MIYAKEJIMA CHURCH

9月5日の礼拝案内

【次週礼拝(9月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:38~44

 交読文:詩編4編

 讃美歌:讃詠546番、26番、452番、252番、頌栄543番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月29日の説教要旨

マルコ福音書12:35~37

「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」(12:37)

主イエスがエルサレムに入られてから、祭司長、律法学者、長老といったユダヤの指導者たちが、律法に関する難しい議論を仕掛けて来ました。ガリラヤからやってきたイエスという律法の教師がエルサレムの人たちの注目を集めていたこと、そして神殿がまるで自分の家であるかのようにふるまっていたことに危機感を覚えたのです。

しかし、この人たちは聖書に関する議論を通してナザレのイエスを言い負かすことは出来ませんでした。それどころか、主イエスがファリサイ派やサドカイ派の人たちの議論に立派にお答えになり、「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛する、ということが律法である」とおっしゃったのを聞いて、「先生、あなたがおっしゃっている通りです」と主イエスに聞き従う律法学者まで出て来てしまいました。

もう質問して来る人がいなくなったので、主イエスはそのまま神殿の境内で教えを語られました。群集は喜んで主イエスの言葉に耳を傾けました。

主イエスは、その群衆に向かって、質問をなさいました

「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」

「聖書を見ると、ダビデ本人がメシアに向かって『主よ』と呼びかけている。『私の子よ』、ではなく、『私の主よ』と呼びかけている。それなら、なぜメシアは『ダビデの子』」なのか、という質問です。

律法学者だけでなく、この時代の人々は皆、「あのダビデ王のようなメシアが来る、メシアはダビデの再来である」と信じていました。聖書にそう預言されていたからです。

例えば、エゼキエル書にこういう預言があります。

「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。・・・私は彼らと平和の契約を結ぶ」。

このように、いろんな預言書の中に、「メシアが来る、再びダビデが来る」、という預言が残されていたのです。

そのことから、人々はやがて来るとされているメシアのことを、「ダビデの子」という称号で呼ぶようになり、メシアはダビデの再来として、自分たちを救いだしてくれる、と期待していました。

「なぜ律法学者たちは、メシアをダビデの子と呼んでいるのか」

この質問は、群衆にとって面食らうものだったと思います。

「律法学者がそう呼んでいるのだから、メシアはダビデの子なのだろう、ダビデの再来なのだろう」、人々はそう理解していたのではないでしょうか。しかし、主イエスはあえてそのことを人々に考えさせようとなさいました。当時の人たちにとって当然だったことを、根本から問い直されたのです。

主イエスは、エルサレムへの旅を始める際に、弟子達にも質問されています。

「人々は私のことを何者だと言っているか」

弟子達は、「皆、あなたのことを預言者だと言っています」と答えました。主イエスはさらに弟子達に問われます。「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」

ペトロは弟子達を代表して答えた。「あなたは、メシアです」。

主イエスは、ここで同じことを人々に問いかけていらっしゃいます。

「律法学者を始めとして、あなたがたはメシアのことをダビデの子と呼んでいる。

あなたがたが期待しているダビデの子とは何者なのか。」

人々はダビデが成し遂げたことを自分たちの時代に成し遂げてくれるだろう、と期待していました。

ダビデはサウル王の後イスラエルの指導者になり、先頭に立って戦い、エルサレムをイスラエルの首都に定め、イスラエルを国として築き上げ人です。剣をもち、敵と戦い、イスラエルを導いた英雄でした。イスラエルの人たちにとってダビデという名前は、戦争に勝つ王様のイメージでした。

主イエスの時代の人たちは、「ダビデの子」、と聞くと、ローマ帝国を打ち破る英雄を思い浮かべたでしょう。主イエスの時代、人々はそのように、自分たちの先頭に立って軍を率い、外国の支配からイスラエルを救ってくれる指導者であるメシアを待っていたのです。

その人々の期待に対して、主イエスは、「あなたたちが考えているダビデの子は、本当にそのような、戦争を指導する救い主なのだろうか」と問われるのです。

人々は、「このイエスという人こそ、ダビデの子ではないか」という期待を抱いていました。エリコの町で、バルティマイという目の見えない人が、主イエスに向かって「ダビデの子」と叫び、その信仰に応えて主イエスがその人の目を癒されたのを見ました。

エルサレムに入る際には、ガリラヤからの群衆が主イエスを前後から「我らの父ダビデの鍛えるべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ」と叫びました。

「この方こそダビデの子なのではないか」という強い期待をもって、群衆はこの方のおっしゃることに耳を傾けていたのだ。

確かに、主イエスはダビデの子、メシアでした。聖書はそのことを証ししているし、私達もこの方のことを、メシア、つまりキリストであると信じています。

しかし、大切なことは、「それでは主イエスはどのようなダビデの子・キリストなのか」、ということなのです。人々が期待していたように、軍馬に乗って軍隊を指揮し、敵を倒すメシア・ダビデなのでしょうか。

主イエスのお姿は、むしろ、逆でした。馬ではなく、子ロバにのってエルサレムに入られました。強く、威厳のある王としてではなく、柔和で謙遜で平和な王としてエルサレムに入って来られました。そもそも、主イエスは弟子達に、「私はエルサレムで殺されることになっている」とおっしゃっています。主イエスの使命は、人々を戦争へと駆り立て、その先頭に立つ、ということではなかったのです。

主イエスの弟子達への問い、また群衆への問いは、今、聖書を読んでいる私達への問いかけです。私達は、自分勝手な期待を、自分に都合のいい期待を主イエスに対して持っていないでしょうか。

「あなたがたは私にどのような救いを期待しているのか」と問われています。

もしイエス・キリストが、自分が欲しいもの・自分に都合のいいものをくださる救い主であれば、信じることは簡単でしょう。信じたらすぐにいいことがたくさん起こって、自分の人生に問題が何もなくなる、というのであれば、誰でもキリストをすぐに信じるでしょう。

しかし、イエス・キリストを信じて従う・信じて従い続ける、ということは、そんなに簡単なことではありません。キリストに従う、ということは、ご利益がたくさんもらえる、ということではないのです。「私に従う者は自分の十字架を背負って私に従いなさい」と主はおっしゃいました。キリストに従うということは、キリストの十字架の御業に加わる、ということなのです。

私達は本当に主イエスがもたらしてくださった救いを正しく見据えることが出来ているでしょうか。そもそも聖書には、ダビデの子について、どのように預言されているでしょうか。

エゼキエル書34章で、神はこうおっしゃっている。

「見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊が散り散りになっている時に、その群れを探すように。私は自分の羊を探す。」 Continue reading

8月29日の礼拝案内

【次週礼拝(8月29日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:35~37

 交読文:詩編4編

 讃美歌:讃詠546番、25番、197番、344番、頌栄542番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月22日の説教要旨

マルコ福音書12:28~34

「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」(12:34)

神殿の境内で、主イエスはファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派の人たちから議論を仕掛けられました。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかどうか」

「世の終わりの復活は本当にあるのか。もし復活があると言うのなら、世の終わりにこんな困ったことになるのではないか」

主イエスは皇帝への税金に関しても、復活の信仰に関しても、明確に聖書に基づいてお答えになりました。「立派にお答えになった」のを見て、一人の律法学者が質問をして来ます。

この人は、ファリサイ派やサドカイ派の人たちのように、主イエスを陥れようとしたのではありません。これまでのファリサイ派、サドカイ派の人たちとの議論を聞いて、「この方こそ神の言葉・律法を最もよく知る方ではないか」、と思い、期待して質問をしたのです。

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」

これだけたくさんある聖書の言葉の内、一番大事な言葉はどれか、一言でまとめると聖書は我々に何を求めているのか、という質問です。これだけたくさんある神の教えの中から、一番大切なものを一つ抜き出すということは困難なことのように思えます。しかし、これは難しい質問のように見えて、実は一番初歩的なものではないでしょうか。

私達もこのような質問を受けることがあると思います。イエス・キリストことを全く知らない人であれば、「聖書はどんなことが書かれているのですか」とか「イエス・キリストは、一言で言うと、どのような人物のですか」と尋ねるでしょう。それを考えると、この人の質問は、律法に関する最も初歩的なものだと言っていいと思います。

しかし、ここで面白いのは、そのような初歩的な質問を律法の専門家である律法学者が主イエスに尋ねた、ということです。一体なぜ、この人は、主イエスにこのようなことを聞いたのでしょうか。

考えられるのは、この律法学者は、日々聖書を研究する中で、聖書の本質がだんだん見えなくなっていたのではないか、ということです。一所懸命に律法に向き合い、律法の奥深さを知れば知るほど、逆に真理が見えづらくなってしまった。それで改めて、ファリサイ派やサドカイ派の人たちからの律法に関する難題に立派にお答えになった主イエスに聞いてみよう、と思ったのではないでしょうか。

恐らく、この人は、恥を忍んでこの質問をしたのではないでしょうか。自分の渇きを抱えて、律法の原点についてイエスというガリラヤの教師に尋ねたのでしょう。

主イエスのお答えは、こうでした。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」

これは申命記6:4~5の言葉で、当時のユダヤ人たちは、毎日この言葉を暗唱して祈っていました。「どれが第一の掟ですか」という質問をされると、おそらく多くの人がこの申命記の言葉を答えたのではないでしょうか。これを聞いて、律法学者は、「やはり、この人もそう思うのだな」、と納得したと思います。

しかし、主イエスは「第二の掟はこれである」と続けられました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つに勝る掟は他にない」

主イエスは一つのことを聞かれて、二つのことを答えとされました。律法学者の、「どれが第一でしょうか」という質問に対して、主イエスは「第一の掟は、これで、第二の掟はこれである」、こういう答え方をなさったのです。

「心を尽くして神を愛しなさい」という第一の掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という第二の掟と切り離せない、ということです。この二つの掟は、二つで一つなのです。

「神を愛する」ということと「隣人を愛する」ということは、一体なのです。主イエスが律法学者にお示しになった大きな真理はこれでした。心を尽くして神を愛しても、隣人を自分のように愛することがなければ聖書が求めていることを実践しているとは言えません。逆に、隣人を自分のように愛しても、心を尽くして神を愛することが無ければ、律法を満たしているとは言えません。

律法学者は、主イエスの答えを聞いて、感動しました。そしてすぐに主イエスがおっしゃったことを受け入れました。

「先生は、おっしゃる通りです。『神は唯一である。他に神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げものやいけにえよりも優れています。」

この人は、神への捧げものとは何か、神への生贄とは何か、ということを日々考え、行き詰って悩んでいたのかもしれません。主イエスの答えは、律法学者の心に光を差し込んだようです。神を愛することと隣人を愛することは一つである、ということが聖書の第一の掟である、と知って、彼の心は晴れました。

律法学者が尋ねた質問は、難しいようでいて、実は難しくない質問だったと思います。聖書の教えというのは、十戒に集約されているのです。十戒は文字通り、十の戒めです。初めの4つは、神を愛するための戒めであり、残りの6つは、隣人を愛するための戒めです。

主イエスの答えは、十戒を単純にまとめたものでした。その当時誰も知らなかった、真新しい教えではありません。むしろ、人々の方が、聖書の一番核になる教えを見失いかけていた、ということでしょう。

私達は、主イエスがお答えになった大切な掟の内容そのものよりも、律法学者がなぜこれほどまでに驚き、感動したのか、ということに注意を向けたいと思います。

律法学者が主イエスの答えを聞いて、これだけ驚いた、ということは、日々聖書を研究していた律法学者でさえ、聖書の本質を見失うことがある、ということです。神が私達にお求めになっていることは、本当は複雑なことではありません。律法学者のように、聖書の専門家でなければ理解できないようなことではないのです。

神が私達にお求めになっているのは、神を愛し、隣人を愛するということです。これだけです。単純なことです。しかし、こんな簡単なことを我々はすぐに忘れてしまうのです。

教会の中でもすぐにそういうことは起こります。ヤコブの手紙にこういう言葉があります。

「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなた方は罪を犯すことになり、律法によって、違反者と断定されます。」

このようなことを書いている手紙が残っている、ということは、教会の中で、神への信仰はもっているが、隣人への愛は実践できていなかった、という状況があった、ということでしょう。

主イエスがおっしゃっているのと同じことをパウロも書いています。

「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すね、盗むな、むさぼるな』そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」(ロマ13:8~10)

私達はなぜ、「神を愛し、隣人を愛する」という単純なことをすぐ忘れてしまうでしょうか。「愛する」ということが難しいからです。いつも、自分だけを愛そうとするからです。神に・隣人に心を向けさせないようにする力が私達に働いています。聖書はその悪しき力を「罪」と呼んで、その働きについて教えてくれています。

「罪」という力がなぜ恐ろしいのかというと、自分だけを愛するように人を仕向けて、神への愛を、隣人への愛を破壊するからです。自分だけを愛させる力、それが罪の力だ。

福音書を読んでいると、主イエスは、律法学者やファリサイ派やサドカイ派の人たちとは仲が悪かったような印象を持ちがちです。しかし、実際は理由もなく敵対していたわけではありません。。それぞれが、律法のことを、聖書のことを真剣に捉えていたからこそ、真剣な議論になっていたのです。

ここを読んでわかるのは、イエス・キリストなしでは、人は迷う、ということです。律法学者も、とてもまっすぐに神の国を求め、神の言葉に従おうとしていたのです。しかし、熱心に研究していた学者であっても、律法の中心が何かわからなくなってしまっていました。

キリストに出会って、この律法学者は変えられたでしょう。この人がこの後イエス・キリストの弟子となったかどうかはわかりません。しかし、自分が向き合う律法とは何なのか、何のための言葉なのかを知って、新しい信仰の姿勢で聖書に向き合い始めたことは間違いありません。

主イエスは律法学者の喜びの言葉を聞いて、「あなたは、神の国から遠くない」とおっしゃっいました。そして、そのやり取りを周りで聞いていた人たちの中に、「もはや、あえて質問する者はなかった」とあります。この律法学者だけでなく、周りで見ていた人たち、主イエスを危険視した人さえも、イエス・キリストを通して、神が何を自分たちにお求めであるか、ということをはっきりと知りました。

質問する人がいなくなった、ということは、皆、はっきりと道が見えた、ということでしょう。はっきりと、自分のあり方、生き方を知った、ということです。イエス・キリストとの出会いは、このように人を変えていくのです。

キリストに出会う、ということは、道を見出す、ということです。ヨハネ福音書で主イエスはおっしゃっています。

「私は、道であり、真理であり、命である」

神を愛し、隣人を愛するというこの単純な真理に生きる、ということが私達に課された信仰の戦いでしょう。聖書の言葉を武器にして罪の誘惑と戦っています。

主イエスがここで律法学者におっしゃっているように、人は、神への愛・隣人への愛に生きることから、神の国に生きることが始まるのです。

8月22日の礼拝案内

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

【次週礼拝(8月22日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:28~34

 交読文:詩編4編

 讃美歌:讃詠546番、24番、188番、522番、頌栄542番

8月15日の説教要旨

マルコ福音書12:18~27

「神は死んだ者の神で反買う、生きている者の神なのだ」(12:27)

神殿の境内での出来事の記述が続きます。

ファリサイ派とヘロデ派の人たちは、主イエスを罠にかけることに失敗しました。「皇帝に税金を納めることは、律法に適っているかどうか」という難しい質問で言葉尻を捕えようとしました、主イエスから「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われ、彼らは何も言い返せませんでした。

次に出てきたのは、サドカイ派でした。福音書を読んでいると、ファリサイ派とか、サドカイ派とかヘロデ派など、何々派という言葉がよく出てきます。当時は、同じユダヤ教でも聖書の理解が違ったり、政治姿勢が違ったりしてたくさんの派閥があったのです。

今日私達が読んだところには、「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスの所へきて尋ねた」と記されています。

サドカイ派の人たちは、は世の終わりに起こるとされている「復活」を信じない人たちでした。

サドカイ派は、「モーセ五書」と呼ばれる、旧約聖書の最初の五つの書物、つまり、創世記から申命記までの五つの書だけを信仰の基準としていました。モーセ5書の中には「復活」に関する信仰は書かれていません。書かれているのは、「預言書」です。そのため、、サドカイ派の人たちは、世の終わりに人間が神によって復活させられる、ということは信じていなかったのです。

ファリサイ派の人たちは、「預言書」も信仰の基準としていたので、復活を信じていました。ファリサイ派とヘロデ派の人たちが、イエスを言い負かすことが出来なかったと聞いて、サドカイ派の人たちは、「よし、それでは自分たちがイエスを言い負かしてやろう」と意気込んだのでしょう。主イエスの下にやって来て「復活」に関する議論を持ち出しました。

主イエスに質問して言い負かし、同時に、ファリサイ派の人たちが信じていた「復活」の信仰も否定しようとしたのでしょう。

さて、その質問の内容です。サドカイ派の人たちは「もし終わりの日に復活が本当に起こるのであれば、こんな困ったことになるのではないですか」、と言ってきました。

申命記25章に記されている規定を持ち出してきました。そこには、男性が子供を残さずに死んだなら、その妻は、夫の兄弟の妻となり、家の名前を残していかなければならない、ということが記されています。

「もし、男性とその兄弟が次々に死んでしまう、ということになると、一人の女性が複数の夫に次々に嫁ぐ、と言うことになる。それでは、世の終わりに復活した時に、その女性にとって一体だれが自分の夫になるのか」という質問です。

これは素朴な疑問だと思います。サドカイ派の人たちの言うことは筋が通っています。確かに、そのようにして一人の女性が夫の死と共に夫の兄弟に嫁ぐということになれば、復活の時には、自分は誰の妻になるのか、自分の夫は誰なのか、ということになるでしょう。「だから、世の終わりに復活などということが起こることはおかしいですよね」、と言うのです。

このサドカイ派の質問は、私達にとっても興味深いものではないでしょうか。私達キリスト教会は、イエス・キリストの復活を信じています。パウロは、「イエス・キリストは復活の初穂です」と言っています。つまり、私達自身にも、キリストに起こった復活が与えられる、と聖書は伝えているのです。実際私達は、礼拝ごとに使徒信条の中で「我は死人の蘇りを信ず」と告白しています。

復活は、キリスト教信仰の中心です。信仰者にとって、復活の信仰は、肉体の死を超えたところにある究極の希望です。

しかし、私達は、実際に自分の目でキリストの復活を目撃したわけではありません。誰かが墓の中から出てくるのを見たこともありません。

だから思うのです。「キリストは世の終わりに復活を約束してくださっているが、それは一体どのようなものなのだろうか。」復活というのは、我々にとって信仰の中心であり、希望であると同時に、一番の謎でもあります。

世の終わりに自分が墓の中で名前を呼ばれた時、一体、何が起こるのか。

自分はどのように復活するのか。

復活した後に与えられる永遠の命とはどのようなものなのか。

私達にとって、このサドカイ派の質問で示された復活に関する疑問は、誰もが、素朴に感じていることでもあるのです。

主イエスがサドカイ派に対してまずおっしゃったのは、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」という言葉でした。サドカイ派の人たちが「世の終わりの復活の際にはこんな問題が起こるのではないか」と考えるのは、聖書も神の力もわかっていないからだ、とおっしゃるのです。

「聖書も神の力も知らない」とはどういうことなのでしょうか。それはつまり、人間の知恵で、知識で全て考えようとしている、ということでしょう。聖書の言葉は、神の言葉です。私達人間が、自分の力では知ることが出来ないことを、神がお教えくださった、その神の教えが記されています。聖書には、我々が知りえないことが書かれているのです。これは聖書の言葉について考える際に、とても大切な前提だ。

サドカイ派の人たちのは、この世の終わりの復活を、今の自分たちの生活の延長として捉えています。復活の神秘を、自分たちの常識で捉え、復活の命を、今の生活の延長だと決めつけて考えています。

主イエスは彼らにおっしゃいました。「死者の中から復活する時には、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」私達の今の生活とは全く違う世界、違う命になる、ということです。 Continue reading

8月8日の礼拝案内

【次週礼拝(8月1日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書12:13~17

 交読文:詩編3編

 讃美歌:讃詠546番、23番、265番、298番、頌栄542番

【報告等】

◇8月7日(土) 役員会があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

8月1日の説教要旨

マルコ福音書12:13~18

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(12:17)

ユダヤの指導者たちは、ナザレからやって来たイエスという人をなんとか捕えようと、考えました。人々から褒め称えられながらエルサレムに入場してきたり、神殿の境内から商人を追い出して人々に教えを説いたりして、過越祭のエルサレムでやってほしくないことをしていたからです。

過越祭に巡礼に来ている人たちを刺激してほしくないし、ローマから目を付けられるようなこともしてほしくない。一番いいのは、このイエスという人を自分たちで捕らえてしまう、ということでした。

彼らは、なんとかしてナザレのイエスの捕えるための罠を考え出しました。それは、一つの質問でした。「皇帝に税を納めるのは、律法にかなっているかどうか」

少し、この質問の背景を踏まえておきます。彼らが聞いてきた「皇帝への税金」とは何か、ということです。

主イエスの時代、ユダヤ地方はヘロデ・アルケラオという領主によって治められていました。ヘロデ・アルケラオの父親は、主イエスがお生まれになった際、メシアの誕生を恐れ、ベツレヘムの地方の2歳以下の男の子を殺させた、あのヘロデ王です。

ヘロデ大王の死後、ヘロデ大王が支配していた地域は、三人の息子たちに分割されて統治されました。その一人が、ヘロデ・アルケラオで、彼はユダヤ地方の領主となったのです。

ローマ皇帝はヘロデ・アルケラオが領主として治めるユダヤ地方の人たちに税を課しました。それは人頭税だった。

人頭税というのは、文字通り「一人頭いくら」、という風に、無条件に課される直接税です。この人頭税は、ユダヤ地方に住むユダヤ人たちにとっては屈辱的なものでした。自分たちの国を占領している外国の王に、ただそこに住んでいるだけで税金を払わなければなりません。ローマ皇帝はユダヤ地方の人たちにとって異邦人・異教徒の王なのです。

実際、歴史を見ると、紀元6年にローマに対する暴動が起こっている。その暴動からまだ二十年ちょっとしか時間が経っていません。このユダヤ人に課せられていたローマへの人頭税が、ローマ帝国に対する火種となっていました。

このような中で、「皇帝に納める税金は律法に適っているか、適っていないか」と尋ねる、ということは、「ローマ皇帝と神と、どちらがあなたにとって大事か」、と公に尋ねるようなものです。

この質問をするために、ファリサイ派とヘロデ派の数人が主イエスの元に遣わされた、とある。

ファリサイ派は、神の律法を厳しく守り、実践していた人たちです。彼らはローマ皇帝への税金に対しては否定的だったでしょう。

ヘロデ派というのは、ユダヤ地方を支配していた、ヘロデ王家の政治の支持者たちです。彼らは、ヘロデ王家の政治を維持するためには、皇帝への税金はやむを得ないと考えていたでしょう。

そのような、それぞれの考えを持つファリサイ派とヘロデ派の人たちが一緒にやって来て主イエスに向かって質問したのです。

「先生、我々はあなた真実な方で、誰をもはばからない方であることを知っています」

主イエスが言い逃れ出来ないように、彼らはへつらいながら、ローマ皇帝への税金は神の律法に照らし合わせて、納めるべきか、納めてはならないのかをはっきり教えてほしい、と言ってきました。

これは聖書に書かれているように、主イエスの「言葉尻を捕えて陥れるため」に、律法の専門家が考えた質問です。主イエスがどう答えても、不利な立場になってしまうよう、よく練られています。

もし主イエスが「皇帝に納める税金は律法に適っている」と言えば、それを聞いていた人たちは、「イエスは神よりもローマ皇帝を選ぶのか」、と思い、主イエスはユダヤの人々からの支持を失ってしまいます。

もし「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っていない、納めるべきではない」、と言えば、ローマの兵士たちから反乱分子として危険視されることになります。

これに対して、主イエスはどう対応されたでしょうか。主イエスは、「皇帝に納税すべきだ」とも「皇帝に納税すべきではない」ともおっしゃいませんでした。

主イエスがまずおっしゃったのは、「デナリオン銀貨を見せなさい」ということでした。デナリオン銀貨は、ローマへの人頭税を支払うために用いられた硬貨です。

その銀貨には、皇帝の肖像が刻まれており、そして皇帝の像と一緒に「神の子」という称号も銘打たれていました。

当時のユダヤ人の人たちにとって、ローマ皇帝・異教徒の王様を「神の子」と讃えているデナリオン銀貨を用いることは屈辱でしたので、ささやかな抵抗として、日常ではデナリオン銀貨ではなく、皇帝の像が刻まれていない銅貨を用いていました。

主イエスはガリラヤ地方の人でしたから、ユダヤ地方の人のように人頭税を払う必要はありません。デナリオン銀貨を持ち歩く必要はなく、この時もお持ちではありませんでした。だから、「デナリオン銀貨を見せなさい」とおっしゃったのです。

しかし、「皇帝への税金は神の律法に適っているか」と聞いてきたファリサイ派とヘロデ派の人たちは、皇帝を「神の子」と讃えている銀貨を持っていたのです。

何気ないやりとりだが、これはとても大事な意味を持っています。このことで、ファリサイ派・ヘロデ派の人たちの下心は丸裸にされてしまいました。周りで見ていた人たちから、「なんだ、あの人たちは皇帝の像が刻まれた銀貨を持ち歩いているのか」と見られたでしょう。

彼らは主イエスから「(君たちが常日頃から持ち歩いている)これは誰の肖像と銘か」と聞かれました。彼らは「肖像と銘」を聞かれましたが、「皇帝のものです」と肖像についてだけ答えています。皇帝のことを「神の子」と讃えている銘については答えていません。恥ずかしかったのでしょう。せめて、皇帝を「神の子」と呼ぶことは控えました

主イエスは、ここまでおっしゃると、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と一言おっしゃって、このやり取りを終えられました。

さて、我々は、この主イエスの言葉を聞いてどう思うでしょうか。ファリサイ派とヘロデ派の人たちに、皇帝への納税が律法に適っているか、適っていないか、はっきり白黒つける答え方はされませんでした。ローマ皇帝のみか、神のみか、というような答えをされなかったのです。

神の子イエス・キリストであれば、「この世の王ではなく、ただ神のみに従いなさい。ローマ皇帝に税金など納めなくてもいい」とおっしゃってもおかしくなかったと思います。しかし、主イエスは、信仰生活とこの世での日常生活を全く分けて考えてはいらっしゃらないのです。

この主イエスの言葉は、この世で信仰生活をしている私達にとって、とても大切な指針を示していると思います。私達は、「信仰生活の中で、どうすれば神に従うことができるのか」、ということを考えます。信仰における義務と、この世で生きていくための義務を、相容れないもの・相反するものとして考えてしまうことはないでしょうか。

そのように突き詰めていくと、「神に従う、ということは、この世の誰にも従わない、ということではないか。自分が生きている社会の中で神だけを見て、社会の秩序には従わない、ということではないか」という極端な考えに流れてしまいます。こうなると、「神に従う、キリストに従う」、ということが「人とは関わらない」ということになりかねなません。

新約聖書のヤコブの手紙の中に、こういう言葉があります。

「私の兄弟たち、自分は信仰を持っているという者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。」

神への義務を果たしても、隣人に対しては何もしない、となるとその信仰は本末転倒でしょう。神はお喜びになりません。

主イエスの言葉は、信仰者としての在り方と、この世の社会に生きる、一人の社会人としての在り方を矛盾するものとして捉えられていません。 Continue reading