MIYAKEJIMA CHURCH

1月2日の礼拝案内

次週礼拝(1月2日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:イザヤ書11:1~5

 交読文:詩編6編7節~11節

 讃美歌:讃詠546番、96番、102番、103番、頌栄541番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

◇2022年1月16日(日) 礼拝の中で三宅島伝道所教師就任式があります。愛餐会があります(昼食代1000円)。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後 Continue reading

12月26日の説教要旨

イザヤ書8:16~9:6

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(9:5)

クリスマスを迎え、私たちは救い主・イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことを共に礼拝の中で祝いました。「救い主がお生まれになった」、ということを祝い喜んでいますが、それではあらためて、「救い」とは何なのでしょうか。私たちがこの方によって「救われた」、というのはどういうことなのでしょうか。

イエス・キリストという救い主は、私たちを何から救い出してくださったのか、そしてどのように救い出してくださったのか、それを知らなければクリスマスの本当の喜びは分からないでしょう。

多くの人は、「自分は誰かに救われなければならないような危機的な状況にはない」、と言います。聖書が言っている「罪からの救い」について聞いても、「自分は罪人呼ばわりされるようなことはしていない」と言います。

しかし、聖書が私たちに伝えている「罪」とは、「神から離れて生きていること」であることを知ると、誰も罪とは無関係だとは言えなくなるでしょう。「神など必要ない、救いなど必要ない、キリストなど知らなくてもいい」と言っている人こそ、実は聖書が伝えている罪の闇は深いのです。

この世にお生まれになった救い主、メシアはどのように「神から離れた暗闇」から私たちを解放してくださったのか、今日もイザヤ書の言葉を見ていきたいと思います。

BC8世紀のイザヤの時代のユダ王国は揺れていました。アッシリアや、周辺諸国の圧力の中でどう生き延びるか、ということに汲々としていました。ユダ王国の王、アハズは結局アッシリアの支配に入ることにします。イザヤはそれに対して「人ではなく神に頼れ。静かにしていなさい」と伝えました。しかし、外国の圧力の前に静かにしていることなんてできないアハズ王は、イザヤが伝える言葉を聞きませんでした。

神は、ご自分の言葉をイスラエルに伝えようと預言者を送って来られました。

18節でイザヤはこう言います。

「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」

実は、イザヤとイザヤの二人の息子たちがユダ王国に送られた、ということ自体が、神がユダ王国に示された救いのしるしだった、というのです。

「イザヤ」は、「神は救い」、という意味の名前です。

イザヤの長男の「シュアル・ヤシュブ」は、「残りの者は帰ってくる」という意味の名前です。

次男の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」は「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前です。

この親子の名前そのものが、イスラエルに示された神のメッセージでした。「神を自分の救い」とする限り、「生き残ることができる」が、そうしないのであれば「侵略されてしまう」、ということが、イザヤ親子の名前を通してユダ王国に象徴的に示されていたのです。

しかし、ユダ王国の人たちは、イザヤと二人の息子たちの姿や名前には目を向けず、イザヤが語る言葉に従うこともありませんでした。

ただ、周辺諸国の軍隊とアッシリアの強さにだけ心が向き、神以外のところに救いを求めていたのです。

8:16でイザヤは「私は弟子達と共に証の書を守り、教えを封じておこう」と言います。聞く耳を持たないのであれば、語る言葉を聞かせない、ということです。神の言葉を語ることをやめ、教えを記録の中だけに封じ込めたのです。

そして、これからユダの人たちがどうなるか・何に苦しむか、ということを預言した。

「この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。」

かなり厳しい口調です。神の言葉を聞かなかった人たちは、神の言葉が聞こえなくなる、そして今度は、神の言葉を聞こうとしても与えられなくなる、と言うのです。

イザヤと同じ時期に北王国で預言活動していたアモスも同じようなことを言っています。

「見よ、その日が来れば、と主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へとめぐり、北から東へとよろめき歩いて主の言葉を探し求めるが見出すことはできない」

神の言葉を聞こうとしない人には、神の言葉が与えられなくなるという苦しみが待っている、と預言者たちは言います。イザヤは「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」とまで言っています。

さて、8:23まで読むと、神の招きに背を向けたイスラエルはもう終わりだ、神に見捨てられた、と思うのではないでしょうか。もう神を見出すことはない、神の言葉が与えられることのない闇の世界になるのか、と思えます。

しかし、イザヤがこれらの滅びの言葉の後に、神はそれでも裏切りのイスラエルを追いかけてくださる、ということを預言しています。

「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、のちには海沿いの町、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」

イザヤは暗闇の中に光が差し込む救いの預言を語り始めるのです。

確かに、イザヤが言ったように、神の言葉に耳を貸さなかったユダ王国は、皮肉にも自分たちが助けを求めたアッシリアの軍隊に国を蹂躙されることになります。アッシリアの軍隊は北からやってきて、海沿いの町々を薙ぎ払っていきます。ここに出てくる「ゼブルン」や「ナフタリ」というのは、北の国境の土地です。つまり、北からからやってくる軍隊に一番先に侵略される場所です。それらの土地は、アッシリアの軍隊による破壊によって暗闇となりました。

しかし、イザヤはそれらの場所こそのちに「栄光を受ける」と預言する。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた」

イザヤは、罪による滅びが与えられた一番闇の深い場所に神の栄光の光がもう一度差し込まれることを預言するのだ。そして9章に入り、それらの場所を踏みにじった軍隊が、今度は滅ぼされることをほのめかします。

神に背を向けたイスラエルは、神に見捨てられて終わり、というのではありませんでした。罪の闇に栄光の光が与えられる、とイザヤは預言するのです。その光とは、一人の男の子の誕生でした。。

「ひとりの嬰児が私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた。権威が彼の方にある。その名は、『驚くべき指導者、地からある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

罪の中に差し込む救いの光、それは、メシアの誕生でした。神の言葉を聞こうとしても聞くことができない飢え渇き、主の言葉を聞くことができない苦しみから救い出してくださるメシアがお生まれになる、という救いの預言です。

聖書は、2,000年前にガリラヤで神の国の福音の宣教を始めたイエスという方にこのイザヤのメシア預言の実現を見ています。ヨハネ福音書は、このイエスという方こそ、神の言葉であった、ということを証します。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった・・・光は暗闇の中で輝いている。・・・言は肉となって、私たちの間に宿られた。「

イエス・キリストは神の言葉に飢え乾く暗闇の中に与えられた神の言葉そのもの・命の光だったのです。 Continue reading

12月26日の礼拝案内

次週礼拝(12月26日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:イザヤ書8:16~9:6

 交読文:詩編6編7節~11節

 讃美歌:讃詠546番、118番、119番、115番、頌栄540番

【報告等】

◇12月24日(金) 19時より クリスマスイブ礼拝があります。

◇2022年1月16日(日) 礼拝の中で三宅島伝道所教師就任式があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

12月19日の説教要旨

ルカ福音書2:8~21

「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」

私たちは普段、この世界がどうしてできたのか、この世界にどんな意味があるのか、ということを考えず、自分が置かれている日常を過ごしていると思います。これは、何も、聖書を知らない人たちだけのことではありません。聖書を読み、キリストを信じるクリスチャンでも、普段は考えることをせず、そのようなことは忘れて過ごしているではないでしょうか。

もちろんそれは、自分たちの日常が平穏である、ということであって、何も悪いことではありません。しかし、この世界がどこに向かっているのか、また、この世界に自分という命が生きていることの不思議を嫌でも考えさせられる時が与えられることがあります。もっと、単純な言葉で言うと、「立ち止まる時」を与えられることがあります。クリスマスは、まさにそのような時でしょう。

なぜ世界中で「救い主がお生まれになった」ということを祝い、インマヌエル・「神我らと共にあり」というということを喜ぶのか・・・人間はなぜ、イエス・キリストという方の誕生を2千年も記憶してきたのか・・・なぜこの方が世にお生まれになったことを忘れてはいけないのか・・・。私たちには、忘れてはならないことがあるのです。

イエス・キリストを通して知らなければならないこと、忘れてはならないものがあります。それは、神を知り、神を思い、神を求めて生きる道です。今こうして私たちがクリスマス礼拝を捧げることができているということがどれほど大きな恵みであるのか、かみしめつつ聖書の言葉を見ていきましょう。

聖書は、この世界が神によって造られ、私たち人間の命も神によって造られたことを記しています。そして、人間がそのことをすぐに忘れてしまう、ということも書いています

ご自分がなさろうとすること、ご自分のご計画を人間が気付かなかったり、誤解したりすることのないように、神はいつでもご自分がなさろうとすることを前もって知らせてくださいます。

キリストがお生まれになる前の、旧約の時代には預言者が送られました。預言者たちは、救い主・メシアの誕生を預言してきました。すべての人を神の元へと連れ戻す、イスラエルの羊飼いが生まれる、という預言です。

そして今から2000年前、ベツレヘムという小さな町のはずれで、夜、羊の番をしていた羊飼いたちに、天使が神の言葉が告げられました。預言者たちがその誕生を預言していたメシアが、ベツレヘムの家畜小屋の中でお生まれになった、という言葉が与えられたのです。

その時のことを記しているのが、今日私たちが読んだところです。羊飼いたちの周りを、神の栄光の光が照らしました。それは、大きな光ではありませんでした。全世界を照らしたとか、その地域全体を照らしたとかいうものではなく、それは数人の羊飼いたちの周りだけを照らし、数人の羊飼いたちだけに示された小さな光でした。

私たちはまずこのことを不思議に思うのではないでしょうか。神のご計画というのは、いつもこのようにわずかな人にだけ知らされるのです。預言者が一人選ばれ神の言葉を伝えたように、キリストの誕生はこの夜、数人の羊飼いたちだけに知らされました。

神がこの世界にお与えになったこの小さな光は、やがて羊飼いを通して、キリストの弟子達を通して、教会を通して、全世界へと広がっていくことになります。

天使は言いました。

「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」

羊飼いたちは、ほんの一分前まで、自分たちに天使から言葉が告げられるなどとは考えてもいませんでした。メシアの誕生を知ることになるなどとは思ってもいなかったのです。

神の言葉を聞いた人は、その人生が変えられます。一瞬にして変えられます。聖書には、神の言葉を聞かされた人がたくさん出てきますが、どの人も、神の言葉を聞くことでその後の人生が変えられています。誰一人として、神の言葉を聞いて、何も人生が変わらなかった、という人はいません。神の言葉を聞く前には考えもしなかった人生を生き始めます。

この羊飼いたちもそうでした。彼らはメシアの誕生を確かめるべく、羊をおいてイエス・キリストがお生まれになった場所を探しに出かけました。そして、自分たちに告げられた言葉が本当であることを知ります。彼らは主イエスの母マリアと父ヨセフに、自分たちがどのようにしてメシアの誕生を知り、探し当てたのか、ということを全て話しました。

そして羊飼いたちは羊たちの元へと帰っていきました。羊飼いたちは、「讃美して帰っていった」、とあります。天使たちが羊飼いたちにメシアの誕生を告げたとき、天の軍勢の讃美の声を聴きましたが、その天の軍勢の讃美が、そのまま羊飼いたちの讃美となりました。

羊飼いたちはまた羊のところへと戻りました。恐らく、その後も同じように羊の群れの番をする生活を続けたのでしょう。しかし、その生活は、キリストの誕生を知る前と後では全く違ったものになったでしょう。

キリストを知らなかった生活からキリストを知った生活へと変わったのです。彼らは、この日を境にキリストの証人としての歩みを始めることになりました。毎日生活の中でやることは何一つ変わらなかったかもしれません。しかしキリストを知る者としての人生を、この日を境に生きることになったのです。それは、讃美の生活であり、祈りの生活です。神が自分たちにメシアの誕生を教えてくださった、神は自分たちと共にいてくださる、ということを知った人生になりました。

ここに、クリスマスの喜びがあります。キリストが世に来られた、という喜びに加えて、キリストが世に来られたことを神が私たちに教えてくださった、告げてくださった、ということです。

私たちの知らないところで御子はお生まれになったのではありません。神は確かに、ご自分の救いのご計画を進めていらっしゃることを世にお示しになりました。私たちにとって、神は、どこかで何かをなさっている神ではないのです。神の方から私たちに近づき、私たちにご自分の御心を示してくださる、そのような神です。

神の御声を聞いた時、私たちの人生の意味は大きく変わります。昨日までの自分とは違う自分になっています。イエス・キリストの証人とされるのです。

主イエスの母マリアは、羊飼いたちが、自分たちを探してやってきたことに驚いきました。これまで、マリアには不思議なことが立て続けに起こっていたのです。「あなたは赤ちゃんを産む」と天使から告げられ、聖霊によって身ごもりました。そしてベツレヘムの家畜小屋の中で赤ちゃんを産むと、羊飼いたちがやってきて、「天使からここにメシアが生まれた、と聞きました」と言われます。自分の身に起こる不思議な出来事をマリアは理解できずにいました。

しかし、聖書は、マリアがその不思議な出来事を「心にとめて思いをめぐらした」、と書いている。自分に次々と起こる不思議について考えても、マリア一人では意味が分かるものではありませんでした。それでもマリアは「自分に起こっていることは何なのだろう、神がご計画なさっているのは何だろう」と、思いを秘め、その思いを巡らしていた、というのです。

今日、私たちは、讃美の声を上げながら、キリストの証人としての新しい道を歩み始めた羊飼いたちの姿と、自分に起こることの不思議を自分の中で静かに思いめぐらせるマリアの姿を心に留めたいと思います。

クリスマスは皆でお祝いする喜びがあります。教会で皆で讃美歌を歌い、聖書の言葉を分かちあうような喜びです。

そして、もう一つ、キリストがお生まれになったことで自分一人だけに静かに与えられた喜びもあるのです。クリスマスの、自分だけにわかる喜びが、それぞれにあるはずです。

羊飼いたちのように、皆と一緒に、そしてマリアのように、自分の心の内でキリストのご降誕の喜びをかみしめたいと思います。昔、羊飼いを照らした小さな光は今、全世界へと広がりました。マリアが思い巡らした不思議は、聖書に明らかに記され、私たちに与えられました。

神は、私たちを迎えに、ここまで来てくださいました。今、神と共に生きる命へと招かれています。

クリスマス主日礼拝・クリスマスイブ礼拝のご案内

クリスマス礼拝(12月19日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:ルカ福音書2:8~21

 交読文:詩編6編7節~11節

 讃美歌:讃詠546番、109番、106番、112番、頌栄540番

【報告等】

◇12月24日(金) 19時より クリスマスイブ礼拝があります。

◇2022年1月16日(日) 礼拝の中で三宅島伝道所教師就任式があります。愛餐会があります(昼食代1000円)。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会Continue reading

12月12日の説教要旨

イザヤ書8:9~15

「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主」(8:13)

アドベントに入ってから、イザヤ書を通して、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生の預言を見ています。その名前の通り、「神我らと共にあり」ということを、ご自身の存在を通して教えてくださるメシアのことです。インマヌエルと呼ばれるメシアがお生まれになったことを、我々はクリスマスと呼び、お祝いをしています。

今日も、イザヤ書の言葉を通してインマヌエルの恵みを感じていきたいと思います。

紀元前8世紀、アハズ王をはじめとするユダ王国の政治をつかさどる人たちは、周辺諸国の軍隊が攻めてくると聞いてアッシリア帝国に助けてもらおうとしました。神から遣わされた預言者イザヤは、その人たちに「静かにしていなさい。ただ神に頼りなさい」と告げます。しかし、その言葉は王宮の人たちには受け入れられませんでした。

イザヤは、「神を頼らずアッシリアに頼る道を選んだユダ王国が、これからアッシリアによって蹂躙されることになる」、という裁きの預言を残しました。

それが、これまで我々が読んできた内容です。

今日我々が読んだ9節から、イザヤの口調ががらりと変わります。ここまでは神に背を向けたユダ王国に対する滅びの預言でしたが、ここから、イスラエルを攻めようとする敵に向かって語り始めるのです。

「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ」

イザヤはユダを攻めようとする諸国に向かって、「おののけ」と挑戦的な言葉を叫びます。

皆、アラムと北イスラエル王国が攻めてきたことでパニックになり、アッシリアの強さに恐れている中で、イザヤだけが自信をもっていました。ユダのような小さな国の民の一人にしか過ぎないイザヤなのに、「来るなら来い。武装して、戦略を練って攻めて来るがいい」と言うのです。

ユダ王国に軍事的な秘策があるから自信をもっているのではありません。「神が私たちと共にいらっしゃるからだ」と言います。それが理由です。それだけが理由です。ほかに理由はありません。

どんなに相手が強く、武装して戦略を練ってかかってきても、神が共にいてくださるのだから勝つ、と言うのです。実際の歴史ではその後どうなったでしょうか。ユダ王国を武力で脅してきたラムと北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされてしまいます。その後、ユダ王国はアッシリアに国を蹂躙されます。アッシリアは、ユダの町々を滅ぼし、エルサレムまで来て都を包囲したが、エルサレムを攻め落とすことはなく、引き揚げていくことになります。そして、その10年後に、バビロンという国に滅ぼされてしまうのです。

全てイザヤが言ったとおりになりました。

なぜこの時、イザヤはここまで神が共にいてくださることを確信していたのでしょうか。イザヤ自身が、インマヌエルという事実を体験して知っていたからです。若い日に預言者として召された時、彼は神殿の中で実際に神の声を聴きました。て神ご自身が、イザヤに「行け、預言せよ」とおっしゃったのです。

イザヤが伝えた言葉は、イザヤ自身の言葉ではなく、神の言葉でした。イザヤははただ、「神はこうおっしゃっている」と伝えました。

イザヤは自分自身に自信があったのではありません。自分の時代を見抜く、物事を分析する力をイザヤが持っていた、ということではありません。神の「私はあなたがたと共に居る」というインマヌエルの御心を知っていたからです。

我々はどのように神を知るのでしょうか。旧約時代のイスラエルは預言者の言葉を通して神の御心を知らされました。

預言者の言葉に耳を傾けなかったイスラエルは何度、「預言者の言葉は本当だった」「神は私達と共にいらっしゃる、インマヌエルという言葉は真理だ」と、思い知らされたでしょうか。

イスラエルはその歴史の中で、時代に翻弄され沈みそうになる中で、神からの救いの御業を与えられてきました。そのたびに、インマヌエルの恵みを目撃し、体験してきました。そしてその体験を聖書の中に記録して、後世にまで伝えて来ました。

私たちは頑張って、神にたどり着き、神を知るのではありません。すでに私たちが聞くべき言葉は前もって与えられています。聖書が与えられ、生きた神の言葉であるイエス・キリストが世に来てくださいました。

しかし私たちは見ようとしないのです。聞こうとしないのです。自分に見えているもの、自分が聞きたいと思うものだけに向かってしまいます。イスラエルの過ちを私たちは何度も繰り返してしまいます。

人は、神から離れて生きる、ということに耐えられるほど強くはありません。聖なる存在を知らずに生きていけるほど強くはないのです。人はインマヌエルを心の底ではいつも求めています。

自分が神から離れた闇の中にいることに気づいたとき、それまで聞こえなかった神の招きの声が聞こえてきます。神はいつでも、聖書を通してご自分の元へと続く道を私たちに示してくださっているのです。

攻めて来る諸外国の同盟を「恐れるな」、とユダの国民にイザヤは伝えています。

「あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。彼らが恐れるものを、恐れてはならない。その前におののいてはならない。」

ユダの王、アハズや、王宮の政治家たちは、ユダ王国はアッシリアに頼ることが救いだ、と思っていました。しかし、イザヤは「違う」と言います。

「万軍の主のみ、聖なる方とせよ。あなたたちが恐るべき方は主。御前におののくべき方は主」

神のみを恐れなさい、と言います。ユダを攻める諸外国や、アッシリアを恐れるのではありません。ただ恐れるべきは、神お一人だ、と伝えます。

イスラエルがなすべきことは一つなのです。「神を聖なる方」とすることです。この「聖なる」というのは、「区別された」という意味の言葉です。神を、他の何からも特別に区別して、何よりも誰よりも大切にする、ということです。

私たちは、イエス・キリストから「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉をいただいています。はじめの言葉が、「願わくは、御名を崇めさせ給え」という祈りです。それは、「あなたのお名前が聖なるものとされますように。聖いものとして区別されますように」という意味の祈りの言葉なのです。

これこそが、聖書が全体を通して我々に伝えていることであり、私たちが信仰生活の中で一生かけて求めていくことであり、そしてそれが、インマヌエルということの意味です。

神を聖とするかしないか、ということが、私たちにとっての信仰の分かれ道となります。神を聖とする者に、神は平和と逃げ道を下さいます。しかし、自分の生活の中に神を迎え入れる余地のない者は、イザヤが言うように、魔術や偶像に走り、さらなる暗闇と絶望へと向かってしまいます。

誤った道に行こうとするイスラエルに、神はいつでも、前もって預言者を送り、道を正そうとされました。それでも誤った道を進み続けるイスラエルに、今度は神ご自身が「つまずきの石」「罠」となって、ユダの道の軌道を修正される、とおっしゃいます。

歴史の中で苦しいことがあると、人は目に見えるわかりやすい救いに向かってしますが、神とイスラエルは共に痛みを担いながら、正しい道へと修正していくのです。

信仰者と神が共に歩むことを妨げる力がこの世にあります。聖書はそれを「罪」と呼んでいます。「神よりも、こちらの方が頼りになるではないか」、という誘惑の声は、我々の信仰の日常の中でも聞こえてくる声ではないでしょうか。

ヨハネ福音書で、キリストはこうおっしゃっている。

「私は羊の門である。・・・私は門である。私を通って入るものは救われる。・・・私は羊のために命を捨てる。・・・こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。私は命を、再び受けるために、捨てる。」

キリストは私たちの歩みをインマヌエルの信仰の道へと導くために痛みを担ってくださいました。私たちのためにある時は「つまずきの石」となってくださり、ある時は「罠」となってまで神と共に生きる道へと連れ戻してくださいました。

このインマヌエルの君こそ、救いに通じる門なのです。

私たちはこの方を、聖なる方として、他の誰とも他の何とも特別に区別して礼拝したいと思います。そこに、何も恐れる必要のないインマヌエルの歩みが実現するのだ。

「よい羊は私の声を聴き分ける」とキリストはおっしゃいます。私たちはこの命の羊飼いのお名前を教えていただき、礼拝することによって、インマヌエルの喜びを知ることができたのです。

12月12日の礼拝案内

【次週礼拝(12月12日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:イザヤ書8:9~15

 交読文:詩編6編7節~11節

 讃美歌:讃詠546番、62番、108番、114番、頌栄540番

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

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主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

12月6日の説教要旨

イザヤ書8:1~8

「主は私に言われた。『大きな羊皮紙を取り、その上にわかりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい』と」(8:1)

アドベントに入り、イザヤ書を読んでいます。

紀元前734年、アラムと北イスラエル王国が、南王国ユダに攻撃を仕掛けてきました。アラムと北イスラエル王国は、南ユダ王国を無理やり反アッシリア同盟に加えようとしたのです。

南ユダ王国の王アハズは、結局アッシリアに助けを求めて生き延びようとしました。大国アッシリアの傘下に入るしか弱小国ユダが生きる道はない、と思ったのです。

ユダ王国全体が上から下への騒ぎとなってオロオロしていた王のところに預言者イザヤが来て、神の言葉を告げました。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。外国が攻めてきても、心を弱くしてはならない。神を頼りなさい」

アハズ王は預言者が伝える神の言葉を聞き入れませんでした。エルサレムの王宮にいた政治指導者たちは、「敵の軍隊が攻めてきているのに、静かに神に任せていよう、などと悠長なことは言っていられない」と思ったでしょう。

神に頼らず、神に背を向けたユダ王国がこれからどのような道を進むことになるのかをイザヤは預言しました。

「すぐに、アッシリアが攻めてきて滅びを体験することになるだろう」

今日私たちは、イザヤ書の8章を読みました。神への信頼を拒絶したユダへの滅びの預言の続きです。

先週読んだ7章は、アハズ王をはじめ、エルサレムの王宮にいる政治的指導者たちへのイザヤの言葉でしたが、ここは、ユダ王国の民全体に向かって明らかにされた神の言葉となります。

イザヤは神から「大きな羊皮紙にマヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書くよう命じられました。「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の言葉です。ユダ王国がこれからたどる運命を暗示しています。そしてその言葉が真実であることをユダ王国全体に示すために、イザヤはウリヤと、ゼカルヤという二人を証人として立てました。

イザヤは、この二人が見ている前で、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という言葉を書き、念を入れて「ユダはこれから分捕られ、略奪されることになる」ということを公に示しました。

なぜウリヤとゼカルヤという二人が特別にユダ王国の滅びの証人として選ばれたのでしょうか。

ウリヤはユダ王国の祭司でした。この人は、アッシリア帝国の傘下に入ると決めたアハズ王からの指示を受けて、祭司でありながらエルサレム神殿の中にアッシリアの神の祭壇を作った人です。

そしてゼカルヤは、神ではなくアッシリアを頼ろうと決めたアハズ王の義理の父にあたる人でした。

つまり、この二人は、率先してイスラエルの神に背を向けた人たちだったのです。神はその二人に、自分たちの決断によってユダ王国がどうなってしまうのか、ということを見届けさせようとなさいました。自分たちの罪の結果を見届ける責任を負わされた、ということです。

イザヤは、マヘル・ハラル・ハシュ・バズという滅びの言葉を書くよう神から命じられ、ウリヤとゼカルヤの目の前でそれを書きました。神は更にイザヤにお命じになります。その時期に生まれたイザヤの息子に「マヘル・ハラル・ハシュ・バズ」と名付けるようおっしゃるのです。イザヤは、「分捕りは早く、略奪は速やかに来る」という意味の名前を自分の息子につけなければなりませんでした。

イザヤは、羊皮紙に書き付ける文字を通して、自分の息子の名前を通してユダの滅びを皆に示さなければならなかったのです。

神は、イザヤに生まれたその子が「お父さん、お母さん」と言えるようになる前に、まずユダ王国を攻めてきたアラムと北イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされることを示されます。そしてアッシリアの攻撃はそれだけに留まらず、次にユダにまで攻め入ってくることをおっしゃるのだ。

実際の歴史は、その後、どうなったでしょうか。神がイザヤを通して示された通りになりました。確かに、アッシリアはユダを助けてくれました。ユダに向かって軍隊を向けていたアラムと北イスラエルを滅ぼします。しかし、アッシリアはその勢いでユダまで攻め入ってくることになるのです。

結局、ユダは、敵を自分の国へと導き入れたことになります。全て、神がイザヤを通しておっしゃった通りになりました。

私たちは今日、預言者の言うことを無視して神を信頼せず、アッシリアに頼り、アッシリアの神の祭壇を王国内に築いたユダに対して神が何をなさったのかを見ました。

神は、ご自分の民に、はっきりと滅びをお見せになりました。罪の先で待つものをお示しになったのです。預言者が神への裏切りによる滅びを預言し、その滅びは間違いなく起こることを、祭司と、王の義理の父をその証人に立てることまでして、示されました。

私たちは、人間の国・人間の支配がどれほどもろいのか、ということをここに見ます。イスラエルという小さな国がアッシリアとエジプトの間にあり、さらに周辺諸国との小競り合いを繰り返す中でどうやって生き延びてきたのか・・・それは、神への信仰でした。

神に頼ることでイスラエルは生き延びてきたのです。いや、神に生かされてきたのです。イスラエルが神の民である、ということはそういうことです。

イスラエルは、神の支配を求める民として世から召し出されました。そのイスラエルが、神を捨てて、人間の支配を求めたらどうなるか・・・。

神は、前もってそのことを、預言者と通してはっきりとお示しになりました。滅びをお見せになる神は残酷でしょうか。そうではないでしょう。少なくとも、神は預言者を通してイスラエルを滅びから救おうとなさいました。しかし、イスラエルは神の言葉に耳を貸そうとしなかったのです。

イスラエルは、神の前に、「知らなかった」とは言えないのです。必ず神は前もって預言者をお遣わしになり、ご自分の御心を示されるからです。イスラエルが滅びに向かおうとする時、神の支配から迷い出ていこうとする時、必ず前もって預言者をおつかわしになり、「その道に行けばあなたは滅びる。その先にあるのは死である。道を正しなさい。私の元へと戻ってきなさい」と警告なさいます。

人は神の言葉に耳を向けるのが下手です。イスラエルは目に見えるわかりやすい形での助けを求めました。それがアッシリアでした。

やがてユダ王国は、自分たちを助けてくれたアッシリアの軍隊によって国中を侵略され、エルサレムを包囲されてしまうことになります。皮肉なことではないでしょうか。

イスラエルの歴史は、神への裏切りの歴史と言ってもいいでしょう。出エジプトを終えて約束の地に入ったところから、イスラエルは神以外の支配者を求めてきました。外国を見て、「自分たちも、人間の王が欲しい」、と願いました。

神は預言者を通して、「あなたたちは人間の王の奴隷となる。あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。」と前もって警告なさいます。それでも、民は「人間の王を持ち、他のすべての国民と同じようになりたい」と言い張ったのです。

人間の支配はもろいのです。やがてイスラエルは南北に分裂し、北王国は金の子牛の像を作り、それを自分たちの神として民に拝ませるようになります。南王国もやがて堕落し、異教の神々に従いながら、エルサレム神殿でイスラエルの神を礼拝するようになっていきます。

神は、やがて預言者エレミヤを遣わされ、こうおっしゃいます。

「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、私の僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、私に聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった。」

イスラエルは、北王国はアッシリアによって、南王国はバビロニア帝国によって滅ぼされてしまうことになります。

イスラエルの歴史から学びたいと思います。イスラエルは、神以外のものを求め頼ることで、何度も滅びを体験してきました。

パウロは、そのことを、手紙になかでこう書いている。 Continue reading