MIYAKEJIMA CHURCH

12月7日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:19~27

ヨハネ福音書には、いわゆる「クリスマス物語」がありません。天使がヨセフ、マリアそれぞれにキリストの誕生を告知して、この夫婦の間にイエスという名前の赤ちゃんが生まれる、という出来事は描かれていません。

ヨハネ福音書では、世にお生まれになった神が、世に受け入れられなかった、ということが序文で言われ、創造のはじめよりも前からあった神の子が十字架へと上げられていく様子が描かれていくのです。

今日私たちが読んだのは、まさに「世は言を理解しなかった」という序文の実現です。逮捕されたイエス・キリストがまず連れて行かれたのは、現職の大祭司カイアファの舅であったアンナスのもとでした。アンナスは、カイアファの前の大祭司です。

アンナスは、大祭司の職がカイアファに代替わりしても、裏でカイアファ以上の権力を握っていたようです。最高法院の下役たちは、そのことをわきまえて居ました。カイアファではなく、まずアンナスのもとに連れて行った、ということがそのことを物語っています。

私たちはここで、キリストが逮捕された後のヨハネ福音書の描き方に注目したいと思います。キリストと、弟子のペトロの姿を交互に描いていくのです。

13:18で主イエスは、「私は、どのような人々を選び出したのかわかっている」とおっしゃいました。そしてペトロに対しては直接こうおっしゃいました。「私のために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでにあなたは三度私のことを知らないと言うだろう」。キリストはペトロがこの夜どのように振舞うかを前もってご存じでした。

ヨハネ福音書は、イエス・キリストがアンナスに対して毅然と弁明なさるお姿と、不安に駆られたペトロが主イエスのことを知らない・自分はイエスの弟子ではない、と否定を重ねてしまう姿を交互に描き、この夜のそれぞれの対照的な信仰の姿を臨場感豊かに描くのです。

ヨハネ福音書の、キリスト逮捕の夜の描き方は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書と随分違っています。最後の晩餐やゲツセマネの祈りの場面はありません。その焦点・強調点はイエス・キリストの十字架への歩みであり、屋敷の中にいるイエス・キリストと、外にいるペトロとの比較にあります。キリストが胸を張り、毅然と救いの十字架へと自ら歩んでいかれるお姿と、自分だけは助かろうとそのキリストを否定するペトロの対照的な姿は対照的です。

もっと言えば、良い羊飼いとして羊のために命を投げ出すキリストのお姿と、羊飼いから離れ逃げ去ってしまった羊の対照的な姿を描いているのです。私のために命を投げ出そうとしてくださるキリストと、そのキリストを知らない、と言ってしまう私たちの弱さを、福音書は私たち読者に突き付けています。

イエス・キリストはこの後、アンナスからカイアファ、カイアファからポンテオ・ピラトのもとへとたらいまわしにされることになります。このアンナスからの尋問は、公の裁判ではありませんが、ヨハネ福音書に記されているユダヤの権威からの尋問は、ここだけです。今日私たちが読んだキリストの言葉が、ユダヤ人に対するイエス・キリストへの弁明となっているのです。

アンナスは、二つのことについて主イエスに尋ねました。主イエスの弟子たちについてと、主イエスの教えについてです。

イエス・キリストの福音宣教を通して、ユダヤの人たちの中から、イエスに従おうとする人が多く起こされました。このことは、アンナス、またユダヤの指導者たちにとって、不安の種でした。

そうやって、公の秩序が、ナザレのイエスによって乱されることに、そして何より、自分たちの支配の秩序が崩されていく、ということに危機感を抱きました。それは、自分の支配力の低下、権威の低下ということにつながります。公の秩序が乱れれば、ユダヤはローマからの締め付けが強くなります。

アンナスは、ナザレのイエスの教えが、真のものかどうかを知ろうとしました。真の神から人々を引き離そうとする偽預言者は、処刑されなければならない、と申命記13:1以下の律法に記されています。

主イエスは、一つ目の質問、「ご自分の弟子たちについて」は、何もお答えになっていません。良い羊飼いとしてご自分の羊である弟子たちを守ろうとなさったのでしょう。

しかし、ご自分の教えについては、はっきりとおっしゃいました。「私は世に向かって公然と話した。私はいつもユダヤ人がみんな集まる会堂や神殿の境内で教えた。秘かに話したことは何もない。なぜ私を尋問するのか。私が何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々が私の話したことを知っている」

確かに、イエス・キリストは福音宣教の中で、全てを公に語ってこられました。アンナスをはじめ、ユダヤ人指導者たちも皆、その内容を知っていたはずです。キリストの福音宣教を振り返ると、キリストが何かの奇跡を行われるたびに、何かをお教えになるたびに、ユダヤ人やユダヤ人指導者たちとの議論になりました。まるで公開裁判のような様子でした。

安息日に、病気で横たわっていた人を癒された時には、「それは正しいことか」とユダヤ人たちから責められました。それに対して、主イエスは父なる神や、律法とモーセをご自分と引き合いに出しながらご自分を証しされました。

仮庵祭では、主イエスの教えを聞いた人たちが驚きました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。それに対して主イエスは、「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである」と、ご自分が何者であるかを示されました。

姦淫の女性が主イエスのもとに連れてこられ、律法に従って石内の刑に処すべきかどうか、と試された時、「罪のない者からこの女性に石を投げなさい」とおっしゃいました。そして年長者から順にその場から去っていったあと、「私はあなたを罪に定めない」と神の許しの宣言をなさいました。

ナザレのイエスは神のもとから来たのか、悪魔のもとから来たのか、ということも人々のうわさになったりしました。

主イエスが目の見えない人を癒された時には、癒された本人と両親が取り調べを受け、結局癒された人は、会堂から追放されてしまいます。

そして、ラザロを復活させて人々が皆驚いたことで、大祭司カイアファは、「このものはユダヤに混乱をもたらしている。そのせいでローマによってユダヤが攻められるよりも、このもの1人が死んだ方が良い」と言いました。

ユダヤの指導者たちは、既に、主イエスの教えをよく知っていたのです。そしてイエス・キリストが行われた癒しの奇跡や、神の国の教えの信ぴょう性に関わらず、もう既に有罪の判決を下していたのです。

ヨハネ福音書は、逮捕されたキリストの描き方がほかの福音書とは違う、ということをお話しました。ほかの福音書とは強調点が違うからです。ほかの福音書では、イエス・キリストは十字架に至るまで、沈黙を貫かれています。屠り場に連れて行かれる子羊のように、沈黙なさるキリストのお姿が描かれています。

しかしヨハネ福音書は、毅然とご自分の身の潔白を主張されるキリストを描いています。ヨハネ福音書を読んだキリスト者たちは、この福音書が書かれた時代の教会の姿をここに見たでしょう。

私たちもヨハネ福音書のこのキリストのお姿に、教会の姿を重ねて見ます。この世の中で、キリストがアンナスから尋問されたように、私たちも尋ねられるのです。

「あなたたちが言っていることは本当か。あなたたちのキリスト証言は本当か。神が我々と共にいてくださっているというのは、本当か」

そう尋ねられた際、私たちは、胸を張りたいと思うのです。この時のキリストのように。その先に、痛みと恥があったとしても、それは「生みの苦しみ」として私たちの信仰の喜びへと変えられていくのです。

ペトロは、のちに手紙の中でこう記しています。1ペトロ4:12

「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるのなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」

あの夜、大祭司の中庭で自分はイエスの弟子ではない、そんな人は知らない、と言ったペトロが、「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」と教会の人たちに励ましの言葉を書いているのです。ペトロは確かに変えられています。

使徒言行録を見ると、ペトロが復活のキリストを証しする様子も記録されています。大祭司から尋問された時、あの夜、キリストがアンナスから尋問されたように、ペトロは大祭司と向き合うことになりました。

大祭司はペトロに言いました。「お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」

ペトロはナザレのイエスのことをエルサレムで語るな、と釘を刺されました。しかしペトロは毅然としてこう言いました。

「人間に従うよりも神に従わなくてはなりません。私たちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を許すために、この方を導き手とし、救い主としてご自分の右に挙げられました」5:28以下

ペトロをはじめ、あの夜イエス・キリストのもとから離れた弟子たちは、もう一度復活のキリストによって召し出され、聖霊を受け、キリストがそうなさったように、この世からの逆風を受けながら福音宣教を続けました。キリストの十字架と復活を通して、自分たちの死に勝る力を見たからです。 Continue reading

11月30日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:10~18

今日からアドベントに入ります。救い主の到来が預言され、その到来が本当に実現したという喜びと、私たちの今が、キリストが再び世に来られる再臨の到来を待つ時であるということをこの礼拝の中で覚えたいと思います。

何より、その救い主、キリストは、世の罪を背負って私たち一人ひとりのために死ぬために来てくださった方であったということを改めて心に刻みたいと思います。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリスト逮捕の場面です。ヨハネ福音書ははっきりと明確な場所を書いていませんが、キリストは弟子たちを引き連れて行かれたのは、オリーブ山のゲツセマネの園だったでしょう。

そこに、イスカリオテのユダによって手引きされたローマ兵たちと、大祭司とファリサイ派の下役であるユダヤ人の神殿警備兵がやってきました。ローマの千人隊長がいた、ということですので、イエス・キリストと弟子たち12人に対して、数百人規模の兵士たちがやってきた、ということです。

そこで兵士たちは主イエスを「捕らえて縛り、連れて行った」と書かれています。キリストは縛られてしまいました。私たちはこの、縛られるキリストのお姿をどう見るでしょうか。どんなに力強く教えを説き、神の業としか思えないような癒しの奇跡を行っても、権力の力、政治の力には勝てなかった、「負けた人」として見るでしょうか。

キリストは、「自らご自分に起こることをすべて知っておられ、進み出られた」、と4節に書かれています。弟子たちを後ろにかばい、あなたたちが探しているのは「私だ」とおっしゃいました。「私である」とおっしゃったイエス・キリストを見て、兵士たちは後ずさりして、地に倒れました。彼らは、神の栄光をこの方の内に見たのです。そしてキリストは、「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちの解放をお求めになり、ご自分1人が、自ら兵士たちの縄をお受けになりました。

この一連のお姿を見ると、神の子イエスは決して人の支配の中で敗北したのではなく、ご自分の救いの計画を進めるために、確かにその場を完全に支配なさっていることがわかります。

キリストは、救い主・神の子でありながら、人間の手によって縛られました。神の子でありながら人間に負けたのではありません。ご自分の主導のもと、神の御計画を進めていらっしゃるのです。

表面的には、キリストが人間の支配力に負けた、と見える場面ですが、霊的な意味においては、神の救いの御業が間違いなくキリストの意志によって進められています。

そのような中で、弟子たちはどうしたでしょうか。イエス・キリストは弟子たちの足を洗われた後、弟子たちに「あなたたちは私が行くところに来ることができない」とおっしゃいました。それを聞いた一番弟子のペトロは、「命をかけてもあなたについていきます」、と言いました。ほかの弟子たちも、ペトロと同じくらい強い気持ちでいたでしょう。

しかしそのような強い気持ちで訴えるペトロに対して、主イエスは、「君は私についてくるどころか、私のことを知らないと言うことになるのだ」とおっしゃいました。ペトロも、ほかの弟子たちも、その言葉は不本意だったでしょう。先生は自分たちの思いをその程度にご覧になっているのか、と残念に思ったでしょう。

主イエスを逮捕しに来た大祭司の下役たちの一人に、ペトロは剣を抜いてとびかかりました。そしてマルコスという下役の耳を切り落としました。4つある福音書すべてに、キリストの弟子の1人が下役に剣を抜いて立ち向かったことが記録されています。ヨハネ福音書だけ、それがペトロであったことを書いています。

マルコスというのは、ヘブライ語の「王様」という言葉から来ている名前です。剣を抜いたペトロの姿は、人間の支配に立ち向かう勇気の象徴のようにみることができるかもしれません。

イエス・キリストは兵士たちに、「誰を捕らえに来たのか。誰を探しているのか」とお尋ねになり、「あなたがたが探しているのは私だ」と自ら進み出られました。その後ろから飛び出て、ペトロはキリストの盾となり、ローマ兵とユダヤの神殿警備兵に立ち向かったのです。これは、ものすごい勇気です。その場にはローマの千人隊長がいたのですから、1,000人規模の軍団を相手に立ち向かった、ということです。

しかし、キリストよりも前に出て後ろにかばい、忠義心を見せたペトロに、キリストはおっしゃいました。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」

ヨハネ福音書では、ほかの福音書とは違い、「弟子たちが逃げ去った」という記述はありません。しかし、もうペトロ以外の弟子たちの姿はこの場面から消えています。弟子たちは、逃げたのです。

しかし、ヨハネ福音書の焦点は、弟子たちがキリストを置いて逃げ出した弱さに置かれていません。キリストが「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちを守られた、そのことによって、弟子たちはこの場を無事に離れることができた、そのキリストの献身に焦点を当てています。

キリストと弟子たちのつながりは確かにここで一度途切れてしまいます。しかしそれは一時の離別です。キリストが事前におっしゃったとおりです。このことさえも、神の御計画の内にあった、ということを聖書は伝えているのです。

兵士たちは主イエスをまず、アンナスのところに連れて行きました。ローマ総督でもなく、大祭司カイアファのもとでもなく、アンナスという、前の大祭司のところです。

アンナスは紀元6年から15年まで大祭司を務めた人でした。今はアンナスの甥であるカイアファが大祭司となっています。このことを考えると、当時アンナスとカイアファの一族がどれほどの権力を握っていたのか、想像できるでしょう。

アンナスは公にはもう引退した身でした。しかし、兵士たちがまずアンナスのもとに主イエスを連れて行ったということが、アンナスが陰でまだ実効支配力を握っていたことを示しています。この人は、現職の大祭司カイアファ以上の影響力をもっていたのでしょう。

主イエスがアンナスのところへと連れて行かれたとその時間、ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入っていました。そこには、ペトロともう1人の弟子の姿がありました。この弟子の名前は、ヨハネ福音書には書かれていません。この弟子は、「イエスが愛された弟子」とだけ記されています。この弟子が大祭司の知り合いであったことから、ペトロも大祭司の屋敷の中庭に入ることができました。

さて、ここでいくつかの言葉に注目して、聖書がここで何を描き出そうとしているのかを見たいと思います。興味深い言葉の対比が見られます。「中庭」「門」という言葉に注目したいと思います。

「中庭」というのは、ここと、10章にしか出てこない言葉です。10章の初めで、キリストは、「羊の囲い」のたとえをお話されています。ご自分の支配、つまり神の恵みの支配に生きる信仰者を、羊に例えてお話なさいました。

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかのところを乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。」

キリストは「羊の囲い」という言葉をつかっていらっしゃいますが、この「囲い」というのが、ここで使われている「中庭」というのと同じ言葉なのです。

ペトロは大祭司の屋敷の中庭にいたということは、イエス・キリストという羊飼いの囲いから、大祭司という人間の支配の囲いの中に身を移してしまった、ということが暗示されているのではないでしょうか。

「門」という言葉も、さきほどの10章のたとえ話の中で使われている言葉です。

キリストは、「私は羊の門である」とおっしゃいました。「私を通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」

これまで、ペトロは、イエス・キリストという救いの「門」を通って、キリストの「囲い」の中に生きていました。しかし今、ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入る「門」を通って、大祭司の「囲い」の中に入ってきた、ということが暗示されています。

私たちはこの中庭のペトロの姿を通して、聖書から問われるのです。

「あなたは今、誰の囲いの中に生きているのか」「あなたは今、どのような救いの中に身を置いているのか」

この中庭でのペトロのことを、誰も他人事として見ることはできないでしょう。

自分はペトロとは違う、と言い切れるでしょうか。「あなたのためなら命を捨てます」と言って、大祭司の手下に剣をもって立ち向かった、あのペトロはまさに私のようだ、と言えるでしょうか。大祭司の屋敷の中庭でおびえているペトロと私は違う、と言えるでしょうか。

なんとか主イエスの近くにいようとしてここまで来たペトロは、この中庭の門番であった女性から声をかけられました。

「あなたもあの人の弟子の一人ではありませんか」

ペトロはすぐに「違う」と言いました。これは、元の言葉では「私はそうではない」という言葉です。 Continue reading

11月16日の礼拝説教

 ヨハネ福音書18:1~9

イエス・キリストの、地上での最後の夜のお姿を追って福音書を読んでいます。キリストは弟子たちと過ごされる最後の夜、語るべき言葉をすべて語り、共に祈るべき言葉をすべて祈られました。私たちが今日読んだのは、告別の言葉と、執り成しの祈りが終わり、最後の夜の闇へと出ていかれたキリストのお姿です。ついに、イスカリオテのユダの手引きによって逮捕されることになります。

主イエスは弟子たちと一緒に、「キドロンの谷の向こうへ出ていかれた」、とあります。そして、「そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」とあります。

一行は神殿のそばにある園・庭へと向かいました。そこは、主イエスと弟子たちがよく集まっていた場所でした。エルサレムに滞在している時には、弟子たちはその庭で主イエスと共に祈ったり、主イエスから教えを聞いたりしていたのでしょう。

当然、イスカリオテのユダもその場所を知っていました。「過越祭を目前に控えて、一行はいつものようにあの場所に、あの園に集まるに違いない」、と考え、ユダは、兵士と下役たちを案内しました。主イエスの一行の行動を先回りした、ユダの裏切りの場面です。

主イエスの一行が向かったのは、オリーブ山のゲツセマネと呼ばれていた場所でしょう。マタイ、マルコ、ルカの福音書には、そこで主イエスが苦しみ悶えて最後に神に祈られた様子が記録されています。

しかし、ヨハネ福音書では、「オリーブ山」とか「ゲツセマネ」という言葉がつかわれていません。おそらく、敢えて、ゲツセマネという言葉をつかっていないのでしょう。そうすることによって、他の三つの福音書とはあえて違うところに焦点を当てようとしているようです。

ヨハネ福音書は、主イエスの一行が「その途中、キドロンの谷を通って行かれた」と書いています。「ゲツセマネに向かって行かれた」ではなく、「キドロンの谷を通って行かれた」です。

ヨハネ福音書は、「ゲツセマネ」ではなく、この「キドロンの谷」という場所に私たち読者の目を向けさせようとしているようです。この夜の「キドロンの谷」には何があったのでしょうか。そこに、イエス・キリストの救いを象徴する何があったのでしょうか。

「キドロンの谷」は文字通り谷ですので、谷底には川が流れています。その流れはエルサレム神殿の脇を通っていました。そして過越祭を控えたこの夜、川の水は神殿で犠牲に使われた動物を洗うのに使われていました。過越祭の前の晩ですので、たくさんの生贄が捧げられていたでしょう。キリストがこの時渡られた川は、血で赤く染まっていたのではないでしょうか。

キリストは赤く血に染まった川の流れを超えていかれた、というその姿は、その先でキリストを待ち受けている流血を象徴的に表しています。まさに、死線を超えていかれるキリストのお姿がここにあるのです。この時の川の色は、キリストご自身の痛みであり、死を象徴していました。その流れを超えていかれるキリストの歩みは、キリストの覚悟そのものを現していたのです。

私たちが何より忘れてならないのは、キリストは、ご自分の歩みの先に何が待ち受けているのかをすべてご存じの上で、その川をご自分の意志で渡られた、ということです。

イエス・キリストは、ご自分に課せられた使命を知らず、運命に抗うこともできずに十字架に上げられた悲劇の英雄ではありません。本当は、逃げようと思えば、いつでも逃げられたのです。やめようと思えば、この夜の内に、やめることはできたのです。

しかし、キリストはご自分の意志で、羊のために命を投げ出す良い羊飼いとして、キドロンの谷を流れる、血で赤く染まった川の向こう側へとご自分の足を進めていかれました。

この「キドロンの谷の向こうへ行かれた」という一文に、キリストはご自分の計画をご自分の意志と力で進めていかれた、ということ、神の御計画にご自分の身を差し出された、ということを、見出したいと思うのです。

イスカリオテのユダに率いられた人たちがナザレのイエスを目指して逮捕しに来ました。「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやってきた」とあります。

「一隊の兵士たち」というのは、ローマ兵の部隊のことで、600人もしくは1000人規模の部隊のことを意味します。600人でも、1000人でも、一人の人間を逮捕するのには、十分な数です。十分どころか、大げさな人数です。

そして兵士たちと一緒にやってきた「下役たち」というのは、ファリサイ派と大祭司の指揮のもとにある神殿警備兵のことです。以前、この下役たちが、で主イエスを逮捕に来ようとしたことがあります。(7:32) しかし、その時、彼らは主イエスの教えを聞き、捕らえることができませんでした。「今まで、あの人のように話した人はいません」と彼らは上役に報告しました。そして今、またその下役たちが主イエスの逮捕のためにやってきました。

こうしてこのヨハネ福音書のキリスト逮捕の場面を見ると、この世の政治権力者・宗教権力者らが総力を挙げてイエス・キリストに向かって来たということがわかります。

ローマ兵が、反乱を企てる危険な人物を捕らえに来たというだけならまだわかります。しかし、これまで主イエスの御業を見て、主イエスの教えを聞いてきたユダヤの祭司や律法学者までが、未だに主イエスに神のお姿を見出すことができていないというのはどういうことなのでしょうか。

それほど、この世の闇は深かった、ということでしょう。キリストを逮捕しに来た彼らの姿は、ヨハネ福音書が書いている「この世」の罪を象徴しています。

彼らは、「松明やともし火や武器を手にしていた」と書かれています。過越祭は満月に行われるので、松明など本当は必要ないぐらい明るかったはずです。しかし彼らは、用心深く「明り」を持って来ました。

このことも象徴的です。自分たちの手に自分たちの明かりを持って、「世の光」であるイエス・キリストに向かっていったのです。それは、彼らの「自分たちこそが真の世の光である」という思いの象徴でもあるのです。

さて、1節に、主イエスと弟子たちが「園に入られた」、と書かれています。4つの福音書の中で、「園に入った」と書いているのはヨハネ福音書だけです。「イエス・キリストの逮捕は、園の中で起こった」、ということをヨハネ福音書はここで強調して私たちに見せようとしています。

園という言葉で思い出すのは、旧約聖書の創世記に記されている「エデンの園」です。エデンの園で、アダムとエバは蛇の誘惑によって神との関係を壊されました。誘惑が、園の中に入って働いていた、ということと、祈りの園にユダに率いられた人々が入って来た、ということに、私たちは変わらない罪の働きを見ることができるのではないでしょうか。

世の誘惑がキリスト教会に向かってくることの象徴として見ることもできるでしょう。つまり、ここに私たちの信仰の現実が描かれていると見ることができるのです。

ユダに率いられた兵士と下役たちがキリストを逮捕しにやって来たその姿に、私たちは、この世の誘惑にさらされるキリスト教会自身の姿を見るのです。

キリストは今ここで起こっていることをすべてご存じでした。その上で進み出て、「誰を探しているのか」とおっしゃいます。兵士たち・下役たちは「ナザレのイエスだ」と答えました。キリストはためらわず、「私である」とおっしゃいました。

6節を見ると、「私である」という言葉を聞いて、兵士たちは「後ずさりして、地に倒れた」、とあります。兵士たちは、「早速、捕らえる相手が見つかった」、と言って喜んだのではありません。彼らは、「私だ」とおっしゃるキリストに圧倒されて、倒れてしまったというのです。

彼らはなぜ倒れてしまったのでしょうか。これは、神のお名前に畏怖する人間の姿です。

ダニエル書10:9で、神の声を聞いた預言者ダニエルが、倒れてしまった、ということが記されています。

「その人の話す声が聞こえてきたが、私は聞きながら意識を失い、地に倒れた」と書かれています。倒れてしまったダニエルを、神が引き起こして、さらに言葉をお聞かせになったとあります。

ヨハネ黙示録でも、イエス・キリストの姿を見たヨハネが、倒れてしまう、という記述があります。

「私は、その方を見ると、その足元に倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手を私の上に置いて言われた。『恐れるな。私は最初のものにして最後のもの、また生きているものである』」

キリストは人間の支配に負けたのではありません。神の救いの御業を進めるために、進んで兵士たちに服従することで、ご自分の支配を貫かれています。ヨハネ福音書は主イエスがすべてをご存じでありすべてのことをご自分の支配の内に置かれていることを強調しています。

今何が起こっているのか、キリストはすべてご存じでした。キリストは一歩前に出て、その場を支配されます。「私である」というのは、英語で言えば、I Continue reading

11月9日の礼拝説教

 ヨハネ福音書17:20~26

大祭司の祈りと呼ばれているイエス・キリストの祈りの最後の部分を読みました。これまでもお話ししてきたように、これはキリストの「執り成しの祈り」です。弟子たちのため、また弟子たちの言葉によってキリストを信じる人々のために、キリストは大祭司として神に執り成してくださっています。

イエス・キリストは神のもとから世に来られ、神の国の教えを説き、神の御業をお見せになりました。キリストの使命はそれだけではありませんでした。この世に神のもとへと続く立ち返りの道を切り拓くという大切な使命がまだ残っていました。文字通り、そのことに命を使われるのです。「神とキリストと信仰者が一つになる」、という救いの平和の完成へとこの世を導いていかれるのです。

旧約聖書の預言書イザヤ書に、預言者イザヤが見た幻が書かれています。

「終わりの日に、主の神殿の山は山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登りヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう、と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう』」

「終わりの日」とか「この世の終わり」と聞くと恐ろしいイメージがありますが、聖書が伝えるのは、信仰の民に続いて多くの人々が主の光の中へと立ち返っていく「救いの完成の時」です。

「主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう」とこの世の人々は互いに言い合うようになる、とイザヤは預言しています。神の光の中を歩み、天の国を目指すイスラエルの民に向かって、多くの人が「私も一緒に行かせてください」という日が来るのです。

その時が迫っている、そしてその時に至る道が、キリストによって今まさに切り拓かれようとしています。それが、このイエス・キリストの祈りの時なのです。

1人の「良い羊飼い」が、「まだ囲いに入っていない羊」を取り戻し、一つの群れとなります。羊飼いと羊の群れが一つとなる、というのは、神とこの世が一つとなる、キリストの平和の内にすべての命が生きるようになるということです。

弟子たちはこれから「良い羊飼い」が神のもとから来てくださったことと、神のもとへと世を連れ戻してくださることを伝える使命を担うことになります。その弟子たちと、弟子たちに続いて福音宣教の使命を担うキリスト者のために、キリストはこの夜、執り成しの祈りをしてくださったのです。この夜のキリストの祈りは、今の私たちにまでも包み込んでいる、ということです。

この夜の祈りの言葉は厳しいものでした。弟子たちは、この世に残されることになります。しかも、この世に生きながら、この世に属さないことを願っていらっしゃいます。「信仰をもって楽しく、この世で楽しく生を謳歌しなさい」、というのではありません。世に属することなく、天の宝を目指し、キリストに従いながらキリストを証しする厳しさを含んでいることがわかります。

キリストはこの時、祈りながらのちのキリスト教会、私たちの姿をご覧になっています。神とご自分が一つであるように、世の民もご自分と一つとなるように、と願われています。神と信仰の民が一つとなるところ、それこそ、まさに教会の姿ではないでしょうか。

キリストの使徒パウロは、教会のことを、「キリストの体」と呼んでいます。目や鼻や口、体の部分それぞれに役割があるように、教会で生きる一人ひとりには神から与えられた尊い使命があることを伝え、「体の中でほかより弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っています。そうやって、完全でない一人ひとりが集められ、キリストの御心を果たしていく共同体となるのです。

キリストの体の一部分として生きるとはどういうことでしょうか。それはキリストの救いのお働き、招きの御業の一端を僅かであっても担っていく生涯を生きるということでしょう。たとえ小さくても、キリストの福音を携えて生きる、ということです。そしてそれは、キリストと共に生きる喜びを抱いて歩み続けるということです。それがそのまま福音宣教の生涯となるのです。

普通は、「イエスは神のもとから遣わされた方だった、あの方は神だった」、と聞いても誰も信じないでしょう。しかし、キリスト者が神と共に生きる姿は、この世に向かう大きな問いかけとなります。教会の民が互いに愛をもって仕えあい、自分以上に大切な何かを抱いて生きているということが、この世に「キリストは生きてあなたを招いていらっしゃる」という大きな言葉となるのです。

17:22「あなたが下さった栄光を私は彼らに与えました」

キリストは、父なる神から受けた栄光をすべての信仰者と共にしてくださいます。教会は、神がキリストにお与えになった栄光を既にいただいているのです。その栄光とは、24節にあるように、天地創造の前からイエス・キリストが栄光です。

自分の姿を顧みて、「一体自分のどこに栄光を感じることができるだろうか」、と誰もが思うでしょう。しかし、教会の民の一員として過ごす私たちの一日一日は、キリストの体の一部として、キリストの働きをそれぞれが担わせていただいています。これは間違いないことなのです。

自分の無力さを嘆くこともあるでしょう。キリストのために、教会のために自分はどれほどのことができているだろうか、と考えることもあるのではないでしょうか。しかし教会が一番恐れ、嘆かなければならないのは自分の無力さではなく、教会の内に愛が無くなる、ということです。仲たがいや分裂をして神の栄光を映し出さないことです。教会がこの世のつまずきになることほど、愚かなことありません。

「互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」とキリストはおっしゃいました。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という命令です。キリストは弟子たちの足を洗われた後、「私があなた方を愛したように」とおっしゃいました。

これは、単なる道徳的な教えではありません。「キリストのように」愛する、ということです。友のために自分の命をお捨てになるイエス・キリストの愛に倣う、という命令です。それは、神と命を共にし、神の働きに自分を差し出すということです。

なんと厳しい命令だろうか、と思わされます。しかし、キリストは、おっしゃっています。

「私の言葉に留まるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

キリストが自分を愛してくださったように、互いに愛し合うこと、そこに真理があり、そこに本当の意味での自由があるのです。実はそのことが私たちにとって一番楽な生き方なのです。

私たちにとって、真理とは何でしょうか。本当の自由とは何でしょうか。「神、我らとともに在り」、インマヌエルという真理がキリストの御生涯を通して示されました。そして、神が共にいてくださるからこそ、私たちは罪の暗闇から解放され、自由とされています。

イスラエルの歴史は、解放を求める歴史でした。エジプトからの解放、バビロンからの解放。イスラエルの民をとらえてきたのは、罪の力でした。イスラエルは、いつでも、異教の偶像に心惹かれてしまい、罪の暗闇の中へと自ら足を運んでいきました。その先で待っていたのは、国の滅びであり囚われの生活でした。

そのような暗闇の中に、神は光をお見せになるのです。神から離れ、神を知らず生きる暗闇の中にあっても、まだ絶望ではありません。神はそのあなたに光の御手を差し伸べて、立ち返りの道を照らし、ご自身のもとへと招き続けてくださるのです。

11月2日の礼拝説教

 ヨハネ福音書17:13~19

イエス・キリストの最後の執り成しの祈りを読んでいます。

キリストがこの世を去って行かれると、キリストを拒絶する人たちとキリストを受け入れる人たちに分かれることになる、ということ、また、弟子たちをはじめ、イエス・キリストを受け入れ信じる人たちは、キリストを信じようとしない人たちから憎まれることになる、ということが、祈りの中で言われています。

キリストはこの祈りの中で、ご自分に従う人たちとのつながりを願い求めていらっしゃいます。キリストがこの後十字架で殺されても、弟子たちとのつながりはなくならないように。弟子たちがキリストの道を歩むようになり、キリストがそうであられたように、世から迫害され憎まれても、守られるように。

イエス・キリストは、弟子たちが自分たちを迫害してくる「この世」から離れたり、迫害が無くなったりすることを祈られておられるのではありません。弟子たちがこの世に留まり、迫害の中にあっても神の守りがあることを願っていらっしゃるのです。

キリストが弟子たちにお教えになった「主の祈り」の中に、「我らを誘惑にあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉があります。私たちがキリストからいただいた祈りは、「誘惑のないところ・悪のないところに生きる」ことではなく、「誘惑と悪に負けない」ことを願うのです。

弟子たちは「この世に属していない」、とキリストはおっしゃいます。しかし、弟子たちが生きるのは、この世のただ中なのです。この言葉遣いに注意したいと思います。弟子たち・信仰者は、「この世の中に生きながら、この世のものとはならない」のです。キリスト教会は、この世にあるが、この世には染まらない・・・そのような信仰の群れなのです。

私たちが生きるこの世は、誘惑にあふれています。「誘惑」というのは、私たちを神から引き離す力です。聖書はその力を「罪」と呼んでいます。罪は、神など信じることなく生きる道をいくらでも示してきます。信仰者をいろんな方向に導こうとして「神など信じることなく、この道を行けば、もっと自由になれるじゃないか」、という誘惑です。

私たちには、「この世」で迫害があるのなら、「この世」から離れて、「この世」と無関係に生きる道だってあるでしょう。「キリスト者が、信仰ゆえに苦しめられるのであれば、苦しめてくる相手と距離を取ればいい」、そう考えるのではないでしょうか。信仰者だけが集まって、閉鎖的に排他的に生きればいいではないか、という考え方もあるでしょう。

反対に、「この世」に迎合する、というやり方もあります。自分たちの信仰を攻撃してくる人たち、イエス・キリストのお名前を受け入れない人たちがいるのなら、その人たちと同じになる、ということです。そうすれば、もう信仰ゆえの迫害を受けなくて済むようになるのです。この世の楽しみを、キリストを知らない人たちと同じように楽しむ、という道です。

パウロの手紙に、「食べたり飲んだり仕様ではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という、死者の復活を信じない人たちの言葉があります。パウロは、それを受けて、「悪い付き合いは、良い習慣を台無しにする」と書いています。

しかし、イエス・キリストは私たちにそのようなことを望まれたのではないのです。私たちには、様々な誘惑があります。主イエスがそうであったように、私たちも、世にありながら、世に属してはいないのです。

神の言は、この世を照らす光でした。キリストは、おっしゃいます。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」

明らかな誘惑が教会にも、クリスチャン個人にも与えられます。この世と自分を切り離そうとする力、もしくは、自分を世と同化させようとする力は働いています。

しかし信仰者は、キリストの光に照らされて、この世の中で、隠れることができないのです。この世に来た光に、この世の暗闇は勝てないということを、私たちは身をもって示していくのです。だから、キリスト者は世の中にとどまって生きることが求められているのです。キリストはその私たちのために、その最期の時間を執り成しの祈りに使ってくださいました。

キリストはご自分の弟子たちを、また弟子たちに続いてきたキリスト教会の信仰者たちのためにこう祈られます。

「真理によって、彼らを聖なる者としてください」

「聖なる者」というのは、「区別された者」という意味の言葉です。神のためにこの世から特別に区別された者、ということです。

旧約聖書を見ると、祭司・預言者・王が神によって聖別されていったことが記されています。彼らが選ばれたのは自分たち自身のこの世の栄光のためではありませんでした。その人たちはこの世の栄光ではなく、ただ神の御計画のために働くためにこの世から区別されたのです。

預言者エレミヤが神に召された時、このように声をかけられました。

「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別して、諸国民の預言者として立てた」

当時まだ二十歳前後だったエレミヤは答えます。

「ああ、わが主なる神よ、私は語る言葉を知りません。私は若者にすぎませんから」

エレミヤは神によって聖別されたことを恐れました。自分にはできない。若く、経験もなく、語る言葉も蓄えていないことをよくわきまえていたのです。

しかし、神はおっしゃいました。

「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを、誰のところへ遣わそうとも、行って私が命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」

エレミヤが神によって聖別されたのは、エレミヤが優秀で、素晴らしいことをしたそのご褒美としてではありませんでした。なぜ預言者に選ばれたのか。その選びの理由はわかりません。ただ、神はエレミヤにお決めになっていた、ということでした。エレミヤがどうあがこうが、嫌がろうが、神はエレミヤを召し出されたのです。

エレミヤが預言者として聖別されたのは、この世での幸せのためではありませんでした。ただ、神の御心のために働くため、ただ、神の言葉を人々に伝えるためでした。エレミヤが若者にすぎなくても、言葉をもっていなくても、彼は神の器として、その時その時語るべき言葉が神から与えられることになっていたのです。

エレミヤは預言者として苦しみました。神の言葉を伝えても、人々は自分を馬鹿にするのです。エレミヤがどれほど苦しんだか、彼は告白しています。

「主の言葉のゆえに、私は一日中、恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上ります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。私の負けです。」

エレミヤは神に訴えました。「もう無理です」。それでも自分の体の内から神の言葉がわきあがってきて、押さえつけられず「私の負けです」、と自分に与えられた使命を果たす道を歩み続けました。

エレミヤは、敵国バビロンに降伏するよう訴えると、売国奴として捕らえられてしまいます。バビロンが攻めて来てもう国の滅びが決定的になったとき、エレミヤはこれまでとは全く違う、「バビロン捕囚の先にある解放」という、救いの預言をすることを求められました。

彼はバビロンにエルサレムが滅ぼされるのを見ました。そして、エジプトに行って再起を図ろうとする人たちに無理やりエジプトまで連れて行かれてしまいます。エレミヤは、そこで偶像礼拝を始めた人たちを非難しなければなりませんでした。

イスラエルの偶像礼拝の罪を糾弾し、イスラエルの滅びを預言しなければならなかったエレミヤの預言者としての40年は、どれほど辛かったでしょうか。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれています。

神に聖別される、ということは、こういうことなのです。神から特別に地上の栄光を与えられて人々からの尊敬を受けるようなことではありません。ただ、神の御用のために、この地上から区別される、ということです。

主イエスはこの祈りの中で、弟子たちが聖別されるようにと願われました。つまりそのことは、キリスト教会である私たちも、この世から聖別されることを願われた、ということでもあります。

預言者エレミヤのように、神のために自分を差し出す中で、涙を流さなければならないこともあるかもしれない。キリストはその一歩のために、執り成して祈って下さるのです。

教会の迫害者であったパウロが、キリストの使徒として選び出される際、神はおっしゃいました。 Continue reading

10月26日の礼拝説教

 ヨハネ福音書17:7~12

弟子達への告別を終えて、イエス・キリストは弟子たちの前で神に向かって祈られました。キリストはこれから世を離れて行かれます。この17章の「大祭司の祈り」と呼ばれているイエス・キリストの最後の祈りは、父なる神に向かって祈られた言葉であり、同時に、最後に弟子たちにお聞かせになった祈りの言葉でもあります。

これは神とイエス・キリストの間だけで完結する祈りではありません。この後世に残され、神がキリストに託され、これからキリストが彼らに託されることになる使命を担っていく弟子たちが聞かなければならない祈りの言葉でした。

この夜、弟子達はただのおびえた小さな集団でした。自分たちに託された福音宣教の使命がどれだけ重いものなのか、まだわかっていません。自分たちの先生が自分たちのもとから去って行く悲しみのせいで、この夜、自分たちが言われたことの本当の意味はまだとらえきることができていません。

しかし、その弱く小さな11人こそ、これからこの世をひっくり返す宣教の業を続けるキリスト教会の核となっていった人たちでした。そうして見ると、私たちが今日読んだこのキリストの祈りは、後のキリスト教会を勇気づけ、励まし、歩む道の正しさを教える力となっていったことが分かります。

6節でキリストは弟子達のために何をなさったのかをおっしゃっています。

「世から選び出して私に与えてくださった人々に、私は御名を現わしました」

キリストは「神のお名前を弟子達に現わした」とおっしゃっています。「神の名前を知る」とはどういうことなのでしょうか。

それはただ、「この神様の名前は〇〇だ」と、知識として神の名前を知る、というだけのことではありません。聖書で言われている「神の名前を知る」というのは、自分の祈りをどこに持っていけばいいか、自分の心をどこに据えて生きればいいのかを知る、ということです。

「神を知る」、ということは、創造主を知り、最後の審判における裁き手を知る、ということですので、自分の命の源を知り、自分の命がどこに向かっているのかを知る、ということでもあります。

キリストが「神の御名を現された」、それはつまり、本当の意味で自分の命を知る喜びを世に示されたということです。「神の御名を知る」ことによって、人は世界・自然・他者に対して、そして自分に対してどうあるべきか、という姿勢を作り上げるのです。

なぜ人は、神という存在を捨てることができないのでしょうか。「神などいない、神など必要ない」と言っている人でも、その存在を全く無視して生きることはできません。特に、自分の死と向き合うとき、神という存在を通して自分の命に向き合わされることになります。

この世でどれだけ財・力をもったとしても、祈ることも知らず、この世の富・世の栄光にしか自分の心を据えることができないのであれば、ある時、何も見えなくなってしまうのです。ある時突然空しさと退屈に襲われるのです。

旧約聖書では「神のお名前を知る」ということの大切さが強調されています。

詩編9:11「主よ、御名を知る人はあなたに寄り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない」

詩編20:8「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは我らの神、主の御名を唱える」

これらの詩編に残されたイスラエルの祈りから分かるように、「神のお名前を知る」ということは、「神への信頼に生きる」ということなのです。この世で自分が持っているどんな力よりも、頼るべきものがあることを聖書は教えてくれています。

私たちがキリストからこう祈るように、と命じられた「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように」という言葉から始まります。

「御名があがめられますように」というのは、「あなたのお名前が聖なるものとされますように」という意味の言葉です。「聖なるものとされる」、というのは、「区別されますように・大きくされますように」という意味です。

神のお名前がこの世の何からも聖いものとして区別されること、そして神のお名前がこの世の中で大きくなること、すべての人に知られること、私たちは祈り願います。簡単に言ってしまえば、世のすべての人が真の神を知り、礼拝するようになることを願っているのです。

イエス・キリストが「世から選び出して私に与えてくださった人々に、私は御名を現しました」とおっしゃったということは、弟子たちに、神のお名前、神の存在をしっかりと伝えきった、ということです。

キリストが世に来られたのは、このためでした。神のお名前を世にお伝えになるためです。そしてキリストはこの夜、ご自分こそが、「道であり、真理であり、命である」と弟子たちにおっしゃいました。

神のお名前はこの方のもとにあるのです。この方を求めることこそ、行くべき道を歩むことであり、求めるべき真理を知ることであり、本当の意味で「生きる」ということなのです。

キリストはこれまで、私は〇〇である、とおっしゃってきました。「私は命のパンである」「私は世の光である」「私は真のブドウの木である」という風に、ご自分を何かになぞらえてご自分が何者であるかを話してこられました。

キリストはご自身を通して、「弟子達にとって神がどのような存在であるか」ということを示してこられました。命のパンとして人を生かし、世の光として生きる道を照らし、真のブドウの木として立ち返るべき場所を示してこられました。

そして今、キリストは「私は御名を現しました」とおっしゃいます。弟子たちは少なくとも、自分たちを生かすもの、自分たちの道を照らすもの、自分たちが立ち返るべき場所を教えられたのです。

「神の御名を現す」それは、イエス・キリストがご自身を現される、ということでした。キリストをどう見るか、どう向き合うか、ということが、私たちの生き方を決めていくと言っていいのです。

このキリストの祈りは、やがて弟子達の祈りとして引き継がれていくことになります。この夜のキリストの祈りは、教会の祈りとなって今の私たちまで受け告がれているのです。私たちが今日読んだこの17章のキリストの祈りは、私たちの祈りでもあるのです。

キリストが弟子たちのために執り成しの祈りをされたように、私たちもキリストから教えていただいた神のお名前、真の神の存在を世に伝え、世のすべての人たちのために執り成していきます。

キリストは神を、「聖なる父」と呼ばれています。先ほどもお話ししたように、「聖なる」というのは、区別されている、という意味の言葉です。私たちは、神のことをどれだけ生活の中で特別に「区別」しているでしょうか。この世の何よりも聖いものとして「区別」しながら生活しているでしょうか。神のお名前が私たちにとって尊いのは、神のお名前によって私たちが守られているからです。

「私は、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、私は身元に参ります。聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。」このようにキリストは祈っていらっしゃいます。キリストは神の聖いお名前の内に、弟子達を守って来られたのです。

箴言18:10にこうあります。

「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。」

キリストは、ご自分のことを「よい羊飼い」とおっしゃいました。「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」「私はあなた方をみなしごにはしておかない」

「神の御名を知る」、ということは、その大牧者イエス・キリストの守りに生きる、ということなのです。

弟子達は、イエス・キリストが神の元から遣わされた方であると信じました。そしてキリストは弟子たちのことを祈りの中でこうおっしゃいます。

「世から選び出して私に与えてくださった人々」

キリストの弟子達は神が選び出してキリストにお与えになった人たちだ、とおっしゃいます。弟子達は、自分でイエスという方を先生に選んだと思っていたでしょう。しかし実際は、彼らは神によって世から選び出され、キリストに与えられた人たちでした。

私たちはどうでしょうか。何か偶然のきっかけがあって、キリストを自分で選んだのでしょうか。私たちは自分の力で神を探し出し、信仰を獲得したのではないのです。実は、私たちが神を知る前に、神は私たちを知ってくださっていて、ご自分のものとしてくださったのです。私たちの思いを超えた、神による選びの不思議がここにあります。 Continue reading

10月19日の礼拝案内

 ヨハネ福音書17:1~5

ヨハネ福音書17章には、イエス・キリストの祈りの言葉が記録されています。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とあります。弟子達と過ごす最後の夜、イエス・キリストは語るべきことを全て語り終え、弟子達の前で祈りの言葉を紡いでいかれました。

聖書には、語るべき言葉をすべて語り終えた人が、祈りをささげるという姿が記録されています。たとえば、創世記では、イスラエルと呼ばれるようになったヤコブが、自分の12人の息子たちに遺言を伝え、それが終わると、 12人一人ひとりに祝福の祈りを捧げたことが書かれています。

モーセも、イスラエルの民をエジプトから救い出した後語るべき神の言葉をすべて伝えた後、祝福の祈りを捧げたことが申命記に記されています。

イエス・キリストも同じように、この世で語るべき言葉をすべて弟子達に残された後、世に残されることになる弟子達のために祈られました。その祈りの言葉を、弟子たちは聞いたのです。そして、弟子たちはそのキリストの祈りに加わり、キリストと共に神に祈ったでしょう。

イエス・キリストは弟子たちのために、そしてこの弟子たちに続くすべての信仰者のために、祝福を願って祈りをささげてくださいました。弟子たちがこの祈りに加わったように、私たちもこのキリストの祈りに連なります。そのように考えると、これは、私たちの祈りであると言っていいのではないでしょうか。

今日私たちが読んだこの17章のイエス・キリストの祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれたりもしています。大祭司は、神と民との間に立って仲立ちをする役割を担う人です。この17章の言葉を見ますとイエス・キリストはまさに大祭司の立ち位置で祈っていらっしゃいます。この後世に残される弟子たちのために、そしてそのあとに起こることになる信仰者の群れ・教会のために祝福を執成してくださっています。

ヨハネ福音書には、現在私たちが「主の祈り」と呼ばれている祈りの言葉そのものは書かれていません。しかし、このキリストの「大祭司の祈り」は、「主の祈り」と内容がとても似ています。

父なる神のお名前があがめられることが強調されています。神の業が天で行われるように、地上でも同じように行われることが願われています。そして、弟子達が世の悪しきものから救われることが求められています。この「大祭司の祈り」と呼ばれるキリストの祈りの中には、「主の祈り」で祈られている要素がしっかりと詰まっているのです。

この祈りの内容は、大まかに捉えると、三つの単純な願いとなっています。

「父よ、子に栄光を与えてください」

「父よ、あなたのお名前によって彼らをお守りください」

「父よ、彼らが私と共にいるようにしてください」

この世がイエス・キリストの栄光を知り、信仰者たちが守られ、そしてキリストと共に生きることができるように、というのが、この祈りの柱です。それはまさに、「主の祈り」で祈られていることと全く同じではないでしょうか。私たちにとって、これほど大切な、そして恵みに満ちた祈りの言葉はないのではないでしょうか。私たちのために死んでくださる方が、ご自分の死を前にして、ご自分を殺す者たちのために執り成してくださっているのです。

私たちは普段どのように祈っているでしょうか。自分の願いを神に訴えることは割と簡単にできるでしょう。しかし、祈りを通して、誰かを許す痛みを、そしてその痛みに勝る「キリストに許された」という圧倒的な恵みを、どれだけ感じながら祈っているでしょうか。自分の祈りの原点として、私たちはこのキリストの最後の祈りの言葉に向き合いたいと思います。

さて、キリストの祈りの最初の言葉は、「父よ、時が来ました」でした。これまでキリストは、「まだ私の時は来ていない」とおっしゃってきました。しかし、弟子達に全ての言葉を聞かせ、全ての業をお見せになった今、「時が来た」とおっしゃるのです。

「父よ、時が来ました」、この言葉によって、キリストの地上での福音宣教が終わったことが分かります。あとは、イエス・キリストご自身が天から神によって遣わされた神の子としての栄光を受けるだけのところまで来た、ということです。

ワインを水に変えたことも、盲人の目を癒されたことも、ラザロを墓から生き返らせたことも、全て、ご自分には神の権威があり、神の栄光をもっていらっしゃることを示すものでした。

旧約の預言者も、まさにこの「時」のことを預言してきました。

イザヤ書40:5「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」

預言者イザヤは、神の栄光が全ての肉なるものに示される時を見据えていました。天にいらっしゃる神は、地上に生きる肉なる存在の自分たちの目には見えない、観ることができないと皆思っていました。

しかし、主の栄光が私たち人間の肉の目に見せられる時が来る、とイザヤは預言していたのです。それこそ、イエス・キリストの十字架の時でした。神と共に世の初めからいらっしゃった方が世に人間としてお生まれになり、言葉と業を通して、私たちの目に、神の栄光を見せてくださったのです。

また、預言者ハバククは、こう預言しています。

2:3「たとえ、遅くなっても、待っておれ、それは必ず来る、遅れることはない・・・水が海を覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる」

まさに、聖書は、預言者たちの預言の実現を記録しています。「父よ、時が来ました」とキリストがおっしゃったのは、イザヤが言った「主の栄光が肉の目に見せられる時」の実現です。そしてハバククが言った、「大地が主の栄光の知識で満たされる時」の到来なのです。

1世紀のキリスト者たちは、イエス・キリストの十字架こそ、預言者たちが残した言葉の実現であったと知りました。無実の罪で十字架に上げられたそのお姿は、世の罪を全て背負って死なれた神の子の栄光の姿でした。イエス・キリストの十字架の死という最大の謎を通して、神は深い救いのご計画をお示しになったのです。

一番弟子のペトロは、後に手紙の中でこう記しています。

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」1ペトロ2:25

イエス・キリストの十字架、それこそ、神が世の罪の許しを示された場所であり、神から離れて生きていた我々が立ち返る場所なのです。

イエス・キリストは、祈りの中で、「永遠の命」について語っていらっしゃいます。ヨハネ福音書では、「永遠」とか「命」という言葉が多く使われていますが、我々にとって、「永遠の命」は神秘です。

「永遠の命」という言葉の意味は、それを聞いただけで分かります。しかし、それが本当に一体どういうものか、ということについては、よくわからないのです。「永遠」とは何か。終わりのない時間だ、ということは分かりますが、永遠の命となると、自分の理解を超えた言葉になるのではないでしょうか。

イエス・キリストは祈りの中で「永遠の命」の定義についてこうおっしゃっています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」

「永遠の命」と聞くと、永遠という時間的な長さの方にばかり意識が行きます。「想像もつかないほど長く生きること」というイメージでとらえがちだが、そうではないのです。時間の長さではなく、それがどのような時間なのか、ということに目を向けなければならないのです。神を知り、キリストを知って生きる命、それが「永遠の命」なのです。

逆に言えば、神を知らなければ、キリストを知らなければ、どんなに長く生きても「永遠の命」と呼ぶことはできないのです。そして、どんなに自分の生涯が短いとしても、神を知りキリストを知って生きたなら、肉体の死の先にも神とキリストとの結びつきは消えることがないのです。

イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれます。インマヌエル、神我らと共にあり、という意味の言葉です。「神我らと共にあり」という真理は、壊れることはないのです。それは、肉体の死を超えて、それが永遠に続く恵みなのです。キリストを知る、ということは、永遠の命を知る、ということであり、永遠の命を知るということは、キリストが永遠に私と共にいてくださるという真理を知ることなのです。

イエス・キリストはこの祈りの中で、父なる神、神の子イエス・キリスト、そして我々信仰者が一つとなることを願われています。我々がキリストと一つとなるということは、自分がキリストになる、とか、自分をキリストと名乗ることができるようになるとかいうことではありません。

キリストと同じ使命を抱く、ということでしょう。神がキリストを世に送られたように、私たちも世に送られるということです。だからキリストは「あなたがたには世で苦難がある」「世が私を憎んだように、あなたがたをも憎むようになる」と弟子たちにおっしゃったのです。 Continue reading

10月12日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:25~33

イエスキリストと弟子たちが過ごされた最後の夜の場面は、ヨハネ福音書13章から17章にかけて描かれています。かなりの分量です。13章で、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたことが描かれ、17章ではイエスキリストの最後のとりなしの祈りの言葉が記録されています。その間にある14章から16章までの言葉が、直接イエス・キリストが弟子たちに語られた告別の言葉ということになります。

その14章から始まるキリストの最期の言葉は「心を騒がせるな」という一言から始まります。弟子たちの心は騒いでいました。先生がなぜ自分たちの足を洗ってくださったのか、弟子たちは戸惑いました。

ペトロは「師であるあなたが弟子である私たちの足を洗われるのですか」とはっきり言いました。その時の主イエスの答えは、「今私がしていることはわからないだろうが、後でわかるようになる」でした。そしてそのまま、一人一人の弟子たちの足を洗い、拭って回られたのです。

自分たちが今、何か特別な時間を過ごしている、ということを弟子たちは感じたでしょう。心を騒がせ、戸惑い不安になる弟子たちに向かって、イエス・キリストは「これから私と君たちは離れ離れになる」とおっしゃり、同時に、「けれども大丈夫だ」とおっしゃいます。

今日私たちは、14章から続くキリストの言葉の最後、16章の最後のところを読みました。イエス・キリストの弟子たちへ教えのまとめ・集大成ともなる言葉です。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」

心騒がせる弟子たち、また生きる不安を抱える信仰者たちにキリストはこの言葉を残してくださいました。

生きる中で逆風を感じる時、いつでも私たちの心は騒ぎ不安になり戸惑うのです。右を見ても左にいてもイエス・キリストの姿は直接見えません。キリストの存在を感じられない時、「自分は一人なのだろうか。神に見捨てられたのだろうか。キリストは自分に背を向けられていらっしゃるのだろうか」と不安になるのです。

この夜の弟子たちこそ、生きる中で不安を抱えた信仰者たちの姿そのものではないでしょうか。そして、そのような信仰者たちにとって、一番必要な言葉がこのイエスキリストの言葉なのです。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

聖書は「神我らと共にあり」というインマヌエルの喜びを伝えています。インマヌエルという真理こそが、聖書が全体を通して今の私たちに伝えようとしている福音・喜びの知らせなのです。

何か生き方に迷った時、何か悲しむべきことが起こった時、私たちの信仰の足元は揺らぎます。簡単にぐらつきます。イエス・キリストの歴史を見ると、目に見える神を求めて繰り返し偶像礼拝に走ったことがわかります。

私たちだって、何か不安なことがあれば目に見えてわかりやすい救いを求めるのではないでしょうか。そのような闇の中でこそ、イエス・キリストのこの言葉は福音の光として輝くのではないでしょうか。

「神我らと共にあり「イエス・キリスト我らと共にあり」

既に世に勝っていらっしゃる方が、世で苦難を生きる私たちと共にいてくださる、という約束が与えられています。

この約束をもって、キリストは弟子たちへの告別の言葉を締めくくられました。主イエスの弟子たちへの最後の言葉は励ましの言葉でした。

今日読んだ最初のところで、「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた」とおっしゃいました。確かに、主イエスはこれまでいろんな例えを用いてご自分が何者であるかということを示してこられました。

「私はまことのぶどうの木。あなた方はその枝である」

「私は良い羊飼いであり、良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」

「私は羊の門である。誰もこの門から入らなければ救いに至ることは出来ない」

しかし、この夜、弟子たちとの最後の別れに際して、主イエスはもうたとえを用いない、とおっしゃいました。もう弟子たちに何も隠しておく必要はないのです。キリストははっきりおっしゃいました。

「私は父の元から出て世に来たが、今世を去って父のもとに行く」

このように直接はっきりおっしゃったので、主イエスがこれから死ぬことになることが弟子たちも現実味を帯びて伝わったでしょう。

弟子たちは答えます。

「今は、はっきりと話になり少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で誰もお尋ねする必要のないことが今分かりました。これによってあなたが神の元から来られたと私たちは信じます」

弟子たちははっきりと、「この方こそ神の元から来られた方である」と信じました。

弟子たちの信仰告白と言っていい言葉です。しかし、これに対してイエス・キリストは、不思議な言い方をされています。

「今ようやく、信じるようになったのか」

私は一生懸命あなた方に私が何者であるかを伝えてきたけれども、ようやくここにきてやっとわかったのかという、キリストが弟子達の無理解に呆れていらっしゃるようにも聞こえる言葉です。しかしこの言葉は、元の聖書のギリシャ語を見ると、もっと単純な言葉です。

「今、あなたたちは信じるのか」

ようやく信じるようになったのか、という弟子たちの無理解を責めるような言葉ではありません。むしろ弟子たちが今、きちんと信じている、ということを確認されている言葉です。

そして、この言葉は、今の信仰は、次の瞬間どうなるだろうか、というキリストの思いを含んでいます。「今確かに君たちは私のことを信じている。しかしこのあとはどうだろうか」という意味合いの言葉なのです。

イエス・キリストはこの後十字架の上で孤独な死を遂げられることになります。しかしその十字架の前で一体何人の弟子たちが立っていたでしょうか。今、「あなたは神の元から来られた方です」とはっきり信仰告白をした弟子達は、この夜の内に主イエスの逮捕を見て、逃げていくことになるのです。

旧約の預言者ゼカリヤがこういう言葉を残しています。

「羊飼いを撃て。羊の群れは散らされるがよい」

真のイスラエルの羊飼い、良い羊飼いであるイエス・キリストはこの後、文字通り撃たれるのです。鞭で、釘で、十字架へと打たれていきます。そして、主イエスの羊である弟子達は散り散りに逃げ去ることになります。ゼカリヤの預言は実現するのです。

「今、あなたたちは信じるのか」

このようにおっしゃるキリストはどのようなお気持ちだったのでしょうか。主イエスは弟子たちがご自分を見捨ててしまうことを既にご存知でした。それでも今この瞬、弟子たちが自分を信じてくれているということを喜ばれたのではないでしょうか。 Continue reading

10月5日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:16~24

イエス・キリストは弟子たちとの最後の夜、これから弟子たちにこの世からの迫害があることをおっしゃいました。そして同時に、聖霊の注ぎによって弟子たちが担っていく信仰が、この世を真理へと導いていくこともお伝えになりました。

信仰者のこの世での信仰生活が、聖霊の働きによってこの世全体をイエス・キリストへと向かわせていくということは、今を生きる私たちの信仰生活に大きな希望を与えてくれるのではないでしょうか。

この夜語られたイエス・キリストの弟子達への告別の言葉は、新しい出発に備えるように、という励ましでした。主イエスはこの後、弟子達から離れて行かれることになります。しかし、それで全てが終わりではないのです。その先にも弟子たちには歩むべき道がきちんと用意されているのだから希望を捨ててはならない、ということが語られました。聖霊の働きによって、弟子たちの信仰がこの世に希望をもたらすことになり、彼らの信仰がこの世を神の支配へと導くことになるのです。

しかし当然、この夜それを突然言われた弟子達は戸惑い、心が騒ぎました。主イエスがおっしゃっていることの意味が分からなかった弟子たちは、代わる代わる質問しました。ペトロが、トマスが、フィリポが、イスカリオテでない方のユダが、順番に質問しました。

「どこに行かれるのですか」「おっしゃっている道というのがわかりません」「御父を示してください」「どうして私たちだけにおっしゃるのですか」

主イエスは一つ一つそれらの質問にお答えになりましたが、今日読んだところを見ると弟子たちはやはり主イエスが何を伝えようとなさっているのか最後まで理解できなかったようです。

17節を見ると、弟子たちは互いに言い合っています。

「『しばらくするとあなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのかわからない」

混乱する弟子たちでしたが、主イエスにとっては、この時はそれで良かったのです。この夜、理解できなくても、後々、弟子たちが歩んでいく信仰の道の上で、この夜キリストから告げられた言葉を思い出し理解して行くことになるからです。

私たちも、その時はわからなかったけれども、今になって与えられていた神の導きに気づく、ということがあるでしょう。私たちの信仰がそうであるように、弟子たちにとっても、この夜は真の信仰の歩みへと続く途上だったのです。

主イエスは「しばらくすると」という言葉を何度も繰り返していらっしゃいます。今日読んだところの中でも7回繰り返されています。

弟子たちがこれから通ることになる信仰の苦難の時、つまりイエス・キリストとの別れと一生涯にわたるイエス・キリストの証する苦難の先で彼らは喜びが与えられることになることを約束されているのです。

「しばらくすればあなた方の悲しみは喜びに変わる」とキリストはおっしゃいます。「しばらくすれば」です。弟子たちこの主イエスがおっしゃる「しばらく」がどれぐらいの期間なのかが分かりませんでした。

信仰者であれば、「その『しばらく』というのはどれぐらいの期間なのか」と知りたいと願うでしょう。数日なのか、数年なのか、知りたいと願います。しかし、それは私たちにはわかりません。それはキリストにお任せしておけばいいのです。

主イエスは「今しばらく」という言葉をこれまでも繰り返してこられました。7章33節を見ると、ファリサイ派の人々が主イエスを捕らえるために下役たちを遣わした時のことが書かれています。

主イエスは下役たちにおっしゃいました。「今しばらく私はあなた達と共にいる。それから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは私を探しても見つけることがない。私のいるところにあなたたちは来ることができない」

人にはわからなくても、イエス・キリストはいつでも、すべてをご自分の支配の内に時を備えて救いの御業を進めていかれるのです。

主イエスがおっしゃっているのは何のことなのでしょうか。「しばらくの間」とここでおっしゃっているのは、どれだけの時のことなのでしょうか。「父のもとに行く」とはどういうことなのでしょうか。

これは間違いなく、主イエスが死に向かっていらっしゃるということを意味していました。それだけでなく、主イエスがここでおっしゃっているように、この世は主イエスの死を喜ぶということもお分かりでした。

それは弟子たちにとってはこれ以上ない痛みでした。そんなことを想像するのも嫌だったでしょう。主イエスが殺されるというのであれば、自分たちがここまで従って来たのは一体何だったのか、という思いになるでしょう。

しかしだからこそ主イエスは、「その痛みはやがて喜びに変わる」と前もって断言されるのです。「だから、来たるべき私の死について備えるように」、と強調されるのです。

「あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむがその悲しみは喜びに変わる」

私たちは、この後イエス・キリストが十字架に挙げられることを知っています。キリストの死を見てキリストの母マリアやマグダラのマリアは泣きました。しかしキリストの墓の外に来たマリアはふたりの天使から告げられます。「婦人を何故泣いているのか」

キリストの復活を告げられたマリアの悲しみの涙は喜びの涙へと変えられました。

痛みが喜びに変わる、と言う信仰の実りのことを、キリストは出産に例えていらっしゃいます。子供が生まれた喜びのために、それまでの苦痛は喜びに取って代わられるということ・・・信仰の痛みは、必ず信仰の喜びとなって実を結ぶのです。

詩編126編にこう歌われています。

「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる」

私たちの信仰生活はここまでどうだったでしょうか。

分かりやすい実りだったとは言えないと思います。キリスト教信仰をもっていたから、わかりやすい「ご利益」があった、というようなものではなったでしょう。

むしろ、信仰の危機の中を歩んできた。その中で、痛みも悲しみもあったけれども、振り返ると、神はそれを恵みへとつながる道へとしてくださっていた、と思える・・・そのような歩みだったのではないでしょうか。

信仰の痛みが、喜びへと変えられることになる、という恵みが、この夜、弟子たちに与えられた約束でした。普通は、信仰にそのようなことは期待しないのではないでしょうか。

神を信じたことで痛みがある、世からの憎しみが自分に向けられる、というのであれば、普通は信仰を求めたりはしないのではないでしょうか。反対に、「信じたらこんないいことがある、こんな利益がある」、ということを聞いた方が信じたくなるでしょう。

しかしキリストははっきりと、信仰による苦難を予告されます。そして、その信仰の苦難が、確かに弟子達にとって、また私たちキリスト者にとって、喜びへと変えられていくという逆説的な恵みを約束なさいます。

確かに、旧約聖書に出てくる預言者たちを見ても、新約聖書に記録されている使徒たち、教会のキリスト者たちを見ても、神の言葉を世に伝えるためにどんなに険しい道を歩んだか、ということが書かれています。

しかし、神に召された信仰者たちは、信仰の道を歩くのをやめませんでした。

アブラハムが息子イサクをささげるよう神から命じられた時、アブラハムは約束の地モリヤへとまっすぐに歩いた姿は印象的です。

生まれ故郷から召し出されて、様々な苦難を経たアブラハムは最後に、独り息子のイサクをいけにえとしてささげるよう言われ、何も言わず息子と二人で三日間旅をするのです。その三日の道のりはまさに信仰の試練、信仰の苦難でしょう。神を信じるからこその痛みでした。 Continue reading

9月28日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:8~15

イエス・キリストの最後の夜、弟子たちは確かにキリストから告別の言葉を受けました。はっきりと何度も「私は去ってゆく」とキリストがおっしゃるのを聞きました。

弟子たちは、「先生はどこに行かれるのだろうか」「自分たちは先生と一緒のところに行くことができないのだろうか」と考えました。そして弟子たちが一番恐れたのは、「先生がいなくなった後、自分たちはどうなるのだろうか」ということだったでしょう。

その不安を抱えていた弟子たちに、キリストは「実を言うと私が去っていくのはあなた方のためになる」とおっしゃいます。キリストが弟子たちの元から去っていかれた後、天からの弁護者が送られる、つまり聖霊が注がれることになる、「だからそれはいいことなのだ」とおっしゃいます。

今日私たちはイエス・キリストがこの世を去られたあと遣わされる聖霊の働きについて語られているところを読みました。

「その方が来れば」、つまり聖霊が来れば、罪について、義について、また裁きについての誤りを明らかにするとおっしゃっています。

私たちはこの言葉を通して、聖霊の働きについて教えられることになります。キリストはご自分がいらっしゃらなくなった後、この世は2種類の人に分けられることをおっしゃいました。

ぶどうの枝が幹につながっているように、イエス・キリストにつながりキリストに従って生きる人たち。そして、キリストにつながることをせずキリストを信じる人たちに敵対する人たちです。

イエス・キリストがここで語っていらっしゃる聖霊の働きを読んで面白いのは、聖霊は信仰者だけでなく、信仰者を迫害する人たちに対しても働きかけていくということなのです。

私たちは考えたいと思います。

聖霊が来て、この世の罪について、義について、裁きについて誤りを明らかにしてくださるのであれば、もう安心だ、と弟子たちは思えたでしょうか。私たち自身、聖霊によって罪や義や裁きを明らかにされると聞いて、単純に喜べるでしょうか。

手放しには喜べないと思います。聖霊の裁きの内側に、私たちの罪、私たちの義も置かれるからです。洗礼を受けていない人たちに聖霊の裁きは向かう、というのであれば、少しは安心できるかもしれません。

しかし、聖霊が世に与えられ、その聖霊は自分にも向かってくると言われているのです。

普通は、「信仰を通して自分には聖霊が与えられる」、と聞けば、信仰を持つことによって聖霊が自分を悩みや苦しみを引き離してくれるのではないか、楽な生き方が与えられるのではないか、と期待するのではないでしょうか。信仰者だけに働きかけて、信仰者だけを導いて、いつも笑顔でいられるようにしてくださる、ということを期待し、願うのではないでしょうか。

しかし、それは違うのです。

聖霊は信仰を持っている・持っていないにかかわらず、世の全ての人に自分の罪に向き合うことを求めるのです。神と自分の関係が本当に正しい状態にあるかどうかを突きつけるのです。そして、あなたも、キリストを十字架に上げたあの群衆の中にいたのだ、と気づかせるのです。

キリストがおっしゃる聖霊の働きに、私たちはむしろ緊張するのではないでしょうか。自分の罪について、義について、裁きについて、誤りが明らかにされるというのであれば、私たちのうち一体誰がキリストの前に立たされた時、顔を上げることができるでしょうか。

聖霊の働きとは、まず、私たちを断罪するところから始まるのです。そしてそうやって、イエス・キリストを見たことのない人たち、その十字架も復活も知らない人たちに、どこに許しがあるのかを示し、信仰の入り口の前に立たせるのです。

弟子達はこの夜、「先生がおっしゃっていることが理解できない」、と心の中で思っていたでしょう。

キリストもそのことはご存じでした。だからおっしゃるのです。

「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」

面白い言葉ではないでしょうか。そして、とても大切な言葉だと思います。弟子たちは今、理解できていない。それにもかかわらず、キリストは語り続けて行かれます。しかしそれでいいのです。

今の無理解の中にあってもキリストの言葉は与えられ、その無理解の先には、聖霊が全てを悟らせてくださる時が備えられている。そのこと知っているだけでいい、それが大事なのです。

「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」

この夜、弟子達が学ばなければならなかったのは、聖霊に対する希望でした。すべて理解する必要はない。ただ、希望がある、ということだけを知っていればいいのです。そして後になって、「あの時キリストがおっしゃったことは、これだったのか」と感謝の祈りを捧げればいいのです。

「自分たちの先生がこれから去って行かれることは、すべての終わりではない。逆に、自分たちは今から何か新しいことの始まりに立ち会おうとしている」、このことを知っていればよかったのです。

目の前から先生がいなくなれば信仰の終わり、ということではありませんでした。私たちにとっても、自分にはキリストの姿が見えないから希望が見えない、ということではないのです。

聖霊を通してイエス・キリストと共に生きる道へと導き入れられるのです。そして、弟子達は、また私たち信仰者は、聖霊を通してイエス・キリストの御業を行っていくことになるのです。

信仰の終わりなどというものは無いのです。信仰の希望に壁はないのです。常に、神が、聖霊を通して、信仰者には見えない、一歩先で何かを見せようと用意してくださっています。

思えば、不思議ではないでしょうか。教会は、今でもイエス・キリストの体としてキリストの御心をこの世で行っていこうとします。世代が替わってもそのことは変わりません。決して楽な歩みではありません。礼拝ごとに新しくキリスト者の人数が増えていく、などという単純なものではありません。むしろ、逆風を感じることのほうが多いでしょう。

この夜、キリストの言葉を聞いた弟子たちは、もう今は生きていません。イエス・キリストの十字架と復活という出来事を実際に見た人たちも、はるか昔に死にました。弟子達からキリストについての証言を直接聞いた人たちももういないのです。

それでも、キリスト教会はここまで2000年、立ち続けてきました。その時代、その時代のキリスト者たちの努力もありましたがそれ以上に、人々をキリストへと導き、人々をキリストの体である教会へとつなぎ留め、キリストの業を行わせてきた聖霊の働きがあったからです。

キリスト者が希望を見失いかけた時でも、聖霊は見えないところで動き続けていました。

私たちが聖書を読んでいて、一番よくわからないのが、「聖霊の働き」というものではないでしょうか。私たちの理解や常識を超えた働きを感じた時、「聖霊の働き」としか呼べないものを感じます。

しかし、ここでは、キリストははっきりと、聖霊が何をするのか、おっしゃっています。

「罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」

まず、聖霊が明らかにする「世の罪」とは何でしょうか。この「罪」という言葉は、「過ち」とか「犯罪」という意味もありますが、ここでは霊的な意味で、神に対する罪を指しています。人に対して犯した犯罪・悪事ではなく、神に背を向けること、神を知らないこと、神から離れていることです。

キリストは、ご自分に詰め寄ってくるユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたたちのうち一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属するものは。神の言葉を聞く」 Continue reading