ヨハネ福音書13:31~38
13章の最後のところを読みました。13章の最後ですので当然このあと14章を読んでいくことになります。ヨハネ福音書の14章からは17章にまで続くイエス・キリストの最後の別れの教えと祈りの言葉が記録されています。今日私たちが読んだところは14章からのイエスキリストの弟子達への最後の教えを読むための導入の部分でもあります。
ヨハネ福音書はほかの福音書よりもキリストと弟子達との別れの場面に多くの文字を費やしています。キリストは弟子達と過ごされる最後の地上の時、何度も同じことを繰り返しお伝えになります。
ご自分がこれから去って行かれること。
ご自分がいなくなった後への備え。
そしてご自分がいなくなったとしても、それは神の救いのご計画であること。
イエスキリストが最後に弟子たちにお伝えになった言葉は、細かく学問的に分析するというよりも、私たち自身が祈りを持って霊的に自分に語られた言葉として受け止めるべきものでしょう。
私たちが今日読んだのは、イスカリオテのユダがイエスキリストを裏切るために夜の闇の中へと出て行った直後のところです。ユダがそこを去り、物事が主イエスの逮捕と十字架の死へ動き始めました。
そこで主イエスは弟子たちにまた話し始められます。弟子たちがこれから見ることになるイエスキリストの十字架は、決してキリストの敗北はないということ。むしろ神の救いのご計画の実現であるということ。それは神の子の十字架を通して神が栄光をお受けになる時であるということ。
主イエスは、これまで奇跡のしるしと教えの言葉を通して神の栄光を現してこられました。水をぶどう酒に変えたり、病の人を癒したり、何千人もの人の空腹を満たしたりされた不思議なしるしの意味はイエス・キリストの十字架を通して示されることになります。
イエスキリストが十字架の上で最後の瞬間までこれ以上ない痛みと苦しみを背負い、息を引き取られることこそが、神がこの世にお与えになった最大のしるしでした。
キリストは何か人を驚かすようなことをして、ご自分の人間としての地上の栄光を示されたのではありませんでした。神の子の死という痛みを通して、ひざまずくべきは神であるということを世に示されたのです。
その神秘の栄光について弟子達に思い出させたのち、主イエスはご自分の愛する弟子達に、これが別れの言葉であるということを示されました。「私はあとしばらくあなた方と一緒にいる」
彼らは主イエスを探すことになる、しかし、弟子達は一緒に来ることはできない、とおっしゃいます。
弟子たちは衝撃を受けました。これから実際に主イエスがいらっしゃらない道を歩まねばならなくなるのです。そしてそれは、キリストが弟子達を愛したように、弟子達も互いに愛し合うという道でした。
「あなた方に新しい掟を与える。お互いに愛し合いなさい。私があなたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならばそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる。」
なぜキリストは「新しい掟」とおっしゃったのでしょうか。何が新しいのでしょうか。「互いに愛し合いなさい」ということは、新しい掟ではないのです。旧約聖書のレビ記19:18には「隣人を自分自身のように愛しなさい」という有名な律法の言葉があります。これこそ律法の核心とでも言うべき古くから大切にされてきた教えでした。
では一体何が新しいのでしょうか。それは、愛し方でした。「私があなた方を愛したように」互いに愛しなさい、ということです。
13章はキリストが「この上なく弟子達を愛された」という言葉で始まっています。その思いの現れとして、キリストは弟子達一人ひとりの前に跪いて足を洗われました。神は独り子をお与えになったほど世を愛されたとあるように、キリストは弟子達を愛し、足を洗い、そしてこれから彼らのために死なれるのです。
そのキリストに愛された弟子達、キリスト者は、どう生きるべきなのか。どのようにキリストの愛に報いればいいのか。キリストは「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。それが、独り子をお与えになるほどの神の愛への報い方なのです。
キリストに愛されたように互いを思いあう、いたわりあうということが、キリスト者であることの証となり、そしてそれが、イエス・キリストを指し示す証、しるしとなる、と言われています。
私たちは立ち止って考える必要があるでしょう。私たちはなぜ人を愛するのでしょうか。少なくとも、キリスト者として私たちが互いを大切にしようとするのは、相手が愛しやすいからではないでしょう。人を愛することは道徳的・倫理的にそれが正しいだろうと思って愛するのではありません。誰かを愛して、自分が満足するためでもありません。イエス・キリストへの応答として我々は互いを愛するのです。そこにこそ、キリストにある平和が生まれるのです。
弟子達は、この時キリストがおっしゃっていることが理解できませんでした。「あなたがたは私を探すだろう」などと先生はおっしゃっている。「だから互いに愛し合いなさい」などとおっしゃる。
たまらずペトロは尋ねました。「主よ、あなたはどこに行かれるのですか。」それに対して主イエスは「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とお答えになりました。
ペトロは不服でした。なぜ先生は自分たちから離れていかれるのか。そしてなぜ今一緒について行くことができないのか。
ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と言いました。強い気持ちの表明です。しかし、キリストはおっしゃいます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう」
この後、ペトロは主イエスがおっしゃったように、わずか数時間後、私はナザレのイエスなど知らない、と三度繰り返してしまいます。そのことを知っている私たちにとって、「あなたのためなら命を捨てます」と豪語したペトロの姿は滑稽に見えるでしょう。しかし、誰も彼を笑うことはできないでしょう。ペトロだけでなく、他の弟子達も同じでした。
キリストの十字架の死の後、ペトロをはじめ弟子達は一か所に集まり、身をひそめていました。皆、キリストを見捨てて逃げたのです。そして「あなたはナザレのイエスの弟子だ」と指さされることが恐ろしかったので身を寄せ合って隠れていたのです。早くエルサレムの人たちがナザレのイエスのことを忘れてほしい、自分たちの顔も忘れてほしい、と願ったでしょう。
主イエスの十字架の出来事から三日目の朝、その墓が空になったという知らせが入りました。ペトロは墓に走って行き、墓が空になったことを自分の目で見ました。そしてその日の夕方、ペトロは、弟子達は、復活のキリストに再会しました。
イエス・キリストは、「なぜあの時私を見捨てたのか」とはおっしゃいませんでした。「あなたがたに平和があるように」とおっしゃって再び彼らを召し出されたのです。
ペトロは故郷ガリラヤに戻り、再び漁師として魚を採るようになりました。そこでまた復活のイエス・キリストに再会します。彼はそこで主イエスから「私を愛しているか」と三度問われました。「あなたを愛しています」と答えたペトロは、主イエスから言われます。「あなたは行きたくないところへと連れていかれる」
キリストに愛され、召された者として、ペトロ自身が行きたいところではなく、神がペトロにお求めになるところへと連れていかれることになるのです。ペトロは、キリストに許された者として、自分の道からキリストの道を歩むことになるのです。
これが、「信仰に生きる」ということではないでしょうか。自分が行きたいところではないところへと連れていかれることになるのです。自分が行きたいところではなく、神が私たちに必要な道へと導き入れてくださるのです。中には、自分が行きたくない場所もあるでしょう。しかし、「行きたい・行きたくない」とかいうことを超えた何かが、私たちのために用意されているのです。
使徒言行録を見ると、そのことがよくわかります。キリストの使徒たちは、自分が行きたいところではなく、行くべきところへと聖霊によって導かれていきました。
ペトロがヤッファという港町にいた時、ローマの百人隊長コルネリアスという人からの招きの使者が迎えに来ます。ガリラヤの田舎のユダヤ人の漁師に、ローマの軍人が、しかも百人隊長が会いたいと言って来ました。
ペトロとコルネリウスの間には、当時では天と地ほどの身分の違いがありました。ペトロには、キリストの使徒として働く自分をローマの軍人が殺しに来たのかもしれない、という不安もあったでしょう。
しかし、ペトロは、コルネリアスが聖霊によって幻を見せられて自分を招いているということを知って、はるか北のカイサリアまで出向いて行きました。ペトロは自分が行きたい場所ではなく、行くべき場所へと向かったのです。 Continue reading