マルコ福音書14:32~42
「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)
有名な、イエス・キリストのゲツセマネの祈りの場面です。
「月の光のもと祈りをささげるキリストと弟子達」、と聞くと、夜の静寂に包まれた、静かで穏やかな祈りの光景を思い浮かべるでしょう。しかし、ゲツセマネで祈りを捧げられるイエス・キリストのお姿は、決して穏やかでも静かでもありませんでした。
神の子イエスご自身が、のたうちまわるほど苦しみながら、ご自分に課せられた十字架の死という使命をめぐって神と対話をなさった壮絶な祈りの姿でした。そしてそばにいた弟子達は一緒に祈りを合わせるどころか、眠りこけてしまっていました。
福音書には、主イエスが父なる神への祈りのお姿が何度も記録されています。しかし、ここまで福音書は、主イエスが何を祈っていらっしゃったのか、ということは記してきませんでした。ここで初めて、主イエスの祈りの言葉が明らかにされます。
ご自分に飲み干すよう神から与えられた苦難の杯を取り除けていただきたいと願い、それがかなわないのであれば、神の御心が行われるようそれを飲み干すことができるように、と祈られてきたのです。キリストはこの祈りを、生涯にわたって祈って来られたのです。
イエス・キリストのご生涯は、祈りの生活そのものでした。ある時は夜通し祈られ、弟子達が翌朝呼びに来なければならなかった、ということもありました。それほど祈らなければならなかったのです。
その祈りがなければ、十字架というご自分の使命に歩みを続けていくことはできなかったからです。祈りを通して神との対話を続け、一歩一歩、ご自分の十字架へと歩みを進めなければなりませんでした。それを考えると、キリストの地上の一生は、祈りの戦いそのものだった、と言っていいのではないでしょうか。
これまで主イエスは静かに、何度もご自分がエルサレムでどんな運命をたどるのか、ということを弟子達にお話しなさって来ました。何の恐れもなく全てを受け入れていらっしゃるかのような静かな主イエスのお姿を見ると、淡々と十字架に向かっていらっしゃるように見えます。
しかし、決してそんなことはありませんでした。キリストは「ひどく恐れてもだえ」「地面にひれ伏して」「苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。
ヘブライ人への手紙の2章に、こう書かれている。
「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちをと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。」
イエス・キリストは、私たちが感じる痛み・恐れを同じように感じるところまで来てくださいました。「神の子だから痛みや苦しみや恐れなどとは無縁の方なのではないか」、というのは違います。
主イエスが十字架の上で背負われることになっている世の罪の重さを考えると、とてもそんなことは言えないでしょう。
旧約聖書の初めからここまで読むと主イエスが背負われることになっている罪の重さがどれほどのものか、ということがわかります。この方は天地創造以来神に背を向けてきた人間の罪を全て、お一人で背負われるのです。
人間は、天地創造以来の罪から、まさに今、解放されようとしています。罪人が見失っていた、神のもとへ続く道が、再びこの方の十字架によって照らされようとしているのです。イエス・キリストのゲツセマネでの祈りのひと時は、歴史の中で神が人間を取り戻されるための計画が実現しようとしている瞬間なのです。天地創造以来最も緊迫した、そして厳粛な、聖なる瞬間だと言っていいのではないでしょうか。
イエス・キリストがゲツセマネで祈られたことは、最終的には「あなたの御心が行われますように」ということでした。はじめは、「この杯を私から取り除けてください」と祈られます。この「杯」は、旧約聖書の中では、苦しみと裁きの表す言葉として用いられています。主イエスは愛する父に苦しみからの救いを求めて祈っていらっしゃるのです。
しかし、「父なる神」が、ご自分の独り子に望まれたのは、ご自分の独り子が苦しんで死ぬことでした。そして神の子の死によって、すべての人の罪を許し、すべての人をご自分のもとに取り戻す、ということでした。
これまで主イエスはご自分の死の意味を弟子達に示してこられました。ご自分の死のことを「多くの人のための身代金」とか、「多くの人のために流される私の血」という言葉でおっしゃってきました。
多くの人を救い出す犠牲としての死、それこそ、イザヤが預言していた「苦難の僕」の姿です。
苦難の杯を飲む以外の道を神に求められる主イエスは、最後には神の御心をお求めになります。
「しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」
「あなたがお望みになる限り、私は死にます」、とおっしゃるのです。主イエスはこの祈りの後に逮捕されることになります。今、祈ることをやめて、立ち上がり、この場から離れたら、十字架にかからずに済みます。しかし、主イエスはゲツセマネに留まるために祈りの戦いを続けられます。
この時、12弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが主イエスと一緒にゲツセマネに行くことが許されました。宣教の旅の初めから召された、弟子達の中でも一番主イエスと一緒にいる時間の長い三人です。主イエスから「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。
しかし、三人の弟子達はすぐに眠ってしまいます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と起こされても、主イエスが自分たちから離れていかれると、すぐに眠ってしまいます。「眠っているのか、起きて祈っていなさい」と言われてしまいます。
主イエスはなぜ弟子達をゲツセマネへと伴い、一緒に祈ってほしい、とおっしゃったのでしょうか。この三人に、祈りで支えてほしいと願っておられたからです。しかし、弟子達は眠気に負けて、主イエスと一緒にひと時も祈ることすらできなませんでした。
ここを読むと、イエス・キリストは弟子達と一緒にゲツセマネにいらっしゃるにも関わらず、孤独でいらっしゃった、ということがわかります。主は実際にはお一人で祈っていらっしゃったのです。
イエス・キリストに起こされないとすぐに眠ってしまう信仰をもつ弟子達は、私たちの信仰の弱さそのものです。考えてみたいと思います。私たちはどれだけキリストのために祈っているでしょうか。私たちの罪のために取りなして祈ってくださるキリストのために、私たちはどれだけ自分の祈りをもって支えているでしょうか。
私たちは、自分のこと、また、自分の周りのことに関しては祈るのだ。
自分を助けてほしいと祈る時には私たちはたくさんの言葉を用います。
私たちは、キリストに向かっては祈りますが、キリストのために祈っているでしょうか。
キリストは最後まで孤独でした。そこに弟子達がいるのに。一緒に祈ってくれる信仰の友がそこにいなかったのです。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、この夜のキリストの祈りのお姿を、そして眠りこけてしまった自分たちのふがいなさを、後々何度も思い出したでしょう。生涯忘れることができなかったでしょう。
イエス・キリストがゲツセマネでここまで必死に祈ってくださったのは、弟子達が弱かったからです。神を忘れ、神から離れていることにすら気づかず生きている罪びとには、キリストの祈りが必要なのです。誘惑の中、わずか一時も目を覚ましていることのできない弱い罪びとだからこそ、キリストが目を覚まし、地面にひれ伏して祈り続けてくださったのです。弟子達が弱いからこそ、私たち罪びとが弱いからこそ、キリストはこの世界を救おうと孤独の中で祈り続けてくださったのです。
主イエスは神に向かって、「アッバ、父よ」と呼びかけられました。親しみを込めた、父親への呼びかけの言葉です。弟子達がゲツセマネへと伴われたのは、キリストと共に神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りに加えられるためです。
使徒パウロが、ガラテヤの諸教会に向けて、こう書いています。
「あなたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実からわかります」
私たちキリスト者は、イエス・キリストによって神の子とされています。神に向かって「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子であるイエス・キリストの霊が私たちの心の中に送られているのです。 Continue reading →