MIYAKEJIMA CHURCH

10月19日の礼拝案内

 ヨハネ福音書17:1~5

ヨハネ福音書17章には、イエス・キリストの祈りの言葉が記録されています。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」とあります。弟子達と過ごす最後の夜、イエス・キリストは語るべきことを全て語り終え、弟子達の前で祈りの言葉を紡いでいかれました。

聖書には、語るべき言葉をすべて語り終えた人が、祈りをささげるという姿が記録されています。たとえば、創世記では、イスラエルと呼ばれるようになったヤコブが、自分の12人の息子たちに遺言を伝え、それが終わると、 12人一人ひとりに祝福の祈りを捧げたことが書かれています。

モーセも、イスラエルの民をエジプトから救い出した後語るべき神の言葉をすべて伝えた後、祝福の祈りを捧げたことが申命記に記されています。

イエス・キリストも同じように、この世で語るべき言葉をすべて弟子達に残された後、世に残されることになる弟子達のために祈られました。その祈りの言葉を、弟子たちは聞いたのです。そして、弟子たちはそのキリストの祈りに加わり、キリストと共に神に祈ったでしょう。

イエス・キリストは弟子たちのために、そしてこの弟子たちに続くすべての信仰者のために、祝福を願って祈りをささげてくださいました。弟子たちがこの祈りに加わったように、私たちもこのキリストの祈りに連なります。そのように考えると、これは、私たちの祈りであると言っていいのではないでしょうか。

今日私たちが読んだこの17章のイエス・キリストの祈りは「大祭司の祈り」と呼ばれたりもしています。大祭司は、神と民との間に立って仲立ちをする役割を担う人です。この17章の言葉を見ますとイエス・キリストはまさに大祭司の立ち位置で祈っていらっしゃいます。この後世に残される弟子たちのために、そしてそのあとに起こることになる信仰者の群れ・教会のために祝福を執成してくださっています。

ヨハネ福音書には、現在私たちが「主の祈り」と呼ばれている祈りの言葉そのものは書かれていません。しかし、このキリストの「大祭司の祈り」は、「主の祈り」と内容がとても似ています。

父なる神のお名前があがめられることが強調されています。神の業が天で行われるように、地上でも同じように行われることが願われています。そして、弟子達が世の悪しきものから救われることが求められています。この「大祭司の祈り」と呼ばれるキリストの祈りの中には、「主の祈り」で祈られている要素がしっかりと詰まっているのです。

この祈りの内容は、大まかに捉えると、三つの単純な願いとなっています。

「父よ、子に栄光を与えてください」

「父よ、あなたのお名前によって彼らをお守りください」

「父よ、彼らが私と共にいるようにしてください」

この世がイエス・キリストの栄光を知り、信仰者たちが守られ、そしてキリストと共に生きることができるように、というのが、この祈りの柱です。それはまさに、「主の祈り」で祈られていることと全く同じではないでしょうか。私たちにとって、これほど大切な、そして恵みに満ちた祈りの言葉はないのではないでしょうか。私たちのために死んでくださる方が、ご自分の死を前にして、ご自分を殺す者たちのために執り成してくださっているのです。

私たちは普段どのように祈っているでしょうか。自分の願いを神に訴えることは割と簡単にできるでしょう。しかし、祈りを通して、誰かを許す痛みを、そしてその痛みに勝る「キリストに許された」という圧倒的な恵みを、どれだけ感じながら祈っているでしょうか。自分の祈りの原点として、私たちはこのキリストの最後の祈りの言葉に向き合いたいと思います。

さて、キリストの祈りの最初の言葉は、「父よ、時が来ました」でした。これまでキリストは、「まだ私の時は来ていない」とおっしゃってきました。しかし、弟子達に全ての言葉を聞かせ、全ての業をお見せになった今、「時が来た」とおっしゃるのです。

「父よ、時が来ました」、この言葉によって、キリストの地上での福音宣教が終わったことが分かります。あとは、イエス・キリストご自身が天から神によって遣わされた神の子としての栄光を受けるだけのところまで来た、ということです。

ワインを水に変えたことも、盲人の目を癒されたことも、ラザロを墓から生き返らせたことも、全て、ご自分には神の権威があり、神の栄光をもっていらっしゃることを示すものでした。

旧約の預言者も、まさにこの「時」のことを預言してきました。

イザヤ書40:5「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」

預言者イザヤは、神の栄光が全ての肉なるものに示される時を見据えていました。天にいらっしゃる神は、地上に生きる肉なる存在の自分たちの目には見えない、観ることができないと皆思っていました。

しかし、主の栄光が私たち人間の肉の目に見せられる時が来る、とイザヤは預言していたのです。それこそ、イエス・キリストの十字架の時でした。神と共に世の初めからいらっしゃった方が世に人間としてお生まれになり、言葉と業を通して、私たちの目に、神の栄光を見せてくださったのです。

また、預言者ハバククは、こう預言しています。

2:3「たとえ、遅くなっても、待っておれ、それは必ず来る、遅れることはない・・・水が海を覆うように、大地は主の栄光の知識で満たされる」

まさに、聖書は、預言者たちの預言の実現を記録しています。「父よ、時が来ました」とキリストがおっしゃったのは、イザヤが言った「主の栄光が肉の目に見せられる時」の実現です。そしてハバククが言った、「大地が主の栄光の知識で満たされる時」の到来なのです。

1世紀のキリスト者たちは、イエス・キリストの十字架こそ、預言者たちが残した言葉の実現であったと知りました。無実の罪で十字架に上げられたそのお姿は、世の罪を全て背負って死なれた神の子の栄光の姿でした。イエス・キリストの十字架の死という最大の謎を通して、神は深い救いのご計画をお示しになったのです。

一番弟子のペトロは、後に手紙の中でこう記しています。

「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」1ペトロ2:25

イエス・キリストの十字架、それこそ、神が世の罪の許しを示された場所であり、神から離れて生きていた我々が立ち返る場所なのです。

イエス・キリストは、祈りの中で、「永遠の命」について語っていらっしゃいます。ヨハネ福音書では、「永遠」とか「命」という言葉が多く使われていますが、我々にとって、「永遠の命」は神秘です。

「永遠の命」という言葉の意味は、それを聞いただけで分かります。しかし、それが本当に一体どういうものか、ということについては、よくわからないのです。「永遠」とは何か。終わりのない時間だ、ということは分かりますが、永遠の命となると、自分の理解を超えた言葉になるのではないでしょうか。

イエス・キリストは祈りの中で「永遠の命」の定義についてこうおっしゃっています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」

「永遠の命」と聞くと、永遠という時間的な長さの方にばかり意識が行きます。「想像もつかないほど長く生きること」というイメージでとらえがちだが、そうではないのです。時間の長さではなく、それがどのような時間なのか、ということに目を向けなければならないのです。神を知り、キリストを知って生きる命、それが「永遠の命」なのです。

逆に言えば、神を知らなければ、キリストを知らなければ、どんなに長く生きても「永遠の命」と呼ぶことはできないのです。そして、どんなに自分の生涯が短いとしても、神を知りキリストを知って生きたなら、肉体の死の先にも神とキリストとの結びつきは消えることがないのです。

イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれます。インマヌエル、神我らと共にあり、という意味の言葉です。「神我らと共にあり」という真理は、壊れることはないのです。それは、肉体の死を超えて、それが永遠に続く恵みなのです。キリストを知る、ということは、永遠の命を知る、ということであり、永遠の命を知るということは、キリストが永遠に私と共にいてくださるという真理を知ることなのです。

イエス・キリストはこの祈りの中で、父なる神、神の子イエス・キリスト、そして我々信仰者が一つとなることを願われています。我々がキリストと一つとなるということは、自分がキリストになる、とか、自分をキリストと名乗ることができるようになるとかいうことではありません。

キリストと同じ使命を抱く、ということでしょう。神がキリストを世に送られたように、私たちも世に送られるということです。だからキリストは「あなたがたには世で苦難がある」「世が私を憎んだように、あなたがたをも憎むようになる」と弟子たちにおっしゃったのです。 Continue reading

10月12日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:25~33

イエスキリストと弟子たちが過ごされた最後の夜の場面は、ヨハネ福音書13章から17章にかけて描かれています。かなりの分量です。13章で、イエス・キリストが弟子たちの足を洗われたことが描かれ、17章ではイエスキリストの最後のとりなしの祈りの言葉が記録されています。その間にある14章から16章までの言葉が、直接イエス・キリストが弟子たちに語られた告別の言葉ということになります。

その14章から始まるキリストの最期の言葉は「心を騒がせるな」という一言から始まります。弟子たちの心は騒いでいました。先生がなぜ自分たちの足を洗ってくださったのか、弟子たちは戸惑いました。

ペトロは「師であるあなたが弟子である私たちの足を洗われるのですか」とはっきり言いました。その時の主イエスの答えは、「今私がしていることはわからないだろうが、後でわかるようになる」でした。そしてそのまま、一人一人の弟子たちの足を洗い、拭って回られたのです。

自分たちが今、何か特別な時間を過ごしている、ということを弟子たちは感じたでしょう。心を騒がせ、戸惑い不安になる弟子たちに向かって、イエス・キリストは「これから私と君たちは離れ離れになる」とおっしゃり、同時に、「けれども大丈夫だ」とおっしゃいます。

今日私たちは、14章から続くキリストの言葉の最後、16章の最後のところを読みました。イエス・キリストの弟子たちへ教えのまとめ・集大成ともなる言葉です。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」

心騒がせる弟子たち、また生きる不安を抱える信仰者たちにキリストはこの言葉を残してくださいました。

生きる中で逆風を感じる時、いつでも私たちの心は騒ぎ不安になり戸惑うのです。右を見ても左にいてもイエス・キリストの姿は直接見えません。キリストの存在を感じられない時、「自分は一人なのだろうか。神に見捨てられたのだろうか。キリストは自分に背を向けられていらっしゃるのだろうか」と不安になるのです。

この夜の弟子たちこそ、生きる中で不安を抱えた信仰者たちの姿そのものではないでしょうか。そして、そのような信仰者たちにとって、一番必要な言葉がこのイエスキリストの言葉なのです。

「あなた方には世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」

聖書は「神我らと共にあり」というインマヌエルの喜びを伝えています。インマヌエルという真理こそが、聖書が全体を通して今の私たちに伝えようとしている福音・喜びの知らせなのです。

何か生き方に迷った時、何か悲しむべきことが起こった時、私たちの信仰の足元は揺らぎます。簡単にぐらつきます。イエス・キリストの歴史を見ると、目に見える神を求めて繰り返し偶像礼拝に走ったことがわかります。

私たちだって、何か不安なことがあれば目に見えてわかりやすい救いを求めるのではないでしょうか。そのような闇の中でこそ、イエス・キリストのこの言葉は福音の光として輝くのではないでしょうか。

「神我らと共にあり「イエス・キリスト我らと共にあり」

既に世に勝っていらっしゃる方が、世で苦難を生きる私たちと共にいてくださる、という約束が与えられています。

この約束をもって、キリストは弟子たちへの告別の言葉を締めくくられました。主イエスの弟子たちへの最後の言葉は励ましの言葉でした。

今日読んだ最初のところで、「私はこれらのことを、たとえを用いて話してきた」とおっしゃいました。確かに、主イエスはこれまでいろんな例えを用いてご自分が何者であるかということを示してこられました。

「私はまことのぶどうの木。あなた方はその枝である」

「私は良い羊飼いであり、良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」

「私は羊の門である。誰もこの門から入らなければ救いに至ることは出来ない」

しかし、この夜、弟子たちとの最後の別れに際して、主イエスはもうたとえを用いない、とおっしゃいました。もう弟子たちに何も隠しておく必要はないのです。キリストははっきりおっしゃいました。

「私は父の元から出て世に来たが、今世を去って父のもとに行く」

このように直接はっきりおっしゃったので、主イエスがこれから死ぬことになることが弟子たちも現実味を帯びて伝わったでしょう。

弟子たちは答えます。

「今は、はっきりと話になり少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で誰もお尋ねする必要のないことが今分かりました。これによってあなたが神の元から来られたと私たちは信じます」

弟子たちははっきりと、「この方こそ神の元から来られた方である」と信じました。

弟子たちの信仰告白と言っていい言葉です。しかし、これに対してイエス・キリストは、不思議な言い方をされています。

「今ようやく、信じるようになったのか」

私は一生懸命あなた方に私が何者であるかを伝えてきたけれども、ようやくここにきてやっとわかったのかという、キリストが弟子達の無理解に呆れていらっしゃるようにも聞こえる言葉です。しかしこの言葉は、元の聖書のギリシャ語を見ると、もっと単純な言葉です。

「今、あなたたちは信じるのか」

ようやく信じるようになったのか、という弟子たちの無理解を責めるような言葉ではありません。むしろ弟子たちが今、きちんと信じている、ということを確認されている言葉です。

そして、この言葉は、今の信仰は、次の瞬間どうなるだろうか、というキリストの思いを含んでいます。「今確かに君たちは私のことを信じている。しかしこのあとはどうだろうか」という意味合いの言葉なのです。

イエス・キリストはこの後十字架の上で孤独な死を遂げられることになります。しかしその十字架の前で一体何人の弟子たちが立っていたでしょうか。今、「あなたは神の元から来られた方です」とはっきり信仰告白をした弟子達は、この夜の内に主イエスの逮捕を見て、逃げていくことになるのです。

旧約の預言者ゼカリヤがこういう言葉を残しています。

「羊飼いを撃て。羊の群れは散らされるがよい」

真のイスラエルの羊飼い、良い羊飼いであるイエス・キリストはこの後、文字通り撃たれるのです。鞭で、釘で、十字架へと打たれていきます。そして、主イエスの羊である弟子達は散り散りに逃げ去ることになります。ゼカリヤの預言は実現するのです。

「今、あなたたちは信じるのか」

このようにおっしゃるキリストはどのようなお気持ちだったのでしょうか。主イエスは弟子たちがご自分を見捨ててしまうことを既にご存知でした。それでも今この瞬、弟子たちが自分を信じてくれているということを喜ばれたのではないでしょうか。 Continue reading

10月5日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:16~24

イエス・キリストは弟子たちとの最後の夜、これから弟子たちにこの世からの迫害があることをおっしゃいました。そして同時に、聖霊の注ぎによって弟子たちが担っていく信仰が、この世を真理へと導いていくこともお伝えになりました。

信仰者のこの世での信仰生活が、聖霊の働きによってこの世全体をイエス・キリストへと向かわせていくということは、今を生きる私たちの信仰生活に大きな希望を与えてくれるのではないでしょうか。

この夜語られたイエス・キリストの弟子達への告別の言葉は、新しい出発に備えるように、という励ましでした。主イエスはこの後、弟子達から離れて行かれることになります。しかし、それで全てが終わりではないのです。その先にも弟子たちには歩むべき道がきちんと用意されているのだから希望を捨ててはならない、ということが語られました。聖霊の働きによって、弟子たちの信仰がこの世に希望をもたらすことになり、彼らの信仰がこの世を神の支配へと導くことになるのです。

しかし当然、この夜それを突然言われた弟子達は戸惑い、心が騒ぎました。主イエスがおっしゃっていることの意味が分からなかった弟子たちは、代わる代わる質問しました。ペトロが、トマスが、フィリポが、イスカリオテでない方のユダが、順番に質問しました。

「どこに行かれるのですか」「おっしゃっている道というのがわかりません」「御父を示してください」「どうして私たちだけにおっしゃるのですか」

主イエスは一つ一つそれらの質問にお答えになりましたが、今日読んだところを見ると弟子たちはやはり主イエスが何を伝えようとなさっているのか最後まで理解できなかったようです。

17節を見ると、弟子たちは互いに言い合っています。

「『しばらくするとあなた方は私を見なくなるが、またしばらくすると私を見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのかわからない」

混乱する弟子たちでしたが、主イエスにとっては、この時はそれで良かったのです。この夜、理解できなくても、後々、弟子たちが歩んでいく信仰の道の上で、この夜キリストから告げられた言葉を思い出し理解して行くことになるからです。

私たちも、その時はわからなかったけれども、今になって与えられていた神の導きに気づく、ということがあるでしょう。私たちの信仰がそうであるように、弟子たちにとっても、この夜は真の信仰の歩みへと続く途上だったのです。

主イエスは「しばらくすると」という言葉を何度も繰り返していらっしゃいます。今日読んだところの中でも7回繰り返されています。

弟子たちがこれから通ることになる信仰の苦難の時、つまりイエス・キリストとの別れと一生涯にわたるイエス・キリストの証する苦難の先で彼らは喜びが与えられることになることを約束されているのです。

「しばらくすればあなた方の悲しみは喜びに変わる」とキリストはおっしゃいます。「しばらくすれば」です。弟子たちこの主イエスがおっしゃる「しばらく」がどれぐらいの期間なのかが分かりませんでした。

信仰者であれば、「その『しばらく』というのはどれぐらいの期間なのか」と知りたいと願うでしょう。数日なのか、数年なのか、知りたいと願います。しかし、それは私たちにはわかりません。それはキリストにお任せしておけばいいのです。

主イエスは「今しばらく」という言葉をこれまでも繰り返してこられました。7章33節を見ると、ファリサイ派の人々が主イエスを捕らえるために下役たちを遣わした時のことが書かれています。

主イエスは下役たちにおっしゃいました。「今しばらく私はあなた達と共にいる。それから自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは私を探しても見つけることがない。私のいるところにあなたたちは来ることができない」

人にはわからなくても、イエス・キリストはいつでも、すべてをご自分の支配の内に時を備えて救いの御業を進めていかれるのです。

主イエスがおっしゃっているのは何のことなのでしょうか。「しばらくの間」とここでおっしゃっているのは、どれだけの時のことなのでしょうか。「父のもとに行く」とはどういうことなのでしょうか。

これは間違いなく、主イエスが死に向かっていらっしゃるということを意味していました。それだけでなく、主イエスがここでおっしゃっているように、この世は主イエスの死を喜ぶということもお分かりでした。

それは弟子たちにとってはこれ以上ない痛みでした。そんなことを想像するのも嫌だったでしょう。主イエスが殺されるというのであれば、自分たちがここまで従って来たのは一体何だったのか、という思いになるでしょう。

しかしだからこそ主イエスは、「その痛みはやがて喜びに変わる」と前もって断言されるのです。「だから、来たるべき私の死について備えるように」、と強調されるのです。

「あなた方は泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなた方は悲しむがその悲しみは喜びに変わる」

私たちは、この後イエス・キリストが十字架に挙げられることを知っています。キリストの死を見てキリストの母マリアやマグダラのマリアは泣きました。しかしキリストの墓の外に来たマリアはふたりの天使から告げられます。「婦人を何故泣いているのか」

キリストの復活を告げられたマリアの悲しみの涙は喜びの涙へと変えられました。

痛みが喜びに変わる、と言う信仰の実りのことを、キリストは出産に例えていらっしゃいます。子供が生まれた喜びのために、それまでの苦痛は喜びに取って代わられるということ・・・信仰の痛みは、必ず信仰の喜びとなって実を結ぶのです。

詩編126編にこう歌われています。

「涙と共に種をまく人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる」

私たちの信仰生活はここまでどうだったでしょうか。

分かりやすい実りだったとは言えないと思います。キリスト教信仰をもっていたから、わかりやすい「ご利益」があった、というようなものではなったでしょう。

むしろ、信仰の危機の中を歩んできた。その中で、痛みも悲しみもあったけれども、振り返ると、神はそれを恵みへとつながる道へとしてくださっていた、と思える・・・そのような歩みだったのではないでしょうか。

信仰の痛みが、喜びへと変えられることになる、という恵みが、この夜、弟子たちに与えられた約束でした。普通は、信仰にそのようなことは期待しないのではないでしょうか。

神を信じたことで痛みがある、世からの憎しみが自分に向けられる、というのであれば、普通は信仰を求めたりはしないのではないでしょうか。反対に、「信じたらこんないいことがある、こんな利益がある」、ということを聞いた方が信じたくなるでしょう。

しかしキリストははっきりと、信仰による苦難を予告されます。そして、その信仰の苦難が、確かに弟子達にとって、また私たちキリスト者にとって、喜びへと変えられていくという逆説的な恵みを約束なさいます。

確かに、旧約聖書に出てくる預言者たちを見ても、新約聖書に記録されている使徒たち、教会のキリスト者たちを見ても、神の言葉を世に伝えるためにどんなに険しい道を歩んだか、ということが書かれています。

しかし、神に召された信仰者たちは、信仰の道を歩くのをやめませんでした。

アブラハムが息子イサクをささげるよう神から命じられた時、アブラハムは約束の地モリヤへとまっすぐに歩いた姿は印象的です。

生まれ故郷から召し出されて、様々な苦難を経たアブラハムは最後に、独り息子のイサクをいけにえとしてささげるよう言われ、何も言わず息子と二人で三日間旅をするのです。その三日の道のりはまさに信仰の試練、信仰の苦難でしょう。神を信じるからこその痛みでした。 Continue reading

9月28日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:8~15

イエス・キリストの最後の夜、弟子たちは確かにキリストから告別の言葉を受けました。はっきりと何度も「私は去ってゆく」とキリストがおっしゃるのを聞きました。

弟子たちは、「先生はどこに行かれるのだろうか」「自分たちは先生と一緒のところに行くことができないのだろうか」と考えました。そして弟子たちが一番恐れたのは、「先生がいなくなった後、自分たちはどうなるのだろうか」ということだったでしょう。

その不安を抱えていた弟子たちに、キリストは「実を言うと私が去っていくのはあなた方のためになる」とおっしゃいます。キリストが弟子たちの元から去っていかれた後、天からの弁護者が送られる、つまり聖霊が注がれることになる、「だからそれはいいことなのだ」とおっしゃいます。

今日私たちはイエス・キリストがこの世を去られたあと遣わされる聖霊の働きについて語られているところを読みました。

「その方が来れば」、つまり聖霊が来れば、罪について、義について、また裁きについての誤りを明らかにするとおっしゃっています。

私たちはこの言葉を通して、聖霊の働きについて教えられることになります。キリストはご自分がいらっしゃらなくなった後、この世は2種類の人に分けられることをおっしゃいました。

ぶどうの枝が幹につながっているように、イエス・キリストにつながりキリストに従って生きる人たち。そして、キリストにつながることをせずキリストを信じる人たちに敵対する人たちです。

イエス・キリストがここで語っていらっしゃる聖霊の働きを読んで面白いのは、聖霊は信仰者だけでなく、信仰者を迫害する人たちに対しても働きかけていくということなのです。

私たちは考えたいと思います。

聖霊が来て、この世の罪について、義について、裁きについて誤りを明らかにしてくださるのであれば、もう安心だ、と弟子たちは思えたでしょうか。私たち自身、聖霊によって罪や義や裁きを明らかにされると聞いて、単純に喜べるでしょうか。

手放しには喜べないと思います。聖霊の裁きの内側に、私たちの罪、私たちの義も置かれるからです。洗礼を受けていない人たちに聖霊の裁きは向かう、というのであれば、少しは安心できるかもしれません。

しかし、聖霊が世に与えられ、その聖霊は自分にも向かってくると言われているのです。

普通は、「信仰を通して自分には聖霊が与えられる」、と聞けば、信仰を持つことによって聖霊が自分を悩みや苦しみを引き離してくれるのではないか、楽な生き方が与えられるのではないか、と期待するのではないでしょうか。信仰者だけに働きかけて、信仰者だけを導いて、いつも笑顔でいられるようにしてくださる、ということを期待し、願うのではないでしょうか。

しかし、それは違うのです。

聖霊は信仰を持っている・持っていないにかかわらず、世の全ての人に自分の罪に向き合うことを求めるのです。神と自分の関係が本当に正しい状態にあるかどうかを突きつけるのです。そして、あなたも、キリストを十字架に上げたあの群衆の中にいたのだ、と気づかせるのです。

キリストがおっしゃる聖霊の働きに、私たちはむしろ緊張するのではないでしょうか。自分の罪について、義について、裁きについて、誤りが明らかにされるというのであれば、私たちのうち一体誰がキリストの前に立たされた時、顔を上げることができるでしょうか。

聖霊の働きとは、まず、私たちを断罪するところから始まるのです。そしてそうやって、イエス・キリストを見たことのない人たち、その十字架も復活も知らない人たちに、どこに許しがあるのかを示し、信仰の入り口の前に立たせるのです。

弟子達はこの夜、「先生がおっしゃっていることが理解できない」、と心の中で思っていたでしょう。

キリストもそのことはご存じでした。だからおっしゃるのです。

「言っておきたいことはまだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」

面白い言葉ではないでしょうか。そして、とても大切な言葉だと思います。弟子たちは今、理解できていない。それにもかかわらず、キリストは語り続けて行かれます。しかしそれでいいのです。

今の無理解の中にあってもキリストの言葉は与えられ、その無理解の先には、聖霊が全てを悟らせてくださる時が備えられている。そのこと知っているだけでいい、それが大事なのです。

「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」

この夜、弟子達が学ばなければならなかったのは、聖霊に対する希望でした。すべて理解する必要はない。ただ、希望がある、ということだけを知っていればいいのです。そして後になって、「あの時キリストがおっしゃったことは、これだったのか」と感謝の祈りを捧げればいいのです。

「自分たちの先生がこれから去って行かれることは、すべての終わりではない。逆に、自分たちは今から何か新しいことの始まりに立ち会おうとしている」、このことを知っていればよかったのです。

目の前から先生がいなくなれば信仰の終わり、ということではありませんでした。私たちにとっても、自分にはキリストの姿が見えないから希望が見えない、ということではないのです。

聖霊を通してイエス・キリストと共に生きる道へと導き入れられるのです。そして、弟子達は、また私たち信仰者は、聖霊を通してイエス・キリストの御業を行っていくことになるのです。

信仰の終わりなどというものは無いのです。信仰の希望に壁はないのです。常に、神が、聖霊を通して、信仰者には見えない、一歩先で何かを見せようと用意してくださっています。

思えば、不思議ではないでしょうか。教会は、今でもイエス・キリストの体としてキリストの御心をこの世で行っていこうとします。世代が替わってもそのことは変わりません。決して楽な歩みではありません。礼拝ごとに新しくキリスト者の人数が増えていく、などという単純なものではありません。むしろ、逆風を感じることのほうが多いでしょう。

この夜、キリストの言葉を聞いた弟子たちは、もう今は生きていません。イエス・キリストの十字架と復活という出来事を実際に見た人たちも、はるか昔に死にました。弟子達からキリストについての証言を直接聞いた人たちももういないのです。

それでも、キリスト教会はここまで2000年、立ち続けてきました。その時代、その時代のキリスト者たちの努力もありましたがそれ以上に、人々をキリストへと導き、人々をキリストの体である教会へとつなぎ留め、キリストの業を行わせてきた聖霊の働きがあったからです。

キリスト者が希望を見失いかけた時でも、聖霊は見えないところで動き続けていました。

私たちが聖書を読んでいて、一番よくわからないのが、「聖霊の働き」というものではないでしょうか。私たちの理解や常識を超えた働きを感じた時、「聖霊の働き」としか呼べないものを感じます。

しかし、ここでは、キリストははっきりと、聖霊が何をするのか、おっしゃっています。

「罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」

まず、聖霊が明らかにする「世の罪」とは何でしょうか。この「罪」という言葉は、「過ち」とか「犯罪」という意味もありますが、ここでは霊的な意味で、神に対する罪を指しています。人に対して犯した犯罪・悪事ではなく、神に背を向けること、神を知らないこと、神から離れていることです。

キリストは、ご自分に詰め寄ってくるユダヤ人たちにこうおっしゃいました。

「あなたたちのうち一体誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属するものは。神の言葉を聞く」 Continue reading

8月31日の礼拝説教

 ヨハネ福音書16:1~7

告別の言葉を通して、イエス・キリストは弟子たちに、「私とあなたがたは確かにこれから離ればなれになってしまうけれども、大丈夫だ」と、別れに備えるようおっしゃいます。その別れも、神のご計画の内にあることをお伝えになるのです。キリストと弟子達が離れ離れになっても、弁護者、つまり聖霊が与えられるので、この別れはいいことなのだ、と前もって示されています。

この弟子達への言葉はキリスト教会への言葉、つまり私たちへの言葉でもあります。キリストが自分の目の前に見えないからと言って嘆く必要はありません。聖霊を通してブドウの枝と幹がつながっているように、キリストと信仰者は強く結びつけられ続けるのです。

しかしキリストは、「私がいなくなっても大丈夫だ」と言いながらも、ご自分がいなくなった後、弟子たちを襲うであろう迫害を予告されます。

「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。」

キリストに従う私たちの信仰生活は、逆風とは無縁のものではありません。逆風は変わらず吹くのです。イエス・キリストに対して、この世からの逆風が吹いたように、弟子達にも、キリスト教会にも、この後逆風は吹くのです。

それではなぜキリストは「大丈夫だ」「あなた方と別れるのはいいことだ」とおっしゃるのでしょうか。

その逆風の中にあっても、キリストが共にいてくださっているからです。逆風がなくなるのではなく、キリストと一緒に逆風の中を進むことができる、ということが、信仰の強さなのです。

マタイ福音書の10章で、キリストはこうおっしゃっています。

「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。・・・私よりも父や母を愛する者は、私に相応しくない。・・・自分の十字架を担って私に従わないものは、私に相応しくない」

非常に厳しい言葉です。家族などどうでもいい、ということでしょうか。そうではありません。キリストを第一に求めることの先に、本当の家族の平和、この世の平和がある、ということでしょう。

キリストは、これから大きな分裂が起こる、とおっしゃいます。この世が、分裂するのです。ナザレのイエスをキリストと信じ従う人たちと、信じない人たち。キリストを愛する人たちと、キリストに敵対する人たちに分かれるのです。ぶどうの枝が幹につながっているようにイエス・キリストと神の愛につながろうとする人たちを、枝を折り焼き払うように迫害する人たちに分かれるのです。

キリスト者は一世紀、ローマ帝国の異邦人、異教徒たちからの迫害だけではなく、同じユダヤ人たちからも迫害されることになりました。キリストは弟子達と過ごす最後の夜、これから弟子たちに起こることを繰り返し話してお聞かせになりました。

主イエスと弟子たちがなぜ離れ離れになってしまうのか、ということ。

主イエスはなぜ十字架の上で死ななければならないのか、ということ。

主イエスの十字架の死がすべての終わりではないのか、ということ。

主イエスの死が弟子たちにとっての信仰の終わりではい、ということ。

むしろ弟子たちの本当の信仰はそこから始まることになる、ということ。

これらのことをこの夜、事前に伝えようとなさったのです。主イエスの言葉は、13章から17章にいたるまで、記録されています。膨大な量です。弟子たちにつまずかせないために、力を込めて多くの言葉を語られました。

「つまずく」という言葉が聖書の中ではよく使われています。信じられないこと、信じることをやめることのことを、「つまずく」という言葉で表現されています。いつの時代でも、迫害や嫌がらせを受けてキリストに従うことをやめる人たちがたくさんいました。だから聖書が書かれたのです。信仰の苦難や迫害の中でつまずく人たちがたくさんいて、その人たちを励まそうとしてこの聖書は書かれました。

新約聖書の中には使徒パウロの手紙がたくさん入っています。このパウロ自身も、教会の迫害者でした。パウロは、ガラテヤの諸教会にこう書いています。

「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかを聞いています。私は徹底的に神の教会を迫害し滅ぼそうとしていました」ガラテヤ1:13

キリストはここで、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と弟子達におっしゃっています。まさに、パウロがそうでした。

フィリピの教会への手紙の中で彼はこう書いています。

「私は・・・イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身でヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の破壊者、律法の儀については非の打ち所のない者でした」フィリピ3:6

パウロは教会を迫害し、キリスト者を逮捕しながら、自分は神のために正しいことをしている、と考えていました。

使徒言行録を見ても、キリストの使徒ステファノの殉教、キリストの兄弟ヤコブの殉教が記録されています。使徒たちだけでなく、多くのキリスト者が、様々な迫害を受けたことが分かります。

キリストの復活を信じなかった人たちは、キリスト教会の人々を迫害し始めました。そして皮肉にも彼らはキリスト者を迫害することが神のためになると思っていました。

しかし、そのキリスト教会の痛みを通して、人々は変えられていったのです。なぜイエス・キリストは、キリストとして受け入れられなかったのでしょうか。なぜキリスト教会は迫害されたのでしょうか。

以前大祭司カイアファがこう言ったことがあります。

「1人の人間が民の代りに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなた方に好都合だとは考えないのか」11:50

ローマ帝国を刺激するよりはナザレのイエスを犠牲にして騒ぎを起こすことなく、穏便に祭りを済ませた方が良いというカイアファの言葉です。

私たちは考えます。「なぜ、イエス・キリストは死ななければならなかったのか。神は、全能の神なのだから、もっと簡単に、一瞬で世のすべての人の心をご自分に向けることがおできになるのではないのか。」

しかし、神は私たちの心を強制的に支配するのではなく、全ての人が自分の自由意思で神を求めるように、この世にご自分の愛を示されました。

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とキリストはおっしゃいました。神の独り子を世にお与えになるほどの愛を世に示されたのです。そしてその通りになるのです。

この方が十字架で殺された後、復活され、弟子達に聖霊が注がれて、弟子達はキリストの十字架の意味を知りました。それは、自分たちの罪をあの方が十字架で担ってくださった、ということでした。そこに罪の許しがあり、またキリストの復活を通して、永遠の命の希望を示されたのです。

キリストの復活の後、弟子達の宣教活動によって、エルサレムの多くの人たちがキリストを信じるようになった。ナザレのイエスとは何者だったのか、また自分たちがそのナザレのイエスに対して何をしてしまったのかを知ったからです。

人々は自分の罪の重さを知り、同時に、その罪を赦していただいたという恵みを知って打たれたのです。人々は、自分の意思でイエス・キリストへと立ち返っていきました。

イエス・キリストという一粒の麦が、地に落ちて死に、そこから多くの実が結ばれていったのです。キリストを信じるようになった人たちも、一人ひとりが、一粒の麦となり、また次の実りのために自分の生涯をささげるようになっていきました。 Continue reading

8月24日の礼拝説教

ヨハネ福音書15:22~27

ヨハネ福音書のはじめに、「暗闇は光を理解しなかった」と書かれています。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。

神は世を照らす光としてこの世に独り子を送られました。イエス・キリストは「この世を暗闇のままにはしておかない」、という神の救いの御心そのものでした。

福音書の序文にあるように、イエス・キリストはこの世に神の招きの言葉を伝えに来たにも関わらず、反対と憎しみをお受けになりました。しかし、ここまで私たちが見てきたように、光であるイエス・キリストが世に来られることによってこの世には影も生まれたのです。その影はイエス・キリストのことを神の子・世の光として見ることなく、ナザレのイエスの宣教とその弟子たちの働きを「危険なもの」とみなしました。

私たちは今日、イエス・キリストが、弟子たちが受けることになる迫害の予告をされる言葉を読みました。なぜキリストの弟子たちは世から憎まれることになるのでしょうか。キリストの弟子達が世に憎まれるのであれば、キリスト教会も憎まれるということでもあります。なぜキリスト教会がこの世から迫害されなければならないのでしょうか。教会はそんなに悪い集団なのでしょうか。

キリストは旧約聖書の言葉を引用してこうおっしゃいます。

「人々は理由もなく私を憎んだ」

これは詩編の言葉です。キリストが世に憎まれた理由、キリストに従う教会が世に憎まれる理由はこれなのです。つまり、「理由はない」と言うことです。

「人々は理由もなく私を憎んだ」というのは、詩篇35編19節の言葉です。詩編35編は無実の人が裁判で訴えられる苦しみを歌ったものです。

「不法の証人が数多くたち私を追求しますが私の知らないことばかりです」と詩人は神に訴えます。そして35編の19節で「無実な私を憎む者が、侮りの眼で見ることがありませんように」と語ります。

この

「無実な私を憎む者」というのが、キリストが引用された詩篇の言葉です。無実な人を憎む、ということにはどんな理由があるでしょうか。理由などありません。無実の人を憎むことで自分が安心できる人が、そうするのです。

キリストは「彼らの律法にそう書いてある」と皮肉を込めておっしゃっています。「彼らの律法」と言っても、律法は聖書のことですから一つしかありません。「私の律法」「あの人の律法」などという表現は本当はおかしいのです。キリストが「彼らの律法」とおっしゃるのは、「彼らが勝手に自分に都合よく解釈している律法」という皮肉が込めていらっしゃるのです。

ヨハネ福音書の9章に、イエス・キリストが目を開かれた盲人がパリサイ派の人たちによって会堂から追放された、という事件が書かれています。目が見えなかった人が確かにキリストによって癒され見えるようになりました。その人の両親も、そのことを証言しました。それなのにファリサイ派の人たちは癒された盲人を「罪びと」と呼び、会堂から追放しました。

それは人々の心が自分達からナザレのイエスに移ることを恐れてのことでした。世は、このようにして無実の人を憎み、自分を守ろうとするのです。神の言葉、神の御業ではなく、自分の立ち位置を守る方が大切なのです。

今でもこのことは変わっていません。今でも、キリスト者が侮られたり、キリスト教信仰をバカにされたり理解してもらえないことの方が多いでしょう。当然です。イエス・キリストがそうだったからです。

キリストはこの世の中でどんな悪いことをなさったのでしょうか。殺されなければならないような罪を犯されたでしょうか。理由などありません。人々は自分の立ち位置を守るためにナザレのイエスに罪びととしたのです。

皮肉なことですが、その罪は、この方が背負ってくださったこの世の罪・自分たちの罪でした。しかし彼らはそのことに気づきませんでした。私たちのキリストへの信仰が理解されないということには、なにかこれという理由があるのではないのです。この世の中でキリストの光が示されたところには影もできる、ということです。

主イエスはこの世の人全てを否定されているわけではありません。ここでは、実際にご自分のことを非難してきたユダヤ人たちのことをおっしゃっています。

イエス・キリストの全ての言葉はこの世を神の元へと導く救いの言葉でした。しかしユダヤ人たちはイエス・キリストの言葉を無視しました。キリストの福音宣教は、この後イスカリオテのユダに先導されるユダヤ人たちによって逮捕されて終わります。

22節で、主イエスは恐ろしいことをおっしゃっています。

「私が来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」

イエス・キリストの言葉を知らないというのであればまだ弁解の余地はあったのです。しかし彼らは実際にキリストの言葉を聞き、何度もキリストの業を見て、その上でキリストをこの世から排除しようとしました。

キリストの言葉・業を受け入れないということは、キリストを憎むということです。そしてここでおっしゃっているように、キリストを憎む人はキリストの父である神を憎むということです。

キリストはご自分と神と弟子達のつながりについてお話なさいます。弟子たちを愛する者はキリストを愛するのであり、キリストを愛する者はキリストを遣わされた父なる神を愛するということなのだから、弟子たちを憎む者はキリストを憎むということであり、弟子達を迫害する者は神を迫害するということであることが示されています。

今、教会はこの世からどのように見られているでしょうか。私たちの信仰はただ辛いだけのものなのでしょうか。神を信じているというだけでバカにする人多いでしょう。キリストを信じているというだけで、「どうして外国の宗教を信じるのか」と言われることもあるでしょう。

私たちは、論理的に相手を説得してキリストを信じさせるようにすることはできません。なぜ自分がキリストを信じるようになったのか、信じ続けているのかを説明してわかってもらうことも難しいでしょう。キリストが人々から言われたように、しるしを見せてみろ、証明してみろと言われても何も言えないし何もできないのではないでしょうか。

しかしそれでもキリスト者はキリストのもとに留まります。言葉で説明できない何かによって私たちはキリストにつながっているからです。キリストはそれを真理の霊と呼ばれます。

イエス・キリストがこの世で福音宣教なさって、十字架の直前まで実際に従い抜くことができたのはたった12人でした。そしてこの夜、1人が裏切るために去って行きました。あとの11人も、主イエスの逮捕を見て、全員が逃げ出します。

イエス・キリストに本当の意味で従う群れができたのはキリストの復活の後なのです。聖霊が注がれてそこから初めてイエス・キリストの言葉と技の意味が示されました

私たちの信仰もそうだったのではないでしょうか。あの時はイエス・キリストなんて知らなかったし信じてもいなかった。しかし後になってあの時キリストは本当に私と共に歩んでくださっていたことが分かった、と思える瞬間があるのです。聖霊を通して、キリストへと導いてくださる言葉や出会いが与えられるのです。今でも、そしてこれからも与えられ続けるのです。

ここでのイエス・キリストの言葉は法廷での弁論のように聞こえます。自分がイエス・キリストの言葉と業に対して、自分たちがどう向き合ってきたのか、ということを振り返らされるのではないでしょうか。

私たちは世の終わりに神の前に立たされた時、神から何と言われるでしょうか。

「私の言葉を聞いて、私の業を見ても、あなたは信じなかった。あなたにはもう弁解の余地はない」

この世の終わりにキリストからそう言われることほど恐ろしいことはないでしょう。では、今私たちがどう生きるか、ということです。

私たちが声高にイエス・キリストのことを叫んでもうこの世はあまり聞こうとしません。「自分には関係のないことだ。自分はキリストを知らなくても充分立派に生きていける」。皆そう言うでしょう。

そう言われると私たちはそれ以上何も言えなくなってしまいます。では私たちは何ができるのでしょうか。祈ることです。礼拝向かい続けることです。キリスト者が祈る姿が、また礼拝に身を置く姿が、何よりイエスキリストを証する力を持っているのです。

忘れてはならないと思います。聖霊は祈る群れに注がれました。立派な人が集まって「自分たちの力で教会をつくろう」と言って、踏み出したのではありません。どっちに向かって踏み出していいのかわからず祈るしかなかった群れに聖霊は注がれました。そして語るべき言葉と行くべき場所が示されていったのです。

使徒パウロは手紙の中で書いています。 Continue reading

8月17日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:18~21

イエス・キリストの告別の言葉を読んでいます。別れを目にして、残された時間が少なくなっていく中、キリストは一番伝えたいこと、伝えなければならないことを弟子たちにお話になりなります。

キリストは弟子たちに、「これから私たちは離れ離れになるけれども大丈夫だ」、とおっしゃいました。先生と離れ離れになりたくないと思っている弟子たちにとって何が「大丈夫」なのでしょうか。キリストと弟子達とのつながりは決して無くならない、だから「大丈夫だ」とおっしゃいます。

弟子たちは、自分たちが主イエスから愛されていること、主イエスが父なる神から愛されていること、そして神が世を愛されていることを聞きました。そしてそのつながりの中から自分たちの信仰が実を結んでいくこと教えられます。

弟子たちの元を去って行かれるイエス・キリストとどのようにつながることができるのでしょうか。「心配しなくてもいい、私の父の家には住むところがたくさんある。あなたたちのために場所を用意して戻ってくる」とキリストはおっしゃいます。

その言葉を聞きますと、弟子たちはこれからキリストと離れ離れになるけれども、またキリストが自分達を迎えに来てくださる。そしてその後にはもう何の苦労も無く、キリストによって平坦にされた道を静かに歩んでいくことができる将来が約束されているかのように聞こえます。

しかしイエス・キリストはここでおっしゃいます。

「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなた方が世に属していたなら世はあなた方を身内として愛したはずである。」

キリストに従うがゆえに受けることになる憎しみがある、とおっしゃいます。キリストに従う信仰の道の上で、弟子達は、またキリスト者はこの世から憎まれることになるのです。

案ずることはない、心配することはない、私とあなたたちとのつながりはなくなることはない、大丈夫だと、告げながら、その先にはイエス・キリスト共に担う苦しみがあるということも明らかにされるのです。

信仰とは何でしょうか。キリストを信じるということはどういうことなのでしょうか。信仰の道を歩めば、たくさんのいいことが降って来て、この世の憎しみなどとは無縁になることのように期待します。しかし、キリストは甘いことをおっしゃいません。

使徒言行録には、後々弟子たちがどのような苦しみを担うことになったのかが記録されています。キリストがここで予告なさっているように、弟子たちはイエス・キリストのお名前をこの世で伝えていくために様々な試練と苦難の中を生き抜きました。

ナザレのイエスという方に何が起こったのか、またそれはどんな意味があったのかを伝えようとしても、受け入れる人よりも受け入れない人たちのほうが多かったのです。ある時は牢に入れられたり、鞭で打たれたりもします。

それでも弟子たちは、キリストの使徒として宣教の業を投げ出すことはしませんでした。キリストの十字架と復活の証人として、自分が置かれた場でキリストを証しし続けたのです。命の危険を感じるほどのことがあっても、それを越えて彼らはキリストの証を続けました。

なぜでしょうか。弟子たちが、キリストの十字架と復活を見て、この夜自分たちに告げられたことの意味を理解したからです。

使徒言行録の五章の最後を見ると、迫害の中でそれでも喜んでいる弟子たちの姿が書かれています。「使徒たちはイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」とあります。

教会の迫害者でありながらキリストに召されて使徒とされたパウロは、フィリピの教会の人たちにこう書いています。

「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは有益なのです。・・・あなた方には、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられているのです」

新約聖書に入っているフィリピの信徒への手紙はパウロが獄中から書いた手紙です。「獄中書簡」と呼ばれていますが、同時に「喜びの手紙」とも呼ばれています。パウロは「自分が監禁されているのはキリストのためである」と喜ぶのです。

ペトロも手紙の中で言っています。

「キリストは罪の為にただ一度苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神の元へ導くためです。」

「義の為に苦しみを受けるのであれば幸いです」

「愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を何か思いがけないことが生じたかのように驚き怪しんではなりません。むしろキリストの苦しみに与れば与るほど悦びなさい・・・あなたがたはキリストの名のために非難されるなら幸いです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら決して恥じてはなりません」

なぜイエス・キリストの弟子は、そしてキリスト教会はこの世から逆風を受けるのでしょうか。イエス・キリストがそうだったからです。キリストは人々の心を天に向けようとなさいました。しかし、この世に目を向けていた人、心をこの世に留めていたい人たちからは憎まれたのです。ヨハネ福音書1:11に光がご自分の民の元に来たけれども、民は光を拒絶したと書かれている通りです。

キリストと同じ道を歩むということは、その逆風をキリストと共に受けるということなのです。キリストは弟子たちにおっしゃいました。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ」

イエス・キリストがこの世を神の元へと導くために、苦難の道を行かれるのであれば、キリストに従う人たちも同じ信仰の苦難の道を行くということでしょう。この世がイエス・キリストを迫害するのであれば、キリストに従う信仰者たちのことも迫害するということでしょう。私たちがイエス・キリストよりも優れた者となってキリストに向けられた逆風が吹かないなどということはないのです。

しかしなぜキリスト者はこの世からの逆風を受けるのでしょうか。どの福音書でもキリストに従う信仰者達への苦難がキリストご自身の口から前もって言われています。

なぜキリスト者たちは迫害されなければならないのでしょうか。愛に満ちたイエス・キリストの教えが素晴らしさを知れば、みんな自然に私たちが言うことを受け入れて私と同じ道を歩くようになって、キリストを求め始めるのではないでしょうか。

キリストの時代、また弟子たち・使徒たちの時代は、ローマ帝国は宗教に対して非常に寛容でした。いろんな宗教がありましたが、それぞれの宗教がローマ皇帝への尊敬や忠誠を邪魔しない限りは許されていました。

当時はローマ皇帝が神の子として神の権威を持って政治にあたっていました。しかし1世紀のキリスト者たちは、神は唯一の神でありイエス・キリストこそがまことの神の子であり、ローマ帝国は神の子ではないという信仰を持っていました。

そのようにローマ皇帝のことをただひとりの人間として捉えイエス・キリストがメシアであり神の子であり従うべき方である、と信じる信仰は危険視され、ローマ帝国の中で迫害されることになったのです。

更にキリスト者たちは同じ時代のユダヤ人たちからも迫害されました。キリスト者たちは、主イエスのことをキリストと呼び「主」と呼びました。「主」という呼び方は、ユダヤ人たちが神に対して用いた称号です。

イエスという人間に対して「主」という言葉を使うことは、人を神とすることであり、偶像と変わらないと思ってユダヤ人たちはキリスト者を迫害したのです。

十字架の上で殺されたナザレのイエスを主と呼び神の子と信じることはローマ人にとってもユダヤ人にとっても受け入れられることではなかったのです。

私たちがキリストを伝える「世」とは、そのような相手です。今も変わりません。「キリストに従いなさい」、と伝えることは、「昨日までの自分を捨てなさい」、ということです。

「今あなたが信じている何か以上に、信じるべき方です」とか「あなたが大切に思っている何か以上に、大切にすべき方です」と言われると、それまでの自分を捨てることになります。当然、良くは思われないでしょう。

キリストを十字架へと追いやり我々キリスト者を迫害するであろうと言われている「この世」に対して、また、今私たちが実際に生きて、キリストを伝えるために遣わされている「この世」に対して、私たちはどのような姿勢であればいいのでしょうか。

この後を読んでいきますと、この世はますます主イエスを憎み主イエスを逮捕します。そして十字架に上げられる前に、ポンテオ・ピラトから尋ねられます。

「お前がユダヤ人の王なのか」 Continue reading

8月3日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:9~17

別れの瞬間が迫っている中で伝える言葉は、普段の会話よりも重みが増します。限られた時間の中で一番伝えておかなければならないことを相手に伝えようとするので、慎重に言葉を選び、心を込めて相手に伝えようとします。思いが凝縮されたその言葉を、受け取る方もひと言も聞き逃さないようにと真剣に向き合います。

主イエスはご自分と弟子たちがこれから物理的に離れることになってしまうことをお伝えになりました。弟子たちにとっては驚きであり悲しみの報告でした。生きて行く希望が突然目の前から消えてしまうような思いを感じたでしょう。

しかし主イエスはこれから起こる別れはすべての終わりではない、ということを示されます。たとえ離れ離れになってお互いが見えなくなったとしても、主イエスと弟子たちとの関係までなくなってしまうわけではないのです。

ぶどうの枝がぶどうの木につながっているように「私につながっていなさい」と主イエスはおっしゃいます。枝が幹につながっていることで実を結ぶように、弟子たちはイエス・キリストにつながり続けて神を求めになる収穫の実を結ぶことが期待されているとおっしゃいます。

「私はぶどうの木。あなた方はその枝である。人が私につながっており私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

イエスキリストが万感の思いをこめて弟子たちに示された、キリストにつながる人たちが結ぶ実とは何でしょうか。

詩編104編15節「葡萄酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」

神につながっている生活の喜びが歌われています。私たちがイエス・キリストにつながり、また神につながっているということが「信仰の喜び」という実を結んで行くことになるのです。

では、具体的に「信仰の喜び」とは何でしょうか

詩編133編1節「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び」

キリストを信じる者たちがキリストに繋がることによって共に座っている、そのことがすでに大きな喜びなのです。それ自体が信仰の交わりが結ぶ実なのです。私たちはこの礼拝の中にその喜びを見出すことができるのではないでしょうか。

キリストは9節で「私はぶどうの木、わたしにつながっていなさい」ということを別の表現でおっしゃいます。

「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた私の愛にとどまりなさい」

イエス・キリストにつながるということはつまり、イエス・キリストの愛につながる、とどまるということなのです。

キリストは弟子たちに「私があなた方を愛したようにあなたがたも愛し合いなさい」とおっしゃいました。そしてここでは「父が私を愛されたように」とあります。神の愛がキリストに注がれ、そのキリストの愛が弟子たちに注がれ、弟子たちはキリストの愛にとどまることになるのです。

イエス・キリストの愛にとどまるという信仰の業がここまで脈々と受け継がれてきました。それがキリストから与えられた掟だったからです。弟子達・私たちがキリストの愛に留まるのは、何のためでしょうか。

「私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである」とおっしゃっています。ぶどうの枝がブドウの木の幹から栄養を与えられて実を結ぶように、私たちもキリストにつながりそこから喜びをいただいて満たされていくのです。

主イエスは、ご自分の父であられる神こそが愛の源であることをおっしゃっています。父なる神がキリストを愛されるということがあって、私たちキリストに愛されるということがある、そしてキリストに愛されるということがあって私たちは互いに愛し合うということができるのです。このことが信仰の実を結んでいきます。キリストの愛に留まる人たちが互いに愛し合い、キリスト教会という信仰の実が大きくなっていくのです。

弟子たちはただ単に「愛し合いなさい」と言われたのではありません。「イエス・キリストに愛されたように」互いに愛し合いなさいという掟でした。

キリストがどのように弟子たちを愛してくださったのかを思い起こし、弟子たちは共に愛し合うことになります。そのように弟子たちが愛し合うことによって、それがやがてキリスト教会の中での互いにつかい合う姿勢を育んでいくことになっていきます。

私たちが今読んでいるこのキリストと弟子たちとの最後の夜こそ、我々キリスト者が立ち返るべき愛の姿と私たちの愛の源が示された時なのです。どこから来て、私たちがどこにとどまり続けるべきなのかという、信仰の道が明らかにされています。

キリストの使徒パウロはローマの信徒への手紙11章の最後でこう書いています。

「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」

すべてのことは神の元から出て神に帰っていく・・・イスラエルの罪と救いの歴史を振り返りパウロが至った結論はこれでした。すべてのことが神から出て神によって保たれ神に向かっていくのです。

パウロは続けてこう言います。「こういうわけで兄弟たち神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として捧げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です。」

私たちはなぜ礼拝を続けているのでしょうか。キリストの弟子たちやパウロのように直接イエスという方と言葉を交わしたこともないのに、です。

自分たちの愛の限界を知っているからではないでしょうか。私たちの愛情よりも大きな愛を注がれ、それが歴史の中で示され。その愛によって真に生かされているということを知って、私たちは礼拝という業を続けているのではないでしょうか。

だから私たちは礼拝をするのです。キリストが私たちに身を捧げてくださったように、私たちもキリストのために身を捧げ、礼拝を通して隣人に仕えていくのです。

主イエスがおっしゃる愛とはどのような形を伴うのでしょうか。主イエスは僕として、弟子たちの前にひざまずいて足を洗われました。そして、良い羊飼いは羊のために命を捨てる、とおしゃいました。そして十字架の上で世の許しのために全ての罪を担い、世のために死なれました。

「友の為に命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主はおっしゃいます。「友のために」というのは「友の代わりに、身代わりになって」ということです。友が生きるために自分が犠牲になるということまで含まれた言葉なのです。

イエス・キリストはこの夜、弟子達に、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ」とおっしゃいました。普通ユダヤ教のラビは自分で弟子を探すことはしません。若い人たちが自分の先生を探して回って、弟子にしてもらうよう頼みこみます。

主イエスの弟子達も、自分で先生を選び、自分の意思でここまで従って来た、と思っていたでしょう。しかし主イエスは、彼らが主イエスを選んだのではなく、主イエスご自身が、彼ら一人一人を選ばれた、ということを明言されました。

主イエスがどういう基準で弟子を選ばれたのかは私達には分かりません。弟子達を一人ひとり見ていくと、むしろなぜこんなにも不完全な人たちを選ばれたのかと不思議に思います。

むしろ、その不完全さ、彼らのつまずき、信仰の弱さまで、主イエスは大切にいつくしんで彼らを選ばれたのです。不完全だからこそ、イエス・キリストにつながっていなければならない人たち、弱いからこそ、キリストにつながり自分では結び得ない収穫の実を結ぶ道へと招き入れられたのです。

弟子たちはこれからキリスト教会の芽生えとなっていく人たちです。彼らの中心には何があったのでしょうか。それはイエス・キリストから愛され、許されたという事実です。そしてキリストの許しと愛を受けた者として、互いにそれを実践しなさいと言われたことです。

「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストのご命令、そして罪の赦しの恵みに打たれた彼らの祈りがありました。彼らは祈らなければやっていられなかったでしょう。キリストを見捨て、キリストを知らないと言ってしまったあの夜の記憶は消えないのです。

私たちはどのように教会につながるのでしょうか。教会が「愛の共同体」であるというならば、その愛というのはキリストの愛のことです。私たち一人ひとりが、特別に愛が深くて、そのような立派な人たちが自分の意思で集まって教会を作り上げているのではありません。

このような自分でもキリストは許してくださったという愛に打たれ、その許しの中でしか立ちえない人が集まって、共に祈る群れがキリスト教会です。その祈りの中に、同じように思う人が一人、また一人と与えられ、キリストの愛の共同体は続いていくのです。 Continue reading

7月20日の礼拝説教

 ヨハネ福音書14:22~30

イエス・キリストが「私は去っていくがまたあなた方の所へ戻って来る」とおっしゃると、弟子たちの心は騒ぎました。これから先生が自分達から離れて行かれるということを聞かされるたびに、弟子たちのうち誰かが主イエスにもっと詳しくどういうことか聞かせてくださいと質問しました。

「私が行くところにあなたたちは来ることができない」と言われると、一番弟子のペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」と質問しました。

「私の父の家には住むところがたくさんある・・・行ってあなた方のために場所を用意したら戻ってきてあなた方を私のもとに迎える・・・私がどこへ行くのかその道をあなたがたは知っている」と主イエスがおっしゃると今度はトマスが言いました。「主よ、どこへ行かれるのか私たちには分りません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」

主イエスはお答えになります。「私は道であり真理であり命である。・・・今からあなた方は父を知る。いやすでに父を見ている」

すると今度はフィリポが「主よ、わたしたちに御父を示してくださいそうすれば満足できます」と言いました。

主イエスは「私を見た者は、父を見たのだ」とおっしゃいます。「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし永遠にあなたと一緒に居るようにしてくださる。・・・私はあなた方をみなしごにはしておかない。」

今日私たちが読んだのは、ペトロ、トマス、フィリポに続いてなされた、イスカリオテでない方のユダの質問です。「主よ、わたしたちにはご自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜでしょうか」

このユダという弟子について、私たちは何も知りません。ただ福音書や使徒言行録の中でユダという名前だけが出てくるだけでこの人の背景や人格がどういうものであったのかということは何も書かれていません。

ユダの質問は単純なものでした。「どうせなら、先生がおっしゃっていることを自分たちだけでなく世に向かってすべてお示しになればいいのに」という思いからの言葉です。

7章でも、主イエスの家族が同じようなことを言っています。主イエスが仮庵祭の時期にエルサレムに登って行こうとなさらないのを見て主イエスの兄弟たちは言いました。「ここを去ってユダヤに行きなさい・・・公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには自分を世にはっきり示しなさい」

「この世の中でどんどんしるしを行えばいい。どんどん奇跡を行えばいい。たくさん神の国について語ればいい。」主イエスの兄弟たちはそう思いました。主イエスの兄弟たちでなくユダのように弟子たちもそう思っていました。私たちだってそう思うのではないでしょうか。弟子を12人にしぼったりせず、弟子達にひそかにお示しになることを、どんどん公の場で人々に訴えればいいのに、と思うのです。

しかし主イエスはいつどこでどのようなしるしを行われるのか、誰に向かって神の国の言葉を語られるのか、どういう状況で伝えられるのかを見極めていらっしゃいました。

実際にはイエスはこの世の中でたくさんのしるしを行って来られました。しかしここまで一体何人の人が主イエスについて来たでしょうか。この世の人たちは主イエスの言葉を聞きしるしを見てもここまで従ってくる人たちは12人の弟子たちだけだったのです。

主イエスは、「私の掟を受け入れそれを守る人は私を愛するものである」「私もその人を愛してその人に私自身を表す」とおっしゃいました。主イエスのことを本当に愛しその掟を守り主イエスの道を行こうとする者でなければ、メシアのしるしを見てもメシアの言葉を聞いても理解はできないのです。

一度は主イエスを受け入れようとした人たちも、「人の子の肉を食べその血を飲まなければあなたたちのうちに命はない」という主イエスの言葉を聞いて皆離れていきました。あれだけ主イエスがたくさんのしるしを行ない神の国の教えを説かれても、主イエスを追いかけてきたあの何千人もの人たちはもうここにはいないのです。

主イエスはユダにこうお答えになりました。「私を愛する人は私の言葉を守る。私の父はその人を愛され父と私とはその人のところに行き一緒に住む。私を愛さない者は私の言葉を守らない」

どれだけたくさんの奇跡を見ようともイエス・キリストを愛そうとする心がなければ何も起こらないのです。これが、キリストのユダに対するお答えでした。

しかし、それではこの夜弟子たちが主イエスのおっしゃることを全て理解したかというとそうではありませんでした。主イエスご自身、弟子たちがすべてを理解するだろうと期待していらっしゃいませんでした。

14:26で主イエスはおっしゃいます。「父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなた方にすべてのことを教え、話したことをことごとく思い起こさせてくださる」

主イエスはこの夜、弟子たちの足を洗われました。弟子たちにはその意味がわかりませんでした。「あなたが私の足を洗ってくださるのですか」と言うペトロに対して主イエスはおっしゃいます。「私の知っていることは今あなたにはわかるまいが、あとでわかるようになる」

この夜、弟子たちは後々思い出すべき時を過ごしていたのです。このキリストと過ごす最後の夜は、後の自分たちが、信仰の歩みにおいて常に立ち返るべき時となるのです。

主イエスが弟子たちにこれからご自分が去って行かれることを説明されたことで弟子たちは不安になり心がかき乱されました。しかし主イエスは弟子たちが離れ離れになっても、それで全てが終わりではないとおっしゃいました。聖霊を彼らにお与えになりキリストは彼らと共にいることになる、と約束されたのです

弟子というのは学ぶ者という意味の言葉です。彼らは一体何を学ぶのでしょうか。我々キリスト者はこの信仰の生活の中で何をキリストから学ばせていただくのでしょうか。

学びにもいろいろあるでしょう。聖書や教会のことを学問的に学んで知識を増やして行くという学びもあります。しかし神学の知識を増やして行くということが信仰者としての学びなのでしょうか。

キリストが聖霊を通して自分と共にいてくださっている、ということこそが、本当の信仰の学びなのです。たとえその姿が見えなくても一度もその実際の声を聞いたことがなくても、「今あの方は確かに私の傍らにいらっしゃる」という確信があれば、それこそがイエスキリストがこの夜弟子たちに伝えようとした真の学びなのです。

40年間荒れ野を歩き続けたイスラエルの民は、その歩みの中で何を学んだでしょうか。申命記の8章にはこう書かれています。「人はパンだけで生きるのではなく人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」

私たちの人生・一生涯は、荒れ野です。荒れ野を歩む時、すぐに「神は本当に共にいてくださっているのだろうか」と疑うのです。

キリストの弟子達は、嵐の中の小舟で、キリストに向かって叫びました。「私たちがどうなっても構わないのですか。」これは私たちの叫びであり、祈りです。私たちは荒野の中で、嵐の中で、神に祈りをぶつけるのです。

荒野でこそ、嵐の中でこそ、私たちは学びが与えられます。「まだ信じないのか、信仰の薄いものたちよ。」私たちはそこでイエス・キリストの声を聞かせていただけるのです。あれの中で嵐の中でこそ私たちはパンだけではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって自分は生かされているということを学ばせていただくのです。

弟子たちはこの夜イエスキリストがなさったことおっしゃったことを本当の意味で理解することはできませんでした。しかし復活のキリストを知り聖霊をいただき地の果てまでキリストの福音を伝えようとする中で、何度も何度もこの夜のことを思い出したでしょう。

「ことが起こったときにあなたがたが信じるようにと今そのことを起こる前に話しておく」と主イエスがおっしゃったように、この夜彼らに示されたことは、後々の弟子達にとって、信仰の原点となったのです。

キリスト者は、長い人生の中でキリストの弟子として信仰の成長を続けます。その信仰生活の中で私たちが一番気をつけなければならないことは自分が信じたいことだけを信じ、学びたいことだけを学ぶということです。私たちに与えられる学びを自分の都合のいいように解釈したいというのが私たちの自然な思いではないでしょうか。

聖霊はイエス・キリストの名のもとに来るとおっしゃっています。しかし聖霊の言葉でない言葉に私たちは魅力を感じてしまうのです。この世の誘惑の言葉に飛びついてしまったとき、私たちは正しく聖書の言葉に立ち返らなければなりません。

何かを学んだと思った時、何かを悟ったと思った時に、それが本当にイエス・キリストの求めていらっしゃることかどうかを聖書を通して冷静に吟味しなくてはならないのです。

マタイによる福音書で主イエスご自身おっしゃっています。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し天地が消え失せるまで律法の文字から一転一画も消え去ることはない」 Continue reading

7月27日の礼拝説教

 ヨハネ福音書15:1~8

キリストは弟子たちとの最後の別れの時を過ごされました。弟子たちひとりひとりの足を洗い、ご自分がいなくなった後どうすべきか、どうあるべきかということをお伝えになりました。そして14章の最後で「さあ、立て、ここから出かけよう」とおっしゃってご自分の十字架への歩み自ら歩みを進めて行かれます。

今日私たちはイエス・キリストが弟子たちに、「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃった場面を読みました。「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」有名なイエス・キリストの言葉です。

「ここから出かけよう」とおっしゃってからの言葉なので、歩きながら、キリストは「私につながっていなさい」と話されたのでしょう。

これまでも、福音宣教の旅の中でイエス・キリストは弟子たちや人々に向かってご自分を何かに例えながら、「私は何々である」という言い方をしてこられました。「私はまことのパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は良い羊飼いである」というように、ご自分が神から遣わされたメシアであることを、「私は〇〇である」という表現で示してこられました。

しかし、それを聞いた人達が全員その意味が分かって「この方はメシアだと」受け入れたわけではありませんでした。6章では、「私の肉を食べ私の血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない」とおっしゃったキリストの言葉を聞いて皆「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」と離れて行ったことが書かれています。

今日読んだところが、ヨハネ福音書で最後の、「私は何々である」というキリストのたとえになります。十字架に向かって歩みながら、おっしゃいます。

「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」

この例えは、今までのものと少し違っています。キリストはこれまではご自分が何者であるかということを例えてこられましたが、ここでは、「私の父は農夫である」と、天の神についてもたとえいらっしゃるのです。

この15章のキリストの例えを読むと、神の独り子イエス・キリスト、父なる神、そして私たちキリスト者の関係性がよくわかると思います。ここでキリストは「私はまことのぶどうの木」とおっしゃっています。単なる「ぶどうの木」ではありません。「まことの」ぶどうの木です。

「まことの」という言い方がされているということは、「まことではない・よくないブドウの木」もこれまであったということでしょう。

聖書の中には葡萄畑やブドウの木に関する記述がたくさんあります。当時の世界ではブドウは身近な果物であり、聖書の中でも度々例えとして用いられてきました。聖書の中では、律法や信仰を語る際に例えとしてよく用いられました。

しかし残念ながら、素晴らしい葡萄の実が実ったということは聖書ではあまり言われていないのです。むしろぶどう園には実が結ばなかったと言うような表現が多いのです。

詩篇80:8

「あなたはブドウの木をエジプトから移し、多くの民を追い出してこれを植えられました。そのために場所を整え根付かせこの木は地に広がりました」

詩篇の詩人は神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださった出来事を「農夫が葡萄の木を新しい場所に植えた」、というイメージで歌っています。そこでたくさんのぶどうの実が実ったかというとそうではないのです。このような言葉が続きます。

「なぜあなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆摘み取って行きます。」

神がエジプトからイスラエルの民を救い出し、約束の地へと新しく民を導き入れられたにも関わらず、そのイスラエルは神を正しく信仰する歩みを続けることができなかったことを嘆く詩人の言葉です。

預言者イザヤもイザヤ書の5章で「ブドウ畑の歌」と呼ばれる歌を残しています。

「私の愛する方が、肥沃な丘をよく耕して石を除き、その真ん中に見張りの塔を建て、酒ぶねを掘り、良いぶどうが実るのを待った。しかし実ったのは酸っぱい葡萄であった」

これも先ほどの詩編の言葉と同じ内容を歌っています。神によって救われたイスラエルがその救いの御業に報いることなく不信仰に落ちてしまったことを歌うのです。

イザヤだけではありません、ほかの預言者たちも異口同音にイスラエルの不信仰を糾弾してきました。それほどにイスラエルは神のぶどう畑として良い実を結んでこなかったのです。それが神の民イスラエルの歴史でした。

しかし今、イエス・キリストはご自分のことを「まことのぶどうの木」とお示しになりました。これまでの実を結ばず、農夫である神の期待に沿うことをしてこなかったイスラエルとは違う、新しいぶどうの木として正しい信仰の象徴としてご自分を示されるのです。

「私はまことのぶどうの木」というのは不思議な言い回しだと思います。イエス・キリストが農夫であり実の収穫をされる側でお話しなさっていないのです。キリストはむしろ収穫される側のブドウの木にご自身を例えていらっしゃいます。神の側ではなくイスラエルの側にご自分の身を置いて「私はまことのぶどうの木である」とおっしゃるのです。

ご自身が神の民イスラエルそのものであり、イエス・キリストに繋がることによって私たちはイスラエルの民とされているのです。信仰者の群れの中心にはこの方がいらっしゃるということでしょう。

洗礼者ヨハネは荒野で叫びました。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」

「悔い改めにふさわしい実」とは何でしょうか。キリストはおっしゃいます。「ぶどうの枝が木につながっていなければ自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも私につながっていなければ実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなた方はその枝である」

「悔い改めにふさわしい実」とは、イエス・キリストに立ち返りキリストに繋がった歩みの中で見せられる何かです。キリストから離れたところでは見ることができない何かのことです。

キリストを知る前、キリストにつながる前、キリストから離れていた時、私たちは何を求めて生きていたでしょうか。キリストを知ってから、何を求めるようになったでしょうか。ここでそれぞれ、振り返りたいと思います。

キリストの使徒パウロはローマの信徒に向けてこう書いています。

「あなた方は罪の奴隷であったときは義に対しては自由の身でした。では、その頃どんな実りがありましたか。あなた方がいまでは恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは死に他ならない。あなた方は、今は罪から解放されて神の奴隷となり聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」

キリストとの出会いは文字通り人生の岐路となります。罪の支配の中に生きるか神の支配の中に生きるか。 罪の支配の中で結ぶ実は、死で終わるものです。しかし神の支配の中で結ぶ実は、私達にとって永遠だとパウロは言います。

イエス・キリストから離れたところで私たちが結ぶ実は、どのようなものでしょうか。それが何であれ、この世のもの、過ぎ去るものでしょう。自分がいなくなったら、跡形もなく消えてしまうようなものではないでしょうか。あっという間に過ぎ去っていく宝です。

しかし聖書は私たちに天に富を積むことを教えてくれます。そこには泥棒が入ることもなく朽ちることもなくしぼむこともない宝の貯蔵庫があるのです。私たちの肉体の死を越えて永遠に価値を持ち続ける宝の置き場所があるのです。それを知るということが、肉体の死に向かって生きる中でどんなに大きな希望となるでしょうか。

キリストは「私につながっていなさい」と弟子たちにおっしゃいました。

この「つながる」というのは「留まる」という意味の言葉です。

14章2節で、キリストが「私の父の家には住むところがたくさんある」とおっしゃっていますが、「住むところ」というのが「留まるところ」という意味の言葉です。イエス・キリストが弟子たちに教えを残したこの夜、「留まる」という言葉が何度も何度も使われているのです。 Continue reading