MIYAKEJIMA CHURCH

マルコによる福音書9:38~41

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ福音書9:41)

12弟子の一人ヨハネが、主イエスのお名前を勝手に使って悪霊を追い出している人を見て不愉快に思い、主イエスにそのことを報告しました。「私達に従わないので、やめさせようとしました」

主イエスのお答えは「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐあとで、私の悪口は言えまい。私達に逆らわない者は、私達の味方なのである」というものでした。ヨハネも、他の弟子達も驚いたでしょう。

イエス・キリストの「味方」とはどんな人か、と考えた時、私達はどんな人を思い浮かべるでしょうか。12弟子のように家も家族も後に残して人生丸ごとキリストに従った人でしょうか。いわゆる「立派なクリスチャン」と呼ばれるような人を考えがちではないでしょうか。

しかし、主イエスはご自分の味方をもっと広く捉えていらっしゃいます。キリストや弟子達、教会に対して逆らわない人はそれだけでもう「キリストの味方」だとおっしゃいます。

主イエスの宣教の旅は、聖書には書かれていない無数の小さな信仰者たちの小さな業によって続けることができていました。ある人は宿を貸し、ある人は食料を、ある人は水一杯を差し出す・・・そのような小さな信仰の業がキリストの神の国の宣教を支えていたのです。

「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」

たかが一杯の水を差しだすだけで、「キリストの味方」と言っていただけるのです。私達はそれぞれが小さい者です。ある人は牧師として、ある人や役員として、ある人は一信徒として・・・ただ聖霊の助けを受け、キリストから託された使命を果たしています。一杯の水を誰かに差し出すぐらいのことしかしていないかもしれません。しかしそれで充分です。その小さな信仰の業は確かに用いられます。

では、キリストのお名前を使うのに相応しくない人とはどんな人でしょうか。

使徒言行録に次のような人たちが出てきます。

まず、魔術師シモンです(8章)。サマリアの魔術師シモンは魔術を使って人々を驚かせ、「偉大な人」と呼ばれていました。そこにキリストの使徒たちが来て人々に洗礼を授けます。洗礼を受けた人たちに聖霊が下るのを見て、シモンはうらやましく思います。シモンはペトロの所に行き、金を積んで「私にもその力を授けてください」と願い出ました。しかしペトロから「この金はお前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」と言われてしまいます。

キリストのお名前を自分のために利用する人は「キリストの味方」とみなされることはないのです。

また、エフェソの町でこういうことがありました(19章)。ユダヤ人の祈祷師たちが、使徒パウロが癒しや悪霊払いをしているのを見て、試しに自分たちにもできるかどうかやってみたのです。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言うと、逆に悪霊たちから「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言われ、傷つけられてしまいました。

イエス・キリストのお名前を興味本位に試して使うような人たちも、「キリストの味方」とされることはありません。

さて、私達はどのような時にキリストのお名前を使っているでしょうか。それは、祈る時です。私達はキリストのお名前によって神に祈りの言葉を捧げます。キリストご自身が、「あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ福音書16:23)とおっしゃったからです。私達の祈りは、キリストの祈りとして神に届けられることになります。

「もし神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか。私達全てのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らないはずがありましょうか」(ロマ8:31~32)

自分の信仰の影響力の小ささを嘆く必要はありません。独り子をくださるほどの愛を示された神が、まず私達の味方でいてくださいます。小さな信仰の業を積み重ねて行きましょう。

ルカ福音書24:13~35

「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主イエスは復活して、シモンに現れたと言ってきた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださった時にイエスだとわかった次第を話した。」(ルカ福音書24:33~34)

主イエスが殺された後、自分たちにも危害が及ぶのではないか、と恐れた弟子達はエルサレムで身を寄せ合って隠れていました。彼らのところに女性たちがやってきて、「イエス様の墓が空になっています。そして天使がそこにいて『あの方は蘇えられた』と言いました」と報告しました。しかし弟子達は、女性たちの言うことを信じませんでした。「たわごとだと思った」のです。

その後、主イエスの弟子が二人、エルサレムからエマオという村へと歩いていました。すると一人の人が横に来て、「あなたがたが話しているのは何のことですか」と声をかけ、肩を並べて歩き始めました。二人は数日前にエルサレムで起こったことを話し、自分たちは今失望の内にあることを伝えました。

声をかけてきた人は、復活なさったイエス・キリストご自身でした。しかし霊の目が開いていない弟子達はそのことがわかりません。主イエスは「なぜわからないのか」と、歩きながら聖書の言葉を一から説明なさいました。

その人の語る言葉を聞くと、二人は「心が燃え」るのを感じました。もっと話を聞きたいと思い、二人はこの人に自分たちと食事を共にするよう招きました。三人は食卓を共にしますが、面白い逆転が起こっています。誘ったのは二人でしたが、誘われた方の人が、この食卓の主人となって二人にパンを分け与えるのです。

この人からパンを受け取った瞬間、二人の弟子達の霊の目が開き、自分たちの目の前にいるのが復活なさったイエス・キリストであるとわかりました。しかし、主イエスの姿はその瞬間見えなくなってしまいます。

それでも、二人にとって主イエスの姿が見えなくなったことは大きな問題ではありませんでした。たとえ自分たちの目に見えなくても、キリストは生きて自分たちと歩みを共にし、導き、必要な御言葉を聞かせてくださることを知ったのです。

絶望の中エマオへと向かう彼らの歩みは、エルサレムへと引き返し希望を伝える歩みへと変わりました。

エマオ途上の二人の弟子達に起こったことこそ、私達に起こったこと(起こっていること)です。私達の歩みの中にキリストが来てくださり、聖書の御言葉を聞かせ、私達の信仰の目を少しずつ開いて下さる・・・そして、共に歩んでくださるその方によって歩む方向が変えられ、定められていくのです。

信仰生活の中で、失望を感じることはたびたびあります。しかし私達の信仰が行き付くのは失望・絶望ではありません。死から蘇られたイエス・キリストが、失望に沈む私達を永遠の命という希望へと連れ出してくださいます。