MIYAKEJIMA CHURCH

11月06日の礼拝案内

【次週礼拝(11月6日)】

 招詞:詩編100:1b-3

 聖書:マルコ福音書14:22~26

 交読文:詩編5編8節~13節

 讃美歌:讃詠546番、55番、242番、310番、頌栄539番

【報告等】

◇次週、聖餐式があります。

 牧師予定】

◇毎週土曜日は10~17時まで伝道所にいます。お気軽にお立ち寄りください。

集会案内

主日礼拝 日曜日 10:00~11:

祈祷会 日曜日 礼拝後

牧師駐在日:毎週土曜日 10時~17時 ご自由にお越しください

10月31日の説教要旨

マルコ福音書14:12~21

「はっきり言っておくが、あなたがたの内の一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」(14:18)

ガリラヤから過越祭への巡礼のためにやってきた主イエスの一行は、エルサレムで「除酵祭の第一日を迎えた」、とあります。この日は木曜日でした。除酵祭の第一日、この木曜日の日が暮れて夜を迎え、そしてその夜が明ければ、イエス・キリストは十字架に上げられ、殺されることになります。

今日私たちが読んだのは、イエス・キリストが弟子達と過ごす最後の時間を、どのように過ごされたか、という場面です。

この日主イエスがなさったことは、食事の席を弟子達に探させ、そして共に食事をする、ということでした。その食卓は「最後の晩餐」と後に呼ばれることになります。

この日、主イエスが弟子達と囲まれたのは、「過ぎ越しの食事」と呼ばれる、イスラエルにとって、自分たちのルーツを思い出すための特別な祭りの食卓でした。過越祭は、イスラエルの人たちが自分たちの先祖がエジプトの奴隷生活から神によって救い出されたことを記念する祭りです。

出エジプト記にその「過越し」の出来事が記されています。神は、イスラエルをエジプトでの奴隷生活から解放するために、エジプトを打たれました。その際、イスラエルの人たちは、神の裁きが自分たちのもとに来ないように、目印として、家の鴨居に子羊の血を塗りました。神は、子羊の血が塗られたイスラエルの家をは過ぎ越して、エジプトを打っていかれたのです。

そしてその夜、イスラエルの人たちは旅の準備を整えることもなく、急いで食事をし、エジプトを出発しました。過越祭の中でもたれる「過越しの食卓」は、その夜の食事を再現して、思い起こすためのものでした。イスラエル解放の夜を記念するために、一家の長が食事を取り仕切って自分たちの先祖が神に救い出された夜のことを、順を追って追体験するのです。

イスラエルの人たちは、そのようにして過越祭を通して、自分たちが神によって救われて今も生かされている、ということを代々子供たちに伝え、神への信仰を確かなものとしてきたのです。

イエス・キリストが、十字架に上げられる前に最後に弟子達と囲まれたのが「過ぎ越しの食卓」であった、ということは偶然ではありません。私たちはここを読んで、あまりにもキリストがおっしゃる通りに物事が運んでいることに驚くのではないでしょうか。

事細かに弟子達に指示を出されています。「エルサレムの都に行くと、水瓶を運んでいる男に出会うからその人について行きなさい。そしてその人が入って行く家の主人に、食事の席を準備させなさい」

どこで誰に会い、そしてどのように言えばよいのかまで弟子達に指示をお与えになっています。まるですべてそうなると決められていたかのようです。

実は、そうなのです。そう決まっていたのです。この日、イエス・キリストと弟子達が最後の晩餐として過ぎ越しの食事を囲むということは、神のご計画の内にあったことでした。

イザヤ書53章に、すべての罪びとを背負って死ぬ、という使命が与えられた「神の僕」が世に与えられるだろう、という預言があります。

「私たちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かっていった。その我々の罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に惹かれる子羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように、彼は口を開かなかった」

「苦難の僕」の歌と呼ばれるイザヤ預言です。神に背を向けて離れてしまった罪びとたちのすべての罪を担う「苦難の僕」と呼ばれる人が来る、という預言です。

イエス・キリストこそ、その苦難の僕でした。この方はこれから罪びとの罪を背負って十字架の上で死んでくださいます。この方は生贄なのです。犠牲なのです。そして罪びとにとっては罪の重荷から解放してくださる方でした。

主イエスがこの日弟子達と過越しの食卓を囲まれたということは、長い歴史の中で神が実現なさる救いのご計画の一部でした。十字架の前夜、それはまさに新しい過越しの夜であり、罪からの解放の前夜だったのです。使命を背負って、この世に来てくださった苦難の僕を通して、神がすべての罪びとを身元へとお集めになるご計画は、間違いなく実現しています。

苦難の僕は今、罪びとを救い出すために、一つ一つ苦しみへの階段を上ってくださっています。後のキリスト教会にとって、この夜主イエスと弟子達が囲んだ最後の晩餐は、新しい救いの始まりとして記念すべきものとなりました。

イスラエルの人々が過ぎ越しの食事を通して自分たちが何者であるのか、ということを思い出し、代々それを伝えてきたように、キリスト教会もこの晩キリストと弟子達が囲んだ食卓を通して、自分たちの信仰の原点と、自分たちが生きている世界にキリストが今も共に生きて歩んでくださっていることを深く覚えるようになるのです。

この時の弟子達にはまだわからりませんでしたが、これは新しい過ぎ越しであり、新しい救いの始まりの食卓でした。この夜の食卓が、新しい救いの記憶となり、弟子達は人々に伝えて行くことになります。

さて、主イエスは、この食卓で、一つの衝撃的な事実を弟子達に打ち明けられました。

「この中の一人が私を裏切ろうとしている」

弟子達は皆驚きました。イスカリオテのユダも、驚いたでしょう。自分が主イエスを引き渡すために祭司長たちと取引をしたのがばれていたのです。見抜かれていたのです。

しかし、主イエスはこの席「それはイスカリオテのユダだ」とはおっしゃいません。ユダがご自分を裏切ることまでも神のご計画の内にあることを受け入れていらっしゃるからです。

主イエスは、全てご存じだった。

この後、ユダの裏切りによってユダヤ人指導者たちに逮捕され、裁判にかけられ、ローマ総督に引き渡され、十字架刑を宣告され、鞭うたれ、十字架に張り付けられることも・・・ユダに裏切られるだけでなく、ほかの弟子達もご自分から離れ去ってしまうことも・・・ペトロが三度「イエスなど知らない」と言ってしまうことも、全てご存じでした。

そもそもイエス・キリストは、そのご生涯のはじめから、エルサレムでご自分の十字架の死が待っているということをご存じでした。すべてお分かりになっていた上で、エルサレムに旅をし、一日一日エルサレムに滞在して十字架の時が来るのを待っていらっしゃったのです。

今この時、目に見えないところで祭司長たちや律法学者たちがご自分への殺意をもって動いていること、そしてイスカリオテのユダが主イエスを引き渡すために接触したことだった、全てご存じでした。

「まさか私のことでは」と一人一人が言い始めた。

ユダも他の弟子達に調子を合わせて、同じようにまさか私ですか?」と白々しく尋ねていた Continue reading