MIYAKEJIMA CHURCH

10月31日の礼拝案内

【次週礼拝(10月31日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:12~21

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、54番、204番、259番、頌栄544番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

◇11月2日(火) 15時より 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月24日の説教要旨

マルコ福音書14:1~11

「12人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」(14:10)

聖書は、シモンの家での香油の注ぎの出来事の前後に、主イエスのいらっしゃらないところで何が起こっていたか・どんな計画が進んでいたか、ということを書いています。

祭司長たちや律法学者たちがなんとかしてナザレのイエスを捕えて殺そうと狙っていた、とあります。そしてベタニアで主イエスが香油を注がれた後、弟子の一人、イスカリオテのユダが主イエスを彼らに引き渡そうとして取引しに行った、ということが書かれています。

祭司長や律法学者たちは、主イエスがガリラヤにいらっしゃった時からずっと彼らは主イエスを殺そうと考えていました。「危険人物であるあのナザレのイエスが今、エルサレムに来ている、自分たちの手の届くところにいる」、そう思っても、簡単には手が出せないでいました。

過越祭には多くの巡礼者が神殿に詣でていて、その巡礼者の群衆は主イエスのことを熱心に支持していたのです。皆、喜んで、神殿の境内で神の国の教えを語る主イエスの言葉に耳を傾けていました。もし、そのような人たちの目の前で無理やりナザレのイエスを捕えたりすると暴動になる危険性があります。日中、ナザレのイエスはずっと神殿で過ごしていて、群集が一緒にいるのです。祭司長や律法学者たちがナザレのイエスを捕まえて殺るのであれば、夜を選ぶしかありませんでした。しかし、それは簡単ではなかった。

10万人以上が過越祭の巡礼でエルサレムに来ていたと言われています。エルサレムの町の中にそれだけの人数を収容することはできないので、巡礼者たちは、夕方になるとエルサレムの外に出て、周辺の村々に宿泊していました。10万人の中からナザレのイエス一人だけを見つけ出すことは困難でした。

ユダヤの指導者たちは、イエスとその弟子達が夜どこに泊まっているのか、どこに行けば誰の目にも触れずにイエスを逮捕できるのか、詳しい情報を求めていました。そこにイエスの弟子のユダがやって来て、「イエスと他の弟子達が夜の間どこにいるのか教えましょう」と言ったのです。これこそ指導者たちが求めていた情報でした。彼らは喜んで、ユダにお金を与える約束をしました。

我々は今日特に、このユダという人に注目したいと思います。イスカリオテのユダは、イエス・キリストの弟子でありながら、キリストを最後に裏切った人物として、とても有名な人です。聖書を読んだことがない人でも、キリスト者でなくても、このユダという人のことを知っている人は多いでしょう。

ユダは、脅されて主イエスを引き渡そうとしたのではありません。自分の意思によってそうしたのです。

ユダの裏切は突然で、驚かされます。寝食を苦楽を共にしてきた主イエスと他の弟子達を、彼はなぜ裏切ったのでしょうか。主イエスを裏切って、金をもらう約束を取り付けた、ということを見ると、ユダは狡猾で悪い心をもっていた人物だった、という印象を受けます。

ユダはお金に目がくらんだのだのでしょうか。他の福音書を見ると、ユダが主イエスを裏切って受け取ったのは、銀貨30枚だった、と記録されています。銀貨30枚というのは、30日分の同労賃金、一か月分の収入ぐらいの額です。一生遊んで暮らせるだけのお金をもらえるというのなら、わかりますが、その程度の金額のために、一年以上従い続けて来た主イエスと他の弟子達を売り渡す、ということは考えにくいでしょう。

ユダの裏切の理由について、与えられている情報から、多少推測することは出来ます。

12弟子の中でもユダだけ、特別に、「イスカリオテのユダ」という呼び方がされています。「イスカリオテ」というのは、ユダの苗字ではありません。これは「ケリヨトの人」という意味の言葉だ。「ケリヨトの人、ユダ」と彼は呼ばれていたのです。ケリヨトはユダヤ地方のずっと南にある町で、ユダはここの出身だったようです。ユダだけが「イスカリオテのユダ」と呼ばれていた、ということはつまり、ユダは弟子達の中で一人だけ、ガリラヤ人ではなかった、ということです。

主イエスは「ガリラヤの預言者」として人々から称賛を受けていました。他の弟子達も主イエスのことを「自分と同じガリラヤ人の預言者・メシア」という同郷意識をもって見ていました。

しかし、ケリヨトの人であったユダには「我々ガリラヤ人」というような同胞意識はありませんでした。ユダは冷静に客観的に主イエスを見極めて、自分の意思で、「このガリラヤの先生に従おう」と思って従っていたのです。

ユダも他の弟子達同様、このイエスという方がいずれイスラエルをローマの支配から救い出してくださる指導者だと信じて従っていたでしょう。主イエスが「エルサレムに行く」とおっしゃった時には、皆「先生はこれからエルサレムに行って、いよいよ王座に着かれるのだろう」という期待を持ったでしょう。

ところが、エルサレムに出発する際に、主イエスは「私はエルサレムで殺されることになっている」と、ご自分の運命を弟子達に明らかにされました。弟子達は皆驚きました。主イエスがローマからイスラエルを解放し、栄光の座に座るだろうという期待を持っていたからこそ、ここまで従ってきたのです。ユダも、自分の従いの先には栄光があると期待したから、ケリヨト人でありながら、ガリラヤの教師である主イエスに従っていたのです。

それなのに、エルサレムに旅を続ける中で「私は殺されるのだ」と主イエスは何度も繰り返されました。そしてエルサレムに入ってからは、神殿から商人を追い出したり、神殿の崩壊を預言したりなさっています。ベタニア村のシモンの家で香油を注がれた際、主イエスは「この人は私の葬りの準備をしてくれた」とおっしゃいました。「やはり先生はここで死ぬ覚悟でいらっしゃるのだ」と、彼は失望したでしょう。

ユダにしてみれば、「先生が殺されるのを見るためにここまで従ってきたのではない」という思いが強かったでしょう。このままだと本当に主イエスも弟子達も自分も、殺されてしまう。先生は彼らと戦う意思をもっていらっしゃらない。むしろ死ぬ覚悟を決めていらっしゃる。これ以上、指導者たちを刺激しないためには何をすべきか、自分や他の弟子達まで巻き添えにならない方法はないか、ユダは考えたのではないでしょうか。

このように、与えられた情報を集めて、ユダの裏切の理由を推理していくことは、ある程度は可能だ。しかし、結局のところユダの本当の思いというのは、ユダ本人に聞いてみないとわかりません。聖書が、あえて、ユダの裏切の理由を書いていない、ということにも、大きな意味があるのでしょう。

ただ言えることは、ケリヨトの人でありながら、ガリラヤの教師に従って長い期間苦楽を共にしてきたユダが、主イエスと弟子達を裏切ろうと決意するまでには多くの葛藤があっただろう、ということです。ユダという人は、極悪人でも、詐欺師でもなく、心の中にいろんな葛藤をもった、普通の人だったのです。裏切り者として有名なイスカリオテのユダは、実は、我々と何ら変わりない、人間的な弱さを抱えた人だったのです。

ユダは、イエス・キリストに自分の未来を見出すことが出来なくなってしまいました。主イエスは、ご自分の受難と一緒に「三日の後、復活する」と、復活の希望を予告してこられました。しかし弟子達は主イエスの受難予告だけを聞いて、復活予告を聞き逃してきています。

もしも、ユダが、主イエスのことを本当にキリストであると最後まで信じぬくことができたのであれば、主イエスの死の向こうには復活の希望があると考えることが出来たのではないでしょうか。

しかし、ユダにとって主イエスの死は全ての終わりでした。

我々は、ユダの姿を通して、イエス・キリストに希望を見出すことができない人間の人のもろさを見ることができるでしょう。誰でも、自分の全てをかけていた希望を失った時に、どれだけ簡単に崩れてしまうのか、ということを、このユダの姿は我々に教えてくれます。

使徒パウロはコリント教会にこう書き送っています。

「立っていると思うものは、倒れないように気を付けるがよい。」

我々はキリストを信じ、真っすぐな思いを持っている時には「自分は今しっかりと立っていて、どんなことがあっても揺らがない」、と思い込んでいます。しかし、本当は、我々の信仰の足元はいつもぐらついているのです。次の一歩で躓いて倒れるかもしれない、ということをすぐに忘れてしまいます。12弟子の一人でさえそうでした。

しかし、キリストを信じる人は、躓いてもそれで終わりではありません。

パウロはこのようにも書いています。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられない様な試練に合わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

どんな試練があっても、苦難があっても、我々にはイエス・キリストという最後の希望があることを忘れなければ、我々はふらつきながらでも立ち続けることが出来るのです。

生きる中で、自分が行き止まり・行き詰りにいる見える時もあるでしょう。しかしそれでも、今の私達には見えないところで、神が新しい道を用意してくださっている、ということを聖書は我々に訴えています。

このユダという人さえいなければ、主イエスは十字架で殺されることはなかったのではないか、と誰もが考えます。しかし、このユダの裏切という、想定外のことのように思える人間の罪も、神の救いご計画の中でもちいられた、という神秘に思いを馳せたいと思います。

我々信仰者がこの人生の中で与えられる葛藤も、苦難も、神はご自分の救いのために用いてくださいます。

パウロはローマの信仰者たちに、こう書いている。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、我々は知っています」

我々は、ユダの裏切を他人事のように見ることは許されません。ユダの中に自分と同じ弱さがあることを見つめ、今自分に与えられている許しの大きさをかみしめ、今我々が抱いている弱さや葛藤さえも、神は恵みをもって用いてくださることに感謝したいと思います。

キリストを信じることは、苦難や葛藤を伴うことです。しかし、その苦難や葛藤を乗り越えさせてくださるのも、キリストなのだ、ということを覚えたいと思います。

10月24日の礼拝案内

【次週礼拝(10月24日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:1~11

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、53番、274番、507番、頌栄544番

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

◇11月2日(火) 15時より 富士見町教会にて 伊豆諸島伝道委員会

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月17日の説教要旨

マルコ福音書14:1~9

「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(14:9)

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」と、主イエスは弟子達・信仰者に向かってご自分の再臨の時があることをお示しになりました。そしてその日に弟子達に伝えるべきことをすべてお伝えになったので、宿をとっていたベタニア村へと戻られました。

今日私たちが読んだところには、「過越祭と除酵祭の二日前になった」、とあります。主イエスは金曜日に十字架に上げられることになるので、「二日前になった」ということは、十字架はあと二日というところまで迫っている、ということです。

主イエスが十字架を前にした差し迫った時をどのように過ごされたのか、しっかりと見ていきましょう。

「祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた」、とあります。しかし、この人たちは、主イエスの言葉に喜んで耳を傾けていた民衆が騒ぎ出すことを恐れてもいました。

ある人達の殺意が主イエスに向けられていて、何かの小さなきっかけ・小さな口実さえあれば、その人たちは主イエスを殺すための手順をすぐに踏めるように備えていました。

キリストはもちろん、ご自分を殺そうとしている人たちが近くにいることをご存じでした。エルサレムへの旅の初めから、「私はエルサレムで殺されることになっている」と弟子達におっしゃって来たのです。主イエスにとって旅の目的地はエルサレムであり、もっと言えば、エルサレムのゴルゴタの丘の十字架でした。

主イエスはそれでも、エルサレムから逃げることなく、静かに、ご自分の十字架の死の時を迎えようとなさっています。イザヤが預言した「苦難の僕」として、「屠られる生贄の子羊」として、ご自分を殺そうとする人たちの前でじっと屠られる時を待っていらっしゃいます。

その日、主イエスはベタニアという村のシモンという人の家にいらっしゃいました。このシモンという人は、「重い皮膚病」だった、と記されています。律法の規定では、「重い皮膚病」には接触してはいけないとされていました。「重い皮膚病」の人の家に、このように人々が集まる、ということは聖書に照らし合わせると考えられないことでした。

恐らく、主イエスがシモンという人の皮膚病を癒されたのでしょう。そしてその癒しの業をシモン自身とその家族が喜んで、このもてなしの食事の席を設けていた、と考えるのが自然です。ここには書かれていませんが、皆、主イエスを囲んで、喜びに満ちた雰囲気の食卓だったと思います。

そのような和やかな食卓で、人々が驚くようなことが起こりました。突然一人の女性がナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけたのです。この人がなぜ突然そんなことをしたのか、聖書には何も書かれていません。

この女性はシモンの家族で、シモンの皮膚病を癒してくださったこのイエスという方に感謝の意を表そうとしてこのようなことをしたのかもしれません。しかし、それだけでは説明がつかないでしょう。主イエスに感謝を表すだけなら、頭に香油を数滴たらせば十分だったはずです。しかしこの女性は、壺を割って、高価なナルドの香油を全て注ぎかけました。

人々は、女性がしたことの意味が分からず、彼女を非難しました。「なぜこんなに香油を無駄遣いしたのか。300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに。」

デナリオンというのは、日給の単位です。300デナリオンというのは、300日分の日給ということなので、当時の人々の年収に値するほど高価なものでした。

香油のツボを壊して、誰か一人にそれを全て注ぐ、ということはとんでもない無駄に思った人たちはすぐに女性に抗議しました。高価な香油は、もっとほかに有効な使い道があったはずだ、と。一気に全部使わなくても、たくさんの貧しい人たちのために使うことだってできたのに、そっちの方がいい使い方ではないか、と言いました。

これは正論だと思います。この時人々がいたのは、重い皮膚病の人シモンの家でした。女性に抗議した人たちは、病の人、貧しい人たちの苦しみをよく知っていた人たちだったでしょう。主イエスご自身、金持ちの若者がご自分に従おうとしてやってきたとき、「持ち物を売り払って貧しい人たちに施しなさい」とおっしゃったこともあります。

しかし、この時主イエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか」とおっしゃいました。主イエスがもう貧しい人々のことをなんとも思わなくなってしまわれた、ということなのでしょうか。

主は続けてこうおっしゃいます「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」「この人は私の葬りの準備をしてくれた」。そして、イエス・キリストの福音が語られるところでは、このナルドの香油の注ぎも語られることになる、ともおっしゃいました。

この女性がしたことは、明らかに非常識な行為です。しかし主イエスは、その女性がしたことは、神の救いの大きなご計画の中の一部であり、この女性がしたことは、神の時と業に適っていることを示されました。この女性は、高価なナルドの香油を、使うべき時に、最も適切な使い方をしたのです。

この女性がナルドの香油をすべて注いだ、ということは、彼女のイエス・キリストの思い・信仰をすべて注いだ、ということです。周りの人たちにとって、300デナリオン以上の価値のある香油を一度に使ってしまう、ということは無駄遣いでした。しかし、この時は、そうすべき時だったのです。

それはメシアがご自分の命を差し出して、世の全ての罪の暗闇から救いだされる時でした。メシアが全ての人から見捨てられ、一人で十字架に向き合われようとする時でした。

この時に最もふさわしい香油の使い道とは何だったのか・・・それは、メシアの葬りを準備をする、ということでした。

旧約聖書のコヘレトの言葉の中に、こういう言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。・・・求める時、失う時、保つ時、放つ時」

シモンの家で、この女性は、高価なナルドの香油を手放しました。この人は「キリストを求める時・香油を捧げ手放す時」を逃さなかったのです。

聖書は、この女性について詳しいことを書いていません。私達がこの女性に関してここで見ておきたいのは、この女性は時に適うことをした、ということです。信仰の時を逃さなかった、ということです。

主イエスが弟子達に「目を覚ましていなさい」とおっしゃったそのすぐあとで、この女性が香油を主イエスに注ぎました。私たちは、この女性の信仰の姿に、「目を覚ましている、ということがどういうことなのか」ということを見ることができるのではないでしょうか。

この香油の注ぎはイエス・キリストの死についても私達に教えてくれます。キリストの死は、ただ恐怖と絶望で終わる暗いものではなかったのです。良い香りのする、贅沢に油を注がれた祝福された死でした。

「祝福された死」というのは、奇妙な響きです。主イエスが殺され、埋葬される、ということが私達にとって喜ばしい知らせ・福音である、ということは奇妙なことです。しかし、それが、イエス・キリストの死の意味なのです。

それはイザヤ書の預言そのものです。「彼の受けた懲らしめによって私達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。」

なぜこの方が懲らしめられ、傷つけられることによって、私達に平和が与えられ、癒されるのでしょうか。そこには、逆説に満ちた、説明のつかない恵みがあります。この何の罪もない方が、世界の全ての罪を背負って死んでくださったのです。だから、この方の死は、私達にとって祝福であり、喜びなのです。

この方が殺されたことを、後に世界は自分に与えられた喜びとして延べ伝えていくことになります。この女性がしたことも。

この時キリストに注がれたナルドの香油の香りは、今でも消えていません。私達自身が今世に向かって放つキリストの香りです。

パウロがコリント教会にこう書いています。

「神は、私達をいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私達を通じていたるところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどるものにとっても、滅びの道をたどるものにとっても、私達はキリストによって神に捧げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」

私達は、キリストの香りを放つ者として生きているのです。イエス・キリストがこの私のために死んでくださったということを知って生きる、それが、キリストの香りを世に向かって放つ、ということです。その香りは、やがてこの世を包むことになります。

信仰者は、いつでもこの世の価値観と、キリストがお示しくださった天の価値観の間に挟まれています。そして、この世の価値の方にばかり目が行ってしまいます。

シモンの家での出来事を見ても、ナルドの香油は一年分の労働に等しい価値がある、ということに目が行くのは当然でしょう。しかし、忘れてはならないのは、地上の価値に勝る天の宝を私達はキリストの命を通していただいている、ということです。

キリストの死という何物にも代えられない宝を、大切に抱いて、神の国を目指してキリストに救われた命を歩んでいきましょう。

10月17日の礼拝案内

【次週礼拝(10月17日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:1~9

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、52番、218番、391番、頌栄544番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月10日の説教要旨

マルコ福音書13:32~37

「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)

エルサレム神殿の崩壊を預言された主イエスは「どんな苦難や混乱があっても、惑わされずにしっかりと信仰に立ち続けるように」と、ここまで弟子達におっしゃってきました。

エルサレム神殿崩壊の預言を聞いて戸惑う弟子達は、「これらのことが皆起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」と聞かされます。エルサレム神殿以上に確かなものがあることを示されるのです。

たとえ神殿が崩れて、「この世界の終わりではないか」、と自分の足元が揺らいだとしても決して崩れない確かなもの、それはイエス・キリストの言葉なのです。

大切にしていたもの、変わることはないと信じていたものが自分の目の前から消えた時、人間は弱いのです。自分も一緒に消え去ってしまいます。自分も一緒に崩れてしまいます。

しかし、「何一つこの世には確かなものはないのではないか」と思うようなことがあっても、変わらず確かなものがある、とキリストはお示しになりました。それは「私だ」とおっしゃるのです。

この真理は、どの時代のキリスト者も慰めて来ました。いつの時代も、混乱の無い時などありませんでした。教会も、それぞれの時代の中でいつも揺り動かされて来ました。それでも、イエス・キリストの言葉は確かに揺らがずに立ち続けて来ました。たとえ天地が崩れ去ろうとも、キリストの言葉は私達の魂を支え続けてくださるのです。

今日私達が読んだところでは、主イエスは不思議なことをおっしゃっています。

「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」

天使たちも知らないし、神の子イエス・キリストもご存じでない時のことです。

「天地が滅ぶとしても私の言葉は滅びない」とまでおっしゃったイエス・キリストでも、ご存じない「その日・その時」があるのです。

キリストでもご存じないその日・その時とは、何の時なのでしょうか。神殿が壊れることに伴う苦難とは別の、何か定められた時のことをお話しなさっています。

主イエスは弟子達に、主人が旅に出て不在にしている家の僕たちの話をお聞かせになりました。家の主人が僕たちにそれぞれ仕事を割り当てて、「私が旅から帰って来る時に備えていなさい」と言った、という話です。その主人はいつ帰って来るか、僕たちに言っていません。その主人も、自分がいつ家に帰ってくることになるのか、まだ決まっていなかったのでしょう。自分がいつ帰って来るかわからないから、いつ帰ってきてもいいように、僕たちに備えていなさい、と言います。

これはイエス・キリストと弟子達のことです。

そして「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」とおっしゃっているように、この主人と僕たちというのは、キリストと信仰者たちのことでもあります。

主イエスがここで「その日・その時」とおっしゃっているのは、ご自身が再びこの世に来られる「世の終わり」の時のことです。「世の終わり」には、私達が肉体の死という眠りから起こされて神の前に立たされることになります。我々は死の眠りから起こされ、裁きの場に立たされることになるのです。

「終わりの時とは、裁かれる時だ」と聞かされると恐ろしく思えますが、決してそうではありません。それはイエス・キリストが私達を迎えに来てくださり、それぞれの名前を呼び、復活させてくださる希望の時です。

信仰者は、その時がいつなのかはわかりません。だからただ、キリストが迎えに来てくださるその希望の時を目指して生きています。それが、信仰者の人生です。

我々信仰者の人生は、生まれて、生きて、死んで、それで終わり、というむなしいものではありません。私たちの生も死も、すべてキリストが受け止めてくださいます。信仰者は肉体の死を超えて、キリストをお迎えする希望の時を目指して生きているのです。そこには復活があり、永遠の命があります。

私達はイエス・キリストが実際に目に見えない中で今、信仰生活を送っている。信仰をもっていたって、希望を見失う時はあります。何を見据えて生きればいいのかわからなくなる時もあります。

しかし、私達は喜んでいいのです。私達が今、信仰をもって生きる、ということは、無駄ではありません。私達の信仰の試練・忍耐は、全てキリストが来てくださる時に報われるのです。私達は、そこに向かって生きているのです。

その日・その時を私達が知らない、ということは残念なことではありません。間違いなく、その日・その時へと時間は流れています。私達が生きている今は、そこに向かっている今なのです。だからこそ、我々の今には、苦難があろうが試練があろうが、意味があるのです。

主イエスの弟子のペトロは後に、教会に向けて手紙の中でこう書いています。

「主は、信仰の厚い人を試練から救いだす一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。」

我々信仰者が試練の中を生きているのを、神は今まさにご覧になっています。私たちの信仰を苦しめる人も、苦しめることも、神はご覧になって、神が報いてくださいます。そして我々の信仰も吟味していらっしゃるのです。

ペトロはこうも書いている。

「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなた方のために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやってきます。」

神が、忍耐してくださっている、とペトロは言います。我々が一人も滅びないように。

「主の日」は、世の終わりにイエス・キリストがもう一度世に戻って来られる時のことです。「主の日は盗人のようにやってくる」という表現が、新約聖書の中で何度も出てきます。

主イエスご自身、マタイ福音書ではこうおっしゃっている。

「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」

私達は、もし今夜自分の家に泥棒が来るとわかっていれば当然警戒します。しかし、「いつの日か神が来られる、キリストが来られる」、と言われるとどうでしょうか。どれだけ現実味をもってそのことに備えようとするでしょうか。

いい例が、旧約聖書の創世記に記されているソドムとゴモラの滅びの出来事に出てくる人たちです。

悪がはびこっていたソドムとゴモラの町に、神のみ使いが実際に行きました。そこには、アブラハムの甥のロトの一家が住んでいました。神のみ使いはロトの家に行き「実は私達はこの街を滅ぼしに来たのです」と言って、身内の人をこの町から連れて逃げるようにロトに言います。

ロトは自分の娘たちが嫁いだ先に行き、「明日、この町は神によって滅ぼされる」、と言ったが、誰も信じませんでした。「神が来て、そうおっしゃっている」ということを、誰も信じなかったのです。

結局、ソドムから逃げ出したのは、ロトと妻、二人の娘たちだけでした。ソドムとゴモラの町は、天からの火によって滅ぼされました。ここに、信じた人と信じなかった人の分かれ道があります。

滅びの中を生き残ったロトの一家と、滅びの中で死んでしまった人たちを分けたのは何だったのか・・・単純なことです。神の言葉を信じたか、信じなかったか、ということでした。

このソドムとゴモラの出来事は、時代を超えて私達にとって大きな警告となります。私達はこの出来事から学びたいと思うのです。聖書の言葉・キリストの言葉に、我々はどれだけ現実味を感じているでしょうか。本当に切羽詰まった、救いと滅びの分かれ道に自分が立っている、とどれだけ思っているでしょうか。

イエス・キリストがおっしゃった世の終わりの裁きに対して、ロトのように、その言葉を聞いて備えるか、それとも、馬鹿にして信じず、何もしないか・・・その選択によって、命に至るか、死に至るかが決まるのです。 Continue reading

10月10日の礼拝案内

【次週礼拝(10月10日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書13:24~26

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、31番、88番、320番、頌栄544番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月3日の説教要旨

マルコによる福音書13:24~31

「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、揺り動かされる。」(13:24)

謎めいたイエス・キリストの言葉です。

太陽や月や星の光がなくなり、天体が揺り動かされる、ということが起こり、その後、「人の子」という存在が来て、世界中から人々を集める、ということが言われています。この言葉だけを見ても、キリストが何を弟子達にお伝えになっているのか、よくわからないのではないでしょうか。

主イエスは一体何を弟子達にお伝えになっているのか、そして、謎めいたこの言葉は、今を生きる私達にとってどのような意味があるのか、考えて見ていきましょう。

「神殿が崩れる、というのはいつ起こるのですか」と尋ねて来た弟子達に、ここまで主イエスは、その時の様子を語って来られました。

「メシアや預言者を名乗る人たちが大勢現れ、人々を惑わすだろう・・・キリストを信じる弟子達・信仰者たちは、ユダヤでもユダヤの外でもイエス・キリストの福音を宣べ伝える中で試練が与えられるだろう・・・エルサレム神殿が破壊される時には、なんとしてでも生き延びなさい」ということをお伝えになりました。

今日私達が見たのは、その後の言葉です。「それらの日には、このような苦難の後・・・」という言葉が続きます。

「このような苦難」というのは、エルサレム神殿の崩壊と、それに伴う様々な苦難のことです。

つまり、主イエスはエルサレム神殿が崩れた後のことをここでお話しなさっているのです。

神殿崩壊という苦難の後には「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」だろう・・・。

文字通りに受け取ると、世界の秩序が全て崩れて、世界がなくなってしまうようなことをおっしゃっているように聞こえます。

一体これは何のことなのでしょうか。エルサレム神殿崩壊の後に、「天体が揺り動かされる」、とはどういうことなのでしょうか。

「天体が揺り動かされる」という不思議な表現は、イザヤ書13:10の預言からの引用です。

太陽や月や星が消えてなくなる、と聞くと何だかこの世界が全て壊れてしまうような恐ろしい響きを感じる言葉ですが、元のイザヤ書では、エルサレムを占領し支配していたバビロンという国の滅びを、「天体が揺り動かされる」という言葉で表現しているのです。

つまりこれは、敵の滅びと、抑圧からの解放のことなのです。

元のイザヤ預言の言葉を踏まえて、イエス・キリストがここでおっしゃっている言葉を読むと、「太陽や月や星がなくなって天体が揺り動かされる」、というのは、エルサレム神殿を破壊するローマも、その後にはやがて力を失うということが示されているのです。

主イエスは続けて「天体の光が消え」た更にその先を預言されます。

いろんな苦難の後に、「人の子」が来て天使を遣わし、世界中から全ての人を自分の下へと集めるだろうとおっしゃいます。

「人の子が大いなる力と栄光をおびて雲に乗って来るのを、人々は見る」

「人の子」というのはダニエル書に出てくる、神から全世界を治める権威を託された存在のことです。主イエスはこれまでずっとご自分のことを「人の子」と呼んでこられました。

つまり、イエス・キリストの下に全世界の全ての人々が招かれ、集められ、一つになるだろう、という希望の預言なのです。

このことは、旧約の預言者イザヤも既に預言していました。

「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私達に道を示される。私達はその道を歩もうと』」

人種や民族を超えて、全ての人が、天地を創造された真の神を知り、同じ神を求めて一つになる時が来るだろう、とイザヤは預言しています。

世界中の人たちが、互いに誘い合って、イスラエルの神を求めるようになる、というのです。

イザヤはこうも言っている。

「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する」

イザヤの時代、このイザヤの言葉を聞いた人たちは馬鹿にして笑ったのではないでしょうか。いつ自分たちがエジプトに滅ぼされるか、アッシリアに占領されるかわからないのに、エジプトやアッシリアがイスラエルの神を一緒に信じ、自分たちと一緒に礼拝する日が来る、などと預言者は言うのです。

イスラエルはエジプトとアッシリアという大きな国に挟まれた小さな国でした。エジプトとアッシリアという強大に挟まれてどうやって生き残るか、ということをいつも考えていなければなりませんでした。

イスラエルとエジプトとアッシリアの全ての人が、一緒に礼拝する日が来る、などということは非現実的なのです。

しかし、この時のイザヤの預言は、イエス・キリストという人の子・メシアによって実現することになります。

私達が今日読んだイエス・キリストの言葉は、まるで世界が滅びるような恐ろしい響きをもった言葉に聞こえるかもしれません。

しかしそれは絶望的な言葉ではなく、堕落したエルサレム神殿が崩れた後に、全ての人がイエス・キリストの下に集められていく希望の預言であることがわかります。

この主イエスの言葉を聞いた弟子達は、どう思ったでしょうか。「それはいつ起こるのだろうか」と考えたでしょう。主イエスは、「イチジクの枝が柔らかくなり葉が伸びると、夏が近づいたことがわかるのと同じだ」とおっしゃいました。春の次に夏が来るように、イエス・キリストの下に世界の全ての人が一つになる時へと、時間は自然に流れている、ということです。

この主イエスと弟子達との会話から40年後にエルサレム神殿はローマ軍によって破壊されました。多くの人たちは、エルサレム陥落を、この世の終わりと捉えたでしょう。

しかし、主イエスの言葉を前もって聞かされ信じていたキリスト者たちは、神殿が破壊されても終わりではないことを知っていました。それは新しい時代の始まりであり、人の子・イエス・キリストの支配の始まりである、という希望を捨てずにキリストの福音を宣べ伝え続けたのです。

神のご計画は、私達人間にはかり知ることは出来ません。この地上で起こる様々な出来事・・・戦争や飢餓や地震といった苦難の時には、私達の目に希望は見えません。神の姿を見いだせず、神に見捨てられたのではないか、と絶望します。

しかし、そのような混沌の中にある人間の営みの中でも、神が全ての人をご自分の下へと招かれる救いのご計画は進んでいるのです。

イザヤは、主イエスの時代よりもはるか以前に、そのことを預言していました。 Continue reading