答えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください。あなたの僕に御顔を隠すことなく、苦しむ私に急いで答えてください。私の魂に近づき、贖い、敵から解放してください。私が受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」

まさに、詩編69編十字架で苦しまれるイエス・キリストのお姿そのものではないでしょうか。

キリストの復活の後、宮清めの際のキリストの姿を思い出し、その意味を知った弟子達は、どうしたでしょうか。弟子達は、この詩編の言葉と、イエス・キリストの死をどのように捉えたでしょうか。

神への愛を貫くことでキリストは殺されてしまったのです。弟子達は、「神への熱情を持つこと、信仰を持つことは自分の身を滅ぼしてしまうものなのだ」、と考えたでしょうか。

そうではありませんでした。弟子達は、イエス・キリストと同じ道を歩み始めたのです。

十字架へと連行される主イエスを見て、弟子達はその場から逃げ去りました。神への愛を、神への信頼を捨て、イエス・キリストを見捨てたのです。そして彼らは、苦みました。神を捨てた者、キリストを見捨てた者として生きることこそが、彼らにとって何よりの受難だったのです。そして弟子達は神への愛を貫き、キリストに従う苦しみを選び取りました。

使徒言行禄に、弟子達の活動が記録されている。

一度はキリストを知らないと言って見捨てたあのペトロが、キリストを捕らえた最高法院の人たちを前に言っています。

「神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」

そして、鞭で打たれても弟子達は「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ。

聖書の信仰は、いわゆる御利益宗教とは違います。私たちキリスト者には、キリストに従うがゆえの苦しみがあります。キリストを信じるがゆえの苦しみがあります。

しかし、信仰の苦しみが無駄になることはありません。この世の価値観でははかり知ることのできない実りをもたらすのです。キリストを信じてこの世で金持ちになれるというのではありません。私たちはキリストに従う中で、天に富を積むのです。苦難の中で祈り、キリストを求める私達の姿が、信仰の種まきとなるのです。

一度はキリストを見捨てた弟子達は、復活なさったキリストの元へと立ち返りました。キリストは許してくださったのです。そして、キリストを見捨てた一人一人に、もう一度「私に従いなさい」と招いてくださいました。

私たちにとって、一番大きな財産はキリストの許しではないでしょうか。天の御国への道を外れた私たちを、キリストは何度でも、許し、招き入れてくださいます。

なぜ弟子達は確信をもって、自分たちの一生をキリストの証し人として捧げることが出来たのでしょうか。キリストの復活を見た弟子達の確信は、主イエスが「神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる」とおっしゃったあの言葉でした。

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1月28日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:13~22

「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(2:17)

カナで最初のしるしを行われたイエス・キリストは、ご自分の家族と弟子達と一緒にカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在されました。その後、過越祭が近づいたので、弟子達と一緒にエルサレムへと上って行かれました。

主イエスがエルサレムに上り、神殿でなさったことは、境内にいた生贄の動物を売る人たちや両替商の人たちを追い出す、ということでした。神の家であり、全ての人の祈りの家であるはずのエルサレム神殿の境内で、商人たちの商売が行われていたのです。

キリストがここまで大暴れしてお怒りになることなど他にないので、読む者にとっては印象に残る場面でしょう。この事件は、どの福音書にも記されているので、よほど人々の記憶に残っていたのでしょう。キリストによる「宮清め」と呼ばれています。

どの福音書にも記録されているキリストの宮清めですが、ヨハネ福音書だけは、他の福音書とは随分違った描き方をしています。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、この事件を、イエス・キリストの公の生涯の最後に起こったこととして記録しています。しかしヨハネ福音書は、この出来事を、キリストの公の生涯のはじめで、「最初のしるし」を行われたすぐ後に描いているのです。

ヨハネ福音書は、私たちに何を伝えようとして、この宮清めの出来事を描いているのでしょうか。

主イエスはカナの婚礼の席で、水を葡萄酒に変えられました。そのしるしは、旧約の預言者たちが伝えて来たメシアの宴が現実のものとなったというしるしであり、救いの到来、新しい時代の到来のしるしであった、ということを前にお話ししました。

そのすぐ後に書かれているこの宮清めの出来事も、預言の実現なのです。

旧約の預言者、ゼカリヤは、こんな預言の言葉を残している。

「主は地上を全て治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられその御名は唯一の御名となる・・・その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」ゼカ14:21

ゼカリヤは、「主の神殿に商人がいなくなる」日の到来を預言しました。ゼカリヤが言う「その日」とは、「主の日」です。「主の日」とは、神が世に来られる時のことです。

主イエスが追い出されたことで、神殿の境内から商人がいなくなりました。ゼカリヤが到来を預言した「主の日・神が世に来られた日」に、神殿から商人がいなくなる、という預言が実現したのです。

神殿から商人たちを追い出されたイエス・キリストこそ、世に来られた神でした。神がご自分の家に来て、清められたのです。

ゼカリヤだけではない。

他にも、この時のキリストのお姿を預言していた預言者がいます。マラキです。

「あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる・・・彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に捧げものを正しく捧げる者となるためである。その時、ユダとエルサレムの捧げものは遠い昔の日々・・・そうであったように主にとって好ましいものとなる。」(マラキ書3:1~4)

なぜこの出来事が「宮清め」と呼ばれているのでしょうか。金属を精錬する火のように、神ご自身が神殿を清められたのです。捧げものを、正しく捧げる神の家とするためです。

主イエスの宮清めはゼカリヤやマラキの預言の実現でした。私たちは、水を葡萄酒に変え、神殿から商人たちを追い出されたキリストに、神の秩序の回復を見ます。神が世に来られ、祝福の葡萄酒で満たし、信仰を磨き上げてくださる時が来たのです。

キリストは祈りの家を清めてくださいます。では、今の私たちにとっての祈りの家とは、神殿とはどこにあるのでしょうか。

弟子達は、後にイエス・キリストが復活なさったのを見て、「三日で建て直す」とキリストがおっしゃったのは、石でできた建造物としての神殿ではなく、御自分の体のことであったということを理解しました。

イエス・キリストは神殿から商人を追い出して、神の家を清められました。そしてそれは、「目は見えない」新しい神殿の到来をも意味していました。ここから神殿が刷新されていくことになります。その神殿こそ、イエス・キリストご自身だった、というのです。

しかし、キリストが神殿から商人たちを追い出された時には、誰もそのことがわかりませんでした。それが分かったのは、キリストの十字架と復活の後でした。

キリストが復活なさった後、弟子達はなぜキリストが神殿であれだけお怒りになり暴れたのかも理解しました。

17節 「弟子達は、『あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす』と書いてあるのを思い出した。」

弟子達は神殿でお怒りになったキリストを、「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」という言葉と共に思い出しました。これは詩編69:10の言葉です。

詩編69編は、信仰者の受難をうたった詩です。詩編の元の言葉は、このような言葉です。

「あなたの神殿に対する熱情が私を食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りが私の上に降りかかっています。私が断食して泣けば、そうするからと言って嘲られ、粗布を衣とすれば、それも私への嘲りの歌になります」

神を愛するが故の信仰の苦しみを謳い上げた詩です。後に弟子達がなぜこの詩編の言葉と共にキリストの宮清めを思い出したか・・・彼らはキリストの十字架を見たからです。

神殿への愛・熱情がキリストの身を焦がすほどでした。その神への愛を貫くために、あの方は十字架に上げられたということを、弟子達は詩編の言葉と共にキリストの宮清めの姿を思い出したのです。

キリストが神殿であれほど乱暴なふるまいをなさったのは、神殿に対する熱意、神の家に対する愛ゆえのことでした。そしてその神への愛によって、キリストは十字架に上げられてしまったのです。

キリストの弟子達をはじめ、代々のキリスト者たちは、信仰ゆえの痛みを担って来ました。神を愛し続けるには、忍耐がいります。神を愛そうとする者を傷つけようとする力があるからです。

後に弟子達が思い出した詩編69編は、確かに信仰ゆえの痛みを歌っています。

「恵みと慈しみの主よ、私に応えてください。憐み深い主よ、御顔を私に向けてください」

「私が受けている嘲りと、恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。私を苦しめる者は、全て御前にいます」

しかし、信仰の痛みの先にある慰めも歌い上げています。

「神の御名を讃美して私は歌い、御名を告白して、神を崇めます。・・・貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には健やかな命が与えられますように。主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。主の民の囚われ人らを決しておろそかにはされないでしょう」 Continue reading

1月21日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」(2:11)

ヨハネ福音書は、カナという小さな村で行われた婚礼の宴の舞台裏で行われた奇跡を、キリストが最初に行われた「しるし」として描いています。ヨハネ福音書で、弟子達を召し出されたキリストの公の活動として最初の事件となります。そしてこの出来事は、この後のキリストの公の活動を暗示するものでもあり、旧約の預言の実現でもあります。

キリストが六つの水がめに水をいっぱいにし、それを葡萄酒へと変えられたということの意味は何なのでしょうか。「この方にはこんなにも人間離れした力があった」ということを伝えるだけのものではないはずです。

カナの婚礼で行われた「しるし」を通して、私達は、このイエスという方が世に来られた意味を、そしてこの方がやがて十字架で流す血の意味を見せられることになるのです。先週に引き続いて、カナの婚礼の場面を見ていきたいと思います。

キリストが最初にお見せになった「しるし」は、婚礼の宴の席で、人々が飲み切ることが出来ないほど豊かな葡萄酒をおつくりになるということでした。「婚礼の席」で、「豊かな葡萄酒」が出される、というところに、この「しるし」の意味があります。「婚礼」は契約の象徴だし、「葡萄酒」は血の象徴です。私たちは、この場面に、「契約の血」がやがて与えられることを見るのです。

旧約時代の預言者たちの言葉と、カナの婚礼のしるしを照らし合わせて見ると、私たちは、メシア到来の祝福の実現を見ることが出来ます。

BC8世紀、預言者アモスは当時偶像礼拝に腐敗していた北イスラエル王国で、神の律法の言葉が守られていないことを糾弾ました。当時の北イスラエル王国では、「弱者を守れ」という神の愛の教えが守られず、貧しい人がわずかな値段で売りとばされたりしていたのです。

アモスはそのような腐敗した北イスラエル王国の滅びを預言して人々に告げました。そして滅びを預言すると同時に、その滅びの先にある神の救いの幻も伝えました。

アモスの預言書の最後の言葉はこういうものです。

「見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ブドウを踏む者は、種まく者に続く。山々はブドウの汁を滴らせ、全ての丘は溶けて流れる。私は我が民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒らされた町を建て直して住み、園を造って、実りを食べる。私は彼らをその土地に植え付ける。私が与えた地から再び彼らが引き抜かれることは決してないと、あなたの神なる主は言われる。」

北イスラエル王国は弱く貧しい者たちを顧みないその罪ゆえに滅びることになる、しかしその先で、神は許しの時・再建の時を既に備えていらっしゃる、とアモスは預言したのです。

アモスは、罪の許しの時に何が起こるかを預言しました。

「丘が溶けて流れるほど豊かな葡萄酒」をもって神は祝福をくださる、というのです。。

預言者イザヤも、終わりの日に与えられる神の救いの様子を伝えています。

「万軍の主はこの山で祝宴を開き、全ての民に良い肉と古い酒を供される。・・・主はこの山で・・・死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、全ての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私達の神。私達は待ち望んでいた。この方が私達を救ってくださる。この方こそ私達が待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び踊ろう」(25:6以下)

「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(62:6)

イザヤは、神と人が宴の中で一緒に座ることを預言しました。花婿と花嫁のように神と人が宴の中で一緒に座ることになる、そして神が人の顔から涙をぬぐってくださる時が来る、と言っています。

私達が今日読んだ、カナの婚礼のイエス・キリストこそ、アモスやイザヤの預言の実現なのです。

神の子が、婚礼の席に共に座って下さり、祝福の葡萄酒を豊かに与え、涙をぬぐってくださる時が来たのです。

アモスが預言した許しの時、イザヤが預言した神との契約の回復の時が来た、ということです。預言者たちが伝えて来た「神との新しい契約の時・祝福の時」が、このカナの婚礼で示された「しるし」の意味なのです。

婚礼の世話役は、花婿を呼んで「あなたは良い葡萄酒を今まで取っておかれました」と言いました。キリスト以前にはなかった、良いことが始まっていくことが示されています。イエス・キリストから祝福が新しく始まるのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが私たちの間に来ました。私たちはそのことを喜ぶべきなのです。

そうして見ると、カナの婚礼のしるしは、私たちにとっても大きな意味を持つのではないでしょうか。私たち一人一人にとって、イエス・キリストに出会う前と後では、生きる意味が大きく変わったはずです。自分の中から何かが無くなってしまいそうになった時、自分の知らないところで、自分の人生の舞台裏で、キリストが祝福を用意して満たしてくださったのではないでしょうか。

教会は、主日ごとに礼拝します。私達の礼拝の中心には聖餐卓があります。私たちは神と共に、キリストと共に席に着き、礼拝の中で自分と神との出会いを喜び、神との契約を喜ぶのです。

さて、私たちは今日、一つの言葉に注目したいと思います。「しるし」という言葉です。他の福音書では、「奇跡」とか「偉大な業」とかいう言葉がつかわれていますが、ヨハネ福音書はイエス・キリストが水を葡萄酒に変えられたことを「しるし」と呼んでいます。主イエスが行われたことを「しるし」と呼んでいることには、何か特別な意図があるようです。

2:11「イエスは、この最初のしるしをカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子達はイエスを信じた」

実は、このカナの婚礼と呼ばれている出来事で本当に変えられたのは弟子達でした。花婿と花嫁でもなく、婚礼の世話人たちでもなく、参列者たちでもありません。厳密に言えば、これはその婚礼の場にいた人たちが主イエスの行われた奇跡を見て驚いた、という出来事ではないのです。むしろ婚礼の表舞台では誰もキリストがなさったしるしを見ていません。これは婚礼の舞台袖で小さな奇跡を行われた主イエスに神の栄光を見て、弟子達が「信じる者」となったという出来事なのです。

弟子達は確かに、主イエスを求め、ここまで付いてくるようになりました。しかし改めて、弟子達はこの婚礼で主イエスが行われた「しるし」を見て、「信じた」と書かれています。

この「しるし」を見て、弟子達の中で何かが大きく変わったのでしょう。この「しるし」を通して、本当の意味で、「この方が神のメシアであり、この方を通して神の栄光を現われる」ということを「信じた」のです。弟子達は、「しるし」を通して「主イエスについていく者」から、「主イエスを信じる者」になった。

このことを見ると、「しるし」というのは、私たちをただ驚かせるものではなく、キリストと私たちを結び付けるものであることがわかります。聖書が私たちに示す「しるし」は、「何か信じがたい現象」「何か魔術的なもの」ではありません。神の栄光が表され、私たちをキリストへと結びつけるものということです。

主イエスはガリラヤでこのあといくつもの「しるし」を行われます。それは、人々を驚かせるものではなく、むしろ「私を本当に神の子・キリストと信じるか」と問いかけるものでもありました。

このような「しるし」は、今も私たちにも与えられています。まず、今私たちが教会でキリストを礼拝している、ということが、すでに「しるし」が与えられたということの証拠でしょう。

誰もが、教会へと足を向けるようきっかけとなった「あのこと」があり、「あの人」がいたのです。それこそ、それぞれに与えられた神からの「しるし」、と言っていいのではないでしょうか。他の人たちからすれば、奇跡には見えないかもしれません。「そんなのはあなたの思い込みだ、偶然だ」と言われるかもしれません。しかし、自分にとって必然としか思えない時に、自分とキリストにしかわからない「しるし」が見せられたから、今私たちはこの礼拝にいるのではないでしょうか。

私たちは、何となく興味を持って教会に来て、一度礼拝に加わった、というのではないのです。何よりの奇跡は、自分が礼拝の中に身を置くようになり、そして今も礼拝者として、信仰者としてあり続けている、ということではないでしょうか。楽しいことがあっても、辛いことがあっても、毎週礼拝に来て、神の言葉を聞き、祈りを捧げ、礼拝ごとに新たにされていく自分を感じるということです。

この福音書の最後の方、20:30でこう書かれています。

「このほかにも、イエスは弟子達の前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなた方が、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名による命を受けるためである」

キリストの弟子達は福音書に書ききれないほどのしるしを見たのです。しかしこのヨハネ福音書の中に書かれているのは、書ききれるだけのしるしです。書ききれないほどのしるしが、これまで与えられてきました。何も誇るものをもたないこの私にも、こんなにも小さな者にも、神は福音の種を大切に蒔いてくださってきたのです。

なぜイエス・キリストが十字架で殺された後も、キリストを信じる人たちが起こされたのでしょうか。なぜ直接キリストを見知っている世代の人たちがいなくなっても、キリストを信じる信仰者が次の世代にも起こされてきたのでしょうか。そしてなぜ今も、この聖書という不思議な、信じがたいことばかりが書かれている書物が求められ、読まれているのでしょうか。

ここに真理があるからでしょう。「しるし」があるからでしょう。キリストと私たちを結び付ける何かがあるからでしょう。

私たち自身、肉の目を通して、キリストのしるしを直接見たわけではないのに、なぜ教会に足を運ぶのでしょうか。今私たちがキリスト者として今ここに生きているということこそが、何よりキリストが生きて私たちを導いておられる「しるし」ではないでしょうか。

この島の中で私たちはキリスト者として生かされていることこそ、神がこの島の人たちにお与えになった招きの「しるし」なのです。

私たちにはキリストのように人の目を引き付ける奇跡を行うことは出来ません。しかし、私たちが今ここで礼拝し、祈り、讃美をささげるこの小さな信仰の業は、キリストが起こされた大きな奇跡であり、この島の中で「しるし」として確かに用いられていくのです。

1月14日の礼拝説教

ヨハネ福音書2:1~12

「婦人よ、私と何の関係があるのです」

「カナの婚礼」と呼ばれている場面です。主イエスが、御自分の母マリアと弟子達と一緒に参列していた結婚式の祝いの席で、葡萄酒がなくなってしまいました。マリアからそのことを知らされた主イエスが水を葡萄酒に変えられた、という奇跡の出来事です。

小さな村でキリストが行われた、小さな奇跡・しるしです。決して大きな、華々しい奇跡ではありません。主イエスが水を葡萄酒にされた、ということを知っていたのは、婚礼の舞台裏にいたわずかな人たちでした。しかしこの小さな奇跡が、イエス・キリストの福音宣教を理解する上で重要な意味を持っているのです。

これが、キリストが行われた最初の「しるし」であった、と書かれています。ヨハネ福音書がわざわざ、「これが最初のしるしであった」と書いているということは、キリストが行われたこの小さな奇跡によって、一組の新しい夫婦、またその親族の面目が保たれた、というだけでなく、今ここで生きている私たちにとっても、大きな意味をもつ「しるし」である、ということでしょう。

カナはガリラヤ湖の北、ナザレの町から数キロのところにある小さな町です。キリストが婚礼の祝いの席でしるしを行われたということがヨハネ福音書に記録されているので、この町はキリスト教会の中で、結婚の儀式の始まりの町であるかのように言われることもあります。今でも、結婚の記念日に訪れたりする人が多いそうです。

しかし、ヨハネ福音書がこのカナの婚礼の場面で焦点を当てているのは、結婚式そのものでも、花婿・花嫁でもありません。むしろ、この時の結婚式・新郎新婦については何も触れられていません。焦点はむしろ、この婚礼の舞台裏に当てられています。「結婚とはこうあるべき」とか、「夫婦とはこういうものだ」ということに焦点があるのではないのです。

まず大切なことは、その婚礼の席にイエス・キリストが参列されていた、ということです。「言は肉となり、私たちの間に宿られた」と1章に書かれてます。「私たちの間に住まれた」という意味の言葉です。神が人間と同じ地平に住まれる、ということは信じがたいことですが、それが真実であったことを、このカナの婚礼のイエス・キリストのお姿に見ることが出来るのです。婚礼の宴という私たち人間の日々の営み、人間のささやかな喜びの生活の中に、神は共にいてくださいました。人となられた神が、人間の生活の中で御業を行われたのです。

このことは今の私たちにも言えることです。自分の目の前や真横に神がいて共に生活してくださっている、ということが何も特別なことでなく、それが私たち信仰者の日常であるということを、ここに見たいと思います。

さて、その婚礼の席でマリアは自分の息子のイエスに「葡萄酒がなくなりました」と告げました。マリアがなぜ主イエスに助けを求めたのかは何も書かれていません。新郎新婦とマリアが特に親しい関係にあったのか、マリアの親族だったのか・・・

「イエスも、その弟子達も婚礼に招かれた」と書かれてますので、自分の息子が弟子達を連れて参列したせいで、婚礼の葡萄酒がなくなってしまった、と、責任を感じていたのでしょうか。

当時の婚礼は数日続くものでした。食べ物や飲み物が途中でなくなってしまうことは、招待する側にとっては不名誉なことでした。マリアは婚礼の葡萄酒がなくなってしまったことを深刻にとらえました。彼女は主イエスに状況を伝えます。

しかし、それを聞かれた主イエスの言葉に、私たちは驚くのではないでしょうか。

「婦人よ、私とどんな関りがあるのです」

主イエスはそれほど深刻に捉えてはいらっしゃいません。むしろ母マリアを冷たく突き放すような言い方をなさっています。ここでは「私とどんな関わりがあるのです」と訳されていますが、細かく訳すと「『私とあなた』にとってどうしたというのです」という言葉になります。

主イエスにとっても、マリアにとっても、婚礼で葡萄酒が足りなくなるということは深刻な問題ではない、それは新郎新婦の問題であって、私たちには関係ないじゃないか、というような言い方です。慈愛に満ちた「優しいイエス様」とはかけ離れた反応です。

主イエスがそのようにおっしゃった理由が、その後で言われています。

「私の時はまだ来ていません」

主イエスがおっしゃる「私の時」に目を向けることこそ、婚礼の席で葡萄酒がなくなることよりも重要なことだ、ということでしょう。では主イエスがおっしゃる「私の時」とは何のことなのでしょうか。いつ、何が主イエスに起こる時のことなのでしょうか。

神の子イエス・キリストが「私の時」とおっしゃっているのだから、イエス・キリストが救い主として救いの御業を行われる時、ということでしょう。主イエスはその「時」を見据えて、今この婚礼の時を過ごしていらっしゃるのです。主イエスが見据えていらっしゃるその「時」に比べると、今起こっている婚礼の不手際など、本当は問題ではない、ということなのでしょう。

では、それは具体的に何の「時」なのでしょうか。それは、十字架の時でした。この福音書を最後まで読んでいくと、イエス・キリストは、十字架に上げられ、酸い葡萄酒をお受けになると、「成し遂げられた」とおっしゃって、息を引き取られます。キリストがキリストとして「成し遂げる」救いの時、それが、主イエスがここでおっしゃっている「私の時」です。

12章で、主イエスがエルサレムにロバに乗って入場された場面が描かれています。その時、ギリシャ人が主イエスの下に会いに来ました。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、つまりユダヤの律法を知らない人たちも、イエスという方の業と教えを伝え聞いて、主イエスの救いを求めてやってきたのだ。

主イエスはその人たちをご覧になってこうおっしゃいました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」

主イエスは、ついに自分が一粒の麦として地に落ちる時が来たことを悟られました。自分は一粒の麦として地に落ちなければならない。実りをもたらすために、自分は落ちなければならない、ということをご存じでした。そしてその時のことを主イエスは御自分が「栄光を受ける時」とおっしゃるのです。

主イエスはご自分が逮捕される夜、弟子達の足を洗い、執り成しの祈りをささげられました。その祈りの初めで「父よ、時が来ました」とおっしゃっています。それは十字架の時であり、主イエスが栄光をお受けになる時であり、神のこの世に対する愛が頂点に達する時でした。

カナの婚礼の席で行われたキリストの奇跡は、「最初のしるし」と書かれています。この最初のしるしから、最後のしるし・十字架の死への歩みが始まるのです。この葡萄酒の奇跡から、キリストが十字架の上で口に含まれるあの葡萄酒へと歩みがつながって行くということです。

主イエスは、一度は「私にもあなたにも関係ないでしょう」と母マリアにおっしゃいましたが、すぐにこの婚礼の席の祝福が壊れないように水を葡萄酒に変えるという奇跡を行われました。

さて私たちは、カナで行われた婚礼の席でキリストが水を葡萄酒に変えられた出来事の中に何を見ればいいのでしょうか。キリストが私たちを祝福で満たしてくださる、ということです。

キリストはあの十字架で、御自分の血をもって私たちを祝福へと導いてくださいました。男女が夫婦としての契約を交わす婚礼の席で、キリストは葡萄酒をお与えになったことはとても象徴的です。この葡萄酒は、神との新しい契約の血であるイエス・キリストの血の象徴・契約の祝福の象徴なのです。

カナで行われたしるしは、ただ、「イエスという人が不思議な力を持っていることを示した」というだけのものではありませんでした。キリストの十字架という栄光の時、神の子としての受難の時への秒読みが開始されたしるしであり、神と新たに結ぶ契約の血のしるしが与えられた、ということなのです。

マリアは一度主イエスから「あなたと私に何の関係があるのですか」と言われても諦めなかった。彼女は給仕の人たちに、主イエスが何か指示を出したら従うよう伝えました。「何かを言いつけたら、その通りにしてください」と言っています。これは「彼があなた方にどんなことを言っても、してやってください」という言葉です。

主イエスは人の理解を超えた仕方で何かを示される、ということをマリアは知っていたようです。だから「どんなことを言っても言う通りにしてください」と給仕係の人たちに前もって念押ししています。

主イエスは大きな清めの石の水瓶に水をいっぱい入れるようにお命じになりました。普通なら、「なんでそんなことをするのか」と言うでしょう。それは手や足を洗うためのものです。「水瓶に水を満たすことと葡萄酒がなくなりそうなこととどう関係があるのですか」と言いたくなるのではないでしょうか。しかし、給仕していた人たちはマリアから言われていたこともあり、何も言わず、黙々とその言葉に従いました。

給仕をしていた人たちが主イエスにそう言われて何を思ったのかは書かれていません。ただ、従った、とだけ書かれています。彼らはただ水を瓶に入れるだけでなく「縁・口」までいっぱい入れました。言い返さず従っただけではなく、徹底した従いの姿勢が見られます。

ここで大切なことは、イエス・キリストの最初の「しるし」は、諦めなかったマリアと給仕係の人たちの徹底した従いを通して起こされていった、ということです。諦めずにキリストを求め、示された道に従うこと・・・その先で私たちは神の栄光を見ることになるのです。

この最初のしるしから、ご自身の十字架という神の救いの御業のしるしへの公の歩みが始まります。イエス・キリストの周りには、いつも信仰者たちの従いの姿があったことを見逃してはならないと思います。

カナの婚礼の席ではマリアが、給仕係が、キリストを求め、キリストの言葉に徹底して従った信仰の業がありました。万策尽きて、もうキリストにすがるしかない中で、信仰者たちに、自分たちの力では見出すことが出来なかった道が示されたのです。

私達は人間としての力の終わりに来た時、そして私達がただ言葉を失った時、何も出来ない時・ただ神に祈るしかない時があります。自分で何とかできればいいのです。祈りなしで何でもできれば楽です。しかし、私たちには祈るしかない時があります。

そのような時にこそ、神が私たちの日常の中に共に生きてくださっているという真理を見出すのです。婚礼のような喜びの中でも、荒野のような飢え渇きの中でも、神は私達に祝福をくださろうとしています。希望がもてない時にも・・・いや、希望が持てない時にこそ、私たちには祈るべき方が近くにいてくださるのです。

1月7日の礼拝説教

ヨハネ福音書1:43~51

「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(1:50)

アンデレとペトロをご自分の弟子として召された翌日、主イエスはエルサレムやベタニアのあるユダヤ地方から、北のガリラヤ地方へと向かわれました。その途中、フィリポという人に会い、「私に従いなさい」と御自分の弟子へと召されました。

前に、「弟子のアンドレは誰かを主イエスの下へと連れて行く人だった」、ということをお話ししましたが、このフィリポも同じです。福音書を読んでいくと、フィリポとアンドレはいつも、一緒に誰かを主イエスのもとに連れて行く役割を果たしていることがわかります。

フィリポも、アンドレも、ギリシャ名の人です。2人とも、「ユダヤ人だから」「ギリシャ人だから」というような人種や民族の分け隔てをすることなく、誰かを着やすく主イエスの下に連れて行く社交的な人だったようです。

キリストに召し出されたフィリポは、自分の友人のナタニエルに会って言いました。

「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」

この言葉からすると、フィリポは、モーセの律法や預言書の言葉、つまり旧約聖書の言葉をよく知っていた人だったのでしょう。フィリポの友人の「ナタニエル」はヘブライの名前です。「神がお与えになった」、という意味の名前です。

ナタニエルは、「神がお与えになった」という名前でしたが、「神がお与えになった」恵みを、フィリポのように素直に見ることが出来ませんでした。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

ナタニエルには、フィリポやアンドレのように、ユダヤ人・ギリシャ人に関係なく物事を見る感覚はなかったようです。

ガリラヤ地方は神の都エルサレムからはるか北にあり、外国との境に接していました。

イスラエルの中心から地理的に遠く離れた田舎でした。イザヤ書では、「異邦人のガリラヤ」という言葉で呼ばれたりしている。

なぜナタニエルがそんなことを言ったのかというと、自身がガリラヤの出身だったからです。21:2で、彼はナザレよりも北にあるカナの出身であったことが書かれています。

自分自身がガリラヤの人間であったからこそ、到来が預言されて来たメシアがガリラヤから出るはずがない、と思っていたのです。彼はガリラヤがどんな土地かよく知っていました。自分と同じ地平からメシアのような神聖な存在が出てくるはずがない、と思っていたのです。

ナタニエルの見方は、一般的なガリラヤの人が持っていたものだったでしょう。メシアがガリラヤの大工の家に生まれるなどということは考えられませんでした。エルサレムの祭司階級に生まれ、大祭司となって民衆を導くようなメシアなら理解できたかもしれません。もし神が特別なものをお与えになるのであれば、もっと特別な場所に、特別な家に生まれるだろう、と考えていたのでしょう。

この福音書は初めに、「万物をお創りになった神が、人となって世に来られた」、ということを書いています。神が我々と同じ場所に生まれ、生活されるということは確かになかなか想像がつかないでしょう。誰だった、神がその辺を歩いていらっしゃるような光景を想像できません。

当時の人たちにとって、神がガリラヤの大工の家にお生まれになったということは躓きとなりました。「あの人は大工のヨセフの子ではないか」と、そこで人々はキリストに近づくことをためらってしまうことになるのです。6:42

ナタニエルもその1人だった。

ガリラヤのナザレへの偏見をもって話しを聞こうとしないナタナエルを、フィリポは自分の言葉で説得しようとはしませんでした。彼がしたのは、「来なさい、そうすればわかる」と、主イエスご本人の下へと連れて行くことでした。

そのイエスという人がキリストであることを知るには、言葉を尽くした説明ではなく、ご本人のもとに連れて行くしかないのです。

ナタニエルはフィリポに付いて行きました。「キリストに会いたい」と思ったからではないでしょう。「ナザレからメシアが出ることはない」という自分の考えが正しいことを知るためでしょう。

しかし、ナタナエルは驚くことになります。主イエスは、初めて会ったはずのナタニエルに「あなたはイチジクの木の下にいた」とおっしゃいました。「イチジクの木の下にいた」というのは、「律法を学んでいた・聖書を読んでいた」ということです。当時の律法の教師たちは、イチジクの木の下で生徒に聖書の言葉を教えていたのです。

キリストはイチジクの木の下にいたナタナエルの姿に、「真のイスラエル人だ」とおっしゃいました。真剣に神の言葉を求めていたことを見抜かれたのです。ナタニエルは既に自分が見られ、心の内まで知られていたことを知り、疑いを捨てて信仰を告白しました。

私たちは、神が自分のことを自分以上によく知っていらっしゃることを知った時、驚きます。そして私達が神を信じる以上に、神が私達を信頼してくださっていることを知った時、自分の常識が砕かれ、信仰の道を見出すのではないでしょうか。

イエス・キリストは、マタイ福音書の山上の説教の中で、こうおっしゃっています。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」

キリストは聖書の言葉を求めて学びを続けているナタナエルに必要なものを既にご存じでした。主イエスは「そのままイチジクの木の下で聖書の学びを続けなさい」とはおっしゃいませんでした。「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」と、御自分に従う信仰の道をお与えになったのです。

ナタナエルは、自分がイチジクの木の下にいた、という、自分しか知らないことを知っていたイエスという方に信仰を告白しました。

「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」

しかしキリストはナタニエルの信仰告白に対して「まだあなたは何も見ていない」とおっしゃいました。信仰は、何か驚くべきことを見て終わりではないのです。何かを見るために歩み続けるのが信仰です。信仰の歩みの上で、信仰者は更に大きな奇跡を見ていくことになるのです。

キリストに従うということは、キリストの偉大な知識や能力、奇跡に驚いて完結することではありません。この方の後に付いて行く先で、この方が見せてくださることを見続けるということなのです。

私達はキリストに従う先で何を見せていただくのだろうか。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り下りするのを、あなたがたは見ることになる」1:50

「天が開け、神の天使たちが上り下りする」、という言葉で思い起こすのは、創世記28章に記されているヤコブの夢です。兄エサウを騙して怒りをかったヤコブは、家から逃げ出しました。兄から逃げる途中、ヤコブは野宿をしました。

その際、彼は夢を見ました。先端が天まで達する階段が地に向かって延びており、神のみ使いたちがそれを昇ったり下ったりする夢です。ヤコブはその夢の中で神の祝福の声を聞きます。

「見よ、私はあなたと共に居る。あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。私は、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」

兄を騙し、父親も欺いて、家から逃げることになったようなヤコブに、神は守りを約束されました。私達は創世記を読む際、「どうして神はヤコブのような人を追いかけて守ろうとなさるのだろうか」と不思議に思うでしょう。神の選びということは、私達にとっては不思議です。

ヤコブは眠りから覚めてこう言いました。

「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」 Continue reading

12月31日の礼拝説教

創世記3:14~24

「アダムは女をエバと名付けた。彼女が全て命あるものの母となったからである」(3:20)

神がお創りになったエデンの園は、完全な豊かさと美しさをもっていました。人はそのエデンの園に置いていただき、自分が創り出された土に仕え、土を守り、そこから与えられる恵みを夫婦で楽しむ命が備えられました。心地よい風が吹く夕方には、一日の生活の充実感をもって神と語り合う時間をもっていたのです。

しかし、人は蛇の誘惑によって、一瞬でその平安を失ってしまうことになりました。創世記は、その悲劇を淡々と描いています。そしてその悲劇を通してイスラエルの信仰の失敗の歴史を描き出し、神から離れた偶像礼拝がもたらす悲惨な現実を突きつけるのです。

神の言葉を捨てた人間は何を失ったのでしょうか。神を中心に世界・自分見る、という視点を失ったのです。自分を世界の中心に据え、自分だけを見るようになり、神に対して恥を覚える者となってしまいました。

風が吹く夕方、自分を探しに来てくださった神に向かって「私はあなたから隠れています。裸であることを知って恐ろしくなったのです」と言う者になってしまいました。そして「自分以外のものが悪い」と他に責任を押し付ける者となり、神を中心とした大地との調和、神を中心とした夫婦の調和が崩れました。

神への不従順によって人間が何を失ってしまうのか、聖書は一番初めに楽園で人間が犯した失敗を描き、警告を発しているのです。

まず私達は今日読んだ場面で、神が蛇、女、人にそれぞれなんとおっしゃったのかを見たいと思います。

女が「自分は蛇に騙された」と言ったので、神はまず蛇を裁かれました。蛇に対して、蛇が呪われるものとなり、生涯這いまわり、塵を食らうことになる、とおっしゃいます。そしてこれまで普通に語り合っていた蛇と人は互いを忌み嫌い、殺しあうことになると言われました。

次に神は女に対して言葉をお与えになります。女は蛇のように呪われはしませんでした。しかし、三つの辛い現実が示されます。出産の痛み、夫を求めなければならない生活、男による支配です。

そして最後に神は男に向かって言葉を発せられました。男自身は蛇のように呪いは受けてはいません。しかし、「男のゆえに、土が呪われるものとなった」とおっしゃっています。

神の言葉に背いた人間の罪によって、大地が呪われることになったというのです。

エデンの園ではありあまる豊かさを大地から得ていた人間でした。しかし神から離れたせいで、自分が土に返る時まで汗を流し、苦労しても楽園でそうだったように豊かな実りがもたらされることはない、と宣言されます。

土から造られ、土に仕える存在であったアダムは、神から離れることで土との調和を失いました。それどころか、アダムは、土の上で苦しむことになったのです。園の中で与えられた豊かな木の実はなくなり、大地に仕えて園を守るという調和が崩れ、風を感じながら夕方神と語らう至福の時間はもうなくなってしまいました。これから一生男は呪われた土の上で労苦し、そして死ぬという定めとなったのです。

神が夫婦におっしゃった言葉を見ると、この世に生きる辛さが凝縮されていないでしょうか。

私たちがこの創世記を読む際に気を付けなければならないのは、字面を読んでそのまま自分の生活に持ち込んではならない、ということです。

神がここでそうおっしゃったから、「女は男に支配されるべきものである」とか、「外で働くのは男の役割であり、土の上で苦しむのは男だから仕方ない」とか、いうことではないのです。聖書がここで描いているのは、神に背き楽園を失った「あるべきでない」人間の姿なのです。

私たちが聖書を読む際に一番気をつけなければならないのは、その言葉、その物語が書かれた時代背景を踏まえる、ということです。どのような時代に書かれ、その時代の人たちはこの物語に何を見出したのかを踏まえて読まなければ、「男はこうあるべきだ、女はこうあるべきだ」、というような、安っぽい理解になってしまいます。

創世記の物語は、この創世記が記されたその時代のイスラエルが置かれた現実と、なぜイスラエルがそのような苦しみに陥ったのか、ということを描き出しているのです。

この不思議な物語は、紀元前のイスラエルの人たちにとって単なる娯楽ではありませんでした。神が人をエデンの園の外へと出され、人は出産の痛みを感じつつも生きるために土の上でもがき、しまいに死ぬ者とされた・・・イスラエルはこの物語の中に信仰の教訓を見出していました。

創世記が書かれたのは、イスラエルがバビロン捕囚を体験した時代です。BC6世紀、イスラエルの民は聖なる都エルサレムを失い、異教の国バビロンへと連行され、偶像の信仰に囲まれる苦しみの生活を体験しました。

神の言葉に背いてエデンの園から追放されたアダムとエバに、自分たちの姿を重ねて見たでしょう。神の言葉に背を向け、祝福を失った男と女の悲惨は、当時のイスラエルの人たちの現実そのものだったのです。

何百年も預言者たちが偶像礼拝をやめるよう神の言葉を伝えたにも関わらず、イスラエルはやめませんでした。遂に、バビロンの軍隊によってエルサレムに裁きがもたらされました。エルサレムは破壊され、人々はバビロンへと連行されて行きました。異教の地バビロンで、偶像礼拝の誘惑に囲まれた中での生活を余儀なくされたのです。

バビロンでの捕囚生活の中で、家が途絶えないように女性は子を産むことが求められ、家父長制度の中で男に支配されていました。男は炎天下、土の上で来る日も来る日も働かねばならず、その日一日を生き延びるのに精いっぱいでした。

そういう人たちが、この創世記を読んだのです。その時代のイスラエルの人たちにとって、ただ確かだったのは、苦しみの先で死ぬ、ということだけでした。神から離れ、「死ぬ者となった」という厳しい現実が創世記に記されています。

それこそが、バビロン捕囚の中で生きる意味を見失いかけていたイスラエルの人々の現実だったのです。国を失い、ただその日一日を生き延びることが、生きる全てとなっていた無味乾燥な時代に創世記は記されました。エルサレムを失った人たちは、楽園を失った夫婦に自分たちの姿を重ね、信仰の失敗の教訓としたのです。

そのようにして聖書を読むと、神がくださった祝福の生活を自ら捨ててしまったイスラエルの姿が透けて見えてきます。聖書は、ある意味、イスラエルの嘆きの書です。「なぜ自分たちは滅んでしまったのか。自分たちはどこで道を踏み外してしまったのか。自分たちをそそのかす蛇の声とは一体何だったのか。」

女が男に支配されながらも男を求めなければならないような苦しみ、男が必死で汗を流して働いても報いが少ない苦しみ・・・そのような苦しみが一体どこから来ているのか・・・。

驚くべきことに、創世記は神を責めていません。この世に生きる苦しみを神のせいにしていないのです。神はもともとは祝福の世界をお創りになったのに、人間が自らその楽園を捨ててしまった、その愚かさを描いている。「この愚かさを繰り返してはいけない」、という信仰の教訓として創世記は書かれました。

創世記は私たちにただ生きる絶望を伝えているのでしょうか。最後にこのことを考えたいと思います。

創世記が示しているのは、罪の絶望だけなのでしょうか。「あなたには今もこの先も、希望を持つことはできない」ということなのでしょうか。

22節に神の心の言葉が書かれています。

「人は善悪を知る者となった。」

これは以前にお話ししたように、「支配者になろうとする存在となった」ということです。

そして神は一つのことを憂いていらっしゃいます。

「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる恐れがある」

人は支配者になろうとする心を持ってしまった、自分中心の生き方を知ってしまった・・・そのような人間が、それぞれが「自分こそ世界の中心である」と思うようになったらどうなるか・・・。

人間同士で殺し合い、自然をも支配しようとして大地を痛めつけることになります。今この世界にある環境破壊の問題も、一番の大元は創造主を見失っている、という人間の罪に原因があるのです。

そのような人間が「命の木を知ってはいけない」、と神は思われました。だから人はエデンの園から追放されたのです。永遠の命に相応しくないと思われたからです。 Continue reading