MIYAKEJIMA CHURCH

12月5日の礼拝案内

【次週礼拝(12月5日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:イザヤ書8:1~8

 交読文:詩編6編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、61番、102番、103番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇12月4日(土) 役員会があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月28日の説教要旨

イザヤ書7:1~17

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・心を弱くしてはならない」(7:4)

アドベントに入りました。今日からクリスマスまで、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことに思いをはせる時を過ごすことになります。

クリスマスは、この世に、福音が与えられた・喜びの知らせ届けられた、という出来事です。毎年祝われているクリスマスですが、私達は、クリスマスの本当の喜びとは何なのか、聖書から正しく聴いていきたいと思います。

マタイ福音書を見ると、イエス・キリストがお生まれなる際、父親になるヨセフに天使がこう告げています。

「この子は、自分の民を罪から救う」

この言葉を見ると、「私達を罪から救い出してくださる方がお生まれになった」、というのがクリスマスの喜びだ、とわかります。

それでは、聖書が言っている罪とは何でしょうか。聖書がいう「罪」とは「神から離れた暗闇」のことです。

天使は、主イエスの父ヨセフにさらにこう告げます。

「見よ、おとめが身ごもって音の子の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」

「罪の闇からの救い」、それは「インマヌエル・神が私達と一緒にいてくださる」、という知らせでした。人が神から離れても、神は人を追いかけてくださるのです。

イエス・キリストの誕生はこの世界に与えられたインマヌエルのしるしでした。。

今日は、旧約聖書のイザヤ書を読みました。イザヤ書の中に、インマヌエルと呼ばれる方の誕生が預言されています。イザヤ書の言葉を通して、インマヌエルの喜びを感じていきたいと思います。

イザヤの時代、紀元前8世紀には罪の闇がイスラエルを覆っていました。イスラエル王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、人々の心は神から離れていました。

イザヤは、南ユダ王国の首都エルサレムで預言した人です。この人はもともとはウジヤという王様に仕える祭司でした。ウジヤ王が死んだ時に、イザヤは王に仕える祭司から、神に仕える預言者とされました。紀元前740年のことです。

イザヤの時代、イスラエルは苦境に置かれていました。当時アッシリアという強大な国があり、周辺諸国はその脅威に怯えていたのです。

強大なアッシリアに対抗するために、周辺諸国は反アッシリア同盟を作ろうとしました。その同盟にユダ王国も加わるようにと、隣国の北イスラエル王国とアラムの二つの国が武力をもって脅してきます。

ユダ王国は岐路に立たされました。反アッシリア同盟に加わるか、中立を保つか・・・。

反アッシリア同盟に入る、ということは、アッシリアを敵に回す、ということでした。それは危険なことでした。いくら周辺の小さな国が集まっても、強大なアッシリアにはかなわないのです。しかし、反アッシリア同盟に入らない、ということは、周辺諸国から孤立してしまい、諸国から攻められてしまいます。

結局、ユダ王国のアハズ王が下した決断はアッシリアに助けを求めることでした。強い国に守ってもらうのが一番の安定だと思ったのです。

しかし、アッシリアに守ってもらう、ということは、アッシリアの神に守ってもらう、ということを意味していました。アハズ王が下した決断は、つまり、イスラエルの神からアッシリアの神へと乗り換える、ということだったのです。

そのようなアハズ王のもとに、預言者イザヤがやってきて、神の言葉を伝えました。

「アッシリアではなく、ただ神に頼りなさい」

それが、今日私たちが読んだ場面です。

イザヤは、神の言葉を伝えます。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。心を弱くしてはならない。ただ、神に頼りなさい。」

イザヤが伝えたことは単純だった。アッシリアに頼ることでもなく、反アッシリア同盟に加わることでもなく、ただ、静かに神に頼りなさい、そうすればユダ王国は生き残ることができる、というのです。

預言者イザヤは、BC740年に預言者として召しだされ、40年間神の言葉を語り続けた人です。イザヤが40年間語り続けたのは、たった一つのことでした。「人間ではなく神に頼れ」、ということです。それこそ、時代の中でイスラエルが学ばなければならなかったことでした。そしてこれこそ、聖書が一貫して、いつの時代も私たちに伝えていることです。

「神に頼りなさい、神に立ち返りなさい」、ただそれだけです。

聖書という本は、読んでみると、なかなか一人では理解できないでしょう。しかし、聖書が全体を通して訴えていることは、この上なく単純なことです。「人間ではなく神に頼れ」ということなのです。

アッシリアに助けてもらおうと、イスラエルの神を捨ててアッシリアの神に乗り換えようとしていたアハズ王は、イザヤの言葉を聞いてどうしたでしょうか。「私はイスラエルの神に頼らない」と答えたのです。

国々が争っているこの状況で、「静かに神に任せる」などという選択はできない、弱いユダ王国が生き残るためにはアッシリアの傘下に入ることが一番安全で確実だ、という思いを変えませんでした。

神に頼ろうとしないアハズや、ユダ王国の指導者たちにイザヤは言います。

「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、私の神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、私の主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」

神を頼ろうとしない人たち、もう神から心が離れてしまった人たちに、イザヤは、インマヌエルと呼ばれる男の子の誕生を預言しました。「神が私たちと共にいらっしゃる」というしるしとなる男の子が生まれる、と言うのです。

「インマヌエル・神が我々と共にいらっしゃる」、と聞くと、単純に喜ばしい知らせだと思えます。確かに、神に信頼し、神を頼って生きている人にとってはインマヌエルという知らせは、素直に喜べることでしょう。

しかし、アハズ王のように、神を信頼しない人にとってはどうでしょうか。不信仰な人にインマヌエルのしるしが与えられる、ということは、「神は本当に私たちと共にいらっしゃる」ということを思い知らされるための裁きが与えられる、ということです。

イザヤは、インマヌエルと呼ばれる男の子が生まれるとすぐに、ユダ王国を攻めているアラムと北イスラエルの二つの国の王は滅びるだろう、と預言しました。そして、神を求めなかったユダ王国の上に、アッシリア王による破壊がもたらされるだろう、と言います。

恐ろしい預言です。その男の子の誕生は、神を信じない人たち、神に頼らない人たちにとって、滅びのしるしとなるのです。ハズ王は、やがて、自分が頼りにしたアッシリアによって滅ぼされ、そしてその滅びの中で「本当は神に頼るべきだったのだ」ということを思い知らされることになるのです。

「神に頼れ」という預言を聞き入れなかった南ユダ王国は、40年後、自分たちが頼りにしたアッシリアによって国を侵略されることになります。イザヤの預言は実現したのです。 Continue reading

11月28日の礼拝案内

【次週礼拝(11月28日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:イザヤ書7:1~17

 交読文:詩編6編2節~6節

 讃美歌:讃詠546番、58番、94番、96番、頌栄539番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月21日の説教要旨

マルコ福音書14:32~42

「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(14:36)

有名な、イエス・キリストのゲツセマネの祈りの場面です。

「月の光のもと祈りをささげるキリストと弟子達」、と聞くと、夜の静寂に包まれた、静かで穏やかな祈りの光景を思い浮かべるでしょう。しかし、ゲツセマネで祈りを捧げられるイエス・キリストのお姿は、決して穏やかでも静かでもありませんでした。

神の子イエスご自身が、のたうちまわるほど苦しみながら、ご自分に課せられた十字架の死という使命をめぐって神と対話をなさった壮絶な祈りの姿でした。そしてそばにいた弟子達は一緒に祈りを合わせるどころか、眠りこけてしまっていました。

福音書には、主イエスが父なる神への祈りのお姿が何度も記録されています。しかし、ここまで福音書は、主イエスが何を祈っていらっしゃったのか、ということは記してきませんでした。ここで初めて、主イエスの祈りの言葉が明らかにされます。

ご自分に飲み干すよう神から与えられた苦難の杯を取り除けていただきたいと願い、それがかなわないのであれば、神の御心が行われるようそれを飲み干すことができるように、と祈られてきたのです。キリストはこの祈りを、生涯にわたって祈って来られたのです。

イエス・キリストのご生涯は、祈りの生活そのものでした。ある時は夜通し祈られ、弟子達が翌朝呼びに来なければならなかった、ということもありました。それほど祈らなければならなかったのです。

その祈りがなければ、十字架というご自分の使命に歩みを続けていくことはできなかったからです。祈りを通して神との対話を続け、一歩一歩、ご自分の十字架へと歩みを進めなければなりませんでした。それを考えると、キリストの地上の一生は、祈りの戦いそのものだった、と言っていいのではないでしょうか。

これまで主イエスは静かに、何度もご自分がエルサレムでどんな運命をたどるのか、ということを弟子達にお話しなさって来ました。何の恐れもなく全てを受け入れていらっしゃるかのような静かな主イエスのお姿を見ると、淡々と十字架に向かっていらっしゃるように見えます。

しかし、決してそんなことはありませんでした。キリストは「ひどく恐れてもだえ」「地面にひれ伏して」「苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。

ヘブライ人への手紙の2章に、こう書かれている。

「イエスは、神の御前において憐み深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちをと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。」

イエス・キリストは、私たちが感じる痛み・恐れを同じように感じるところまで来てくださいました。「神の子だから痛みや苦しみや恐れなどとは無縁の方なのではないか」、というのは違います。

主イエスが十字架の上で背負われることになっている世の罪の重さを考えると、とてもそんなことは言えないでしょう。

旧約聖書の初めからここまで読むと主イエスが背負われることになっている罪の重さがどれほどのものか、ということがわかります。この方は天地創造以来神に背を向けてきた人間の罪を全て、お一人で背負われるのです。

人間は、天地創造以来の罪から、まさに今、解放されようとしています。罪人が見失っていた、神のもとへ続く道が、再びこの方の十字架によって照らされようとしているのです。イエス・キリストのゲツセマネでの祈りのひと時は、歴史の中で神が人間を取り戻されるための計画が実現しようとしている瞬間なのです。天地創造以来最も緊迫した、そして厳粛な、聖なる瞬間だと言っていいのではないでしょうか。

イエス・キリストがゲツセマネで祈られたことは、最終的には「あなたの御心が行われますように」ということでした。はじめは、「この杯を私から取り除けてください」と祈られます。この「杯」は、旧約聖書の中では、苦しみと裁きの表す言葉として用いられています。主イエスは愛する父に苦しみからの救いを求めて祈っていらっしゃるのです。

しかし、「父なる神」が、ご自分の独り子に望まれたのは、ご自分の独り子が苦しんで死ぬことでした。そして神の子の死によって、すべての人の罪を許し、すべての人をご自分のもとに取り戻す、ということでした。

これまで主イエスはご自分の死の意味を弟子達に示してこられました。ご自分の死のことを「多くの人のための身代金」とか、「多くの人のために流される私の血」という言葉でおっしゃってきました。

多くの人を救い出す犠牲としての死、それこそ、イザヤが預言していた「苦難の僕」の姿です。

苦難の杯を飲む以外の道を神に求められる主イエスは、最後には神の御心をお求めになります。

「しかし、私が願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」

「あなたがお望みになる限り、私は死にます」、とおっしゃるのです。主イエスはこの祈りの後に逮捕されることになります。今、祈ることをやめて、立ち上がり、この場から離れたら、十字架にかからずに済みます。しかし、主イエスはゲツセマネに留まるために祈りの戦いを続けられます。

この時、12弟子の中でもペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが主イエスと一緒にゲツセマネに行くことが許されました。宣教の旅の初めから召された、弟子達の中でも一番主イエスと一緒にいる時間の長い三人です。主イエスから「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。

しかし、三人の弟子達はすぐに眠ってしまいます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と起こされても、主イエスが自分たちから離れていかれると、すぐに眠ってしまいます。「眠っているのか、起きて祈っていなさい」と言われてしまいます。

主イエスはなぜ弟子達をゲツセマネへと伴い、一緒に祈ってほしい、とおっしゃったのでしょうか。この三人に、祈りで支えてほしいと願っておられたからです。しかし、弟子達は眠気に負けて、主イエスと一緒にひと時も祈ることすらできなませんでした。

ここを読むと、イエス・キリストは弟子達と一緒にゲツセマネにいらっしゃるにも関わらず、孤独でいらっしゃった、ということがわかります。主は実際にはお一人で祈っていらっしゃったのです。

イエス・キリストに起こされないとすぐに眠ってしまう信仰をもつ弟子達は、私たちの信仰の弱さそのものです。考えてみたいと思います。私たちはどれだけキリストのために祈っているでしょうか。私たちの罪のために取りなして祈ってくださるキリストのために、私たちはどれだけ自分の祈りをもって支えているでしょうか。

私たちは、自分のこと、また、自分の周りのことに関しては祈るのだ。

自分を助けてほしいと祈る時には私たちはたくさんの言葉を用います。

私たちは、キリストに向かっては祈りますが、キリストのために祈っているでしょうか。

キリストは最後まで孤独でした。そこに弟子達がいるのに。一緒に祈ってくれる信仰の友がそこにいなかったのです。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、この夜のキリストの祈りのお姿を、そして眠りこけてしまった自分たちのふがいなさを、後々何度も思い出したでしょう。生涯忘れることができなかったでしょう。

イエス・キリストがゲツセマネでここまで必死に祈ってくださったのは、弟子達が弱かったからです。神を忘れ、神から離れていることにすら気づかず生きている罪びとには、キリストの祈りが必要なのです。誘惑の中、わずか一時も目を覚ましていることのできない弱い罪びとだからこそ、キリストが目を覚まし、地面にひれ伏して祈り続けてくださったのです。弟子達が弱いからこそ、私たち罪びとが弱いからこそ、キリストはこの世界を救おうと孤独の中で祈り続けてくださったのです。

主イエスは神に向かって、「アッバ、父よ」と呼びかけられました。親しみを込めた、父親への呼びかけの言葉です。弟子達がゲツセマネへと伴われたのは、キリストと共に神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ祈りに加えられるためです。

使徒パウロが、ガラテヤの諸教会に向けて、こう書いています。

「あなたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実からわかります」

私たちキリスト者は、イエス・キリストによって神の子とされています。神に向かって「アッバ、父よ」と叫ぶ神の子であるイエス・キリストの霊が私たちの心の中に送られているのです。 Continue reading

11月21日の礼拝案内

【次週礼拝(11月21日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:32~42

 交読文:詩編6編1節~6節

 讃美歌:讃詠546番、57番、133番、338番、頌栄539番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月14日の説教要旨

マルコ福音書14:27~31

「イエスは弟子達に言われた。『あなたがたは皆、私につまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、私は復活したのち、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』」

弟子達にとって、イエス・キリストと囲んだ「過ぎ越しの食卓」は大きな衝撃でした。主イエスから「あなたがたの中の一人が私を裏切ろうとしている」と聞かされた。

過越しの食卓に座を連ね、出エジプトの恵みに思い浸っていた弟子達は衝撃を受けました。考えられないことでした。過越の食卓が一気に緊迫したものになります。

弟子達は「誰だろうか」と皆考えました。その弟子達に追い打ちをかけるように、主イエスは葡萄酒を配り、「これは私の体、私の血だ」と、ご自分に死が差し迫っていることを示されました。

主イエスと弟子達は、この過越しの食卓から、オリーブ山へと出ていきました。

オリーブ山まで歩く間、弟子達は、主イエスが食卓でおっしゃったことを頭の中で反芻していたでしょう。

「12人の中で裏切るのは一体誰なのか」

「食卓で手渡されたパンと葡萄酒が主イエスの体であり血であるとはどういうことか」

オリーブ山に着いた時、弟子達は主イエスからさらに衝撃的なことを聞かされます。弟子の一人が裏切ろうとしているだけではなく、「あなたがたはこれから私を見捨てて逃げる」とおっしゃったのです。

あまりのことに、もう黙ってはいられなくなりました。ペトロは皆を代表して答えます。

「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません」

弟子達はペトロと同じ気持ちでした。当然自分は先生と一緒に最後までいるつもりだ自分が途中で先生を見捨てて離れてしまうなどということはない、と全員が意思表示しました。

しかし、そのペトロの言葉に対して主イエスは「よく言ってくれた、私は嬉しい」とはおっしゃいませんでした。Continue reading

11月14日の礼拝案内

【次週礼拝(11月14日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:27~31

 交読文:詩編6編1節~6節

 讃美歌:讃詠546番、56番、132番、294番、頌栄539番

牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

11月7日の説教要旨

マルコ福音書14:22~26

「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(14:25)

「最後の晩餐」とか、「主の食卓」と呼ばれている、キリストが弟子達にご自分の肉と血を象徴するパンと葡萄酒をお与えになった食卓です。私たちが礼拝の中で行う聖餐式の原型となる過越の食卓です。

「過越の食卓」は、定められた手順を踏んでもたれます。その家族の長が取り仕切り、長い時間をかけて、食事や盃が出されるごとに祝福の言葉とその意味が語られます。そうやって、イスラエルの先祖の出エジプトの恵みを追体験するのです。

主イエスと弟子達がもったこの食卓は、普通の過ぎ越しの食卓とは少し違っていました。

過去に与えられた救いについてだけではなく、これから与えられることになる新しい救いについて語られているのです。

「主イエスは、私の体と血をあなたたちに与えよう、取りなさい」とおっしゃっています。主イエスは、ご自分の死を弟子達にお与えになりました。

この晩、主イエスが弟子達と囲まれた過ぎ越しの食卓は、「新しい過ぎ越し・救い」の始まりだったのです。

我々は、まず、この食卓の根っこにあるものをしっかりとらえていきたいと思います。過ぎ越しの食卓は、イスラエルはエジプトでの奴隷生活からの解放を思い起こし、自分たちの今が神の救いの恵みによるものであることを記念する食卓です。

聖書に記されている出エジプトの出来事を読むと、神の救いの不思議を思わされるのではないでしょうか。神によってエジプトの奴隷生活から救われた、と聞くと、イスラエルは神によってすぐに豊かで幸せな生活を始めたと思うのではないでしょうか。「神の救いと聞くと誰だって楽に楽しく生きられるようになることだと考えます。

しかし神がイスラエルをエジプトから解放し、導き入れられたのは荒れ野でした。そこから40年間、イスラエルは荒れ野の旅を続けなければならなくなります。実際にエジプトから脱出した人たちは皆荒れ野で死に、約束の地にたどり着いたのは荒れ野で生まれた世代の人たちでした。それほどに苦しい旅でした。イスラエルの人たちは荒れ野で何度も、自分たちを導くモーセやアロンに向かって「こんなにしんどいのならエジプトに帰りたい」と泣き言を言いました。 

なぜ、イスラエルは40年も荒れ野を旅しなければならなかったのでしょうか。神は、旅の最後で、モーセを通して全イスラエルに向けてその理由をお教えになりました。

申命記に記されている言葉を引用します。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことの無いマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足が腫れることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」 Continue reading

11月06日の礼拝案内

【次週礼拝(11月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:22~26

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、55番、242番、310番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月31日の説教要旨

マルコ福音書14:12~21

「はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)

ガリラヤから過越祭への巡礼のためにやってきた主イエスの一行は、エルサレムで「除酵祭の第一日を迎えた」、とあります。この日は木曜日でした。除酵祭の第一日、この木曜日の日が暮れて夜を迎え、そしてその夜が明ければ、イエス・キリストは十字架に上げられ、殺されることになります。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが弟子達と過ごす最後の時間を、どのように過ごされたか、という場面です。

この日主イエスがなさったことは、食事の席を弟子達に探させ、そして共に食事をする、ということでした。その食卓は「最後の晩餐」と後に呼ばれることになります。

この日、主イエスが弟子達と囲まれたのは、「過ぎ越しの食事」と呼ばれる、イスラエルにとって、自分たちのルーツを思い出すための特別な祭りの食卓でした。過越祭は、イスラエルの人たちが自分たちの先祖がエジプトの奴隷生活から神によって救い出されたことを記念する祭りです。

出エジプト記にその「過越し」の出来事が記されています。神は、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放するために、エジプトを打たれました。その際、イスラエルの人たちは、神の裁きが自分たちのもとに来ないように、目印として、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神は、子羊の血が塗られたイスラエルの家をは過ぎ越して、エジプトを打っていかれたのです。

そしてその夜、イスラエルの人たちは旅の準備を整えることもなく、急いで食事をし、エジプトを出発しました。過越祭の中でもたれる「過越しの食卓」は、その夜の食事を再現して、思い起こすためのものでした。イスラエル解放の夜を記念するために、一家の長が食事を取り仕切って自分たちの先祖が神に救い出された夜のことを、順を追って追体験するのです。

イスラエルの人たちは、そのようにして過越祭を通して、自分たちが神によって救われて今も生かされている、ということを代々子供たちに伝え、神への信仰を確かなものとしてきたのです。

イエス・キリストが、十字架に上げられる前に最後に弟子達と囲まれたのが「過ぎ越しの食卓」であった、ということは偶然ではありません。私たちはここを読んで、あまりにもキリストがおっしゃる通りに物事が運んでいることに驚くのではないでしょうか。

事細かに弟子達に指示を出されています。「エルサレムの都に行くと、水瓶を運んでいる男に出会うからその人について行きなさい。そしてその人が入って行く家の主人に、食事の席を準備させなさい」

どこで誰に会い、そしてどのように言えばよいのかまで弟子達に指示をお与えになっています。まるですべてそうなると決められていたかのようです。

実は、そうなのです。そう決まっていたのです。この日、イエス・キリストと弟子達が最後の晩餐として過ぎ越しの食事を囲むということは、神のご計画の内にあったことでした。

イザヤ書53章に、すべての罪びとを背負って死ぬ、という使命が与えられた「神の僕」が世に与えられるだろう、という預言があります。

「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。その我々の罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に惹かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「苦難の僕」の歌と呼ばれるイザヤ預言です。神に背を向けて離れてしまった罪びとたちのすべての罪を担う「苦難の僕」と呼ばれる人が来る、という預言です。

イエス・キリストこそ、その苦難の僕でした。この方はこれから罪びとの罪を背負って十字架の上で死んでくださいます。この方は生贄なのです。犠牲なのです。そして罪びとにとっては罪の重荷から解放してくださる方でした。

主イエスがこの日弟子達と過越しの食卓を囲まれたということは、長い歴史の中で神が実現なさる救いのご計画の一部でした。十字架の前夜、それはまさに新しい過越しの夜であり、罪からの解放の前夜だったのです。使命を背負って、この世に来てくださった苦難の僕を通して、神がすべての罪びとを身元へとお集めになるご計画は、間違いなく実現しています。

苦難の僕は今、罪びとを救い出すために、一つ一つ苦しみへの階段を上ってくださっています。後のキリスト教会にとって、この夜主イエスと弟子達が囲んだ最後の晩餐は、新しい救いの始まりとして記念すべきものとなりました。

イスラエルの人々が過ぎ越しの食事を通して自分たちが何者であるのか、ということを思い出し、代々それを伝えてきたように、キリスト教会もこの晩キリストと弟子達が囲んだ食卓を通して、自分たちの信仰の原点と、自分たちが生きている世界にキリストが今も共に生きて歩んでくださっていることを深く覚えるようになるのです。

この時の弟子達にはまだわからりませんでしたが、これは新しい過ぎ越しであり、新しい救いの始まりの食卓でした。この夜の食卓が、新しい救いの記憶となり、弟子達は人々に伝えて行くことになります。

さて、主イエスは、この食卓で、一つの衝撃的な事実を弟子達に打ち明けられました。

「この中の一人が私を裏切ろうとしている」

弟子達は皆驚きました。イスカリオテのユダも、驚いたでしょう。自分が主イエスを引き渡すために祭司長たちと取引をしたのがばれていたのです。見抜かれていたのです。

しかし、主イエスはこの席「それはイスカリオテのユダだ」とはおっしゃいません。ユダがご自分を裏切ることまでも神のご計画の内にあることを受け入れていらっしゃるからです。

主イエスは、全てご存じだった。

この後、ユダの裏切りによってユダヤ人指導者たちに逮捕され、裁判にかけられ、ローマ総督に引き渡され、十字架刑を宣告され、鞭うたれ、十字架に張り付けられることも・・・ユダに裏切られるだけでなく、ほかの弟子達もご自分から離れ去ってしまうことも・・・ペトロが三度「イエスなど知らない」と言ってしまうことも、全てご存じでした。

そもそもイエス・キリストは、そのご生涯のはじめから、エルサレムでご自分の十字架の死が待っているということをご存じでした。すべてお分かりになっていた上で、エルサレムに旅をし、一日一日エルサレムに滞在して十字架の時が来るのを待っていらっしゃったのです。

今この時、目に見えないところで祭司長たちや律法学者たちがご自分への殺意をもって動いていること、そしてイスカリオテのユダが主イエスを引き渡すために接触したことだった、全てご存じでした。

「まさか私のことでは」と一人一人が言い始めた。

ユダも他の弟子達に調子を合わせて、同じようにまさか私ですか?」と白々しく尋ねていた Continue reading