MIYAKEJIMA CHURCH

5月2日礼拝のお知らせ

【次週礼拝(5月2日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコによる福音書 10:13~16

 交読文:詩編1編

 讃美歌:讃詠546番、8番、460番、461番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

マルコ福音書10:1~12

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(マルコ福音書10:5)

主イエスがエルサレムへと近づいて行かれると人々が集まって来ました。人々は主イエスのガリラヤ宣教の噂を聞いていたのでしょう。いつものように神の国の福音を人々にお教えになっていらっしゃったところに、ファリサイ派の人たちもやって来ました。彼らはこれまでにそうしてきたように、主イエスを試して陥れようと聖書の解釈に関する議論を仕掛けて来ました。

ここでファリサイ派の人たちが持ち出したのは、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているかどうか」という繊細な問題でした。

ここを読む上で踏まえておかなければならないのは、これは「夫婦の離婚がいいことか悪いことか」などという単純なことが話し合われているのではない、ということです。

ここで主イエスとファリサイ派の間に交わされた議論は、夫が妻に離縁状を渡すことについて、「それを聖書の律法がどういっているか」「ファリサイ派の人たちがそれをどう解釈し実践していたか」「イエス・キリストがそのファリサイ派の信仰の姿勢についてなんとおっしゃっているか」ということを踏まえて、慎重に、そして丁寧に読んでいかなければなりません。

この時主イエスの下にやって来たファリサイ派の人たちは、「夫が妻を離縁することは当然許されることであり、それは夫の側に強い決定権がある。夫は自分の都合で、妻を自由に離縁することができる」と考えていました。

主イエスの時代のファリサイ派の中には、妻が作る料理がおいしくないとか、妻の見た目が自分の好みと違うとか、今の私達からすれば信じられないほど些細で身勝手な理由で妻を離縁する人たちがいたのです。

さて、ファリサイ派の人たちの質問に対して、主イエスのお答えはこうでした。

「天地創造の始めから、神は人を男と女とにおつくりになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。したがって、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」

ファリサイ派の人たちが主イエスに聞いたのは、夫婦の離縁についての律法の解釈でした。しかし主イエスは天地創造まで遡って、そもそも神が人間をどのように造られたのか、ということを答えとされたのです。

主イエスは、男女の結婚が神の創造の御業であり創造の秩序であることをおっしゃいます。「夫の身勝手な都合で妻を自由に離縁できるようなものではない。身勝手な軽々しい都合で結婚を解消することは、神聖な神の創造の御業を人間が弄ぶことになる」ということを示されたのです。

マタイ福音書の山上の説教の中で、主イエスはもっと直接的にこうおっしゃっています。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者は誰でも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ5:31)

申命記の24章の初めには、このような一文があります。

「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申命記24:1)

この一文だけを切り取って読むと、確かにこの時のファリサイ派の人たちが考えていたように、夫は妻に気に入らない理由があれば自由に離縁することが許されているように聞こえます。

しかしこの申命記の言葉は「離婚したければこうしなさい」という規定ではなく、「どうにもならない事情で離婚せざるをえなくなったとしても、その後、このような再婚はしてはいけない」という規定の中の一文なのです。

改めて、私達は主イエスがファリサイ派に最初におっしゃった言葉に注目しましょう。

「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」

ここで一番恐ろしいのは、このキリストの言葉ではないでしょうか。

神がお創りになった秩序・調和を壊す力・・・夫婦関係を、親子関係を、友人関を破壊する人間の心の頑なさ、弱さ・・・聖書はそれを「罪」と呼んでいます。

「あなたも神のようになれるのだ」という誘惑の言葉に負け、人は世界の初めに神から離れ、自分が神になろうとして罪に堕ち、罪に支配されるようになりました。

主イエスは、ある時、「律法で一番大切な教えは何か」と聞かれた際、「神を愛し、人を愛することだ」とお答えになりました。神から離れる、ということは、神を愛し人を愛する、という創造の秩序の崩壊を意味します。

私達の内にある頑なさ・弱さを認め、神の創造の御業にまで遡って、この世界を見つめ直しましょう。そして神がお創りになった調和の中へと再び導いて下さるキリストに身を委ねて生きましょう。

マルコ福音書9:42~50

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ福音書9;49~50)

エルサレムへの旅の途中、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」という議論をしていた弟子達に、主イエスは「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」とおっしゃいました。

神の前に子供のような人、神に対して水一杯を差し出すような人・・・そのような小さな信仰者の信仰を傷つけてはいけないことを教えるために、主イエスはとても厳しい言葉をつかわれています。「誰かの信仰を躓かせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。片方の手があなたを躓かせるなら、切り捨ててしまいなさい。足も、目も同じだ」。

主イエスがこれほど激しい言葉を使っていらっしゃるということは、この時弟子達の心を支配していた「自分は他の人よりも偉い」という思いはそれだけ危険なものであったということでしょう。

誰かを「躓かせる」とは、「誰かの信仰を傷つける・誰かのキリストへの思いをなくさせる」ということです。主イエスがここでおっしゃっているのは、この世の誘惑や迫害という外からもたらされる躓きではありません。教会が内側に抱えている躓き、信仰者同士の間にある躓きです。

12弟子が「12人の中で誰が一番偉いのか」とか、「自分たちはイエス様に近い弟子だから他の人たちよりも偉いだろう」と考えていたことは、私達にとって決して他人事ではありません。

パウロの手紙を見ると、実際に1世紀のコリント教会の中で「私はパウロにつく、私はアポロに付く、私はペトロにつく」などという派閥争いがあったことが書かれています(1コリ1章)。パウロは、「教会はキリストの体だ」と書いてコリント教会の人たちを戒めました。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体の全ての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(1コリ12章)

キリスト信仰者同士が、争いあい、互いの信仰を傷つけあうことほど愚かなことはありません。それは自分の体の右手と左手が喧嘩をするようなものです。右手と左手が喧嘩をして傷つけあっても、同じ体なのだから、相手に与えた傷は自分の痛みとなります。そしてそれは、体全体の痛みとなるのです。

私達の一体何が、誰かの信仰を傷つけてしまうのでしょうか。主イエスはここで「あなたの、手、足、目が人を躓かせるなら」とおっしゃっています。それはつまり、私達が持っている全てのもの、ということでしょう。私達は自分が持っている全てのものを用いて、誰かの信仰を傷つけてしまう弱さ抱えているのです。

ヤコブの手紙にはこう書かれています。

「ごらんなさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は「『不義の世界』です。私達の体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。・・・私達は舌で、父である主イエスを賛美し、また、舌で神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(ヤコブの手紙3章)。私達は自分の言葉一つで、誰かをキリストから引き離してしまう刃を秘めているのです。

パウロやヤコブの手紙にこれらのような言葉が残っているということは、1世紀の教会の中にはいつもこういう問題が起こっていた、ということでしょう。1世紀の教会には、特別に悪い人たちが集まっていたのでしょうか。そんなことはありません。そこに集まっていた人たちは皆普通の人たちであり、純粋にイエス・キリストを求めていた人たちです。今の教会の中にも「躓き」の刃は日常的に潜んでいます。だからこそ、キリストはここまで厳しい言葉で私達に警告の言葉を残していらっしゃるのです。

さて、主イエスは、49~50節で意味深なことをおっしゃっています。

「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は、良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなた方は何によって塩に味をつけるのか」

「火」は、聖書の中で、金属の中から不純物を取り除くものとして書かれています(マラキ3章)。「塩」は、旧約聖書のレビ記では、神への捧げものを清めるものとして言われています(レビ記2章)。

主イエスは弟子達のことを「精錬され不純物が取り除かれた神への聖い捧げもの」としてお考えになっているのでしょう。パウロも、ロマ12章で書いています。「兄弟たち、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

「人は皆、火で塩味を付けられる」・・・私達信仰者は、信仰の試練を通して強められていく、ということです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない・・・霊の父は私達の益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で私達を鍛えられるのです」(ヘブ12章)

「塩」にはもう一つの意味があります。ユダヤ教の教師たちは、塩を、知恵の比喩として用いました。パウロはコロサイの信徒への手紙の中で、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」と書いています(コロ4:5~6)。キリストに従う人は、塩味の聞いた言葉(神の国の知恵)を語り、塩味のきいた生活(神の国を求める信仰生活)を送ることが求められているのです。

そう言われると「自分には難しい」と身構えてしまうかもしれませんが、そんなに難しいことではないはずです。神学をたくさん勉強して難しいことを言わなければならない、ということではありません。ただ、キリストに救われて自分の今があること、キリストによって今生かされていることをわきまえて日々を過ごす、ということです。

主イエスは最後に、「互いに平和に過ごしなさい」と弟子達にお命じになりました。「誰が一番偉いのか」という弟子達の議論に対する結論はこれです。誰が一番偉いのかを決めるのが私達の信仰ではありません。「互いに平和に過ごしなさい」というキリストのご命令は、言葉にすれば簡単なことですが、実はこれこそ人間的な弱さを持つ私達にとって一番忍耐のいる信仰の業であり、祈りながら乗り越えて行かなければならない試練ではないでしょうか。

マルコによる福音書9:38~41

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ福音書9:41)

12弟子の一人ヨハネが、主イエスのお名前を勝手に使って悪霊を追い出している人を見て不愉快に思い、主イエスにそのことを報告しました。「私達に従わないので、やめさせようとしました」

主イエスのお答えは「やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、そのすぐあとで、私の悪口は言えまい。私達に逆らわない者は、私達の味方なのである」というものでした。ヨハネも、他の弟子達も驚いたでしょう。

イエス・キリストの「味方」とはどんな人か、と考えた時、私達はどんな人を思い浮かべるでしょうか。12弟子のように家も家族も後に残して人生丸ごとキリストに従った人でしょうか。いわゆる「立派なクリスチャン」と呼ばれるような人を考えがちではないでしょうか。

しかし、主イエスはご自分の味方をもっと広く捉えていらっしゃいます。キリストや弟子達、教会に対して逆らわない人はそれだけでもう「キリストの味方」だとおっしゃいます。

主イエスの宣教の旅は、聖書には書かれていない無数の小さな信仰者たちの小さな業によって続けることができていました。ある人は宿を貸し、ある人は食料を、ある人は水一杯を差し出す・・・そのような小さな信仰の業がキリストの神の国の宣教を支えていたのです。

「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」

たかが一杯の水を差しだすだけで、「キリストの味方」と言っていただけるのです。私達はそれぞれが小さい者です。ある人は牧師として、ある人や役員として、ある人は一信徒として・・・ただ聖霊の助けを受け、キリストから託された使命を果たしています。一杯の水を誰かに差し出すぐらいのことしかしていないかもしれません。しかしそれで充分です。その小さな信仰の業は確かに用いられます。

では、キリストのお名前を使うのに相応しくない人とはどんな人でしょうか。

使徒言行録に次のような人たちが出てきます。

まず、魔術師シモンです(8章)。サマリアの魔術師シモンは魔術を使って人々を驚かせ、「偉大な人」と呼ばれていました。そこにキリストの使徒たちが来て人々に洗礼を授けます。洗礼を受けた人たちに聖霊が下るのを見て、シモンはうらやましく思います。シモンはペトロの所に行き、金を積んで「私にもその力を授けてください」と願い出ました。しかしペトロから「この金はお前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ」と言われてしまいます。

キリストのお名前を自分のために利用する人は「キリストの味方」とみなされることはないのです。

また、エフェソの町でこういうことがありました(19章)。ユダヤ人の祈祷師たちが、使徒パウロが癒しや悪霊払いをしているのを見て、試しに自分たちにもできるかどうかやってみたのです。「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言うと、逆に悪霊たちから「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言われ、傷つけられてしまいました。

イエス・キリストのお名前を興味本位に試して使うような人たちも、「キリストの味方」とされることはありません。

さて、私達はどのような時にキリストのお名前を使っているでしょうか。それは、祈る時です。私達はキリストのお名前によって神に祈りの言葉を捧げます。キリストご自身が、「あなたがたが私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(ヨハネ福音書16:23)とおっしゃったからです。私達の祈りは、キリストの祈りとして神に届けられることになります。

「もし神が私達の味方であるならば、誰が私達に敵対できますか。私達全てのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らないはずがありましょうか」(ロマ8:31~32)

自分の信仰の影響力の小ささを嘆く必要はありません。独り子をくださるほどの愛を示された神が、まず私達の味方でいてくださいます。小さな信仰の業を積み重ねて行きましょう。

ルカ福音書24:13~35

「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主イエスは復活して、シモンに現れたと言ってきた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださった時にイエスだとわかった次第を話した。」(ルカ福音書24:33~34)

主イエスが殺された後、自分たちにも危害が及ぶのではないか、と恐れた弟子達はエルサレムで身を寄せ合って隠れていました。彼らのところに女性たちがやってきて、「イエス様の墓が空になっています。そして天使がそこにいて『あの方は蘇えられた』と言いました」と報告しました。しかし弟子達は、女性たちの言うことを信じませんでした。「たわごとだと思った」のです。

その後、主イエスの弟子が二人、エルサレムからエマオという村へと歩いていました。すると一人の人が横に来て、「あなたがたが話しているのは何のことですか」と声をかけ、肩を並べて歩き始めました。二人は数日前にエルサレムで起こったことを話し、自分たちは今失望の内にあることを伝えました。

声をかけてきた人は、復活なさったイエス・キリストご自身でした。しかし霊の目が開いていない弟子達はそのことがわかりません。主イエスは「なぜわからないのか」と、歩きながら聖書の言葉を一から説明なさいました。

その人の語る言葉を聞くと、二人は「心が燃え」るのを感じました。もっと話を聞きたいと思い、二人はこの人に自分たちと食事を共にするよう招きました。三人は食卓を共にしますが、面白い逆転が起こっています。誘ったのは二人でしたが、誘われた方の人が、この食卓の主人となって二人にパンを分け与えるのです。

この人からパンを受け取った瞬間、二人の弟子達の霊の目が開き、自分たちの目の前にいるのが復活なさったイエス・キリストであるとわかりました。しかし、主イエスの姿はその瞬間見えなくなってしまいます。

それでも、二人にとって主イエスの姿が見えなくなったことは大きな問題ではありませんでした。たとえ自分たちの目に見えなくても、キリストは生きて自分たちと歩みを共にし、導き、必要な御言葉を聞かせてくださることを知ったのです。

絶望の中エマオへと向かう彼らの歩みは、エルサレムへと引き返し希望を伝える歩みへと変わりました。

エマオ途上の二人の弟子達に起こったことこそ、私達に起こったこと(起こっていること)です。私達の歩みの中にキリストが来てくださり、聖書の御言葉を聞かせ、私達の信仰の目を少しずつ開いて下さる・・・そして、共に歩んでくださるその方によって歩む方向が変えられ、定められていくのです。

信仰生活の中で、失望を感じることはたびたびあります。しかし私達の信仰が行き付くのは失望・絶望ではありません。死から蘇られたイエス・キリストが、失望に沈む私達を永遠の命という希望へと連れ出してくださいます。